青い鳥を常に求めて

人生の理想を追求する姿勢で何事にも当たりたい。

夜9時に消灯する家内

2009-06-08 07:56:00 | Weblog
真夜中の2時、4時頃のテレビを観る家内である。

一昨夜は娘の母親、昨夜は東京から帰った娘。

こちらへ挨拶に寄ったのか寄らずか。帰ったことさえ知らない。

私は二階にいることが多いから、用事が必要な説き、孫たちは玄関の戸を何度も叩く。

一階の家内には聞こえず、二階の私が去れをキャッチ階下へ降りるのが常である。

半年振りに来た娘の生みの親は甥の嫁で、われわれが親代わりに結婚させた。

来ればわれわれを「お父さん、お母さん」と呼ぶ。

孫たちには彼女も「おばあちゃん」であり、婿の実母が「おばあちゃん」である。これでおばあちゃんは3人になったが、婿の父親は再婚しているから、現在の相手も「おばあちゃん」と呼ぶ。

これで孫たちの祖母と呼ばれる人間は4人なのである。

複雑な上に、婿の祖母が健在だから、それが加わると5人になる。

こんな複雑さに、良いことと言えば、お正月のお年玉を貰う人が非常に多いから、他所の子より沢山の金額になる。

それは大きな買い物のときに、母親が全部取り上げてしまうから、子供の夢は消えてしまう。

祖父と呼ばれるのは婿の父親と私の当たりで、他は他界しているから、混雑はない。

孫の自由になるお金は「じいじ銀行」と言うへそくりの存在を作っている。

なくなると最低限の子供に見合った金額を財布に入れておく。

父の日、母の日などの買い物はそれで、花束などを買うのである。

全部取り上げた本人は、ひれを黙って受け取るのだが、出所は私と知ってはいても、少し、うしろめたさは感じないのかと思う。

要するに自分中心のものであれば何事も満足する。

新婚時代の3年と孫の幼稚園へ通わせるための名古屋のマンション生活が、自分たちだけの生活だった。

同じ屋敷に戻って住んでも、其の習慣、考えが続いているから、非常識な勝手気ままな行為が当然になってしまった。

現代同世代のものたちは皆そうなのかも知れないが、私の常識とは大分差が生じている。