goo

ハイカラか、ハイカラでないか




安田謙一さんの「神戸、書いてどうなるのか」に、陳舜臣著「神戸というまち」の項があった。

「神戸というまち」、実家の書架にもあった。

わたしの父は作家の陳舜臣さんと飲み友達で、それが自慢だった。


陳さんは「神戸というまち」の中で

「神戸の人間は、新しいものに対して、一種の鑑定人たることを要求された。では、鑑定の基準は何か?
-これはおもろい。
-これはおもろくない。
伝統の尺度がない以上、個人の実感にたよるほかなかった」

と書いておられるそうだ。
(この本は手元になく、「神戸、書いてどうなるのか」からの孫引きで失礼。「おもろいか、おもろくないか」より)



そうだ、わたしの祖父母や大叔母連中の基準はまさにこんな風だった。

-これはハイカラ。
-これは野暮ったい。
(「野暮」の反対語は普通は「粋」。ハイカラが粋と同格になっていることに注意)

伝統の尺度がないからこそ、舶来の「ハイカラ」値が、ものごとを取捨する重要な基準だったのだ。


もっと祖母姉妹の話を聞いておけばよかったな、と海の彼方で思う。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )