こんばんは。
今日は、休日出勤でしたが、夜の仕事は休みです。
ただ今、洗濯タイム。です。
『仕事の辞め方』を何度か書いてきましたが。福岡に来るまでは、家族が居た間は心掛けていた事があります。
間を空けない事。
家族が居るので、収入のない期間を作らない事です。
熊本で7年、勤務しました。
前回、書いたように、『東京に来なければ、上にあがる事はない』と言われた事もあるのですが、ある噂がありました。
『熊本事業所を閉める』と言う噂でした。
私が九州の熊本に来た目的は、かみさんの両親の近くに居ること。
私は、再度の転職を考えたのですが。
かみさんに話はしましたが、ほとんど独断。
熊本で、県営の団地に住み、友達もたくさん出来たかみさん。
長男を、熊本信愛女学院幼稚園に行かせたいと、年中で行かせたばかり。
かみさんは反対しました。
でも、私は進めました。
当時、すでに熊本には、私の技術者としての経歴でも、転職できる会社の求人はなく、範囲を福岡まで広げました。
当時あった、技術者向けの転職情報誌の『テック・ビーイング』を買い、福岡での転職先を探しました。
最初に目を止めたのが、博多区にある専門学校。情報処理の教員の募集でした。
ここで、高校ではありませんが、教員への道に魅力を感じて、応募しました。
博多に来て、最初の面接で、コンビュータのソフト開発経験がある事と、高校の商業科教員免許を持っている事が評価され、専門学校役員の最終面接の日が決まりました。
両方を教えられる人が居なかったようです。
もう1つ、大きな要素がありました。
私たちの仕事で必須ではないのですが、客観的な評価の基準として、『情報処理試験』があります。
今は細分化されていますが。
当時は、二種、一種、特種の3つでした。
熊本に居る間に、一種に合格できました。
上場しようという規模の会社でしたので、一種に合格した社員を集め、特種に合格するための研修をしてもらえました。
特種には論文があり、その研修でした。
幸い、翌年に特種に合格できました。
今は、マイクロソフトやオラクルなどの資格が重宝されますが、当時は、情報処理試験の合格者が何人居るかが、企業の評価に繋がる時代でしたので、この『特種』の資格は大きな要素になりました。
ただ、専門学校の先生になれそうな時に、熊本の家で、転職情報紙をもう一度見て、ある会社に応募しました。
専門学校の先生の役員面接の日に、その会社の面接も入れました。
役員面接を終えて、その会社へ行き、面接を受けました。
面接して下さったのは、当時の所長で、話をする間に、同郷の福井出身の方と知りました。
防衛大学校卒の自衛隊にいらっしゃった方でした。後に分かったのですが、ある自動車メーカーの米国法人の社長をされ、後にそのメーカーの社長をされた方の兄弟でした。
その後、両方から『採用』の通知を頂き、迷いました。
先生として、教える立場と、開発の現場に居る立場と、自分にはどちらが合ってるのか。
どちらがやりたいのか。
悩んで、悩んだ結果、私が選んだのは『現場』でした。
専門学校に断りを入れ、後から見付けた会社に入る事にしました。
こう言う決断は、かみさんとの相談ではなく、独断。それは、責任を負う事。
相談して決めて、もし、いい方向に行かない時に、『あの時、・・・』と思いたくないからです。全て、自分の責任。
『自分勝手』だと言われましたが。
福岡の会社に転職して半年。
熊本の事業所が閉鎖される事になりました。
残った人達は、再就職が大変だったと聞いています。ちょうど、バブルがはじけた時期で、転職先がなかなか見つからなかったそうです。
こうして、福岡に転職した私ですが。
『仕事の辞め方』からは、少し離れますが、私の本性を、次回から書きたいと思います。
ちょっと、赤裸々に。
YouTubeで見る、私から、想像できるかとうか。赤裸々に。
今日は、これで。
では、また。

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今日は、休日出勤でしたが、夜の仕事は休みです。
ただ今、洗濯タイム。です。
『仕事の辞め方』を何度か書いてきましたが。福岡に来るまでは、家族が居た間は心掛けていた事があります。
間を空けない事。
家族が居るので、収入のない期間を作らない事です。
熊本で7年、勤務しました。
前回、書いたように、『東京に来なければ、上にあがる事はない』と言われた事もあるのですが、ある噂がありました。
『熊本事業所を閉める』と言う噂でした。
私が九州の熊本に来た目的は、かみさんの両親の近くに居ること。
私は、再度の転職を考えたのですが。
かみさんに話はしましたが、ほとんど独断。
熊本で、県営の団地に住み、友達もたくさん出来たかみさん。
長男を、熊本信愛女学院幼稚園に行かせたいと、年中で行かせたばかり。
かみさんは反対しました。
でも、私は進めました。
当時、すでに熊本には、私の技術者としての経歴でも、転職できる会社の求人はなく、範囲を福岡まで広げました。
当時あった、技術者向けの転職情報誌の『テック・ビーイング』を買い、福岡での転職先を探しました。
最初に目を止めたのが、博多区にある専門学校。情報処理の教員の募集でした。
ここで、高校ではありませんが、教員への道に魅力を感じて、応募しました。
博多に来て、最初の面接で、コンビュータのソフト開発経験がある事と、高校の商業科教員免許を持っている事が評価され、専門学校役員の最終面接の日が決まりました。
両方を教えられる人が居なかったようです。
もう1つ、大きな要素がありました。
私たちの仕事で必須ではないのですが、客観的な評価の基準として、『情報処理試験』があります。
今は細分化されていますが。
当時は、二種、一種、特種の3つでした。
熊本に居る間に、一種に合格できました。
上場しようという規模の会社でしたので、一種に合格した社員を集め、特種に合格するための研修をしてもらえました。
特種には論文があり、その研修でした。
幸い、翌年に特種に合格できました。
今は、マイクロソフトやオラクルなどの資格が重宝されますが、当時は、情報処理試験の合格者が何人居るかが、企業の評価に繋がる時代でしたので、この『特種』の資格は大きな要素になりました。
ただ、専門学校の先生になれそうな時に、熊本の家で、転職情報紙をもう一度見て、ある会社に応募しました。
専門学校の先生の役員面接の日に、その会社の面接も入れました。
役員面接を終えて、その会社へ行き、面接を受けました。
面接して下さったのは、当時の所長で、話をする間に、同郷の福井出身の方と知りました。
防衛大学校卒の自衛隊にいらっしゃった方でした。後に分かったのですが、ある自動車メーカーの米国法人の社長をされ、後にそのメーカーの社長をされた方の兄弟でした。
その後、両方から『採用』の通知を頂き、迷いました。
先生として、教える立場と、開発の現場に居る立場と、自分にはどちらが合ってるのか。
どちらがやりたいのか。
悩んで、悩んだ結果、私が選んだのは『現場』でした。
専門学校に断りを入れ、後から見付けた会社に入る事にしました。
こう言う決断は、かみさんとの相談ではなく、独断。それは、責任を負う事。
相談して決めて、もし、いい方向に行かない時に、『あの時、・・・』と思いたくないからです。全て、自分の責任。
『自分勝手』だと言われましたが。
福岡の会社に転職して半年。
熊本の事業所が閉鎖される事になりました。
残った人達は、再就職が大変だったと聞いています。ちょうど、バブルがはじけた時期で、転職先がなかなか見つからなかったそうです。
こうして、福岡に転職した私ですが。
『仕事の辞め方』からは、少し離れますが、私の本性を、次回から書きたいと思います。
ちょっと、赤裸々に。
YouTubeで見る、私から、想像できるかとうか。赤裸々に。
今日は、これで。
では、また。

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