教師編はその3は、私が見聞した教師の心の病や出世についてふれた短歌です。学校に限らずどこでもある悩みでしょう。
(9) 君もまた心病みしか教室に終日こもり語ることもなし
AさんとBさんはお互いに意思疎通が苦手なようでした。また他の職員とも関係をうまく持てないようでした。
同じ学年でしたが、面と向かっては話さないのでした。教室にこもり子どもとは何とかかかわっていたようでしたが行事の時などには共通理解を得るのが難しかったことでした。
そんなAさんから私は「沈まぬ太陽」(山崎豊子著)を借りて読み感動しました。また、退職記念として私と一緒にお金を出し合い、子どもの教材として「日本国けんぽう」を一クラス分購入して寄贈したのでした。
Bさんとはしばらくの間テニス仲間でもありました。ボタンのかけ間違いがあるとこのようなことになってしまう例で他人事ではありませんでした。
今、心の病が多い職業として教職があげられています。現在精神疾患で休職している教師は5000人にもなり、民間企業の2倍以上、昨年の退職者は640人以上と言います。人間関係が中心の仕事ですから想像以上の精神労働です。(1990年頃)
(10)校長の第一声が「気をつけ」の号令スピーカー震わせり
赴任して来て最初の子どもへのあいさつの時でした。びっくりしました。
そういえばやや強面で中学校に長い間勤めていた方でした。こちらもびくっとしました。続く言葉は「諸君・・・」でしたから、6歳から12歳の小学校子どもたちには、何のことという気持ちだったのではと。
前任者が畑の作物の話や季節の行事を分かりやすく話される方だったのでその落差にも驚いたのでした。とにかく、職員にも命令口調の目立つ方で、一緒に学校をつくっていくというより、黙って言うとおりに従えという感じでした。
「歓迎の拍手もまばらな宴会に命令口調なおも止まざる」
例年歓迎会が行われますが、この年はさすがにあまり盛り上がりませんでした。もちろん、このような管理職をよしとする人はいて、のちに教育行政の幹部になった人もいました。
「校長の君の力量認めるも思想変えねば出世なしとぞ」
こんな方でしたから、組合活動をする私などは論外なのでしょう。校内の研究活動など一定の役目があったために関わることも多かったのでこんなことを話されました。中には、善意からですが同僚の中にも、早く上をめざしてなどという人もいました。
初志というほど立派なものはなかったのですが、弱いので30~40代は気持ちが揺れる面もありました。しかし、保護者の「先生はいつまでも先生でいてください。(上を望まずに)」という励ましの言葉に支えられて続けられたと思っています。1980年頃)
(11)お腹の赤ちゃん死んじまえと女教師にぶつかる子あると聞きし時同僚(とも)ら黙しぬ
これはなんということでしょうか。この教師はその後、無事赤ちゃんを出産できましたが、小学生でも、お母さんがかまってくれないなどの家庭的な不満や教師への不満などが重なってこんなことになったのでしょう。この時には凍りついてしまったような気持ちで言葉もなかったのでした。(1980年頃)
(12)教育の理想を語る指導主事子どもを向かぬ教師なりしが
職場から離れていたと思ったら、ある日偉くなって眼前に現れる人がいます。このような立場の人は教師に向かっていろいろ説く人ですから教師の時に実力があり自他ともに認めるような人ならいいのですが…。管理職でも同じですが、とても一生懸命やっていたとは思えぬ人がいつの間にという例を何度も見聞きしました。周りの知っている人にとっては心に響かない空疎な話に聞こえてしまうのでした。
「自慢気に毎晩飲めりと二日酔いの顔見せし指導主事もあり」
中には余りさえない顔をして来る方もいます。担当や管理職との会話ではこんな事情でした。今も研究会が終わると一席もつ所がありますが、指導主事に限らず講師に呼ばれてくる大学の先生を含めてこんな席が大好きな方がいます。若い先生はこんな方を手本にしてほしくはないですが・・・・。 (1980年頃)
(9) 君もまた心病みしか教室に終日こもり語ることもなし
AさんとBさんはお互いに意思疎通が苦手なようでした。また他の職員とも関係をうまく持てないようでした。
同じ学年でしたが、面と向かっては話さないのでした。教室にこもり子どもとは何とかかかわっていたようでしたが行事の時などには共通理解を得るのが難しかったことでした。
そんなAさんから私は「沈まぬ太陽」(山崎豊子著)を借りて読み感動しました。また、退職記念として私と一緒にお金を出し合い、子どもの教材として「日本国けんぽう」を一クラス分購入して寄贈したのでした。
Bさんとはしばらくの間テニス仲間でもありました。ボタンのかけ間違いがあるとこのようなことになってしまう例で他人事ではありませんでした。
今、心の病が多い職業として教職があげられています。現在精神疾患で休職している教師は5000人にもなり、民間企業の2倍以上、昨年の退職者は640人以上と言います。人間関係が中心の仕事ですから想像以上の精神労働です。(1990年頃)
(10)校長の第一声が「気をつけ」の号令スピーカー震わせり
赴任して来て最初の子どもへのあいさつの時でした。びっくりしました。
そういえばやや強面で中学校に長い間勤めていた方でした。こちらもびくっとしました。続く言葉は「諸君・・・」でしたから、6歳から12歳の小学校子どもたちには、何のことという気持ちだったのではと。
前任者が畑の作物の話や季節の行事を分かりやすく話される方だったのでその落差にも驚いたのでした。とにかく、職員にも命令口調の目立つ方で、一緒に学校をつくっていくというより、黙って言うとおりに従えという感じでした。
「歓迎の拍手もまばらな宴会に命令口調なおも止まざる」
例年歓迎会が行われますが、この年はさすがにあまり盛り上がりませんでした。もちろん、このような管理職をよしとする人はいて、のちに教育行政の幹部になった人もいました。
「校長の君の力量認めるも思想変えねば出世なしとぞ」
こんな方でしたから、組合活動をする私などは論外なのでしょう。校内の研究活動など一定の役目があったために関わることも多かったのでこんなことを話されました。中には、善意からですが同僚の中にも、早く上をめざしてなどという人もいました。
初志というほど立派なものはなかったのですが、弱いので30~40代は気持ちが揺れる面もありました。しかし、保護者の「先生はいつまでも先生でいてください。(上を望まずに)」という励ましの言葉に支えられて続けられたと思っています。1980年頃)
(11)お腹の赤ちゃん死んじまえと女教師にぶつかる子あると聞きし時同僚(とも)ら黙しぬ
これはなんということでしょうか。この教師はその後、無事赤ちゃんを出産できましたが、小学生でも、お母さんがかまってくれないなどの家庭的な不満や教師への不満などが重なってこんなことになったのでしょう。この時には凍りついてしまったような気持ちで言葉もなかったのでした。(1980年頃)
(12)教育の理想を語る指導主事子どもを向かぬ教師なりしが
職場から離れていたと思ったら、ある日偉くなって眼前に現れる人がいます。このような立場の人は教師に向かっていろいろ説く人ですから教師の時に実力があり自他ともに認めるような人ならいいのですが…。管理職でも同じですが、とても一生懸命やっていたとは思えぬ人がいつの間にという例を何度も見聞きしました。周りの知っている人にとっては心に響かない空疎な話に聞こえてしまうのでした。
「自慢気に毎晩飲めりと二日酔いの顔見せし指導主事もあり」
中には余りさえない顔をして来る方もいます。担当や管理職との会話ではこんな事情でした。今も研究会が終わると一席もつ所がありますが、指導主事に限らず講師に呼ばれてくる大学の先生を含めてこんな席が大好きな方がいます。若い先生はこんな方を手本にしてほしくはないですが・・・・。 (1980年頃)
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