過日NHKの特報首都圏で「いのちの被災地図・東京大空襲69年の真実」が放送されました。生き残った人による話の再現と、「東京大空襲」の著者の早乙女勝元さんの話がありました。ご覧になったでしょうか。
10日未明からの東京大空襲では、死者10万人という悲惨な結果をもたらしました。
B29による空襲は、油をまいて、焼夷弾をおとし,火事をおこし、焼死させるという攻撃の仕方の異常さがよく指摘されてきました。
今回はさらに、日本政府の国家総動員法下で強いられた生活が犠牲を大きくしたことが分かったということでした。
①40代の一般男性の犠牲が多いこと
2,30代男性は兵役にとられ、銃後を守るとして、40代が家族が逃げた後も消火活動にあたらねばならなかったので犠牲がこの年代に多かったと言います。
逃げればいいのにと思うのですが、防空法という法律で、消火義務が課せられ、罰則規定がありました。
また、隣組制度があり、食料の管理配給、防火など生活のすべてにわたって相互監視社会でしたから、勝手なことは非国民扱いされていました。戦争は、兵士のみがやるのではなく、国民がすべてにわたって戦時体制に組み込まれることが分かります。(この相互監視社会はマンガ『はだしのゲン』にも描かれています。)
②小学生など未成年者の犠牲が多かったこと
これは当時6年生以下の児童は疎開をしていましたが、3月10日は陸軍記念日なので疎開先から、東京に戻っていたという不幸が重なってしまったといいます。
今、当時12歳だった早乙女勝元さんはじめ、東京空襲を語る人も少なくなってきている中、若い人たちには資料という形でしか伝えていくことができなくなっていると心配そうに話されていました。
さて、早乙女勝元氏の著作「東京大空襲」ですが、1971年発行された岩波新書です。20代に読んで大変な衝撃でした。
この空襲は奇襲であるうえ、報道統制で市民は知ることができなかったのでした。その中でかろうじて生き延びた人々によって悲惨な事例が語られていました。
カメラマンの石川氏の話として、劫火が風を呼び、ますます燃え盛って多くの人々が焼き殺されていく有様が記述されていました。熱さに耐えきれず川に飛び込んだ人も燃えながら流されて川の水面が見えないほどの死体であったとも。
余りに多くの死体で都内67か所の公園、寺院、学校に一週間がかりで仮埋葬したが、上野公園などには8400体、錦糸公園などでは13000体というように、空地という空地ははほとんど墓地に早変わりという有様だったと著者は言います。
この本には、朝日新聞の「東京被爆記」(昭和45)からの次の話ものっていました。
「累々と横たわる死者の中には、小さな赤ん坊をかばって焼かれた若い母親の姿もあった。ある母親は地面にうつぶせになっていたが、その十本のゆびには、血と泥がこびりつき爪が一つもなかった。彼女は最後の瞬間に指で必死に地面を掘ったのだろう。。固い地面に作った穴に赤ん坊を入れて、自らその上に覆いかぶさって、わが子を守ろうとしたのか。・・・・。」とすでに死んでいる赤ちゃんとお母さんの姿を書きとめています。
このほか、永井荷風や荒畑寒村など著名な人々も残酷な様子を日記に残していました。
二時間ほどの短時間に10万人もの死者を出す戦場であった東京。軍人よりも一般市民の死者がはるかに多いのがこの戦争でした。
最後に、この本から、今につながる二点ほど。
①政府は、国民の人権や命には一顧だにしなかったこと。
戦後すぐ米国戦略爆撃団調査報告が昭和20年10月から11月までの被害実態と爆撃効果をするために作成されました。そこには日本政府が空襲による死者についての調査資料をつくっていないことが指摘されています。これはドイツが死者の検視と、障害者についての調査活動を綿密に行っていたことと大変な違いと指摘しています。
大本営発表でも、国民の被害は述べずに皇居の被害は僅少というような感覚でした。
日本の権力者は戦争中はもちろん、人の命や権利については無関心だったことがよくわかります。
今権力を握る人々の、国民の命や人権への感覚にもつながっているのでしょうか。
②政府は東京空襲の総指揮者に勲一等旭日大綬章を贈ったこと
この無差別爆撃の指揮者は、カーチス・ルメイ将軍といい、アメリカ空軍第21爆撃隊司令官で、あのヒロシマ・ナガサキ原爆投下の直接責任者です。
日本政府は自衛隊の育成に協力したとして、昭和39年に佐藤内閣時に送ったものです!なんということでしょうか。
この本では最後にチャップリンの名セリフを紹介しています。
「一人を殺せば殺人者となり、百万人殺せば英雄になるのか。」
首相を始め「集団的自衛権」を行使したい政治家は、戦争になると誰が犠牲になるか頭にないのでしょうね。
10日未明からの東京大空襲では、死者10万人という悲惨な結果をもたらしました。
B29による空襲は、油をまいて、焼夷弾をおとし,火事をおこし、焼死させるという攻撃の仕方の異常さがよく指摘されてきました。
今回はさらに、日本政府の国家総動員法下で強いられた生活が犠牲を大きくしたことが分かったということでした。
①40代の一般男性の犠牲が多いこと
2,30代男性は兵役にとられ、銃後を守るとして、40代が家族が逃げた後も消火活動にあたらねばならなかったので犠牲がこの年代に多かったと言います。
逃げればいいのにと思うのですが、防空法という法律で、消火義務が課せられ、罰則規定がありました。
また、隣組制度があり、食料の管理配給、防火など生活のすべてにわたって相互監視社会でしたから、勝手なことは非国民扱いされていました。戦争は、兵士のみがやるのではなく、国民がすべてにわたって戦時体制に組み込まれることが分かります。(この相互監視社会はマンガ『はだしのゲン』にも描かれています。)
②小学生など未成年者の犠牲が多かったこと
これは当時6年生以下の児童は疎開をしていましたが、3月10日は陸軍記念日なので疎開先から、東京に戻っていたという不幸が重なってしまったといいます。
今、当時12歳だった早乙女勝元さんはじめ、東京空襲を語る人も少なくなってきている中、若い人たちには資料という形でしか伝えていくことができなくなっていると心配そうに話されていました。
さて、早乙女勝元氏の著作「東京大空襲」ですが、1971年発行された岩波新書です。20代に読んで大変な衝撃でした。
この空襲は奇襲であるうえ、報道統制で市民は知ることができなかったのでした。その中でかろうじて生き延びた人々によって悲惨な事例が語られていました。
カメラマンの石川氏の話として、劫火が風を呼び、ますます燃え盛って多くの人々が焼き殺されていく有様が記述されていました。熱さに耐えきれず川に飛び込んだ人も燃えながら流されて川の水面が見えないほどの死体であったとも。
余りに多くの死体で都内67か所の公園、寺院、学校に一週間がかりで仮埋葬したが、上野公園などには8400体、錦糸公園などでは13000体というように、空地という空地ははほとんど墓地に早変わりという有様だったと著者は言います。
この本には、朝日新聞の「東京被爆記」(昭和45)からの次の話ものっていました。
「累々と横たわる死者の中には、小さな赤ん坊をかばって焼かれた若い母親の姿もあった。ある母親は地面にうつぶせになっていたが、その十本のゆびには、血と泥がこびりつき爪が一つもなかった。彼女は最後の瞬間に指で必死に地面を掘ったのだろう。。固い地面に作った穴に赤ん坊を入れて、自らその上に覆いかぶさって、わが子を守ろうとしたのか。・・・・。」とすでに死んでいる赤ちゃんとお母さんの姿を書きとめています。
このほか、永井荷風や荒畑寒村など著名な人々も残酷な様子を日記に残していました。
二時間ほどの短時間に10万人もの死者を出す戦場であった東京。軍人よりも一般市民の死者がはるかに多いのがこの戦争でした。
最後に、この本から、今につながる二点ほど。
①政府は、国民の人権や命には一顧だにしなかったこと。
戦後すぐ米国戦略爆撃団調査報告が昭和20年10月から11月までの被害実態と爆撃効果をするために作成されました。そこには日本政府が空襲による死者についての調査資料をつくっていないことが指摘されています。これはドイツが死者の検視と、障害者についての調査活動を綿密に行っていたことと大変な違いと指摘しています。
大本営発表でも、国民の被害は述べずに皇居の被害は僅少というような感覚でした。
日本の権力者は戦争中はもちろん、人の命や権利については無関心だったことがよくわかります。
今権力を握る人々の、国民の命や人権への感覚にもつながっているのでしょうか。
②政府は東京空襲の総指揮者に勲一等旭日大綬章を贈ったこと
この無差別爆撃の指揮者は、カーチス・ルメイ将軍といい、アメリカ空軍第21爆撃隊司令官で、あのヒロシマ・ナガサキ原爆投下の直接責任者です。
日本政府は自衛隊の育成に協力したとして、昭和39年に佐藤内閣時に送ったものです!なんということでしょうか。
この本では最後にチャップリンの名セリフを紹介しています。
「一人を殺せば殺人者となり、百万人殺せば英雄になるのか。」
首相を始め「集団的自衛権」を行使したい政治家は、戦争になると誰が犠牲になるか頭にないのでしょうね。
マスコミは真実をなかなか報道しないですね。
あさどらのごちそうさんがなかなか良いことを言ってますね。
長男の出征直前の「こんな世の中許さない」なども心に残ります。
戦後生まれのため、空襲は、日本の主要都市や工場地帯を襲ったという程度しか知らなかったです。
とくに、昭和20年3月10日の東京大空襲が甚だしく10万人もの犠牲を強いたのですね。