マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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野遊び②in矢田丘陵・大谷口池

2013年09月20日 09時24分00秒 | 自然観察会
今年度2回目の野遊び自然観察会。

週刊天気予報ではこの日は雨だったが朝から晴れ間の空となった。

美しい青空が広がる。

4月初回に参加できなかった保護者の人たちはこの日が初めて。

ワクワクする気持ちで来られたのだと思う。

集まった家族は子どもたちが24人ほど。

保護者は14人だ。

スタッフは9人。全員が揃うことはなかなか難しい。

集合場所は大和郡山市の施設である少年自然の家。

駐車場も満杯だ。

BS団体もあるが、何人かは自然の家を通り抜けていく。

どうやら矢田小学校グランドで行われる少年野球の人であるようだ。

受付の場は臨時的。申しわけないが「農場歌」が書かれている碑辺りとさせていただいた。



経営傳習農場卒業生一同が昭和38年9月に建之された「農場歌」には歌詞がある。

「大和平野の西北に 希望に燃ゆる若人の 集いは固く明朗に 明日の日本を背負い立つ 明日の日本を背負い立つ」である歌碑は「川中萬治先生頌徳碑」とあった。

奈良県立経営傳習農場は農業大学校の前身である。

受付を済ませて観察会における心構えを伝える。

「たんぼの姿はお百姓さんの営み。邪魔、迷惑をかけないように行動しましょう。子どもをほったらかしにしてメールをするのはとんでもない。親子で観察するのが第一。捕虫網で捕えた昆虫類は観察すればその場で逃がしてやる。生き物の生態系を崩さないよう、迷子にさせないように・・・。何故にこの場で生息するのか、観察をするのが主眼。心して行動していきましょう。」と伝えて出発した。

アサマイチモンジチョウが飛んでいたがシャッター押す前に飛んでいった。



アメリカフウロは白い花。

種は弾けて周囲に飛ぶ。

伸びる子にノビルの一枚。



語呂合わせと思ってシャッターを押した。



ツボミオオバコの葉には毛がある。

田んぼの荒起こし。



耕運機が描き出した直線が面白くてシャッターを押したが、どこで回転したのであろうか。

スイカズラは甘い香りのジャスミン。



漂う芳香はとても心地いい。

盛んにメモを書き残す子どもたち。

新しく参加された親子さん。



子どもさんだけでなく親のほうも実に熱心で、視線がクギ点けになっている。

覚えたての文字でメモを取る姿を見ていると微笑ましい。

観察会を通じて成長していくことであろう。

コゲラ、ウグイスが鳴く。



手の中のコメツキムシがひっくり返る。

コンニャクの花は臭いがあるが・・・。



テンナンショウの一種である。

オオトビサシガメはゾウムシのような長い口。



刺すと痛い口はまるでカマのような形だ。

花後のギンラン。



一週間前の下見では美しく咲いていたそうだ。

トノサマガエルも久しぶり。



よっ、元気かと云いたくなった。

ムギの栽培をしていた農家。



滅多に見られなくなった大麦であろうか。

ホトトギスの鳴き声が聞こえる。

夏の訪れを感じる鳴き声だ。



ベニカミキリムシは赤い。

幼虫コバチ。

生みつけたタマゴが孵化した幼虫もおればサナギ化したものもあった。



寄生虫のコバチはオオシマカラスヨトウガに寄生した。

初めて見た虫が虫への寄生の在り方。

自然界は人間の身体へも生みつける体験談を聞いて恐ろしさを感じたのである。



赤い実をつけた白い花はオオアリドオシだ。

ジョウカイボウ或いはジョウカイボンと呼ばれる昆虫。



ジョウカイボンとは変わった名前だ。

それは平清盛の別名であって、出家して坊さんになったときに法名浄海坊と名乗った。

浄海坊はあるときに高熱におかされて身体が熱くなった。

その後に亡くなったという。

ジョウカイボンは火傷をするぐらい熱いといわれてきたことから「浄海坊の熱病」が転じてジョウカイボンと呼ばれるようになった。

ところが犯人(昆虫)は別にいた。

実はアオカミキリモドキだったというのである。

シュレーゲルアオガエルは妊婦さん。



腹ボテであろうかお腹が膨らんでいる。

大谷口池は久しぶり。



静かな湖畔の美しい池に見惚れる。

雨が降るやもしれない時間帯。

早めの昼食を済ませる池の畔。

風もなく静かな佇まいの池にはカイツブリが泳ぐ。

昼食の場では、「ピューーー コチジャン」と鳴いているように聞こえたウグイスの鳴き声。

遠くからは「コッチコイ コッチコイ」と鳴くコジュケイもいるが、姿は見えない。

ずいぶん昔に拝見したハルリンドウを探しましたがやはり見当たらない。

絶滅したのであろう。



ヒメウラナミジャノメが飛んできた。



もう一つの昆虫はホソヘリカメムシの一種だ。

花を求めて飛んできたコチャバネセセリ(セセリチョウ)の文様が面白い。

ゴールデンウイークの日に探していた苗代に立てるお札。

その期間には見当たらなかった。

いつ立てたのか、田の持ち主は不在。



おそらく矢田坐久志玉比古神社のお札と思われる。

添えた花はアヤメであろう。



戻る道中で拝見した黄色い花のミヤコグサ。

キショウブの群生もあった。

かつての観察会においても拝見したキショウブ。

ここでは毎年咲いているのだろう。

地蔵さんに手を合わせる母親。

熱心な姿はここにも現れる。



「地蔵さんを見ると思わず手を合わせるんです」と云う母親の姿に感動する。

ウメの実が成っていた帰路の途中には雨もポツポツ降りだした。



大雨にあたらず着いた少年自然の家。

2年前はどしゃぶりにあいましたが、今回はギリギリセーフだ。

先日は沖縄地方が梅雨入りとなった。

一週間もすれば畿内もそうであろう。

5月27日には九州、四国が梅雨入り宣言された翌日の28日には近畿圏も梅雨入りした。

平年よりも10日も早い梅雨入り。

予想は当たったのである。

当たったかといって喜んではいない。

それから数日後はしょぼい雨降り。

田畑も湿らせない模様である。

その後はピッタリとして降らない天候はなんと2週間も続いた6月10日。

本格的な梅雨入りである。

(H25. 5.19 EOS40D撮影)

大和郡山のわらべ唄から

2013年09月19日 06時51分40秒 | 民俗あれこれ
大和郡山にわらべ唄を存じているなら教えてほしいと電話があった。

大和郡山城ホールの関係者であるTさんからのお願いである。

かつてわらべ唄など矢田の民俗を調査されていたやまちゃん先生。

Tさんもよく存じあげている先生だ。

今月初めに帯解で立ち話した中にわらべ唄があった。

あったと云っても中身は存じていない。

聞き取り、および機械で収録した中村垣内の高齢者が唄っていたわらべ唄は一式すべてを教え子のA子さんにあげたのである。

そんなことでTさんの願いは叶えることができなかった。が、である。

何年か前に調べていた大正四年調の『奈良県風俗志抄』。

1007~1032頁には郡山町、矢田村、片桐村、筒井村、本多村、平端村、安堵村、平和村とあるのは何故か郡山の東隣村の安堵もあった。

それは拝見していないが、郡山市史に興味深いことが書かれてあったことを思い出す。

柳澤文庫にあった史料を拝見したくて立ち寄ったが、この日は調査日で断られた。

そういや郡山図書館にあるのではと思って舞い戻った。

受付でTさんの要件を伝えて拝見した郡山市史。

たしかこの頁にあったと思ってめくってみた。

「民話・その他(1020~1024頁」に収まっていた唄にはわらべ唄はなかったが、数々で唄い続けられてきた地唄がある。

「田植唄、臼挽き唄、カラサブチ唄、水替え唄、枠繰り唄、機織り唄、餅搗き唄、伊勢音頭、伊勢参り、盆踊り唄、住吉踊り、松坂踊り、さえもん踊り(六斎念仏)、ざわざわ踊り、子守唄、手まり唄」である。

なかには悪口唄とか物を数える文句が記載されている。

「くるくる回るは車町 おかゆのけんかは大工町」や「岡町ウラのタニシひろい」もある。

「東椎木の椎の木に白サギ四羽とまって 猟人がひなわてっぽうでねらんだら シガシ(東)へしわしわ飛んでいった」という唄もある。

悪口唄と云うのは隣町に対して揶揄する台詞であったのだろう。

Tさんが生まれ育った筒井に神さんが通る道と云われる砂の道を敷いていた。

家の玄関までである。砂は佐保川まで採取しにいった。

モッコと呼ばれるズタ袋に入れて担いで運んだ。

それを撒いていたと云うのであす。

(H25. 5.18 記)

當麻の武者絵大幟

2013年09月17日 08時27分35秒 | 葛城市へ
昨日も暑かった。この日も暑い日となった。

気温は30度(奈良市・五條市で31.2度)をも超えた全国的な夏日である。

熱中症に注意してくださいとテレビでは報じるが、たまらないほどの暑さに頭がぼやーっとしてくる。

自宅でじっとしているだけでも汗が噴き出る日だ。

染野の傘堂から下っていけば當麻寺の集落が右側に見える。

この日は當麻寺の聖衆来迎練供養会式。

中将姫を偲ぶ練り供養である。

菩薩の導きで生きたまま極楽浄土で往生する姿を具現化した会式である。

毎年訪れる観光客が多くなり、この年は1万人にもおよぶと報道ニュースで伝えていた。

この日は「當麻のレンゾ」と呼んでいたのは染野の住民。

「レンゾ」を充てる漢字は「連座」であろうと話す。

同じように「當麻のレンゾ」と呼んでいたのは大和郡山市の額田部に住むSさんは85歳。

母親の出里が竹之内だった。

そこからはほんの近くになる當麻の里。

子供の頃に連れられて親戚家へ出かけた。

集まった親戚中はレンゾの食事をよばれてからお練りを見にいっていたと話していた。



今でもそのようなレンゾの日を楽しんでいる家があるのかどうか判らないが、ふと見上げた集落の一角に立てていたコイノボリ。

それより向こうに見えるのが當麻寺の三重の塔である。

目を凝らしてみれば並んで立てた支柱には大幟があった。

奈良県内では珍しい武者絵の大幟である。

武者絵の幟は江戸時代までの主流であったようだ。

大和郡山市の番条町の住民が書き遺した『我が家の年中行事とその食べもの』が手元にある。

昭和63年(1988)に発刊されたN家のふだんの生活史である。

5月の節句に毎年揚げたコイノボリ。

その記事中には筆者の自宅に残された大幟の写真がある。

筆者の父親のときのもので絵柄は武者絵だ。

当時は鯉のぼりではなく、武者絵の大幟を立てていたと伝わる。

その幟の下部には申のぬいぐるみを付けて錐にしたそうだ。

戦中、戦前の様子だと思われる武者絵の大幟は県内各地であったろうと推察される記録である。

遠目に映える武者絵の図柄を肉眼で拝見したく、立ててあった家を訪ねた。

突然の訪問にも関わらず教えてくださったご主人は當麻お練りの菩薩講。

お練りをする仏さんに手を添えて歩く役目だそうだ。

8年前に当家に長男が生まれたときに立てた鯉のぼりの支柱は吉野山から伐り出した葉付きだったと話すご主人。

翌年には羽根車に替えるも、毎年掲げてきた鯉のぼりの支柱は傷みが激しくなって、山から吹き下ろす夕方の強い風で倒れそうになってきた。

危険な状態になった鯉ノボリの支柱はこの日が最後のお披露目。

當麻レンゾの日をもって幕を下ろすことにしたと云う。

前日からミニ展示をすることになった県立民俗博物館の館内には大きな幟が立った。

すべてを見ることができないくらいに長い代物はやはり武者絵の大幟。

それとよく似ている大幟が現実に見ることができる千載一遇のチャンスを逃してはならない。

そう思って訪問させていただいたのである。

吉野山の杉を伐り出して運んだトラック。

あまりにも長い木の支柱は30mほど。

荷台には載りきらず、布切れを付けて運んだが、集落までは入ることができなかった。

トラックが停められる場所で下ろしてレッカークレーン車で吊りあげたと話す。

最初の年は杉の葉をつけたまま鯉のぼりを揚げた。

翌年にはそれを伐りとって羽根車に取り替えた。

それから8年間に亘って立ててあった幟は當麻の景観を融合するかのように映し出していた。



「屋根よーりーたーかーいー・・・」と唄っていた幼稚園児も思い出になることであろう。

二つの幟は弟の姿が写るのであろうか、父親の傍にいたお姉ちゃんが目を輝かして笑顔で応えていたことが印象深い。

弟の大幟。実は奈良県産ではなく、九州である。

仕事上に関係があった工場がある九州で拝見した武者絵幟に惚れこんで鯉のぼりとともに立てていたと話すご主人は読売テレビの「「かんさい情報ネットten」で取材を受けた。

17日の放送でその様子を拝見したご主人にこの場を借りて御礼申し上げる。

(H25. 5.14 EOS40D撮影)

染野の傘堂祈願

2013年09月16日 08時24分06秒 | 葛城市へ
この年はホトトギスの鳴き声を聞くことがなかったが、ホオジロ、コジュケイが鳴きさけぶ。

染野の大池には家禽のガチョウそれともシナガチョウであろうか。

気持ち良さそうに水面を動き回る。

後日に判った水鳥は褐色タイプの「支那ガチョウ」だ。

突きだすような大きな鼻コブが特徴である。

支那ガチョウは夫婦の絆が強いと云われる。

そういうことから中国では新婚夫婦にプレゼントするらしいが、実は逆にカップリングが難しいとされる。

3年ぶりに訪れた葛城市染野の山麓下の大池(おいけ)の傍らに建之された特異な形のお堂がある。

一本の柱で支えたお堂は、その姿から傘堂と呼ばれている。

大和郡山藩主の本多政勝の家来であった吉弘統家(よしひろのりいえ)が、主君の菩提を弔うために延宝二年(1674)に建立した。

正式には「影堂」または「位牌堂」である。

その一本柱の建築構造は極めて珍しい。

傍らには元禄九年(1696)に建之された墓標もあり、「俗名 吉弘甚左衛門之尉統家」の刻印がある。

この場において毎年行われている八朔法要がある。

かつては8月1日であったが、新暦の9月1日の営み。

いつしか9月初めの日曜日になった灌漑の大池を造った際に土木工事で亡くなった人を弔う法要である。

法要はともかくこの日は傘堂に参拝者がやってくる。

訪れる人たちは、県内はもとより和歌山、神戸、大阪、京都からもやってくる。

時間は特に決まっているわけでもなく、参拝者が選ぶ自由な時間帯。

最初に訪れる時間帯はおよそ9時ごろ。

お顔を拝見すれば平成18年22年にもお会いした男女4人に二人連れ。

来年で満願成就するという正方形の白いさらし布。

何枚もあるという。

男女4人組はかれこれ30年間も参り続けてきた。

成就したさらし布は枕の下に敷く、或いはお腹とか、身体の悪い処にあてると云う。

さらし布を腰につけて傘堂をぐるぐる回って願掛けをする。



四角い柱に向かって一礼、身体を反転して一礼して手を合わせる。

時計回りに三周して願掛けを終える作法は特に決まりはないようだ。

それぞれの思い思いで作法する願掛けはシモの世話にならずに極楽往生したいという安楽信仰である。

一年、一年参って五年目に満願成就のご朱印は傘堂を見守ってきたN氏と奥さんが受付をしていた。

初年は離苦生安楽の”無病祈願”で、2年目は”正念祈願”だ。

3年目は”晴朗祈願で、4年目になって”神祇祈願”。

5年目ともなればお礼参りの”廣済衆厄難”で満願成就する。

楽に往生できるようにと願いをかけるさらし布の朱印押しをされていたが、平成24年が最後になった。

受付を始めたのは30年以上も前のこと。

それ以前は傘堂の隣の家の座敷を借りて受付をしていた。

雨が降ったり、風が強いときはそうしていた。

その後は傘堂の傍でテントを張って受付をしていた。

自由に参拝は辛かろうと石光寺の先代住職が形式を調えて法要をしてきた。

その先代住職の弟さんがNさんだった。

平成22年に訪れたときに話していた身体の具合。

その後において悪化し、80歳の天寿を全うされた。

この場で出合ったNさんを弔って傘堂で合唱する。

そんな姿を捉えた知人の写真家の写真。

ありがたいひとこまである。

前年まで行われていた石光寺住職による法要もなくなった。

受付の場もないこの年の「傘堂祈願」。



うろたえる参拝者のために掲げたご朱印の案内がある。

ぽっくり信仰は民間信仰。

自由な参拝はこうして元の状態に戻ったのであるが、ご朱印は場を替えて継承されることになった。

N家は石光寺の檀家。

奥さんは引き続きお寺でしているそうだ。

傘堂柱の一角には金銅仏の阿弥陀さんを安置し、五色の幕も揚げる。

それは石光寺の心の設え。

かつては幕もなかった。

参拝者たちが人目に晒されないようにという石光寺の心配りは今後も続けられるであろう。

参拝者の波が途切れた間は前述した大池を巡っていた。

展望が素晴らしい景観を拝見して下ったときのことだ。

汗びっしょりになって山を下ってきた男性と染野のことを話してくださる。

数分後にお互いに気がついた面識あるご主人は染野のWさん。

大池の八朔法要取材でたいへんお世話になったことを思い出した。

しばらくは3年ぶりの歓談だ。

再び戻った傘堂には婦人たちが訪れていた。

大阪府の東大阪や河内長野・滝畑、吹田などさまざま。

誘われた友人らとともにやってきたと云う。

途切れることなく次から次へと訪れる参拝者である。



傘堂内に入って柱に向かって手を合わせる。

反転して手を合わせる願掛け。

腰に付けたさらし布は信仰の印し。

家族の人数分も纏めて拝んだ人もおれば、友人の分も。

場合によっては亡くなられた人の顔を思い起こしてという人も。



願を掛けて叶えてくれた下半身を柱に押しつける。

その際には名前と住所を告げて手を合わせているという人も居る。

願掛けの作法は人それぞれであるが、今後も廃れることなく未来永劫まで継承されていくことであろう。

(H25. 5.14 EOS40D撮影)

修理枝の植え初め

2013年09月15日 08時25分15秒 | 桜井市へ
小夫からはほんの近くにある隣村の修理枝。

氏神さんは八王子神社である。

2月初め頃に行われる年初めの行事に「ケイチン」がある。

祈年祭に奉るのはシキビや藁で作った牛の角のハナカズラである。

ハナカズラは小夫天神社の形容と少し違っている。

二股にしたハナカズラの形からかも知れないが、Yさんはワラ人形と呼んでいた。

田植えを終えて戻ってきたもう一人のご主人。

昨年の11月で行われた新嘗神綱祭で教えを請うたご仁である。

ハナカズラの植え初めをされた場所は、と尋ねた結果は「忘れた」と云って笑顔で返された。

北の方角にある田んぼでは若い人が挿し苗をしている最中で、傍らにはケイチンでたばったハナカズラがあるはずだ。

場所は古い瓦を積んでいる処を曲がった先であると教えられて急行した。



Yさんが云ったとおりの田んぼに居られた男性は東京から一時帰京して挿し苗をしていた。

ビジネスマンであるゆえなかな故郷に戻るころはできないが、節目、節目に戻っての稲作に精をだす。

メタボ対策にもなると話す男性は3年前から始めた農作業。

最近までケイチンのハナカズラの意味を知らなかった。

何に使うのかも知らなかったが、授かった以上は保管しなければと思ってまとめて家に置いていた。

植え初めのハナカズラは豊作を願う作法であると知って供えたと云う。

3年分だから3本もあったハナカズラは、5月2日に3枚の田に置いたと云う。

修理枝ではほとんどが田植え時期の12日。

次の機会があればゴールデンウイーク明けの日曜になるそうだ。

(H25. 5.12 EOS40D撮影)

小夫の植え初め

2013年09月14日 08時52分10秒 | 桜井市へ
県道沿いにあったウメゾメの印しは御田祭で奉られたハナカズラと松苗であろう。

小夫天神社で行われる今年の御田祭は2月17日であった。

おそらくはKさんの田んぼであると思われるが、先年から場所が移っていた。

田植えを始める場所はその年、その年によって異なると話していたのでそうだと思うのである。

(H25. 5.12 EOS40D撮影)

大塩の農行事

2013年09月13日 09時17分17秒 | 楽しみにしておこうっと
山添村の大字大塩を訪ねた12日。

歳神さんを迎えるフクマル正月の祝い膳、キトラデ垣内の山の神、家族揃ってのブトノクチ焼きなど一連の民俗行事を取材させていただいたK家である。

婦人の話によれば5月5日の朝8時から田植えを始めたと云う。

その際に行ったウエゾメ。

カヤは12本で、煎ったマメで炊いたご飯を入れたフキダワラも12個。

ミツバツツジの花を添えて行ったウエゾメの儀式である。

ツキノカズノダンゴと同様の数の12本である。

新暦の閏年の場合はそれぞれ13本にすると話す奥さん。

すべての田植えを終えればウエジマイ(植え終い)はしていないが、かつては一束のナエサンを竃に供えたそうだ。

ナエサンにはキナコを塗したご飯も添えていたと云う。

同大字に住むYさんも5月5日の朝8時から田植えを始めたそうだ。

ウエゾメには束括りにしたカヤやフキダワラにお花を添えて祭ったと云う。

フキダワラの中身はエンドマメゴハン。

祭ってから中身を広げてその場で食べたという。

Yさんが続けて話した「ブトクスベ」。

平成17年に亡くなられた母親が作っていたブトクスベ。

端切れの綿生地を丸太のような形にしてワラでぐるりを巻いていく。

梅雨が明けた頃から虫が湧きだす夏場。

虫が多く出てきて農作業がしにくいから使っているブトクスベは、それ以降、秋の稲刈りが終わる頃まで使っている。

虫除けのブトクスベは数本が残っている。

母親の遺産である。

昔ながらのブトクスベは腰のベルトに挿す。

女性の場合は手にもってである。

火を点けたブトクスベはじわじわと燃えるが火は出ない。

煙が発生するのだ。

その煙の威力は蚊取り線香よりも利くと話す。

ご主人が話すブトクスベの形は県立民俗博物館で展示された春の企画展「お米作りと神々への祈り」の「ブトクスベ」そのものである。


(H25. 4.27 SB932SH撮影)

ウエゾメ、ウエジマイ、さらにはブトクスベまでも含めて山間部の各地で今でもされているのだろう。

聞き取りおよび実地調査は早めていかねばならないと思った日である。

(H25. 5.12 聞き取り)

チゲ風味のこれぞワンタン!というくらい餡をたっぷり包んだワンタン麺

2013年09月12日 07時02分56秒 | あれこれインスタント
「これぞワンタン!というくらい餡をたっぷり包んだワンタン麺」の長い名がついたワンタン麺はチゲ風味。

明星食品のカップ麺を車中で食べる。

山間にでかけても食事処は見つからない。

そういう場合はお店で買っておいた保管食を持参する。

待つこと4分。

シコシコの細い麺は、なぜか太く感じた麺はつるつる麺。

喉越しが良い。

ワンタンは四ツで大き目。



餡がたっぷりと云われるがどれと比較してのものなのか判らない。

出汁はワンタン味を引き出すのではなく、チゲ風味が利きすぎるぐらいに辛い。

この日は夏日。

林に囲まれた場所に停車しての車中食に汗が噴き出す。

豚、鶏をベースにした出汁というがそれほどでもない。

ニンニク風味も感じられず、チゲ風味が勝っているのか食欲をそそる「味」を感じない。

むしろパンチが魅力なのではと思った。

寒い時期にふーふーしながら食べるもの。

夏には不向きのチゲ風味だった。

(H25. 5.12 SB932SH撮影)

誓多林の行事が変容する

2013年09月11日 07時01分19秒 | 奈良市(東部)へ
山田町、長谷町を渡り歩いた。

歩いたというわけではなく車で行脚である。

昨年の4月中旬にはミトマツリ、5月初旬は田植え初めのサビラキをされていた誓多林住民のN家を訪れた。

いずれも終えたN家。

ミトマツリの場は変わりないがサビラキで挿した笹は位置が替った。

笹には御幣や田造りを中に入れたフキ葉は変わりない。

夫妻が話すには3月に行われる彼岸講のオコナイに変化があると云う。

オコナイで作法されるウルシ棒がある。

この年も取材をしたオコナイではウルシ棒で縁叩きをいていた。

ウルシにかぶれるからと手袋をはめての作法である。

どうやらこのウルシ棒を止めるらしいと云うのだ。

そうなればミトマツリで立てたウルシ棒が消える。

仕方なくプラスチック製の支柱にせざるを得ないと云う。

そうであれば縁叩きはどうするのかと聞けば、竹である。

少しずつ変容する村の行事の在り方である。

そういえば4月13日に大野町の十輪寺の落慶法要でお会いした上誓多林住民のⅠさんが竹を探してでもミトマツリをしなければと云っていた。

そういうことなのか。

その上誓多林では春の土用入りから十数日間にかけたある日にサビラキをしているそうだ。

N家ではされていないが、稲刈りが終われば「カキヌキ」にアカメシを神さんに供えているという。

「カキヌキ」とは何ぞや。

昨年の11月初旬に取材した大和郡山市田中町の「カリヌケ」。

稲刈りに使ったカマを箕に納めてアズキメシやアツアゲを供える農家の行事である。

誓多林では「カキヌキ」と呼ばれる行事は「カリヌケ」と同じようである。

(H25. 5.12 聞き取り)