異教の地「日本」 ~二つの愛する”J”のために!

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東日本大震災から7年 2018.3.9 毎日新聞「論点」

2018-03-10 23:35:22 | 東北大震災
論点

東日本大震災から7年

 東日本大震災の発生からまもなく7年を迎える。被災地では土地のかさ上げや防潮堤の建設が進み、復興住宅や商業施設も相次いで完成している。一方、いまだに多くの被災者が故郷を離れたり、仮設住宅での不自由な生活を余儀なくされたりしている。被災地の住民一人一人の暮らしや心の復興はどこまで進んだのか。

 
 
岩手県立大槌高3年、倉澤杏奈さん
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被災地に関心持ち続けて 倉沢杏奈・岩手県立大槌高3年

 私が住む岩手県大槌町では最近になって盛り土の上に家が建ち始めました。少し前までは何もなく、「本当に復興は進んでいるのか」と不安になることもありましたが、ようやく「復興」というゴールに近付き始めたと感じています。

 県立大槌高では2013年から生徒有志が参加する「復興研究会」という活動をしています。町内180カ所を年3回撮影する定点観測や県内外の高校生たちとの交流、防災の啓発活動などに取り組んでいます。今年度は全校210人中141人が参加しました。

 大震災は私が小学5年のときに起きました。町内の自宅は津波で流され、知人も亡くなり、「人は、あっけなく死んでしまうものなのだ」と痛感しました。中学では先生に誘われて、語り部活動をしました。町外での交流から学ぶことが多く、高校の復興研究会にもぜひ入りたいと思いました。住んでいた地域に再建された公民館で話をすると、震災前に戻ったような気持ちになります。しかし、遠くに避難している人は参加できません。住民同士のコミュニティーをもう一度築いていくことが大切だと感じます。

 研究会の活動で町を見ると、少し前向きな気持ちになりますが、住民の立場になると、家は建ち始めてもかつての雰囲気はなく、寂しさを感じます。以前あった店は流され、戻ってきていません。ぽっかりと心に穴があいた気持ちになります。他の多くの住民も、気持ちは元に戻っていないのではないでしょうか。私は今も仮設住宅で暮らしています。元の住んでいた場所には帰りたくても帰れない状況です。このような負担は誰にとっても小さくないと思います。

 私たちが研究会の活動を通じて伝えたかったことは「今後の災害で少しでも命を救いたい」という思いです。被災地の外で話すと、人によっては大震災の悲惨さ、深刻さが十分に理解されていないと感じることもありました。ですから、私たちがあのときの情景や感情を真剣に訴えることによって、少しでも震災のことが伝わってほしいと考えました。復興事業でかさ上げや防潮堤建設が進む地元も、それだけで大丈夫というわけではありません。自分たちに起きたことを伝承していくことは大切な意味があると信じています。

 さらに、私たちの活動を知った全国の人たちが、「震災で大変だったね」で終わるのではなく、この東北の小さな大槌町に関心を持ってほしいのです。復興が徐々に進む町のこと、そこで高校生たちが活動していることを心のどこかにとどめておいてほしい。それは被災地で暮らす人たちにとって、モノよりもお金よりも生きる活力になると思うからです。

 私はこの4月、隣の釜石市の企業に就職します。進学などで地元を出る同級生もいますが、研究会での活動を通じて「残ろう」と決めた人もいます。「地元を出るとしても、それぞれの立場で故郷の復興に貢献することが大事」と話す仲間もいます。私は、地元で働くことで故郷の復興を見守り、ほんの少しかもしれませんが、この地域を支えられればと考えています。【聞き手・永山悦子】

 
本間博彰・あさかホスピタルこどもの心診療部長

子どもに「終わりなき災害」 本間博彰・あさかホスピタル こどもの心診療部長

 大震災直後から5年間にわたって、宮城県子ども総合センターで「子どもの心のケアチーム」を組織し、県内の子どもたちを支援してきた。子どもが抱える心の問題は災害からの時間が経過するに伴って変わる。今も問題は継続しており、いつまで続くかは分からない。阪神大震災(1995年)では当時子どもだった人の心の問題は20年後も残っていた。震災は「終わりのない災害」と言える。

 県内を歩き、多くの子どもに会った。震災直後は恐怖心や不安など極度のストレスからパニックなどを起こす急性ストレス障害が多かった。数カ月たつと、苦痛を回避するためか、感覚が鈍麻し、ぼーっとした様子を見せた。1年たつと、落ち着かない▽衝動的になる▽不登校--など、震災が原因かどうか見分けが難しい症状が出始めた。それが今も続いている。

 沿岸部はもともと人口減などで衰退に向かっていた。そこへ巨大災害が襲い、衰退に拍車をかけた。荒涼とした故郷の風景に直面した大人たちは将来への希望や覇気を失った。そんな空虚感を抱える大人と一緒に過ごす子どもは大人と同じような精神状態になってしまう。子どもは純真で共感性が強い。小学校低学年までは親や学校の先生の精神状態に共感しながら育つ。「大人と自分は違う」と自覚するのは思春期になってからだ。

 その結果、子どもが備えるべき「ストレスに対処する力」が弱まり、日々の生活や課題に適応することも難しくなった。成長期はさまざまなハードルを越えねばならないが、そこに震災の影響も加わり、複雑な症状を起こすことになった。症状が似た発達障害と診断されてしまって、必要なケアを受けられていない例もある。

 生活環境の変化も心にダメージを与える。震災前の「日常」が消え、故郷を離れるなど「非日常」が続いている。両親が離婚した例も少なくない。福島県では放射性物質という不安が継続している。日常生活を失った子どもの心は震災の影響を受け続けている。

 心の問題は目に見えない。本人がつらくて、助けを求める信号を出していたとしても、気付いてもらえない子どもが被災地にはまだたくさんいるはずだ。私が診察する際も、こちらから出身地や7年前の経験を問いかけなければ、自らは語ろうとしない親子が多い。

 震災直後は全国から心のケアの専門家が支援のために現地入りしたが、7年もたてば関心は薄れる。被災地は精神医療が手薄な地域で、震災後はさらに担い手が減った。だから、子どもに日々接する学校の先生の役割は大きい。先生たちはもっと子どもの変化に関心を持ってほしい。「理由が分からない」とあきらめず、子どもの心の中へ思いをはせてほしい。親は子どもの様子に不安を感じたら、「心配だ」と声を上げてほしい。それが必要なケアにつながる。

 自然災害が多い日本では、災害へのハード面の対策は進むものの、災害によって人がどのように傷つき、立ち直っていくのかという視点に立った心のケアは構築されていない。東日本大震災の経験を無駄にしてはならない。【聞き手・永山悦子】

 
青木淑子「富岡町3・11を語る会」代表

感謝の気持ちで「口演会」 青木淑子 「富岡町3・11を語る会」代表

 きっかけは東日本大震災から1年ほどが過ぎ、中国や東南アジアの学生から「被害の実態を聞きたい」という依頼が続いたことだった。初めは富岡町(福島県)の社会福祉協議会の担当者が対応していたが、「避難生活を続けてきた町民自身が語り人となって体験を語ることこそ説得力がある」と思い、2013年に「語り人」事業を始めた。公募で18人が参加した。

 最初は「泣いてしまうかも」というためらいもあったが、やがて「話さないと忘れてしまう」と感じるようになった。それぞれが語り切れないほどのつらい経験をしてきているのだが、今では「避難していた時には多くの人のお世話になってきた。そのお礼返しになるのなら」という感謝の気持ちで「口演会」を務めている。87歳のおじいちゃんから、被災時に中学2年だった21歳の大学生まで現在は23人。県内や全国各地にとどまらず時には海外にも出かける。年間100回ほど、のべ約7000人の聴衆に被災者としての経験と今の思いを語り続けている。

 震災から7年という歳月の中で私たちも少しずつ変わった。地震と津波で福島第1原発事故が発生し、全町民が一斉に町外へ緊急避難した時期。避難所が閉鎖され、仮設や借り上げ住宅に移った時期。その後、復興住宅や避難先に新しい自宅を確保して生活を始めるようになった。

 昨年4月には町内の約3分の2の地域の避難指示が解除され、自宅に戻れるようになった。現在は登録上だけで約400人が住民票を富岡に移している。私自身も昨年7月から町の中心部で生活を始めた。便利とは言えないが、最低限の生活ができる環境は整いつつある。戻ってきた人の大半は「故郷で余生を過ごしたい」「先祖代々の墓を守りたい」と願う高齢者だが、一歩前進には違いない。

 一方で、帰りたくても帰れない大勢の人たちもいる。それぞれが「帰りたい」「帰れない」「帰るべきだ」「まだ帰るべきではない」「もう帰りたくない」……と悩み、戻った人との間に複雑な心の壁も生じている。原発事故による最大の被害は、放射能汚染による物理的な面もあるが、何よりもそれまで一致団結して平和に暮らしてきた住民の心がバラバラになったことだろう。住民の中に心のバリケードができつつある。

 国の復興事業は被災時の住民だけを対象にしているが、現在進む町の創生には新しい住民も加わっている。ぜひ、この新しい人たちも大切にしてほしい。復興とは壊れたものを旧状に戻すだけでなく、それを大事にしながら新しい何かを創造してゆくことだろう。新しい富岡を創生するには元住民に加えて新住民も大きな役割を担っている。特に若い人たちには福島の実態を知って、可能なことから参加してもらうことが重要だ。

 そうした新住民の若者が頑張っている姿を見せていけば、「自分も帰ろうか」と続く人も出てくるだろう。行政や東京電力は戻った人たちの決断を裏切るようなことはしないでほしい。時間はかかっても、いつの日か必ず、元気な富岡が返ってくることを信じている。【聞き手・森忠彦】


いまだに7万人超避難

 2011年3月11日、東北沖でマグニチュード(M)9.0の巨大地震が発生、太平洋沿岸を巨大津波が襲い、東京電力福島第1原発事故が起きた。災害関連死を含む死者は1万9533人、行方不明者は2585人。復興庁によると、今年2月現在の避難者は約7万3000人、うち約5万3000人が仮設住宅などに暮らす。福島県では17年4月までに帰還困難区域を除く大半の地域の避難指示が解除されたが、現在も約3万4000人が県外避難を続けている。


 ご意見、ご感想をお寄せください。 〒100-8051毎日新聞「オピニオン」係 opinion@mainichi.co.jp


 ■人物略歴

くらさわ・あんな

 1999年岩手県大槌町生まれ。大槌高復興研究会に1年から参加し、生徒会長も務めた。2017年に仙台市で開かれた世界防災フォーラム前日祭で発表。研究会は同年、「東北みらい賞」を受賞した。


 ■人物略歴

ほんま・ひろあき

 1950年生まれ。弘前大医学部卒。青森県内で地域医療に携わり、88年宮城県中央児童相談所。2001年宮城県子ども総合センター。センター所長も務める。16年から現職。専門は子どもの精神医学。


 ■人物略歴

あおき・よしこ

 1948年東京都生まれ。64年に福島県郡山市に移住。福島大卒。70年から福島県立高校で教諭(国語)を務める。2004~08年に県立富岡高校長。15年4月にNPO法人「語る会」を発足させ、代表に。

 

 

 

 


<国民を守ろうとはしなかった!>10万人死亡「東京大空襲」の翌朝、政府が何と言ったかご存じですか 2018.3.8 大前治

2018-03-10 16:20:57 | 平和 戦争 自衛隊

 

10万人死亡「東京大空襲」の翌朝、政府が何と言ったかご存じですか

2018.3.10
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/54614
国民を守ろうとはしなかった…
 

頻発する空襲を経てもなお「空襲は怖くない。逃げずに火を消せ」と言い続けた日本政府(前回記事を参照)。この方針は、一挙に大規模となった東京大空襲の被害を目の当たりにしても、変更されなかった。

一度始まった政府方針は、簡単には修正されない。それでも、当時の政府方針に立ち向かおうとした議員がいた。その渾身の言葉に耳を傾けて、いま私たちはどう生きるべきか考える糧にしたい。

10万人が死亡しても「空襲を恐れるな」

1945年(昭和20年)3月10日の深夜0時08分、約300機のB29爆撃機が東京上空に飛来し、約2時間で100万発以上の焼夷弾を投下した。「東京大空襲」である。

現在の江東区・墨田区・台東区を中心に、千代田区や江戸川区も含む広範囲が焼け野原となった。一夜で10万人が死亡し、罹災家屋は27万戸にのぼった。

この大惨事を受けて、さすがの日本政府も「逃げずに火を消せ」の方針を変更するかと思いきや、そうならなかった。空襲の直後、西尾壽造・東京都長官(現在の知事にあたる)と坂信弥・警視総監も、都民にむけた告諭で次のように呼びかけた。

【東京都長官と警視総監の連名による告諭】
・罹災者の救護には万全を期している。
・都民は空襲を恐れることなく、ますます一致団結して奮って皇都庇護の大任を全うせよ。

「恐れるな」など無理な話だ。しかし、空襲による悲惨な被害実態はラジオや新聞で報道されず、「被害は僅少」という大本営発表が報じられたので、それを信じる国民も多かったはずである。

さらに、この日の午後7時20分、小磯國昭首相はラジオ演説で次のように国民へ呼びかけた。

【小磯首相のラジオ演説】
・敵は、今後ますます空襲を激化してくると考えます。敢然として空襲に耐えることこそ勝利の近道であります。
・断じて一時の不幸に屈することなく、国民が征戦目的の達成に邁進することを切望する。

家族と自宅を失って慟哭する国民に対し、「空襲に耐えろ」「一時の不幸に屈するな」と呼びかけている。これ以上どうやって耐えればよいのか、その方策は示されていない。

2日後には名古屋、その翌日には大阪が大空襲の被害を受けた。いずれも約280機の爆撃機が襲来して猛烈な被害を生じた。

3月15日付の読売報知には、陸軍当局が示した大空襲の教訓として「やはり初期防火の徹底である」という勇ましい呼びかけを掲載。同日の朝日新聞は、「初期防火と延焼防止 最後まで頑張れ 焼夷攻撃に怯まず敢闘」と一面に掲載した。

 

夜間大空襲の明朝に、内務省が発した命令は

空襲の夜が明けて、東京に広大な焼け野原が広がった。この光景をみて直ちに、防空対策を担当する内務省が発した命令がある。

残念ながら、「避難せよ、身を守れ」という布告ではなく、科学的見地から「このように消火せよ」という指示でもない。空襲予告ビラを所持するなという命令であった。

空襲予告ビラとは、全国各地で上空から米軍機が散布したものである。時期により内容が異なり、1945年7月に散布されたものは、このように攻撃対象都市を列挙していた。


米軍機が1945年7月に各地で散布した空襲予告ビラ (国立公文書館所蔵)

なお、ここに書かれた12都市は、1945年7月から8月にかけて予告通りに空襲を受けている(高岡市の空襲被災地域は現在は射水市内となっている)。

予告ビラが初めて散布されたのは、東京大空襲の1ヵ月前、1945年2月17日であった。関東から東海地方までの広範囲で、落ちたビラを恐る恐る拾ったという体験談が多く残っている。

この空襲予告を国民が真に受けると、不安や動揺が広がり、都市から大勢が逃げ出す事態が起きたり、政府批判・戦争批判の世論が高まりかねない。

そこで、憲兵司令部は火消しに走った。

「(ビラは)荒唐無稽だ」「敵の宣伝を流布してはならない」「発見したら直ちに憲兵隊や警察に届け出よ。一枚たりとも国土に存在させぬように」と発表し、それが新聞各紙にも掲載された。

ところが1ヵ月後の東京大空襲では、空襲予告ビラに書かれたとおり甚大な被害が出た。今後も空襲予告ビラの散布は繰り返されるだろう。政府としては「次はこの街が攻撃される」という動揺が広がるのを何としても避けたい。

そこで、東京大空襲の日に、「敵のビラを届け出ずに所持した者は最大で懲役2ヵ月に処する」という命令を定めてしまった(内務省令「敵の文書、図書等の届出等に関する件」)。


左から、朝日新聞1945年2月18日付、読売報知同年5月22日付、同年3月10日の内務省令

避難施設や消火機材の整備は遅々として進まないのに、こうした国民統制は迅速に進むのである。

本来は、空襲予告ビラが撒かれたら、それを隠すのではなく、むしろ周知して「この街から逃げてください」と知らせるべきではないか。そうすれば多数の生命が助けられたのではないか。悔やまれてならない。

焦土に立つ議事堂で「逃げろと言っていただきたい」

東京大空襲の翌日(3月11日)、午前10時9分から貴族院本会議、午後3時9分からは衆議院本会議が始まった。議事堂の周囲は、1月27日の銀座空襲と前日の東京大空襲により焦土と化していた。

貴族院では小磯首相が演説した。空襲で傷ついた国民にムチを打つように、「職場に、防衛に、輸送に、国民ことごとく戦列につき、断じて我が国体と我が国土とを護り抜かんこと」を要望した。

各議員からの質問は、国際情勢や本土決戦をめぐり政府を礼賛する内容が多かったが、最後に登壇した大河内輝耕(おおこうち・きこう)の質問は様相が違った。次のように政府の空襲対策を批判したのである。

政府のやることが全て後手に回っている。例えば防空の問題。疎開の必要性を我々は主張していたが政府は一向に聞かない。それどころか「疎開する者は非国民だ」とまで言いだした。ぐずぐずしているうちに、昨日の被害、死傷者が出た。

学童以外の疎開を制限してきた政府方針を真っ向から批判する。空襲の翌日、焼け跡の異臭が漂うなかで、1人の人間として政府の方針を批判せずにはいられなかったのであろう。

大河内議員は、3月14日にも貴族院本会議で登壇した。大達茂雄内務大臣が3月10日の東京大空襲の被害状況を淡々と報告したのに対し、「簡単に質問をいたします」と立ち上がり、次のように迫った。

私の質問は、「人貴きか、物貴きか」と、こういう質問なんであります。
防空施設を整えるという話もあるが、私はこうなっては間に合わないと思う。大都会が焦土化するのは時間の問題だと思います。次は東京が全部やられるかも知れない。その場合に、人を助けるか物を助けるか、どっちを助けるかを伺いたい。
私は、人を助ける方がよいと思う。
消防などは二の次でよいから、身をもって逃げるということが一番よいと思う。
内務大臣から隣組長などに、「火は消さなくてもよいから逃げろ」と言っていただきたい。

避難を禁止して消火義務を負わせる防空体制を根本から否定している。この大河内議員は、東条英機首相による選挙干渉を議会で批判するなど、時流に流されない立ち位置を維持してきた稀有な議員であった。

これに対し、内務大臣は「焼夷弾に対して市民が果敢に健闘いたしております」「初めから逃げてしまうということは、これはどうかと思うのであります」と答弁。

東京大空襲の惨状をみても、国民を守るための軌道修正をしようという姿勢は皆無であった。

たとえ自衛戦争だったとしても

それから敗戦までの5ヵ月間、全国の地方都市も空襲を受けていくが、政府は「逃げずに火を消せ」という防空法による方針を変更しなかった。

広島・長崎の惨事をみた後には「原子爆弾には初期消火をせよ」という指示まで発していた(過去記事を参照)。

日本が「我が国の権益を守るための自衛戦争だ」という名目で始めた戦争だったが、最終的には、国民が命を捨てて国を守るよう命じられた。

たとえ自衛戦争だったとしても、国民を守るのではなく、国民が犠牲となって国家を守るという意味での「自衛」だったように思う。

こうした過去の事実は、現代の私たちにも示唆を与える。

憲法改正や自衛権行使のあり方が問い直されているが、もし将来、国家の自衛のために国民が愛国心をもって「国を守る義務」を負わされるとすれば、それは過去の歴史の繰り返しになってしまう。

自民党が2012年4月に発表した憲法改正案は、国民は誇りと気概をもって自ら国を守るものだと明記している。それが道徳となり空気となることが恐ろしい。

かつて日本政府は「戦争には必ず勝てる」「空襲の被害は軽微だ」という嘘を重ねた。それが国民総動員の原動力となった。

今の政府は、同じような過ちを繰り返さないだろうか。

ニュースをみれば、資料の廃棄(南スーダン自衛隊派遣、加計学園問題)や、不適切な比較資料(裁量労働問題)など、不都合な事実を隠蔽しているのではないかと疑わしい事態が繰り返されている。

こうした体質の政府が「非常事態だから自衛のため武力行使をする」というとき、国民に向けて正しい情報と判断材料を提供するだろうか。もし疑問をもっても、特定秘密保護法が壁となって事実を知ったり知らせたりすることは困難なのではないか。

あらためて、戦争は国民に何をもたらすのか。政府は国民を守るのか。過去の事実から学ぶべきことは多いように思える。

拙著逃げるな、火を消せ!―― 戦時下 トンデモ 防空法には、戦時中の写真・ポスター・図版を200点以上掲載している。本稿で触れた帝国議会での審理や、当時の新聞記事も豊富に掲載している。敗戦へ向かう社会の空気を感じ取っていただければ幸いである。

 

 

 


虚をつかれた日本政府、「韓国政府に敬意」-【米朝首脳会談、発表】…安倍首相は4月訪米 2018.3.9 HANKYOREH 

2018-03-10 14:15:04 | 外交、国際

 日本政府、置き去り懸念=電撃発表「寝耳に水」-米朝首脳会談:時事ドットコム...
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トランプ米大統領が北朝鮮の金正恩朝鮮労働党委員長と5月までに会談するとの電撃的な発表は、日本政府にとって「寝耳に水」だった。
 安倍晋三首相は発表直前に大統領と電話会談し、日米の結束をアピールしたが、政府内では日本だけが置き去りにされかねないとの懸念も出ている。 「グッドニュースがある」。大統領が首相に報告を始めたのは日本時間の9日午前9時前。ホワイトハウスを訪れた韓国政府高官が大統領の意向を記者団に明らかにするわずか20分前だった。

 

 

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韓国政府に敬意?評価?

北朝鮮に圧力をかけ続けろ!としか頭にない首相、外務大臣は何処の国だ!!

外交力で韓国に完敗したことを正直に認めろよ!!!

 

虚をつかれた日本政府、「韓国政府に敬意」…安倍首相は4月訪米

HANKYOREH http://japan.hani.co.kr/arti/international/29986.html
登録:2018-03-09 23:21 修正:2018-03-10 07:35
朝米首脳会談、発表直後にトランプと通話 
「米日“最大圧力”の立場に変わりない」 
日本外相「韓国政府に敬意」異例の表現
 
 安倍晋三首相//ハンギョレ新聞社

 
 9日、朝米首脳会談の発表に日本の河野太郎外相は記者会見を行い、「韓国政府の努力に敬意を表したい」と話した。安倍晋三首相も「こうした変化を評価する」として歓迎の立場を出した。

 河野外相は、北朝鮮の首脳会談提案は「日米韓が緊密に連係した最大限の圧力の成果だとして「今後、北朝鮮が完全で検証可能で復帰不能な方法で核・ミサイル放棄を実現するまで、最大限の圧力を継続して行く」と話した。

 「最大の圧力」を言いながらも韓国政府に敬意を表わすと言ったことは、それ以前まで安倍首相らが「北朝鮮の微笑み外交に惑わされるな」として横やりを入れていたことから大きく変化したものだ。
 日本は、平昌(ピョンチャン)冬季五輪を契機にした南北関係の雪溶けと金与正(キム・ヨジョン)北朝鮮労働党副部長らの訪韓に露骨に警戒心を示してきた。河野外相は、態度が急変したのではないかという記者の質問に「今まではそうしたそぶりさえ見られなかった北朝鮮が、制裁の影響でそのように言い出したということは、非核化に向けた具体的行動につながりうると評価した」と説明した。

 こうした変化は、南北首脳会談に続き朝米首脳会談にまで合意して、もはやその流れを無視できなくなったためと見える。日本国内では、会談局面に組み込まれず「ジャパン・パッシング」が起きれば、日本人拉致被害者や北朝鮮の核・ミサイルの射程距離問題から疎外される可能性があるという憂慮が出ている。
 米国が自国に到達できる大陸間弾道ミサイル(ICBM)の廃棄だけに集中し、日本を射程圏内に置くミサイルの問題はないがしろにしかねないということだ.

 安倍首相は、チョン・ウィヨン大統領府国家安保室長のホワイトハウス発表直後に「北朝鮮が非核化を前提に対話の意志を表明した。こうした変化を評価する」と話した。彼は、この発表の直後にドナルド・トランプ米大統領と通話したとして、4月に米国を訪問すると話した。トランプ大統領に会って「北朝鮮の核・ミサイル問題、(日本人)拉致問題解決のために、いっそう緊密に協力していく」と述べた。
 安倍首相は、訪米時に対北朝鮮制裁と圧迫を簡単に解かないことを要求するものと見られる。彼は「核・ミサイルの完全で検証可能で復元不能な廃棄のために、北朝鮮が具体的な行動を取る時まで最大限の圧力を加えていくという日米の立場には変わりがない」と述べた。また「日米は今まで、そして今後も、100%共にするという点についてもトランプ大統領と意見が一致した」と明らかにした。

 

東京/チョ・ギウォン特派員 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
http://www.hani.co.kr/arti/international/japan/835349.html韓国語原文入力:2018-03-09 20:57
訳J.S
 

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文大統領の支持率急上昇 約2カ月ぶり70%台=韓国ギャラップ

- 世論調査会社の韓国ギャラップが9日発表した調査結果によると、
文在寅(ムン・ジェイン)大統領の支持率は前週より7ポイント急上昇し71%となった。
ここしばらくは60%を推移していたが、約2カ月ぶり70を回復した。
支持率は4ポイント下落の22%。調査は6~8日に全国の成人1005人を対象に実施された。
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ハンギョレ新聞 2018.3.10
パッシング~朝米首脳会談

自動代替テキストはありません。