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2017年、神戸、死に至る病。




神戸、ヤバい。


去年もそのあまりの変わりよう廃れように驚いたのだった。

今年はさらに重篤に見えた。


北野の有名なビルに入るテナントもさらに減り、半分入居していたらいいほうではないか。

京町のオリエンタルホテルの同ビルにあり、去年イタリー製のコートを購入したブティックも、店員さんがとても感じがよくまたぜひと思っていたのに、ついこの間、閉店になったと聞かされた。

海の方にできたばかりのアメリカ西海岸発のセレクトショップも、もう早、レストラン部門が閉店になっていた。

神戸大丸は、週末ですら上階に行けば行くほどガラガラで、心配になるほどだ。

居留地のブティック群も、どこか有名どころが一件撤退したら連鎖反応が起こりそうと危うく感じるのは見当はずれか。


オリエンタルホテルだけは盛況のようだったが、ならなぜこの辺りは刻刻と廃れていくのだろうか。


神戸はもう「神戸」で売れなくなっている。

いや、わたしが永遠のふるさとと思っている「神戸」は、神戸の常態ではなく、いっときの様子にすぎなかったのだ。

オリエンタルホテルでさえ、わたしが子供の頃お相伴に預かっていたオリエンタルホテルとはハコからして完全に別物なのだから。それなのにあれが古き良き神戸を残しているみたいに思っているのがおかしいくらいだ。


外からものが入ってくるために開放的で、古いものを捨て新しいものを取り入れるのに躊躇なく、異国風で、衣食住におしゃれの精神を発揮し、嗜好品を発達させた神戸というものは。

老舗洋菓子屋や洋食屋が軒を並べ、舶来のおもちゃや本や雑貨を売る店があり、外国人が故郷を懐かしんで形成したコミュニティがあり、その人たちや、その向こうの外国とビジネスをする家族がいた「神戸」というものは。

それらはいっときの、一部のものだったのだ。


帰国初日、エステシャンの方がおっしゃっていたのを思い出す。

「神戸の若い人がお金を使わない。お酒も飲まないし、タバコも吸わないし、車も持たない。高級レストランで食事をすることもない。エステにも来ないのよ」と。

神戸だけではないだろうが、可所得処分が少ないのか。日本全体が歴史の常として成長をやめてしまったからなのか。将来の夢や憧れの質が変わったのか(ネットのある世界とない世界では、手が届くもの、届かないものへの感触が全然違う)。

昔に戻そうという努力は虚しい。
考え方を変えて、お金がなくても楽しめる街を全国に先駆けて目指してはどうか、などと妄想してみる。
神戸にはそんな覇気さえなさそうだ。


わたしは「現在ではなく、過去に栄光を誇る文化圏」の文化を見学するのがものすごく好きなのだが、このままでは過去のすぐれた文物を何も残さなまま、全てチープなネオンサインに変換されて「神戸」は完全になくなってしまうのではないかと危惧している。

いや、もともと「神戸」なんていう実態はなかったのか。

クルーファイブの「そして、神戸」が、優れた歌詞なのにもかかわらず、全然神戸が立ち上がってこない歌であるみたいに。
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