tnlabo’s blog   「付加価値」概念を基本に経済、経営、労働、環境等についての論評

人間が住む地球環境を、より豊かでより快適なものにするために付加価値をどう創りどう使うか。

日本の伝統文化を政治に生かす・続

2024年05月22日 14時05分22秒 | 文化社会

前回は政治が国を経営する事であるあらば、日本的経営の優れた点を政治にも生かせるはずだという事で「人間中心」と「長期的視点」の経営という点を挙げてみました。

職務中心という欧米の経営でも人間の大切さは、エルトン・メーヨーのホーソン実験以来の「行動科学」の発展の中で理解されているところですが、経営の原点が「利益」ですから、人間の重要性は「利益」実現のための手段としての重要さにとどまっています。

余計な事を付け加えれば、政府の「働き方改革」は、欧米流の経営を土壌の違う日本に移植しようとするもので、上手く育たなくて当然なのです。

ところで今回は、比較的意識の揃っている人間集団である企業と、それよりずっと大きくてメンバーの意識、思想、理念がずっと多様な人々を包括する「国」の経営について企業との違う部分を考えてみます。

国の場合は政党が分かれているように、国の経営の進め方について多様な考え方の集合体です。それを無理に1つに纏めようというのが独裁制で、その失敗を避けるために生まれたのが民主主義でしょう。

民主主義は「より多くのメンバーの支持する考え方で行きましょう」という事で、考え方の違う人も、一旦多数決で決まったら、当面それに従いましょう。という多様性の平和的共存を前提にしています。

ただし経営を担当する期限を決めて、別の考え方の人がより多くなったら、その考え方にしましょうという柔軟で、異なった意見の平和共存を可能にするように工夫された制度です。制度的には、定期的な選挙・投票、多数決というのが具体的な方法です。

株式会社でも従業員という集団においては必ずしも多数決での決定ではありませんが、株主という集団では多数決・民主主義が原則です。

ところで、平和共存を可能にする民主主義については日本の伝統文化はどんな位置にあるのでしょうか。

多くの研究によれば、日本の伝統文化の源流を形作った縄文時代1万何千年、日本列島では戦争がなく、奴隷制度もなかったとのことです。しかも日本人は世界でも有数の多様なDNAを含むのです。日本人はユーラシア大陸各地や太平洋の島嶼から移住した多様なDNAの人々が各地で集落を作り交流混血しつつ平和共存し、広汎な交流、交易が行われていたとされています。(糸魚川からの翡翠の道、長野からの黒曜石の道など)

良質な産物の地域を独占しようと戦をするのではなく、交易によって共益を大事にするといった文化が育っていたようです。

人間集団、組織の運営については、考古学的なものではなく、後世に残された記録や、日本各地に残る風習などによることになるのでしょうが、注目すべきは聖徳太子の17条憲法の第17条「夫れ事は独りにて断ずべからず。必ず衆とともに論ずべし」ではないでしょうか。

これは権力者の意思決定ついての最も大事な点をズバリ指摘しています。

山本七平氏が日本の人間集団の意思決定について指適されているのは「一揆(当該人間集団の意)に諮り・・・」といった言葉です。物事を決める時の用語でしょう。

勿論、民主主義などという言葉のなかった時代の話ですから、こうした表現になるのでしょう。しかし、その意図は明らかです。独断専行、独裁制は決して良い方法ではないことを明確に言い表していると思います。

今の自民党の国会議員の諸氏に、確りそうした物を見てほしいと思うところですが、見てもらっても、「その通りで、みんなに相談したら、政倫審の求めには応じないというので、私も・・・」なんてことになりそうな気がします。


日本的経営を日本の政治に生かす

2024年05月21日 13時50分10秒 | 文化社会

このブログのよって立つ基盤は「付加価値」です。

上の緑の枠の下部のサブタイトルにも「付加価値をどう作りどう使うか」と書きましたが、私自身迷った時はここに帰って考えます。

付加価値というのは「人間によって付け加えられた価値」です。ですからこれは人間が使う事が出来ます。そして、どう使うか(種籾をどのくらい残しておくか)で明日の付加価値の大きさが決まります

太昔の話です。作物を育てるのには水が要ります川はありますが水は大雨であふれたり日照りで涸れたりしますから集落の人が集まって溜池を掘り水の供給の安定化を図ります。溜池が大きい方が収穫(付加価値)は安定して増えます。収穫は皆で分けます。

これを現代の企業に置き換えれば、企業の人々が働いて付加価値のある商品やサービスを提供し、社会を豊かに快適にしています。そして作った付加価値の一部を利益(資本形成)として確保し、企業の明日の発展に使います。

こうした付加価値の創造と分配の構図は、大昔から今日まで変わりません。変わったのは、貨幣が生まれ、付加価値は金額として計測可能になり、付加価値創造に参加する人が、集落の人から、経営者、従業員、株主、金融機関、コンサルタント、などと分業により多様になった事でしょう。

複雑化した参加者(スークホルダーズ)はみな人間です、そこで日本的経営では「人間中心の経営」が一つの柱です、も一つは「長期的視点の経営」です。これは昔の人が集落のいつまでも繁栄する事を願ったように、長続きしないと社会が困るからです。最近の概念ではSDGs(持続可能な発展目標)でしょう。

ところで、こんな事を書いたのも、この「経営」という基本概念は、国にも当てはまると考えるからです。

政治というのは、「国家を経営するための活動」に他なりません。企業も、社会も国も、総て人間集団です。

何処の国でも、政府の最大の目的は「経済成長」でしょう。経済成長というのはご存じのようにGDPが毎年何%増えるかです。そしてGDPというのは、その国が作り出した「付加価値」そのものです。

では、大昔の集落の人々と、企業に関わる人々と、日本の国民と、みんな同じ人間集団なのに何が違うかという事になります。

先ず、違うのは規模です、集落なら皆顔見知りですし中小企業でもそうでしょう。しかし大企業、国となりますとそうはいきません。

そこで、知らない人が集まった人間集団を纏めて経営するための方法として、歴史的にいろいろありましたが、今は民主主義が最もいいのではないかという事になっています

こうした視点で考えますと、長い歴史の偶然の産物なのかもしれませんが、日本という国は、その日本的経営という思想の生まれてきた、縄文以来の1万数千年の歴史から見ても、企業経営の理念と、日本を経営する政治理念が、かなり本質的に、同時に合理的にしっくりと整合する「可能性」があるように感じられるのです。

今、残念ながら日本の政治は「混乱状態」そのもののようです。こうしたときに、日本が舶来崇拝で失敗した点は別枠にし、縄文以来の日本の優れた伝統文化に、多くのヒントがある事に気づく必要があるのではないかと思うところです。


緑を作る人、緑を破壊する人

2024年05月04日 15時27分48秒 | 文化社会

今日は「みどりの日」、国民の祝日です。

日本は世界でも有数な緑の多い国です。国土の森林率で世界トップはフィンランドの74%、日本が2位で68%、3位はスェーデンで67%4位の韓国が64%ですが5位のロシア以下は50%以下です。

緑がいっぱいあると思われているカナダやアメリカ、ニュージーランドでも30%台ですから日本に国民の祝日として「みどりの日」があるのも当然だと思う外国人も多いでしょう。逆に日本人は、緑が多い事が当たり前だと思っているので「みどりの日」が祝日で3連休になるから(今年は4連休)嬉しいといったくらいで、関心の薄いのが一般的のようです。 

今日の新聞でも「みどりに日」に関する記事は殆ど見られないようで、「みどりの日」についての関心の薄さを象徴しているようです。

このブログはどちらかというと「みどりの日」にはかなり大きな関心を持っていて「みどりの日」にもっと関心を持ってほしいと思い、いつも積極的に取り上げています。

もともと動物は、嘗て学校で教わったように、植物の作り出す酸素を取り入れて生きているのです。植物の持つ葉緑素が水と炭酸ガスから太陽光を使って光合成で成長する際に放出してくれる酸素を呼吸して生きているのです。

植物、葉緑素、つまり「みどり(緑)」があって、はじめて動物は生きられるのです。しかも、植物は動物の基本的な「食料」でもあります。

緑が沢山あれば、自然は豊かで、植物も動物も育ち(動物の仲間である)人間の成長も生存も保障されるのです。

日本人は縄文時代から「山が育てば海も育つ」という事を学び、山や森には「やおよろず」の神々が宿ると考え、山や海の恵みを「頂きます」といって命の糧とし、「みどり」を大事にし、自然と共存して暮らしてきた結果が今の国土の森林率の高さなのでしょう。

今、SDGs(持続可能な成長目標)が、地球人類にとって最も重要な概念で、具体的な取り組みが必須だと言われています。その基底には地球環境があり、それを支える原点は、太陽光線と水と「葉緑素」なのです。

我々が毎日のように見るウクライナの戦争で破壊された無残な都市の廃墟、パレスチナのガザ地区の瓦礫の山と飢える人たち、そこのは一片の緑もありません。戦争は常に大切な緑と自然の破壊者でもあるのです。

緑を破壊するものは、人類社会、その持続可能性を支える豊かな自然を育むべき地球という大切な存在に対する明らかな犯罪者と考えるべきではないでしょうか。

このブログが「みどりの日」の意義を強調したいと考える原点は、まさにその点にあるのです。

しかも日本は前述しましたように、山を育てれば生みも育つというSDGsの基本を縄文時代から理解し、その伝統文化を今に至る行動の中で実践してきているのです。

この伝統文化は、里山の形成、歴史にみる都市建設における緑との共存などあらゆるところに受け継がれているように思われます。

さらに一歩進めれば、縄文の1万有余年、日本には戦争が無かったという実証的研究があります。そして今、世界に先んじて戦争放棄を憲法に掲げた国という現実もあります。

SDGsという理念・思想・哲学が、人類社会発展の最大の敵は戦争という人類共通との認識を明らかにしっつつある現在、日本ではその伝統文化の中で、世界に先駆けて平和という人類社会発展への要件と、「みどり」という生態系循環の原点とを、まさに整合的に結びつけて来ているのではないでしょうか。

そう考えると、「憲法記念日」と「みどりの日」が5月の3日・4日と隣同士というのは、偶然にしても巧く出来過ぎているようですね。


「豊かな社会」から「快適な社会」へ

2024年04月30日 13時43分33秒 | 文化社会

このブログでは企業とは何かという問いに対して「人間が資本を使って豊かで快適な社会を作るためのシステム」というような定義をしてきています。

ここでのキーワードは「豊かで快適」という言葉です。かつては「企業とは利益を生み出すための組織」とか、「社会の富を作り出すための組織」といった言い方も一般的でしたが、今の企業は豊かさや富といった経済的な価値を作り出すだけでは駄目のようです。

K.ガルブレイスも書きましたように、豊かさ(affluence)を重視したのは人間社会が一般的に貧しかったからで、豊かになってみたら、『豊かな社会』(Affluent Society)は問題だらけという事になってしまいました。

嘗ては公害、今日では地球環境問題など、豊かにはなったかが、快適ではないという事が、環境問題から社会問題まで多くなった様です。豊かになって企業献金も膨大になれば、裏金問題も巨大になるといった不愉快な問題も生じるようです。

そんなこんなで、やっぱり豊かさという価値が、同時に社会全体に「快適」という人々が最も快く感じる価値も同時に生み出すものでなければならないという事になるのです。

快適をKAITEKIとローマ字で書いて、これを世界語にしたいという研究者もおられますし、三菱ケミカルの「キャッチフレーズ」も「KAITEKI」です。

快適という言葉は、英語ではcomfortableとかpleasantですが、これらはどうも即物的な感じが強く、快適のような精神的、人間の望む本来の正しさ、社会正義といった感覚や意識に通じるとこまで届かない様です。

ですからKAITEKIを世界語にしようといった考え方が出て来るのではないかと思いますが、それだけに「快適」という概念は今後大事にしなければならないものではないかと感じているところです。

こんな思考経路をたどってきた結果が標記の「豊かな社会」から「快適な社会」へ、になったわけですが、勿論世界の現状はまだまだ貧しさが至る所に残っています。

戦後10年「もはや戦後ではない」と貧しさ脱出を「経済白書」が宣言し、「1億総中流」という言葉が生まれた1980年代に至った日本でも、格差社会化が進めば貧しさはなくなりません。

現実は未だに「豊かで快適な社会の実現」と2つの言葉を並べなければならいのです。しかし、この2つの言葉をいつまでも並べていて良いのかというのが、豊かになりつつある今日の世界の課題であるような気もするのです。

自己中心の「豊かさ」に気を取られる人が多い事が、国民の生産した富を戦争の手段の高度化に使ったり、実際に戦争を実行し豊かさを目指すと言いながら豊かさを破壊し、貧困を助長したりしています。ビジネスでは豊かさを生まずに豊かさを偏在させるマネーゲームに狂奔する企業が増えたりといった現実も進行中なのです。

豊かさは必要条件ではあるが、それは地球人類の生活の快適さの増進のため必要なのだという意味で、豊かさは、それを「快適な社会」の実現に活用する事こそがこそが本来の目的だという意識の徹底が、「快適な社会」の実現のために、ますます必要になって来ているのではないでしょうか。


「昭和の日」に思う事

2024年04月29日 13時47分03秒 | 文化社会

調べてみたらもう4年も前の事でした。この歳になると、月日の経つのが矢鱈と早くなるようです。

ひょんなことから家内が「なんで明治天皇と昭和天皇のお二方だけ誕生日が国民の祝日になっているんですか」と言って、しばし返答に窮した私が、とっさの思い付きで、明治の時代に日本は内戦をしない国になった、昭和の時代に日本は外国とも戦争をしない国になった、これは国民にとって大変大事なことだから明治天皇と昭和天皇の誕生日は国民の祝日にして当然でしょう」と答えたとブログに書いたのが4年前の天皇誕生日なのです

当時の国民学校6年生の8月15日まで、徹底した軍国主義教育の中で育ち、はやく兵隊さんになって、戦地に行き、敵を倒し、自分も「天皇陛下万歳」と叫んで国ために命をささげることが本分と考えていた「昭和に日々」、これも昭和なのです。

「日本はもう戦争はしない、平和国家、文化国家、科学国家として新しい国造りに邁進しよう」、命を大切にし、より良い豊かな社会を作るという使命に生甲斐を感じるのが新しい生き方、というもう1つの昭和です。そして、私の今があるのです。

その両方の昭和を生きた人間として、この「2つの昭和」の生きる意味の違いを日本人の心の中に(出来れば世界人類の心の中に)確りと植えつけなければいけないと思うのが我々世代の役割だと感じるのです。

4年前のブログの最後は「このままで行くといいですね。」で終わっています。

今日振り返ってみれば、この最後に一言が、ますます強く意識されるようになってきているのではないでしょうか。

4日後には「憲法記念日」が来ます。話は今日に飛びますが、衆院補選では、国民は立憲民主党を支持したようです。

2つの昭和を生きた我々世代は、2つの昭和を截然と分けたのは平和憲法だとの認識を強く持っています。「戦争をする日本」と「戦争をしない日本」の違いを、それぞれの時代の毎日の日常生活の中で、噛みしめて暮らしてきた経験が、今も共存しているのです。

そして、2つの昭和の隔絶した相違、その人間の存在意義にとっての虚と実ほどの違いが人生のすべての判断に確りと影響していると感じているのです。

ユネスコ憲章の前文は「戦争は人間の心の中で始まるのだから・・・」という言葉で始まっています。そして歴史を見れば、その人間というのは「独裁者」だというのが経験的に共有される認識でしょう。

その結果、今の世界では、一国のリーダーとして独裁者(あるいはその可能性のある人)を選ばない事が重要という認識も一般化しています。

にも拘らず、この所、独裁的なリーダーが多くの国で出現しています。そうした中で、2つの昭和というある意味では稀有な歴史を持つ日本が、如何なる使命感を持って、混乱する国際関係の中で発言し、行動するか、戦後80年「非戦」旗印の下で国を維持してきた日本が何をすべきかは大変重要なのではないでしょうか。

「人の噂も75日」と言いますが、「平和の理念も75年」などと言う諺が出来ない事を願うばかりです。


人口減少・都市消滅、長期予想を反面教師に

2024年04月26日 15時08分01秒 | 文化社会

有識者グループ「人口戦略会議」は、国立社会保障・人口問題研究所の推計をもとに2050年を過ぎると出産適齢期の女性の数が多くの都市で半減し、その結果人口が急減する可能性が高くなり、結果的に全国で消滅する都市が744に達するという推計を発表し、反響を呼んでいます。

前提は社会保障・人口問題研究所の日本の人口の将来推計で、これは都道府県別、市町村別など詳細ですから人口戦略会議はその推計を発展させ、都市の消滅というショッキングな推計にまで展開したのでしょう。

元々の人口推計は、2030年には日本の人口は1億1500万人になり、2050年には9500万人、2100年には4800万人という中位推計の数字です。

「人口推計」は比較的正確度が高いなどと言われるので、政府機関がこういう数字を出しますと、真面目な日本人はどうも将来について悲観的になるようです。

それでも「あなたの住んでいる都市はいずれなくなりますよ」などと言われば「消滅などさせない」という人の方が多いと思いますが、このところ長期不況で、元気が出ない日本人も「そこまで言われては」と少し昔の元気を取り戻せないものでしょうか。

政府は高齢化対策ばかり懸念していた時代から、アメリカに追随いて防衛力の増強に熱心になり、今度は子育てに力を入れると言い、防衛費までは何とか算段をしましたが、子育てではもう財源がありません。国民一人一人に金を出せという事になるようです。

政府は「出せ」と言えば済むのかもしれませんが、国民にすれば、稼がなければ出せません。そして結局は経済成長が無ければ駄目だという事になるのです。

考えてみればこれは当たり前のことで、政府はおカネの印刷は出来ても、経済成長は民間にしかできない仕事です。つまりは、民間、具体的には企業の労使が頑張って経済成長を実現するしかないのです。

いくら政府が補助金や給付金を出しても、経済は成長しないのです。補助金や給付金は、国民の「やる気」を「カネを出した分だけ」失わせているのです。

今年の春闘はその辺に企業労使が気付いて、やっぱり労使が協力して頑張らなければ駄目だと思い直し、「まずは給料を上げよう、カネは大分溜っているから」という雰囲気が出てきたところでしょう。

この企業労使の「気付き」は極めて大事です。1980年代まで、日本の労使はアメリカ・ヨーロッパ何するものぞ、という気概で、世界一の経済成長を成し遂げて来ました。

私自身、駆け出しのころ国際的な会合で、日本の高度成長の説明に苦労しましたが、次第に日本の発言が一目置かれるようになり、非常にやり易くなったのを実感しています。

あの頃の日本人がやって来た事が今の日本人に出来ない事はないでしょう。政府に頼るのをやめて、民間企業(労使)が「我々が主役」の意識で本気になれば、それは容易に可能になるでしょう。井深大、本田宗一郎、松下幸之助の時代の続編です。

そしてその結果が出れば、気が付いたら合計特殊出生率も上がっていたり、厚生労働省は人口推計をやり直したり、都市が消える話などは忘れられるのではないでしょうか。

その頃の年寄は「あれは反面教師だったのだよ」と言うかもしれません。


報復と寛容、争いと競い、多様性の尊重

2024年04月17日 16時52分34秒 | 文化社会

ロシアのウクライナ侵攻で世界中が心を痛めているのに加えて、パレスチナとイスラエルの問題が起き、それがさらに飛び火してイランとイスラエルの対立を誘引する様相で、地球人類社会の平安を願う多くの人々の心配は拡大しています。

ロシアの場合は中世の領土拡張の欲望の延長でしょう。イスラエルの場合は報復の応酬で、ガザのパレスチナ人を殲滅などという言い方も聞かれ、何処まで何が目的かを考えるのも恐ろしい限りです。

ダマスカスのイランの大使館爆撃から起きたイランとイスラエルの問題ではパレスチナ問題と同じように、「報復」という言葉がもっぱら使われます。

この「報復」という言葉は日本ではあまり良い語感を持っていません。理由は多分「報復」が正しいとなれば、報復の連鎖で、争いは永遠に続くという事が日本人の感覚の中では一般的だからではないでしょうか。

「報復」の連鎖を止めるためには、相手を殲滅しなければなりません。相手を根絶やしにすれば「報復」はなくなるのでしょうが、歴史上でもそれは不可能です。

出来ない事をできると思って、人間が人間を殺す事を正当化するというのは、人類にとって、余りに不幸な事と日本人には感じられるのでしょう。菊池寛の「恩讐の彼方に」は報復を超越したあるべき人間本来の心を描いて、広く人びとの共感を得た作品でしょう。

 

このブログでは人類社会には「争いの文化」もあるが「競いの文化」もあり、例えて言えばこれは「戦争」と「オリンピック」で、相手を征服するのではなく、共存して競い合う事が人類社会に平和と発展を齎す源という理解をしています。

「報復」を否定し「寛容」を求めると言ってもそれは容易ではありません。人間がその大脳の発達を人類社会の安定と発展のために使おうと本気で考えるとき、「争い」や「報復」も文化は否定され、「競い」が人間の持つべき文化という「共存」と「寛容」の世界が実現されるのでしょう。

そして、それと同時に人間の気付くべき人間本来の意識があります。これは意識というよりも、本能に近いのかもしれませんが「多様性への憧憬」や思考のレベルでいえば「多様性の尊重」でしょう。

人類は多分時間についての特異な認識を持つ生物として、過去、現在、未来を統一的に理解できる「万物の霊長」としての意識を強く持っています。

この自己認識は「人間さえ良ければ」、「特定の人間集団さえ良ければ」といった利己的、自己中心的な認識に繋がったようです。

しかし同時に、人間は本来、自分以外の者、異種のものにも関心や興味を持っているのです。動物園、植物園、水族館を作り、異文化への関心、異国情緒への憧憬等々の感覚を持ち、今やそれが、生物多様性の尊重、異文化との交流が人類社会の発展のために必要という「多様性の尊重」の合理性の認識に到達しているのです。

国連はこうした人類の文化の進歩を、ユネスコなどの活動を中心に、世界に広め、争いの文化の否定、多様性の共存の尊重が人類社会の発展を促進するという思想、哲学を世界が共有するという事で、国際紛争をその根から断つことを目指す時期が来ているのではないでしょうか。

こうした活動については、日本と日本人は、世界の平和と発展のために役立の多くの知恵を持って多大な貢献が可能のような気がしています。


座標軸・原点・度量衡の意義

2024年04月13日 18時12分54秒 | 文化社会

スマホには「位置情報」という機能があって、そのスマホを持って歩いていればどこに行っても「今自分が何処にいるか」解るようになっています。

自分が何処にいるか知られたくないのであれば「位置情報」の機能を切っておけばいいという事の様です。位置情報を切っているという事になりますと何か「胡散臭い」という事になるのではないでしょうか。

動物にも位置情報が本能によってビルトインされているようで、自分の巣は何処かとか、ハクチョウやツルは毎年同じところに来るとか、鮭は自分の生まれた川に帰って来るとかいった行動をします。

人間にはそんな機能はないので、地図や磁石やスマホが必要になるのでしょう。

中学生の時だったかと思いますが、先生が黒板に白墨で小さな点を書きこの点が何処にあるか説明するにはどうするかと言いました。

訳が分からないでいると先生はその点の近くにタテ・ヨコに十文字の長い線を引いて、「この横の線はX軸、縦の線はY軸、この2本の線の交点を原点という。さきほど書いた点はX軸の原点から右に30㎝の真上、Y軸の原点から上に20センチの右真横、だから「原点の右30㎝その真上20㎝と位置を説明できると言いました。

そりゃあそうだ、だけど、先生は勝手に線を引っ張ってその交点(原点)から何㎝といっているので、何でそれでいいのかな、などと漠然と考えていました。

後からだんだん解ってきたのは、先生の言ったのは「方法論」で現実の世界では原点や軸の位置をみんなに共通なものとして決めて使っているのだという事でした。

今は地球上では経度と緯度が正確に決まっていて、世界中の位置情報は共通です。位置情報だけではありません、時間の原点は西暦紀元で共有になり、暦も閏秒が問題になるほど正確に共通になり、距離はメートル原器があり、重さや温度もグラムや℃で、原単位が違う場合は換算式が決まっていて、世界中共通理解が可能です。

中学生の時に先生が引いたX軸とY軸、その交点が原点でそこから何㎝という度量衡の原単位が世界中共通になって、大変便利になりました。

ところで、こうした物理学的な原点や原単位の共通化を経済の面でも利用できないかという事が当然考えられるでしょう。経済の度量衡、つまり経済価値を測る単位は今はドルという事になっています。各国通貨との換算式も固定的に決まっていれば大変便利です。

それを目指したのが戦後のアメリカが主導した「ブレトンウッズ体制」です。価値単位の原点であるドルの価値は1トロイオンスの金(きん)が35ドルと決め、日本円は1ドル=360円といった換算式(円レート)を決めたいわゆる「金為替本位の固定相場制度」でした。

これは1960年代まで続き、この間世界経済は順調な発展を遂げて来ていました。しかし1971年のニクソンショックでこの体制は崩壊、ドルの価値は原点の金と切り離され、結局今日の変動相場制になっています。

変動相場制では、基軸通貨ドルの価値は金という原点が無く浮動しますから、度量衡の換算式は常に変動し、1メートルのメートル原器が80cmになったり120cmになったりするようなもので、経営も経済も不安定になってしまうようです。

これをどうするかという知恵は、現状では無いので混乱が続いています。


昨3月10日は東京大空襲の日でした

2024年03月11日 14時57分52秒 | 文化社会

今日3月11日は東日本大震災の日です。13年前の東日本大震災、それに今年1月1日の能登半島地震もあり、災害に関する報道が数多くありました。

しかし、東京大空襲、それに現在起きているガザの悲惨な戦争と自然災害は根本的に違います。

自然災害、特に地震や津波は、地球上に住む人類にとっては避けられないものです。それは地球自身の性質に起因するからです。しかし、今も、ウクライナやガザで起きている戦争による災害は人間自身によるのもで、人間の考え方や行動次第で避けられるものです。

東京大空襲では一夜にして東京の下町に住む10万の人命が失われました。太平洋戦争では日本中の主要都市で多くの民間人の命が失われています。

ウクライナやガザの報道では、戦闘員でない民間人特に子供の犠牲は、人道問題として特別に数字が出たりします。勿論人命を数字にするなといった意見はその通りだと思いますが、戦闘員以外について人道的という言葉を付けて別に考えるのは、太平洋戦争当時より人間として進んだ考え方といえるのかもしれません。

確かにあの時代、アメリカは日本人の戦意を喪失させるには民間人であろうとも、より多くの犠牲者をだすことが必要と考えたのでしょう。

東京大空襲で失われた10万人のほとんどは非戦闘員で絨毯爆撃で都市住民を大量に殺傷する事が目標だったのでしょう。東京大空襲を皮切りに日本の主要都市は一夜にして市全体が焼野原という日が続きました。

私の住んでいた地方都市も焼夷弾で一夜にして2棟の黒焦げのコンクリートビルを残して焼け野原でした。ヒューという鋭い焼夷弾の落下音、ドスドス、バサバサ地上に落ちる音、べニア板に土を被せただけの防空壕は直撃弾に見舞われれば終わりです。真っ黒な雨の中をとにかく逃げました。

幸い家族4人怪我がなく、最後に逃げ込んだ学校の物置から、明け方、我が家に行ってみると瓦礫の山が燻ぶっているだけでした。

こうした絨毯爆撃の先に広島、長崎の原爆があったのでしょう。日本人を殺せば戦争が終わるという事だったのでしょう。原爆は戦争を終わらせるために必要だったという意見がアメリカでは一般的だったと聞きます。

今イスラエルは、ハマスを殲滅すれば、パレスチナ問題は解決するという考え方のようです。人類は進歩していないようです。アメリカは国連安保理で、拒否権を使ってまでイスラエルを支援しています。

そして、太平洋戦争終了後、日本の非武装化、平和国家化を徹底的に指導し、日本は反省と共に平和憲法を掲げました。しかし今、アメリカは日本が味方につくことを前提に、防衛力強化、台湾有事にはアメリカと共に戦うべきと考えているようです。

そして、日本の現政権はそれを是としているように見えます。

肝心の日本国民はどう考えているのでしょうか。


昨日は建国記念日でしたが「国とは・・・?」

2024年02月12日 14時18分31秒 | 文化社会

昨2月11日は建国記念日でした。日本の国が生まれた日にちという事です。

古事記などに書いてある日を、今の太陽暦に読み替えて2月11日になったのでしょうが、何処の国にも建国記念日はあるのでしょう。という事は、国民にとって建国を記念する日はあった方がいいという事だと考えていいのでしょう。

建国記念日を印象付けらえたのは昭和15年で、小学1年生でしたが、その年は中国の故事から算定した紀元(皇紀)2600年という事で、「紀元2600年の歌」や「建国団子」という菓子まで出来て、戦時愛国教育の中で国中が盛大なお祭りでした。

建国記念日が、独裁政権に利用されるのは大変困ったことですが、素直に国という大事な社会の単位が成立したことを祝う日があることは良い事のように思います。

社会の最小単位である家族から、最大単位である国まで、社会にはいろいろな単位がありますが、地域や学校や企業などなど社会の単位があって、そこに帰属する事によって、愛着や安定感を持つのはSocial Animalである人間としては自然なことなのでしょう。

その中でも、最小と最大の単位である「家族」と「国」は、自分で選んで参加する事が出来ません。生まれた時に与えられているのです。

かつて「ルーツ探し」が流行った事がありましたが、例え流行していなくても、自分のルーツを知りたいというのは多分本能的なもので、人間である限り自然な事なのでしょう。

動物にも帰巣本能があるようですが、脳が時間の経過を意識して、記憶を時系列に整理できる機能を持つ人間にとってはルーツに興味を持つことは自然なことでしょう。

こうした機能を持った結果、人間は自分の生まれ育った環境、家族、地域、国、そこで知り合った人々に愛着を持ち、何時かはそこに戻る事、物理的に戻るか、記憶(思い出)の中で戻るか、その形はいろいろあるにしても願望を持つのがその本性でしょう。

ところで問題は、こうした人間の持つ、本能から記憶、知識に続く本性を許さない事態が、この所国という社会単位の間で深刻な問題になっているという現実があります。

国を捨てる、故国を捨てざるを得ないという現実が、多くの国で起きているのです。難民の発生です。

社会の最小の単位である家族と最大の単位である国は、その本来その在り方として「出入りの自由はきかないという形で成り立ってきているのは、おそらくその方が人類社会にとって望ましいと人々も考え、その方が人類社会としてより自然であるという、人間本来の意識の結果でしょう。

そうした自然の在り方を壊すのは、殆ど独際的な政権の場合です。つまり独裁国では、人間にとって不自然な事を国民に強いているという事でしょう。

これを阻止する役割の組織は、国連を措いてありません。しかし、今の国連は、その役割を果せません。私はUNHCRに毎月幾何かの寄付をしています。そして国連は難民を助けるだけでなく難民を出さない世界を作ることを優先すべきではないかと思っています。

世界人類すべてに、それを考える責任があるのではないでしょうか。


好天の春の土曜日、ふと考える

2024年02月10日 15時16分19秒 | 文化社会

「世の中は 食うてばばして 寝て起きて 子が親になる 子が親になる」という戯れ歌があります。類歌もありますが、これが一番語調も滑らかで、スッキリしているので、いいなと思っています。

戯れ歌と書きましたが、一休禅師が言われたという言い伝えもあり、当たり前のことを並べたままですが、人生の奥深い意味を表しているといった解説もされています。

この所、世界は騒然です。戦争、内戦、紛争などなどで多くの人命が失われています。人が人を殺しているのです。まさに地獄の沙汰です。

そうであればあるほど、この三十一文字は重い意味を持っているように思うのです。

先日、還暦の長女からLINEで「孫が満1歳なって、家の中を走り回っています」というDOGAが送られてきました。

我々夫婦にとっては2人目の「ひ孫」で、結婚が早かった孫娘のところのひ孫はもう小学1年生です。

こんな事をのんびりと考えていると、世の現実は、冒頭の「みそひともじ」そのものだとつくづく感じ、しばし感慨に浸る事になりります。

孫が生まれた時はそこまで考えが及ばなかったようですが、ひ孫という事になりますと、我が家に遊びに来て「おじいちゃんが遊んでくれない」と泣き出したあの孫娘が、もうレッキとした母親になっているとか、写真を撮るというといつも白目をしたり大口を開けたりしていた孫息子が1人前の父親になって走り回る子供を抱き抱えていると思うと、本当に「子が親になる 子が親になる」という時の流れ、世代の移り変わりを実感として受け取ることになるのです。

人間も生物の種の1つです。種の保存は、人間が生物である限り与えられている願望でしょう。それがその願望通りに続いているという事の意味を知り、その実感を持っとき、矢張り人間は人生の幸せをごく自然に意識するのでしょう。

これが自然なのです。人間の活動のすべては、こうした種の保存の連続性に支えられているのです。

残念なことですが、人間はそれを知りながら、生命の連続性を断ち切る戦争という自然の摂理に反する活動を続けて来ました。そして今でも続けているのです。それは、人間は自然によって生かされているという人間の本質を冒涜する行為でしかあり得ません。

冒頭の戯れ歌が、誰にも共通に喜びと人の世への感慨を齎すような世の中が早く来てほしいとつくづく考える今日の土曜日です。


「令和の改革」が必要になって来た

2024年01月22日 16時42分56秒 | 文化社会

昔の日本でしたら、今年劈頭の能登の災害は「天が怒っている」と考えたでしょう。沖縄の辺野古では県民の意思を無視して粛々・着々と進む軟弱地盤補強工事、能登では現地の人達は天を仰ぎつつ天災の不運に耐える辛苦の毎日です。

今の日本では、こうした極端に鮮烈な対比が「天の意思」と考えなくてもよいのかもしれません。こうした今の科学では「偶然」として見過ごすような自然現象を、かつってのにほんでは「天の意思」と受け取り自らを省みる文化がありました。

そしてそれが、権力者の行き過ぎた権力の乱用を許さないという権力者への自戒の圧力、更には優れた社会的な意識や行動に繋がっていたことは、人間の知恵の深さを感じさせるものではないでしょうか。

「小人玉を抱いて罪あり。」選良の先生方を小人と例えては恐縮です。これは諺です。「権力は腐敗する。」という諺は洋の東西を問いません。

罪や腐敗を防ぎ、新しい人々が新しい思いで国造りに励むことの繰り返しが進歩発展を生むのでしょう。徳川260年の歴史なかでも3回の改革が行われています。

技術革新のない時代、今でいえばGDPは増えません。権力が無駄をすれば幕府の財政は保ちません。「倹約令と新田開発」の享保の改革(1716)、「不作・凶作に備え備蓄」を図った寛政の改革(1787)、「インフレ対応」の天保の改革(1841)です。

こうした改革があって、260年に及ぶ幕府の存続に貢献したという事でしょう。天保の改革はマネー経済の発達と貨幣発行のバランスの問題の理解不足が社会の混乱につながり、外国船の来訪もあって幕末に突入、国際情勢の変化に幕藩政治が対応できず明治維新という大改革になったのでしょう。

つまり、国という社会は、統治者を必要とするのですが、統治者は、「権力は腐敗する」の原理や、時代の変化に対応できず、改革が必要となり、改革が成功して社会が安定し進歩するというサイクルを繰り返しているのです。

戦後の日本を見れば、戦後の政財界を背負ったのは40代ぐらいの若い人たちでした。この清新の気迫が、抑圧された軍国主義から新たな平和と民主主義の社会をめざす、国民の真摯な努力に支えられて高度成長の実現につながったのでしょう。

しかしこの間権力を維持した自民党政権は、長期化と共に驕り高ぶり、1985年のプラザ合意による円高の本質の理解も怠り、その後は政権維持が目的という時代に入ってしまったようです。

この傾向は安倍政権以来急激に高まり、マネー経済と天保銭の増鋳(赤字国債増発)、新たな黒船を受け入れ、カジノもミサイルもという、明治維新の自主性もない民意と離れた支持率の極端に低い日本になりつつあるようです。

徳川時代の改革は老中がやったのでしょうか。今の日本の改革は誰がやるのでしょうか。今の日本は民主主義国ですから、矢張り国民がやるのでしょう。その手段は現実には「選挙しかない」のです。今の日本人は、能く必要な改革をやり遂げることが出来るでしょうか。


「人口8千万人、安定・成長国家」:「人口戦略会議」が提言

2024年01月15日 15時49分18秒 | 文化社会

人口戦略会議というのは、前日商会頭の三村明夫氏が代表を務める民間経営者、学者などからなる民間団体です。

この「人口戦略会」が提言書「人口ビジョン2100-安定的で、成長力のある『8000万人国家』へ-」を発表,新春早々岸田総理に提出しました。

 

この背景にあるのは政府(厚労省)の出している日本の人口の将来推計で、良く知られているのは、2100年には日本の人口は6300万人と今の半分になるという事でしょう。

勿論政府は人口減少には危機感を持っていて、岸田総理も少子化対策は重視していて子育て予算倍増を目指すなどの政策を掲げていますが、矢張り最優先は防衛予算倍増のようで、これは戦争に巻き込まれ、若者の命が失われる事にも繋がるものです。

そういう中ですから民間の確りした組織が政府に圧力をかけないといけないのです。政府が独断で何でも閣議決定すませては困るので、純粋の民間組織が、国民の立場から政府に提言をするというのは大変良い事だと思っています。

人口の規模というのは、国家の最も基本的な枠組みですから、その具体的な指摘がされた事は最も大事な視点だと言えると思います。2017年の春闘の際だったかと思いますが、労使が共に、人口減少を逆手にとって良い国づくりを考えようと指摘したことがありましたが、今回はさらに一歩前進です。

提言の骨格としては、2100年に合計特殊出生率2.07(人口安定レベル)を目指し出生率の上昇のプロセスを示し、その間人口減少の中でも人口の質的強靭化、多様性を持つ成長社会を目指すという観点です。

そのために豊かで幸福度の高い社会(次代の子供を産み育てる気になる社会という意味でしょう)、そしてそのために必要になる効果的・効率的な社会政策・国土政策などを解り易く述べている感じです。

考えてみれば、プラザ合意で円高にされてから、バブルをやり、崩壊し、コスト不況を乗り切ったと思った途端にリーマンショック、黒田バズーカで円安に戻しても、アベノミクスの迷走という政策の失敗続きで疲れ果てた日本人に展望を与え活を入れ、政府には、もう政策の失敗は許されないぞという檄を飛ばした提言ではないでしょうか。

このブログでは、「政府が駄目なら民間で」と書いて来ていますが、こうした国民の心を掴む民間レベルの真剣な提言が種々の分野で続出する事が望まれるところですし、それが、政府の「(勝手に)決める政治」が、いかに日本を貶めてきたかを、今後の日本のために明らかにすることを望んでやまないところです。

この提言が生きて効果を発揮するプロセスは、カネまみれの政治貴族に堕した政治家が民主主義国の政治家に生まれ変わり、国民が国家の主権者であることを改めて認識し、誇り高き主権者に成長するプロセスでもあるのではないでしょうか。

(tnlaboでは、人口1億~8千万人で安定を目指すぐらいでもと思っています)


年末年始の行事と日本の食文化

2024年01月08日 15時48分42秒 | 文化社会

今日は成人式の月曜日です。祝日を月曜にもってくるハッピーマンデー制度で、成人の日が鏡開きより早く来ました。成人の日、海の日、敬老の日、スポーツの日の4祝日が月曜日になりました。3連休を楽しもうという趣旨でしょう。その結果、結構なことに、鏡餅が成人の日にも飾ってあります。

話が初めから横道にそれてしまいましたが、本題は年末年始の食べ物に関する行事です。年末年始の食べ物に関わる行事と言えば、

冬至にはカボチャを食べましょう

年の暮れには餅つきをしまし、鏡餅を飾りましょう

おせち料理も作りましょう

大晦日には年越しそばを食べましよう 

新年の三が日はお屠蘇(元旦)と雑煮で祝いましょう

おせち料理を食べてゆっくりしましょう

1月7日には七草粥を食べましょう

11日は鏡開き、鏡餅を割って食べましょう

日本の年中行事は健康を意識したものが多いようですが、この中で見ましても、冬至のカボチャは、冬になって野菜の摂取が少なくなるので黄緑色野菜の代表のようなかぼちゃでビタミンの補給を心がけます。餅をつくのは、正月はゆっくりと体も気分も休めるように保存食を用意し、神前にも備えます。おせちも日持ちの良い料理を纏めて作り保存の効く重箱に詰めるのです。

年越しそばは忙しい大晦日の夕食をファーストフードの蕎麦で済ますというのと同時に、江戸では白米食によるビタミンB1不足を補う意味もあったようです。

元旦の屠蘇は多様な薬草を含む健康願望の意味も大きく、1月7日の七草粥は、保存食の続いた正月の食事に新鮮な野草でビタミン補給と同時に、胃腸に優しい粥でという意味が大きいようです。

そんな伝統、年中行事、生活習慣があるので、欧米に比べて肥満が少なく、平均寿命が長く、高齢者の就業率も高くなっているのかもしれません。

ところで、鏡開きは神前に供えた鏡餅を神様のご加護とともに頂くのでしょうが、この頃になると、餅には青カビが出て来ます。この辺で食べないと、という知恵でしょうか、そこで落語を1つ。

昔の話ですが、林家木久扇が弟子だったころ師匠の林屋彦六に、カビの生えた餅のカビを削れと言われ、面倒くささについ愚痴が出て、「何でこんなにカビるんでしょうねぇ」と言ったら、師匠の彦六が一言「早く食わねえからだぁ」・・・。お後が宜しいようで、


喧嘩両成敗:日本の知恵

2024年01月06日 12時04分15秒 | 文化社会

ケンカ両成敗という言葉が日本にはあって、大変便利に使われています。

「お兄ちゃんが僕のお菓子を取ったから、僕はお兄ちゃんの本にマジックでバツ印を書いたんだ」というような兄弟げんかの時、親は「喧嘩両成敗ですよ。2人とも謝りなさい!」といて決着をつけるのです。

子供は両方とも、自分のやったことは「悪い事」だという事は解っていますから、それぞれに不満はあっても、それで納得してケンカは収まるのです。

この考え方を、日本以外の所で披露しても、なかなか理解されないようです。先に弟のお菓子を取った方が悪いとか、大事な本のマジックでバツ印などマジックは消せないのだからもっと悪い、と言い始めると収まるものも収まらなくなります。

ハマスとイスラエルの問題を見れば、仕掛けたのはハマスで、それを契機にハマスを殲滅するまで戦うというのがイスラエルです。そしていずれの側でも、関係ない一般人が多く犠牲になっています。しかし「両方悪い」という発言は聞かれません。

現実は「両方悪い」といった立場は取らず、主要国でも「どちらかを支援する」という立場をとるという事になるのです。その結果は、世界を二分する形になり、紛争はますます収まりにくくなります。

この違いはどこから来るのでしょうか。それは、日本の対立があれば融合・習合を考えるという伝統文化と、宇宙は神と悪魔の対立とする二分論の宗教・文化から来るという意見もあるでしょう。

しかし、文化や宗教の違いを論じてみてもそれで平和が訪れるわけではありません。少数の独裁者の意思で対立が起き、平和を望む多くの人が犠牲になるという現実は、人間社会の在り方としても極めれ不条理なものです。

現に国連は戦争を続けるべきではない、停戦こそが望ましいと言っています。しかしそれが聞き入れられないのは少数の独裁者の意識が二分論を信奉しているのでしょうか。

相戦う二分論のリーダーたちは、どちらも、自分は神の下にあり、相手は悪魔の僕だと信じているのでしょうか。それでは争いは絶えず、人類の繁栄を願う神の意志にも反するでしょう。

狭くなった地球、接触の機会の多くなった人間同士、平和共存の知恵の必要性はますます高まるでしょう。

そうした中で平和を願い、「戦争(喧嘩)そのものが悪」とする思想は世界のより多くの人々に共通な理念となっているのではないでしょうか。

そうであってみれば、日本人の育んできた知恵である「喧嘩両成敗」という考え方は、世界に平和を齎す重要な社会規範として、世界の文化の中に広め、広く共有されるように、日本としては積極的に努力すべきではないでしょうか。