夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

ときには、 X JAPANの名曲を視聴して・・♪

2009-02-28 17:56:04 | 音 楽
私は年金生活の5年生の64歳の身であり、ときおり音楽を聴いたりしている。
しかし、音楽の素養もなく、オペラとジャズは何かと苦手であるが、
これ以外の分野は、惚れこんだアーティストに関しては、
徹底的に聴くひとりである。

日中、スーパーの2店ばかり廻って買物をし、少しは散策した後、
昼下りの時、居間でぼんやりとしていた・・。

そして何となく、X JAPANの音楽が聴きたくなり、
音楽棚からX JAPANのCD、ビデオ・テープ、DVDの20枚前後のアルバムの中からと思ったが、
私が聴いたり、視聴していない作品があったかしら、と思いながら、
ネットで、『YouTube』サイトで検索したのである。

そして、彼らがNHKの紅白歌合戦に出場した際、
『紅』を選曲の時があり、私は視聴していなかったので、
3回ばかり繰り返して視聴したりした。

この曲をきっかけに私は、2時間ばかり、
『YouTube』サイトでX JAPANの名曲を視聴したのである。

私は【X JAPAN】に関して、数多く投稿しているが、
この中から、三つばかり再掲載するので、
私が彼らを一時期熱愛し、夢中になり、どれだけ心酔したか、
ご理解を頂けるかしら、と苦笑している。



①【 『The Last Song』 を心の中で唄えば・・♪ 】
と題して、2008年5月12日に投稿。

【・・
私は曇り空の中、少し遠回りして買物に出かけた。

人影も少ない遊歩道を歩いたりした。

私は立ち止まり、煙草に火を点(つ)けた時、
突然に私の心にひとつの歌が流れた・・。


♪傷つくだけ 傷ついて 解ったはずの答えを
 どうしてまだ 問いかける

【『The Last Song』   作詞・YOSHIKI】


私はどうしてこの歌が思いだされたのか、
自身で驚いたりしていた。

この歌は、ロック・グループのX JAPANの最後の頃の名曲であるが、
どうしてなの・・、と私は思い返したりしていた。

私はこの半月に於いて、このブログ・サイトの
【年金青年のたわむれ記~かりそめ草紙~】に
今まで4つのサイトに書き散らかした3000通前後の
投稿文を整理、統合をしたりしている。

定年退職後まもない時から綴っているが、
私の幼年期から年金生活の今日までの半生記のような内容でもある。


私は昭和19年に東京郊外で農家の子として生を受け、
小学2年の時、父に病死され、
大学を中退し、映画・文学青年の真似事をしたりした。

25歳の時に企業に何とか中途入社し、
35年音楽関係の会社に勤め、定年退職した。

私は中学時代の頃からは、表面は明るく振舞っていたが、
心の中で血みどれに自己格闘し、
ときおり確固たる根拠なく自信をもたげて独断・偏見の言動もあり、
ときには卑屈になったりして、屈折した半生でもあった。

このような心の軌跡があるので、
サラリーマンの家で生を受け、それなりの文化に育(はぐく)まれて、
大学を卒業し、大企業で勤めたエリートの人々とは、
最も遠い存在と思ったりしているのである。

このような心情を思い返してか、


♪終らない雨 抱きしめた 夜が朝を向かえる
 心はまだ濡れたまま
 傷つくだけ 傷ついて 解かったはずの答えを
 どうしてまだ 問いかけている

【『The Last Song』   作詞・YOSHIKI】


このような心の中で唄っているのである。

・・】



②【 皿洗いの時、『X JAPAN』が最適・・!? 】
と題し、2008年4月27日に投稿。

【・・
家内が留守なので、昼食後のひととき、
私は台所に立った。

台所のひとつの戸を開け、そして前掛けをして、腕まくりをした後、
皿洗いなどをしたのであった・・。

CDラジカセを持ち込んで、一枚のCDをセットした・・。

少し山積みとなった皿、丼ぶり、小鉢などを水を盛大に出しながら
スポンジでこすり洗ったのである。

心の中は、さぁ~いくぞ・・という心境である。


♪紅に染まったこの俺を慰める奴はもういない

【 『紅』 作詞・YOSHIKI 】


この後、台所の洗剤で皿などをこすった後は、
水洗いを盛大にしたのであるが、


♪もう二度と届かないこの思い
 閉ざされた愛に向かい
 叫びつづける

【 『紅』 作詞・YOSHIKI 】


この歌は私は小声であるが、
ボーカルのTOSHIに負けじと唄い続けた・・。

この名曲は、ロックバンドのX JAPANであり、
この歌は1時期、高校野球の応援歌で、
演奏されたりしていた・・。

私は水洗いをしながら、この歌を『一曲繰り返し』セットし、
唄い続けたのであるが、
不思議ながら合致するのである。

余りバラードであると、聴き込んでしまうので、
程々のハード・ロックが合うと、
小綺麗になった台所で、独り微苦笑したのである。

この後、台所の戸を開けていたので、
室内禁煙に目をつぶり、煙草を喫いはじめていたら、
玄関のチャイムが、
『コッキラ・・コ~ン!・・』鳴り出し、
私は玄関が見える窓から、そぉ~と見たら、
30前後の美麗なご婦人と幼児が立っていた。

私は自治会の役員のお方が、
共同募金の収集でお見えになったのだ、
と解かったが、前掛けと腕まくりの60代の小父さんとしては、
少しあわてたのである。

そして、私は『はぁ~い』
と大声で云いながら、
前掛けを取り、応対したのであった・・。

私は15分ほど早かったら、
見せられる格好でなく、X JAPANと共に、
小声で唄っていたのであるから、
今であってよかったよ、と呟(つぶや)いたのである。

・・】



③【 ときには、X JAPANを聴いて・・♪  】
と題し、2006年5月3日に投稿、

【・・
家内が今朝から実家に帰っている。

家内の母は、一昨年の秋に主人を亡くされ、独り住まいなので、
家内は月に一回、4泊前後で大掃除、季節変わりの衣料整理などを行っている。

私は3時過ぎから、X JAPANの『The Last Live』CDの3枚組を聴いている。

家内は程々の音量で音楽を聴いているが、
私は時折、音量を大きく聴くので、
家内の留守を幸いにして、久々にX JAPANを大音量で聴いている。

私がX JAPANに魅了させられたのは、解散前の頃であったが、
偶然『Rusty Nail』を聴いた時、鳥肌がたった・・。

私は、52歳頃であった。

それからの日は、明けても暮れても、音楽はX JAPANとなり、
CDアルバムを買い求め10枚を直ぐに超えた。

このラスト・ライブのコンサートは
1997年12月31日に東京ドームで行われたが、
私の母が危篤となり、無念ながら行けなくなった。

その後、NHKで『X JAPANの軌跡 感動のドームライブ』と題されたのが放映されてた。
1998年1月30日であり、ビデオに収録した。

それからの日々は、このビデオを毎晩観て、熱狂の時は6ヶ月ぐらい続いていた・・。

そして友人達には、X JAPANは心身のビタミンです、と公言していた。

今回、聴いたCDの3枚組は、2001年5月に発売され、
DVDの2枚組は、2002年3月に発売された。

従って、ラストライブに関しては、この3種類を聴いたり、観たりしている。

尚、ライブは観る物であり、スタジオ盤は音楽を聴く物、
と私は原則として自覚している。

・・】

このように、たった3つばかりを再掲載をしたが、
これ以外に熱い思いで数多く投稿しているが、残念ながら際限がないので、
省略する。




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遅ればせながら、『歳寒三友(さいかんさんゆう)』の言葉を学び・・♪

2009-02-28 08:20:59 | 読書、小説・随筆
私は年金生活の5年生の64歳の身であるが、
過日、私達夫婦は家内の母と3人で、長崎・雲仙に8泊9日で訪れる時、
羽田空港より、長崎空港に向けて機上の人となった。

私は飛行機の機内は、
新幹線などの電車のように車窓から風景が見えないので、何かと苦手である。
ただ、飛行機はたった2時間以内に羽田空港から長崎の地を踏めるのであるから、
やむえず時間の圧縮として利用しているのである。

私は機内の場合は、煎茶のペットボドルを持ち込んで、
この煎茶を飲んだりしながら、持参した本を読むことが多いのである。

今回、何気なし『翼の王国』と称されたANAグループの機内誌を手に取り,
何かよい随筆はないかしら、と思いパラパラの捲(めく)っていたのである。

この中で、偶然に魅せられた文があり、要約すると下記のように綴られていた。

【・・
古来、日本には花が美しいと見る文学的な思想はなく、
『栄木(さかき)』といった常緑の木に神聖を感じていた。

先進国であった唐より梅が伝わってきたが、
『鳥梅(うばい)』という薬として、日本に伝わってきた。

『万葉集』の頃から、目立って梅の歌が現われる。

梅は松、竹と共に『歳寒三友(さいかんさんゆう)』のひとつに
挙げられている。

・・】

この記事は、『萬手控(よろずてびかえ) 植物文化考』と題された連載で、
私が手にした二月号は『友好の梅』と名付けられ、
望月 昭氏が綴られた一節である。

私は全文を読み、魅了された一節だけを要約して、ノートに転記したのであるが、
この時節、梅と松、そして竹は、『歳寒三友(さいかんさんゆう)』と言葉に、
齢ばかり重ねた私は、遅ればせながら学び、
何よりも魅せられたのである。

そして、この時節、『三寒四温』という天気季語と同様に、
『歳寒三友(さいかんさんゆう)』は私にとっては心の共に相応しい、
と微笑んだりしたのである。



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東京郊外は、遅ればせながら初雪となり・・♪

2009-02-27 14:13:45 | 小庭の情景を眺めながら
東京郊外の調布市に住む私は、
今朝、地元の天気情報を見ていたら、
朝の6時は4度、昼下りは3度前後、夜の6時過ぎは2度となり、
朝の9時前後は、霙(みぞれ)が予測され、雨の降る寒い1日となります、
と報じられていた・・。

ここ一週間は、一日は冬晴れとなったが、
あとは曇ったり、雨が降ることが多く、肌寒い日々が続いたりしていたので、
おかしな早春の菜種梅雨かしら、と戸惑ったりしていたのである。

私はぼんやりと何気なしに庭を眺めていたら、
小雨は止み、ひとひらふたひらと雪が舞い降りてきて、
私は小躍りしたのであるが、まもなく霙(みぞれ)となり、
大いに落胆したのである。

東京の郊外は、昨年の晩秋より温暖に恵まれていたが、
やはりこの2月の時節は、雪の降る日が数日は・・、
と秘かに願っていたのであるが、
天上の気候の神々から見放されたせいか、今日まで雪の降る日がなく、
侘(わび)しい思いで過ごしていたのである・・。


昨年の12月の下旬に、家内と2人で札幌で、
『さっぽろホワイト・イルミネーション』を観るため市内の格安ビジネスホテルに4泊5日で滞在したりした。
この時の札幌市内は、例年よりも積雪が少なかったが、
郊外の中島公園の付近にある『北海道文学館』を訪ねた時、
冬木立の中、積雪15センチばかりの清々しい景観に私は心が充たされたのである。

その後、1月下旬に奈良の『若草山 山焼き』を観る為に、
家内と2人で奈良に1泊2日した折、
『西大寺』の境内を歩き廻ったした時、小雪の舞う中を歩き、
そして、しばらく土塀を眺めたりしていた。

翌日に観光バスが『長谷寺』に向った折、
奈良市内の郊外の里で、車窓からは田畑の積雪数センチの情景を眺めたりしたのである。


このような雪の想いでを私は煎茶、家内はコーヒーを飲むながら、
話していたのである。
そして居間の食卓テーブルで庭の霙(みぞれ)降る情景を眺めていた時、
まもなく霙から雪に変わったのである・・。

『やっと・・雪が降ったね・・
今年・・初めて・・』
と私は微笑みながら家内に云ったりしたのである。


この後、私はいつものように足袋と下駄の足元で、
主庭のテラスの外れで初雪の舞い降る情景を誉(ほ)めたりしたのである。
白梅、しだれ紅梅は満開の中、藪椿(ヤブ・ツバキ)の濃紅色の花はわずかに揺れ、
白玉椿(シラタマ・ツバキ)は凛とした清冽な純白の花、
そして群生させた日本水仙の花を眺めたりしていたのである。

そして、このような想いを主庭の情景を眺め、
このサイトに綴りはじめた時、雪は止み、小雨に変わったのである。

たった2時間ばかりの初雪の饗宴であり、
結果として積雪はなかったが、私の心は浄化されたのである。


私は雪の舞い降る情景は、幼年期より想いでが重なっているので、
この時節は秘かに待ち焦(こ)がれているひとりである。

このような思いは、
【 東京の郊外、雪の想いで・・♪ 】と題して、
このサイトに2008年1月20日に投稿しているが、あえて再掲載をする。

【・・
東京の郊外は、今宵の深夜に初雪が降る、
と報じられているが、
薄日のおだやかな陽射しが射しこんで折、
深夜に雪が舞い降りるのかしら、と空を見つめたりしている・・。

私は東京の郊外の調布市に住む身であり、
結婚の5年間前後は、川崎の登戸、千葉県の市川市に仮住まいをしたが、
ほぼ60年近く、この地の調布市の一角で住んでいる。

私の住む処は世田谷区と狛江市に隣接しているが、
昭和30年前後で大きく変貌したのである。


私は昭和19年に農家の三男坊と生を受け、
祖父と父が中心となって、程々広い田畑を小作人などの手助けもあって
農業を営(いとな)んでいた。

この頃は、京王線の最寄駅までは
殆ど田畑が広がり、雑木林、竹林なども観られた田園風景であった。

私の幼年期は、毎年、冬の時節になると
雪が30センチ前後が数回降ったのである。


昭和26年の春に私は小学校に入学したが、
初めての冬に雪が降り、登校した時が想いだされる・・。

ゴムの長靴の中に、母か叔母の手助けで藁(わら)を敷き、赤くなった唐辛子を少し入れ、
番傘を差して、家を出た。

家、周辺は雪が降り積もり、空からは雪が絶えず舞い降り、
長靴は雪の中で埋もれてしまったので、30センチは越えていた、と思われる。

駅の最寄の小学校までの通いなれた通学路は、
この時は無視し、畑は雪に埋もれていたので、
この中を吹雪いていたが一直線で登校したのである。

小学校は木造の二階建てであり、教室の片隅に正方形の1間幅の暖炉があった。
コークスはむろん、石炭も使用される前の時代であったので、
薪(まき)が燃やされていたのである。

私達は衣服に雪がまといついたのを払いながら、
雪深く、吹雪いた中をよく無事に学校に着いたと、
子供心にお互いに健闘し合ったりした。
そして、学級で10数人欠席したので、
あいつ、こんな雪で休むなんて・・と悪口を言い合っていたりした。

下校のひととき、番傘でチャンバラの真似事をし、
番傘の数箇所が破れ、帰宅後に母に怒られたりした。

このように毎年、冬の時節は、少なくとも数回は降り積もったのである。


その後、都会の人達が周辺に家を建てられ、
私が小学校を卒業した昭和32年であるが、この頃になるまで大きく変貌したのである。

東京オリンピックを過ぎた時代になると、数年に一回程度、15センチぐらいが降るが、
この間は殆ど数センチ前後の小雪となっている。


私が40歳を過ぎた頃から、家内と共に毎年、この時節になると雪恋しい心情か、
北の地域に旅行し、雪の情景を享受している。
・・】


このように心情で綴ったりしているので、
積雪が多く、単なる雪害ばかり、雪で悩まされている方々には、
私の根底をご了解を願いたいのである。



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ぐうだら小父さん、ただいま冬眠中・・♪

2009-02-27 09:06:21 | 定年後の思い
私は年金生活の5年生の64歳の身であるが、
過日、私達夫婦は家内の母と3人で、長崎・雲仙に8泊9日で訪れた後、
1週間が過ぎているが、私の住む東京郊外の調布市のお天気は、
一日は晴れ、あとは曇ったり、雨が降ることが多く、
早春の菜種梅雨かしら、と戸惑ったりしている。

このような時、旅の疲れか、風邪気味なのか、或いはふしだらな性格なのか解からないが、
ぐうだらな日々を過ごしているのである・・。

朝は日の出前には起き、新聞、ネットのニュースを見た後、
NHKテレビのニュースを視聴した後、家内と共に朝食を頂く。
そして、このサイトなどに投稿文を思案し、何とか一通ばかり投稿をする。

この後は、本日の買物を家内と相談し、
お天気が悪いからと買物はお休みとなったり、
或いは私は昼前後1時間半ばかり、買物に孤軍奮闘したりしているので、
ほぼ一日おきとなったりしている。


そして、日中の殆どは、居間のソファ、或いは布団にもぐり、
読書することが多いのである。

一昨日などは、佐野眞一・著の『誰も書けなかった石原慎太郎』(講談社)に熱中して、
布団の中で読んだりし、少し疲れたからと、昼寝を1時間ばかりしたのである。
そして夕方に起きだして、日々貫徹している『優しいメタボの体操』を20分ばかりした後、
入浴し、この後はぼんやりと新聞の夕刊を読んだりした。

さすがに昨日は、反省し、日中のひとときは銀行、郵便局、そして買物などをしたが、
帰宅後は相変わらず本を開いているのである。


家内と夕食を頂く時は、
ビールを呑みながら、旅先のこぼれ話、これから行きたい観光地などを談笑し、
1時間ぐらい話したりするのが通例であるので、
こればかりは有言実行を重ねている。


夜のひとときは、テレビを視聴するか、読書をするか、
或いは音楽を聴くか、と迷っているいるうちに、
このサイトを開き、それぞれのお方の投稿文を拝読したりし、
微苦笑したり、ときおり真摯な面持ちで襟を正したりしている。

このような生活をしていると、
ぐうだら小父さん、ただいま冬眠中、といったような看板に相応しい、
と苦笑したりしているのである。



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江越弘人・著の『長崎の歴史』、感銘させられ・・。

2009-02-26 10:03:53 | 読書、小説・随筆
過日、私は家内と家内の母と3人で、
長崎・雲仙に8泊9日で訪れるたのであるが、
私なりに独りで長崎の街並みを歩き廻ったりした・・。

そして、『長崎歴史文化博物館』の展示品を拝見した時、
私は長崎県に纏(まつ)わる通史を学びたくて、館内の売店に寄った。

私は小説、随筆はもとより、現代史、歴史書が読むのが好きであるが、
長崎県に伴い、断片的な歴史人物、事柄については、
江戸時代から明治初期の頃までは、少しは知っているつもりであったが、
整然とした通史は無知であったのである。

こうした心情で、売店の入ったのであるが、
さすがに、『長崎歴史文化博物館』の館内の売店でもあり、
長崎県に関しての多くの本が並んでいた。

私はこの中で、ひとつの本を取り,パラパラと目次を見たのであるが、
『原始・古代』より、終期にはキリスト教の布教が始まる『中世』、
長崎開港、鎖国に伴う日本の随一の窓口となった異国との交流の『近世』、
明治時代から原爆被災時の『近代』、そして敗戦後から今日までの『現代』
と明示されたいたので、
まぎれなく通史の一冊であり、
江越弘人・著の『長崎の歴史』(弦書房)を買い求めたのである。

この本は、本の帯の表には、

【 どこから読んでもおもしろい。】 

《 古代から現代まで、新しい視点と解釈で
  200項目のトピックスが語る長崎の通史。 》

と書かれていたる。


私は江戸時代から、少し読み始めたのであるが、
その人物の息づかい、そして優しいまなざしで綴られていたことに、
行間から感じ始めたりしたので、
未知の著作者の略歴を読んだのである。


江越弘人(えごし・ひろと)

昭和10年、長崎市(旧・高浜村)生まれ。
昭和34年、長崎大学学芸学部卒業。
長崎県公立学校教員(小学校)を歴任。
平成8年、定年退職(最終勤務校、長崎市立鳴見台小学校)

現代、長崎の歴史と史跡について講演やガイドを精力的に行っている。
・・】

この後は、このお方の著作された2冊の本が明記されていたのである。


私はこのお方の軌跡に、
小学校の教師をしながら、長崎の歴史をくまなく学ばれた長い歳月に思いを馳せると、
感動をさせられたのである。


この本のたったひとつの事柄の記載を読めば、
教科書にあるような専門の大学教授が書かれた内容、
或いはその地方に多くいる郷土史家たちの愛着心よりも、
遙かにその事柄の人物の生き生きとした状況が感じられ、
行間からは当事者の息づかいまで感じさせられ、圧倒的に凌駕している。


このように感銘を受けながら、
その当時の事柄を拝読し続けたのである・・。

昨日、読了した後、
改めて、この本の『まえがき』、『あとがき』を読んだりしたのである。
この著作者の思いは、
本の帯の裏に集約した言葉が掲載されている。


長崎の地は、昔も今も決して暮らしやすい土地ではない。
様々なハンディキャップを抱いた地域である。
その中で、先人たちは、必死に努力し、業績を挙げ、
或いは挫折しながらも、郷土長崎を
日本の特色ある地域に育て上げてきた。

私は本書を著すに当たって、
長崎という土地に生きた人間に焦点を当たることにした。

・・(略)・・

「まえがき」より


私はこの著作者のことばは、
まぎれなく事柄の当事者までの息づかいを感じることができたのは、
筆力はもとより、この著作者の良き人柄から発露されている、確信したのである。


私は後悔していることといえば、
少なくともこの江越弘人・著の『長崎の歴史』を読んだ後に、
長崎の街並みを散策すれば、更に深い思いを重ねることができた、
と苦笑しているのである。



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ときには、たわむれに『占い』のコーナーを見たりし・・♪

2009-02-25 07:48:26 | 定年後の思い
私は年金生活5年生の身であり、
いつものように日の出前に起床し、ネットでニュースを見たり、
『読売新聞』が配達されると、精読したりしている。

この後、ぼんやりとネットのトップページにした【YAHOO! JAPAN】を見ていたら、

   【Yahoo! 占い
             12星座占い】

と題された、お洒落なコーナーがあり、『てんびん座』と明示されていたので、
僕だって齢を重ね、体力も衰えた身であるが、
まぎれもなく、『てんびん座』のひとりであるので、
こっそりと見たのである・・。


http://fortune.yahoo.co.jp/12astro/20090225/libra.html

そして、半分以上は当たっている、と感じながら、
どうしてなの、と思ったりしたのである。

私は『占い』に関しても、無知なひとりである。


私は占いに関しては、あるサイトに、
【 てんびん座・・!? 】と題して、
2005年1月16日に投稿したことがあるが、あえて再掲載をする。


【・・
読売新聞の日曜版で、『星にお願い』というコーナーで、今週の運勢が載っている。

家内がこのコーナーを愛読している。

『貴方の今週の運勢・・仕事&勉強で手を抜くと成績ダウン。
気合を入れて頑張ろう・・ですって』
と家内は微笑みながら、私に云った。

『じゃあ、ブログは手を抜かず、日々投稿するょ・・』
と私は家内に云いながら、近寄った。

家内の指す新聞には、《てんびん座》と書かれていた。

『ちょっと、教えて・・
このてんびん座っていうのは、一生変わらないの・・?』
と私は家内に訊(たず)ねたのである。

『変わりませんわょ・・』
と家内は、めずらしく断言したのである。

『本当・・初めて知ったょ!』
と私は少し驚いて、家内に云ったのである。

私は、色々な星座がコロコロと、一定の法則で変わる、と今まで固く信じてきた・・。

世の中のこと、私は無知にことが多すぎる、
と苦笑しながら、庭のテラスに下り立ち、煙草を喫ったりした・・。


・・】


このように綴っていたのであるが、
私は齢ばかり重ねていても、世間の常識は、
無念ながら今でも知らない事が多すぎる、と微苦笑したりしている。



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思わず好感した『茶ムリエ』に学ぶ人たち・・♪

2009-02-24 17:27:40 | 定年後の思い
私は年金生活の5年生の64歳の身であるが、
日中の午前11時過ぎから、好きな読書をしながら、ひととき昼寝をしたりしていた。
1時間前に目覚め、顔を洗い、煎茶を淹れて飲みながら、
ぼんやりとネットでニュースを見ていた。

こうした時、思わず好感し、読んでいくうちに魅了された記事があった。

【 ただ今、茶ムリエ志願者急増中…五感総動員で試験に挑む 】

と題たれた記事で、
【YOMIURI ONLINE】の『文化』欄の記事のひとつである。

無断であるが、煎茶などにご興味のある方に多く知って頂きたく、
同時に私も学びたく、あえて記事を転載させて頂く。

【・・
味、色、手触り。実技試験の受験者は五感を駆使して茶葉を鑑定する(江東区で)
深緑色のサラサラとした茶葉を
手ですくい、顔を近づけては眺め、香りをかぐ。

江東区内で今月初めに行われた「日本茶インストラクター」実技試験。
専門店に勤務する「お茶のプロ」など、多くが男性という試験会場だが、
若い女性や外国人受験者の姿も多い。
香りを混乱させる化粧品やハンドクリームはご法度。
味や色、手触りなど五感を総動員して、種類の異なるお茶を鑑定していく。

インストラクター資格は、
NPO法人「日本茶インストラクター協会」が認定する、
いわば「日本茶ソムリエ」。
お茶の知識や説明する能力も求められる。
合格率約30%の関門を突破すれば、
日本茶教室の講師や和風カフェのプロデューサーといった道も開ける。
今や全国で約2500人にまで増えた。

「入れ方や産地などによって味ががらりと変わる奥深さを、
もっと知りたい、伝えたいと思い勉強してきました」。
茶葉を見つめる小井戸旬(めぐる)さん(29)の表情は真剣だ。

都内では日本茶カフェも急増中。
ソムリエが解説したり、教室も開いている。

渋谷区の「茶茶の間」で約3年前から開いている日本茶セミナー。
この日参加した7人の女性たちがまず始めたのは、なんと準備体操だった。
「肩が凝っていると鼻腔(びくう)に香りがうまく抜けず、
お茶をおいしく飲むことができないんです」と、
講師の和多田喜さん(30)。
実践的な知識を学びに、セミナーに来るインストラクターも多いとか。

日本茶を通して「日本の心」までも伝える日本茶ソムリエ。
活躍の場はどんどん増えていきそうだ。(写真と文 冨田大介)

(2009年2月22日15時08分 読売新聞)
・・】

以上、記事の全文ですが、原文に改行を多くした。

尚、ネットに掲載された記事に若き女性の謙虚に学ぶ顔立ち、
そして真摯なまなざしが下記のように掲載されていた。


http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20090222-OYT1T00472.htm


私は煎茶には日本酒の純米酒の辛口と同様にある程度のこだわりがある。
それぞれのお方もそれなりのお好みがあると確信しているが、
まぎれなく日本文化のひとつであり、
私は日常生活でも旅先でも欠かせない心身の友でもある。

たかが煎茶、されど煎茶であるが、
私は民間会社のサラリーマンを卒業した身で年金生活であるので、
百グラムは千円前後の好みの煎茶を愛飲している。

高価な煎茶には、無念ながら程遠い私であるが、
それなりに丁重に淹れれば、程よい香り、味わいがする、
と思い過ごしているのである・・。

私なりに煎茶にこだわっているのは、
やはり幼年期からの想いでも加味されているのである。


たまたまあるサイトに於いても、
【 お茶を摘む頃に・・♪ 】と題して、
2006年5月2日に投稿しているので、あえて再掲載をする。

【・・
遠い昔、昭和26年の頃だった。

祖父と父が中心となって農家をしていたので、
東京の郊外でも程ほど広い田畑を耕していた農家でも、
お茶の樹を持ち、自宅用にまかなっていた。

母屋、蔵、納戸小屋の2軒の中、宅地からゆるい坂を登りきると、
防風用に欅(けやき)が50数本があった。
2間ほどの間隔で植えられて折、樹高は30メートル以上あった。
隣接した欅(ケヤキ)が互いに寄り添うにになると、片方を伐採して、薪(まき)とされた。

その先は平坦な地で陽当りが良く、苗床が幾重にもあり、
洗濯の干し場にも利用されていた。

この平坦な所を抜けると畑となっていて、その先が村道であった。
この村道と畑の境界線としてお茶の樹が植えられていた。
幅は4尺、高さは5尺程度で、50間前後の長さであった。

5月の初旬の頃になると、新芽を摘んでいた。
一家総出で、分家された人々も手伝いに来てくれた。
私が幼児の3歳の頃は、付近に莚(むしろ)を敷いた上で、寝そべっていた、
と後年に母から教えてもらっている。

新芽を摘んだ後、生葉撰り(なまはより)といって、
お茶の葉から混ぜりものや蝕まれた葉を取り除く選別作業をしていた。

その後、生葉を新鮮なうちに、蒸篭(せいろ)で蒸した後、
団扇などで扇(あお)いで、よく冷(さ)ました。
そして、長方形の大きな台の上に炭火をおこし、
その上に鉄板を敷いて、先程のお茶の葉を揉んでいた・・。

煎茶として出来た後、大きな桐箱、茶包みの箱に収納した。
この煎茶は、家族が1年で使ったり、来宅した方の1部の方に差し上げたりしていた。
最もこの選別は、祖父の一言によった。

私は幼児の頃、いじけていたので、いたずらをして、父からよく怒られた。
祖父は、長兄、次兄に続き、私も男の子であったので、
不憫と思ったらしく、祖父の名から一字を私の名前にしてくれた。

祖父からは、可愛がってくれたが、
煎茶を淹れる時、いい加減な振る舞いで淹れる、と怒られた。

私は、成人してから、煎茶を淹れる時、
ときたま祖父を想いだされる・・。

・・】


このように拙(つたな)い投稿文であるが、
私なりに煎茶への思いは深いので、日常のひとときは丁重にまごころ込めて淹れ、
そして味わっているのである。




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長崎駅前で見かけ、感銘された店の看板は・・♪

2009-02-24 07:14:38 | 旅のあれこれ
過日、長崎・雲仙の8泊9日間の旅行をしたが、
長崎の駅前である店の看板に、何よりも魅了されて、
帰宅して6日過ぎた今でも、深く心に残っているのである・・。

長崎駅ビル、県営長崎バスの観光周遊ツアーの営業所、路線バスのターミナル場、
そして市電などを利用したのであるが、
多くの県庁の所在地に観られるように、
自動車、市電の渋滞を防ぐために歩道は、2階の陸橋のような形で整備され、
小奇麗であった。

この歩道を路線バスのターミナル場の方面に歩いていた時、

【 本は心のご飯です】

とアーチ形に明記された看板が観えたのである。

そしてこの下には、

《 ほん BOOK ほんだらけ 》

と明示されて折、私は思わず微笑んだのである。


私は年金生活5年生の64歳の身であるが、
遅ればせながら高校生の時に読書に目覚め、活字を見たり、
読んだりしない日はなかったのである。

小説、随筆、現代史、歴史書などを読んだり、
そして月刊総合雑誌も読み、私なりに夢中になった時の専門誌を読んだりしてきている。

このような50年近く過ぎているが、
私にとっては本屋はもとより、古本屋、年に1度ぐらいは図書館に寄ったりしている。

私は活字中毒のひとりであるので、
まぎれなく本は心のご飯です、といった適言されるようなひとりである。

私は大学中退後、アルバイトをしながら映画・文学青年の真似事をしていた時期、
欲しい本を購入する為に、一食を抜いたりし、お金を貯(た)めて、
やっと買えた本もあったりした。

このような時期は、本は心身のビタミンです、
と固く信じていた期間もあったのである。

こうした長年の心の思いがあったので、

【 本は心のご飯です】

私は心の中で呟(つぶや)きながら、微苦笑したのである。

この後、市内の観光先の売店などで買い求めた未読の3冊もあり、
何よりも朝方に決めたスケジュールがあり、時間の余裕がなく、
無念ながら入店し、本を眺めることは出来なかったのである。



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されど旅行は、3度ばかり楽しめる・・!?

2009-02-23 09:59:19 | 旅のあれこれ
私は年金生活の5年生の64歳の身であるが、
家内と共通の趣味は国内旅行なので、日本の各地に四季折々に訪ねたりしている。

家内の母も独り住まいとなっているので、ときおり旅行に誘い、
私達3人で温泉滞在をすることが多いが、
ときには旭川市、那覇市、長崎市などに滞在し、市内の観光名所先を観たりしている。


こうした旅行の場合は、我家では自動車もなく、
私の定年退職後はペーパー・ドライバーを卒業し、免許証を更新を断念したので、
当然の結果として、ドライブは対象外であり、
旅行会社などに少なくとも宿泊先と交通機関をお願いしているのである。

そして家族・個人の企画した旅行、或いは団体(観光)周遊旅行を重ねたりしている。
この中で、団体(観光)周遊旅行といっても、
各地の観光地を周遊しながら宿泊地を移動するケースと
宿泊先のホテル、観光ホテルに滞在し、バス、JR、フェリー、飛行機などで往復するだけタイプもあり、
こうした場合は温泉滞在する旅行に利便性があり、費用も格安なので、
私達も利用している。


私達が旅行を思い立つ時は、
我家にも旅行会社からの小雑誌の勧誘雑誌が郵送されてくるのを見たり、
新聞の旅行会社の広告を眺めたり、
最寄り駅前の旅行会社のパンフレットを頂き、
リストアップしているのが殆どである。

こうした候補となった旅行に関しては、
私はある程度は観光先、宿泊するホテル、観光ホテルなどを調べたりするが、
家内はネットなどを活用して、行かれた方のプログまで掲載されて内容を読んだりし、
徹底的に調べるのである。

私はブログなどは、その方の自身の思いがあるので、
参考にならない、と笑い飛ばしているひとりである。


こうして、旅行が決定し、旅先でお互いに楽しむのである。


旅行から帰宅すると、
私はこのサイト等に綴って、投稿するが、
内容、構成とかを決めて苦心惨憺しながらも綴ったりする時が多いが、
何よりタイトル名には配慮しているのである。

小説、随筆、映画などの場合はもとより、
タイトル名で内容を適切に集約した表現となるので、
私も拙(つた)ないなりの投稿文であるが、タイトル名は気にしているのである。


私自身の旅行の場合は、
旅行先を決めるまでの時、旅行先、そして帰宅後の旅先の想いに心は馳せたりし、
多くの方と同様に、旅は3度楽しめる、と私は思ったりしている。

家内の場合は、帰宅後はあっさりして、次の旅行のことを話し合ったりし、
ときおり思い出したかのように、旅先の想いでを語ることがあるが、
家内は旅行は2度しか楽しんでいない、と私は苦笑する。

そして私がブログなどに投稿した後、
デジカメに映した旅行先の写真をパソコンで眺め、
微苦笑したりすることが多いので、
こうした状況を家内から見れば、貴方は4度も楽しんでいる、
と微笑みながら云われたりしている。



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『長崎』、『雲仙』よかとこ滞在記 ~歴史のかたみの中で~  最終

2009-02-22 17:00:52 | 

    最終章 旅先でめぐり逢えた人びと


私は思い込みの激しく、独断と偏見の多い64歳の身であり、
その上おしゃべりな男性であるので、今回の旅先でいろいろな方と談話をしたした。

『長崎歴史文化博物館』でポランティアで解説して下さった70歳前後の男性と、
館内の展示品の前に歴史のことを談話したり、
館を辞しする寸前にお互いに自己紹介を兼ねて、これまでの人生の軌跡を談笑したりしたのである。

『グラバー園』で霧雨降る中、庭園の隅にある喫煙場に於いて、
ボランティアでガイドをなさっている65歳前後の男性と、
お互いに煙草を喫いながら、下方に観える長崎港の情景を観たりし、
遙か江戸時代の異国船の情景を談話したりした・・。

そして、『雲仙温泉』の観光ホテル内で、
宿泊したフロアーの休息室のソファーで私は本を読んでいる時、
やはり滞在している新潟県の三条市の75歳前後の男性と談笑したのである。
奥様と知人のご夫妻と4人で、雲仙温泉に滞在している、と述べられたり、
私と同様に宿泊した部屋の室内で禁煙とし、
こうして休息室にある灰皿の前で煙草を喫っている、と話され、
私達はお互いに笑いあったのである。


私は体力の衰えた身であるが、少なからず男の子であるので、
旅先でも女性のしぐさ、表情、言葉は何かと気になるのである。

『長崎歴史文化博物館』の館内の展示品の近くにある受付嬢の多くは、
少し話した限りであるが、綺麗な顔立ち、容姿もよく、
私は心の中で、長崎美人だなぁ、と呟(つぶや)いたりした。

雲仙温泉の滞在した観光ホテル内で、
宿泊されている佐賀県の60代前後のご婦人たちと何気なく数分話し合ったのであるが、
別れ際に、佐賀県のどの辺にお住まいですか、と私は訊ねたのであるが、
少し私は市の名称の言葉が聴き取れず、
最後に、お茶の美味しい所ですわ、というのは解かり、
お互いに微笑んだりしたのである。

私は無念ながら見かけた限りであるが、
長崎市内の市電の車中に於いて、
ツーピースを召した30代前半のご婦人が、7歳前後の男の子を連れていた。
少し陰のある表情を湛(たた)えて、しぐさが妖艶であったので、
私は数秒見惚(みと)れたのである。


私は宿泊した観光ホテルのフロント、食事処の若き仲居さん達、
とたびたび談笑したりしたが、
私に対してはお客様のサービスのひとつ、と承知しているが、
長崎の女性もまぎれなく素敵な人が多い、と私はこうして綴りながらも、
思い出しては微苦笑しているのである。


                            《終り》





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『長崎』、『雲仙』よかとこ滞在記 ~歴史のかたみの中で~  ⑨

2009-02-22 07:51:48 | 
    第9章 『水の都』と称される島原の街並みは


私達3人は雲仙温泉に滞在した時、
『水の都』と称される島原の街並みを観に行こう、と話し合っていた。

雲仙温泉より路線バスに乗り、島原の中心街の大手で下車した。

私は家内たちと島原城の前で別れ、
独りで武家屋敷の水路を眺めながら歩いた・・。

午前10時過ぎ、湧き水を利用し、道の中央に流れる水路の清冽な情景を眺め、
改めて湧き水の豊穣さを実感させられた。
そして周辺の街並みを観たりすると、
遙か江戸時代にあった鉄砲隊を主体とした住居の片隅から、
人々の息づかいが聴こえるような幻惑も感じられたのである。

http://www.shimabaraonsen.com/yusui/index.html

この後、島原城の数多くの展示品を観たのであるが、

http://www.shimabarajou.jp/index.html

私はたったひとつ『石像マリア観音』だけ魅せら、10数分見つめていたのである。
無念ながら『島原城』のこのサイトの展示品の紹介にはないが、
来日した宣教師のひとりが、天草地方の石壁彫られたと解説されていたが、
私の観た限りは、身体全体は疲れ果て、乳房は小さく、
悲しみのまなざしで、表情は憂いながら、乳児を抱いているマリア像であった。

そして、亡き作家・遠藤周作氏が描いたマリア像は、
このような容姿と容貌だったのかしら、
と思いを重ねたりしたのである。

この後ふたたび、観光教会の発行された『湧水めぐり まっぷ』を頼りに、
のんびり湧水、ゆったり湧水、コース等を散策したのである。

この中で特に心が残ったのは、『湧水庭 水明荘』の小庭であった。
旧民家のお宅の庭として、庭と池を拝見したのであるが、
赤松、楓(カエデ)などの配置、そして小道の脇に苔が生(は)え、
四季折々の情景に思いを馳せると、羨望されるひとときであった。

この後、この付近にある食事処で、私は遅い昼食としたのである。
ふぐの押し寿司、かんざらし、ぐぞうにをセットした『ガンバずし定食』を
ビールを呑みながら頂いたのであるが、
どなたでも美味しく味わえる稀(ま)れな定食である、
と私は店の奥方に誉(ほ)めたのである。
店を辞した時、『ほうじゅう』と明記された暖簾(のれん)が見えたのである。


このように日中の6時間ばかり島原の街並みの一角を歩き廻ったのであるが、
お住まいになっている人たちからの素朴さを感じたり、
そして清冽な湧き水の流れを見つめたりすると、
私の心の中は、まぎれなく心のふるさとに帰還したかのような至福の時でもあった・・。



《つづく》





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『長崎』、『雲仙』よかとこ滞在記 ~歴史のかたみの中で~  ⑧

2009-02-21 14:22:30 | 
    第8章 そして、初めて訪れる『雲仙温泉』は


15日(日曜)の朝、私達3人は4泊した長崎の『ロワジールホテル』を
チエックアウトした後、
タクシーで長崎港ターミナルビルに移動した。
この桟橋から『港めぐりコース』と称された観光船に乗船し、
船上から長崎の情景を眺めたりしたのである。

異国との交流を重ねてきた長崎の街並み、歴史の動きを静かに見守っている稲佐山の山なみ、
そして三菱造船所の状景や美麗な女神大橋、それぞれに思いを託(たく)したりしたのである。

そしてこの後は、長崎市内に別れを告げて、
路線バスに乗車し、初めて訪れる雲仙温泉に向ったのである。


雲仙温泉に4泊する滞在する観光ホテルは、
家内が昨年の12月初旬に、後期高齢者の母の身を案じて、
雲仙地獄が一望できる部屋を探した結果、この観光ホテルとなり、
即急に予約したのである。

http://www.unzen-fukiya.com/

私達3人は入室すると、窓辺のソファーに座っても、
まじかに雲仙地獄が一望の状景となって折、
本館の部屋の中でも最良の広い部屋で、私達3人は思わず微笑んだりしたのである。
そして私は早速、大浴場で湯に浸(つ)かったり、一角にある薬湯のよもぎ湯に入ったり、
庭園となった小庭を観ながら露天風呂に身を委(ゆだ)ねたりしたのである。

この観光ホテルの朝、夕の食事は、
食事処で頂いたのであるが、創意工夫された料理の数々で、
私達は目も味も楽しませてくれる内容であり、
4泊滞在した中、島原半島で獲れる殆どの魚、野菜はもとより、
多彩な料理を頂いたのである。

こうした中で、何よりも応対して下さる観光ホテルのお方たちの和(なご)みのある微笑に、
ゆったりと4日間を過ごし、やすらぎを得たのである。



《つづく》





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『長崎』、『雲仙』よかとこ滞在記 ~歴史のかたみの中で~  ⑦

2009-02-21 11:24:16 | 
    第7章 長崎市内の食べ物のあれこれ


私は年金生活の5年生の身で、少しメタボとなって折、
過日、私の住む市内で、『脱メタボ!チャレンジ』の研修に参加し、
若き清楚な保健師のお方から、優(やさ)しい指導を受けたばかりで、
今回の長崎・雲仙の8泊9日間の旅にきたのであるが、
無念ながら日本酒は断念とし、やむえずビールを呑んでいたのである。

せっかくの長崎市内の食べ物を頂いても、長崎の地酒が呑めなくて、
料理を食べても賞味が半減するので、少し困ったりしていた。

こうした中で、程々の価格帯の料理店で、それなりに頂き、
予想外の食べ物について、少し記載する。


長崎空港に着いた後、市内に移動し、私達3人は遅い昼食とした。
家内はあらかじめ中華街の一角にある中国菜館の『江山楼』本店を選定していた。
長崎は中華料理も美味しい、と期待していたせいか、
ビールを呑みながら頂いたのであるが、
私達の3人は誰一人『美味しいわ・・』という言葉は出なかったのである。
この後、家内たちは、中華街にある中国の菓子店で、
7品ばかり買い求めていたのである。

翌日、私は独りで市内の観光地を歩き回って午後3時過ぎ、
地魚を食べたくなり、手軽に食べられる回転寿司と決めて、
駅ビルのひとつ『アミュプラザ』の5階に行った。

そして、『すし活』と明示された回転寿司店で、
ビールを呑みながら、『旬魚六貫盛り』を食べた後、
まぎれなく美味しいと感じて、ビールを追加し、
五島灘の活タイ、活ヒラメなどを何度も注文したのである。

http://www.amu-n.co.jp/serch/shoppage.php?id=175

私は魅了されたので、翌々日も通(かよ)い、
五島灘の地魚は確かに美味しい、と実感したのである。


翌日、霧雨から小雨になったグラバー園を辞した後、
お土産屋の建ち並ぶ中を通り抜けた時、
ランチのバイキング形式のレストランが見えたので、入ったのである。

私は窓際のテーブルで小雨降る情景を眺め、
ビールを呑みながら、七品ばかりフランス風の料理を頂いたのであるが、
丁寧に料理された品々で、独りで歓心しながら食べたのである。

http://www.ana-gloverhill.co.jp/rest/top_pave_lunch.html


私は年金生活の身なので、
程々の値段で、私なりに美味しそうと思われる食事処を入店し、
頂いたりしているが、ときには選定ミスもあり、
こうした折、コンビニのおにぎりを食べればよかった、
と後悔する時もある。


《つづく》





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『長崎』、『雲仙』よかとこ滞在記 ~歴史のかたみの中で~  ⑥

2009-02-21 07:58:21 | 
    第6章 外海(そとめ)地域にある『遠藤周作 文学館』を訪ねて


私は東京オリンピックの開催された年、大学を中退し、
映画・文学青年の真似事をした時期があったので、
作家・遠藤周作氏の作品は、ある程度は読んでいるひとりである。

今回、長崎・雲仙の8泊9日間の旅行をする際、
旅先の資料を調べたりした時、外海地域に『遠藤周作 文学館』があることを知り、
私としては30年ぶりに、このお方の遺された作品、エッセイの一部を、
旅立つ1週間前頃から読んだりしていた・・。

この『遠藤周作 文学館』について、ネットで調べていた時、
無念ながら路線バスの便数が余りにも少ないので、
やむえず定期観光バスツアーの『そとめ潮風~遠藤周作文学館とキリシタンの里 教会めぐり』に便乗した。

この定期観光バスツアーはこの時節に於き、土曜・日曜・祝日しか運行されておらず、
やむえず私は土曜日しか残されておらず、ツアーに参加したのである。
乗客は私と60代ご夫婦の3人しかおらず、
大型バスにドライバー、ガイドさん付きなので、何かと申し訳ないと思いながら、
お互いに5名で気を使いながらも、4時間半ばかりのツアーの中、
談笑し、親睦を深めたのである。


私は神社仏閣はもとより、キリスト教にも共感しない無宗教のひとりなので、
外海の海、沿岸、山里の景観には魅了されても、
『黒崎教会』、『出津(しつ)文化村』にある出津教会を観ても、
傍観者のように眺めていたのである。

http://www.yado.co.jp/kankou/nagasaki/nagasaki/sotome/

この後、『外海歴史民族資料館』に寄ったが、
この地域の古代からの展示品があり、私はこの地域の風土を考えながら、
興味を抱き眺めていたのであるが、残念ながら集合時間もあり、
慌しく立ち去ったのである。

そして沿岸沿いの道路の外れの一角に、
遠藤周作氏の『沈黙の碑』を拝見しながら、
真昼の陽の中、さんさんと照る里山、海岸、そして海面は光を帯び、
遙かかなたの海原の情景を眺めたりしたのである。

この後、『遠藤周作文学館』を訪れ、
私は館内に展示された遺品となった小説の原稿用紙に書かれた氏の自筆、
取材時のノートの自筆メモなどを、
少しばかり心の中で呟(つぶや)きながら、読んだりしたのである・・。

http://www1.city.nagasaki.nagasaki.jp/endou/

そして、書籍の即売コーナーで『母なる神を求めて ~遠藤周作の世界展~』を購入し、
ホテルに戻った後、深夜まで読み耽っていたのである。

深夜に考えさせられたことは、遠藤周作氏に限らず、
作家自身がたとえ屈折された人生の軌跡を歩まれようと、
作家は遺された作品がすべてであり、
やがて百年後の歳月の果てに、文学館は朽ち果てようが、
たったひとつの作品が残れば、
作家冥利であると、改めて思考したのである。




《つづく》





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『長崎』、『雲仙』よかとこ滞在記 ~歴史のかたみの中で~  ⑤

2009-02-20 21:37:32 | 
    第5章 『長崎市 永井隆記念館』を訪ねて


私は永井隆氏の名を知ったのは、遅ればながら高校二年の時で、
昭和37年であった。

幼年期の5歳頃、ラジオから『長崎の鐘』の歌が流れ、
幼児の心なりに悲しみを覚えたりし、
この後には母に手を引かれて映画の『長崎の鐘』を観たりしたのである。


このような思いは、私はこのサイトに於いて、
【 『長崎の鐘』を聴くときには・・。 】と題して、
2007年8月27日で投稿しているが、えて今回は再掲載をする。

【・・
私は昭和19年9月に東京の郊外で生を受けた。

昭和25年の頃に、自宅のラジオから『長崎の鐘』がよく流れてきた・・。


♪こよなく晴れた 青空を
 悲しと思う せつなさよ
 うねりの波の 人の世に
 はかなく生きる 野の花よ

【『長崎の鐘』 作詞・サトウハチロー 作曲・古関祐而 唄・藤山一郎 】


私は5歳の幼児であったが、何かしら物悲しく感じたりした。


♪なぐさめ はげまし 長崎の
 ああ 長崎の鐘が鳴る

【『長崎の鐘』 作詞・サトウハチロー 作曲・古関祐而 唄・藤山一郎 】


ここまで聴いていると、いじけた幼児の私でも涙があふれてきた・・。

翌年の夏、近くの寺院の境内で、映画が放映された。
この頃の時代は、学校の校庭とかで、スクリーンを張って、ときたま映画が放映されていた。
娯楽の乏しかった時代、ご近所の方達が集まって、
このような催しが行われた時代でもあった。

近くの寺院の境内で上映されたのは、映画の『長崎の鐘』であった。

母に連れられて、初めて観た映画だった。

帰路、満天の星空が綺麗だった、ということが今でも残っている。

映画のストリーは忘れてしまったけれど、幾つになっても、藤山一郎の歌声を聴くと、
私は涙ぐんだりしている。

私は後年になると、作詞はサトウハチロー、作曲方は古関祐而と知るのであったが、
肝心な『長崎の鐘』という原作を書かれた永井 隆は無知であった。

その後、このお方の人生経路を知り、涙で曇った。


♪召されて妻は 天国へ
 別れてひとり 旅立ちぬ
 かたみに残る ロザリオの
 鎖に白き わが涙

【『長崎の鐘』 作詞・サトウハチロー 作曲・古関祐而 唄・藤山一郎 】


ここまで転記させて頂いているが、著者の永井 隆の人生を思い馳せると、
また瞼(まぶた)が熱くなってしまう。


国家の国益という怜悧の中、アメリカは広島に続き、
長崎にも原子爆弾を投下した。

思えば、7月26日に於いて、アメリカ、イギリス、ソビエトの首脳により、
『ポッタム宣言』で日本に降伏を勧告したが、
日本政府と軍の首脳部が混迷し、黙殺した結果となり、
8月6日に広島に続き、9日に長崎に投下された。

こうした事実を少しづつ知りはじめると、
なお一層、この歌は悲劇を通り過ぎて、悲惨な過去の実態にうっすらと涙を浮かべる。

私は年を重ねた62歳の身であるが、
ここ10数年、8月15日の敗戦日になると、
昼のひととき『長崎の鐘』を聴いて、平和の大切さをかみ締めている・・。

・・】


このような思いもあったりしたが、
今回の旅行の旅立つ数週間前に、ネットで『永井隆博士の生涯』などを学び、
少なからず衝撃を受けたのは、
長崎医大物理療法科の部長の時、
この当時は劣悪なレントゲン機器の状況となった中で、数多く撮った結果、
ラジウムの放射線で白血病となり、
昭和20年6月に余命3年と診断された、ということであった。

そして永井隆氏は、妻に告げるのであるが、
この時の心情を思うと、私は思わず涙を流したのである・・。


http://www1.city.nagasaki.nagasaki.jp/na-bomb/nagai/nagae01.html


館内の展示品を拝見しながら、
この後の原爆投下後の状況、そして無念ながら亡くなるまでの軌跡に、
改めて感銘を受けたのであった。

そして館を辞する直前、私は書籍の即売コーナーで、
恥ずかしながら未読であった『長崎の鐘』(アルバ文庫)を購入して、
ホテルで深夜の2時半過ぎまで読み、敬意を重ねたのである。



《つづく》





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