村上春樹が久しぶりに新刊を出したとかで話題になっているらしい(読んでいませんが)。その中で”南京事件”がでてくるそうで、その部分も違う意味で話題になっているそうだ。彼の小説はよくいえば壮大な内的旅のような、妄想をスマートに組み立て上げたような。フィクションなら面白ければまあそれでよいのだが、そうともいえなくなってきたようだ。
話題になっている文中の一部分はこういうものだ。”免色”という名の登場人物がこういうことを話す。
「そうです。いわゆる南京虐殺事件です。日本軍が激しい戦闘の末に南京市内を占領し、そこで大量の殺人がおこなわれました。戦闘に関連した殺人があり、戦闘が終わったあとの殺人がありました。日本軍には捕虜を管理する余裕がなかったので、降伏した兵隊や市民の大方を殺害してしまいました。正確に何人が殺害されたか、細部については歴史学者のあいだにも異論がありますが、とにかくおびただしい数の市民が戦闘の巻き添えになって殺されたことは、打ち消しがたい事実です。中国人死者の数を四十万人というのもいれば、十万人というものいます。しかし四十万人と十万人の違いはいったいどこにあるのでしょう?」
もちろんそんなことは私にはわからない。
小説というフィクションの世界で適当なことを書いて、そのうえ、”私”は「もちろんそんなことは私にはわからない」とサラッと流す。この村上春樹らしい「僕、しっらっないけど」的な、いつもの言い回しがまったく不愉快で不愉快で仕方がなかった。
事実ではないことを適当にあれこれ書くのは、まあフィクション、小説なのだから当然なのかもしれない。しかし、現在進行形で国レベルで対処すべき問題となっている事項に関して、さりげなく事実のように強力に小説に織りこみ、事実であるかのように小説内の人物に強調させ。そして、「もちろんそんなことは私にはわからない」と、いつものように無責任極まりない”私”はスマートに責任回避。
村上春樹は確信的にフィクションとノンフィクションの混同を狙ったのだ。
エルサレム賞スピーチなどを読むと、この人の単純きわまりない薄っぺらな思想がよくわかる。あれかこれか、壁か卵か。
二度とこの人の小説は買わないし読まない。小説以外のこの人の言葉も信頼することはない。