小田原周辺のマイナースポットや些細な出来事を少しずつ
小田原の端々



この小田原には長い歴史の中で廃寺になった寺院がいくつかある。廃寺の原因は天変地異だったり檀家や住職の断絶など様々だが、小田原市矢作にかつてあった超光寺は16世紀の戦乱により廃寺となった伝承が残っている。小田原市矢作。循環器病院裏手から矢作小学校のグランド周辺にかけて、かつて声聞山超光寺があったという。今は駐車場になっている場所の一角には石塔が建っている。正面には南無阿弥陀仏の名号、花押には祐天。台座には超光寺と刻まれており超光寺の供養塔のようだ。碑文によると造塔は元治元年(1864年)。側面には造塔の由緒が刻まれており要約すると「かつて声聞山超光寺がこの地にあったが、天正18年(1590年)の小田原合戦の戦乱により寺は焼かれ芝原となった。その後、田畑開発の折に墓石や人骨が見つかりここに集めたが、村長の家に祟りがありこの供養塔を建てた」。この供養塔は祟りを封じ込めるために祐天上人の名号が刻まれたようだ。祐天上人は江戸時代を代表する呪術師で、密教僧でなかったにも関わらず、強力な怨霊に襲われていた者達を救済、その怨霊までも念仏の力で成仏させたという伝承が残っている。台座の側面には世話人や組が刻まれている。周辺の村々からの寄進や供養があったことをうかがわせる。小田原の川東地区周辺は小田原合戦の戦乱で多くの犠牲が出たようで、ゆかりの伝承を持つ塚などが多くあったようだが、都市化が進むにあたり次第に無くなりつつある。

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