夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

60代最後の水無月(みなづき)に、愛惜を秘めて別れを告げて・・。

2014-06-30 15:43:33 | 定年後の思い
今朝、ぼんやりと居間にあるカレンダーを見ると、
30日と明記され、月末かょ、と心の中で呟(つぶや)いたりしていた・・。

私は東京郊外の調布市の片隅に住む年金生活の69歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭に築後36年を迎える古ぼけた一軒屋に住み、
お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

そして私より5歳若い家内も、お互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。
          

私は2004年(平成16年)秋に定年後、多々の理由により年金生活を始め、
10年近く60代を過ごしてきた・・。

年金生活を始めた直後から、私は自主的に平素の買物専任者となり、
家内からの依頼品を毎日のようにスーパー、専門店に行ったりし、ときおり本屋に寄ったりしている。
その後は、自宅の周辺にある遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受している。

          
日常の大半は、随筆、ノンフィクション、小説、現代史、総合月刊雑誌などの読書をすることが多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

そして少なくとも家内は料理、掃除、洗濯などをしてくれるので、
せめて家内が煎茶、コーヒーを飲みたい時を、私は素早く察知して、茶坊主の真似事をしている。
          

このような年金生活を過ごしているが、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、パソコンの故障とか旅行に行っていない限り、
ブログの投稿文を重ねて、早や丸9年半が過ぎている。

そして時折、庭の手入れをしたり、友人と居酒屋など逢ったり、
家内と国内旅行をしたりしている。
                    

こうした中、私たち夫婦は幸いにも、お互いに大病で入院することもなく、
歯がお互いに老化して、歯科医院で幾たびか治療を受けてきたぐらいであり、
私の長き人生に於いては、60代の期間が何より安楽な時代、と思い重ねたりして享受してきた・・。

そして数多く60代の諸兄諸姉は、人生の苦楽を重ねた後、
何かと安堵しながら、身も心も溌剌と過ごせる人生の黄金時代と称せられるゴールデン・イヤーズ、
と知人、友人からの便りを受けたりしてきた・・。

こうした中で、私は今年の9月の誕生日を迎えると古希と称される70歳となり、
家内も12月の誕生日を迎えると65歳となる。
そして共に高齢者となり、介護保険証を受ける身となっている。

もとより70代となれば、体力の衰えを実感して、75歳まではこれまでどおりの自立した生活ができるが、
80歳が見えてくる頃には介護を必要とするようになり、
やがて80代後半では何らかの介護付き施設に入居する可能性が高くなる、
と専門家の人から数多く発言されている。

このように学んできた私は、9月を迎えると、60代に別れを告げるで、
何かしら60代最後の6月の水無月(みなづき)も終わってしまうのか、
と過ぎ去りし日々に愛惜を重ねてしまうのである・・。
          

私の住む世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅の地域は、
過ぎし日の5月31日に今年初めて30度を越える真夏日となり、その後も初夏のような暑さが続き、
何かと熱さに苦手な私は、どうしてなのょ、と天上の気候神々の采配に戸惑ったりした。

そして5日になると、突然に涼しくなり、午後から雨が降りだして、
気象庁は『梅雨入り』になりました、と宣言され、平年より3日ぐらい早いかしら、と感じたりした。

この後、連日小雨が降り続け、ときには本降りの雨となったり、
激しい雷雨となったりしたこともあり、何かと今年の梅雨の時節は雨降る不安定な日が多く、
どうしてなのょ、と天上の気候の神々の采配に、
何かと鈍(にぶ)い私でも、戸惑いながら驚くことが多かった・・。

このような状況であったで、やむなく買物専任者の私は、二日に一回の買物となっている。
          

こうした中で、私は雨降る中、傘を差して散策したりしてきた。
川沿いの遊歩道の一角、小公園などに立ち寄り、紫陽花(アジサイ)などを見たりしてきた。
          

或いは家の小庭に群生させた半夏生(ハンゲショウ)を眺めたりしてきた。
黄緑色した葉の中で、わずか先端の数枚の葉は化粧をしたように白く染めあげられ、
ほのかな妖艶と感じ受けとめてきた。
          

そして山形県にある蔵王温泉街にあるリゾートホテルに、
過ぎし15日より4泊5日を滞在して、蔵王温泉の周辺を散策したりして遊学した。
こうした根底には、私たち夫婦の共通趣味は国内旅行であり、
お互いに元気で意欲のある今、行きたい所に行ければ良いと思い、周辺を歩き廻ったりしてきた。
          

このように私は、この6月の水無月(みなづき)を過ごし、
過ぎ去りし日々が実に早い、と感じながら享受したりしてきた。

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『ゴッド・ブレス・アメリカ』、つたない日本人の私でも、何かと心を深めている歌のひとつ・・。

2014-06-29 15:34:00 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市の片隅に住む年金生活の69歳の身であるが、
今朝の8時過ぎから、NHKのBSで大リーガの『ヤンキース 対 レッドソックス』の野球実況中継を
家内と共に視聴した・・。

試合はヤンキースタジアムで行われ、ヤンキースは田中将・投手、
レッドソックスはエースのレスター投手がお互いに好投し、息詰まる投手戦となった・・。

そして確か7回が始まる前、ヤンキースタジアムからひとつの歌が大きく流れ、
観戦している多く人たちが、このひとつの歌を唱和されてやがて大きな合唱となった。

やがて私は、このひとつの歌は『ゴッド・ブレス・アメリカ』と気付き、
大リーグの試合の中でも、愛唱されているのか、と微苦笑したりした。
          

私は『ゴッド・ブレス・アメリカ』の歌を初めて知ったのは、
1983年の頃、映画のマイケル・チミノ監督の『ディア・ハンター』(1979年)を鑑賞して、
遅ればせながら知った。

ベトナム戦争の1960年代末期、若き主人公3人が職場を共にして、やがてベトナム戦場で過酷な体験をして、
心身共に深く傷を負い、この中のふたりは帰還できたが、ひとりはベトナムの地で狂気の中で自死し、
ひとりの友を故郷で埋葬する時、参列した友人と共に、この『ゴッド・ブレス・アメリカ』の歌を
鎮魂歌のように口ずさみ、静かに唱和されて、映画は終幕となる。

私は小学4年生から映画少年となり、何かと読書に続いて映画作品を鑑賞するのが好きで、
少なくとも洋画・邦画に関しては7000作品は鑑賞してきたが、
この『ディア・ハンター』は圧倒的に感銘させられた作品のひとつとなっている。

そして居間にある映画棚の中で、買い求めたDVDで『ディア・ハンター』を幾たびか鑑賞する中、
この『ゴッド・ブレス・アメリカ』の歌を何かと心を深めている。

この間、過ぎし年の2001年9月、アメリカ同時多発テロ事件後、
私はテレビを視聴して、多くアメリカ人から愛唱されていることを学んだりした。
          

そして私は、遅ればせながらフリー百科事典として名高い『ウィキペディア』に於いて、
初めてこの歌の由来、概要などを学んだりした。

《・・『ゴッド・ブレス・アメリカ』(英語 : God Bless America)は、
アメリカ合衆国の作詞・作曲家アーヴィング・バーリンが1918年に作詞・作曲した曲。

当初は注目されなかったものの、第二次世界大戦直前の1938年にケイト・スミスが唄ったラジオ放送を中心に人気になり、
第二次世界大戦中にアメリカ中に広まることとなった。

「神よアメリカを守りたまえ」という愛国的な歌詞ということもあり、
「アメリカ合衆国第2の国歌」などともいわれるが、アメリカ合衆国政府が認定したわけではない。

しかし学校や軍隊、大統領就任式のみならず、ボーイスカウトから大リーグワールドシリーズでも唄われることなどから、
事実上「アメリカ合衆国第2の国歌」であるといえる。

2001年9月のアメリカ同時多発テロ事件から復旧したニューヨーク証券取引所でも流れた。
ニューヨーク証券取引所以外でも、テロ事件以降アメリカ国民は様々な場所で「ゴッド・ブレス・アメリカ」が
ラジオやテレビで流されて唄われた。
現在はセリーヌ・ディオンがうたったものが有名である。・・》

このように明記されている。

私は無念ながら筆力が乏しく、この歌を文章で表現できないで、
やむなく【YouTube】の動画をお借りして掲載させて頂く。
http://www.youtube.com/watch?v=6LSarhZpnMs
☆ God Bless America - Celine Dion ☆

こうした歌を私は視聴しながら、ヨーロッパ各国から新大陸アメリカに移住した人、
アフリカから強制に連れてこられた黒人の人たち、そして中南米、アジアの諸国から移住した人たち、
もとより民族、宗派、思想など相違のある中、アメリカ合衆国として国が形成されている。
          

アメリカ国民は、ときには傲慢な言動、ある時は慈悲深い言動のある中、
混沌としたひとつ国家が結晶させて、衆知させることは困難なことであり、
良きこと悪しきこと、この『ゴッド・ブレス・アメリカ』の歌の旗の下で、
アメリカ国民は心の浄化を図っているのかしら、と私は感じたりしている。

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グーグルの「不老不死」の研究に、高齢者の私は戸惑いながら苦笑して・・。

2014-06-28 10:48:49 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市の片隅に住む年金生活の69歳の身であるが、
民間会社の中小業のある会社に35年近く奮戦し2004年(平成16年)の秋に定年退職し、
私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思い、年金生活を始めた・・。

そして私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭に築後36年を迎える古ぼけた一軒屋に住み、
お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

そして私より5歳若い家内も、お互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。

こうした中で、私は今年の9月の誕生日を迎えると古希と称される70歳となり、
家内も12月の誕生日を迎えると65歳となる。
そして共に高齢者となり、介護保険証を受ける身となっている。

私は定年後の年金生活を10年近く60代を過ごしてきたが、
私たち夫婦は幸いにも、お互いに大病で入院することもなく、
歯がお互いに老化して、歯科医院で幾たびか治療を受けてきたぐらいであり、
私の長き人生に於いては、60代の期間が何より安楽な時代、と思い重ねたりして享受してきた・・。
                    

私は定年後の年金生活を始めて、平素の買物の専任者となった私は、
家内の依頼された品物を買い求めに、殆ど毎日スーパー、専門店に買い物に行ったりしている・・。

家内は日頃の多くは、私のことを、
『あなた・・』
と呼ぶことが多いが、ときには、たわむれで
『XXクン・・』
と苗字で呼ぶこともある。

しかしながら年金生活を始めてまもない頃、私が買物の購入品などで間違えたりすると、
『ボケチィンねぇ』
と家内は笑いながら、私に言った。

この日以降、私が何かで日常生活で失敗した時、
『ボケチィンねぇ・・』とか、ある時は『ダメオ(駄目夫)クンねぇ・・』
と家内は微苦笑しながら、私に言ったりしている。

このような私たち夫婦でも、命果てるまでの残された歳月は、もとより天上の神々の采配によるが、
この先いつまでも慎(つつ)ましながらも、年金生活の楽しい生活が続くわけでなく、
やがて体力が衰えて介護の身になるか、或いはどちらがいずれ片割れになる・・。
                     
        
こうした思いをときおり思案したりする時もあり、
厚生労働省の調査によれば、要介護認定を受け始める平均年齢は75歳、
認知症の高齢者でグループホームを利用している人の半数が85歳以上だ、と公表されている。

具体的には、多くの場合75歳まではこれまでどおりの自立した生活ができるが、
80歳が見えてくる頃には介護を必要とするようになり、
80代後半では何らかの介護付き施設に入居する可能性が高くなる、と専門家の人から数多く発言されている。
               

こうした中で、今の私が平素何よりも恐れていることは、痴呆症となり、自身が正常に自覚をできないことである。
私は親戚の方、知人の方とか、本などで痴呆症の悲惨さを少しばかり学んだりし、
たとえば私が痴呆症となり、介護をしてくれる家内の身を案じるとたまらないのである。
或いは逆に家内は痴呆症となり、私が看病する場合も同様である。

痴呆症の本人は介護して下さる方も解らず、
何よりも介護する方は、看病する張り合いがないと思われるからである。

このような私の思いから、痴呆症になる前に、ポックリとこの世と別れを告げたい、と思ったりしている。
         
或いはいつの日にか身体の変調を感じて、自宅で寝ていて数日し、悪化する中、
布団の中でオシッコを一度だけ漏らしたりして、死去後のことなどを家内に伝言する。

やがて救急車で病院に運ばれて、入院して数日後に死去する。
そしてこの間に家内からは
『あなたとの生活・・楽しかったわ・・』
と心の中で感じてくれれば充分である。

このように70代か80代のいつの日にか末期となると思われるが、
こうした私の念願は、果たして・・どのようになるか、今の所は漠然としている。
          

このような心情を根底に秘めている私は、たまたま昨夜、ネットでニュース記事を彷徨(さまよ)っている中、
『 Googleが取り組む「不老不死研究」 遺伝子検査企業にも出資 』
と題された見出し記事を見て、どういうことなの、と思いながらクリックした。

この記事は、『週刊ポスト』2014年7月4日号に掲載されて、
その後に『NEWS ポストセブン』に於いて、6月27日に配信されて記事であり、
無断ながら転載させて頂く。

《・・グーグルは、1998年にスタンフォード大学の院生だったラリー・ペイジ氏とセルゲイ・ブリン氏が
新しいネット検索エンジンの技術を引っさげて創立した。
2000年代半ばには「検索連動型広告」という金脈を掘り当て、現在の売り上げは年4兆円を超える。

ITに詳しい『ビジネスメディア誠』の吉岡綾乃編集長によれば、
「世界中の情報を整理して、世界中の人々がアクセスできて使えるようにすることが社是」であり、
事実、地図や世界中の書籍・美術品をデジタル化するなど、
地球上のありとあらゆる情報をかき集め、情報の世界で覇権を握ってきた。
          

しかし、そんなグーグルにも転機が訪れる。
ITジャーナリストの佐々木俊尚氏はいう。

「フェイスブックやツイッターなどのSNSで情報が流れるようになり、インターネット検索の需要が減っている。
いずれ検索連動型広告のビジネスが成り立たなくなる恐れがあり、
莫大な資金を投じて新ビジネスの種を探しているのがいまのグーグルです」

そこで、同社はネットからリアルの世界へと一気に舵を切った。
いま、グーグルが実現しようとしている未来は、まるでSF世界そのものだ。

例えばもっとも注力しているひとつが自動運転車だ。
実験では無事故で113万km以上を走破。
5月に発表した新プロトタイプは、ハンドルもアクセルもブレーキもなく、目的地を告げるだけで人を運んでくれる。

既存サービスであるストリートビューのように、カメラを搭載した自動運転車が世界中に普及すれば、
町の状況がリアルタイムに更新されていく地図サービスも実現するはずだ。

グーグルグラスは、ヘッドマウントディスプレイに情報が表示されるウェアラブルコンピューターで、
道案内やメール送受信、写真・ビデオの撮影などができる。
まるで人とスマホが一体化したかのようである。
          

そんなグーグルが取り組むプロジェクトの極めつきが「不老不死の研究」だ。
2013年9月に医療ベンチャー「カリコ」の設立を発表し、医療とアンチエイジングの分野に参入。

さらに、会長のエリック・シュミット氏は遺伝子検査企業「23andMe」に約4億円を出資し、
人間の遺伝子研究にも踏み込んでいる。

一方、これらの研究には批判の声があるのも確か。
グーグルグラスやストリートビューはプライバシー侵害が度々問題になっており、
ヒト型ロボットは映画『ターミネーター』に出てくる無人攻撃システム「スカイネット」を彷彿とさせ、軍事転用が危惧される。
それでもグーグルは研究開発のスピードを緩めようとしない。

シュミット氏は、著書『第五の権力』のなかで未来社会を
「ロボットが掃除や洗濯を代行し、携帯電話が健康を管理し、
病気になれば人工臓器に取り換え、休日にはホログラムのビーチで休養する」と想像している。

そういった技術をグーグルが一手に握れば、
個人の行動から遺伝子配列まで、すべての情報をグーグルが集積することにもなる。・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。
          

この記事を読み終わった時、何よりも戸惑ったのは、グーグルが「不老不死の研究」をしていることである。
確かに大病になった時、たとえばある臓器が悪化して、やむえず人工臓器に取り換え、
永らえた場合、日本に於いては超高齢化の社会の今日、益々高齢化の比率も高くなり、多々の社会の難問が加速する。

それぞれの人は、程ほどに苦楽を重ねながら過ごされ、人生を全(まっと)うして、この世から消えるのが、
人の世と学んできた私は、「不老不死」には戸惑い、苦笑させられたである。
          

まして《遺伝子配列》は飛躍して思考すれば、
同じような人を誕生させることが出来るクローン人間を到来させることも想像できる。

たとえば大リーガーで活躍されている田中投手、イチロー選手のような人が、
数多く誕生させることができた場合、つまらない世界となることであろう。

人それぞれが個性を有して、それそれ出逢い、相手方の存在を認めるか、
或いは民族、宗教、信条などの相違で憎しみ合うか、
それぞれのケースで解らないが、これがこの世の実態であり、人生の苦楽を体験できることでもある。

金太郎の飴のように均一した人の世界は、理性も感情も同じ、もとより理想郷の世界ではなく、
意志を失くした歓びも悲しみもない世界と同じである。
          

このようなことをとりとめなく思い、グーグルの「不老不死の研究」、「遺伝子配列」の懸案は、
キリスト教の信者でもない私でも、神の領域へ挑戦かしら、と苦笑しながら感じたりしている。

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小庭の手入れ、体力の衰えた私でも、朝の7時半から汗まみれ泥まみれ奮闘し・・。

2014-06-27 13:03:25 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の69歳の身であり、
今年の9月の誕生日を迎えると、早や古希と称される70歳となる。

ここしばらく小庭の手入れをさぼり、樹木の枝葉も伸び、雑草も元気よく伸び、
昨夜、明日の金曜日は朝から、せめて玄関庭ぐらいは手入れをしょう、と決意した。

今朝5時に目覚め、地元の天気情報を見ていたら、
朝の6時は22度、昼下りは25度前後、夕暮れの6時は22度前後、
曇り時折晴れ、昼過ぎ所により小雨、と報じていた。

私は何よりも暑さに苦手な身であるが、真夏の暑さを思い馳せれば、楽なもんだ、
と自身を叱咤激励して、庭の下り立ったのは7時を少し過ぎていた。
          

そして夏用のストレッチパンズの長ズボン、いつものように着古したワイシャツ、ウォーキング・シューズ、
夏用の帽子を深く被り、滑り止めの軍手をして、そして剪定鋏(ハサミ)を腰の周りにして、
玄関庭の樹木の枝葉を高枝鋏(たかえだばさみ)で切り落としたりした。

               
やがて切り落とした枝葉を整理した後、草むしりをする前に蚊取り線香を
周囲に置いたした。

そして淡き陽射しの中で、草むしりをしていると、汗がしたたり落ちてきた。
或いは樹木の下にもぐるように草を取ったりすると、泥まみれとなり、汗も流れたりしたが、
今しなくて何時するよ、と思いながら奮戦した。

年金生活の中、何かと運動不足の私は体力の衰えを感じ、
ときたま簡易椅子に腰かけて、少し休憩ねぇ、と心の中で呟(つぶや)きながら、冷茶を飲んだりした。
                    

若き30代の後半の時は、体力にまかせて、休日の時に日中の殆ど夕闇の頃まで
庭の手入れをしていた。

そして夏の時節には、40代の半(なか)ばの頃は、この当時に流行(はや)っていた
プリンセス・プリンセスの『Diamonds』、或いは『世界でいちばん熱い夏』などを唄っていた。

♪ダイヤモンドだね AH AH・・このような歌をかぼそい声で唄いながら、
真夏の30数度の中を汗まみれ泥まみれなり、日中の7時間ぐらい奮闘していた。

その後、50代の初めの頃、こうした時はCDラジカセを家の軒下に置いて、
CDを6枚前後を掛けながら、草むしりをしたりしていた。

一番聴いたのは、この当時に私が熱中していたハード・ロックのグループの『X JAPAN』の曲であった。
労苦の伴う草取りの時は、バラードの曲よりはハード・ロックの曲が最適と思ったりして、
暑さの中、ご近所からクレームがこない程度の大音量で、
汗をぬぐいながら聴いたりしながら、奮戦した。

定年退職した直後の数年は、草を抜きながら、あの時はあんなことがあった、
と現役時代の頃の職場の情景、先輩、同僚、後輩の顔立ちが、甦(よみがえ)ったりするのが多かったりした。

ここ数年になると、私は定年退職し年金生活に入った頃の
おぼつかない私の心情を思いだしたりすることが多い・・。

多くのサラリーマンの方と同様に、私は現役時代に於いては多忙な時を過ごしたので、
年金生活の最初の6ヶ月の頃は、平日のゆったりとした時のうつろいに、
働くことなくこのような贅沢な時を過ごしても良いのかしら、と思ったりした。
                                      
このようなことを思い馳せたりして、草むしりに専念していたが、
午前11時過ぎ、手抜きながら何とか庭の手入れを終えた。

そして私は風呂に入った後、居間から小庭を眺めると、
草も所々残っていて、私は黒土一面の庭で樹木、草花にあるのが理想であるので、
やはり若い頃の現役時代の体力があった頃の手入れから程遠い、と微苦笑したりした。

高齢者5年生の今、たとう体力が衰えた身ながら、少しづつ懇切丁寧に小庭の手入れをしなければ、
やはり駄目かしら、と苦笑した。

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議会の審議中の『ヤジ』、無力な私でも、悪しき風潮に憂い・・。

2014-06-26 15:10:43 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市の片隅に住む年金生活の69歳の身であるが、
昨今、東京都議会に於いて、女性議員の発言中にセクハラのような『ヤジ』に関して、
たまたま私はテレビのニュースを視聴して、
このような心の節度が余りにも欠落した件で、ニユースのひとつとして騒動されていることに憂いているひとりてある。

そして『ヤジ』事態を議場の華と称し必要悪と擁護する人たち、
或いは議会中に於いてはヤジ事態は下劣であり、すべてやめさせるべきだ、
このようなことが、今回の事件を機に騒がれている。

今回の数多く見識者のコメントされた中で、元自民党衆議院議員の弁護士・早川忠孝さんの発言に、
同意できるひとりである。
          

《・・「ヤジは禁止しては」という立場だ。
「国会議員はともかく、地方議員の役割は、同僚議員をやじり倒すことではない。
むしろ同僚議員とともに行政のチェック機関としての役割を果たすことだ。
どこをどう引っくり返しても同僚議員の真面目な質疑に対するヤジを正当化する理屈は出てこない。

少なくとも発言中の議員の発言を妨げるようなうるさいヤジは暴言となんら変わらない。
議会の審議は静かな環境で行われるのが望ましい。
この際、議会では不規則発言やヤジは禁止する、という文化を作り上げたらどうだろうか。
ヤジは議会の華、と言った時代は昔のことだ」と主張する。・・》
          

私は中小業の民間会社35年近く勤めて2004年(平成16年)秋に定年退職し、
多々の理由により年金生活を始めている中、衆院本会議のテレビ中継を視聴した・・。

そしてある議員が演説中に、盛んに『ヤジ』を飛ばす数多くの議員の声が聴こえた。
余りにも品位が欠け、下劣な『ヤジ』に対して、
これが私たちが清き一票を投じた国会議員かょ、と私は心の純潔を汚されて、
憂いながら、このサイトに投稿文を認(したた)め、投稿した。
          

そして無力な私は無視されて、やがて2011年9月13日に於いても、
【 国家議員の諸兄諸姉、『ヤジ』を飛ばす悪しき風潮は、お止めになったら・・。】
同じような思いを投稿した。

今回、あえて再掲載する。

【・・私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であるが、
先ほど、NHKのニュースを視聴していたら、
野田首相は午後の衆参両院本会議で、就任後初の所信表明演説を行った状景が放送されていた。

東日本大震災からの復旧・復興、東京電力福島第一原子力発電所事故の収束への決意を示し、
野党にも協力を呼び掛けた。
そして同時に、経済成長と財政再建の両立を政権の最優先課題に位置づけ、日本再生戦略の年内策定や、
来年の通常国会に社会保障・税一体改革の関連法案を提出する方針を表明した主旨であった。

私はぼんやりと首相は演説を聴いたりしていたが、
野党の国家議員の一部の諸兄諸姉が、『ヤジ』を飛ばしていたので、
真摯な政権与党の所信表明演説の最中なのに、どうして園児のような言動をされるのか、
不思議に感じたりした・・。

私は政治にも疎〈うと〉い身であるが、自民党の政権時代に於いても、
何かの審議のテレビ中継で、野党の国家議員の一部の諸兄諸姉が、
盛んに『ヤジ』を飛ばしていた実態を視聴し、こうした悪しき風潮はいつごろから始まったのか、
困惑したひとりであった。

たとえば予算審議中、選定された代表者が発言していると、
着席している国家議員の一部のお方達が、ヤジを飛ばしたりしている・・。

私は園児のような程度の低いお方達と感じたりして、
昨今の児童の中で言葉を知らない粗暴なふるまいと同じ、感じたりしていた。

与党、野党であれ、少なくとも国民の有権者からの選出され、
国民からの税金で養われている国家議員の言動にしては、余りにも幼稚である。

もとより反論があれば、その後に正々堂々と選定した方に発言されれば良いでないか、
と深く思ったりしている。

今回はたまたまテレビ中継となったらしく、
国民の人達のご家庭内で、児童が見ていたら、どのように感じただろうか。

国家議員の諸兄諸姉、
どのようにご自身のお子様、お孫さんの教育されているのか、
私は不思議な気持ちを私は感じた。
          

もとより、お子様、お孫さんのしつけは、
学校で学ぶことでなく、家庭から学び育て上げるのは、いうまでもないことである。

ヤジなどの悪しき風潮は一刻もやめて、肝要な政策の専門の深く学ばれたら、
と無力な年金生活の私は、憂いながら思っている。・・】

このように無力ながら、『ヤジ』の悪しき風潮に憂い、投稿してきた。

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大病した時は「高額療養費制度」を活用すれば、年金生活の我が家でも、何かと安心・・。

2014-06-25 16:54:06 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市の片隅に住む年金生活の69歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭に築後36年を迎える古ぼけた一軒屋に住み、
お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

そして私より5歳若い家内も、お互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。

こうした中で、私は今年の9月の誕生日を迎えると古希と称される70歳となり、
家内も12月の誕生日を迎えると65歳となり、介護保険証を受ける身となっている。
          

私は中小業の民間会社に35年近く奮戦して、過ぎし2004年(平成16年)の秋に定年退職となり、
多々の理由から年金生活を始めた直後、私たち夫婦は齢を重ねるとボケたことを配慮して、
銀行、郵便局、生命保険等を出来うる限り集約したりした。

       
こうした中で、保険関係をすべて見直して、
現役時代より生命保険、死亡保険、医療保険、傷害保険は、ほぼ半減に修正し、
火災保険、家財保険だけは従来通りとした。

やがて私は高齢者入門の65歳になり、介護保険証を受けたりした。
          

そして2011年(平成23年)10月初旬に、
家内は家内の父の命日に際して、家内の母と妹の三人で、
墓参を兼ねて1泊2日の短き慰安旅行に行った時に、何かの話題の後に、年金生活の保険金の話題になったらしい。

この時に、程ほどの貯金があれば、『国民健康保険』、『介護保険』もあり、
高額治療になった場合は、程ほどの自己負担で済むから、
『医療保険』などはなくても大丈夫よ、と家内は言われたりした、と家内の帰宅後に私は教えられた。

この後、少しばかりのんびりとした私は、
現行の長期にわたって自己負担する高額な医療費について調べたりした。

こうした中でたまたま私は、
《・・70歳未満の場合は、年収が約210万~790万円の一般所得者は、
一か月当たりの自己負担の上限を8万100円・・》
と教えられ、何かと思い込みの激しい私は、そうなんだ、と教示させられたりした。

そして私は厚生労働省の公式サイトのひとつ『高額療養費制度を利用される皆さまへ』を視たりした結果、
公的の『国民健康保険』と『介護保険』さえ加入していれば、
我が家としては、『死亡保険』、『医療保険』、『傷害保険』は、年間として少なくとも約30万円を支払ってきたが、
我が家としては不要かしら、と私たち夫婦は結論した。
          
         
そして、私は解約の手続きを開始したのである。
       
私たち夫婦は、年金生活を7年過ぎた頃であった。
家内は、年30万円で7年だから、210万円・・無駄だったかしら、と苦笑したりした。

『でもねぇ・・先の見えない漠然とした年金生活を始めて・・無事に病気することなく、
旅行に行けたし・・こうして8年を迎えられたのであるから・・良かったじゃないの・・』
と私は微苦笑しながら、家内に言ったりした。

そして我が家は、私は国民健康保険、介護保険さえあればと思いながら、
生命保険、死亡保険、医療保険、傷害保険を解約したりした・・。
          

私は定年後の年金生活を10年近く60代を過ごしてきたが、
私たち夫婦は幸いにも、お互いに大病で入院することもなく、
歯がお互いに老化して、歯科医院で幾たびか治療を受けてきたぐらいであり、
私の長き人生に於いては、60代の期間が何より安楽な時代、と思い重ねたりして享受してきた・・。

本日の昼下り、ネットでニュース記事を彷徨(さまよ)っている時、
《 高額医療費の負担を抑える「高額療養費制度」の支給申請方法 》
と題された見出しを見て、改めて「高額療養費制度」をお勉強ねぇ、と記事を精読してしまった。

この記事は『週刊ポスト』2014年1月10日号で掲載された記事であり、
無断ながら転載させて頂く。
          

《・・自宅で平穏に死にたいと思っていても、
自宅で介護・医療を受け続けるには経済的負担も大きく、実際に自宅で死ねる人は少ない。
そこで、高額療養費制度や介護保険などを利用して、
自宅で“終の生活”を送るために必要なお金を減額することも視野に入れなければならない。

医療費を軽減するために利用できる制度として、絶対に知っておくべき筆頭は、高額療養費制度だ。
これは医師による治療や検査代、薬代などで支払った医療費が、
1か月で一定額を超えた場合、その超えた分が支給される。

負担の上限額は、年齢と所得によって変わってくる。
70歳以上では、「一般所得」の人の自己負担額の上限は月額1万2000円、
住民税が非課税の「低所得者」では8000円、
住民課税所得が145万円以上の「現役並み所得者」の人では4万4400円となっている。
          

介護問題に詳しいノンフィクションライターの中澤まゆみ氏が解説する。
「一つの医療機関の支払いが自己負担上限額を超えない時でも、
同じ月に複数の医療機関を使っていたり、同じ健康保険に加入している世帯の別の人の医療費が高額であれば、
その自己負担分を合算することができます。

たとえば、在宅医療を行なっているが、2週間の入院をすることになって15万円かかり、
在宅医療費も2週間で2万5000円を支払ったという時には、
それらを合算して払い戻しを受けることができます。

ただし、70歳未満では一つの医療機関の支払いが2万1000円以上であることが条件になります」

高額療養費の支給申請の方法は、75歳未満では加入している公的医療保険に支給申請書を提出、または郵送する。
75歳で後期高齢者医療制度を使うようになると、
各広域連合から「高額療養費の支給申請のお知らせ」が届くので、それを市区町村の担当窓口に提出して申請する。
申請は初回のみに必要で、その後に支給される分については改めて申請する必要はない。・・》
          

この後、関連事項として、《 月100万円の医療費負担を9万円おさえることができる制度 》と題された記事があり、
私はクリックした。

この記事は『女性セブン』2014年3月13日号に掲載された記事であり、
無断ながら転載させて頂く。

《・・マメ知識を知っておくと、意外とお得になるのが医療費だ。
例えば、大病やケガで多額の医療費がかかったときには「高額療養費制度」というものが頼りになる。

もしも、手術や治療で月に100万円かかることになったとしても「高額療養費制度」を利用すれば、
実際の負担額は月9万円を超えることはない。
100万円の医療費のうち、70才未満なら、まず3割が自己負担なので、窓口で支払うのは30万円。

さらに「高額療養費制度」を利用すると、1か月の医療費が約9万円を超えた分については、
加入する健康保険に申請すると、払い戻してもらえる。つまり、約21万円が後から戻ってくるのだ。
          
          
『読むだけで200万円節約できる 医療費と医療保険&介護保険のトクする裏ワザ30』(ダイヤモンド社刊)
著者・早川幸子さんは、こう説明する。

「1年に4回以上この制度を使った場合、4回目以降は自己負担の上限額がさらに4万4400円に下がります」

どんな病気になっても、最大でこの程度の負担ですむなら、とりあえずは安心。
高額療養費制度が使えるのは保険診療のみで、食事や差額ベッド代、交通費などは実費となる。
高額療養費制度の申請をしないまま大金を払い続けている人も多いので注意を。

「支給申請の通知は郵便でくるので、必ず確認。
わからない場合は、加入する健康保険の窓口に問い合わせましょう」(早川さん)・・》
          

このような記事を私は読んだりし、万一、私か家内が大病になってしまった時、
年金生活の我が家でも、何かと「高額療養費制度」を活用させて頂ければ、安心かしら、
と改めて私は思ったりしている。

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私の住む街の近くで、昨日の午後ひととき、大粒の雹(ひょう)が降り・・。

2014-06-25 12:24:22 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の69歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

私の住む地域は世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅であり、
私の生家も近くにあり、結婚前後の5年間を除けば、この地域に63年ばかり住んでいる。

最寄駅としては、京王線の場合は、『つつじが丘』、『仙川』の両駅は徒歩15分であり、
小田急線の場合は、『喜多見』、『狛江』の両駅は徒歩20分となり、
この京王線と小田急線にサンドイッチされたような辺鄙(へんぴ)な地域でもある。

そして現役サラリーマン時代の時は、更に利便性の良い『成城学園前』駅を最寄駅と活用し、
年金生活の今でも、都心に買物に行く時、或いは国内旅行に行ったりする時は活用している。

いずれも路線バスの利便性は良いが、年金生活を始めてから原則として散歩も兼ねて、
路線バスを利用することなく、ひたすら歩いたりして、季節のうつろいを享受している。
        
このような地域でも、私の自宅周辺は住宅が密集しているが、数分歩けば、
野川が流れ、この両岸には遊歩道があり、小公園もあり、住宅地としては緑が豊かである。
                    

昨日の朝、淡い陽射しが小庭を照らし、梅雨の間の晴れかしら、と思ったりしたが、
昨今は大気の状況が不安定で、地元の天気情報を見たりした。

朝の6時は22度、昼下がり24度前後、夕暮れの6時は23度前後、
午前中はときおり雨、午後より本降りの雨となり、地域に寄り雷雨となりますので、ご注意下さい、
と報じていた。

私は平素の買物専任者の身であるので、いつものように家内から本日買い求める品を確認して、
淡い陽射し、時折どんよりとした曇り空の中を歩いて10分ばかりのスーパーで買い物をしたりした。

夏の帽子を深くかぶり、半袖のスポーツシャツ、長ズボンの容姿で颯爽と歩いたりしたが、
過ぎし20日前の頃に、天気情報の予測より3時間ばかり早く雨が降り、
濡れてしまった体験から、携帯傘を持参してスーパーに行った。

スーパーの店内は平素より込み合っていたが、
買物をする身としては、お互いに雨の降る前には買物を済ませたい、
と私は微苦笑したりして、やがて帰宅した。

そして帰宅後、着替えながら小雨にも降られず買物の往還が出来、
私は幸運な男かしら、と微笑んだりした。
                    

やがて午後2時15分過ぎに、淡き陽射しの中で突然に雷鳴が響き、
我が家は小庭にある外干しの竿(さお)に、多くの洗濯物が干しているので、
『XXちゃん・・まもなく雨が降ってくるよ・・』
と私は叫ぶように大声で、台所にいる家内に伝えたりした。

そして家内は洗濯物を干し竿(ざお)から引き下げて、途中で私は受け取り、
一時待避として2階の洋間に、幾たびに繰り返して、室内干しとした。

そして戸締りをしたり、家内は洋間の室内干しの優先順位を決めながら整備した後、
この中の一部を乾燥機にセットしたりしたりしていると、
空は急激に黒い雲に占領されて、近くに激しい落雷の音が幾たびか響き、
稲妻りも伴いながら、激しい雨が降りだしてきた・・。

そして風が強く吹き始め、小庭の樹木は豪雨を受け、枝葉は揺れ、
樹木越しの景色は白いベーエルに覆(おお)われたかのように霞(かす)み、白雨(はくふ)となった・・。

やがて激しい雨が30分ばかり降った後、やがて小雨が降ったり止んだりした・・。
          

夕方の6時前後、テレビでニュースを視聴していると、
我が家から北6キロぐらい三鷹市に於いては、大粒の雹(ひょう)が10センチぐらい降った地域もあり、
或いは北1キロぐらいの京王線の『つつじが丘』駅近くでは大雨で床下浸水の家もある、
と報じていて、この梅雨の時節のなのに、どうしてなの、と私は空を見上げたりした。

そして夜の9時過ぎ、居間で網戸越しに窓を開けていると、
夏の半袖パジャマ姿の私は、余りにも涼しく感じて、長袖のスリーシーズンのパジャマ姿に着替えたりした。


今朝、私はパソコンを開くと、ネットは【YAHOO! JAPAN】に設定しているで、
『主要ニュース』の中のひとつとして、『毎日新聞』から配信された『数十センチ「ひょう」東京・三鷹や調布 』を
読んだりした。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140624-00000119-mai-soci
☆【YAHOO! JAPAN】<==『主要ニュース』
       <==『毎日新聞』<==『天気』<==『数十センチ「ひょう」東京・三鷹や調布 』☆

そして掲載されている数多く写真を見て、私の住む近くの地域で、
このような大粒の雹(ひょう)が大量に降ったことに、改めて驚いたりした。
          

私は長らくこの近くに住んでいるが、私が記憶の中で、
過ぎし年の5年前の3月中旬、1センチ足らずの雹(ひょう)が15分ぐらい降り、
小庭にあるテラスに散乱した情景を私たち夫婦は驚きながら、
桃の節句も過ぎた今、季節外れの雹(ひょう)が降るのかょ、と私は家内に言ったりしたぐらいである。

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W杯『どうして日本は、勝てないんですか?』、と知人の学童から問われて、戸惑い・・。

2014-06-24 13:34:09 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の69歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

私の住む地域は世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅であり、
最寄駅としては、京王線の場合は、『つつじが丘』、『仙川』の両駅は徒歩15分であり、
小田急線の場合は、『喜多見』、『狛江』の両駅は徒歩20分となり、
この京王線と小田急線にサンドイッチされたような辺鄙(へんぴ)な地域に住んでいる。

そして現役サラリーマン時代の時は、更に利便性の良い『成城学園前』駅を最寄駅と活用し、
年金生活の今でも、都心に買物に行く時、或いは国内旅行に行ったりする時は活用している。

いずれも路線バスの利便性は良いが、年金生活を始めてから原則として散歩も兼ねて、
路線バスを利用することなく、ひたすら歩いたりして、季節のうつろいを享受している。
        
このような地域でも、私の自宅周辺は住宅が密集しているが、数分歩けば、
野川が流れ、この両岸には遊歩道があり、小公園もあり、住宅地としては緑が豊かである。
          

昨日は昼下り野川の遊歩道を歩いた時、
《 学童が下校の時となりました・・みんなで~学童を・・護(まも)りましょう・・》
と私の住む街の調布警察署から、小学校の下校時に、街中に聞こえるように広報されている。

まもなく学童が数人グループ、或いは10人ぐらい群れて歩いてくるのが見えて、
それぞれ談笑を重ねながら、ときおり歓声もまじえて、歩いている。

そして3人グループの男の子が来て、この中のひとりが知人宅の孫息子さんであり、
今年の4月に二年生になったことは、私は知っていた。
そして孫息子さんは私に気づき、
『おじさん、こんにち~は』
と私に挨拶をした。

やがて知人宅の近くになり、私はこの孫息子さんだけとなり、
『おじさん・・少し教えて下さい・・ワールドカップ・・遠い外国で試合していますが・・
どうして日本は、勝てないんですか?』
と私は訊(たず)ねられた。
          

私は遠い昔の60年近く前の中学時代に、体育の授業の一環で、サッカーは学んだだけで、
特に今回のワールドカップも、関心はなかったひとりであった。

何かしら昨今のテレビ番組で、ワールドカップに関して報じることが多かったが、
私はいつものように夜の9時過ぎNHKの『ニュースウオッチ9』を視聴している中、
スホーツ特集で視聴した限りであるが、
過ぎ去り日の15日に日本は対コートジボワール戦で、1対2で敗戦し、
その後の20日でも日本は対ギリシャ戦で、0対0の引き分け となったぐらいは知っていた。

しかしながらサッカーにも詳しくなく、ワールドカップにも関心がない高齢者の私は、
突然に『どうして日本は、勝てないんですか?』と問われて、返事に戸惑いながら、
『おじさんは・・サッカーのこと知らなくて・・ご免ねぇ・・』
と私は苦し紛れに孫息子さんに言ったりした。
          

やがて私は、この孫息子さんの門扉の前で別れて、私は自宅に向かった。
そして私は、何かしらワールドカップの日本チームに於いて、
果敢な本田選手以外は、それぞれの選手からは勝とうとする意欲、気迫、そして覇気が感じられなく、
これでは戦う前から敗れている、とサッカーに無知で少しボケた私は感じたりした。

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沖縄慰霊の日、敗戦時は乳児だった私でも、国民のひとりの責務と思い、黙祷し・・。

2014-06-23 07:55:02 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む69歳の身であるが、
洗面した後、庭のテラスに下り立ち、襟を正して南の空に向かい、黙祷したのは朝の6時過ぎであった。

私は1944年〈昭和19年)9月下旬に東京郊外で農家の三男坊として生を受け、
翌年の1945年〈昭和20年)8月15日に、日本は敗戦となった。

そして敗戦時は一歳未満の乳児であったので、戦争を知らない世代に属するが、
少なくとも沖縄戦が事実上集結したこの日の6月23日は、
『沖縄慰霊の日』と命名された厳粛な日として認識している。
          

恥ずかしきことを告白すれば、東京オリンピックが開催された1964年(昭和39年)の当時、
私は大学2年で中退し、映画、文学青年の真似事をしている中、
たまたま中野好夫、新崎盛輝の両氏による共著『沖縄問題二十年』(岩波新書)を読み、
高校時代以来、何かと時事に関心を抱き、ベトナム問題と同様に
まとまりつかない沖縄問題に思考が整理できず、深く悩んでいた・・。

そしてこの本に出会ったのは、21歳の時だった。

若き私は感受性が豊かな時であったので、知識人の確かなアドバイスを頂いたようになり、
この本の言葉に導かれて、私は沖縄に対しての理論整然と見方として教示され、基軸となった・・。

これ以降、やがて社会人となり、そして定年退職後の生活を送っている今でも、
沖縄、オキナワ・・ことばを読んだり聴くたびに、
何かしら今だに後ろめたい気持ちを引き摺(ず)っている。

私はこの一冊の本に寄り、安易な沖縄観光気分で訪れることが出来なくなり、
この後30年後の50代に初めに、家内と共に初めて沖縄諸島の土を踏み、更に思いを深めたりした・・。


もとより太平洋戦争で、日本の国土である沖縄列島が直接に戦闘地域となり、
軍人の死もさることながら、一般の人々までが戦場の中で多大な犠牲の上、
沖縄戦は事実上集結した日である。
そして沖縄県は『慰霊の日』として、この日は戦没者追悼式が行われている。
          
何よりも戦時中、日本の本州の防波堤となり、
直接にアメリカ軍との激戦地となり、民間の住民まで戦禍にまみれ、
尊い犠牲の上で、今日の日本の心の平和の礎(いしずえ)である、と思いながら、
戦争を知らない私でも深い心の傷として、今日に至っている。

このような思いから、私は国民のひとりの責務として、
この『慰霊の日』は、沖縄に向って、満22歳より黙祷をしている。


私よりご年配の方はともかく、私より若き世代の人たちの一部に、
『沖縄慰霊の日』の由来を誰でも解り易く、簡潔に記した書物は、
私が知る限り、知識人の藤野邦夫(ふじの・くにお)氏の書かれた『幸せ暮らしの歳時記』(講談社文庫)であり、
この中で、この『沖縄慰霊の日』を明記している。

そして私は若き人たちと共有致したく、今回もあえて転記させて頂く。
《・・ 太平洋戦争が最終段階に入った1944年(昭和19年)3月、
本土決戦を引き延ばす目的で、沖縄に第32軍(牛島満・司令官)が配備された。

そして全島を要塞化する計画が推進されたが、
10月10日の大空襲で守護隊は大きな被害を受けて、那覇市は全焼。
548人の一般市民の死者をだした。

この後、守護隊の主力部隊が、フィリピン作戦、に狩り出された為、
軍首脳部は県民の中から、人員を補充せざるを得なかったのである。
沖縄戦が始まった時点の兵力は、約10万人とされるが、その3の1は、前記のような補充兵だった。

これに対し、ミニッツ太平洋艦隊司令官の基に、バックナー中将の率いるアメリカ軍の艦船は、約1500隻。
兵力は17万3000人で、後方支援部隊も合せると、実に44万人に達したという。

兵器と爆薬の面でも、心もとない守護隊に対して、アメリカ軍は圧倒的に優位にたっていたのである。

このアメリカ軍が、1945(昭和20年)年3月23日、沖縄諸島に激しい艦砲射撃をくわえた。

彼等は、26日に慶良間列島を確保した後、4月1日から沖縄本島に対する上陸作戦を開始した。

日本軍の主力が、首里を中心に配備されていたので、アメリカ軍はさほどの抵抗も受けずに上陸を完了し、
沖縄本土は南北に分断した。

この後、アメリカ軍は、南部にいた日本軍に対する総攻撃を開始。
両軍の激戦は40日におよび、劣悪な条件で戦った日本軍の抗戦には、すさまじいものであった。
しかし、この戦いの為、守護隊の主力は壊滅した。

残った約4万人の兵力は、5月22日に、更に南部に撤退した。
ここには推定で約10万人の県民も避難した為、沖縄戦は過酷な様相を呈することとなった。

勢いに乗るアメリカ軍の激烈な攻撃にさらされる極限状況の中で、
日本軍による一般人の虐殺、食糧の強奪などが発生。

更に、女子学生で組織された看護隊『ひめゆり部隊』の悲劇にみられるような、
          
県民達の凄惨な事件が続発した。

そして6月23日、牛島司令官の自決。
ここで日本軍の組織的な抗戦は終結した。

しかし、引き続き行なわれたアメリカ軍の掃討作戦で、6月末までに、約9000人の日本兵が犠牲となった。

この三ヶ月間の戦闘死者は、日本軍6万5908人、県出身の軍人2万8228人、
アメリカ軍1万2281人で、計10万5417人。
そして一般の県民は、推定で9万4000人が亡くなった。

軍人よりも一般人の犠牲者が多い所が、沖縄戦の非人道的な面が如実に現れている。

沖縄県では、沖縄が事実上終結した6月23日を『慰霊の日』とし、1951年(昭和26年)から祝祭日に指定。
糸満市の『平和記念公園』で、戦没者追悼式が行なわれている。 ・・》
注)原文よりあえて改行を多くした。

私は転記しながら、改めて再確認しながら、戦争とは、かくも果てなき残虐の行為である。
          

                         

私は50代に初めに、家内と共に初めて沖縄諸島の土を踏み、初めて沖縄諸島を観光で訪れたが、
この中のある時、海原を観ていた時、ガイドさんが、
『あの海の彼方は・・アメリカの艦隊でいっぱいだった・・
とご年配の方から教えて貰いました・・』
と私はガイドさんから教えて頂いた。

そして私は、前方の海原にアメリカの艦隊がひしめき、
そこから艦砲射撃がされ、沖縄本土が被弾する状況を想像した時、
私は胸が熱くなり、そして涙があふれていた・・。
          

私はこの日の『沖縄慰霊の日』、そして原爆という余りにも過酷で悲惨な8月6日の『広島被爆』、8月9日の『長崎被爆』、
そして 敗戦となった8月15日は、
たった一枚の赤紙(召集令状)で徴兵され、戦場で亡くなわれたお方たち、
或いは戦時下、空襲などで亡くなわれた多くの人々に哀悼の意を表して、
毎年この日に黙祷をし、尊い命の冥福を祈っている。
                     

尚、掲載した数々の写真は、過ぎし2007年〈平成19年〉10月29日から8泊9日間で、
私たち夫婦は家内の母と共に、沖縄本島の一部を訪れた時に撮ったものである。

家内の母は、1930年〈昭和5年〉生まれであり、
この数か月前に、死ぬまでに一度は沖縄の《ひめゆり塔》を参拝したい、と家内に言ったりした。

家内の母は、戦時中は(新潟県)高田の女学校時代に於いて、
軍事工場の支援に強制従事させられた体験を含めて、
何か平和祈念公園の中で、沖縄戦で亡くなれた新潟県の墓地にも花をささげたい、
このような慰霊の旅路を、この沖縄の前半の時に私たち3人は巡礼した。

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旅から帰宅すれば、ブログ投稿の完了まで、何かと愚図の私は慌ただしく・・。

2014-06-22 08:19:31 | 旅のあれこれ
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の69歳の身であるが、
家内との共通趣味のひとつは国内旅行であり、
私たち夫婦は子供に恵まれなかった為か、若き新婚時代から日本の各地に四季折々に訪ねたりしている。

旅から帰宅すれは、愚図で齢ばかり重ねた私は、何かと慌ただしく過ごすことが多い・・。

もとより旅行は非日常の出来事であり、
平素は私たち夫婦年金生活している中、程ほどにのんびりと過ごしたりしている。
          

定年後から自主的に平素の買物専任者となった私は、
毎日のようにスーパー、専門店に行ったりし、ときおり本屋に寄ったりしている。
その後は、自宅の周辺にある遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受している。

          
日常の大半は、随筆、ノンフィクション、小説、現代史、総合月刊雑誌などの読書をすることが多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

そして少なくとも家内は料理、掃除、洗濯などをしてくれるので、
せめて家内が煎茶、コーヒーを飲みたい時を、私は素早く察知して、茶坊主の真似事をしている。

このような年金生活を過ごしているが、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、パソコンの故障とか旅行に行っていない限り、
ブログの投稿文を重ねて、早や丸9年半が過ぎている。

そして時折、庭の手入れをしたり、友人と居酒屋など逢ったり、
家内と国内旅行をしたりしている。
                    

家内は旅行する前日、女優を引退された後に随筆家として著名な亡き高峰秀子さんのように、
台所を洗い清めたり、洗濯物も残さず、そして冷蔵庫の肉類、魚類、野菜物、牛乳など殆ど空の状況にしない、
と満足しないタイプのひとりである。

今回の旅行の場合も、旅先の最終日に現地の宿泊ホテルより旅行ケースを宅配便を利用して、
自宅に送付したりした。

帰宅した直後は私たちは、部屋に外気を入れたり、着替えたりした後、
家内は私が提げてきた旅行バックを開けたりしている。

そして煎茶、コーヒーを私が淹れた後、私は入浴し、
この間、家内は宿泊した売店、お土産屋さんで買い求めた漬物、その地の特有な食べ物を皿に移して、
食卓に並べたりしていた。

そして風呂上りの私は、旅先で呑み過ぎたので、煎茶を飲みながら漬物などを食べている間、
家内は入浴したりしていた。

その後は私たちは、旅先のこぼれ話を談笑したりした。
          

やがて旅の疲れもあり、家内は寝室に行き、寝てしまった。
その後の私は、一昨年の晩秋頃からブログの投稿文に写真を添付しているので、
旅先で撮った写真をデジカメの記憶媒体からパソコンに移動させ、
パソコンの大きな画面を見て、独り微苦笑したりした。

私の所有しているコンバクト・デジカメの性能に寄るが、何よりもデジカメの技量の乏しい私は、
撮った数多くの写真への心の思いは強いが、やはりこの程度かょ、と苦笑したりしている。
                                                
そして写真を見ながら旅行の投稿文を思案したりしている。
筆力のない私でも出来うる限り、綴りは紀行文の形式に準拠したく、内容、構成とかを配慮しながら、
綴ろうと思ったりした。

結果として、短めの散文で写真を添付して、ごまかしたような6話ばかり手抜き投稿文となってしまい、
根気と筆力のなさを痛感したりした。

しかしながら、せめてタイトル名には配慮したりしている。

もとより小説、随筆、映画などの場合は、タイトル名で内容を適切に凝縮した表現となるので、
私も拙(つた)ないなりの投稿文であるが、タイトル名は気にしているひとりであり、
今回の場合は、悩んだ結果、やむなく蔵王と山形市温泉協会が発行したパンフレットの表紙タイトルに、
《 こらっしぇ 》と明題されていたので、無断ながら拝借させて頂いた。

結果として、こらっしぇ蔵王温泉滞在記、と表題して6話ばかり投稿文を連載した。
                

この間の私は帰宅後の翌日は、家内は洗濯の合間に掃除をしたり、料理をしているが、
私はスーパーを2店ぐらい廻り、パン類、肉類、魚類、野菜、牛乳などを買い求めたりしている間、
このブログサイトの投稿する内容を考えたりしていた。

今回の旅は、たまたま山形県の蔵王温泉のリゾートホテルに
6月15日より滞在した4泊5日であったが、何とか6通ばかり投稿し終わったのは、
昨日の21日であった。

この間にネットで毎日のように精読しているニュース、音楽業界のサイトを見たり、
このブログサイトで私が愛読している方の投稿文を、数多く読ませて頂ただいた・・。


このように私は、パソコンは自宅に置いてあるので、
帰宅直後から、ブログ投稿の完了まで何かと慌ただしく過ごすことが多い・・。
                    

家内は旅路から帰宅した翌日には、今回の旅は忘却の彼方のように心情となっているが、
私は少なくとも旅立つ前の思惑、旅行のさなかの遊学、そして帰宅後の旅先の写真の整理、ブログの投稿文などで、
ひとつの旅でも4度ぐらいは享受している。

そして今回の人生のひとときの旅先で、4組のご夫妻の方たちにめぐり逢え、
幾たびか私たち夫婦は、談笑を重ねた方たちを思い浮かべたりし、微笑んだりしている。

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こらっしぇ蔵王温泉滞在記 ⑥ 最終章 人生のひとときを共にして

2014-06-21 16:43:00 | 
       最終章 人生のひとときを共にして

今回の旅路は、ある有力な旅行通販会社から郵送されてくる小冊誌の中に、
源泉かけ流しの温泉地滞在フリープランのひとつが掲載され、
山形県にある蔵王温泉街の片隅にある『たかみや瑠璃倶楽リゾート』4泊5日を滞在するプランであった。

私は今年の9月の誕生日を迎えると、古希と称される70歳となり、
家内も今年の12月になれば高齢者入門の65歳となる。

私たち夫婦は子供に恵まれなかったが、国内旅行が共通の趣味のひとつであるので、
お互いに元気で意欲のある今、行きたい所に行ければ良いと思い、
この旅路のプランに参加した。

たまたま今回の宿泊滞在フリープランで、今回共にした10数組ご夫妻は、
私たち夫婦と同年代の方もいたが、殆どは男性は70代であり、最高齢は82歳であったりした。
          

15日に東京駅から山形新幹線の特急『つばさ』に乗車し、山形駅に午後3時前に到着した後、
宿泊先の『たかみや瑠璃倶楽リゾート』のご厚意の送迎マイクロバスに乗車する時、
初めて今回のリゾートホテルに滞在するフリープランのメンバーが判明した。

これ以降、幾たびかホテルの館内の食事処、大浴場、ロビー、
或いは私たち夫婦が街中を散策している時に、お逢いしたりし、お互いに談笑したりした。
          

もとより今回のフリー滞在プランで共にしたメンバーは、
それぞれ生を受けた環境も違い、その後に育った状況、学歴、その後の社会人として職業、結婚生活・・、
やがてシニア世代となり、それぞれの生活をしていて、誰ひとり同じ人生航路を歩んできた人はいないのである。

その上、人それぞれ思考、信条、性格、趣味なども違うし、この広い世界で同じ人はいなく、
男性グループのSMAPの唄った『世界に一つだけの花』のような存在なのである。
          

私たち夫婦はお互いに談笑する中で、
最高齢の男性は82歳であり、このお方は野花がお好きなお方であった。
そして一眼レフの高級デジカメの本体に、ズーム28ミリ~300ミリのレンズで、
ときおり三脚を立て撮られ、今回も周辺の野花を撮られた、と私たちに言ったりした。

そして奥様は野花には関心はあるが、写真には興味がないの、と私に微苦笑しながら言ったりした。

たまたま朝食のレストランの席で、私たち夫婦はテーブル越しにご夫妻が隣席され、
私がご主人が置かれたデジカメを絶賛したので、これ以降何かと談笑したりした。
          

細身の男性で余分な脂肪がないように見えた76歳の男性は、
日々2時間ばかり歩き、その後はスポーツジムで全身運動をされ、
165センチの身長で、52キロの体重を維持されている、と私と談笑する中、言ったりした。

そして奥様もスポーツ大好きで、今回の滞在中に蔵王の山なみをひたすら歩かれ、
共に軽登山の容姿であった。
          

72歳の男性は私と同じような170センチ、体重は75キロぐらいの方で、
やはり奥様と軽登山し、ゼンマイ、ワラビなどの山菜を見たり採ったりするのが、ご趣味であった。
そして今回、宿泊した『たかみや瑠璃倶楽リゾート』には、ここ7年幾たびも来ている、
と私たち夫婦と談笑する中で、私は教えられた。

そして温泉に関しては、館内の内風呂の大浴場で十分満足ですわ、と奥様が明言され、
温泉大好きな私たち夫婦は、微苦笑させられたりした。
          

こうした中で私たち夫婦は、朝の9時過ぎにホテルを出て、温泉の中心街を散策したり、
山の中腹にある処まで坂道をあがったりして『源七露天の湯』、
そして別の日には奥地の『大露天風呂』に遠征して、ゆっくりと野趣あふれる露天風呂に満喫したりし、
ホテルには昼下がりに帰館した。

そして旅先は非日常であるので、平素は叶わないことを私はしたりした。
私は山形の漬物を友にして地酒を呑みながら、家内と談笑したり、
          
ときおり私たち夫婦は窓辺からの情景を眺めたりした。
                   
そして夕食まで家内が館内の大浴場に行っている間、私は本を読んだりしていた。

こうしたことを知り逢ったご夫妻と談笑する中で、話したりすると、
人それぞれご趣味が違いますもねぇ、と私たちは言われたりした。
          

今回の旅路で、人生のひとときを共にした10数組のご夫妻と、
山形新幹線の特急『つばさ』で東京駅に帰京する時、
東京駅に近づくと、私たち夫婦は『また、いつ日にか旅先で、お逢いしたいですねぇ』
とそれぞれのご夫妻に愛惜の挨拶をしたりした。

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こらっしぇ蔵王温泉滞在記 ⑤ 第四章 『たかみや瑠璃倶楽リゾート』の館内

2014-06-21 13:44:05 | 
       第四章 『たかみや瑠璃倶楽リゾート』の館内

私たち宿泊滞在フリープランが4泊ばかり宿泊した『たかみや瑠璃倶楽リゾート』は、
私たち夫婦は初めて利用させて頂いたリゾートホテルであった。
          

蔵王の温泉地の中心街からは東の外れにあり、前方は蔵王の山なみ向って二つのロープウェイが観え、
後方は緑豊かな森となり、この一角に『鴫(しぎ)の谷地沼』がある。
          

館内の概要は、『たかみや瑠璃倶楽リゾート』の公式サイトで紹介されているので、省略する。
http://www.zao.co.jp/rurikura/
      ☆公式サイト『たかみや瑠璃倶楽リゾート』☆

私たちは滞在期間中、朝食は朝の7時半過ぎからバイキング形式、夕食は夜6過ぎから頂いたであるが、
創意工夫のある多彩な料理、何よりも食事処のスタッフまごころのある言動に好感した。

そしてロビーのフロントのスタッフ、館内のスタッフ、それぞれさわやかな笑顔で接して頂き、
好感したりした。

私たち宿泊滞在フリープランで、たまたま今回共にした10数組ご夫妻は、
私たち夫婦と同年代の方もいたが、殆どは男性は70代であり、最高齢は82歳であり、
この中には幾たびも、『たかみや瑠璃倶楽リゾート』を利用している、
と私たち夫婦と談笑した時、言われていた・・。

私たち夫婦の指定された部屋は、今回共にした10数組ご夫妻と同様に「ツインルーム」であった。
蔵王の山並みと朝日連峰が望める客室と称されている通り、早朝、朝、昼の情景は、
私たちは窓辺から観て、魅せられたりした・・。
          
               早朝のひととき
          
               早朝のひととき
          
               昼下がりのひととき

夕暮れは部屋の窓の反対側にあるロビーから、二回ばかり見たりしたが、
この情景も魅せられたりした。

この『たかみや瑠璃倶楽リゾート』の難をあえて明言すれば、
「ツインルーム」を利用して感じたことは部屋の狭さ、室内の換気の悪さ、部屋から入った時にクロゼットに圧迫される、
このように感じたりした。

そして大浴場は満喫されたが、やはり蔵王温泉の地域であるので、露天風呂がなく、
私たちは温泉の中心街の奥まった高台にある『源七露天の湯』、そして『大露天風呂』に遠征した理由ひとつとなった。

このリゾートホテルは、公式サイトにも公表されている通り、
《・・建築家・故丹下健三氏が手がけた設計と、工業デザイナー・奥山清行氏による家具のコーディネイト。
世界に誇る二人の意匠が融合した、真のラグジュアリーと、心なごますホスピタリティ。
山形から発信されるグローバルなリゾートスタイルを。・・》
と明記されている。

建築にも疎(うと)い私のシロウトの素朴な思いとして、丹下健三さんの遺(のこ)された建築のひとつには、
様式美はあるが実用性に乏しい、と今回の場合は実感させられたのである。

確かに蔵王の山頂の近くから街並みを見下ろした時、斬新なこリゾートホテルは目立ち、
裏側の小路を歩いていた時、圧倒的な建築美の威容が観える。
          

或いは裏手にある『鴫(しぎ)の谷地沼』からも、森の中に忽然としてこのリゾートホテルが観える。
          

私は滞在中、風の中の噂話として聞いた限りであるが、
ある自治体が蔵王温泉の活性化、そして保養所の為に、建築家・丹下健三氏に懇願して依頼した建物であったが、
やがて自治体として維持管理が思わしくなく、やむなく売却されて、
この地方の雄の観光グループの『たかみや』が購入されて現在に至っている、と聞いたりした。

私は微苦笑しながら、リゾートホテルとしては実用性に乏しいが、
何よりも現代のスタッフが創意工夫をされたり、さわやかな笑顔で接して、好感している。
          

余談であるが、リゾートホテルとしては建築美も館内の実用性に優れている『裏磐梯猫魔ホテル』に、
過ぎし年の2012年1月中旬に3泊4日で滞在した時であった。

裏磐梯の檜原湖の湖岸に近いリゾートホテルのひとつの『裏磐梯猫魔ホテル』は、
この当時は確かに建築美も館内の実用性に優れていたが、肝要の各スタッフに覇気もなく、
笑顔が少なく、私たち利用者からも衰退している実感を感じたりしたのである。

このホテルは、やがて星野リゾート に買収されて、『裏磐梯ホテル』として現在好評を得ている、
と私は聞いたりしている。

観光旅館、観光ホテル、リゾートホテルは、建物、館内の施設も重要であるが、
何よりも館内のそれぞれスタッフの生き生きとした言動が、利用者から好感される、
と私は今回の宿泊先でも実感させられたのである。

                             《つづく》

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こらっしぇ蔵王温泉滞在記 ④ 第三章 『鴫(しぎ)の谷地沼』、そして周辺の情景

2014-06-21 08:48:47 | 
       第三章 『鴫(しぎ)の谷地沼』、そして周辺の情景

私たちが宿泊滞在している『たかみや瑠璃倶楽リゾート』は、
温泉地の中心街からは東の外れにあり、前方は蔵王の山なみ向って二つのロープウェイが観え、
後方は緑豊かな森となり、この一角に『鴫(しぎ)の谷地沼』がある。

17日の午前中に『蔵王中央ロープウェイ』の路線の山の中腹の付近にある『大露天風呂』で入浴を終え、
その後は温泉地の中心街を散策した後、この『鴫(しぎ)の谷地沼』を初めて訪れた。

多くの自動車が利用される大通りから脇道に入った所から、
『鴫(しぎ)の谷地沼』を見て、歩き始めたが舗装された路もあり、人影も時折見られ、
温泉地の中心街からも20分ぐらい近い処てあったが、静寂な散策路であった。
          

          

そして15分ぐらい歩いていると、前方の彼方に私たちが宿泊滞在している『たかみや瑠璃倶楽リゾート』の建物が観えたが、
周辺は緑豊かな森となっている。
          

やがて森の中の小路となった中を歩いたりした。
          

そして10分ばかり歩くと、水の音が聴こえて、やがて水量豊かな滝が観られた。
          

私は蔵王の山なみから伏流水が、どちらかで湧き出て、この滝に集約して流れているように思え、
私たちはベンチに座り、長らく見惚れたりしていた。
そしてデジカメの技量に乏しい私でも、少し技巧をまじえて2枚ばかり撮ったりした。
          

          

やがて私たちはベンチから離れて、岸辺に沿った小路を再び歩きだした。
          

          

その後、岸辺から離れて、小路を歩いたりした・・。
          

やがて少し幅の広い路となった中、宿泊滞在している『たかみや瑠璃倶楽リゾート』の建物の正面の一角が観えたりした。
          

そして付近の蕎麦屋に入店して、私たちは昼食とした後、帰館した。

                             《つづく》
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こらっしぇ蔵王温泉滞在記 ③ 第二章 『大露天風呂』、そして街並み湯処

2014-06-20 17:03:14 | 
       第二章 『大露天風呂』、そして街並み湯処

17日の朝9時過ぎに、私たちは『蔵王中央ロープウェイ』の路線の山の中腹の付近にある『大露天風呂』を目指して、
宿泊しているホテルを出た。
そして数多くある温泉地の街並み中、急な坂道を30分ぐらい上ると、何とか『大露天風呂』の看板が見え、
私たちは微苦笑したりした。
          

この後、5分ばかり坂道をあがると、『大露天風呂』の門が観えて、
やっと着いた、というのが私の本音でもあった・・。
          

この『大露天風呂』は、蔵王の数多い湯処の中でも、突出して紹介されて、
パンフレットなどでは優先的に掲載されていたので、私たちは必須項目と思い訪れたのである。
          

もとより露天風呂であり、写真は厳禁と明示されていたので、パンフレットを撮らせて頂いた。

川沿いに源泉が湧きだし処を数多くの岩で湯船を造ったと思われ、
周囲の森の樹木も萌黄色、黄緑色、そして深緑の多彩な葉色の中、
源泉の湯色に身をあずけると、野趣満点である。

私の入った男性風呂は、ひとりの40代の男性がいるだけで、
私は話しかけたりした・・。

そして山形市内にお住まいの人で、自動車で来られ、
平素でも入浴される方が多いので、たまたま今回は幸運である、と教えて頂いた。

やがて談笑の中、私たち夫婦が街の中から坂道を上がってきた、と知ると、
よくぞあの急な坂道を、驚いた表情をされていた・・。


この後、私は15分ばかり湯に浸かり、休息処で家内を待ったりした。
そして私たちは名残りほしく、この『大露天風呂』に辞した。

やがて30分ばかり坂道を下り、街並みを歩いたりした。
この街中でも、共同浴場の『上湯』、『下湯』などの小奇麗な建物もあり、
足湯も少なくとも2か所は見かけたりした。

この後、家内は川底から湧き出る『川原湯』に入浴したりし、
街中で見かけた『稲花餅』に、幼年期に農家の児として育った私は、家内を誘い入店して頂いたりした。
          

      

この後、私たちが宿泊している近くに、『鴫(しぎ)の谷地沼』と明記された処に、
散策を兼ねて行ったが、想像したより遥かに魅了された。
                             《つづく》

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こらっしぇ蔵王温泉滞在記 ② 第一章 ドッコ沼、そして街並み散策

2014-06-20 14:12:39 | 
       第一章 ドッコ沼、そして街並み散策

私たちの宿泊している部屋の窓辺からは、『蔵王ロープウェイ』が観られ、
乗車すれば山頂の近く1661メートルに蔵王地蔵尊が拝観できるが、
今回私たちが訪れた時は、まばらな運行の状況であったので、断念した。

或いは左側にある『蔵王中央ロープウェイ』は、鳥兜山1387メートルの山頂近くまで駅がある、
鳥兜山の山頂からは蔵王温泉の街並み、周辺の山なみが一望できることを知ったりした。

そして一番奥まった所には『スカイケーブル』があり、終点の中央高原駅から400メートルばかり歩けば、
ドッコ沼が観られるので、
温泉の街中からは、『蔵王中央ロープウェイ』に乗車して、鳥兜山の山頂から一望した後、
15分ばかりの小路を下り、ドッコ沼を鑑賞し、やがて『スカイケーブル』を活用して街並みに戻る
ドッコ沼の散策コースとし名高い。

しかしながら、今の時節は『スカイケーブル』運行中止と知った。

16日の朝9時過ぎに、宿泊しているホテルを出て、『蔵王中央ロープウェイ』に乗車し、
やがて山頂近くの鳥兜駅に到着した後、数分で1387メートルの山頂に私は立ったが、
園児でも歩ける道のりであった。
そして鳥兜山の山頂からは蔵王温泉の街並み、周辺の山なみが一望できることを知ったりした。
          

          

この後、この近くに『開運の鐘』があり、家内は撞(つ)いたりした。
          

やがて私も撞(つ)いたりする前には、
宝くじで3億円が当たりますように・・とふしだらな思いもよぎったりしたが、
やはり私が75歳、家内が70歳となるまで、お互いにボケませんように、
と両手をあせながら祈願したりした。

この後、私たちは人影のないドッコ沼を目指して、スキーのゲレンデの坂道を15分ばかり下ったが、
人影もなく、夏のような陽射しの中を歩いた。

やがて森が観えて、近くに寄ると、『ドッコ沼』の標識を見たりした。
          

そして私たちは、この水辺の近くの小路を歩いたりした。
          

やがてベンチのある処に私たちは腰かけて、前に展開する静寂な光景に見惚れたりした。
          

          

こうした情景を眺めていると、時が止まったようにも感じられ、やがて私たちはベンチから離れて、
再び歩きだしたりした・・。
          

そして以前、2005年〈平成17年〉の4月中旬、
南東北の桜花の名所を7か所めぐる1泊2日の団体観光バスツアーに私たちは参加して、
この間に蔵王中央高原にある『国際蔵王高原ホテル』に宿泊したが、
どの辺だったかしら、と話し合ったりしたが、無念ながら見落としてしまったかしら、
と思ったりした。

やがて『蔵王中央ロープウェイ』の山頂近くの鳥兜駅に戻る為に、
下ってきた坂道を上り始めたが、私は息切れをしてしまい、家内から少し遅れて、体力の衰えを実感した。
汗をしたたらせて、20分ばかり上り、何とか鳥兜駅の休憩室に着いたりした。


この後、『蔵王中央ロープウェイ』に乗車して入る中、この山の中腹の付近に『大露天風呂』があり、蔵王温泉地の代表的な所、
と私は家内から教えられ、これから行きましょう、と誘われたが、
私は街並みのある処から中腹までの上り路を想像したら、即答できなかった。

結果的には、私たちは『蔵王中央ロープウェイ』を下車し、街並みを散策した後、
中腹の付近に『大露天風呂』は明日にして、これより街に近い『源七の湯』を目指して、
街並みの坂道を15分ぐらい上り、『源七の湯』に着いた。
          

私たちの宿泊している『たかみやま瑠璃倶楽リゾート』は大浴場はあるが、
無念ながら露天風呂がなく、温泉大好きな家内からすれば解放感がないわ、
と家内の根底にあったので、露天風呂のある湯処の『源七の湯』、そして『大露天風呂』を思案したりしていた。

『源七の湯』は、私は内湯、そして露天風呂の入浴したが、
たまたま誰もいなく、私の専用貸し風呂のような状況となり、
特に露天風呂は、野趣も加味され心身解放感にしたったりした。
          

やがて一時間後、私たちは『源七の湯』に別れを告げて、
街の中心街への坂道を下ったりした。
          

そして石段の多くある温泉神社に訪れたり、街中で地酒、漬物、お菓子などを買い求めて、
やがて帰館した。
          

                             《つづく》

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