「教えるとは学ぶこと」という言葉があります。教えるということは準備をして教える内容について確認し、学んでいる子どもたちの学びの様子を確認するという繰り返しです。つまり、教えた内容や教え方について自分に引き付けて確認することが求められます。
このように教育という過程は双方向的な面があり、教える側も絶えず自己評価にさらされるわけです。教えているようで実は自分もその過程で学んでいることになります。そこには迷いも悩みもあります。今回はその苦しみなどにもふれて。
(13)「君が代」を強いる法律無理押しす民の心に縄を掛くるか
大阪では教師が口を開けて歌っているかチエックするという学校があり、話題になりました。チエックする人は歌えたのでしょうか?このブラックユーモアともいうべき出来事は、世の中に蔓延している同一歩調を取らないのは異端という考えが、学校だからこそ目立ったのでしょう。歌う人が愛国心のある人と決めつけて、押し付けることが問題と思うのですが。
東京ではこれに反対する高校長を辞めさせることさえ強行しました。自然に口から出て歌うのではなく、とにかく法律まで作って歌わせるという、いわば内心まで支配しないではすまないという発想に、民主主義や人権とは相いれない国家主義の匂いを嗅いでしまいます。(1980年頃)
(14)空欄の目立つテストが採点者我を評価するごとに迫る
試験は課す方も受ける方も気持ちのいいものではありません。自作の問題を教えた範囲で出してなお空欄が目立つ場合にはむなしいものがあります。しかし、評価は必要です。
前にも書いたように教え方が問われる面もあるのですから。漢字や計算などでは皆が合格点がとれるようにいろいろな手立てをしたこともあります。テストは子どもが分かったか否かだけではなく、適切な教え方であったか、無理な教材でなかったが問われるべきものですから。こんな考えは「到達度評価研究会」での研究活動に参加する中で学びました。
(15)「子どもらを怒鳴りし後の職員室までの長き廊下」
あああっ、また怒鳴っちゃったと後悔することも多くありました。そんな時には、先のテストと同じ、自分の指導がたりないのに叱ってと、自責の気持ちでがっくりきました。そんな後の職員室へ戻る後ろ姿はきっと小さく見えたことでしょう。
「注意では効果あげぬと知りつつも今日も大声のひと時のあり」
叱ったり、怒鳴ったりしてもそれはみな自分に返ってくるものです。そんなことしなくてもできるようになりたいものだとは、辞めるまでの悩みでした。比較的穏やかに話してきたと思う反面こんなことがあると、落ち込みも大きいのでした。(1985年頃)
(16)自信無く迷いし夕べ積み上げし教師論など読み漁りたり
長い間の教師生活で多くは自分の頑張りを肯定的にとらえているものの、何度となく自信を無くしてしまうこともありました。そんな時には、一人で落ち込まない、誰かと話す、研究会などに積極的に出て学ぶなどを実践し、人にも話してきました。しかし、空回りする自分を抑えあぐねて、書物を漁ることも多かったのでした。アンダーラインを引いたその頃の本はいまだ残っています。
「シベリウス聴き入る夜はわけもなくさびしくなりてボリュウムをあぐ」
自信のないときにかぎって、仕事の空しさをも感じるものです。子どもとの関わりだけではなく、同僚とのかかわりなどで壁を意識した時です。そして自分はこの仕事に向いていないのではないかなどと考えてしまうことも何度となくありました。シベリウスの「フィンランディア」などをボリュウム一杯あげて聞いて自分を鼓舞したのもこの時期でした。(1985年頃)
(17)通知表一人書いては止まりまた書き継ぎたりし期末の深夜
この頃は、5時過ぎには帰り、食後自宅で学校の仕事を12時1時までする毎日でした。明日の授業の教材準備、採点、学級通信、学級事務など持ち帰ってしていました。期末の通知表は殊の外時間がかかります。全教科の採点後の集計と評価、生活面の記録等々。できるだけその子の可能性を見つけてあげたいと思うし、遅筆なので時間もよくかかりました。
今は個人情報を持ち歩けないということもあり、学校に遅くまで残って仕事が当たり前になりました。昔も今も残業手当の一切ない残業であることは言うまでもありません。
「遅遅として進まぬ期末通知表肩の痛みに湿布薬はる」
こんな忙しい時期に頸椎を痛めたりすることもありました。ますます仕事が遅くなりがちでした。
(18)学級通信の自分の作文読む子の笑顔がまた鉄筆握らせる
多いときには毎日のように学級通信を出していました。内容は家庭へのお知らせと、子どもの作品でした。作文や詩などの作品は全員の分を工夫して載せましたから、自分のがある時にはそれはにこにこして見ていたものでした。その頃は、パソコンもないので、鉄筆で書き、ガリ版で印刷していました。手首に瘤ができることも再三でした。(1980年頃)
(19)白き花凛とつけたり辛夷の樹わが職場にも春訪れん
息苦しさを感じていたときに、校庭に辛夷の花に目が行きました。凛と咲いている辛夷の花のように今年も頑張ろうと奮い立った春でした。
(20)「センス・オブ・ワンダー」の気持ち忘れず子どもらと畑耕し野菜育てむ
大人に大事なのは子どもの頃の驚きや感動の気持ちを忘れないことと言います。教師にとっては特に大事でしょう。低学年の生活科では特に、自然に触れることや野菜を育ててその成長に感動する機会を用意することが大事と思って進めてきました。
この言葉はレイチエル・カーソンが著書「センス・オブ・ワンダー」で言っている言葉です。退職後も自然に関わるボランティア活動していますが大切にしている言葉です。
(21)子どもらと別れる日近し実践をふりかえりつつアルバム作る
毎日の授業などの場面で書かせてきたものを学級通信にのせ、みんなで読みあってきました。また毎年、作文集や詩集を作成して子どもたちに手渡してきました。成績評価もあり忙しい期末でしたが、やめるわけにはいかないポリシーのようなものでした。この時期になると、パソコンも多く使われるようになり、だいぶ助かりました。
**教師編はひとまずここで終了です。生々しい面もあったと思いますが、現実はもっともっとどろどろした面もあり、短歌では表しえないこともありました。
このように教育という過程は双方向的な面があり、教える側も絶えず自己評価にさらされるわけです。教えているようで実は自分もその過程で学んでいることになります。そこには迷いも悩みもあります。今回はその苦しみなどにもふれて。
(13)「君が代」を強いる法律無理押しす民の心に縄を掛くるか
大阪では教師が口を開けて歌っているかチエックするという学校があり、話題になりました。チエックする人は歌えたのでしょうか?このブラックユーモアともいうべき出来事は、世の中に蔓延している同一歩調を取らないのは異端という考えが、学校だからこそ目立ったのでしょう。歌う人が愛国心のある人と決めつけて、押し付けることが問題と思うのですが。
東京ではこれに反対する高校長を辞めさせることさえ強行しました。自然に口から出て歌うのではなく、とにかく法律まで作って歌わせるという、いわば内心まで支配しないではすまないという発想に、民主主義や人権とは相いれない国家主義の匂いを嗅いでしまいます。(1980年頃)
(14)空欄の目立つテストが採点者我を評価するごとに迫る
試験は課す方も受ける方も気持ちのいいものではありません。自作の問題を教えた範囲で出してなお空欄が目立つ場合にはむなしいものがあります。しかし、評価は必要です。
前にも書いたように教え方が問われる面もあるのですから。漢字や計算などでは皆が合格点がとれるようにいろいろな手立てをしたこともあります。テストは子どもが分かったか否かだけではなく、適切な教え方であったか、無理な教材でなかったが問われるべきものですから。こんな考えは「到達度評価研究会」での研究活動に参加する中で学びました。
(15)「子どもらを怒鳴りし後の職員室までの長き廊下」
あああっ、また怒鳴っちゃったと後悔することも多くありました。そんな時には、先のテストと同じ、自分の指導がたりないのに叱ってと、自責の気持ちでがっくりきました。そんな後の職員室へ戻る後ろ姿はきっと小さく見えたことでしょう。
「注意では効果あげぬと知りつつも今日も大声のひと時のあり」
叱ったり、怒鳴ったりしてもそれはみな自分に返ってくるものです。そんなことしなくてもできるようになりたいものだとは、辞めるまでの悩みでした。比較的穏やかに話してきたと思う反面こんなことがあると、落ち込みも大きいのでした。(1985年頃)
(16)自信無く迷いし夕べ積み上げし教師論など読み漁りたり
長い間の教師生活で多くは自分の頑張りを肯定的にとらえているものの、何度となく自信を無くしてしまうこともありました。そんな時には、一人で落ち込まない、誰かと話す、研究会などに積極的に出て学ぶなどを実践し、人にも話してきました。しかし、空回りする自分を抑えあぐねて、書物を漁ることも多かったのでした。アンダーラインを引いたその頃の本はいまだ残っています。
「シベリウス聴き入る夜はわけもなくさびしくなりてボリュウムをあぐ」
自信のないときにかぎって、仕事の空しさをも感じるものです。子どもとの関わりだけではなく、同僚とのかかわりなどで壁を意識した時です。そして自分はこの仕事に向いていないのではないかなどと考えてしまうことも何度となくありました。シベリウスの「フィンランディア」などをボリュウム一杯あげて聞いて自分を鼓舞したのもこの時期でした。(1985年頃)
(17)通知表一人書いては止まりまた書き継ぎたりし期末の深夜
この頃は、5時過ぎには帰り、食後自宅で学校の仕事を12時1時までする毎日でした。明日の授業の教材準備、採点、学級通信、学級事務など持ち帰ってしていました。期末の通知表は殊の外時間がかかります。全教科の採点後の集計と評価、生活面の記録等々。できるだけその子の可能性を見つけてあげたいと思うし、遅筆なので時間もよくかかりました。
今は個人情報を持ち歩けないということもあり、学校に遅くまで残って仕事が当たり前になりました。昔も今も残業手当の一切ない残業であることは言うまでもありません。
「遅遅として進まぬ期末通知表肩の痛みに湿布薬はる」
こんな忙しい時期に頸椎を痛めたりすることもありました。ますます仕事が遅くなりがちでした。
(18)学級通信の自分の作文読む子の笑顔がまた鉄筆握らせる
多いときには毎日のように学級通信を出していました。内容は家庭へのお知らせと、子どもの作品でした。作文や詩などの作品は全員の分を工夫して載せましたから、自分のがある時にはそれはにこにこして見ていたものでした。その頃は、パソコンもないので、鉄筆で書き、ガリ版で印刷していました。手首に瘤ができることも再三でした。(1980年頃)
(19)白き花凛とつけたり辛夷の樹わが職場にも春訪れん
息苦しさを感じていたときに、校庭に辛夷の花に目が行きました。凛と咲いている辛夷の花のように今年も頑張ろうと奮い立った春でした。
(20)「センス・オブ・ワンダー」の気持ち忘れず子どもらと畑耕し野菜育てむ
大人に大事なのは子どもの頃の驚きや感動の気持ちを忘れないことと言います。教師にとっては特に大事でしょう。低学年の生活科では特に、自然に触れることや野菜を育ててその成長に感動する機会を用意することが大事と思って進めてきました。
この言葉はレイチエル・カーソンが著書「センス・オブ・ワンダー」で言っている言葉です。退職後も自然に関わるボランティア活動していますが大切にしている言葉です。
(21)子どもらと別れる日近し実践をふりかえりつつアルバム作る
毎日の授業などの場面で書かせてきたものを学級通信にのせ、みんなで読みあってきました。また毎年、作文集や詩集を作成して子どもたちに手渡してきました。成績評価もあり忙しい期末でしたが、やめるわけにはいかないポリシーのようなものでした。この時期になると、パソコンも多く使われるようになり、だいぶ助かりました。
**教師編はひとまずここで終了です。生々しい面もあったと思いますが、現実はもっともっとどろどろした面もあり、短歌では表しえないこともありました。
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