夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

年金生活10年過ごしてきた中、やはり『健康』、『生きがい』、そして程ほどの『お金』と深めて・・。

2014-09-18 12:50:54 | ☆夢幻のような安楽な60代☆
私は東京郊外の調布市の片隅みに住む年金生活の身であり、
まもなく誕生日を迎えると古希と称される70歳となり、早や実質として年金生活は丸10年が過ぎている。

こうした中で、第二の人生と称せられる年金生活を過ごしてきた中、
やはり『健康』、『生きがい』、そして程ほどの『お金』かしら、と感じ深めている。

『健康』に関しては、もとより健康でなければ、それぞれの人の日頃のささやかな願いも叶わない。
私は現役サラリーマンの時代の時、50歳の頃に会社の懇親会で、
定年退職されたOBの65歳のひとりと談笑した時に、
年金生活になると、病院にお金を運ぶか、趣味でお金を使えるか、と教示され、
天と地の開きがありますね、と私は応(こた)えたりした。

そして大病は、ご自身の自助努力と幸運がなければ避けられない、と漠然と思ったりした。
          

私の中学時代の同級生の女性のひとりが、父上が中小業の創業者で成功され、裕福な家庭で育ち、
私たちのクラスでは、ひときわ目立った同級生であった。

やがて私は40歳になった頃、休日のひととき、家内から依頼されたケーキを求めて、
最寄駅のひとつの『成城学園前』の駅前の近くにある洋菓子店で、
偶然に逢い、誘われるまま、2階にある喫茶ルームで談笑した。

何かしら20代のなかばで結婚されて、相手の男性はある国立大学を卒業されて、
ある大手の民間会社で奮闘されて、国内はもとより海外の生産工場まで飛び回っているので、
休日も少ない、と私は聞いたりしていた。

そして高校2年、中学2年生の男の子、小学6年生の女の子がいるわ、
と明るく楽しげに私に話しかけられ、私はまぶしげに聞いたりしていた。

やがて近くに家があるから、と聞いたりしていたので、
送りながら私たちは中学時代の幾人かの同級生の話題をしたりし、
まもなく、ここが私たちの家、と言われて、門扉の前で私たちは別れた・・。

そして私は門扉を通して、広々とした敷地、豪壮な洋風の家を見ながら、
私のようなサラリーマンでは生涯の給与、ボーナス、退職金を合算を想定しても2億5000万円前後が限界だし・・
とても・・桁違いの裕福なご家庭だ、と羨望も嫉妬も超えてしまった。
          

この後、10数年過ぎた時、この主人が突然に亡くなり、
私は近くの寺院でお通夜に参列して、ある事業部の責任者に栄進されたので、盛大な葬儀が執行されていた。
やがて心筋梗塞で死去された、と私は聞いたりした。

そして現役時代は死ぬ気で働らくが、退職後は南太平洋でのんびりと過ごしたい、
こうした思いがあった、と私は聞いたりし、仕事に殉じた企業の戦死、と思いながら瞼(まぶた)が熱くなった。

やがて遺(の)された私の同級生、そして成人前後のお子様・・
こうした心情に思い重ねる、と人生は時には残酷なことを・・と思い馳せたりした。


私が定年退職して、まもない時に中学校のクラスの有志会に参加した時、
この女性の話題がたまたま成った時、仲良しだった同級生の女性から、
今は仙台に住んで、ご長男宅に同居しているが、あいかわらず裕福で生活には困らないが、
少し寂しそうだったわ、と電話連絡の時に感じられた、と私たちに教えてくれたりした。
          

私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭に築後35年を迎えた古ぼけた一軒屋に住み、
お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

私は民間会社の中小業に35年近く勤め、2004年〈平成16年〉の秋に定年退職後、
その直後から多々の理由で年金生活をしている。

私が現役サラリーマンだった58歳の時に、同僚の死去に接したり、
そして年金生活を始めて数年過ぎる中、先輩、同僚だった人たちの死去を知り、
余りにも若き60代なのに、と戸惑いながら、ご冥福を祈ったりしながらお通夜に参列したりした。

私は定年の5年前に、定年後の60代の10年間だけは五体満足に生かしてくれ、
その後の70代以降の残された歳月は、余生であると漠然ながらと思ったりしてきた。
          

こうした中で、私たち夫婦はお互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。


私は定年退職後、年金生活を始めた当初から自主的に平素の買物担当となり、
毎日のように独りでスーパー、専門店に行ったりし、ときおり本屋に寄ったりして、数冊を買い求めたりしている。
その後も独りで自宅から3キロ範囲の遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受している。

        
        
定年前の私は、現役時代のサラリーマンの時は数多くの人たちと同様に多忙で、
家内は我が家の専守防衛長官のような専業主婦であり、日常の洗濯、買い物、料理、掃除などで、
家内なりの日常ペースがあり、この合間に趣味などのささやかな時間で過ごしてきたので、
定年後の年金生活を始めた私としては、このペースを崩したくなくなったのである。

そして少なくとも家内は料理、掃除、洗濯などをしてくれるので、
家内が煎茶、コーヒーを飲みたい時を、私は素早く察知して、日に6回ぐらい茶坊主の真似事もしている。

こうした中で、ときおり小庭の手入れをしたり、友人と居酒屋など逢ったり、
家内との共通趣味の国内旅行を幾たびか重ねている。
          
      
日常の大半は、随筆、ノンフィクション、現代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

このような年金生活を過ごしているが、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。

そして日常生活で、昼下がりのひととき眠くなったら、
いつでも昼寝ができることは、年金生活の特権かしら、と享受する時もある。

年金生活の我が家の基本は、厚生年金、わずかな企業年金を頂き、通常の生活費するのが原則としている。
しかし共通の趣味のひとつである国内旅行、或いは冠婚葬祭などの思いがけない出費などに関し、
程々の貯金を取り崩して生活している。

そして、毎年年始が過ぎた頃に、新年度の月別の概算表を作る際、
家内の要望などを織り込んで作成し、予算としている。
従って、年金生活の身であるから、今年も赤字が120万円前後かしら、とお互いに確認し合っている。

こうして私たち夫婦は経済的に贅沢な生活は出来ないが、
働らなくても何とか生活ができるので助かるわ、
と家内がときおり、 呟(つぶや)くように私に言ったりするので、私は苦笑したりしているのが、
我が家の実態である。
          

このように年金生活を過ごしているが、私は敬愛しているチャップリンの遺(のこ)された言葉のひとつに、
《 人生には三つのものがあればいい。希望と勇気とサムマネー。 》
という名言があり、人生の確かな格言ですねぇ、と程ほどの貯金しかない私でも、信愛しているひとりである。

このような私であるので、もとより健康は大切である、と確信を深めながらも、
余りにも我が身を安住な環境ばかりこだわり安息な日々を過ごすと、この残された人生は狭い思考となるので、
ときには私たち夫婦は異郷の地に旅路を重ねてきた。

そして私たち夫婦は海外の地は苦手であるので、
せめてと思いながら日本の四季折々の各地を訪ねてきた。

例えば北海道の各地、雪舞い降るマイナス10数度の中、
山里、街の外れなどの雪路を歩きながら、圧倒的な異郷の冬麗な美の情景を享受している。


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定年後の年金生活の中、『特定健診』を受診して10年、大いに変貌し溜息を重ねて・・。

2014-09-16 12:52:46 | ☆夢幻のような安楽な60代☆
私は東京郊外の調布市の片隅みに住む年金生活の身であり、
そして私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭に築後35年を迎えた古ぼけた一軒屋に住み、
お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

私は民間会社の中小業に35年近く勤め、2004年〈平成16年〉の秋に定年退職後、
その直後から多々の理由で年金生活をしている。

そして私より5歳若い家内も、お互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。

こうした中で、私は9月下旬の誕生日を迎えると古希と称される70歳となり、
家内も12月下旬の誕生日を迎えると65歳となり、介護保険証を受ける身となっている。
          

こうした中で、調布市から2か月前に、年に一度の『特定健診』の通知書を頂き、
私は3週間前に最寄りの内科病院に予約し、
本日の午前中のひととき、雲が三つばかりある晴れ間の中、少し体重が減ったかしら、と思いながら、
人影のない遊歩道をスキップするように軽やかに歩いて向った・・。

年に一度の健康診断は、以前は『お誕生日検診』と平成19年度まで称されていたが、
何かしら基本健診に血圧測定、血液検査などが加味され、『特定検診』と改称された。

私は健康診断を受診する時、基本健診としては、
身長、体重、採血、心電、尿検査、血圧測定などが行われた後、最後に医師との問診となっている。
そして胃がん、大腸がんの検診もある。
          
私は何よりも苦手な検診は、『胃がん検診』である。

バリウムの白い検査薬を飲むのは苦手で、私なりに苦痛のひとときを毎年味わっている。
その上、前夜の夜9時過ぎから水を含めて飲食は避けた上、
そして当日の喫煙、歯磨きはしないて下さい、と制約されていた時代もあった。

やがて3年前の頃から、仲良しとなった40代のなかばの男性の医師からは、
XXさん・・朝方でも少しだけ水を飲んでも大丈夫ですから、
とアドバイスを受けたりしてきたので、微苦笑したりしてきた。

こうしたことで苦手のバリウムによる胃の撮影が終ると、ほっとするのである。

しかし、8年前に、ある総合病院で受診した時、
40代の男性技師のもとで、検査したのであるが、終ると何故かしら首をかしげた後、
私の方に近づき、
『本当に申し訳ないのですが・・機械の故障で・・
別棟の検査室で、もう1度撮影させて下さい・・』
と云われ、私は40代の男性技師に先導されて、別棟に歩いた後で、
再び苦手なバリウムを飲んだりした。
          

7年前の時は、30歳前後の若き女性技師で、私としては瞬時に魅了された美しい顔立ちの方が、
『少し仰向けになって下さい・・
位置を変えて・・横向きにうつ伏せ気味になって下さい・・』
と甘い声の指示を聴きながら、私は検査を受けたりした。

私はバリウムさえ飲まなければ、
年金生活の自由な身の私としては、何時間かかっても良い、と余計なことを思ったりしたこともあった。


私は健康診断を受診する時の下着は、
平素と同様に、下半身はパンズ型のトランクスであり、
上半身の方はランニング型であるが、殆ど袖なしのTシャツを着ている。

この袖なしのTシャツは、ポップス系で若手に人気のあるTOKIOというグループがいるが、
この中のひとり長瀬智也さんが、以前ドラマの中で着ていたので、
私は魅了されて、家内に頼んで購入した貰ったのは、定年退職の3年前頃であった。

この後も、年金生活に入った後は、自在の服装が出来るので、
この袖なしのTシャツを真冬以外は、愛用している。

半袖か長袖のスポーツ・シャツを羽織って、
5月過ぎから秋まで買物、散策に出かけることをしてきた。

そして私は、恥ずかしながら胸毛があり、苦手な加山雄三さんのようにあるが、
65歳の頃から少し白髪が増してきたが、心は若い方の感性と余り変わらないと思っているので、
このような容姿となっている。

確か6年前の総合病院でレントゲンの健診の時、
30歳前後の稀(ま)れな美麗な女性技師の方で、
私は急いで長袖スポーツ・シャツ、そして袖なしのTシャツを脱いで、上半身は裸となった。

『XXさん・・下着は着ていても・・大丈夫ですから・・』
と笑いながら、忠告されたのである。
                              
この後、身長測定のの時、
『はい・・1メートル69.5ですね・・』
とアシスタントの女医さんから云われた。

『齢を重ねると・・少し縮〈ちじ〉むのですね・・』
と私は明るく云った。
『ご年配の方は・・よくある傾向ですわ・・』
と云われた後、
私は長い間、1メートル70の時代であったが、
0.5センチばかり縮〈ちじ〉んだことに、齢を実感させられた。

体重も70キロ代となり、
家内と結婚した当時は、56キロの細身体が懐かしく、
『俺も・・71かょ・・』
と平素の身勝手な日常を振り返ったりしたりした。

そして、多少太っていても、心身元気であれば良いではないか、
と62歳の自分を慰めていたりした時もあったりした。
          

このように毎年、私は健康診断を受診をしてきたが、胃がん検診に伴い、
前日の夜からの水分制限、そしてバリウムの白い液体薬は齢を重ねても苦手であるが、
これ以外は楽しい受診のひとときを過ごしたりしている。

そして私は健康診断を欠かさず受診してきたのは、
何よりも自身の身体の弱点を知り、
弱点を指摘されれば、ある程度の治療、或いは自身の努力で克服できればよい、
と至って常識的な思考の身なので、
健康診断を受診せず放棄している人は、自身の命を粗末にしている、と思ったりしている。

本日のひととき、『特定健診』を受診して10年となる中、
何よりも驚いたのは身長と体重の測定後であった、

定年した直後の身長は、170センチであったが、168.5センチ、と身長測定後にアシスタントの女医さんから云われた。
『定年した時から、10年間の中で1.5センチ縮〈ちじ〉んでしまった』
と私は驚きながら云った。
『ご年配の方は・・どうしても背骨が曲がってしまいますので・・』
とアシスタントの女医さんから慰めのように言われたりした。

そして体重も定年した直後は70キロであったが、76キロと測定後に言われ、
この10年で大きく変貌し、溜息を重ねながら、
年金生活の60代の10年間の日々は享受してきたのだから、と微苦笑しながら自身を慰めたりした。


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まもなく古希を迎える私、過ぎし年金生活10年で、先達の方から多々学び・・。

2014-09-08 12:53:44 | ☆夢幻のような安楽な60代☆
私は東京郊外の調布市の片隅みに住む年金生活の69歳の身であり、
そして私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭に築後35年を迎えた古ぼけた一軒屋に住み、
お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

私は民間会社の中小業に35年近く勤め、2004年〈平成16年〉の秋に定年退職後、
その直後から多々の理由で年金生活をしている。

私は9月下旬の誕生日を迎えると、古希と称される70歳となり、
心身溌剌と過ごしてきた60代にお別れとなり、
この10年過ごしてきた年金生活の中、ひたすら享受してきたので、
もとより愛惜を深めているが、まもなく60代は卒業して、70代となる。
           
         
世の中の数多く60代の諸兄諸姉は、人生の苦楽を重ねた後、
何かと安堵しながら、身も心も溌剌と過ごせる人生の黄金時代と称せられるゴールデン・イヤーズ、
と知人、友人、知人からの便りを受けたりしてきた・・。

私も定年退職するまで人生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれながら、つたない言動も多く、
ときおり敗残者のように感じることも多く、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思ったりした。

そして60代の10年間の日々は、何より安楽な時代、と思い重ねたりして享受してきた・・。
詳細については、この私のブログで数多く投稿してきたので、省略する。

やがて70代となれば、体力の衰えを実感して、75歳まではこれまでどおりの自立した生活ができるが、
80歳が見えてくる頃には介護を必要とするようになり、
やがて80代後半では何らかの介護付き施設に入居する可能性が高くなる、と専門家の人から数多く発言されている。

このように学んできた私は、これからの70代の年金生活は、どのように過ごせるか、
と思案したりしてきた。
          

私は定年後の年金生活の当初から、平素の買物を自主的に専任者となり、
独りで殆ど毎日のように家内から依頼された品を求めて、スーパー、専門店に行ったりしている。

その後は自宅の周辺の3キロ範囲にある遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受してきた。

この後は随筆、ノンフィクション、小説、近代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまない映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

そして年金生活の今でも本屋で、単行本、新書本、文庫本のコーナーを見たりして数冊買い求めたり、
ときには雑誌コーナーで月刊誌、季刊誌、臨時特別号を眺めた後、魅了された時は購入している。
そして、結果として手ぶらとなった時は、古本屋に行ったりして、読みたい本を探し求めて、
早や50数年過ぎている・・。

こうした中で定年後の年金生活の中で、特に塩野七生、阿川弘之、佐野真一、藤原正彦、嵐山光三郎、曽野綾子、三浦朱門、
徳岡孝夫、高峰秀子、松山善三、櫻井よしこ、中西輝政、山崎正和などの各氏の単行本、新書本、文庫本を購読したり、
してきた・・。


昨今の私は、古希と称される70歳の入門となる不安な真情もあるので、
ぼんやりと本棚の数多くの本を眺めた後、一冊の本を抜き出したりした。

私が本棚からひとつの本を取りだしのは、三浦朱門・著作『妻への詫び状 老いれば頑固に生きるがいい~』(光文社)である。

この本を遅ればせながら、私は初めて読んだのは2012年(平成12年)5月に、
家内と共に越後湯沢温泉に3泊4日で滞在した観光ホテルの中であった。
          

私は前年の2011年(平成23年)6月、三浦朱門(みうら・しゅもん)氏の、
この当時の最新作のエッセイ『老年のぜいたく』(青萠堂)を本屋で偶然に見かけ、購読した・・。

私は三浦朱門氏の作品は殆ど読んでいなく、ただ『第三の新人』グループの作家のひとりであることは認識していた。

もとより1953年(昭和28年)から1955年(昭和30年)ま頃にかけて文壇に登場した純文学の新人小説家を、
第一次戦後派作家・第二次戦後派作家に続く世代として、『第三の新人』と評論家・山本健吉が命名された。

そして小島信夫(1915年、生まれ)、島尾敏雄(1917年)、小沼丹(1918年)、近藤啓太郎(1920年)、
安岡章太郎(1920年)、阿川弘之(1920年)、庄野潤三(1921年)、遠藤周作(1923年)、
吉行淳之介(1924年)、三浦朱門(1926年)、曽野綾子(1931年)等の作家がいる。

私は東京オリンピックが開催された1964年(昭和39年)の秋に、大学を中退し、
映画・文学青年の真似事を4年ばかりした時、
『第三の新人』の作家としては、特に阿川弘之、庄野潤三、遠藤周作、各氏の作品に圧倒的に魅了させられ、
精読したひとりである。

映画・文学青年の真似事を挫折し、これ以降サラリーマンを35年ばかり勤めている間も、
この3氏などの作品は愛読者として読んだりしてきた。

確か三浦朱門氏の作品に関しては、筑摩書房が日本文学のシリーズとして、
『筑摩現代文学大系』の81巻に於いて、三浦朱門、三浦哲郎、立原正秋の三氏が収録され、
確か1980年(昭和55年)の当時に私は読んだ記憶がある。

そして三浦朱門、曽野綾子、遠藤周作の三氏に寄る『まず微笑』(PHP文庫、1988年)を最近読んだりしたが、
この作品集の原題は『愛のあけぼの』(読売新聞社、1976年)と記載されている。

ここ10年ぐらいは、氏のエッセイを月刊総合雑誌の『文藝春秋』、
季刊雑誌『文藝春秋SPECIAL』などで読んだりしている。

このように私は、三浦朱門氏の小説、エッセイは、わずかに読んだ程度である。


『老年のぜいたく』の本書は氏の優(すぐ)れたユーモアを根底に、氏のこれまでの人生の軌跡をくまなく発露され、
そしてこの当時氏の85歳の心情を綴られたエッセイである。
             
タイトルに掲げられた『老年のぜいたく』は、
《・・ゼイタクというのは、物と人を思うさまに使える、といったことでなく、
日常生活の生き方、つまり一切の行動の行き方、つまり一切の行動が自由であり、
一瞬、一瞬を充足して生きることができる、といったことであろう。

老人にはそんな生活が期待できるであろうか。
できる。・・》
注)本書の11ページ。原文にあえて改行を多くした。

このような命題を掲げて、具体的な言動を余すところなく発露される。


私は圧倒的に魅せられた箇所は、
《・・結婚生活を主とする第二の人生の領域が、第一の人生のそれを圧倒するに及んで、
結婚は第二の人生の中心になる。
その意味で配偶者は生涯の伴侶なのである。

結婚相手の容姿や性愛は、結婚生活の包み紙でしかなく、すぐに棄てられるのだ。
包み紙を問題にして離婚する人は気の毒というより仕方がない。・・》
注)本書の21ページ。原文にあえて改行を多くした。

特にこの中のたった一行、
《 結婚相手の容姿や性愛は、結婚生活の包み紙でしかなく、すぐに棄てられるのだ。》
この当時の私は66歳の身であったが、5分ばかり心の中でどよめき、やがて人生のまぎれない哲学である、
と感じ深めたりした。。

こうしたことを初めとして、数多く紹介したいが、後は本書をお読み願いたい。

そして本書は大人の諸兄諸姉にお読み頂きたく、特に40歳以上の方たちには、たとえ睡眠時間を削ってでも、
これからの確かな人生の教科書のひとつ、と私は確信を深めたりしてきた。


そして氏の『老年のぜいたく』に感銘を受けた私は、観光ホテルの館内にある数多くの本の中から、
氏の著作『妻への詫び状 老いれば頑固に生きるがいい~』(光文社)を遅ればせながら、
私は読んだりした。
             
本書の初めに、下記の文に瞬時に魅了されて、読み耽(ふけ)ってしまった・・。
《・・私は、平成7年の1月12日で69歳になり、70歳への坂を一日一日、登っています。
70は「古希稀(まれ)なり」というように、世界のの歴史からいっても、十分にじじいです。

70年間の生涯で、何が悔いがあるかというと、女性です。・・》
注)本書の9ページ。原文にあえて改行を多くした。

この本の各章の題目を読んだだけでも、瞬時に魅せられる。
たとえぱ、《 理想の女性と分相応な女、70にしても見果てぬ夢、子供の「汚物」は女房の分身、
女は自分を頑固だと絶対に認めない、夫がもてたのを一緒に喜んでくれる妻は理想の妻、妻の殺し文句 》
など44章に私は圧倒的に教示され、感銘を受けたひとりである。

詳細の内容は著作権もあり、本書を読んで頂きたく、
何よりもは古希を迎える男性に読んで頂きたいなぁ、と私は深く思ったりしたいる。

そして私は昨年の夏に、氏の最新エッセイの『老年の見識 ~大切なことは、自分らしく生きることから』(海竜社)を、
             
買い求めて、ときおり正座をして読んだりしてきた。

周知の通り、三浦朱門氏は小説を公表されながら大学教授をされた後、
文化庁長官も歴任し、この後に芸術院の院長を長らくされ、最近はご高齢で芸術院の院長を辞任されたお方である。
そして奥様は作家の曽野綾子(その・あやこ)さんで、おしどり夫婦として長く世間の一部の方たちに知られている。

私はご高名な三浦朱門、曽野綾子さんのご夫妻の書物から、高齢期の思いを数多く教示されたりしてきた。
          


平素の私は、近所の高齢者のご夫妻と立ち話しをしたり、或いは駅前のスーパー、喫茶店、ファミリー・レストランなどで、
高齢者のご夫妻のしぐさ、会話が聴こえたりして、この人生の微笑みを感じたりしてきた。

或いは私たち夫婦は国内旅行が共通の趣味のひとつであり、
観光ホテルなどの滞在する旅路が多く、こうした時に偶然に私たちと同世代、そして70代のご夫妻と、
ロピー、食事処で幾たびかお逢いすると、お互いに談笑したりして、私は多々学んだりしてきた。

そして私は定年後の年金生活10年間の中で、たまたまブログの投稿文を投稿し、
こうした中、特にブログランキングの『にほんブログ村』の『シニア層』に3年ばかり所属し、
数多くの50代、60代、70代のお方の投稿文を読まさせて頂いた。

その人なりの思いをその方ご自身の言葉で、淡々と綴られているのに、圧倒的に感動を覚(おぼ)える。
            

そして日々の日常生活の過ごした方、或いは人生の思いを学び、
こうしたお考えで、この人生を過ごされているのか、と教示されることが多く、
お住まいの地域、これまで綴られた人生の軌跡に思い重ねさせて頂きながら、
何よりも生きた人生の教科書と確信を深めたりしている。

こうして読ませて頂きながら、特に60代の女性が70代のご主人との思い、そして70代のご夫妻の日常生活の思い
或いは70代の『おひとりさま』の心情の投稿文を中核に、昨今は更に精読を深めている・・。

そして私は、これから古希入門の私しては、こうした先達者のお方に秘かに励ましを感じたり、
人生の微笑みを頂いたりしている。

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定年後の年金生活10年の中、ささやかな私のブログの軌跡は・・。【下】

2014-09-07 12:35:39 | ☆夢幻のような安楽な60代☆
こうした中で、ブログの投稿文を10年近くなる中に於いて、
ブログ上で出逢い、やがてコメント上で心の交流を盛んに重ねても、ふとしたことで疎遠になり、別れとなる場合もある。

私がブログを初めてまもない2004年〈平成16年〉の12月の時、
ブログ形式に準じた【簡単gooホームページ】に加入している中、
確か一カ月後に、九州の北部にお住まいの60歳前後と思われる奥方と
投稿文に於いてコメントをお互いにしたりした。

その後、2年ぐらい高校生の交換日記のように、殆ど毎日コメント欄で心の交流を重ねた。

こうした中で、この奥方が一枚の写真を添付し、散策する時に何かと魅せられている小花のひとつです、
と投稿文に掲載されていた。

私は恥ずかしながら無知であったので、ネットで検索したら、
『オオイヌノフグリ(大犬の陰嚢)』と明記されていたので、命名された植物学者は余りにも文学性の感性が欠落している、
と思い苦笑した。
そして『瑠璃唐草』、『天人唐草』、『星の瞳』とも名づけられていたので、
この奥方に、『星の瞳』に瞬時魅せられました、と私はコメントしたりした。
           
           ☆2008年3月、私が近くに流れている野川の川べりで、偶然に『星の瞳』にめぐり逢い撮った一葉☆

   
こうした淡き心の交流を2年半していたが、ご主人様がご病気となり、入退院をされる中、
奥方の投稿文も途絶え、やがて私たちの交流も途絶えがちとなり、
まもなく加入している小さなある簡易なブログサイト自体が閉鎖となり、そして交流も終えてしまった。

このような私にとっては、貴重な思いを秘めているので、
『星の瞳』を通して、この奥方は、私の年金生活を始めて不安な心情の中、心おだやかに過ごせたので、
女神のような人と私は思っている・・。

そして、その後に私は春先に散策したりする時、『星の瞳』を見かけたりすると、
あの奥方はどのように過ごされているのかしら、と思ったりし早や6年が過ぎている。
          


私はブログを投稿する際、筆力に乏しいながら最後までお読み頂けるように工夫したり、
その上に数多くの方にお読み頂けるように、試行錯誤をしたりすることがあるが、
日本だけでもブログをされている方は、数千万人と風の噂で聞いたりしていた。

そして私の加入している【gooブログ】のサイトでも、
2008年(平成20年)の当時は、確か加入数150万人ぐらいで、
この当時の私は写真を添付する技量もなく、ひたすら散文らしき文を綴り投稿文としていた。

そして私のサイトは訪問者数は長らく日々300人前後が多く、
【gooブログ】の総加入数の中に於いては、
多くある広大な砂糖黍(さとうきび)畑の中で、たった一本の砂糖黍(さとうきび)のような存在であった。
          
このように私は、やがて埋もれてしまい、誰からも読まれなく無視されることが想像されて、
つたない私でも、余りにも悲しきことで愕然とするので、ひとつの対策をした。

          
こうした思いからひとつの方法として、
やはりブログのランキングに加入して、程ほどに上位にランキングされれば、
少しでも多くの方に読んで頂けると、つたない投稿文ながら自己顕示欲が増して、加入することとした。

          
そしてブログのランキングのサイトも幾つか彷徨(さまよ)うように加入したが、
『人気ブログランキング』の『随筆・エッセイ』に加入し、今日に至っている。

その後、2010年〈平成22年〉の秋に、やはりブログのランキングの『にほんブログ村』に再加入した。

私は2008年〈平成20年〉の頃に『にほんブログ村』に漠然と加入し、
何かしら他のブログのランキングに魅了され放置していたが、
投稿文ごとの具体的なランキングに気付かされて、私の投稿文毎にどのくらい読んで頂いたか、
と目安ができるので、ふたたび本加入させて頂いた。

そして現在は、『人気ブログランキング』に於いては、『随筆・エッセイ』に所属し、
『にほんブログ村』に関しては、加入時は『随筆・エッセイ』系に重点していたが、
一昨年の秋の頃から、世代のよしみに甘えてシニア日記系『60歳代』に移行している。
                          

こうした中で、50代から70代の多いシニア層に於いて、
『にほんブログ村』に加入している方を中核に、多くのお方の投稿文を読ませて頂いた。

日記として綴られている場合は、その人なりの思いをその方ご自身の言葉で、淡々と綴られているのに、
圧倒的に感動を覚(おぼ)える。

そして日々の日常生活の過ごした方、或いは人生の思いを学び、
こうしたお考えで、この人生を過ごされているのか、と教示されることが多く、
お住まいの地域、これまで綴られた人生の軌跡に思い重ねさせて頂きながら、
何よりも生きた人生の教科書と確信を深めたりしている。

こうして読ませて頂きながら、私は秘かに励ましを感じたり、微笑んだりして、
確かな人生の底知れぬ苦楽の深淵を学びながら、年金生活を過ごしたりしている。

或いはその地域の情景の四季折々の移ろいを背景とし、
デジカメの数葉を掲載され、絵葉書のような観光地の解説でなく、
その方ご自身の言葉で綴られるのに感動させられたりしている。

そして言霊を信愛し、何よりも投稿文で吐露(とろ)しなければ、
この人生を生きて行くことはできない、
このような圧倒的に心の深淵まで描写できる方もいる。
               

私のブログサイトの左側の『ブックマーク』に於いて、
ご当人様のご承諾も得ずに、掲載させて頂く、と明記して掲げているが、
少なくとも1年半以上、このお方が投稿するたびに必ず私が愛読してきたサイトであるが、
大半は『にほんブログ村』で知り得たお方である。

この諸兄諸姉のサイトに関しては、一部のお方とのコメント上で交流を除き、
隠れキリシタンのように秘かに私は、愛読者のひとりとなっている。
                    
              
私は気楽にコメントを書くことはできない身で、
コメントを書き込んで下さった方のプロフィールはもとより、
最近のその方の心情まで配慮して返信するタイプである。

こうした関係で時間を要して、日常生活の肝要の読書、散策の時間まで影響したので、
原則としてコメントの返信は取りやめて、お互いに投稿文を読んで頂ければ、と変貌した時代もあったりした。

ここ4年は、来訪しコメントを残して下さった方には、原則として返信を認(したた)めている。
或いは数多くの方の投稿文を読ませて頂き、感極まって私は、そのお方にコメントをしたりしている。

そして上記の諸兄諸姉のサイトを明記した以外に、ときおり読ませて頂くお方も多く、
ここ3が月に於いても、瞬時に魅了されたお方のサイトも30名のお方もいる。
               
私がブログを書き始めて、早や10年近くになるが、
この広い空の下で、未知のお方に投稿文、或いはコメント上で、めぐり逢えたこと、秘かに感謝したりしている。

そして偏(ひとえ)に数多くの皆様にささえられて、投稿文が継続できていることも確かな事であり、
その上に、数多くのお方の確かな人生の教科書を学び、改めて感謝している。

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定年後の年金生活10年の中、ささやかな私のブログの軌跡は・・。【上】

2014-09-07 12:15:06 | ☆夢幻のような安楽な60代☆
私は東京郊外の調布市に住む年金生活し、まもなく古希と称される70歳を迎える身である。
そして民間の中小業に35年近く勤め2004〈平成16〉年の秋に定年退職を迎え、
多々の理由により年金生活を始めて、まもなく偶然にブログの世界を知った・・。

我が家はインターネットを開設したのは、私が定年退職する数ヶ月前であった。
この当時の私は、数多くの同世代の人たちと同様に、多忙の現役サラリーマン時期であり、
自宅のパソコンにインターネットを開設したならば、友人たちと電子メールの交流の時間に余裕もない思いがあり、
退職後からすればよいと思いがあったのである。
          
私は現役サラリーン時代は情報畑に20数年従事し、1990年(平成2年)の初めの頃までは、
ある程度は専門畑として奮戦していたので、コンピュータの世界が解かっていたが、
その後は人事異動して利用者側の間接部門となったので、
やがて先端技術は解からず、社内システムのオンラインの端末機を利用したり、或いはパソコンを活用し、
業務に従事していたぐらいであった。

このような体験があったが、いざ自宅でパソコンにインターネットを連動させた時、
Webのネット世界の環境には、急速に進化を増したことに驚きながら溜息を重ねて、出遅れたと感じたりした・・。
          
                    
そして、定年退職後は、『ホームページ』を立ち上げて、
自身の日々の思い、そして過ぎ去った時代の思いのことなどを出来うる限り随筆風の散文を綴り、
公開しょうと思案したりしていた。

しかしながらホームページの開設までの技量に乏しく、無名の私が開設・運営した所で果たして、
と躊躇していた時に、
偶然に本屋の店頭で一冊の本にめぐり逢え、私は初めて『ブログ』の世界を知った・・。

この本は『はじめよう! みんなのブログ』(インプレス)と題された、
別冊インターネット・マガジンであった。

          
そして私はブログの多くは匿名制度であり、ある程度の良識を根底に於けば、
自在に私の生活のことから、政治、社会などに専門知識がない私でも、私なりの思いを発露でき、
何よりホームページより手軽に開設、運営できると感じ、ブログに加入しょうと決意した。
          
        
     
そして私は、2004年(平成16年)11月12日に【アメーバ・ブログ】に加入したり、
まもなくブログ形式に準じた【簡単gooホームページ】に加入し、
原則として毎日投稿したのは、2004年(平成16年)11月17日であった。

その後、ブログ形式に準じた【すくすくブログ】を知り、
気楽に綴れる専用サイトとしたのは、翌年の2005年(平成17年)1月11日であった。
一週間ぐらい投稿したが、会員数の多い【gooブログ】を知り、取り止めたりした。

この後、この【gooブログ】に加入して、
少し気楽に団塊世代、社会、政治・経済の諸問題を綴ろうと思い、投稿をはじめたのは、
2005年(平成17年)1月19日であり、この日から3,518日が過ぎている。
          
                
         
この後は、会員数の多い【gooブログ】とブログ形式に準じた【簡単gooホームページ】
二刀流のようなそれそれと差異のある投稿文を重ねて一年半ばかりした。

特に【gooブログ】は政治・経済に関しては、専門知識がなく素人の感性で、
投稿文を認(したた)めてきたが、つたなさ、そして無責任の広言を反省し、投稿を中止した。

やがて2007年(平成19年)、肝要の本命である【簡単gooホームページ】が9月末で閉鎖と知り、
8月より半ばより、これまで投稿文が移動できるブログ形式に準じた【OCN Cafe】を知り、
やむなく加入したりした。

この間、2008年(平成20年)の春先から、少し悩んだりした・・。

定年退職後の3年半、このように4つのブログ系のサイトに加入して書き散らしてきたが、
4月の初めに、山口百恵ちゃんの歌にあるプレイバックのように振り返った時、
何かしら今までの数多くの投稿文は鍋物の《ごった煮》のような思い、
投稿を休止していたブログ【gooブログ】に、今まで書き散らかした投稿文3000通前後を
コピーしながら整理、統合し始めたりした・・。
          
そして2008年(平成20年)4月中旬から本格的に【gooブログ】を再開させて、
私が幼少時代から年金生活の今日までの生きてきた心の軌跡であり、
自己表現のひとつとして、心の証(あかし)の残したいからであった。
          

やがて併設していた【OCN Cafe】は、2010年(平成22年)7月で中止し、
これ以来【gooブログ】の『年金青年のたわむれ記~かりそめ草紙~』を単独とした。

この後、2年前の初めの頃に、『夢逢人たわむれ記~かりそめ草紙~』とタイトルを改称した後、
『夢逢人かりそめ草紙』と短縮して今日に至っている。


年金生活をしている中のひとつとして、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを心の発露の表現手段として、
このブログのサイトに綴り投稿するのが、生きがいのひとつとなっている。

結果としては、パソコンの故障、国内旅行などしない限り、日に少なくとも一通は投稿してきた。
                  


2005年(平成17年)の当時の【gooブログ】は、入会している会員数は100万人であり、
ブログに準じたサイトの【goo簡単ホームページ】は、こじんまりとした10万人ぐらいの会員数であった。

私は個人的な幼年期からサラリーマン退職時まで、そして年金生活の日々の心情は、
脚色もないありのままの思い、真情を投稿文に認(したた)めたく、
お読み頂いた方に、リアルな私を判明しずらい会員数の少ない【goo簡単ホームページ】を選定した。
          


これまての私は10年近く投稿してきたが、私自身の幼年期から現役時代、そして年金生活の日々の思い等を
あますことのないように綴ってきた。

私は綴る際は、自身のその時の心に素直に綴るようにし、
あとで振り返った時、あの時はこのような思いで過ごしていたのか、
何より自身に対して、その時の思いの心情が大切なのである。

従って、数多くの駄文を綴ってきたが、ひとえに自身の為の心の軌跡の発露、と言っても差し支えない。
          
しかし誰しも光と影を有しているので、つたない私でも光と影があり、
特に暗く影のことも、私自身、家庭、或いは生家の事柄に関しも、
このサイトにためらいながら、マイナスと称される影も私は描写してきた。

たとえば、私の小学生の前半に、父や祖父が病死し、残された母や私たち兄妹は、貧乏な生活を一時期を体験したこと。
或いは、亡き母が40代の時代は、私たち兄妹の五人が何とか世間並みの生活にする為に、
ラブホテルのような連れ込み旅館を経営し、睡眠時間を削りながら、孤軍奮闘し、
私たち五人の子供は成人したこと。

又は次兄は自営業で、経済破綻して、自殺と称せられる自裁して、亡くなったこと。

そして私自身の場合は、大学を中退して映画・文學青年の真似事をして、やがて敗退したことや、
定年の五年前にリストラ烈風の中、無念ながら出向となり、定年時を出向先で迎えたこと。

このように私はこれまでの人生の歩みの中、心のわだかまりを吐露(とろ)しなければ、
この先の人生を生きて行くことはできない、と思い発露してきたのである。

こうした私なりに屈折した出来事を余すことなく投稿してきたが、
小心者の私としては匿名であることで、初めて発露できたことである。
          

このような心のうめきごとは、リアルな現実の日常生活では、
たとえ私が言葉にしても、対人の受け止めることに困り果てることもある、と感じたりした。

小説、随筆などは、あくまで間接のワンクションとして読者は受け止めることができるので、
ブログの匿名で公開する内容も、ある意味合いに於いては同じかしら、と思ったりしている。

このような理由も重ねて、私はここ7年、発信名は『夢逢人』と命名したのである。
私の綴ってきたことは、まぎれなく私の知る限り真実を発露してきたので、
リアルな現実でお逢いするのは、私の心の裸身を見られたようで恥ずかしく、
文字通り、夢の世界でお逢いしたいですね、と思いながら命名したりした。
          
             
しかしながら私は、どうしても表現できないこともあったりした。
このことは私の人格さえも問題視されることで、感情と理性の間を往還しながら、
ためらいながらも結果としては綴れなかったことがある。

たとえば、皇室の問題であり、天皇陛下、皇后陛下は限りなく敬愛しているが、
肝要の皇太子殿下、妃殿下のご夫妻に憂うことも感じたりしている。

或いは私の勤めた音楽業界のあるレコード会社に35年近くの中で、秘めたる事柄は、
守秘義務もないが、退職後の10年生となった今でも、心の礼節として綴れない。

そして格差の問題は歴然として、この世の中に各分野に露呈している現実があるが、
特に生活保護の難題は、綴れないのである。

         
私はこのサイトに於いて、政治、経済、軍事、社会を含めて、
専門知識のない感情だけで吐露(とろ)し、独断と偏見で、直球とかカープで余すことなく
筆力が乏しいまま発露してきたこともあったが、
ここ3年ぐらいは反省をまじえて減少している。
          
         
こうした中で、私は投稿文の時に、多くの方に読んで頂きたい自己顕示欲もあり、
投稿文の中では、改行を多くし読みやすいようにしている。

或いは2年近く前から、何とか写真を添付することが出来たので、
乏しい筆力を補(おぎ)いながら、カット代わりに写真を掲載したりしている。

そして私の投稿文の最初の一行に於いては、殆ど私の住んでいる地域を明記している。
このことは私が投稿文の中で、散策、買い物したりする場合、日本のどの地域なのか、
初めて読んで下さる方に理解して頂く為である。

こうしたささやかな思いで、つたない投稿文を繰り返して、早くもブログは10年近くが過ぎている。

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定年後の年金生活の中、何よりの健康の源は熟睡こそ肝要、と実感を深めて・・。

2014-09-06 17:21:56 | ☆夢幻のような安楽な60代☆
私は東京郊外の調布市に住む年金生活し、まもなく古希と称される70歳を迎える身である。
そして民間の中小業に35年近く勤め2004〈平成16〉年の秋に定年退職を迎え、
その後は多々の理由で、年金生活を始めた・・。

年金生活を始めた当初は、ダラケた日常生活を過ごすのは、何かと世間に恥ずかしく、
起床の時間は日の出前、と気合い一番で起床してしてきたが、
何かと私は読書好きで、ときには深夜まで読んだりしているので、
寝不足となり、ときには昼寝をして、補(おぎな)ったりした。

やがて3年が過ぎる63歳の頃から、日の出前の起床の必須事項のひとつは止めて、
目覚めた時に少しまどろんだ後、起きればよい、と改めて今日に至っている。

このような結果として、早朝の4時前後に起きることもあれば、7時頃になることもある。
          
そして私は年金生活をして丸10年が過ぎてしまったが、
風邪などで内科の病院に治療を受けたことはないなぁ、と思ったりした。

こうした私の秘かな対策のひとつとして、風邪気味の時は、
風邪薬も敬遠し、早めに布団にもぐり本を読み、そして睡眠時間を多めにしている。

もとよりこうしたグウダラなことは、年金生活の自在の身だからできることなので、
この世で一番贅沢なことかしら、と思いながら甘受している。

          
しかし働いて下さる現役の諸兄諸姉は、短期に成果を問われる昨今、
睡眠時間を削りながら奮闘されていると思われる。

そしてここ50年ぐらい大学受験に際して、『4当5落』という格言があった。
睡眠時間を4時間程度にし、5時間以上睡眠に貪(むさぼ)れば、
目指した受験校の合格には覚束ない、と長らく伝えられてきた・・。
          

私は若き18歳の時、大学入試の際は、目指していた第一志望の大学に合格する自信がなくなり、
安易に入学ができそうな大学を選定し、大学生となったりした。

その後、大学を中退し、契約社員、アルバイトをしながら映画、文学青年の真似事をした後、
あえなく敗退して、ある大手の民間会社に中途入社できたのは25歳の時であった。
          
もとより会社に勤めれば、多くのお方と同様に、
上司を見習いながら勤務に励み、ときには土日の休日出勤などもあったりした。

やがて情報畑でシステムの開発業務などの期間は、幾たびか徹夜となったり、奮戦したりした。
しかし開発の業務は、殆ど一年以内であるので、その後の勤務体制は10時間前後となったりし、
このようなサイクルを繰り返して、ひたすら奮闘してきた。

その後、定年退職の7年前より業界全般としてリストラ烈風の中、
やがて私は出向となり、少し遠方の勤務先となった。

朝は4時45分に起床し、帰宅は夜の9時半過ぎが圧倒的に多く、
消却法として睡眠時間は4時間程度となり、
こうした勤務体制を5年間続けて、定年退職時を迎え、サラリーマン生活は卒業した。

私は『4当5落』の言葉を聞いたりすると、安易に逃げた大学入試の受験期でなく、
社会人の最後のサラリーマン5年間の出向期間だった、と後(のち)に微苦笑する時もある。

          
私は年金生活を過ごす健康の源は、程ほどに歩き、薬などに頼らず、
熟睡こそ肝要である、と思っている。

そして生きがいのある言動をしていれば、
たとえ齢を重ね体力が衰えても、心も身も溌溂(はつらつ)と確信を深めたりしている。

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定年後の年金生活の中、高齢者の殆どは『高等遊民』かしら、と拙(つたな)い私でも感じて・・。

2014-09-06 07:48:42 | ☆夢幻のような安楽な60代☆
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の身であるが、まもなく古希と称せられる70歳を迎える。
昨日の午前のひととき、自宅の近くに流れる野川の遊歩道を散策していたら、
70歳前後の男性の5人が高価な望遠レンズを付けたデシカメで、野鳥のカワセミを撮られていた。

野鳥にも無知な私でも、以前に何かしら携帯電話で、カワセミがこちらで見られる、
とお互いに小声で連絡し合っていたので、解ったりした。
そして男性の5人は高揚した少年のようなしぐさのを私は見たりすると、思わず微笑みながら好感したりした。

やがて私は歩道橋を渡り、対岸の遊歩道を歩けば、60代なかばの御夫婦が語り合いながら、散策したりしていて、
この人生の微笑みを感じたりした。

そして私は歩き続けて、小公園の片隅にある幾つかのベンチに於いては、
川風がさわやかに吹く中で、男性の6名が、それぞれ将棋を対局したりしていた。

この後、私は遊歩道から水辺の近くに降りたち、水の流れを見つめたりしているど、
昨今の高齢者の殆どは『高等遊民』かしら、と感じ深めたりした・・。
          

私が過ぎし2012年(平成24年)の晩春の頃、団塊世代が65歳を迎え、大量退職が始まる年、
と雑誌を読んで教えられ、思わず微笑んだりした。

私より少し若い世代の団塊世代の諸兄諸姉は、
多くは60歳で定年退職をされて、その後は年金完全支給年まで何らかの形で働かれ、
65歳になった今日、年金生活を迎えられた、と私は解釈した。

ふりかえれば、敗戦後からの一部の方を除き、誰しも貧乏な時代を知っている世代であり、
10歳以上齢上の人たちは、敗戦後の荒廃した日本を、
少なくとも世界の中でも有数な経済大国の礎(いしずえ)を努力と英知で築かれた人々であり、
そして後続する私たちの世代、そして団塊の世代も奮闘してきた。

こうした結果として、確かに日本は、世界の主要国の中に於いても、
社会インフラ基本基盤として、電気、ガス、電話、上水道、下水道も殆ど整備され、
学校、病院、公営住宅もあり、鉄道・バス路線、そして道路、高速道路もあり、港湾、橋梁なども、
整備されている稀な国家でもある。
そして年金、医療、介護などの社会保障制度も、多少の問題がありながらも存続している。

その上、経済は都心の一部は活性化しているが、地方は未(いま)だに低迷している現在さえも、
殆どの国民は飢えることなく飽食の時代となり、長寿化の時代を迎えている。
          

こうした中で、団塊世代の諸兄諸姉は、第一線を退かれ、年金生活を過ごされ、
今までの多忙な勤務の生活を終えて、それぞれお好きな趣味の時間で過ごされる、と思ったりした。
もとより60代はゴールデン・イヤーズと称される通り、身体も元気、
心は長年の勤務から解放感で満ち、心身共に第二の人生を満喫されている年代でもある。

そして70代も殆どの方は、体力の衰えは実感しながら、心は溌剌している.

このように感じていた私は、昨今の高齢者の殆どは『高等遊民』かしら、と少し飛躍した言葉であるが、
思いを重ねてしまったのである。

たまたま私は読書が好きであり、夏目漱石の『それから』の長井代助、『こゝろ』の先生、
或いは川端康成の『雪国』の主人公のように人を『高等遊民』と称されている。

もとより『高等遊民』は、なんら生産的な活動をせず、ただ日々を雅やかに過ごしたり、
学問の延長として己の興味のある分野(趣味の活動を含む)を追い求めて、
明治時代から昭和初期の近代戦前期にかけて多く使われた言葉である。
          

私は2004年〈平成16年〉の秋に定年退職後、その直後から年金生活をしているが、
私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思ったりしている。

そして私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

日常は定年後から自主的に平素の買物担当となり、
毎日のようにスーパー、専門店に行ったりし、ときおり本屋に寄ったりしている。
その後は、自宅の周辺にある遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受している。

ときおり、庭の手入れをしたり、友人と居酒屋など逢ったり、
家内との共通趣味の国内旅行をしたりしている。

日常の大半は、随筆、ノンフィクション、現代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

このような年金生活を過ごしているが、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。
          

私の現役時代は、サラリーマンの身であったが、もとより生計の責務もあり奮闘する中、
30代の半(なか)ばに一軒家を建て、
この後3年ばかり家内はデパートなどに勤めて、強力な支援を受けたが、
家内は後方支援として家庭の多岐に及ぶ専業主婦として長らく努めてきた。

私たち夫婦の年金生活後も、家内は洗濯、掃除、料理などしているのが現状であり、
せめて日常の買物ぐらいは、私がすると自主的に実行している。
このことの背景には、私の現役時代の平日は会社で勤務し、
この間の日中は家内のペースで家事、趣味を過ごしてきた。

こうした家内の生活リズムをできる限り崩したくなかったので、
私は独りで買い物、散策をして樹木、野花などを見ながら、季節のうつろいを享受している。

年金生活の私たち夫婦の基本は、厚生年金、わずかな企業年金を頂き、
通常の生活費するのが原則としている。
しかし共通の趣味のひとつである国内旅行、或いは冠婚葬祭などの思いがけない出費などに関し、
程々の貯金を取り崩して生活している。

こうした中、毎年年始が過ぎた頃に、新たな年度の月別の概算表を作る際、
家内の要望などを織り込んで作成し、予算としている。
そして年金生活の身であるから、今年も赤字が120万円前後かしら、とお互いに確認し合っている。
          

こうして私たち夫婦は経済的に贅沢な生活は出来ないが、
働らなくても何とか生活ができるので助かるわ、と家内がときおり、
呟(つぶや)くように私に言ったりするので、私は苦笑しながら聞いたりしている。

そして日常生活で、昼下がりのひととき眠くなったら、
現役サラリーマン時代は、何かと睡眠不足も感じながら奮戦してきたので、
いつでも昼寝ができることは、年金生活の最大の恩恵かしら、と享受する時もある。

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年金生活をすれば、私は齢を重ねたびに、家内に従順となり・・。

2014-09-05 07:31:27 | ☆夢幻のような安楽な60代☆
私がこの広い空の下で家内とめぐり逢えたのは、妹の嫁ぎ先の義父からの紹介であった。
私のすぐ下の妹は1969年〈昭和44年〉の秋に嫁ぐこととなり、
結婚後は義父母宅に同居することでなっていたので、
私は妹の結婚の新生活の準備の荷物を、幾たびか自動車で義父母宅の一室に運び入れたりした。
こうした時、義父と何かの時に、文學のことが話題となった。

この義父はある中堅の商事会社の監査役をしていたが、こよなく文学を愛し、
余暇は10畳の書斎の中で過ごし、ある地方の文学誌に寄稿されている方であった。

そして私は文学青年の真似事をした時期もあったので、
私は森鴎外(もり・おうがい)を敬愛していますが、やはり永井荷風(ながい・かふう)は群を抜いた文士でした、
と私は言ったりすると、
この義父からは、苦笑されながら、何かと私は可愛がれたりしていた。

こうした縁で、この商事会社に勤めていたひとりの女性を紹介してくれたのは、
1975年〈昭和50年〉の秋であり、私たちは交際をはじめ、この年の12月15日に婚約するために、
両家の結納となった。

その後、私たちは結婚日の日取り、結婚式場、新居の場所、荷物のことなどで、行き違いが発生して、
両家からの意向から、大波、小波に揺れたりした。
                    

やがて1976年〈昭和51年〉3月下旬に結婚式、そして披露宴を終えたが、
この間の結婚式で、私は不馴れな羽織(はおり)、袴(はかま)、そして扇子を持ち、
控室から指定された結婚式の式場に向った。

そして花嫁人形のような角隠しで白むくの容姿となった新妻となる人を見て、
この先の人生、どのような荒波があろうと私は・・と何かと小心者の私は改めて思いながら緊張した。

そして神前結婚式の中で、おはらいなどを受けた後、
誓詞奏上で練習もなく初めて見る誓詞を、今後の人生の責任感で緊張の余り、少し閊(つか)えて大きな声で述べたら、
隣の新妻がクスッと笑っているのが、私は聴こえたりした・・。
                   

この当時の私は、音楽業界のあるレコード会社に勤め、情報畑でシステム改定をしていたので多忙期であり、
短めな新婚旅行から帰宅し、2DKの賃貸マンションで新たな人生をスタートした。

私はサラリーマンの身であり、もとより生計の責務で孤軍奮闘し、
家内は専業主婦で、私に従順な新妻であった。

その後、子供が出来て狭い賃貸マンションの一室で這(は)うことを想像したり、
或いはいつまでも賃貸で支払い続けることを配慮して、新居の件で色々と思案したが、
結果として私の生家の近くに空き地があったので、この地に一戸建てとした。

そして家内は中学生の頃から茶事を習い、その後の私たちの生活の合間に、
先生の元に週一度通って修業していたので、私としては住宅関係で多大な借り入れ金をするので、
ついでにと若さ勢いで、母屋の部屋は一室増やして、茶室とした。

こうした結果、作庭の経費もなくなり、やむなく私の月給分ぐらいで雑木を中核とした。
しかしながら私は奮戦しても家計は赤字が多く、突然に家内はデパートに呉服売り場の契約社員として働き、
我が家は共稼ぎで何とか安泰し、3年後に家内は専業主婦に復帰して、今日に至っている。
                               

この間、私たち夫婦は結婚生活5年が過ぎても、子供に恵まれなかった。
こうした時、私の亡き父の妹の叔母が入院し、私たち夫婦はお見舞いに病室に訪れた・・。

貴方の幼年期に《おたふく風邪》の影響かしら、と教示され、
そして無知な私は恥ずかしくもあり、少し遠方の病院で検査を受けたりした。
やがて診断の結果としては、精液の量は普通ですが、やや精子が少ない、と医師から告げられた。

帰宅後、私は家内に包隠(つつみかく)すことなく伝えたりした。
色々と対策を医師から提示されたことも私たちは話し合ったりしたが、
結果としては自然のままの性愛の結果にゆだねるとした。

このような状況で、私は40歳過ぎた頃になった時、
私たち夫婦は子供のいない家庭に違和感もなく過ごしたりし、今日に至っている。
          

私が40代の時、会社でヨーロッパ研修の選抜に私は敗退し、
私は自宅の居間で家内に打ち明けたりし、涙を浮かべたりした。

或いは私が40代の時、ギックリ腰が悪化して、
結果として病院の整形外科に入院して、28泊29日間過ごしたりした。
          

やがて50代になると、1998年〈平成10年〉に音楽業界の各レコード会社の売上の主軸となるCDがピークとなり、
この前後は、各レコード会社が社内業務の見直し、組織の大幅な改定、グループ会社内の統廃合、
そして資本による合併などが行われたりした。

これに伴ない、正社員のリストラが行われ、
人事配置転換による他部門の異動、出向、早期退職優遇制度により退職が行われ、リストラ烈風となった。
こうした中で、私の勤めいていた会社も、人事配置転換による他部門の異動、出向、早期退職優遇制度が実施された。
                    
やがて私も1999年(平成11年)の新春、出向となった。
          

もとより出向身分は、会社に直接に貢献できる訳もなく、まぎれなく戦力外なので、
私は本社に30年近く勤め放り出され、屈辱と無念さが入り混じ、私でも失墜感もあり都落ちの無念さを感じたが、
半年後から何とか馴染み、自分の敵は自分だ、と思いながら精務した。
          

やがて出向先の物流会社も大幅なリストラが実施されたり、
私が30年近く勤めてきた出向元のレコード会社でも、幾たびかリストラ烈風となる中、
私の同僚、後輩の一部が定年前の退社の連絡、或いは葉書で挨拶状を頂いたりし、
私は出向先で2004年〈平成16年〉の秋に何とか定年退職を迎えられたのである。

そして、私は出向身分であったので、何とか烈風から免れたのも事実であり、
定年前の退社された同僚、後輩に少し後ろめたく、退職後の年金生活に入った理由のひとつとなった。

このように私は拙(つたな)いサラリーマン時代であり、もとより一流大学を卒業され、大企業、中央官庁などに
38年前後を邁進し栄達されたエリートとは、遥かに遠い存在である。
                    

この間、私が出向の辞令を受けた直後、私は家内と改めて定年退職後の人生設計を話し合ったりした。
そして私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、2人だけで第二人生の歳月を過ごすので、
結果としては残された人生はお互いの趣味を尊重して、堅実な生活を過ごせば、
年金生活でも何とかなると判断をしたりした。

そして私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思い、年金生活を始めたのである。
          

私の定年退職後、年金生活を始め、私は自主的に平素の買物担当となり、
毎日のように独りでスーパー、専門店に行ったりし、ときおり本屋に寄ったりして、数冊を買い求めたりしている。
その後は、自宅の周辺にある遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受している。

         
定年前の私は、現役時代のサラリーマンの時は数多くの人たちと同様に多忙で、
家内は我が家の専守防衛長官のような専業主婦であり、日常の洗濯、買い物、料理、掃除などで、
家内なりの日常ペースがあり、この合間に趣味などのささやかな時間で過ごしてきたので、
定年後の年金生活を始めた私としては、このペースを崩したくなくなったのである。

そして少なくとも家内は料理、掃除、洗濯などをしてくれるので、
家内が煎茶、コーヒーを飲みたい時を、私は素早く察知して、日に6回ぐらい茶坊主の真似事もしている。

こうした中で、ときおり小庭の手入れをしたり、友人と居酒屋など逢ったり、
家内との共通趣味の国内旅行をしたりしている。

日常の大半は、随筆、ノンフィクション、現代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

このような年金生活を過ごしているが、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。

そして日常生活で、昼下がりのひととき眠くなったら、
いつでも昼寝ができることは、年金生活の特権かしら、と享受する時もある。

そして家内は季節が変わるたびに、独り住まいとなっている家内の母宅に、
季節の変わり目の支度で、6泊7日前後で行き、孤軍奮闘をしているのが定年後の状態でもある。

この間、私としては『おひとりさま』の生活となっているが、
いずれは私たち夫婦は片割れとなり『おひとりさま』となるので、 特別演習かしら、
と思いながら私は過ごしている。
                    

我が家の戸締りの責任者は、もとより主(あるじ)の私であり、
夜の9時過ぎには、玄関、台所、お風呂場などを点検する時、
『ハイ、OKです!』
と指差し確認しながら、ボケてはいけないと思い、若き自衛隊の諸兄に負けないように、
元気な声で言ったりしている。

この後、居間でテレビを視聴しているか、雑誌を読んでいる家内に、
『戸締り・・終了致しました!』
と私は家内に報告したりする。

その直後、 『ご苦労であった!』と家内は私に言うのである。

私の現役時代に於いては、ご苦労さまでした、と家内は何かと従順で優しく労(ねぎら)いの言葉をしていたが、
どうしてなの、と私は不思議に思ったりした。

その後、思い当るとすれば、確か2008年(平成20年)の頃にNHKの連続ドラマの『篤姫』が放映され、
家内は幾たびも視聴していたので、お姫さま、或いは奥方に影響されたのか、
このような言葉を私にするようになっていることが多い。
          

我が家の収入の現状は厚生年金、そして少しながら企業年金である。
私が過ぎし現役サラリーマン時代の年収は、孤軍奮戦して年々ほぼ確実に増えてきたが、
今や年金そして預貯金は減ることがあっても、増えることはないのが実態となっている。

そして我が家の年金、そして預貯金は先々ほぼ推定できる上、体力も齢を重ねるたびに衰えてきたので、
ともすればプラス思考の私でも、気弱になることもある。

そして家内からすれば、安定飛行のような年金生活の為か、意気溌剌として過ごしている。

私たち夫婦の共通趣味のひとつは国内旅行であるが、立案するのは大半は家内であり、
定年後の年金生活となると現役サラリーマンの時代から、旅路の日数の制約が無くなり、
6泊7日前後の観光ホテルに滞在して、その地の周囲を歩き廻って遊学することが多くなっている。

こうした中で、周辺を廻るプランを私たち夫婦は思案する中、お互いの要望の食い違い少し険悪になった場合、
数分以内に『XXちゃんのおしゃる通りです』
と私は家内の案に同意したりしている。

私は家内からは文学、映画、音楽などに関しては、軽い論評される時は困惑するが、
これ以外は年金生活の日常、そして旅路のことなどは、家内の案に賛意した方が問題解決が早く、
このようなことは私たちの結婚生活の中からすれば、大勢に影響はないと思ったりしている。

もとよりこうしたことにお互いにこだわると、共に楽しく過ごせる時が、
台無しになることも私は配慮した上、家内に優先権を与えることにしている。
                   

ご近所の方の奥様たちから、私たち夫婦の年金生活を見かけると、
仲良し恋し、と社交辞令のお世辞を頂いている私たちでも、
実際は日常生活の中で、ときおり私が失敗事をしたりすると、
平素は『あなた・・』と呼ばれるのに、『ボケチンねぇ・・』と家内から微笑みながら私に苦言される時もある。

このように私たち夫婦は、年金生活を過ごしてきた10年・・
私たち夫婦の結婚生活は、私は齢を重ねたびに家内に従順となっている、と微苦笑したりしている。

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定年後の年金生活の中、介護制度手続き、遅ればせながら初めて学び・・。

2014-09-04 07:17:03 | ☆夢幻のような安楽な60代☆

私は中小業の民間会社に35年近く勤めて定年退職した2004年〈平成16年〉の秋に定年退職後、
私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思い、年金生活を始めた・・。

そして私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭に築後36年を迎える古ぼけた一軒屋に住み、
お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

この間、私が65歳になる直前に、調布市高齢者支援室より、『介護保険被保険証』が郵送され、
そして『介護保険料』の請求書が同封されてきた。
『XXちゃんさぁ・・俺も高齢者となり、介護保険証を持つ身になったよ・・』
と私は微苦笑しながら、家内に言ったりしてきた。

家内は私より5歳ばかり若い身ながら、私たち夫婦は共に厚生年金、そしてわずかながら厚生基金を頂き、
年金生活の夫婦となっている。

そして原則として私の厚生年金は『老齢基礎年金』と明示され、
年金支給額より『所得税』が差引かれ、住民税の『市民税・都民税』、『介護保険料』、『国民健康保険税』などが
差し引かれている。

こうした中、恥ずかしながら『介護保険』についても、
幸いに私たち夫婦は、大病もせず五体満足で過ごしてきたので、漠然とした思いで過ごしてきた。
                     

過ぎ去る今年の3月下旬に、【YAHOO! JAPAN】を開き、たまたま『雑誌』のコーナーを見ていて、
《 介護制度手続き -親が倒れて安心な町、心配な町 》
という見出しがあり、どういうことなの、と思いながらクリックした。

そしてビジネス総合誌として名高い雑誌『プレジデント』より、3月26日(水)に配信された記事と解り、
私は安心しながら精読した。

無断であるが、保健ジャーナリストの西内義雄さんが寄稿文の中で、介護制度の手続きに関してだけ、
要旨をさせて頂く。

《・・介護制度手続き -親が倒れて安心な町、心配な町

高齢の親が脳や心臓の病気、骨折などで入院したら……。
年末年始に帰省して「親の介護」が頭をかすめた人も多いことだろう。

いったん病気になると、杖や介助がないと自由に動けなくなることも珍しくないからだ。
実は、万一親が倒れた場合、身内がいかに早く関連する制度の「手続き」をしてあげるかで、
親の「生活の質」に大きな差が出ることをご存じだろうか? 

たとえば、高額な医療費の自己負担限度額を超えた分が支給される高額療養費。
その限度額を超える分を最初から支払う必要をなくす限度額適用認定証。

自力生活が難しくなれば介護認定。
後遺症が残るなら身体障害者認定も視野に入れることとなる。

これらの制度は、ほとんどが申請しなければ何も始まらないものばかり。
いくら健康・介護保険料を滞りなく支払っていても、誰かが動かない限り何も始まらない。

 
また、その手続きはどれも複雑で時間がかかる。
          
 
介護認定を例にとると、

①まず保険者(国保なら住民票のある自治体)に申請を出す。

②その後本人への調査が入るが、結果が出るまで1カ月近くかかる。

③つまり、退院後すぐに介護保険を利用したサービスを利用したければ、
 入院中に申請を出すのがベストだが、遅れる人も多い。

④特例として認定前からサービスを利用することもできるが、
 認定されなければ全額自己負担になるし、認定されても申請をした日までしか
 自己負担の減免はさかのぼることができない。・・

⑤第1号保険料(65歳以上)の介護保険料を例にとると、
 現在(平成24~26年度:第5期)の全国平均は月額4972円だが、
 自治体別に見ると月額2800~6680円と4000円近い地域格差がある。

厚生労働省は現在、介護の必要度が低い「要支援1、2」へのサービスの一部を
全国一律の介護保険サービスから市町村事業に移行させる見直し案を検討中と伝えられている。
これが始まったら、さらなる地域格差が生まれる可能性もある。・・》
注)記事の原文に、箇条書き、改行を多くした。
          

私たち夫婦の両親は、家内は母だけとなり、私より14歳齢上の後期高齢者で84歳となっている。
家内の父は私が定年退職時の直前に病死し、その後は一戸建てに独り住まいとなっている。

2年半前ごろに膝(ひざ)を悪化して、最寄りの病院に通院している中、
市からの福祉専門の方からアドバイスを頂き、やがて家内と調整を繰り返した後、
現在は生活の一部について部分的な介護を必要とする状態の『要支援2』となっている。

こうした我が家の家内は、少しばかり経過状況は認識しているが、
私は時折聞いたりしてきたが、少なからず漠然とした心情もあったりした。
          

今回、私たち夫婦は子供にいないし、私は今年の9月下旬に誕生日を迎えると古希と称される70代に入門となり、
家内も今年の12月下旬に誕生日を迎えると65歳の高齢者となり、『介護保険被保険証』対象の身となる。

私たち夫婦は幸運にも大病に遭遇しなく過ごしてきたが、
やがて齢を重ねて、介護制度を縋(すが)ることも考えられるので、
私自身も、真摯に介護制度の手続きを遅ればせながら、初めて学んだりした。

そして私は介護保険料はここ数年は毎年8万円前後支払っているが、
てきたならば介護にお世話になりたくないなぁ、と思いながら、
自宅の付近の3キロ範囲にある遊歩道、小公園などひたすら歩いたりしている。

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定年後の10年の年金生活の中、糖尿病と診断され、青色吐息となった前後は・。

2014-09-03 08:17:56 | ☆夢幻のような安楽な60代☆
私は2004年(平成16年)の秋に定年退職後、多々の理由で直ちに年金生活に入り、
現役サラリーマン時代は悪戦苦闘が多かった為か、解放感で高揚したりした・・。

そして年金生活を当初は、独りで近所の遊歩道を散策したりすると、
こんなに自由に散歩できるなんて、許されても良いのかしら、
と定年直前までの多忙期を思い重ねたりし、戸惑いながら甘受したりした。

何よりも朝の陽射し、昼下りのひととき、そして夕暮れ時に、
ゆっくりと時を過ごし、苦楽の激しかった現役時代を思いながら、微苦笑を重ねたりした。

こうした中で、純米酒の辛口が好きの私は、晩酌の時は現役時代と同様に2合、ときには3合を呑んだり、
或い日はビールの時は500mlの缶ビールを数本を呑んだり、
ときには日中に小庭のテラスに下り立ち、簡易椅子に座り、缶ビールを呑みながら、
最後の出向時代の5年間は、何かと大変だったなぁ、と思い重ねたりした・・。

この結果、身長は170センチ、体重は70キロだった私は、毎年少しずつ体重が増えてしまった・・。
          

過ぎし2008年(平成20年)の秋に健康診断を受診した後、肥満体と診断され、
やがて市の斡旋の『メタボの研修』を受講した後、
国内旅行、冠婚葬祭、或いは懇親会などに限り、地酒をある程度は呑んだりしたが、
平素は缶ビールの350mlを2本までを殆ど守ってきた。

こうした中、もう少し呑もうかしら、と思うと、
何故かしら優しい保健師の女医さんのアドバイスの笑顔が蘇(よみがえ)り、
缶ビールの350mlを2本までの夜が圧倒的に多かったりした。

やがて翌年の2009年(平成21年)の秋に健康診断を受診した時は、
体重は3キロばかり減少て、75キロとなり、
優しい保健師の女医さんのおかげかしら、と私は微笑んだりした。

そして私は悦びながら、家内に伝えたら、
『あなたの健康にも良いし・・家計費のアルコール代も減りますから・・』
と家内は私に微笑みながら、言われたりした。

この後、私は相変わらず缶ビールの350mlを2本までを守り、
幾たびか旅行を重ねた時、昼はビール、夕食の時は地酒も呑み、
日常生活は散策と買物ぐらいの運動不足、その後の猛暑でエアコンの冷風の中で昼寝も多くなり、
2010年(平成22年)の秋に健康診断の結果、ふたたび78キロに戻ってしまったのである・・。
          

この結果、『糖尿病で、内科に受診して下さい』と明記され、私は青ざめ、
翌日に自宅から徒歩10分ばかりの内科専門病院に行き、検査、そして問診の時、
『国内旅行に何とか70歳ぐらいまで行きたいので・・何なりと御指導をお願い致します』
と私は内科の医師に懇願した。

そして高橋真梨子さんが唄われた『桃色吐息』は妖艶であるが、
体力の衰えた66歳の私は青色吐息のような表情で、内科の医師のアドバイスを聴いたりした・・。

私は定年の5年前の頃から、60代は五体満足で生かしてくれ、その後は余生である、
と公言してきたが、家内との共通趣味は国内旅行であり、
糖尿病の場合は、もとより食事制約がある。

このような時、家内は旅行の宿泊先で美味しい夕食を頂いていた場合、
私は食べてはいけない料理だったら、余りにも惨(みじ)めである、と思ったりした。


やがて医師から、料理のカロリー試算表を渡された上、軽い運動を毎日して下さい、と私は言われた・・。

この後、6週間の私は、家内が料理のカロリー試算表を確認しながら料理を作って貰い、
これ以来、朝夕頂いたりした。

そして私は晩酌の缶ビールの350mlを2本さえも取りやめて、
お酒はしばらく・・さよならねぇ、と夕食の時も煎茶を飲んだりしていた。

昼食は婦女子のようなフルティ・ランチで、リンゴを一個、そして柿一個としていた。

その上、散策は時速3キロぐらいの歩みから、時速6キロぐらいのウォーキングとなり、
汗をかきながら最低30分は歩き廻り、ほぼ毎日していた。

この結果、体重は74キロとなり、4キロばか減少し、
ズボンの腰回りも楽になり、ベルトについている穴も2つばかり減り、
何かしら身体が軽快に成ったと微笑んだりしていた。

しかし、以前ゆっくり歩いた散策の時は、
この時節の晩秋の朱紅色、黄色に染められた錦繍の情景に、深い心を寄せられることができたが、
ウォーキングとなれば、風景が通り過ぎるように心を寄せる瞬時の思いが、なくなってしまった。

やむなく私は、公園を目指して、ウォーキングに専念した後、
公園内で汗をふきながら、ゆっりと散策して過ぎ行く美麗な錦繍の情景に心を寄せ、
そして帰路は、ウォーキングして、日中のひとときの定例事項としてきた。

この間、私は最寄の内科に3週間毎に定期健診を受けて、
糖尿病の範囲の対象から克服でき、悪玉コレステロールは基準値の90%、
これ以外はすべて優等生となったのは、2011年(平成23年)の3月の初旬であった。
          

そして私としては何よりも不思議と感じたのは、冷蔵庫の中にビールがあること、
台所の片隅の収納所に日本酒の一升瓶、四合瓶も忘れてしまっていることである。

かって呑兵衛と自任してきた私は、平素の夕食に煎茶でもまったく違和感が感じることなく、
過ぎている・・。

このように私は20代から何かと日本酒、ビールを中核にワイン、ウィスキーも呑んできたが、
歌を忘れたカナリヤのようにアルコールから遠ざかり、
国内旅行、冠婚葬祭、或いは懇親会、そして我が家で週に一度ぐらい呑むぐらいとなり、激少となったりした。

この後、国内旅行で家内と共に各地を幾たびも行ったりすると、
やはり宿泊処で地酒を呑んだりしてきたが、体重が増えてしまった。

やむえなく糖分の多い日本酒とお別れして、ウィスキーに氷を入れただけのオンザ・ロックに、
弱くなったので少しだけ水を入れた濃いめの水割りで呑むこととした。
そして糖尿病と宣告されて以来、 冠婚葬祭、懇親会、国内旅行など以外は、
原則として自宅で呑むのは、5日に一度ぐらいとなっている。

この間、最寄の内科専門医院に4週間毎に定期健診を受けているが、
ここ3年ぐらいは悪玉コレステロールは基準値の90%、これ以外はほぼ優等生となって、
改善努力の成果となっている。

こうした定期健診を受けるたびに隣接した薬局で、血糖値を下げる薬を頂き、
日々朝食後に飲んでいるが、これ以外は至って健康だ、と思ったりしている。
          

こうした中、過ぎし40代前後に弐合徳利、ぐい呑むを幾種類も買い求めて、
晩酌の時に、今宵はどの弐合徳利にしようかしら、と選定しながら夜の友のひとりとしてきたが、
今やガラス戸の棚に、ひっそりと鎮座していることも、忘れていることが多くなっている。

過ぎゆく人生は、無念ながら何かしら断念することもある、と私は微苦笑している。

私はこれまでの60代の10年の日々は、幸運にも大病に遭遇せずに過ごしてきたが、
健康でなければ、自身の日頃のささやかな願いも叶わない。
私自身の糖尿病の再発防止もさることながら、何よりも怖いのは認知症である。

こうした根底があり、自宅の周辺3キロぐらいの中の住宅街の道、遊歩道、小公園などを
ひたすら歩いたりする中で、 季節のうつろいを享受している。

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定年後の10年の年金生活の中、何かと『都心』には苦手意識が増して・・。

2014-09-02 07:49:14 | ☆夢幻のような安楽な60代☆
私は東京郊外の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住む身であるが、
私の生家も近くにあり、この地域で1944年(昭和19年)秋に農家の三男坊として生を受けて、
結婚した前後の5年間を除き、これまでの65年近くこの地で過ごしてきた・・。

私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭に築後36年を迎える古ぼけた一軒屋に住み、
お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

そして私より5歳若い家内も、お互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。

こうした中で、私は9月下旬の誕生日を迎えると古希と称される70歳となり、
家内も12月下旬の誕生日を迎えると65歳となり、介護保険証を受ける身となっている。

私の住む地域では、ここ一週間ばかり梅雨寒むのようなしとしと小雨降る日が続き戸惑ってきたが、
久々に朝の陽射しを受けて、私は陽に向かい両手を合わせて、感謝したりした。

こうした後、雨上がりの清々しい小庭をぼんやりと眺めたりしていると、
人出の多い『都心』には、年金生活を10年ばかり過ごしてきた中、
齢を重ねるたびに苦手になってきた、と微苦笑したりした・・。

昨年は旅行の為に、『東京駅』、『羽田空港』を利用した以外は、
家内と『新宿』のデパートに買い物を早春、秋に行ったり、懇親会で『品川』にあるホテルぐらいだった、
と思い馳せたりした。
                    

私は地元の調布市の小学、中学校を卒業した後、1960年〈昭和35年〉の春から都心の高校に通学した。

それまでは幼年期に於いて、母に連れられ、新宿の『伊勢丹』のデパートに行ったりして、
階段の踊り場、そして新宿の地下の通り道などで、
不幸にして戦争で身体の一部を失くされ、軍歌の音色とも、その容姿を見るのが恐かった。

小学校の高学年になると、付近の調布、布田、千歳烏山の映画館に、独りでよく通ったりした映画少年のひとりで、
こうした中、次兄から都心の『日比谷』にある映画を観ようと、
新宿から築地行きの都電を乗ったが、乗り物の酔いで私はしょげたりした・・。

確かあの当時の都電は、運賃は均一13円と記憶しているが、
下車したら当然もう一度支払う必要があったので、日比谷まで頑張れ、と次兄に励まされ、
青ざめた顔で日比谷で降りた記憶が残っている。

          
          
高校は中野区に所在していたが、新宿を経由し通学したので、
『荻窪』行きの都電を利用したり、或いは中央線で『中野駅』から歩いて登校したりした。
下校は殆ど新宿の繁華街を通り、食べ盛りであったので、
街中の食堂でカツ丼とか親子丼、或いはラーメンを午後の3時過ぎに食べることが多かった。

そして、独りで映画館に立ち寄ったりしていた。
こうした中で、『小田急デパート』が開業したり、やがて『京王デパート』が開業されたりし、
特に新宿の西口は激しく変貌し、その後に高層ビルが林立していった。

こうした中、私は読書も好きだったので、『神保町』の古本街に行ったり、
ときにはロードショウと称された映画の封切館で、上映された日比谷の映画街なども通ったりしていた。

1964年〈昭和39年〉の秋に東京オリンピックが開催された数年前の出来事である。
                     
      
大学に入学してからは、映画鑑賞に没頭していたので、新宿、日比谷の映画館を中心で鑑賞していたが、
名画が上映すると名高い池袋の『人生座』と銀座の『並木座』は、私なりに欠かせない映画館となっていた。

東京オリンピックの開催していた1964年(昭和39年)の秋、
京橋の『近代美術館』に於いて、日本映画の昭和初期からの名画特集を上映していたので、
私は日参したりしていた。

そして映画を観る以外は、新宿の『紀伊国屋書店』、このビルの中にある喫茶の紅茶専門店を利用したり、
ときには『新宿御苑』を散策したりした。
          

その後、映画の脚本家になりたくて、大学を中退し、芸能専門養成所のシナリオ科に通った頃は、
銀座の『松坂屋』の裏手のビルに教室があり、数寄屋橋から歩いたりしたが、
お金に余裕のない私は、大人の街である銀座の高級店には縁がなく、
もっぱら大衆向けの店を利用したりしていた。

そして映画青年の真似事の生活を過ごし、
アルバイトや随時契約の単発仕事で何とか生計を立てていたが、
養成所の講師の知人の新劇の長老から、
映画は益々衰退して、脚本家で飯(めし)が食えるのは、少ないので、
同じ創作するならば小説を書きなさい、とアドバイスを頂いたりした。

そして私は文学青年に転身して、契約社員をしながら習作をし、
こうした中で純文学の小説の新人募集に3回応募したが、最終予選の寸前で敗退したりし、
叔父からは、30過ぎた時、きちんと家庭を持てるだけの力があるの、と言われたりしたので、
根拠のない自信ばかり過ごしてきた私でも、敗北宣言をして、通常の社会人に戻る決心をした。

この時代は高度成長期であったが、大学を中退し、もとより企業の中途入社は容易ではなかったので、
やむなくコンピューターの専門学校でソフト科に1年間学び、
何とかこの当時は大手の音響・映像メーカーに中途入社できたのは、
25歳を過ぎた1970年(昭和45年)の春であった。
                    

この音響・映像メーカー会社は、この中のひとつとして音楽事業本部があり、
レコードの有力な幾つかのレーベルを管轄していた。

私は入社試験の面接の最終時に、テレビ・ステレオなどのハード系より、
何かしらソフト系のレコード部門に心身相応しいと思っていたので、懇願して配属して貰った。

入社した直後、現場を学べ、と指示されて、
横浜の新子安にある工場の一角で、商品管理の部署に勤めていた時、
まもなく大手のレーベルが、外資系のレコード会社として独立した会社となり、私も転属された。

やがて私は、10ヵ月後に本社のコンピュータ専任として異動させられた。
本社は『赤坂見付』駅前の東急ホテル・ビルの一角にあり、私は1971(昭和46)年の早春から数が月程、通った。
この東急ホテル・ビルの2階は小売専門店が並んで、
おしゃれな高級店も数多くあったが、私は喫茶店を利用できる程度であった。

この当時も赤坂は、銀座と同様に大人の街であったので、
若いサラリーマンの身の私は、TBS方面の小料理店で昼食を食べたりした。

まもなく本社が『六本木』に移転したので、
この後の1992年(平成4年)までの20年ばかり、私は六本木の界隈の空気と共に過ごした。
          
 
         
      
1971年(昭和46年)5月に本社が六本木の所在となり、
四丁目の交差点から100メートルぐらいにあるビルが勤務地となった。

この当時の四丁目の四つ角に於いては、
本屋の『誠志堂書店』、喫茶風の飲食店の『アマンド』、『三菱銀行』の支店があり、
最寄には『俳優座』や中華料理の『楓林』があった。

そして近くには都の経営する大衆的な『六本木食堂』があったり、
イタリア料理の『カーディナル』、日本料理の大衆店の『正直屋』などの小料理店があったりした。

喫茶店は洋菓子の『クローバー』、『貴奈』をはじめとし、数多くの喫茶店があった。
こうした中で 『俳優座』のビルが新築過ぎた頃から、街は急速に変貌を始じめた・・。

レコード店の大型店の『WAVE』、そして本屋の『青山ブックセンター』に通ったり、
或いは日本料理の『美濃吉』を利用したりしていた。

          
こうした中、 私は1972年(昭和47年)の頃から、シャンソンに熱中したので、
銀座の『銀巴里』でコーヒーを飲みながら、数多くのシャンソン歌手の唄声を聴いたりした。
こうした『銀巴里』の往還の時、近くにある『ヤマハ 銀座店』で、
数多くのシャンソンのLPと称されたアムバムを買い求めて、熱中して聴き込んだりした。

そして、ときには水割りのウィスキーを呑みながら『蛙たち』でシャンソンに酔いしれた。

或いは、渋谷にもカンッオーネを主体の店にも足を運んだりした。

この当時、私の勤務上、兄弟会社のようなレコード会社が原宿のピアザビルにあって、
『原宿駅』、『表参道』などからシステムの業務提携の関係で数年通ったりした。
                    

この間、私は六本木にある会社に通勤していたが、この六本木のはずれに『防衛庁』があった。
六本木の地下鉄の駅を出ると、四丁目の交差点があり、
ここから200メートル前後に東西南北に小さな複合ビルが立ち並びんでいた。

この繁華街のはずれに防衛庁があったので、何となくとりとめのない感じを持った。

防衛庁の塀は、安すぽいコンクリートで囲みを造り、正門は頼りのない感じであった。
最初、この正門を通った時、私が高校一年の時の1960年〈昭和35年)の安保闘争の時、
全学連等のデモ隊が押し寄せた場所だったのか、と考え深げであった。


私はいつも退社後、地下鉄の駅に向かうと、繁華街を目指した人々とすれ違った。
ビジネスマンは少なく、遊びに来ている人のほうが圧倒的に多かった。
この繁華街のはずれに防衛庁があったので、誰しも違和感を持っただろう・・。

その後、地下鉄の千代田線が開通となり、『乃木坂』駅が出来て、この駅から防衛庁の正門前を通り、
四丁目の交差点までの大通りに客足が増えた。
確か1982年〈昭和57年)の頃と記憶しているが、防衛庁も塀、門扉を一新し、小奇麗になった。

そして私は退社後、この通りを歩いて『乃木坂』駅に向かった。
途中、黒人兵が日本の若い娘と腕を組んだり、或いは若い娘のグループたち、
そして30前後の女性の一部が、ノーブラで高価なブラウスを召して、さっそうと歩いてくるのを、
パブル経済の最中といえども、街の中でもかょ、と私は戸惑いながら苦笑したりした。

その後、ディスコ・ブームとなり、六本木の繁華街は益々大人のおもちゃ箱をひっくり返したように、
活気と喧騒につつまれていた。

しかし、この大通りの200メートル前後の防衛庁だけは、いつもひっそりしていた。

その後、防衛庁は市ケ谷にある自衛隊の基地に移転したが、
この跡地から江戸時代の小判が出てきた、と風の噂さで私は聞いたりしていた。


このようなことを思い馳せたりしたが、六本木のあの時代の空気を知っているひとりとして、
私は防衛庁の跡地の「東京ミッドタウン」は魅力もなく、興味がないのである。
          

          
          
1992年(平成4年)の5月過ぎに、レコード会社の合併により、渋谷の外れの勤務となり、
私が20代の後半に散策した『パルコ』、『スベイン坂』、『道玄坂』を懐かしんだりした後、
東急の『文化村』を知り、その後にライブなどで幾たびか通ったりした。


私の現役サラリーマン時代は、中小業の会社であり、管理畑が大半であったので、
世間で称されている会社の交際費を利用した社用族には皆無であり、
銀座の一流と称されるバー、料亭などの世界は知らない。

従って、私は大手企業で昇進を重ねるエリートの方たちとは、程遠いサラリーマンの身なので、
シティ・ホテルなどに関しては、『帝国ホテル』、『ニューオータニ』、
『六本木プリンス』、『品川プリンス』、『京王プラザ』等ぐらい利用した程度である。

          
つたない私としては、駅付近の商業ビル内の食事処、街中の専門料理店、
居酒屋をたびたび利用していた。
そして、ときには血気盛んな若き頃は、風俗店に行ったりしていた。
                  

2004年〈平成16年〉秋に定年退職した後、人出の多い都心には疲れた為か、或いは齢を重ねた為か、
『六本木ヒルズ』、防衛庁の跡地の『東京ミッドタウン』、東京駅に近い『新丸ビル』等の興味がない。

このように長年に於いて苦楽を共にした都心であったが、私の心は遥か彼方遠くなっている。


年金生活をしている中ときおり、新宿の『伊勢丹』、『小田急デパート』、『京王デパート』、
或いは登山、ハイキングのアウトドアの専門衣料店で買物をしたりした後、
帰路の最寄の『成城学園前』の駅ビル、付近の食事処で食事をするのが、
何かしらほっとし、気楽に食べ、呑んだりしている。

日常の多くは、小田急腺の『成城学園前』、『喜多見』、『狛江』、
京王線であったならば、『仙川』、『つつじヶ丘』、『調布』の駅付近で充分と思っている。
          
何より気楽なのは、自宅の小庭の落葉樹の四季折々のうつろいを眺めながら、
コーヒーか煎茶を飲みながら、家内とおしゃべりをしたり、
食事をするのが心身の波長に最良となったりしている。

或いは私は独りで、自宅の周辺を散策したり、或いは近くに流れる野川の遊歩道を歩いたり、
ときおり『神代植物園』に行ったりして、
常緑樹、落葉樹の季節のうつろいに心を寄せたりするのが多い。
          

                                  
私たち夫婦は国内旅行が共通の趣味のひとつであり、ときたま旅行を重ねているが、
自宅から一時間ばかりの東京駅を利用する時が多いが、高層ビルの並ぶ都心を眺めたりすると、
心の中で、めまいを感じたりしていることが多い。

そして旅先で、その地の料理、和菓子、日本酒をほめ、偶然にその地の方たちと談笑したり、
宿泊先の仲居さんにからかわれたり、或いは温泉に入浴したりして、
その地の風土を愛(め)でるのが心の良薬となっている。

         
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過ぎ去り年のリストラ烈風の中、定年退職して、早や実質として丸10年の年金生活が過ぎ・・。

2014-09-01 08:25:28 | ☆夢幻のような安楽な60代☆
私は1970年(昭和45年)の春、この当時は映像・音響の大手メーカーの民間会社に、
何とか中途入社出来たのは、25歳の時であった。

そして音楽事業本部の片隅で勤めていた私は、まもなくこの中のひとつの大きなレーベルが、
外資系のレコード会社として新設され、私も移籍の辞令を受けて、
音楽に直接に関わる制作畑ではなく、商品、情報、経理、営業などの部門を異動したりして、
35年近く勤め、2004年〈平成16年〉の秋に定年退職した身である。

私が勤めてきた中小業の多い音楽業界の各レコード会社は、
1970、そして80年代はそれぞれのレコード会社は躍進したが、
1990年代を迎えると、特に外資系は、世界市場の中でアメリカに続いて、日本が第二位となり、
抜きん出た市場となり、本国の要請で利益の追求が厳しくなり、
やかて各会社は総合見直しとなり、会社間の統廃合もあり、人員削減も行われはじめた。

そして1998年(平成10年)に売上の主軸となるCDがピークとなり、
この少し前の年からリストラ烈風となり、
私の勤めた会社も同様に、早期退職優遇制度の下で、上司、同僚、後輩の一部が業界から去ったりし、
人事異動も盛んに行われたりし、 私も50代のなかば1999年(平成11年)の2月に、
取引先の物流会社に出向を命じられた。

                 
もとより出向身分は、会社に直接に貢献できる訳もなく、まぎれなく戦力外なので、
私は本社に30年近く勤め放り出され、屈辱と無念さが入り混じ、
私でも失墜感もあり都落ちの無念さを感じたが、
半年後から何とか馴染み、自分の敵は自分だ、と思いながら精務した。
          

                  
この間、出向先の物流会社も大幅なリストラが実施されたり、
私が30年近く勤めてきた出向元のレコード会社でも、リストラ烈風となる中、
私の同僚、後輩の一部が定年前の退社の連絡、或いは葉書で挨拶状を頂いたりし、
私は出向先で2004年〈平成16年〉の秋に定年退職を迎えたのである。

そして、私は出向身分であったので、何とか烈風から免れたのも事実であり、
定年前の退社された同僚、後輩に少し後ろめたく、退職後の年金生活に入った理由のひとつとなった。
                    

この間、私が50代のなかば1999年(平成11年)の新春に出向の辞令の直後、
私たち夫婦は、定年退職後の生活を具体的に話し合ったりした。
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
定年後に於いて、どのような生活をしたいか、そして生活資金などを話し合った。

やがて結論としては、定年の60歳まで働き、主(あるじ)としての収入の責務を果たした後は、
定年退職後の60歳以降は、私は働くことを卒業し、お互いのささやかな趣味を互いに干渉することなく過ごして、
私たち夫婦の共通の趣味のひとつの国内旅行を四季折々できればよい、という事になったりした。

こうしたことを実現したく、現役時代の収支、そして退職金、退職後の年金推定を算出した。

私たち夫婦はたった2人だけの家庭であったので、もとより子供、孫もいないので、
何かと私たち夫婦の私の退職後の生活収支は、ある程度算出し易かった。

ただし私は1944年(昭和19年)9月生まれであるので、
年金の満額の支給は62歳であり、それまでの2年間は満額のほぼ半分となるので、このことも配慮した。

この時の私は、幸いに住宅ローンを終えていたので、
年金が満額となった62歳からの生活の収支は、
私たち夫婦の共通趣味である国内旅行費、そして冠婚葬祭など諸経費は例外として、
原則として生活費は年金を頂く範囲として、収支の概要を作成したりした。

こうした結果、私の年齢、家内の年齢を主軸に
1998年(平成10年)から私が80歳を迎えるまで、
年次別の収支と残額を作成し、パソコンに入れて、計画、実績、差額を毎月入れることとした。
                                 

こうした中で、定年退職時まで半年を迎えた2004年(平成16年)の春、
私は右腕が肩より上に上げたりすると何かと重く、痛みを感じたので五十肩かしらと思い、
毎週土曜の休日になると、自宅から最寄駅の駅前の近くにある整形外科に通院したりした。

思い当るとすれば、この当時は毎朝の4時45分に起床し、
自宅の付近の始発バスに乗り、小田急線の『成城学園前』駅より遠方の通勤場所に通い、
音楽商品のCD、DVDなどのある東京ドームより広い商品センターで奮戦し、
帰宅は早くても夜9時過ぎであったりした。

こうしたことを50代の後半に5年過ごしてきたので、疲労の蓄積かしら、と苦笑したりした。

やがて5月の大型連休になると、私の責務の範疇である自宅の庭の手入れの樹木の剪定、草むしりは、
やむなく放置していた。

そして7月頃になると、家内の父が腎臓癌で入退院を繰り返してきたが、
更に悪化状況になり、家内の母と家内は一日交代で、ある大学病院の個室で夜通し看護する身となった。
この間、家内は40代の初めからテニスに熱中していたが、これ以降断念したりした。

家内は我が家から2時間以上の電車に乗り、入院している病院に通ったりし、
帰宅後は疲労困憊の日々となった。

                    
こうした我が家として結婚生活の中で最大の危機のような状況もあり、
やむなく私は有給休暇を利用して、定年退職時は10月20日であったが、
早めの8月の月末で通勤を断念して、実質の定年退職時となった。
                              

世の中の数多いサラリーマンは定年退職に於いては、
職場で多く方に囲まれて花束を贈呈され、拍手喝采中、職場を去ることが多く、
この退職する数週間前の頃から歓送会が幾たびか開催されている、と私は学んだりしていた。

確かに私が30年近く勤めてきた出向元のレコード会社でも、リストラ烈風の前には、
私も先輩方たちの歓送会に幾たびか出席したりしてきた・・。

そして私の同僚のふたりが、私が定年退職の時、歓送会の幹事をすると私に約束してくれたが、
リストラ烈風の中、私が出向3年生の時に肝要な同僚のふたりが、リストラをされて退社し、
はかなくも30年近く勤めてきた出向元のレコード会社の中での私の歓送会は、まぼろしとなってしまった。

しかしながら私が出向時の直前に営業本部に所属していたので、盛大な歓送会を開催して下さり、
私は今でも感謝している。

こうした中、誰しもがリストラ烈風の中、のどかな定年退職時の歓送会などは、
開催されることは少なくなった。

私の場合は物流会社の中のひとつの商品センターに出向であり、
職場はセンター長をはじめとする私を含めて正社員の5名の中、
若手の20代を中核とした男性の契約社員、アルバイトの10名前後、
そして30代と40代の多い女性のパートの120名前後の職場であった。

この最後の勤務8月の月末日、商品センターが出荷作業が一段落した後、
朝礼形式の全員並ぶ中、私は退職の挨拶をした後、女性のパート方達から花束、贈呈品、
そしてこの後に、色紙に多くの方からの短かなメッセージ、ある方からは丁重なお手紙の礼状を頂いたりした。

そして物流会社の本社に挨拶に出向いた後、
夜のひととき、商品センターの有志10数名から歓送会を開催して下さり、
後日の9月中旬に物流会社の本社、商品センターの有志で20数名で歓送会をして下さった。

或いは私が30年近く勤めてきた出向元のレコード会社の有志20数名は、
リストラ烈風の中でも定例的な懇親会を幾たびか開催してきたが、
10月下旬の時、私は定年退職を迎えることができたことに御礼の言葉を述べたりした。

このようにリストラ烈風の中、のどかでおめでたい退職時の情況は、私の場合は出向身分もあり、
大きく変貌してしまったのである。
                    

私は実質として退職した9月の始めから、自宅で五十肩を労(いたわ)りながら、
家内の父の危篤のような状況を憂いたりしていた。

やがて9月の中旬に私は、小庭の枝葉、雑草は伸び放題だったので、
とりあえず五十肩を気にしながら玄関庭、主庭の雑草の草むしりをした。

こうした中で主庭の草ぼうぼうの中で、草むしりをしている時、小さな幼い樹が三本を見つけた。

樹高は10センチぐらいで樹元の幹回りは3ミリぐらいの、かぼそい樹であった。
そして私は、小鳥が飛び立つ前のささやかな贈り物が成長したのかしら、と微笑みながら、
抜き取るのをやめて放置した・・。

 
          
この後、家内の父は10月初旬に死去し、仮通夜、通夜、本葬、告別式、初七日と日々を過ごした後、
私の定年退職時の10月20日の正式日に迎え、退職後の書類、退職金などで銀行廻りをしたり、
関係先、知人に退職の挨拶した御礼の葉書を郵送したりし、慌ただしい日々を過ごしたりした。

こうした中、定年退職後の失業保険に関して、当初は申請して、5ヶ月分の失業手当を頂こうとした。
しかし、私は長年に及び管理畑の身であったので、これといって特別な技術もなく、
たまたま家内の父が死去された後の失墜感も加わったりした。

そして、この数年前の頃は大企業もリストラ烈風で失業された人達も多く、
私は勤める意志なく、求職される方たちの真摯な様子をホームページ、新聞、テレビのニュースなどで知ったので、
失礼と思い、失業保険の申請書を破棄したりした。

こうした心情の中、定年退職記念旅行は延期、失業保険は断念した予定外のことであったが、
人生は予定通り進まないことも多くあるので、私なりに後悔はしなかった。
          


そして11月下旬に亡くなった家内の父の四十九日の法要、納骨を終えた後、
家内の母と家内と私は、お寺の付近の最寄駅の延長にある亀山湖の観光ホテルに3泊4日で滞在した。

こうした時、私は亀山湖の湖畔を独りで散策していた時、五十肩の違和感が消えたり、
この当時は60歳の年金生活を始めた頃であったので、
天上の神々は、いつまでも50代ではない、と采配して下さったと思いながら微笑んだりした。


そして翌年の2005年(平成17年)の入梅前、私は草むしりに専念していると、
あの幼い三本の樹は、少し成長していたので、この中の一本を庭の片隅に移植して、
私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
秘かに定年退職時の記念樹と私は決めたりした・・。

小さい樹ながら、早春には芽吹き、春には主幹と枝は成長して若葉の情景となり、
               
秋を迎えると、あまたの葉は黄色に染まり始め、やがて晩秋には黄色の色合いに染め、
               
12月の初めの頃に落葉して、そして冬木立となる。
          
この間、めざましく伸長したので、やむなく剪定を繰り返して、樹高は5メートルまでとしたりした。
               
        
こうした中で、小庭に私の定年退職の記念樹として植えた樹も大きく育っている。
つたない半生を歩んできた私が、せめて定年退職時の記念樹と思いながら、
ときおり四季折々ながめることが多い樹となっている。

過ぎし今年の4月の初旬、澄み切った清々しい晴れ間となっている中で、
小庭にあるアカネモチは朱紅色の新芽、そしてキンモクセイの黄緑色の新芽も伸びだし、
名も知らぬ落葉樹は芽吹きが終わり、幼い葉を眺めたりした。
               

このようなことを思い馳せたりしていると、定年退職日は実質として8月31日となり、
9月1日からは年金生活をしてきたので、早くも丸10年は過ぎた、と独り微苦笑を重ねたりしている。

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定年後の年金生活の中、たかが保険されど保険と思いながら、やがて我が家は・・。【下】

2014-08-31 07:58:57 | ☆夢幻のような安楽な60代☆
その後、私が購読している季刊誌の『文藝春秋SPECIAL』(2012年冬号)を
2012年(平成24年)10月下旬に、駅前の本屋で買い求めたりした。
       
たまたま《 老後のお金 》の特集であり、
表紙の右上には《 今すくに出来る65歳からの賢いお金の使い方 》と明記されていたので、
何かと小心者の私にとってびったりの内容だ、と思いながら精読し、多々教示された。

そして経済にも疎(うと)い私が、信愛している経済ジャーナリストの荻原博子さんなどの数多く著名人の寄稿文を読み、
デフレ経済の蔓延している中、やはり高齢者にとっては預貯金が肝要である、と思ったりした。
               
  
今回、『文藝春秋SPECIAL』(2012年冬号)の特集の《 老後のお金 》の特集の中のひとつ、
《保険編》に付いて、ライフネット生命保険代表取締役副社長・岩瀬大輔(いわせ・だいすけ)氏の寄稿文を
無断ながら要約させて頂く。

             
《・・現役から退いた高齢者には原則として『生命保険』は必要はない・・
長年加入してきた『生命保険』がある場合は解約して、その資金を老後間の生活費に充当すべきた。

「自分の身に起きる確率の高い事象」については、保険では貯蓄等の資産形成によって準備されるべきものである。
老後の生活費は必ず必要になることが分かっているお金てある。
「偶然の事故に備えて大勢が少しつづお金を出し合う仕組み」である保険には適さない。

老後の生活に入ってからの死亡や病気は「発生確率が低い事象」ではない。
誰しも老いたら体は弱くなり、病気にも罹(かか)りやすくなる。
保険数理的には十分に起こり得る事態なのであるから、
しっかりと現実と向き合って備えるべきの事柄である。

老後の生活において私たちにふりかかる死亡・病気等の事象に対しては、
原則として保険ではなく貯蓄による現貯金で対応すると考えるべきである。

追加の収入がなかなか見込めない老後の生活においては、いかに自由になる資金を確保するかが大切である。
人生の最終ステージに入った後は、もっとも憂慮すべき「万が一」のリスクは、
死亡や病気ではなく、悲しいことだが想定以上に長生きしてしまうこととも言えるかも知れない。
          

このような観点からも、『生命保険』の入り方はついては慎重に検討されたい。
          

『生命保険』は「何に備えるか」という観点から、大きく三つに分けることができる。
◎死亡による所得喪失(死亡保障)
◎病気による医療費支出(医療保障)
◎長生きのための費用(生存保障)

死亡による所得喪失に備える保障は、定年退職してからは働いていないわけだから、
失うべき「所得」がそもそも無い。
子供たちはもう独立しているから、経済的に困る家族もいない。

世帯主が亡くなっても、残された配偶者に年金が支給され続ける。
老後の生活は、これまで形成してきた資産と、年金に頼ることになる。
従って、老後の生活において死亡保障は不要と考えるべきだ。
                    

医療保障は貯蓄で対応。
高齢者になれば医療費の自己負担金額はさほど大きくない。
公的医療保険は70歳以上の高齢者であれば、自己負担一割で医療は受けられる。

その上、高額医療費制度によって、高齢者は自己負担額は限定されている。
70歳以上であれば、外来の場合、毎月の上限額は1万2000円となっている。
(現役並みに課税所得がある人は、4万4400円)

このような理由から、「いざという時に医療費に回せる貯蓄が数百万円あれば、
民間医療保険は必要はない」。

このように公的医療保険が手厚い理由は、民間保険と異なる三つの性格を持っている。
◎公的医療保険は持病があるか否やによって保険加入を拒まれることはないし、
 保険料が高くなることもない。
 健康な人がその分も負担しているので、健康リスクの移転が行われている。

◎社会保険料は所得比例となっているが、給与が高い人が病気になる確率が高い訳ではなく、
 所得の再分配も行われている。

◎高齢者の公的保険は、実際には現役世代からの「仕送り」によって、
 大半が賄われているので、世代間の所得移転がある。

もとより財政が逼迫する中、医療費の抑制を目的として、今後の高齢者についても
自己負担額の増加が求められる可能性がある。
それでもなお、高齢者の医療と年金をある程度、保障することは現代国家の中核の責務である。
                     

生存保障・介護保険は入るべきか。
老後でもっとも心配なのが、介護の費用・・
「要介護」の手前の「要支援」、或いは重度の「要介護」の実態分布を明確にした後、
その上に民間の『介護保険』が説明されている。

そして老後資金の中から、80歳を超えて長生きした時の介護資金として、
500~1000万円程度は介護資金として織り込んでおくか、
まさにそれぞれの人の「保険観」によって決まることになろう。


もっとも、以上は現状の介護保険制度が前提としている。
財政が逼迫する中、今後は制度が見直しされることも充分ありえる。
その場合は、公的保険も民間保険も共に、給付条件等を見直される可能性がある。

この場合でも確実に頼りになるのは現金だろう。
手元にある程度自由になる現預金を確保しておくことが不可欠だ。・・》
                    

このように私は岩瀬大輔氏の寄稿文から、多々教示を受けて、
程ほどの現預金だけしかない我が家は、公的の国民健康保険、介護保険を頼りに、
生命保険、死亡保険、医療保険、傷害保険を解約し、現預金の目減りを程ほどに抑えてきたことが、
正解だったかしら、と私は微苦笑している。


この後、私たち夫婦が万一、高額医療費を要する大病をなった時、
「高額療養費制度」について調べていた時に、
ネットで 《 高額医療費の負担を抑える「高額療養費制度」の支給申請方法 》と題された記事を見て、
多々教示したりした。
          

この記事は『週刊ポスト』2014年1月10日号で掲載された記事であり、無断ながら転載させて頂く。
         
《・・自宅で平穏に死にたいと思っていても、
自宅で介護・医療を受け続けるには経済的負担も大きく、実際に自宅で死ねる人は少ない。
そこで、高額療養費制度や介護保険などを利用して、
自宅で“終の生活”を送るために必要なお金を減額することも視野に入れなければならない。

医療費を軽減するために利用できる制度として、絶対に知っておくべき筆頭は、高額療養費制度だ。
これは医師による治療や検査代、薬代などで支払った医療費が、
1か月で一定額を超えた場合、その超えた分が支給される。

負担の上限額は、年齢と所得によって変わってくる。
70歳以上では、「一般所得」の人の自己負担額の上限は月額1万2000円、
住民税が非課税の「低所得者」では8000円、
住民課税所得が145万円以上の「現役並み所得者」の人では4万4400円となっている。
          
          
介護問題に詳しいノンフィクションライターの中澤まゆみ氏が解説する。
「一つの医療機関の支払いが自己負担上限額を超えない時でも、
同じ月に複数の医療機関を使っていたり、同じ健康保険に加入している世帯の別の人の医療費が高額であれば、
その自己負担分を合算することができます。

たとえば、在宅医療を行なっているが、2週間の入院をすることになって15万円かかり、
在宅医療費も2週間で2万5000円を支払ったという時には、それらを合算して払い戻しを受けることができます。

ただし、70歳未満では一つの医療機関の支払いが2万1000円以上であることが条件になります」

高額療養費の支給申請の方法は、75歳未満では加入している公的医療保険に支給申請書を提出、または郵送する。
75歳で後期高齢者医療制度を使うようになると、
各広域連合から「高額療養費の支給申請のお知らせ」が届くので、それを市区町村の担当窓口に提出して申請する。
申請は初回のみに必要で、その後に支給される分については改めて申請する必要はない。・・》
                    

この後、関連事項として、《 月100万円の医療費負担を9万円おさえることができる制度 》と題された記事があり、
私はクリックした。

この記事は『女性セブン』2014年3月13日号に掲載された記事であり、無断ながら転載させて頂く。
《・・マメ知識を知っておくと、意外とお得になるのが医療費だ。
例えば、大病やケガで多額の医療費がかかったときには「高額療養費制度」というものが頼りになる。

もしも、手術や治療で月に100万円かかることになったとしても「高額療養費制度」を利用すれば、
実際の負担額は月9万円を超えることはない。
100万円の医療費のうち、70歳未満なら、まず3割が自己負担なので、窓口で支払うのは30万円。

さらに「高額療養費制度」を利用すると、1か月の医療費が約9万円を超えた分については、
加入する健康保険に申請すると、払い戻してもらえる。つまり、約21万円が後から戻ってくるのだ。
                    
          
『読むだけで200万円節約できる 医療費と医療保険&介護保険のトクする裏ワザ30』(ダイヤモンド社刊)
著者・早川幸子さんは、こう説明する。

「1年に4回以上この制度を使った場合、4回目以降は自己負担の上限額がさらに4万4400円に下がります」

どんな病気になっても、最大でこの程度の負担ですむなら、とりあえずは安心。
高額療養費制度が使えるのは保険診療のみで、食事や差額ベッド代、交通費などは実費となる。
高額療養費制度の申請をしないまま大金を払い続けている人も多いので注意を。

「支給申請の通知は郵便でくるので、必ず確認。
わからない場合は、加入する健康保険の窓口に問い合わせましょう」(早川さん)・・》

          
このような記事を私は読んだりし、万一、私か家内が大病になってしまった時、
年金生活の我が家でも、何かと「高額療養費制度」を活用させて頂ければ、安心かしら、
と改めて私は思ったりしている。

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定年後の年金生活の中、たかが保険されど保険と思いながら、やがて我が家は・・。【上】

2014-08-31 07:56:56 | ☆夢幻のような安楽な60代☆
2004年(平成16年)の秋に定年退職後の年金生活を始めた直後、
私たち夫婦は齢を重ねるとボケたことを配慮して、
銀行、郵便局、生命保険等を出来うる限り集約したりした。

こうした中、健康保険に関して定年退職後も、勤めていた企業の所属する健康機関に継続していたが、
支払い請求額の通知を受けて、少し高いなぁ、とため息をついたりした。

現役の企業の諸兄諸姉が所属していた健康機関なので、
何かしら病気とか万一の病死などは手厚く保障されていたが、
私の現役サラリーマン時代は給与から毎月差し引かれていたので、高いとも低いとも感じていなかった。

私は定年後に年金生活に入ったが、昭和19年9月生まれであるので、
年金満額支給は62歳になってからであり、それまでの2年間は年金支給額は、ほぼ半額程度であった。

このような収入時期の時代で、やはり企業の所属する健康機関は手厚く保障されていたが、
支払う毎月の保険料も高かった、と遅ればせながら気付いたりした。

やむなく私は、健康保険を企業の所属していた健康機関から国民健康保険に切り替え後、
最初の『国民健康保険料』の夫婦合算の請求支払額が余りにも激少したので、微苦笑したりした。

もとより国民健康保険料は、前年度の収入に基づいて、
家族構成、お住まい地域の自治体により差は発生するが、算出されている。


この後、保険関係をすべて見直して、
現役サラリーマン時代より生命保険、死亡保険、医療保険、傷害保険は、ほぼ半減に修正し、
火災保険、家財保険だけは従来通りとした。
          

こうした中、東京都の住民である私は、わずかな掛け捨てで、交通災害保険を知り、加入した。
何かしら 『ちょこっと共済』と称された可愛らしい名称で、
自動車、電車、船舶、航空機などの交通機関で、万一交通事故に遭われた時、
わずかであるが保証される保険である。
              
年金生活を私が始めた当時、大通りの歩道を自転車で疾走する下校時の学生、
買物の主婦など、中には携帯電話を話したり、見たりする方たちがいて、
何かと前方を不注意の方も見かけたりした。

或いは、我が家の近くの大通り、そして住宅街でも、
特に高齢者の方が覚束ない自動車を運転される方たちを見かけたりしてきた。

こうした状況を見かけて危惧してきた私は、万一、交通事故に事故に遭遇した時の用心として、
この後に、『ちょこっと共済』加入した。

          
私たち夫婦は、それぞれが毎年1000円ほどの掛け捨て保険をして、
確かに若き時代よりも、身体は衰え、少しボケてきたと感じる時もあり、
外出の時の『お守り』代わりに加入して、早や9年を迎えている。

この間、『ちょこっと共済』の『お守り』の効力の為か、
幸いにして私たち夫婦は交通事故に遭遇しないで、無事に今日に至っている。
          

この間、私は高齢者入門の65歳になり、介護保険証を受けたりした。

そして2011年(平成23年)10月初旬に、
家内は家内の父の命日に際して、家内の母と妹の三人で、
墓参を兼ねて1泊2日の短き慰安旅行に行った時に、何かの話題の後に、年金生活の保険金の話題になったらしい。

この時に、程ほどの貯金があれば、『国民健康保険』、『介護保険』もあり、
高額治療になった場合は、程ほどの自己負担で済むから、
『医療保険』などはなくても大丈夫よ、と家内は教えらた、と家内の帰宅後に私は聞いたりした。

この後、何かと愚図の私は、現行の長期にわたって自己負担する高額な医療費について調べたりした。

そして私は厚生労働省の公式サイトのひとつ『高額療養費制度を利用される皆さまへ』を視たりした結果、
公的の『国民健康保険』と『介護保険』さえ加入していれば、
我が家としては、『死亡保険』、『医療保険』、『傷害保険』は、年間として少なくとも約30万円を支払ってきたが、
我が家としては不要かしら、と私たち夫婦は結論した。

         
そして、私は解約の手続きを開始したのは、私たち夫婦は年金生活を7年過ぎた頃であった。  

こうした中、家内は年30万円で7年だから、210万円・・無駄だったかしら、と苦笑したりした。

『でもねぇ・・先の見えない漠然とした年金生活を始めて・・無事に病気することなく、
旅行に行けたし・・こうして8年を迎えられたのであるから・・良かったじゃないの・・』
と私は微苦笑しながら、家内に言ったりした。

そして我が家は、私は国民健康保険、介護保険さえあればと思いながら、
生命保険、死亡保険、医療保険、傷害保険を解約したりした・・。
          
                      《つづく》

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退職後の年金生活の前後、悩ましき預貯金に思案させられた軌跡は・・。

2014-08-30 08:15:23 | ☆夢幻のような安楽な60代☆
私は民間会社の中小業のある会社に35年近く奮戦し2004年(平成16年)の秋に定年退職し、
最後の5年半はリストラ烈風の中、出向となったりし、敗残者のようなサラリーマン時代を過ごした。

その上、私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思い、年金生活を始めた・・。

      
この間、私たち夫婦は自分たちの老後の生活の改めて話し合ったのは、
1999年(平成11年)の新春の当時で、私が54歳あった。

私が勤めてきた中小業の多い音楽業界の各レコード会社は、1998年(平成10年)に売上の主軸となるCDがピークとなり、
この少し前の年から各社はリストラ烈風となり、業務の大幅な見直し、会社間の統廃合もあり、人員削減も行われはじめた。

私の勤めた会社も同様に、早期退職優遇制度の下で、上司、同僚、後輩の一部が業界から去ったりし、
人事異動も盛んに行われたりし、 私も50代のなかば1999年(平成11年)の新春、
取引先の物流会社に出向を命じられた。

こうした時に、私が定年退職を出来た後、どのような生活をしたいか、そして生活資金などを話し合った。

具体的には、私たち夫婦の第二の人生は、どのように過ごしたいのか、主題であった。
                                

やがて結論としては、定年退職後の60歳以降は、
私は働くことを卒業し、お互いのささやかな趣味を互いに干渉することなく、
共通の趣味のひとつの国内旅行を四季折々できればよいなぁ、と漠然に念願したりした。

こうしたことを実現するためには、この当時も各出版社から数多くの本が発売されていたので、私なりに買い求めた。

そして『定年後』~「もうひとつの人生」への案内~(岩波書店)、『間違いだらけの定年設計』(青春出版社)、
『「定年後」設計 腹づもり ~50代から考えておきたい~』(三笠書房)などを購読した。

或いは雑誌としては、 『ほんとうの時代 ~50代から読む「大人の生き方誌」~』(PHP研究所)であり、
こうした本を読んだりしながら、現在の我が家の貯金の確認、定年退職までの年収、退職金など、そして年金の推定額も算出し、
収支概算表を年別に作表し、この当時の夫婦平均寿命までの年を総括表にしたりした。

そして、毎年の月別は、家計簿の応用で収入の項目、支出の保険、税金等を含め、予定表も作成したりした。

この時の私は、幸いに住宅ローンを終えていたが、私は1944年(昭和19年)9月生まれであるので、
年金の満額の支給は62歳であり、それまでの2年間は満額のほぼ半分となるので、このことも配慮した。

そして年金が満額となった62歳からの生活の収支は、
私たち夫婦の共通趣味である国内旅行費、そして冠婚葬祭など諸経費は例外として、
原則として生活費は年金を頂く範囲として、収支の概要を作成したりした。

こうした結果、私の年齢、家内の年齢を主軸に、1998年(平成10年)から私が80歳を迎えるまで、
年次別の収支と残額を作成し、パソコンに入れて、計画、実績、差額を毎月入れたりしていた。
                                        
こうした中、不慣れな遠い勤務先の出向会社に私が奮戦している時、
出向先の物流会社も大幅なリストラが実施されたり、
私が30年近く勤めてきた出向元のレコード会社会社でも、リストラ烈風となる中、
私の同僚、後輩の一部が定年前の退社の連絡、或いは葉書で挨拶状を頂いたりし、
私は出向先で2004年〈平成16年〉の秋に定年退職を迎えたのである。

そして、私は出向身分であったので、何とか烈風から免れたのも事実であり、
定年前の退社された同僚、後輩に少し後ろめたく、退職後の年金生活に入った理由のひとつとなった。

こうした中で、経済にも疎(うと)い私が、信愛している経済ジャーナリストの荻原博子さんなどの数多く著名人の寄稿文を読み、
デフレ経済の蔓延している中、公的年金を受け取りながら堅実に年金生活をし、
預貯金が3000万円あれば、少しづつ取り崩して生活すれば、少しはゆとりのある年金生活ができるかしら、
と学んだりした。

       
しかしながら私はつたないサラリーマン時代の軌跡であったので、もとより一流大学を卒業され、大企業、中央官庁などに
38年前後を邁進し栄達されたエリートの年収、そして退職金などは、遥かに及ぶことなく、遠い存在である。
                    

2004年(平成16年)の秋に定年退職し、年金生活を始めた直後、私たち夫婦は齢を重ねるとボケたことを配慮して、
銀行、郵便局、生命保険等を出来うる限り集約したりした。

こうした時、ある銀行の窓口で私の退職金を引き出した時、支店長から応接間に招待され、
支店長から『一時払い終身保険』を私たち夫婦に説明して頂ながら、勧誘させられたりした。

しかし10年間の運用利回りが良いと言われても、長期に及び資金が固定されてしまうので、
魅力は感じることなく、対象外とした。

この直後、支店長から3分の2はある投資信託で高い金利、残りの3分の1を安全利回りで運用されれば確実に増えます、
と勧誘するように助言されたりした。
そして支店長が自分もしていますよ、と自身の投資額と金利の推移表のカードを
私たち夫婦に見せて、先月は5万少し・・と提示して、微笑みながら勧誘した。

しかし私たち夫婦は、もとより金利の変動は良いことあれば悪いこともあり、
悪化しマイナスになった場合は、残された人生に狂いが生じるので、安全な国債などした。

私は小心者のせいか株、投資信託などのハイリターン、ハイリスクで、
残された大切な人生に一喜一憂するのは、何よりも心身によくないと思ったりした。

そして、貯金関係は殆ど国債の元本保証プラスわずかな金利、そして定期貯金を選定したのである。
          

こうした私たち夫婦の根底には、バブル期の終了まじかに、投資信託に失敗したことがあったことが主因であった。
バブル期、私は現役のサラリーマンであり、同僚たちが盛んに株の売買で、高揚していた。
私は基本的な私たちの生活資金として、この当時は預貯金は1000万に到達していない上、
小心者の為に株のハイリターン、ハイリスクは避けて、ボーナスを頂くたびに定期貯金に加算したりしていた。

やがてある証券会社より、投資信託の勧誘のパンフレットが郵送され、
何かしら四半期毎に8%~12%の利回りがあった、と直近の四半期実績推移表が添付していた。
そして天下のXX証券が、世界中の資金を運用するプロの集団だから、と信頼して、
取りあえず100万円だけ、我が家は投資した。

一年過ぎた頃、結果として元本の100万円の消えて、精算は85万円にお詫び状が付いていた。
そして我が家は少なくとも15万円も損失したので、これ以来とのような証券会社より勧誘が来ても、
無視をしたりしてきた。


我が家は国債を二千万円足らずを購入しているが、絶対的に大丈夫、と問われれば、
『国債が駄目になった時は日本が滅びる時である・・その時は私たちの生命財産はもとより保障されないので・・』
と私は今でも公言をしている。

このように我が家は預貯金に関しては、元本保証プラスわずかな金利主義となっている。

確か年金生活を始めた翌年の2005年(平成17年)頃に、
外資のシティバンクの新聞に《・・金融資産1億円の方に・・》と掲載していた。
私はこっそりと読んだりしたが、金融資産と住宅の敷地の固定資産評価額を加算したら1億円は超えるが、
とても金融資産1億円は・・と項垂(うなだ)れたりした。
          

昨年の2013年(平成15年)、ビジネス総合情報誌として名高い『プレジデント』が、
『ゆとりある老後 必要な資金は』の記事をネットで提供された記事を私は精読していた・・。

ジャーナリストの山本信幸さんの寄稿文を無断ながら、長く引用させて頂く。
《・・(略)・・定年後の生活にいくら必要か?  という質問にひと言で答えるなら「1億円」である。
大卒社員の生涯賃金の3分の1に相当するお金を、老後のために確保することなんてできるのだろうか?  

まずは老後の生活には毎月いくらかかるかという話から始めよう。
2010年度の総務省・家計調査報告によると、
夫65歳以上、妻60歳以上の高齢無職世帯の夫婦の1カ月の平均支出が26万4948円。
対する収入は22万3757円。毎月4万1191円の赤字である。

ここで注目すべきは「年金面では恵まれているリタイヤメント世代でも、
公的年金だけでは生活ができない」ところにあるとFP(ファイナンシャルプランナー)の大竹のり子氏は指摘する。
しかも「収支が赤字になる状況は、現役世代がリタイヤする頃になっても解消されないどころか、
もっと厳しい状態になる」(大竹のり子氏)ことはほぼ確実だ。

この生活で夫婦ともに90歳まで生きると仮定して、60歳以降、年金以外に必要なお金は約3000万円だ。
ところがこの平均的な支出では、旅行やレジャー、趣味を楽しむゆとりのある生活はできないと多くの人は考えている。
                   
        
2010年度「生活保障に関する調査」(生命保険文化センター)によれば、
夫婦で老後にゆとりある生活を送るには36万6000円の収入が欲しいという。
その場合、30年間で必要な額は約6700万円にも膨れ上がる。

とはいえリタイヤ直後の65歳と、20年後の85歳では生活の仕方も変わるはずだから、
生涯にわたって毎月36万6000円使うというわけではない。
老後のお金に詳しい経営コンサルタントの岩崎日出俊氏は、こう試算している。

60歳まで生きた男性の平均寿命は82.84歳、女性は88.37歳まで生きるという統計(2010年簡易生命表)がある。
余裕を持たせて夫87歳、妻92歳まで生きると仮定し、
最低限の生活のためには月24万円、ややゆとりある生活のためには月30万円かかるとすると、
最低限生活では1億776万円、ゆとり生活では1億1856万円確保しなければならない。

しかし年金が7274万円支給されるので「不足分は最低限生活で3502万円、
ゆとり生活で4582万円になります」。・・(略)・・》

ここまで私は読んだら、年金生活のスタート時点に4500万円あれば、ゆとり生活ができる、
と苦笑したりした。

そして私の現役時代の先輩、同僚、或いは友人の中で、
不幸にも定年退職時の前に、リストラ烈風で退社を余儀なくされて、不遇な方もいる。

或いは父親の商店を受け継いで、何とか生活しているよ、と私は中学校時代のの有志会で、聞いたりしてきた。
                    

こうした中で、私は総務省が「家計調査」実態の公表を読んだりした。
昨年の2013年(平成25年)6月末現在の平均支出額として、
60歳から69歳の世帯で月額25万9695円、70歳以降が19万6500円。

或いは金融広報委員会の調査に於いては、老後の生活費として現役世代が見込んでいる金額は平均で26万円。

こうした実態であるならば、年金だけでは老後の生活費をまかなうことはできない、と私は思われた。

そして肝要の年金受給額の実態は、日本年金機構の公表に於いては、
一昨年の2012年(平成24年)2月現在として、モデル世帯の年金月額は約23万円。
そして内訳は、夫の老齢厚生年金が約10万円、老齢基礎年金が約6万5000円、妻の老齢基礎年金が約6万5000円。

そしてモデル世帯は、夫が厚生年金に40年加入し、妻が第3号被保険者を含め、国民年金を40年納めた場合であり、
ここ15年前後、経済が衰退する中でリストラ烈風もあった中で、モデル世帯のような条件の良い世帯は現実には少数派、
と私は感じたりした。

そして実際の年金額の平均としては、日本年金機構の統計の昨年の2013年(平成25年)7月現在に寄れば、
厚生年金が10万8348円、基礎年金が5万3716円。
そして夫が会社員、妻が専業主婦というモデルに合わせた場合、平均の年金額は21万5780円。
そして60歳から69歳の支出額に、約4万4000円不足。

このような年金生活の実態を私は学んだりしてきた。
                    

年金生活の我が家の基本は、厚生年金、わずかな企業年金を頂き、通常の生活費するのが原則としている。
しかし共通の趣味のひとつである国内旅行、或いは冠婚葬祭などの思いがけない出費などに関し、
程々の貯金を取り崩して生活している。

そして、毎年年始が過ぎた頃に、新年度の月別の概算表を作る際、
家内の要望などを織り込んで作成し、予算としている。
従って、年金生活の身であるから、今年も赤字が120万円前後かしら、とお互いに確認し合っている。

こうして私たち夫婦は経済的に贅沢な生活は出来ないが、
働らなくても何とか生活ができるので助かるわ、
と家内がときおり、 呟(つぶや)くように私に言ったりするので、私は苦笑したりしているのが、
我が家の実態である。

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