みなさんは「ワトソン君、ちょっと来てくれないか」と電話に向かって言った人を知っていますか?「シャーロックホームズが助手を呼んだ!」・・・残念、違います。
1876年3月10日、こう呼びかけたのはアレグザンダー・グラハム・ベルで、歴史上初めて電話を発明し、助手に呼びかけた電話の第一声だそうです。
発明王エジソンと同じように有名な発明家、電話を発明したベルの名前だけは知っていました。
でも、次のようなことは本を読んで初めて知りました。みなさんはどうでしょうか。
①電話の父ベル博士には、もう一つの顔があり、それは聴覚障害者教育に生涯情熱を注いだ人であること。
ベル博士の母親は難聴者でしたし、父親も福祉に熱心な方でした。また後に結婚することになる女性も聴覚が不自由でした。彼はボストン大学の発声生理学・発声法の教授をしながら電話を発明したのでした。
「耳の聞こえない人たちを助けるのは僕のライフワーク。」と、学校を設立したり、聴覚障害者教育担当の教師への教育に努めたりしました。
1886年、三重苦のヘレン・ケラーが親に連れられて世界的に知られた発明家であり、聴覚障害者教育に尽力していたベル博士のもとにきたのは6歳の時でした。この出会いが次の②に見るようにヘレン・ケラーの生涯を変えていくのです。
②あのサリバン先生が教えたヘレン・ケラーがベル先生によっても支えられていたこと。
ヘレン・ケラーが不当な差別を受けた時には、マーク・トーウェン(トム・ソーヤの冒険の著者)などと一緒に抗議したり、大学に進学するにあたっては教育費や生活費などについても物心両面にわたって支えたりしたのでした。ヘレンには「できると思うことはどんなことでもできるものだ。君から勇気をもらう人が大勢いることを忘れてはいけない。」と、生涯にわたって励まし、一方ベル博士もヘレンの努力と活動に励まされる関係でした。
「ベル博士は電話の発明により、人と人を隔てる距離というバリアを取り除き、そのベル博士と会うことにより、ヘレン・ケラーも世界の障害者を孤独の中に閉じ込めていた差別というバリアを取り除く長い旅路に出発した。」とあります。
③後年ヘレン・ケラーが婦人の参政権実現に関心を持ち、そのためにベル博士とデモにも参加していたこと。
ヘレン・ケラーは知られているように、全障害者のためにさまざまな運動をし、資金を集めるためにも、世界各地で講演をしました。日本にも来て感動を与えたこともありました。
しかし、ヘレン・ケラーの活動はそれだけではありませんでした。
身体障害者にも職をと運動し、戦争に反対し、少数民族や貧しい人への支援をと訴え続けました。
そして1913年〈大正2〉の婦人参政権のデモ行進にベル博士とともに参加するなど政治的な活動も続けました。「アメリカの女性たちは・・・・、何かを手に入れたいなら、そのために闘い、苦しむ決意がなくてはなりません。」と。
(アメリカの婦人参政権は1920年に実現。日本は戦後の1946年にようやく実現)
このように「奇跡の人」誕生には、サリバン先生とともにベル博士の生涯にわたっての支えがあったのでした。
所で、ベル博士が発明した電話ですが、一番使ってほしかった人々は使うことができませんでした。それは、母、妻、ヘレンの三人です・・・・。
1922年8月2日75歳でベル博士が亡くなります。埋葬の時刻には、全米の電話が一分間止められたそうです。人々の心と心を結んだ電話のありがたさを確認し、発明される前の状態を思い起こすために。
ちなみに、電話(テレフォン)の語源はギリシャ語でテレは遠い、フォネは声という意味だそうです!
初めて知ったことが多かったです。皆さんはどうでしたか。
三重苦なのに、自分のことだけで大変な苦痛なのに、当時の女性の地位の向上のために運動したり、社会的な弱者の立場に立って運動したりと、ヘレン・ケラーが偉人といわれる意味がよくわかります。それを支えていたのはサリバン先生だけではなくあのベル博士だったということもわかりました。
この本は児童書ですが、私にとっては知らないことが多く、読み応えのある内容でした。
「ヘレン・ケラーを支えた電話の父・ベル博士」ジュデス・セントジョ-ジ著 片岡しのぶ訳
あすなろ書房1999年初版。
1876年3月10日、こう呼びかけたのはアレグザンダー・グラハム・ベルで、歴史上初めて電話を発明し、助手に呼びかけた電話の第一声だそうです。
発明王エジソンと同じように有名な発明家、電話を発明したベルの名前だけは知っていました。
でも、次のようなことは本を読んで初めて知りました。みなさんはどうでしょうか。
①電話の父ベル博士には、もう一つの顔があり、それは聴覚障害者教育に生涯情熱を注いだ人であること。
ベル博士の母親は難聴者でしたし、父親も福祉に熱心な方でした。また後に結婚することになる女性も聴覚が不自由でした。彼はボストン大学の発声生理学・発声法の教授をしながら電話を発明したのでした。
「耳の聞こえない人たちを助けるのは僕のライフワーク。」と、学校を設立したり、聴覚障害者教育担当の教師への教育に努めたりしました。
1886年、三重苦のヘレン・ケラーが親に連れられて世界的に知られた発明家であり、聴覚障害者教育に尽力していたベル博士のもとにきたのは6歳の時でした。この出会いが次の②に見るようにヘレン・ケラーの生涯を変えていくのです。
②あのサリバン先生が教えたヘレン・ケラーがベル先生によっても支えられていたこと。
ヘレン・ケラーが不当な差別を受けた時には、マーク・トーウェン(トム・ソーヤの冒険の著者)などと一緒に抗議したり、大学に進学するにあたっては教育費や生活費などについても物心両面にわたって支えたりしたのでした。ヘレンには「できると思うことはどんなことでもできるものだ。君から勇気をもらう人が大勢いることを忘れてはいけない。」と、生涯にわたって励まし、一方ベル博士もヘレンの努力と活動に励まされる関係でした。
「ベル博士は電話の発明により、人と人を隔てる距離というバリアを取り除き、そのベル博士と会うことにより、ヘレン・ケラーも世界の障害者を孤独の中に閉じ込めていた差別というバリアを取り除く長い旅路に出発した。」とあります。
③後年ヘレン・ケラーが婦人の参政権実現に関心を持ち、そのためにベル博士とデモにも参加していたこと。
ヘレン・ケラーは知られているように、全障害者のためにさまざまな運動をし、資金を集めるためにも、世界各地で講演をしました。日本にも来て感動を与えたこともありました。
しかし、ヘレン・ケラーの活動はそれだけではありませんでした。
身体障害者にも職をと運動し、戦争に反対し、少数民族や貧しい人への支援をと訴え続けました。
そして1913年〈大正2〉の婦人参政権のデモ行進にベル博士とともに参加するなど政治的な活動も続けました。「アメリカの女性たちは・・・・、何かを手に入れたいなら、そのために闘い、苦しむ決意がなくてはなりません。」と。
(アメリカの婦人参政権は1920年に実現。日本は戦後の1946年にようやく実現)
このように「奇跡の人」誕生には、サリバン先生とともにベル博士の生涯にわたっての支えがあったのでした。
所で、ベル博士が発明した電話ですが、一番使ってほしかった人々は使うことができませんでした。それは、母、妻、ヘレンの三人です・・・・。
1922年8月2日75歳でベル博士が亡くなります。埋葬の時刻には、全米の電話が一分間止められたそうです。人々の心と心を結んだ電話のありがたさを確認し、発明される前の状態を思い起こすために。
ちなみに、電話(テレフォン)の語源はギリシャ語でテレは遠い、フォネは声という意味だそうです!
初めて知ったことが多かったです。皆さんはどうでしたか。
三重苦なのに、自分のことだけで大変な苦痛なのに、当時の女性の地位の向上のために運動したり、社会的な弱者の立場に立って運動したりと、ヘレン・ケラーが偉人といわれる意味がよくわかります。それを支えていたのはサリバン先生だけではなくあのベル博士だったということもわかりました。
この本は児童書ですが、私にとっては知らないことが多く、読み応えのある内容でした。
「ヘレン・ケラーを支えた電話の父・ベル博士」ジュデス・セントジョ-ジ著 片岡しのぶ訳
あすなろ書房1999年初版。
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