niceshotpeteの山旅

新潟県内外の山々を旅した記録です。山座同定に力入れてます。掲載した写真の何枚かはピクスタで販売してます。

2月12日 古津八幡山古墳・古津八幡山遺跡へ。その3

2023年02月16日 | 新潟市からの山岳展望

古墳を降りて進む。

 

 

 

 

 

 

入口の屋根の補強、と、最上部の排煙システム。こんな建築技術が、ほんとに縄文~弥生時代にあったんだろうか?驚きでしかない。

遺跡に残ってる物って、柱の跡くらいじゃないの?あの排煙システムの材料が遺跡発掘時に発見されてるのかな?

 

 

こんなに綺麗に、茅の裾を切りそろえる道具はあったんだろうか?現在、各地の古民家の茅を葺き直すのは大変な苦労があるやに聞くが、これが標準だった弥生時代の建築技術恐るべし。

雪の重みに耐える技術は凄いものだ。この中の一つは、近年の雪の重みで潰れかけてるとか。

 

さて、この竪穴式住居周辺から見える山は、

アップで

 

左側が白銀の二王子岳

 

右側が五頭山塊・松平山

 

ここまで歩いて来て、今更、駐車地点に引き返すのはもったいないし、この先の方が、ご老体には歩きやすそう。車は後で僕だけ引き返せばいい。

振り返って写真撮りつつ。

 

 

 

 

すると、弥彦・角田の展望が~。

手前が新潟市新津美術館。周囲は桜。春になればここは最高のお花見スポットか?

 

 

角田山

 

弥彦山

 

 

左端は国上山。

正直、もっと白銀の山々が見えることを期待してやってきたが、この弥彦山・角田山を見ることができて、また来たいを思える絶景スポットになった。勿論桜咲く頃に。

ここで、ご老体には舗装された道を美術館まで歩いて下ってもらい、僕は駐車地点まで車を回収しに戻った。

終わり。

 

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2月12日 古津八幡山古墳・古津八幡山遺跡へ。その2

2023年02月16日 | 新潟市からの山岳展望

県道1号で秋葉区へ。

マイロード桜の舞う道(桜立ち並ぶ快適な道路)~ 道の駅花夢里 ~ 金津コミュニティセンターと辿って、古津八幡山古墳(ふるつ はちまんやま こふん)へ。

 

マイロード桜の舞う道

 

五頭山塊

 

古墳直下に駐車

 

 

 

さて、坂道を上り始めたはいいが、次の急な階段には手摺がない。やめると言うかなと思ったが、そのまま登って行った。

ところが、階段の一部が凍っていて、案の定、途中で登れなくなった。

ここまで来たら登るしかない。テラスまで引っ張りあげた。まあ、下る頃には氷溶けてるだろう。

ここから時計回りに進むと、てっぺんに登る階段。流石にここは登らずに待っていた。

 

下から、何かあるか?と。何もないよと答えるが、王が国見した眺望が・・・。

 

新潟市中央区方面

右端から、日航ホテル、マンション、新潟日報メディアシップ、マンション?、左に離れて、新潟市芸術文化会館、NEXT21、マンション、ビッグスワン

 

残念ながら山が。あまり見えない。弥彦・角田も木々の背景に。葉っぱのない季節なのに。

ちょっと気になるピラミッドが。

五頭山塊主峰・菱ヶ岳だった。

王が国見した頃は、周囲の木々が無く、もっと良く見えていたんだろうか?

 

では、古墳から下りて、弥生時代の竪穴式住居を見に行こう。

 

古墳を振り返る

 

 

表示は、

 

続く。

 

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2月12日 古津八幡山古墳・古津八幡山遺跡へ。その1

2023年02月16日 | 新潟市からの山岳展望

晴れた日曜日。

新潟市秋葉区の古津八幡山古墳に登って?きた。

絵の左上から来て、金津コミュニティセンターの脇を抜け、細~い道を辿り、古墳の左下のトイレの近くに駐車し、古墳上に。そして古津八幡山遺跡の中を通り、右下の新津美術館まで。

この絵は、

 

 

国見

 

遺跡のジオラマ

勿論、高いところに登ればそこからの山岳展望を・・・?

続く

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妙高市のスキー場内を、イノシシが猪突猛進。

2023年02月11日 | 北信五岳

数日前のニュース画像。妙高池ノ平のゲレンデをイノシシが疾走。

ボーダーの男子高校生に向かって襲い掛かる。

ボーダーは倒されながらも、履いているボードで反撃。

すると、イノシシは方向転換し、次の男性に向かって突進。

彼はボードを振り回して抵抗。イノシシはゲレンデ外に駆け去った。

足の短いイノシシは雪の多い新潟県では生息できないと、以前は言われていたが、

海岸沿いの新潟市中央区にまで進出してきているイノシシは、すでに雪に順応しているということか。

あ~怖い。

背景は勿論妙高山。

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2月5日 好天に誘われ。

2023年02月05日 | 植物

久々の好天に誘われ、鳥屋野潟へ。

蠟梅を見ようとやってきたが、今回の寒波のせいで花弁がショボショボになってしまっていた。

でも、逆に、まだ開花していない蕾も沢山あって今週前半に、もう一度見頃が来るかも?

仕事で来られないけどね。

 

 

染井吉野の蕾は

 

すると頭上を白鳥が通過。

左上の雲は彩雲?吉祥じゃ?今週辺り・・・そろそろ・・・か? ムフ!

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1月29日 新潟市の古民家で武田菱に出逢う その2 越後の武田氏

2023年02月02日 | 町歩き

新潟市周辺の武田家を、ググってみた。

 

新潟市文化財センターHPより

(この古民家は、ここ新潟市文化財センターに展示されている)

 武田家の先祖は、越後に逃れた甲斐国武田一族の武将が、高橋姓を名乗って曽根(旧西川町)で百姓となり、その子初代源助の代に割元役となったと伝えられています。
 そして、またその子の源助(2代目高橋源助 代々襲名)も割元役を務め、地域の開発に尽力しましたが、天和元(1681)年に処刑されてしまいました。その妻と長子は、小中川(現在の燕市)に逃れて、およそ30年後、木場村(現在の西区木場、旧黒埼町木場)に移住しました。その後建てられたものが現在の旧武田家住宅であると伝えられています。なお、「座敷」と「裏中門」は明治時代に入ってから建て増されたと考えられています。
 旧武田家住宅は、裏中門造りの代表的な民家として、昭和45(1970)年4月、旧黒埼町(当時黒埼村)の有形民俗文化財に指定されました。翌年、旧所有者である武田源助氏から旧黒埼村への寄贈を受け、現在の西区緒立流通2丁目にある緒立八幡宮脇に解体移築・整備し、「黒埼常民文化史料館」として公開してきましたが、平成23年に再び文化財センター敷地内に解体・移築したものです。
 西蒲原の低湿地では信濃川・中ノ口川の破堤により、たびたび水害に見舞われました。「ダイドコロ」と「小間」の奥に、水害への備えとして床高を上げて中2階とした「寝間」が2室あります。「裏中門」には、洪水に備えた防災の知恵がよく表れています。

信長に敗れた甲斐国武田の落ち武者?の一部は、下越まで逃れて来たのか。

この地で地域の開発に尽力したのに、なぜ処刑されたのか?そこはまだ調べてない。💦

建てられた時は、突出物がなかった!すると、この武田菱も最初は無かったかも???

ここで越後人として再出発しようという時に、武田菱掲げる??

 

 

笹川邸HPより新潟市南区味方216 にある、豪農の館)

参勤交代藩主が屋敷を利用。明治維新以降人も治水事業・水田開発・この住宅の所有者であった笹川家は、武田氏の一族であり、安土桃山時代に長野県の笹川村から、この味方の地に移住したとして、1970年にこの地を離れるまで、14代300年以上にわたって続いた名家。

江戸時代には、村上藩の支配下にあった味方組8ヵ村(味方、白根、板井、木場、黒鳥、北場、亀貝、小新合計約8,000石)を束ねる日本でも有数の大庄屋を代々務め、年貢収納の取りまとめや藩からの命令伝達はもちろん、藩から与えられた警察・裁判権も行使した。笹川家は、明治維新以降も河川改修や用排水路の開削にも尽力し、水害の多かったこの地域での新田開発に貢献していた。

 

ウィキペディアより

武田 信清(たけだ のぶきよ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将甲斐武田家米沢藩上杉家の家臣(米沢武田家)。

生涯[編集]

武田信玄の六男(七男の説もある)[4][5]。母は信濃国小県郡禰津氏の娘である禰津御寮人であるという。正室甲府城下の長延寺住職である実了師慶(長延寺実了)の娘。色部清長は孫にあたる。

永禄10年(1567年)、信玄の命により巨摩郡加賀美(南アルプス市加賀美)の法善寺に入り、玄竜と号した[6]。後に兄・勝頼の命令で還俗し、甲斐源氏の旧族である安田氏名跡を継承し安田三郎信清と名乗り、海野城主となる。

天正10年(1582年)3月の甲州征伐による武田氏の滅亡後、高野山無量光院に逃れる[4][7]。同年、上杉景勝の正室となっていた異母姉・菊姫の縁を頼って上杉氏に寄寓し、3,000石を与えられた[4][7]。会津時代には3,300石を賜る[4]米沢藩時代には、藩主親族、高家衆筆頭として遇され、1,000石を領した[4]慶長19年(1614年)、大久保長安事件江戸幕府から嫌疑を受けるも、事実無しとされ帰領した。

寛永19年(1642年)3月21日、80歳(もしくは83歳)で死去[4][7]。上杉氏の菩提寺林泉寺に葬られた[4]。法名は、虎山玄竜居士[4][7]

 

信長を恐れて甲斐を脱出した者、伝手を頼って守られながら越後に来た者、色々いるんだろうなぁ。

こうして記録に残るのは、極、極、一握りの人間。

想像を絶する辛酸を舐めた甲斐国武田一族の人も無数にいるんだろうなぁ。

 

続きは、新潟市文化財センターの屋内展示。

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