マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

若草山の山焼きに興じる撮影地の確保

2019年05月21日 09時33分18秒 | しゃしん
寒い中、ほんとにごくろうさんだ。

三脚を並べて、撮影ポイントを定める。

早い人は朝から並べたという人も居るらしい。



これを目撃した時間帯は午後4時。

佐紀町の火鎮祭行事の聞取りを終えて帰路に通る道で見た光景である。

この日は、わけのわからない「大立山」イベントがある平城京跡。

その周回道路でもあるから、大型バスが何台も。

常に渋滞状態に車が動かない。

丁度というところに渋滞停車中に携帯電話のシャッターを押す。

若草山の山焼きは午後6時半に打ち上げる花火から始まる。

それまで2時間半後の待ち時間。



えー写真撮ってくださいやぁ、と心の内側で呟く。

かつては私もその中に居た。

尤も撮影場所はここではない。

朱雀門により近い場に出かけたのは平成13年の山焼きだった。

その後の平成16年は祭典会場を・・。

当時はフィルム撮影だった。

フイルムは富士フイルムのトレビ400。

絞り値をF22にセットして9回開放するバルブ撮影。

つまりは多重露光であった。

まったくの勘で開放時間を決めた覆い作業は確か着用していた帽子だったと思う。

待つことに耐えられない山焼き撮影は平成19年を最後にやめた。



今ではまったく関心が湧かない山焼き

もっと重要な民俗に没頭するようになったのもやめた理由であるが・・。

ある人がツイッターに呟いた映像に、えっと思った場所がある。

その映像は東大寺戒壇院前からとらえた若草山の山焼きである。

不思議な光景のように感じたが・・どうでもいい。

(H30. 1.27 SB932SH撮影)

マトウチ所作のある佐紀町の葛木神社を探す

2019年05月20日 08時25分31秒 | 奈良市へ
知人のNさんがご自身のHPに挙げていた行事がある。

彼とはずいぶんご無沙汰しているが賀状のやり取りは続けてきた。

今年の賀状のコメントに「今年は5歳になる戌年生まれになった」と伝えていた。

5歳の戌年とは・・・。

彼らしい年齢の表現である。

戌年生まれに違いない。

5歳ということは・・今年は戌年。

繰り下がって数えて5×12干支になるわけだから、ずばり昭和33年生まれの60歳の年。

とうとう彼も還暦を迎えることになった。

仕事が忙しくなってきたからと云ってそれまで熱心に取り組んでいた民俗に関する写真撮りがストップしたままになっている。

尤も6年前に、それを理由に7年も続いている奈良県立民俗博物館で開催している「私がとらえた大和の民俗」の参加を辞退した。

実際は、少しの休みを利用して出かけているかもしれないが、HPの「大和フォト歳時記」の更新は平成25年以降の動きはない。

尤も実態実質は平成18年の更新が最後になっている。

彼が挙げた行事に「佐紀東の火鎮」がある。

男性9人が弓、矢、供物などを手にして神社を出発した。

一行はどれぐらいの距離を歩いたのかわからないが、三つの砂盛りをした地に到着する。

白衣を着用した村神主らしき人が先導役のようだ。

砂盛りすべてに大幣を立てて、空中に向けて矢を放つ。

天を射る作法である。

その次は下方に向けて。

地を打つ矢である。

ただ、興味深いのはその映像にある的である。

的は竹の棒に取り付けた構造。

それを中央の砂盛りに的がむき出しになるように据えている。

その的を目がけて矢を射っているように見える。

所作はそれだけにようだが、これまで県内各地で行われている「ケイチン」行事から推定するに、天、地、東、西、南、北、的の順で打っているように思えるのだが・・。

彼のHPにはその行事に関する記事は書いていない。

ならば、訪ねてみたいと思ってから数年も経った。

彼が「佐紀東の火鎮」をとらえた映像は平成20年の2月2日である。

あれから10年も経過している。思い立って重い腰をあげて、その地を訪ねる。

経過年数を考えれば、何らかの変容があるかもしれない・・。

実は、「佐紀東の火鎮」をとらえたもう一人の知人がいる。

Sさんもまた、前述した「私がとらえた大和の民俗」の参加者である。

彼女もまた「佐紀東町 葛木神社の火鎮祭」を取材していたのだ。

とらえる映像は、Nさんの映像とは違う角度でとらえたものだ。

また、所作をする人たちを神主、八人衆と紹介していた。

本社殿にマトウチ祭具を奉ってお祓い。

八人衆にもお祓い。

時間帯は朝のようだが、陽は昇っているように思える時間帯。

神さんに祝詞奏上されたことは書いていない。

あるのは、大日如来堂で唱える般若心経である。

不思議な在り方である。

また、弓場用に供える御膳桶もある。

弓場で所作をする矢打ちの方角は、天と地に東、西、南、北。

そして、その年の恵方の方角に的へと打つ矢っつの方向とあった。

所作はそれぐらいだが、気になるコメントがあった。

それは、八人衆はいずれ四人になる、ということだ。

取材された日は平成22年の1月31日だった。

Nさんがとらえてから2年の間に変化の前触れが気にかかる。

いずれにしてお二人がとらえた地はどこであるのか。

取材する気になったもう一つのきっかけがある。

今月の1月4日である。

第16回目の写真展をしていたカメラのキタムラ奈良南店でばったりお会いしたFさん。

久しぶりのご対面に驚いたものだが、後日の7日に電話をしてくださった。

それが佐紀町葛木神社で行われる火鎮祭行事であった。

日程、時間を教えてくださったが、生憎のところのダブルブッキングになってしまうので、翌年廻しとさせてもらい断った。

ところが、当初予定であった習俗取材は先方さんの都合でできなくなってしまった。

ならば、と思い起こして出かけた佐紀町葛木神社の所在地探し、である。

ネット地図に載っていた神社の所在地。

どこらへんになるのか、すぐにわかった。

当地西にある神社行事のいくつかは取材したことがある。

ところが東になる葛木神社は、まったくもってこれまで行ったことのない地であるが、その地よりさらに足を伸ばした東の地に「水上池」がある。

この辺りは何年か前に野鳥観察をしていた場所。

馴染みはあるが、池から西の集落は入ったことがなかった。

平城京跡にある第一次大極殿より東にある信号を北に向かう。

その街道は歌姫街道。かつて何度も走った道だから迷うことはない。

さて、佐紀町の集落である。

だいたいの土地感覚があるので、集落に入るが車を停める処が見当たらない。



葛木神社はすぐに見つかったが、どなたも居ない。

冷たい風が吹くなかの人探し。

西に人が動く気配があった。

車を停めて声をかけたが、行事どころか神社も存じないという婦人。

家は神社より西百メートルも行かない地であったが・・。

神社前にある旧家。

呼び鈴がなく、大声を揚げたが、届かなかったようだ。

仕方なく畑地が拡がる南の地に移動する。

たまたま畑の方から携行型荷物車を曳きながら歩いていた高齢の婦人に声をかけた。

火鎮祭のこともご存じであった婦人の話しによれば、行事日を聞けば、二日後の日曜日。

それは村のとんど焼きで朝の6時に点火するという。

そのとんど焼き終えた神社境内を綺麗に掃除してから火鎮祭をしていると話してくれた。

その婦人はすぐ近くの弓打ち場も教えてくださる。

砂盛りは三つ分けではなく、ひと盛りである。



運んできた軽トラの荷台から落としたように見える。

行事をされる八人衆若しくは神主に挨拶しておきたいと伝えたら、現神主は集落南の方だが、わかり難い所におられるので、昨年まで神主勤めをした総代家を紹介してくださる。

だが、残念なことに生憎の不在だった。

明日の午後の時間帯であれば、とんど組みをしているからと云われたが・・。

ちなみにその総代家前の道を北に少し行ったところに掲示板があるからと云っていたので、足を伸ばす。



そこに貼ってあった神社行事の案内は、とんど焼きだった。

ただ、下の方に書いてあった火鎮祭。

午前11時ころということである。

ちなみにここら辺りで駐車できる処はないでしょうか、と尋ねたら、うちの畑の前のここなら停めていいと云ってくださる。

ありがたいお言葉に甘えさせていただくことにした。

このような経緯をFBメールで連絡したFさん。

すぐさま電話を架けてくださる。

とんど焼きは恵方の方角から火を点ける。

現在は1月末の日曜日に移っているが、元々は2月1日にしていたという佐紀町のとんど焼き。

日程的に二ノ正月とんどであった。

そういえば弓打ちの場を教えてくださった婦人は弓を打つ方角はアキの方角。

つまりは恵方に向けて打っているということだった。

こうした恵方を大事にしている佐紀町には伝統的な民俗の匂いがしてきた。

とんど話しをしてくれるFさんが元々住んでいた地もとんど焼きをしている。

その地の日程は1月15日の小正月。

現在は15日に近い日曜日の朝。

サイレンを鳴らして点火を合図する。

この年のとんど焼きは1月14日の朝にしたと伝えてくれる。

現在の彼の住まいは葛木神社のすぐ近くであるが、元々は佐紀町の中町。

住所標記にない町内であるが、歌姫街道筋にはバス停留所表示に中町がある。

とんどの場は大極殿前の道路向こう側の地である。

後日にお会いしたときに話すもう一つのとんど。

それは愛宕講の小とんどであるらしい。

佐紀町・中町に愛宕講がある。

毎夕にお燈明番が廻ってくる。

40軒の廻りだから一年に9回以上。

街道にある愛宕さんに参ってはいるが、火を灯すことはない。

どうやら灯したローソクの火が愛宕さんの祠に燃え移りそうになったことから、火灯しをしなくなったという。

ちなみに“しゅんにちこう”があったという。

上の六人衆の2番目の神主家に集まって昆布茶に饅頭を食べていた。

朝に集まった上六人衆。昼の会食。

夕方の午後4時に牛すき焼きの会食をしていたが、掛軸もなく、ただ食べる会合であった。

今は神主家でなく料理屋に替えた“しゅんにちこう”を充てる漢字は“親日講”。

中町の釣殿神社の年中行事を拝見したことがある。

資料によれば、“親日講”は上・下の六人衆の引退者が2月11日の祭日に集まって、近くの料理屋「なか川」ですき焼きをいただくことになっている。

“親日講”は“しゅんにちこう”と呼んでいる。

“親日講”そのままを発音すれば“しんにちこう”であるが、なぜか“しゅんにちこう”と発音する。

かつては春日神を祭る「春日講(しゅんにちこう)であったかもしれないが、そのことを示す証拠は一切がないらしいとFさんは話す。

電話の話しは佐紀町・中町の話題になったが、気になるのは佐紀町の火鎮祭である。

午前11時と掲示にあったが、念のためと思って翌日の27日も訪れる。

訪ねるお家は現総代家。

前日が不在だっただけに、念のためと思って出かけたら、在宅されていた。

取材をされるなら正確な時間を、と云われて八人衆の2番手に連絡してくださる。

その結果は10時だった。

掲示を信じていたら1時間遅れ。

とうに終わって、途方に暮れていたことであろう。

総代の話しによれば、現在の八人衆は4人組。

廻りの人数が少なくなってきたこともあって、名は八人衆であるが4人で年中行事をしているようだ。

以前の8人の時代は、春の麦寄せ日と秋の米寄せの日の半年ごとに繰り上がる交替制だった。

つまりは一年に二人が抜けて、二人が新参で衆中に加わる。

半年ごとに新加入があるということだから、任期は丸々4年間である。

これが4人制になった現在は、12月2日の米寄せの日に繰り上がる。

新参は4年間務めて卒業すれば総代になる。

総代になる一年前は神主。

神職業ではない村神主である。

その次を継ぐ2番手は大日さんの役になるようだ。

ちなみに「麦寄せ」は二毛作時代の名残。

麦、米の収穫ごとに新参が加わり、村神主が引退していくという仕組みだった。

一年に3回が大祭。

そのときは漢国神社の宮司が出仕される。

春は佐紀町葛木神社の本家本元に御所市にある金剛山頂に鎮座する葛木神社にお参りをする。

参拝するのは村神主を含めた八人衆である。

参拝の時期はなぜか山頂目指して駆け上がるマラソン大会と同じ日にちになるらしい。

今のとんど場は神社境内であるが、かつては神社より西に数百メートルの地。

舗装のない時代は、農小屋の辺りでしていたという。

その当時は大とんどであったが、境内の樹木に火が移らないように小さくした。

また、延焼しないように年に一度は業者に発注して伐採してもらっている。

境内の掃除も八人衆の分担作業。



この日も実に綺麗にされていた。

とんどの火点けはとんどから見て恵方の方角。

この年は南南東になるという。

弓打ちも同じく恵方の方角に向けて矢を打つ。

その矢は話しの様相からススンボのような細さだと思えた。

矢を採取していた北方の竹林。

伐採してしまったのか、矢竹が生える場は消えた。

仕方なく、今では弓も含めて、行事が終わってからも保管して、翌年に使い廻しをしているそうだ。



ちなみに話してくださった現総代さんは現役のオートバイレーサー

専用のガレージに十数台もある。

立ち姿がなんせ格好いいし、精悍な表情だったことを付記しておこう。

(H30. 1.26 SB932SH撮影)
(H30. 1.27 SB932SH撮影)

ハッスル5大和郡山店売りの福田屋柚子皮入り赤かぶ甘酢漬け

2019年05月19日 09時15分25秒 | あれこれテイクアウト
赤かぶの漬物があれば目が必ずいく。

そして手が伸びる。

製造販売元が㈱福田屋であれば、必ず買う。

それほど病みつきになった福田屋の漬物がむちゃ美味い。

食べても、食べても飽きない味。

袋を開けて器に盛ったその晩にすべて食べつくす。

他の漬物商品であれば、そんなことはない。

たいがいは半分、あるいは1/3程度が残るのである。

ところが福田屋の赤かぶ漬けは美味すぎるから、その晩になくなっちまうから2袋を買う。

買ったお店は矢田町にある卸値市場ハッスル5大和郡山店。

以前にお願いしていた入荷よろしくが伝わったのだろう。

(H30. 1.26 SB932SH撮影)

祝・石木-城線開通

2019年05月18日 08時55分08秒 | 移設道路工事
撮影したのは1月25日であるが、本日28日の午後2時に開通した。

当地へ越して来て早やくもないが、30年以上も経って、ようやく開通した石木-城線。

奈良市の石木町から南の大和郡山市城町を結ぶ幹線道路である。

幹線道路の用途はもともと奈良市の押熊町にまで延ばす計画であった。

土地買収の課題もあったが、周辺道路の拡張や新路線の開通によって、これまで難儀していた渋滞があっさりと消えてしまった。

路線は必要としなかったが、新しく建てられる奈良県立病院の移転先が決まったことで、方針は大転換された。

奈良県立病院は4月に移転、5月1日に開院する段階で名称は奈良県総合医療センターに生まれ変わる。

幹線道は新設する病院導入路でもあるし、富雄川沿いに走る道路にも繋げる幹線道路は大和中央道のバイパスのようなものだと思う地元住民である。

これまで見たことのないような景観になった。

過去の映像は記憶が霞んでしまうほどのぶっとび変容であるが、慣れるのは数日であろう。

ちなみにここは十字交差点の城町北。

幹線道路を渡るには押し釦式信号器がある。



徒歩、自転車の人は押しボタンを押して青になるのを確認するが、バイクや車は停車して左右に顔を大きく振って往来する車の動きを見なくてはならない。

停車する車を自動感知する信号器を望んでいたが、実行されないと伝わった風の便り。

事故が発生してからでは、もう遅い。

通行量を計測する予定はあるのか、ないのか・・・。

その結論は翌年の平成31年3月まで待たねばならない。

(H30. 1.25 SB932SH撮影)

吉隠・結鎮祭は中断したが前年祭具は残された

2019年05月17日 09時26分42秒 | 桜井市へ
旧暦の1月8日に行われてきた桜井市吉隠の春日神社行事。

祭祀してきた5軒の特定家の営みは宮座行事。

朝の8時に参集して神饌などを調整する。

神饌ものは弓矢に松苗。

それと春日神社の文字がある護符作りである。

護符は「牛玉 春日神社 寶印」。

いわゆるごーさん札である。

午前10時にケイチン弓打ちをする。

ケイチンは“結鎮”と書いてそう呼ぶ神事ごと。

梅の木で作った弓にススンボで作った矢を射る行事。

続いて行われるオンダ祭の所作は、籾撒きに松苗植え。

座中に斎主の桑山俊英宮司が所作される。

直会はヨバレの座。

祭りごとを終えた弓矢に松苗とごーさん札は玄関軒に飾ると聞いたのは前年の平成29年4月14日

庚申講の営みを調査にやってきた吉隠。

動きはわからなかったが、ある家が玄関に飾っていた弓矢を目撃したことから同家のご婦人が話してくださった宮座行事。

屋内に保管していた松苗にごーさん札も見せてくださった。

吉隠の春日神社で宮座による結鎮祭が行われていると初めて知った日は平成26年の2月11日

同市和田で行われている祈年祭を拝見した日である。

吉隠にも出仕されている祭主の桑山俊英宮司が話してくださった行事である。

もとは旧暦の1月8日であったが、昨今は成人の日の前日。

つまりは日曜日である。

成人の日が来るまでに、予め確認しておきたい行事日程。動いていることも考えられるので再訪問した結果は中止だった。

この日も応対してくれた婦人の話によれば、年寄りばかりになったことから体力的に難しくなった。

5軒で決めた決断が中止である。

なんということか。

1年早ければ拝見できたものが、時すでに遅し、であった。

おそらくは二度と見ることのない吉隠・宮座の結鎮祭。

「もう1本は家に残してあるからあげる」と言ったHさん。

行事は中断になったが、準備していた1本のナエカズラをくださった。

ナエカズラは藁でこしらえたもの。

稲に見立てた松苗に紙に包んだ籾種にススンボ竹で作ったケイチンの矢もあるナエカズラ。

貴重な1本は大切に残しておきたい吉隠の民俗。



挟んでいた護符も拡げて記録に残す「牛王 春日神社 宝印」の書。

朱印はスタンプに移ってはいるもののまさにごーさんであった。

平成29年の4月14日
に立ち寄った際に聞いた護符。

おばあさんがお元気だった生前のころ。

苗代をしていたころは、このナエカズラ立てていたという。

いつしかJAから苗を購入するようになってからは苗代作りもナエカズラ立てもしなくなったと話していたことを思いだした。

(H30. 1. 4 EOS40D撮影)

大阪・道修町の少彦名神社

2019年05月16日 09時24分39秒 | もっと遠くへ(大阪編)
歯医者治療を待つ間にぶらぶら散歩。

とはいっても車で巡る散歩。

同乗するかーさんも私も勤務地は大阪市中央区の今橋。

あの店もあった、この店もあった。

でもあそこはもうないね、と話題は30数年も前に通った食事処。

数軒を残していまやすっかり変貌する街の姿はビル街。

少し足を伸ばして眼科を探す。

おふくろから頼まれていた調剤目薬を入手するために出かけた眼科はすぐ近辺になる平野町にある。

初めて出かける眼科の住所をカーナビゲーションにタッチして、指図する通りに車を走らせたが、夕方の暗闇ではビル名がわからず難儀した。

店締め時間が過ぎて焦る。

たどり着いたもののさらに難儀した薬局はどこなんだ。

道行く人に聞いてなんとか所要をこなした眼科、調剤薬局を探してみた。

そこは道修町のすぐ南にあった。

それも筋一つが違うだけだった。

今から思えばカーナビゲーションの指図する位置は間違っていなかったということだ。

その道修町に神社がある。

見た瞬間にそこがどこの神社になるのかすぐにわかった。

神社名は少彦名神社。神農さんを祭る大阪の神社である。

奈良県内行事に薬関係者が集まって参拝される行事がある。

一つは高取町下土佐に鎮座する恵比寿神社境内社になる神農社で行われる神農薬祖神祭

もう一つは御所市宮前町に鎮座する鴨都波神社境内社になる神農社の薬祖神祭である。

両社で行われた神農社行事に間接的に関連する大阪道修町の少彦名神社である。

ネットをぐぐってみれば神社様相のある程度がわかる。

ビル街に建つ状況も見てとれる。

ゆるゆると走らせていた車窓。

えっ、ここにあったんだ。

車を脇に寄せて緊急停車。

ハザードランプを点滅させて停車している間に撮らせてもらった。



ほんの1分も満たない時間に前景および絵馬を吊るしていた通路などを撮っておいた。

その間にも参拝者が訪れていた少彦名神社。

薬関係者であるのか、それとも薬を服用している患者さん、若しくはその家族さんか・・・。

ところで少彦名神社のHPに道修町通りに医薬品に関する展示施設があるので、町を巡ってほしいと願うストリートマップがある。



その展示施設は少彦名神社にあるくすりの道修町資料館をはじめとして、杏雨書屋、大日本住友製薬展示Gallery、田辺三菱製薬史料館の4施設。

他にも展示施設ではないが、昔ながらの風情をみせる木造建屋やレンガ造りの建物をみるのもよかろう。

(H30. 1.24 SB932SH撮影)

大阪伏見町・彩朶家の昼弁当

2019年05月15日 08時52分26秒 | あれこれテイクアウト
おふくろの歯医者治療を待つ間に買った昼弁当。

いずれも税抜き価格で380円。

売っていた場所は大阪市中央区にある伏見町。

東側は薬の町の道修町に北浜、平野町。

西は17年前まで勤めていたビジネス街の今橋。

テレビでも紹介されることがあるビジネス街の昼弁当売りがある。

当時はごくごく僅かしか見られなかったが、今やすごく賑わっている。

上限は500円くらいだろうか。

少し下がって450円辺りもお買い得のお弁当が店前に出没する。

かつての勤務地を巡る車中旅は御堂筋を渡った西も今橋、道修町、平野町。

いわゆる淀屋橋界隈である。

ぶらぶら、ぶらぶらと車で巡った時間帯は午前11時から午後1時までの2時間。

その間に見て廻った数十店舗の食事処が店頭前に並べた売り値表示で見れば最安の部類。

もっとも一番安価だったのは300円の弁当。

焼きそばのようだったが、車中から拝見したその量は多くない。

ビジネスマンに大人気の弁当が売り切れる前に買っておこうと車を停めて品定めしたのは午前11時半。

冷たい空気に包まれていた。

介護の身の92歳のおふくろが食べられる料理は難しい。

特に豚肉料理はまったく受け付けない。

入院していた病院も、通所サービスをしてもらっている老人介護施設にもお願いしているのは、豚肉禁ズである。

好き嫌いの問題ではなく受け付けられないのである。

小児の時に受けたPTSDの可能性もあるが、正式な検査はしたことがない。

受け付けないものはもう一つ。

一品でもなく長いものである。

筆頭は鰻。

2番手が穴子である。

それらを除けて食べられる弁当といえば、焼き鯖弁当かチキン料理しかない。

牛肉は食べられるのだが、料理味付けによっては箸を出さない場合もあるので鶏肉か魚肉になる。

どことなく貧相に見えた焼き鯖は除くとすればチキン料理しかない。

これだと思ったのは唐揚げである。



その弁当のメインはオムライス。

中身はなんでできているかと売り子さんに尋ねた結果は、チキンである。

これなら大丈夫と買った弁当にはレタス、キャベツの高額野菜にスパゲッテイ、ポテトサラダが付いている。

かーさんは無難に決めてハンバーグ弁当。



これにも唐揚げが付いているが、甘タレをかけていた。

添え物はコウコの漬物にキンピラレンコンである。

私が食べたいと閃いたのは豚ピカタ弁当。

とじ玉子に包まれた豚肉。

鉄板焼きのとん平焼きではなく、トンカツの洋風料理ピカタのようにも見える。

刻みネギに一味を振りかけたトンカツピカタの添え物は、コウコの漬物にキンピラゴボウである。

買ったお店は大阪市伏見町にある彩朶家。おふくろが治療していた歯医者の向かいにあった。

さて、買った弁当はどこで食べるか。

歯の治療を終えて伏見町を離れる。

目指すは大阪市の南の端。

おふくろ居住地の住之江区に向かって車を走らせる。

着いた時間は午後1時40分。

冷たい部屋に暖房を入れるが、とんと温かくならない。

入院加療・リハビリ療法に通所介護施設で受けるリハビリ運動などで離れていた4カ月ぶりの住まいは冷え切っていた。

寒い部屋で冷たくなった弁当を食べるわけにはいかない。

電子レンジでチンして食べる。

どれもこれも黙々と食べる彩朶家の昼弁当。

いずれも美味しい。

これら弁当は店頭販売。

売り子さんにどこで作っているのか、尋ねたら洋食料理屋の彩朶家だった。

電子レンジでチンした弁当を手にしたらほっとする。

身体がそれほど冷たかったからだ。

蓋を開けて、箸を割る。



はじめに口にするのはトンカツピカタ。

これは美味い。

玉子焼きにもほどよい味付け。

出汁で揚げたかのように思える味は和風に近い。

トンカツも柔らかくてむちゃ美味しい。

料理屋さんが作った弁当は美味いんだな。

3人揃って完食はしたが、私的にはこれは残念というものもある。

それはご飯である。

この日の屋外気温は冷たい風に身体も冷め切る冷温日。

ほんのちょっとお外にでるだけで、さぶいーと叫ぶ始末。

気象庁の記録では最高気温が4度とあるが、もっと寒い、冷たく感じる体感気温。

ほんまはマイナス気温のように思えて仕方ない。

たぶんに売っている間にご飯の表面が冷凍化したのでは、と思ったぐらいにご飯粒が堅いのである。

ハンバーグ弁当を食べていたかーさんは、そんなことないよと云っていた後半。

あともう少しというご飯にこれは堅いと云い出した。

お外で冷たい風にあたった弁当表面のご飯から水分が凍ってしまった。

それが堅さの元。たぶんにそうだと思う。

じゃ、なんでおかずはそうでないと、という疑問も湧くが・・。

とにかくどれをとってもおかずが旨い。

次回もここへ、この時間帯に来たなら、買ってしまうことになるが、それまでご飯の味は改良していただきたいと思うのである。

(H30. 1.24 SB932SH撮影)

下永八幡神社の牛玉さん作り

2019年05月14日 09時33分13秒 | 川西町へ
知人が所有していた史料映像。

平成11年10月吉日改定の川西町下永八幡神社の行事覚書帳である。

1月4日に行われる行事に座五人中が集まって作る苗末に牛玉。

両方とも村各戸に配布する日は1月15日。

午前7時に営む行事は正月を飾った門松などを焼却するとんど焼き。

西城(にしんじょ)、東城(ひがしんじょ)それぞれの地で行われるいわゆるトンド焼きである。

その際に行われる御田祭の苗松祓い、つまりご祈祷である。

役目を担うのは座の長老にあたる一老である。

祈祷を終えた苗松と牛玉を各戸に配る、と書いてあった。

1月4日の座五人中がされる作業は、一つに二股の柳の木の採取である。

その本数は120本。

東方の地区に10束とも書いていた。

午前中に門松を片付けて、午後もまた集まって作業の継続。

牛玉宝印書作りもあれば、苗松の藁括りもある。

二股の柳の木は先を割いて牛玉宝印書を挟めるようにする。

他に御供餅下げもある5日の行事に氏子らは集まることはない。

できるなら朝からの作業に伺いたいと思って訪れた。

到着した時間帯は午前9時半。

八幡神社にはどなたもおられない。

神社向かいにある公民館の扉は開いていない。

境内に自転車があったからどこかへ行かれているようだと判断した。

しばらく待っていたら軽トラなどに分乗された五人中が戻ってこられた。

伺えば近くに自生するカワヤナギの木を採取しに出かけていたという。

下永・八幡神社の年中行事は多々ある。

平成18年12月29日に行われた門松飾り

翌年の平成19年1月14日に行われたヨロイ吊りに同年6月4日の粽作り端午の節句の粽配り

また、平成19年6月3日の西城のキョウに続いて行われた東城のキヨウ行事

さらには、平成19年10月7日に行われた百味御供に同日に行われた当家祭礼も取材したことがある。

それから11年も経った平成30年の1月4日の五人中。

ご無沙汰しているものだからすっかり様変わり。

と、いうのも五人中は一年ずつに繰り上がるいわば村神主。

「五人中入り福」の儀式を経て務める村神主。

五老入りから一年ずつ繰り上がって最後のお勤めが一老である。

11年前に取材させていただいた座中はこの日の場にいない。

経緯を伝え、承諾を得てから苗松に牛玉さん作りを拝見する。

軸付きの奇麗な松葉である。

予め刷っていた牛玉はベンガラ朱の色。



古くから伝わる版木で一枚、一枚を刷っていたという一老のKさんが見せてくださった。

版木の彫りは「牛玉 白米寺 寶印」である。



その形をじっくり拝見させていただいた。

見るからに古そうな形状。

塗りこんだ墨の色も含め、版木の年代を知りたくなる。

もしかと思って裏面も拝見したら、あった。

彫り文字で記す年代は・・・なぜか見られない。



「下長 奉キシン井ケノ坊 矢田門 大工正清 巳酉十二月日」とある。

年代彫りは見られないが、矢田村の「大工正清」である。

間違っていなければ、凄い名工の大工頭、中井正清の名である。

永禄八年(1565)から元和五年(1619)を生きてきた江戸時代初期の大工頭

大和の国の斑鳩法隆寺西大門前の西里。

先祖代々にわたって本拠地とした西里が生まれ。

豊臣家の大工頭を務めた家系。

大阪城や京都方広寺・大仏殿の建造も関わっていた。

政権交代後の徳川家康が信任した正清

手がけた京都二条城、京都御所、江戸城、駿府城、檀上寺、日光東照宮から江戸の町割りまで数多くの築造事業をこなしてきた歴史に残る大和守。

その正清は中井主水正清(なかいもんどまさきよ)であろう。

”巳酉”の干支がある年を手繰っていけば、嘉永二年(1849)、寛政元年(1789)、享保十四年(1729)、寛文九年(1669)、慶長十四年(1609)、天文十八年(1549)が挙がるが、中井正清が生存した範囲にあるのは、慶長十四年(1609)としか考えられない。

推定であるが、版木を寄進した年代は巳酉年の慶長十四年。

慶長十九年から始まった大坂冬の陣に夏の陣よりも5年前。

徳川家2代目の徳川秀忠が江戸幕府2代目に就任してから4年後になる。

『大和郡山城ばーずあい』にある城下町百話が伝える中井主人正清である。

「実相寺(※大和郡山市矢田町通)の創建は、慶長年間の1596年から1615年、徳川家康に命ぜられた大工中井主人正清が正誉上人を開山として建立・開創した寺。山号は無漏山、という浄土宗知恩院の末寺である。畿内近江六ヶ国大工頭にのぼった藤左衛門正清(※1565~1619)は、慶長十一年(1606)、従五位下に叙爵し大和守千石に任官した。また、同寺は中井家先祖本貫(ほんがん)の大和の国における菩提寺でもある」。詳しくは城下町百話「町・寺社地」(下)に書かれた「新編郡山町中記」・三十一番 外矢田町(そとやたまち)」を参照されたい。

中井正清の先祖と子孫が気になる・・」ブログによれば、慶長十四年は、秀頼が大仏再建の工を起こし、正清を大工棟梁に任じた年。

給地を祖父と縁深い大和添下郡城村(※大和郡山市城町)にあった。

他に外川村(※大和郡山市外川町)、小和田村(※奈良市大和田町)。

城村の西方に通称矢田寺(※正式には矢田山金剛山寺)がある。

版木にある「矢田門」は、その矢田寺の“門”とも思えるが、おそらく実相寺が所在る「矢田町通」にあったと推定する“(大)門”ではなかろうか。

また、現在の城町に小字主水山がある。

旧村になる主水山。

もともとは字主水山であった。

ちまたに聞く話では、主水山に殿さんが住んでいたと伝わる。

屋敷があったのかどうか存じないが、その名残で付けられた「字主水山」が本来の住居表示だった。

版木にある“下長”の地である。

古くは中世時代の文書に登場する「下長村」。

その後の1700年代に現在も通じる「下永村」になったと、川西町下永・八幡神社前に掲げる村の歴史にそうあることから、版木にあった「下長」からも推定できるように、ここ下永は慶長年間における“下長”村と判断した。

版木、朱印、ベンガラに皿などを収めた箱(昭和5年10月15日新調)に蓋がある。

返してみたら2人の神社惣代に神社惣代衆五人中の世話人名が墨書されていた。

下永付近を流れる大和川。

護岸工事をしてからは少なくなったという葉付きのカワヤナギ。

探すのも困難であるが、自生するカワヤナギのすべてが途絶えると神社行事も差し支えるようになると危惧される。

採取する葉付きのカワヤナギ。

先の芽やその辺りにある葉を残して採取する。

枝伐りの長さは揃えて伐っているが、かつては「もっと長かったかもしれない。どないかしてはったんかわからないが、長い年月を経ているうちに変化したと思っている」と話す一老のKさん。

カワヤナギの枝と一緒に束ねるのが門松の松葉。

正月三が日を飾った門松の松を解いて作る。

長さを揃えた松葉とカワヤナギを揃える。

本来なら「牛玉 白米寺 寶印」すべてにベンガラを塗って半紙に刷るのであるが、いつのころか「白米寺」の文字だけになった。

撮らせてもらった版木。

その文字部分だけが、他と比べて白っぽくなっている。

塗ったあとは次の年のために奇麗にしておく。



半紙の右1/3に刷った「白米寺」の文字が表になるよう松葉とカワヤナギを巻くように包む。

解けないように用意していた紐で括る。



下永は転居してきた新町も含めると200軒以上にもなる集落。

旧村というか氏子農家の52軒に配る豊作願いの印し。



53本の護符を作るが、1本は次年度のための見本にしている。

参籠所の床に並べたできあがりの牛玉さん護符。



光がそこだけに当たった。

本数が多いだけに手間のかかる牛玉さん作り。

数えやすいように床に並べたら41本。

残りが12本。

もう少し時間がかかるなぁと言いながら作業をしていた。

すべての本数が揃ったら御供台にのせて作業を終える。

扉の向こうは社殿。

神さんに見えるように御供台にのせた。



氏子家に配るのはとんど焼きを終えてからである。

かつては小正月の1月15日にしていたが、現在は成人の日の祝日。

不在の家も含めてポストに投函して配るそうだ。

その手段は6月4日に行われる神社行事の端午の節句。

2本組で一対になる粽配りと同じ。

粽作りは240本。

配るのは一対であるから120軒。

これもまた手間のかかる行事であるが、今も続けているという粽配りは平成19年の6月4日に拝見したことがある。

ちなみに粽作りは大勢の人たちによって作られる。

これもまた拝見させていただいたことがある。

ところで牛玉さん護符にあった白米寺(はくまいじ)である。

この日は八幡神社の行事。白米寺の扉を開けることはない。

1カ月先の2月15日は涅槃会がある。

その日は扉を開けてご本尊などを開帳する。

正念寺の僧侶はもとより集まって手を合わせるのは高齢の婦人たち。

いわゆる尼講のみなさん方であるが、開扉するのは錠前を管理している五人中の一老、二老である。

朝から準備を整えて午前中に終わる涅槃会。

よろしければ拝見したいとお願いしたら、関係者に伝えておくと言ってくれた。

感謝申し上げて場を離れた。

(H30. 1. 4 EOS40D撮影)

神殿町・とんかつ屋まるかつの厚切りロースカツ定食

2019年05月13日 08時55分37秒 | 食事が主な周辺をお散歩
初めて訪れた日は前年の平成29年11月16日

メイン食に選んだソースカツ丼よりも記憶に残った食べ物は大きな広島産のカキフライだった。

店員さんがアンケートを書いてくださったら次回は300円のミンチカツを無料で食べられます、と伝えられたもらった無料券。

その券をもって再訪、というか、再食したいとんかつ屋まるかつ

奈良市神殿町にあるカツの専門店であるが、チェーン店ではない。

とにかくびっくりするほど美味かったカキフライの味。

魅力に憑りつかれてしまったようだ。

行きたい、食べてみたいと思ってはいるものの家の事情で離れるのも難しくなってきた。

ちょっとぐらい、食べるだけ、云われそうだが、踏ん切りがつかない。

正月の1日である。元日早々の賀状が届く。

その中の一枚。

お年玉年賀はがきではなく通常のはがきの裏面に「おめでとう」とあるから、これは賀状・・・でもなかった。

誕生記念日に是非ともお越しくださいという案内状である。

しかも、その賀状に「ささやかですが、1000円引きのプレゼントを用意させていただきました」とある。

なんと、ありがたい年賀状にお屠蘇が進む。

11月に入店したとんかつ屋まるかつ神殿店のメニューにある日替わり定食は千円を若干下回る価格。

カツ類などの揚げ物がメインのとんかつ屋まるかつはカツが勝負どころ。

と、いうか店主こだわりの食事を食べてもらいたいということだ。

誕生日近くなれば行く機会をとにかく設けよう。

そう思っていたが、正月三が日、小正月・・月日の経過は目まぐるしく回転する。

家の事情もあってバタバタしているうちに次への展開が勝手にやってくる。

この日は私の通院日

その帰りにありがたい誕生祝いのはがきをもって行こう。

そう思って神殿町にやってきたら突然のにわか雨。

真っ黒な雲にどっと降り出した。

そんな天候状態であるが、停めた車から走っていく。



入店したら2組の食事さんが食べていた。

1組は3人組。

お友達のようだ。

もう1組は男性独り。

黙々と食べてはった。

座った席に店員さんの注文取り。

カツは食べたいが、油もんはその気にならない我が家の家人。

いただいたはがきはありがたく独りで、よばれるというわけだ。

千円も支援してくれるありがたいプレゼントは有効活用させてもらいますと伝えたら、是非・・・。

こういうときこそ、という店員さんのお言葉に、選んだメニューは税込み1580円の厚切りロースカツ定食。

そう、千円も割り引いてくださるので、実質支払いは580円。

待つことおよそ15分。

アツアツ揚げたての厚切りロースカツを盛った定食膳が配膳された。

見た瞬間に、うぉっ、と声がでた。



これまでの私は豚カツといえば、「とんかつのKYK」にしか食べに行ったことがない。

ずいぶん前のことである。

サクサクの豚カツは美味かったのか、どうか、すら記憶にない。

とんかつ屋まるかつの揚げ物はカキフライで味も食感も魅力的だった。

それ以上かもしれないと思った厚きりロースカツ。

それ以上というのは大きさ、厚さ、柔らか肉、である。

一口食べて・・・。

えっ、である。

口の中に入れたのが大きすぎたのか・・。ではなかった。

厚みがあり過ぎて口の中にあったロースカツが噛めないのだ。

つまり、口をあけられない状態になってしまった。

顎が外れそうだと思った厚きりに思わず、「厚きりジェーソン」と声を挙げた。

添え付けの岩塩に少しだけつけて食べる。

一切れすべて食べ終えるのに、何口もかかってしまう厚きりジェーソン。

一口、一口に旨みがある厚きりジェーソン。

たまらん美味さに絶句する。

衣に歯があたれば、ザクっ。

そこから現れるロースカツがじゅわ。

柔らかいから口当たり、ではなく歯当たりがすこぶる良い。

一切れ目は岩塩。

二切目も岩塩。

三切れめに辛子。

四切れ目は特製ソースタレ。

五切れ目は再び戻った岩塩で〆。

その間にいただくご飯も美味い。

漬物も上品な味。

以前はトン汁だったが、店主が考えて健康志向のしじみ汁に替わった。

絶えず試行錯誤・・ではなく、お客さんのことを考えた料理に、もっとファンを・・。

同店に来られて美味しければ、FBにツイッターするだけでサービスをもらえる。

この日ももらったミンチカツはいつ食べに来ようか。

(H30. 1.23 SB932SH撮影)

人気のレインボーラムネが入手できるカフェ

2019年05月12日 09時38分07秒 | メモしとこっ!
えっ、ここのお店、2カ月前はこのような看板は見なかったが・・・

数か月に一度は必ず通る通院日。

駐車場までの道沿いにあるカフェである。

看板を見て驚いた。

あの有名な生駒のレインボーラムネがここのお店で販売中とある。

とにかく入手がとても難しい大人気のレインボーラムネである。

看板に書いているようにケンミンショーでも取り上げられたレインボーラムネ。

生駒市のふるさと納税の返礼品に指定されたようだ。

(H30. 1.23 SB932SH撮影)