夕方から雨になった。かなりの吹き降りに近い。開会式が終わってからで良かったと思う。私は反対方向の西へ向かっていた。
盆栽産地を回り出したら、時々、行きたくなるのは、やはり、元来緑が好きだからなのか。少年期、父と一緒に本家の松山へ入り、庭木や盆栽になりそうなものを二年がかりで掘り出した経験が、影響しているらしい。
雑木の植え替え時の最終。そろそろ、松柏
の植え替えに移る。何人かで手分けして植え替えをしているのを見ていたら、雲行きが怪しくなり、降らないうちにと帰途に着いた。
途中、当地一番の漆器商のギャラリーのオープン案内が来ていたので、寄った。責任者が丁度外出から戻ったところであつた。
日本中のデパートへ収め、売り場を持つ大手である。長期の不況で倒産する問屋が多い中、好調を保っているのは何故なのか、勉強させられる。
母が無類の漆器好きで、何かことあるごとに、配り物は漆器であった。会津塗りの高膳が2~30程あったのを四人兄弟に分けたのである。
前時代の不要なものと皆迷惑がったが、渋々親孝行の積りで、引き受けた。
下の妹以外は戦前生まれであるから、親の言うことを逆らうことがなかった。特に、母親の意見は絶対であった。
父は日支事変の傷痍軍人であった。番頭を数人使う大きな魚店であって、当時、隆盛な官員さんが上得意だったらしい。
資産家の家に生まれながら、三男は養子に出され、その先が、道楽者の叔父のもとだったようだ。
長男だけが上の学校へ通い、財産を減らさないためとて、養子に出された経緯は、小学校で父を教えた先生から聞かされた。
同級生に理学博士になった方がいたのだが、俺は、あれより成績が良かったと、言うのを聞いていたが、先生の口から聞かされて、それが真実と知った。
太ももに負傷した父は帰国する頃、太平洋戦争で番頭たちは次々と徴兵され、残った母では家業の継続は無理となり、廃業した。
道楽者の叔父の養子になり、食い詰めて、北海道へ連れて行かれ、魚屋の番頭にさせられて、魚料理の修業をしたのだが。
当時の話を父の口から聞いたが、高等科を出たばかりの頃が、勤め先の子供の馬になり、夜は、はいつくばって、仕事疲れの体に鞭打たれことを話す。
自分のことのように、悔しい思いできいたものである。修行を終えて郷里へもどり、
開業、叔父が本家の蔵から大判、小判を持ち出して資金にしたというから、本家は近郷一の豪農ではあった。
母の自慢は、昔、多額納税者で、貴族院議員の選挙権を持っていたということである。それも、本家がである。
組合長まで務める大店になったのは、叔父の商才ではなくて、父の刺身の腕だったと聞く。当の叔父は毎日昼間から酒をのみ、近くの川へ魚つりが毎日の日課だった。
郡山の空襲の最中に本家の祖母が来ていて
こんな恐ろしいところへお前たちを置いては置けないと、次の日、牛車を迎えに来させた。その日に我々は近くの村へ疎開したのであつた。
戦後の物資のないときであったから、郷里で顔が効くこともあって、古物衣料品を商い、金の代わりに雑穀を受け取る商売を始めた。
小学生の私はよく、一緒について回った。不思議なことに、行く先々で、老夫婦が手を合わせて迎えてくれるのであった。
意味がわからず、後で、父に聞くと、ご先祖に大人物がいて、困った農民を沢山救ったということであった。
戦後の一時期、田舎は盆踊りが盛んだった頃がうあった。学校で禁じられていたが、中学生になった私は、仲間と、隙を見ては輪の中に入って踊ったりしたが、不良青年が来ては、田舎で暴れまわった時代であった。
父は戦争帰りと、男気で、村の駐在さんと私服で変な格好をしてカモフラージして、不良をおびき出し、投げ飛ばして、懲らしめるという元気ものでもあった。
人のためになんでもするが、金儲けは飛び切り下手であった。と母と兄弟たちは言う。しかし、ともに動き、働いた私は、下手なりではなくて、運と時代が悪いのだと今でも言うし思っている。
前期の朱塗りのお膳は、父が仕出しを盛大に行っていたときの遺産なのであった。
会津塗りのお膳の説明に非常な遠回りをしたが、先ほど、ある方が、お父さんのお話を書いたのを読んだせいだろうか。
もう少し書きたくなったが、長くなるので、ここで一区切りとする。