愛知県和合ゴルフ場での最終日。ワンアンダーでスタートの石川遼選手はノウボギー12アンダーの58で回り、トータル13アンダーと言う記録的な猛チャージを見せて、ホールアウトした。
3時半からテレビを付けて、目を離せないシーンが続いた。
トップ7アンダーでスタートした丸山選手はプラスマイナスの出入の激しいゴルフを見ていると大人と子供の試合にさえ見えた。
天才石川の奇跡を15000人のギャラリーは座ることすら忘れて、応援している。
私が本社から名古屋へ転勤して二年目だったろうか。
本社社長からの指示で、この和合と三好の2ゴルフ会員権を買うようにと指示が来た。
我々の給料の二年分の額50万円だっと覚えている。社長の道楽がまた始まったと考えていた。
そして、実行したのは兄弟会社とそれぞれ一つづつ購入したのだった。
あちらが和合、こちらは三好ゴルフ場とした。
得意先との交際には十分役に立ったそれぞれのコースで、社長の当時の先見の明には後日、感心するのであった。
1000万円を超えたのはそれから何年も経たなかったのである。
そんな縁のある会場で、今日の奇跡に近いプレーを見るとは不思議な気持ちである。
得意先と打ち放し場での練習は行ったり、日本製のなかったクラブを丸紅の知人に頼んで購入したりしたのだった。
そして、遂に、ゴルフ場へは所長K氏に任せて、暑さ寒さの中や悪天候の中で、てくてく歩くこのプレーをしたいとも思わずに過ぎたのだった。
ゴルフの後に続く、夜はクラブでの得意先接待もK氏に任せて、私が付き合いでクラブへ行くのも1年になんどもなかったことだった。
それよりは仕事オンリーで、配船という重責にあったことも手伝っていた。
また、時には神戸や九州から難破船の事故が起こると名古屋の私の名前でSOSがくるのだった。
名古屋港では仕事の鬼の存在であった。船底に穴が開いたままで、入港する船が出た。
重油流出を防ぐのが目的だった。それを依頼してきたのが神戸の有名代理店K組だった。
小型タンカー200トンを連れて事故の船へ出向く。そして、徹夜の仕事が始まるのだった。
どこかで使用介したかも知れないので、ここでは割愛するが、そんな私はゴルフなどとは程遠い存在ではあった。
今も、その古いドライバー二本は手元に残っている。
3時半からテレビを付けて、目を離せないシーンが続いた。
トップ7アンダーでスタートした丸山選手はプラスマイナスの出入の激しいゴルフを見ていると大人と子供の試合にさえ見えた。
天才石川の奇跡を15000人のギャラリーは座ることすら忘れて、応援している。
私が本社から名古屋へ転勤して二年目だったろうか。
本社社長からの指示で、この和合と三好の2ゴルフ会員権を買うようにと指示が来た。
我々の給料の二年分の額50万円だっと覚えている。社長の道楽がまた始まったと考えていた。
そして、実行したのは兄弟会社とそれぞれ一つづつ購入したのだった。
あちらが和合、こちらは三好ゴルフ場とした。
得意先との交際には十分役に立ったそれぞれのコースで、社長の当時の先見の明には後日、感心するのであった。
1000万円を超えたのはそれから何年も経たなかったのである。
そんな縁のある会場で、今日の奇跡に近いプレーを見るとは不思議な気持ちである。
得意先と打ち放し場での練習は行ったり、日本製のなかったクラブを丸紅の知人に頼んで購入したりしたのだった。
そして、遂に、ゴルフ場へは所長K氏に任せて、暑さ寒さの中や悪天候の中で、てくてく歩くこのプレーをしたいとも思わずに過ぎたのだった。
ゴルフの後に続く、夜はクラブでの得意先接待もK氏に任せて、私が付き合いでクラブへ行くのも1年になんどもなかったことだった。
それよりは仕事オンリーで、配船という重責にあったことも手伝っていた。
また、時には神戸や九州から難破船の事故が起こると名古屋の私の名前でSOSがくるのだった。
名古屋港では仕事の鬼の存在であった。船底に穴が開いたままで、入港する船が出た。
重油流出を防ぐのが目的だった。それを依頼してきたのが神戸の有名代理店K組だった。
小型タンカー200トンを連れて事故の船へ出向く。そして、徹夜の仕事が始まるのだった。
どこかで使用介したかも知れないので、ここでは割愛するが、そんな私はゴルフなどとは程遠い存在ではあった。
今も、その古いドライバー二本は手元に残っている。