村山富市元首相は25日のテレビ東京番組で、安全保障関連法案をめぐって、野党に対し「憲法を守る一点に結集せよ」と要求した。「(政府・与党は)憲法解釈を変えて戦争ができる国にしようとたくらんでいる。憲法だけは守らなければいけない」と強調した。 安倍晋三首相が出す戦後70年談話については、「安倍さんは『日本がそんなに謝る必要があるのか』という勢力に支えられている。だからそう言わざるを得ない状況になっている」と述べた。 (産経ニュース)
戦争を回避するために、我が国一国の力だけでは無理、それで、あれこれ、考えているのですよ。「憲法解釈を変えて戦争ができる国にしようとたくらんでいる」このぶっ飛んだ思考回路が理解できません。中国の南シナ海での野心と脅威という現在の状況を前に、村山氏の言う「憲法を守る一点に結集せよ」という言葉の何と空虚なこと。 憲法は国民のためにあるもの、もし、そうでなくなっているなら、変える議論をすべきだろう。(言っても詮無いことだけれど、この人は首相になるべきではなかった)
今、一番重要なことは、日本国民の安全と存続のために、戦争を回避するために、何をするべきか何ができるかということ。国民の安全と自国の存続を、アメリカ国民に丸投げするのではなく、自身が責任を持ち、他国と協力しながら対処していこうということ。安保安全保障関連法案の本質はそれである。
一国民として日本国民と日本国の安全と存続が大事。考えれてみれば、私達の日々の衣食住から医療も家も何もかもー日常生活の隅々まで全てが、日本国の社会とルールと法律で保障されているのだ。
彼らはなぜそれを考えないのだろう。村山氏も、それから村上春樹氏や宮崎駿氏らの言動も、ー彼らはなぜ、現実生活を飛び越えて、抽象的で非現実的なことしか言わないのだろう。
例えば、村上春樹さんの2009年のスピーチ、「卵(個人?)と壁(システム、社会集団?)」の単純で短絡的な対比(肥大化した個人とでもいうべきか)。このスピーチ(エルサレム賞スピーチ)には本当に失望した。
(2009年2月エルサレム賞スピーチより、一部抜粋)
「高くて、固い壁があり、それにぶつかって壊れる卵があるとしたら、私は常に卵側に立つ」ということです。
そうなんです。その壁がいくら正しく、卵が正しくないとしても、私は卵サイドに立ちます。他の誰かが、何が正しく、正しくないかを決めることになるでしょう。おそらく時や歴史というものが。しかし、もしどのような理由であれ、壁側に立って作品を書く小説家がいたら、その作品にいかなる価値を見い出せるのでしょうか?
この暗喩が何を意味するのでしょうか?いくつかの場合、それはあまりに単純で明白です。爆弾、戦車、ロケット弾、白リン弾は高い壁です。これらによって押しつぶされ、焼かれ、銃撃を受ける非武装の市民たちが卵です。これがこの暗喩の一つの解釈です。
しかし、それだけではありません。もっと深い意味があります。こう考えてください。私たちは皆、多かれ少なかれ、卵なのです。私たちはそれぞれ、壊れやすい殻の中に入った個性的でかけがえのない心を持っているのです。わたしもそうですし、皆さんもそうなのです。そして、私たちは皆、程度の差こそあれ、高く、堅固な壁に直面しています。その壁の名前は「システム」です。「システム」は私たちを守る存在と思われていますが、時に自己増殖し、私たちを殺し、さらに私たちに他者を冷酷かつ効果的、組織的に殺させ始めるのです。
私が小説を書く目的はただ一つです。個々の精神が持つ威厳さを表出し、それに光を当てることです。小説を書く目的は、「システム」の網の目に私たちの魂がからめ捕られ、傷つけられることを防ぐために、「システム」に対する警戒警報を鳴らし、注意を向けさせることです。私は、生死を扱った物語、愛の物語、人を泣かせ、怖がらせ、笑わせる物語などの小説を書くことで、個々の精神の個性を明確にすることが小説家の仕事であると心から信じています。というわけで、私たちは日々、本当に真剣に作り話を紡ぎ上げていくのです。
私の父は昨年、90歳で亡くなりました。父は元教師で、時折、僧侶をしていました。京都の大学院生だったとき、徴兵され、中国の戦場に送られました。戦後に生まれた私は、父が朝食前に毎日、長く深いお経を上げているのを見るのが日常でした。ある時、私は父になぜそういったことをするのかを尋ねました。父の答えは、戦場に散った人たちのために祈っているとのことでした。父は、敵であろうが味方であろうが区別なく、「すべて」の戦死者のために祈っているとのことでした。父が仏壇の前で正座している後ろ姿を見たとき、父の周りに死の影を感じたような気がしました。
父は亡くなりました。父は私が決して知り得ない記憶も一緒に持っていってしまいました。しかし、父の周辺に潜んでいた死という存在が記憶に残っています。以上のことは父のことでわずかにお話しできることですが、最も重要なことの一つです。
今日、皆さんにお話ししたいことは一つだけです。私たちは、国籍、人種を超越した人間であり、個々の存在なのです。「システム」と言われる堅固な壁に直面している壊れやすい卵なのです。どこからみても、勝ち目はみえてきません。壁はあまりに高く、強固で、冷たい存在です。もし、私たちに勝利への希望がみえることがあるとしたら、私たち自身や他者の独自性やかけがえのなさを、さらに魂を互いに交わらせることで得ることのできる温かみを強く信じることから生じるものでなければならないでしょう。
このことを考えてみてください。私たちは皆、実際の、生きた精神を持っているのです。「システム」はそういったものではありません。「システム」がわれわれを食い物にすることを許してはいけません。「システム」に自己増殖を許してはなりません。「システム」が私たちをつくったのではなく、私たちが「システム」をつくったのです。
これが、私がお話ししたいすべてです。
村上春樹氏は、「個人」の感覚や思考に深く向かうあまりなのか、彼は外の世界システムを毛嫌いし、そして敵視する。でも、村上氏に言いたい。我々の個人の日常生活はそのシステムに守られているー例えば日々の食べ物さえそのシステムの手を借りて調達できているのですよ。
彼は小説家なので、内なる個人の複雑深淵な心のあれこれがひたすら大事なのだろう、それは結構。しかし、同時に、外の世界(社会)のシステムも、個人個人の内的外的生活がうまく存続するために、そして、大勢の一人一人の生活が生き延びるために、いろいろと複雑深淵で、必要不可欠なのです。
個人とシステム=卵と壁、ーこのような単純な概念の対立対比によって、簡単に大声で、世界を語らないでもらいたい。
村上春樹氏は(2013年京都での公開インタビューで)「文章を書くのが仕事だし、他の事にはあまり首を突っ込みたくない」と述べたそうです。いやいや、どの口でいうのやら。スピーチなど最も目立つ場所で既にあれこれ政治的な発言をしているでしょう。そして既に影響力のある存在として、国レベルでその発言は利用されつつあります。彼は自身の発言の危うさに気づいているのでしょうか。
個人的に宮崎アニメ音楽を楽しみ、村上氏の小説を楽しんだ者として、彼らへの失望感は半端ない。