夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

世の中は大型連休、働いて下さる諸兄諸姉、ご家族との心身のふれあいを大切に、と願い・・。

2015-04-30 15:34:46 | ささやかな古稀からの思い
昨日の朝、ぼんやりとテレビのニュースを視聴していたら、
本日より大型連休が始まりました・・、と報じられたいた。

私は2004年(平成16年)の秋に定年退職した直後から多々の理由により年金生活をし、
早や11年目となり、ともすれば曜日感覚が薄らいで、何かしら世情に疎(うと)くなっている。

そして大型連休は、私が現役サラリーマンの時代は、ゴールデン・ウィークと称していたのに、
いつのまにか呼び名が変わってしまった、と微苦笑したりした。
               
このゴールデン・ウィークの由来については、知識人・藤野邦夫(ふじの・のりお)氏が、
的確な解説を『幸せ暮らしの歳時記』(講談社文庫)で明示している。

《・・『ゴールデンウィーク』とは、日本でしか通用しない和製英語である。
1948年(昭和23年)に『祝日法』が公布され、4月29日から5月5日にかけて、
休日が飛び飛びであれ連続としたことから、この一週間に映画館の入場数が激増。
それに味をしめた映画関係者がPRに使用したことから、一般にもゴールデンウィークという表現が定着した。》

私は、映画関係者、多分どこかの宣伝部のコピー・ライター専任と思われるが、
命名された名付け親の人は、天分のある人と仰ぎ見てしまう・・。

こうした私の根底の思いとして、多くの家庭の現在でも、この連続休暇を楽しみに、
それ以前の日々の業務に励み、そして国民の多くが甘受できる連続休暇であるからである。
          

いずれの名称にしても、働いて下さる現役の諸兄諸姉は、何かと多忙な勤務をされているのだから、
せめて大型連休の時ぐらいは、ゆったりと休息されたり、
或いはご家族で皐月晴れの中、ご自由に行楽地などに行かれたり、
旅行をされりして過ごされればよい、と思ったりしたのである。

或いはこの期間でも、仕事で業務に携(たずさ)わる方たちには、
大変ですね、お身体を程々にご自愛して下さい、と心を寄せたりしている。
                        

私の現役サラリーマン時代の時は、民間会社の中小企業であったので、
通常は5月1日から5月5日の5連休がほぼ固定で、後はカレンダーの日曜と祭日に準拠して加味されていた。

そして私はこの当時は、1週間以上連休が採用されるのは、
大手の企業の開発と製造部門だろうと思ったりしていた。

私の30代の後半の頃は、住宅ローンなどで返済に重荷となり、
家内と45分ぐらい歩いた所にある都立・神代植物公園に行ったり、
少しばかり遠い高尾山のハイキングをしたりしていた。
そして、庭の手入れなどをして過ごしたりした。

40代には、格安の団体観光周遊ツアーなどの国内旅行をしていた時もあったが、
旅行先の渋滞に困惑して、その後は庭の手入れをすることが多くなった。

最も現役時代の固定とされていた5月1日から5日までの5日間に於いても、
5日間連続して休めたのは数えるばかりであった。

私は管理系の情報畑で長く勤めていた関係で、システムの開発、運用などで出勤したり、
50代の後半はリストラで烈風の中で出向となり、物流倉庫の再編成の最適な日々となったりし、
大型連休でゆっくりと休暇できたのは、遠い世界の出来事となり、奮闘していた。
                         

年金生活の昨今は、若葉の色合いに見惚(みと)れ、萌黄色から黄緑色、そして新緑色に染められ、
私はさりげない日ごとに移つろう枝葉を眺めたりしてきた。

空は青さ一色で、ときおり微風が吹くと薫風かしらと感じたり、
風光る情景に身も心も寄せたりしてきた。

ときには陽射しは初夏のような感じで、この時節にしては強いかしら、と思いながら、
少しばかり大きなモミジの幼い葉を拡げた下で緑陰で、身を寄せたりした。

そして、ここ2週間ぐらい前の頃から彩(いろど)ってくれている躑躅(ツツジ)の紅色の花に
見惚(みと)れたりしていた。
          

ここ10数年、過酷な成果主義が加速される中、短期に成果を求められる責務の時代となり、
無力ながら憂(うれ)いているひとりである。

いずれにしても大型連休に恵まれた現役の諸兄諸姉、
日常は何かと業務に追わる多忙の身の方が多いと思われるので、
せめてこの大型連休のひとときは、ご家族との心身のふれあいを大切にして頂きたい、
と私はぼんやりと思ったりしている。

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離婚という言葉は、私たち夫婦の39年目の中、死語だよなぁ、と微苦笑して・・。

2015-04-29 16:40:48 | ささやかな古稀からの思い

過ぎし日、ある民間のテレビ番組をぼんやりと視聴していた中、
夫婦で一度でも離婚を考えたことはありますか、
と多くの30代、40代と思われる出演者に質問された結果として、確か75%近い人がある、
と回答されて私は動顛してしまった。

私たち夫婦は結婚生活39年目となるが、私はこの長き期間に離婚ということは、
一度でもよぎったこともなく、今日に至っている・・。
          

私がこの広い空の下で家内とめぐり逢えたのは、妹の嫁ぎ先の義父からの紹介であった。
この当時の私は民間会社に勤めて6年生の31歳であり、
母が賃貸アパートを経営し、別棟に母と同居をしていた。

こうした中で、私は血気盛んで多くの女性と交際を重ねてきたが、大半は失恋の方が多かったが、
紹介を受けた女性は、交際を重ねる中、堅実そうな方で私は好感をしたりした。

こうした中、結婚して相手方の財産をあてにするのは、男として最低だからね、と母は私に言ったりした。

私は相手方のご両親が大切に育ててきた娘さんであり、
私に嫁いでくれるので、もとより相手方の財産などは眼中になく、
お母さん・・社会の心の節度として常識です、と私は笑いながら母に言ったりした。
          

やがて1975年〈昭和50年〉の12月15日に婚約するために、両家の結納となった。

その後、私たちは結婚日の日取り、結婚式場、新居の場所、荷物のことなどで、
ボタンの掛け違いのような行き違いが発生して、両家からの意向から、大波、小波に揺れたりした。

そして何とか1976年〈昭和51年〉3月30日に、学士会館で結婚式、そして披露宴を終えた。
この間の結婚式で、花嫁人形のような角隠しで白むくの容姿となった新妻となる人を見て、
この先の人生、どのような荒波があろうと私は・・と私は改めて思いながら緊張を増したりした。

そして神前結婚式の中で、おはらいなどを受けた後、
誓詞奏上で練習もなく初めて見る誓詞を、今後の人生の責任感で緊張の余り、少し閊(つか)えて大きな声で述べたら、
隣の新妻がクスッと笑っているのが、私は聴こえたりした・・。
          

この当時の私は、音楽業界のあるレコード会社に勤め、情報畑でシステム改定をしていたので多忙期であり、
短めな新婚旅行から帰宅し、千葉県の市川市の片隅にある国府台で、
2DKの賃貸マンションで新たな人生をスタートした。

私はサラリーマンの身であったが、もとより生計の責務で孤軍奮闘し、
家内は専業主婦で、私に従順な新妻であった。

その後、子供が出来て狭い賃貸マンションの一室で這(は)うことを想像したり、
或いはいつまでも家賃を支払い続けることを配慮して、新居の件で色々と思案したりした。

やがて結果として、私の生家の近くに空き地があったので、この地に一戸建てとした。

そして家内は中学生の頃から茶事を習い、その後の私たちの新婚生活の合間でも、
先生の元に週一度通って修業していたので、私としては住宅関係で多大な借り入れ金をするので、
ついでにと若さ勢いで、母屋の部屋は一室増やして、茶室とした。

こうした結果、作庭の経費もなくなり、やむなく私の月給分ぐらいで雑木を中核とした。
しかしながら私は奮戦しても、家計は赤字が多く、私は困苦したりした。

やがて突然に家内はデパートの和服販売店に契約社員として働き、
我が家は共稼ぎで何とか安泰し、3年後に家内は専業主婦に復帰して、今日に至っている。
                

この間、私たち夫婦は結婚生活5年が過ぎても、子供に恵まれなかった。
こうした時、私の亡き父の妹の叔母が入院し、私たち夫婦はお見舞いに病室に訪れた・・。

貴方の幼年期に《おたふく風邪》の影響かしら、と教示され、
そして無知な私は恥ずかしくもあり、少し遠方の病院で検査を受けたりした。
やがて診断の結果としては、精液の量は普通ですが、やや精子が少ない、と医師から告げられた。

帰宅後、私は家内に包隠(つつみかく)すことなく伝えたりした。
色々と対策を医師から提示されたことも私たちは話し合ったりしたが、
結果としては自然のままの性愛の結果にゆだねるとした。

このような状況で、私は40歳過ぎた頃になった時、
私たち夫婦は子供のいない家庭に違和感もなく過ごしたりし、今日に至っている。


私が40代の時、会社でヨーロッパ研修の選抜に私は敗退し、
私は自宅の居間で家内に打ち明けたりし、涙を浮かべたりした。

或いは私が40代の時、ギックリ腰が悪化して、
結果として病院の整形外科に入院して、28泊29日間過ごしたりした。
                 

そして50代になると、1998年〈平成10年〉に音楽業界の売上の主軸となるCDがピークとなり、
この前後は、各レコード会社が社内業務の見直し、組織の大幅な改定、グループ会社内の統廃合、
そして資本による合併などが行われたりした。

これに伴ない、正社員のリストラが行われ、
人事配置転換による他部門の異動、出向、早期退職優遇制度により退職が行われ、リストラ烈風となった。
こうした中で、私の勤めいていた会社も、人事配置転換による他部門の異動、出向、早期退職優遇制度が実施された。
                    
やがて私も1999年(平成11年)の新春、出向となり、
出向先は各レコード会社がCD、DVDなど音楽商品を委託している物流会社であった。
         
もとより出向身分は、会社に直接に貢献できる訳もなく、まぎれなく戦力外なので、
私は本社に30年近く勤め放り出され、屈辱と無念さが入り混じ、私でも失墜感もあり都落ちの無念さを感じたが、
半年後から何とか馴染み、自分の敵は自分だ、と思いながら精務した。

やがて出向先の物流会社も大幅なリストラが実施されたり、
私が30年近く勤めてきた出向元のレコード会社でも、幾たびかリストラ烈風となる中、
私の同僚、後輩の一部が定年前の退社の連絡、或いは葉書で挨拶状を頂いたりし、
私は出向先で2004年〈平成16年〉の秋に何とか定年退職を迎えられたのである。

そして、私は出向身分であったので、何とか烈風から免れたのも事実であり、
定年前の退社された同僚、後輩に少し後ろめたく、退職後の年金生活に入った理由のひとつとなった。

このように私のつたないサラリーマン時代であり、もとより一流大学を卒業され、大企業、中央官庁などに
38年前後を邁進し栄達されたエリートとは、遥かに遠い存在である。
                          

この間、私が出向の辞令を受けた直後、私は家内と改めて定年退職後の人生設計を話し合ったりした。

そして私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、2人だけで第二人生の歳月を過ごすので、
結果としては定年後の長い人生は、お互いの趣味を尊重して、堅実な生活を過ごせば、
年金生活でも何とかなると判断をしたりした。

そして私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思い、年金生活を始め、早や11年目となった。


私の父は、私が小学2年3学期になると、黄疸〈おうだん〉で長らく自宅治療をしていたが、
肝臓が悪化して、42歳の若さで病死された。

やがて私が54歳の時に、母は喜寿と称される77歳を迎えてまもない時に、
婦人系のガンで3年ばかり入退院してきた中で、死去した。

家内の父は、私が定年退職する2004年(平成16年)秋の直前に、
腎臓のガンに5年ばかり入退院してきた中で、78歳でこの世を去った。

そして私たち夫婦の両親は、私より14歳齢上の家内の母だけとなっているが、
3年前に膝(ひざ)を悪化して、杖(つえ)をついて歩いたりしているが、心は溌剌としている。
                    

こうした中で、家内の両親が健在だった私が35歳過ぎた頃から、年末年始に我が家に招き『お歳とり』を行ったり、
やがて私たち夫婦は1泊2日ぐらい旅行を毎年誘って招待したりしてきた。

そして独り住まいとなってしまった家内の母に対しては、
当初私たち夫婦は年金生活を始めた頃で、温泉滞在、観光地めぐりなど6泊7日前後で、
幾たびも招待したりしてきた。

私は家内の実家からは金品の支援を受けるは、お嫁さんを頂く日本男児の立場として恥と思っているが、
しかしながら、我が家を新築した時は、家内の両親からお祝い品を頂いたり、
私たち結婚10周年の時は、デパートの商品券を多額に頂いたり、
或いは私の定年退職時には、やはり多額なお祝いを頂いたりしてきた。
                    

人だれしも長所、短所はあるが、私は短所の方が多いので、
家内の短所には目をつぶり、長所を伸ばそうと心がけてきた・・。

家内は料理、洗濯、掃除などを積極果敢にする専業主婦の優等生であるが、
血液型A型となっている。

そして我が家では一年に数回、私はB型、家内はA型の為か、ボタンの掛け違いのように差異が発生する。

やがて私は、映画、文學、音楽に関しての粗雑なコメント以外は、私たちの人生に大勢に影響がないと判断して、
いつまでも心のわだかまりを残すことは、夫婦としてよくないと思い、15分以内に妥協して、
『ボクが悪かった・・XXちゃんのおしゃる通りです!!』
と家内の前で、私は床に伏して詫びたりしている。

このように我が家は家内安全となり、離婚などは無縁である、と私は微苦笑したりしている。


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65歳以上が高齢者と解りながらも、少し実感が薄い私たち夫婦は・・。

2015-04-28 16:29:34 | ささやかな古稀からの思い
昨夜、夕食を頂く前、
『明日、駅前の歯医者さんに行く日ですから・・』
と家内は私に言ったりした。

『XXちゃんさぁ・・解っていますょ』
と私は笑いながら応(おう)じたりした。

家内は幾たびか歯の治療を自宅周辺の歯科医院に受けたりしてきたが、
私は妹から、9年前の頃に小田急線の『喜多見』駅前の歯科医院が良いみたい、と聞いたりしたので、
これ以来、私の歯の老化を含めて、この『喜多見』駅前の歯科医院で私たち夫婦は、治療を受けたりしてきた・・。

そして利便性のある路線バスを利用すれば、我が家より10分前後で到着するが、
最短距離として野川の遊歩道を歩けば、20分前後を歩けば到着するし、
何よりもこの遊歩道の片側は、細長い小公園が帯のように続き、四季折々の情景が見られるので、
私たち夫婦はこのコースを愛用してきた。

難点といえば平日などは、人影も少ない時があるので、
家内が出かける時は、私がホディガード、お供として、共に歩いたりしてきた。
          

今朝、10時過ぎに私たちは自宅を出て、『喜多見』駅前を目指して歩いたりした。
       
まもなく野川の遊歩道をくと、この地帯は桜並木となっていて、過ぎ去り日の3月下旬に染井吉野(ソメイヨシノ)の桜が咲き始め、
その後に山桜(ヤマザクラ)、 最後に4月中旬に八重桜(ヤエザクラ)が咲いたりしていた。

そして見上げると八重桜(ヤエザクラ)の花は終わりを告げて、
今年も桜花を愛(め)でて、確かに受容してきたと思いながら、葉桜のトンネルになった中、私たち夫婦は通りすぎたりした。

こうした中、ときおり若きママが乳児を乗せたベビーカー、
或いはお孫さんを連れた50代風の奥様を見かけたりした・・。

こうした情景を私は見たりし、微笑んだりした・・。
       
やがて駅前に着き、家内は歯科医院で治療を受けている間、私は周辺の小公園を散策したりした。
          

私は2004年(平成16年)の秋、ある民間会社に35年近く勤めて定年退職後、
多々の理由で年金生活を始め、早や11年目となり70歳の身であり、
家内は私より5歳若く65歳となっている。

私たち夫婦は38年寝食を共にしてきた結婚生活の中で、幾重かの人生の荒波を乗り越えてきたが、
ここ10年の年金生活は安楽の日々を過ごしてきた。

こうした中で私たち夫婦の年金生活を、ご近所の方の奥様たちが見かけて、
あなたたちはお若いわ、と社交辞令のお世辞を頂くこともある。
          

私たち夫婦は、子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
長き結婚生活の中に於いて、最大の誤算となっている。

私は何かと母の遺伝を受けたらしく男の癖におしゃべりなので、
家内と結婚前に交際していた時から、
私は家内に対して、XXちゃん付けで呼んだりしている。

そして私たち夫婦は語り合うことが多く、旅先の宿泊の食事処で、会話のないご夫婦を見かけると、
私は幾たびか驚いたりしてきた。

そして世の中の多く人たちから、人生の3大支出は教育資金、住宅資金、老後資金と言われたりしているが、
たまたま我が家は子供の「教育資金」は不要となったので、
定年した直後から年金生活を開始できたことも事実である。
       
もとより子供がいれば、圧倒的に育てる喜びもあるし、子供の笑顔に何よりも癒(いや)されるし、
ときには苦渋することもあると、知人たちから教えられてきたが、
無念ながらこうしたことの体験は、私たち夫婦は欠落している。
          

こうした為か私の頭の毛は黒髪で、モミアゲだけは白くなってしまったが、人生の苦労が足りない、
と思ったりする時もある。

私は定年後の年金生活の中でも、たとえば音楽にしても、若い20代のアーテストの曲も聴いたり、
ご近所の若い30代の奥様とか、ときおり談笑したりしている。

こうした生活をしていると、何かしら65歳以上が高齢者と解りながらも、
私は少し実感が薄いである。
家内も、あたしも確かにそう感じる時もあるわ、と私に言ったりしている。
          

やがて私は駅前の片隅にあるコーヒーショップの『ドトール』で、
家内を待機しながら、コーヒーを飲んだりした。

まもなく家内と合流した後、駅前のスーパーで買い物をした後、
やがて私たちは、初夏のような熱い中を遊歩道を歩き、自宅に向かった。
     
そして私たち夫婦は、お互いに片道20分ばかりの道を往還している中、
果たしていつの日まで、情愛さえも子供にも頼ることができない私たち夫婦は、
ささやかな日々が続くのだろうか、と私はよぎったりした。
       
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高齢夫婦無職世帯、家計の収支の平均実態を学び、私は微苦笑をさせられて・・。

2015-04-27 15:09:56 | ささやかな古稀からの思い
私たち夫婦は、お互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。

過ぎし昨年の9月に、私は古稀と称される70歳となり、
家内は昨年の12月に、65歳となり、この少し前に市から『介護保険証』が郵送された。

そして家内は『介護保険証』を見ながら、
『私・・実感はないけれど・・高齢者になってしまったわ・・』
と微苦笑しながら私に言ったりした。

私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

世の中は夫65歳以上、妻は60歳以上の夫婦のみの無職世帯は、
高齢夫婦無職世帯と称しているが、我が家も同じだよなぁ、と私は心の片隅にあるが、
私も実感が乏しいが本音でもある。
          

我が家の生計は原則として、私たち夫婦はお互いに厚生年金とわずかな企業年金を頂いた範囲で、
日常生活を過ごすことを原則としている。

そして耐久品の購入、冠婚葬祭、そして私たち夫婦の共通趣味の国内旅行に関しては、
程々の貯金を取り崩して、ここ10年を過ごしてきた・・。

こうした中で私たち夫婦は、月初めには家計簿をお互いに確認しながら実施している。

そして我が家は、日常は買い物したレシートなどを、
家内が一週間に一度ぐらいノートに簡単に集計している程度であり、
月末を過ぎた数日後に、私たち夫婦は家計簿の月次決算をしたりしてきた。
                                  
そして家内が支出のそれぞれの区分項目を読み上げて、
私はパソコンの表計算ソフトのエクセルを活用して、入力したりした。

たとえば厚生年金、企業年金などの収入の項目、そして郵便局の個人年金を入力した上、
やがて銀行、郵便局、信託銀行などの残高を入力した上で、
5表ばかり我が家の独自の資産と収支別明細表を作成したりした・・。

もとより社会の少子高齢化の中で、公的年金は増えることなく減少してきたので、
私たち夫婦はお互い趣味の費用を捻出する為に収支の実態を、お互いに確認し、
ささやかに生活を過ごしたく、家計簿の月次決算をしている。
          

過ぎし3月の月次決算を終えた後、世の中の我が家と同じ高齢夫婦無職世帯は、
どのような実態かしら、と思いながら、
総務省から公表されている家計調査の実態をネットで検索したりした。

やがて『高齢夫婦無職世帯の家計収支--2014年--』を見つけて、
こっそりと読んだりした・・。

そして表はくまなく明示されていたが、支出の項目だけは%表示だったので、私は算出し整理した結果、
下記の通りとなった。

◎実収入
   ○社会保障給付・・・190、800円   92・0%
   ○その他・・・・・・   16、547円    8・0%
   ○合 計・・・・・・  207、347円  100・0%、

◎支出
   ○食料・・・・・・・・60、828円   25・4%
   ○住居・・・・・・・・16、045円    6・7%
   ○光熱・水道・・・・・21、075円    8・8%
   ○家具・家事用品・・・9、819円    4・1%
   ○被服及び履物・・・6、945円    2・9%
   ○保険医療・・・・・14、609円    6・1%
   ○交通・通信・・・・26、822円   11・2%
   ○教育・・・・・・・     0円    0・0%
   ○教養娯楽・・・・・25、864円   10・8%
   ○交際費・・・・・・28、739円   12・0%
   ○その他・・・・・・28、499円   11・9%
   ○消費支出・計・・239 485円  100・0%
   
   ○非消費支出・・・・29、422円   
    (社会保険料と税金)    
   ○支出・総計・・・268、907円    

◎収支の差額
   ○不足分・・・・・ 61、560円  
          

このように総務省からの表を加工したが、私は微苦笑を重ねたりした。

収入に関しては、あくまで平均なので、公的年金の社会保障給付が多い方もいれば、
不幸にして公的年金も少ない方もいるし、我が家はほぼ平均額で、苦笑したりした。

支出に関しては、『交通・通信』は自動車の維持費と推測するが、
我が家は自動車もなく、ひたすら歩くことが多く、携帯電話もたった一台しかなく、
平均額よりも少ないが実情である。

『教養娯楽』は私は単行本、新書本、文庫本、月刊雑誌を買い求めているし、
家内との国内旅行をときたま行ったりしているので、平均より4倍は要している。

『被服及び履物』は、家内の指示で程々良き品をデパートで買い求め、
いつまでも長らく着て、やがて普段着、最後は庭の手入れの制服としているので、
平均額よりも高くなっている。

或いは社会保険料と税金は、平均より高いわ、と家内は言ったりしている。

この他の支出項目は、ほぼ平均額となり、結果的には不足分は毎月平均として10万円となり、
程ほどの貯金から取り崩しているが我が家の実態となっている。
          

こうした中で、私は昨今夢想することがある。

私はコンバクトのデジカメを所有しているが、技巧もない癖に、
一眼レフの中級品の本体に、ズーム28~300ミリぐらいのレンズで撮ったならば、
圧倒的に鮮明に表現できる、と夢を重ねたりしている。

しかしながら35万円を要するので、小心者の私は家内には言い出せないのである。

家内からすれば、この代金があったなら国内旅行に行きましょう、
或いは老後の資金を確保していないと大変ょ・・と言明されることが予測されるので、
こうした言葉に、これからの日々を案じると、私は何よりも弱いのである。

やむなく私は老ボーイなのに、夢をみることは貧富に関係ないよね、と苦笑したりしている。

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高齢者の男性の私が、『にほんブログ村』の『シニア日記』に加入している理由は・・。

2015-04-26 16:03:02 | ささやかな古稀からの思い
私は年金生活の70歳の身であるが、午前10時過ぎに『調布市市議選』の投票所に行く為に、
独りで家を出て歩き出し、やがて途中に隣接している神社に立ち寄った。

私は心の片隅に失墜感を秘めていたので、落胆したような寂しい心情であった・・。
          

昨夜、ブログのランキングのひとつの『にほんブログ村』の『シニア日記』で、私が愛読している方が、
『シニア日記』から他のカテゴリーに移行する要旨を綴られていた。

山口県にお住いの65歳の男性で、数年前に私は瞬時に魅了されて、私は愛読者のひとりとなった。
やがて一時投稿は中断されたが、復活後も私は投稿して下さるたびに精読した。

クラシック音楽も私より遥かに造詣が深く、政治、社会への思いは私と同じ思考、
その上に独自性あふれる文体に私は魅せられてきた。


或いは確か4週間前の頃、私が愛読している方が、ブログを今後は卒業する、と綴られていた。
鎌倉にお住まい奥様であり、あえて英国風のユーモアをまじえて日常生活を綴られている文体に、
私は瞬時に魅了されて、長らく愛読者のひとりとなってきたので、何かしら高嶺の花の人が遠ざかってしまった、
このように侘びしさが残留したりした。

このような心情を秘めてきた私は、去ってしまった人に愛惜感を深めたりしている・・。
          


私は2004年(平成16年)の秋、ある民間会社に35年近く勤めて定年退職後、
多々の理由で年金生活を始めて、まもなくブログの世界を知った・・。

私は年金生活をしていると、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。
          
そして幾つかのブログサービスに彷徨(さまよ)った後、
この【gooブログ】に2008年(平成20年)の5月以来は継続し、今日に至っている。
  
このような軌跡で、ブログの世界を知って丸10年が過ぎて、早や11年生に進級した。
結果としては、パソコンの故障、国内旅行などしない限り、日に少なくとも一通は投稿してきた。
                           

この間、私は誰からも読まれなく無視されることが想像され、
つたない私でも、余りにも悲しきことで愕然とするので、ひとつの対策をした。
          
こうした思いからひとつの方法として、
やはりブログのランキングに加入して、程ほどに上位にランキングされれば、
少しでも多くの方に読んで頂けると、つたない投稿文ながら自己顕示欲が増して、加入することとした。
                 
そしてブログのランキングのサイトも幾つか彷徨(さまよ)うように加入したが、
『人気ブログランキング』の『随筆・エッセイ』に加入し、今日に至っている。

その後、2010年〈平成22年〉の秋に、やはりブログのランキングの『にほんブログ村』に再加入した。

私は2008年〈平成20年〉の頃に『にほんブログ村』に漠然と加入し、
何かしら他のブログのランキングに魅了され放置していたが、
投稿文ごとの具体的なランキングに気付かされて、私の投稿文毎にどのくらい読んで頂いたか、
と目安ができるので、ふたたび本加入させて頂いた。
          

そして現在は、『人気ブログランキング』に於いては、『随筆・エッセイ』に所属し、
『にほんブログ村』に関しては、加入時は『随筆・エッセイ』系に80%重点し、
シニア日記系『60歳代』に20%の比率で加入していた。

この時『オヤジ日記系』も知っていたが、私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、
無念ながら『オヤジ』の資格はなく、『シニア日記』とした。

こうした中で、私は『シニア日記』に加入している数多くの諸兄諸姉のブログの投稿文を読ませ頂だいたりした。

そして退職後にセカンドライフ称せられる第二の人生の時期に於いて、
ご夫婦で日常は、このように日常はお過ごしされている、このような思いを秘めている・・
多々教示させられ、ときには私が励まされるようなこともあったりしてきた。

このような第二の人生を過ごされる男性の投稿文に発露、そして秘められた心情、
或いは女性の投稿文も発露、そしてに秘められた心情などを、
私は数多く学び、私は魅了させられ愛読者のひとりとなった。
そしてある時には、ときには微苦笑させられたりし、私が愛読している大半を占めている。
          

或いは不運にも奥様に先立たれて、おひとりさまの生活をされている男性の投稿文を精読したりした。
こうした私の根底には、私より家内が先に亡くなった場合を年に数回ぐらい思案している私としては、
切実な最大の難題であるので、こうしてお過ごしされている、と多々学んできた・・。

そしてご主人に死別されて、溌剌と過ごされている女性に、まぶしげに読ませて頂いたり、
死去されたご主人の思いを綴られた投稿文に、私は感極まって涙を浮かべたりしてきた。

こうした中で、私は敬遠している熟年離婚は、お互い思いやりが欠けていた為と思っている私は、
たったひとりのお方だけは例外として愛読している。
このお方は、文学性の素養もあり、心の深淵まで描写できるからである。
          

こうした結果として、何よりもこの広い空の下で、私が愛読してきた未知のお方に投稿文、或いはコメント上で、
めぐり逢えたこと、秘かに感謝したりしている。

こうした中で私は2年前の秋の頃から、『随筆・エッセイ』系は取りやめて、
世代のよしみに甘えてシニア日記系『60歳代』に完全移行している。

やがて私は昨年の9月に古稀と称される70歳となり、シニア日記系『70歳代』に加入し、
今日に至っている。

このように私が、『にほんブログ村』の『シニア日記』に加入している理由は、
数多くのお方の確かな人生の教科書を学び、ときには私は励ましを受けたりしているからである。

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ときには私たち夫婦は、小庭の手入れに奮戦し、3馬力かしら、と微苦笑して・・。

2015-04-25 16:33:22 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市の片隅に住む年金生活の70歳の身であるが、
三日前の夕食の時に、私は家内に、
『土曜日に庭の樹・・剪定するよ・・』
と私は家内に言ったりした。

『そうねぇ・・早めに手入れをしないと・・私も手伝うから・・』
と家内は微笑みながら言ったりした。

我が家の敷地は変形5角形で、家屋を建つと、玄関庭と主庭となり、
原則として小庭の手入れは私の責務の範疇であるが、蚊(か)の出る5月下旬頃から10月頃までを除き、
体力の衰えた私を見かねて、ときおり家内の支援を受けることが多くなっている。

我が家の小庭の樹の剪定は、ご近所のお宅の殆どは植木屋さんに年に数回依頼しているが、
我が家は私たち夫婦が自己流で樹木の剪定しているのが、私が定年後、ここ11年目の実態となっている。
                           
                  
私が2004年(平成16年)の秋に定年退職した以前は、
5年ごとに植木屋さんに依頼するたびに、枝葉の処分料が多かった為か50万円前後を要してきたが、
この間は私がこっそりと植木屋さんの剪定した状況を物真似をして剪定してきた。

そして私が定年後まもなくして、ご近所より少し広い我が家は、
植木屋さんに年に数回依頼すれば、数10万円と教えられたりした。

こうした時、家内は3泊4日ぐらいの私たちの旅行ができるわ、と言い、
小庭の手入れは私の責務の範疇であったが、年に数回は家内の手助けを借りている。
                                          

今朝、私は起きだすと5時半であったが、居間に行くと、
すでに家内は庭の手入れ用のトレーナー姿にエプロンした容姿だったので、
『遅れをとった・・早く食べて庭に出るからねぇ』
と私は家内に言ったりした。

そして私は異例であるが煎茶を飲みながら、アンパンを二つばかり食べたりした。
こうした中で、地元の天気情報を視聴したりした。

朝の6時は14度、昼下がりは21度前後、夕方の6時は17度前後、
日中は快晴に恵まれ洗濯日和ですが、午後3時過ぎより所に寄り一時小雨となります、
このように報じられていた。


やがて私たち夫婦は6時半過ぎに、玄関庭に下り立った・・。

こうした時の私の容姿は、ストレッチパンズの長ズボン、着古したスポーツシャツ、
ウォーキング・シューズ、帽子、滑り止めの軍手をし、剪定鋏(ハサミ)を腰の周りにしている。

家内はトレーナー姿にエプロンした容姿でタオルを姉さん被(かぶ)り、
ウォーキング・シューズの万全な容姿で、滑り止めの軍手をしている。

そして私は昨年の初夏の頃に買い求めた切れ味抜群の鋸(のこぎり)を右手に持ちながら、
適度な台に乗り、枝葉を切り落としはじめた。

家内も剪定用の鋸(のこぎり)を右手に持ちながら、小枝を切り落としたり、
或いは剪定鋏(ハサミ)を使ったりしていた。

私たちは高齢者夫婦に該当するが、それぞれ奮戦すれば2馬力だよなぁ、
と私は心の中で呟(つぶや)いたりした。
       

私は何にかと暑さに苦手であるが、心地よい陽射しを受けながら、
ときおり吹く風は、そよかぜよりも薫風と感じながら、奮闘したしたりした・・。

やがて我が家の歩道に面した垣根のカイズカイブキ、アカネモチ、ツバキなどを剪定したりした。
              

私は若き40代の頃は、数多いの雑木は樹高10メートル前後にしていたが、
齢を重ねた60代の頃から、樹高3メートル前後ぐらいにしなければ、
手入れが困難になる、と家内の助言に基づいて、小ぶりに剪定したりしてきた。

この結果として、恥ずかしながら3年前から切り倒した数多くの太い枝を整理を怠(なま)けて、
主庭の一角に積み上げている。
          

こうした中で、我が家の樹木を半分ぐらい剪定を終えた後、
散乱している枝葉を市から指定されている『燃えるゴミ袋』のLLサイズ(45リットル入り、有料・10袋入り、840円)に、
袋に破れないように入れる為、枝葉を適度に剪定鋏(ハサミ)で切ったりした。

こうした中で樹の直径15センチ前後の枝も切り落としたので、
『燃えるゴミ袋』に入れる長さに切ったりした。
その後、散乱した枝葉を掃き清めたりした。
          

今回はお互いに体調が良くらしく、放置していた古い数多くの太い枝を整理を始めた。
樹の直径15センチ前後とか5センチ前後の枝が多く、
『燃えるゴミ袋』に入りやすいように、鋸(のこぎり)で切り落としたりした。

こうして10分ぐらい過ぎると、私はうっすらと汗が出る中、
たまには頑張らなくて、と鋸(のこぎり)を引いたりし、家内は『燃えるゴミ袋』に手際よく入れてくれた。

やがて一時間後、、『XXちゃんさぁ・・やめない?・・予定以上に出来たから・・』
と私の方から家内に提案したりした。


そして風呂を沸いた頃、家内に先に入ってもらい、
私は我が家と隣接したマンションの間にある2メートルの市道を掃き清めたりした。
立ち箒(ぼうき)で掃き、塵取りに入れて、やがて『燃えるゴミ袋』に入れたりした。

こうした中、ご近所の奥様が通り、
『ご苦労さまです・・おかげさまで綺麗な道を通ることが出来まして・・』
と私は言われて、麗しい奥様の為か、照れたりした。
          

やがて私は主庭に移動して、片隅にあるテラスに簡易椅子に座り、陽射しを受けながら煎茶を飲んだりした。
まもなく家内が居間から、小声で
『お風呂を上がったわ・・選手交代ょ』と私に言ったりした。

『了解致しました』
と私は若き自衛官に負けないように大声で応(こ)えた。

私は体力の衰えてきた中で、ハァ~ィ、と答えるのはボケてきたと思われるので、
たとえ夫婦間であっても、せめて返事ぐらいは清く正しくしている。

やがて私はお風呂場に向かう途中、市が指定された我が家の門扉の内側に、
『燃えるゴミ袋』のLLサイズが17袋あり、お互いに健闘したよなぁ、と私は微苦笑したりした。

そして人は一馬力として、ふたりで二馬力となるが、
家内の奮闘に私は鼓舞されて、私たち夫婦は三馬力だったかしら、と思いながらお風呂場に向かったのは、
昼の12時過ぎであった。

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風光る薫風の中、独り散策すれば、私たち夫婦は最良の日々かしら、と私は深めて・・。

2015-04-24 15:37:08 | ささやかな古稀からの思い
私は年金生活の70歳の身であるが、平素の買物専任者の私は、午前中のひととき、
家内から依頼された品を求めて帰宅した後、いつものように独りで散策に出かけた・・。

青空が広がり、ときおり風が吹く中を歩けば、心地良く、薫風だよなぁ、と心の中で呟(つぶや)いたりした。

そして周辺の数多くの樹木は、木の芽時(このめどき)から幼いあまたの葉を広げて、萌黄(もえぎ)色に染めら、
中には早くも若葉となる中、立ち止まりながら長らく見惚(みとれ)れたりした。
          

私は民間会社の中小業のある会社に35年近く奮戦し2004年(平成16年)の秋に定年退職し、
最後の5年半はリストラ烈風の中、あえなく出向となったりし、敗残者のようなサラリーマン時代を過ごした。

私は定年退職するまで人生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれながら、つたない言動も多く、
ときおり敗残者のように感じることも多く、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思い、定年した後、年金生活を始めた・・。
                
私は東京の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住み、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

そして我が家の周辺は住宅街の片隅に住みにあり、
最寄駅としては、京王線の場合は、『つつじが丘』、『仙川』の両駅は徒歩15分である。

或いは小田急線の場合は、『喜多見』、『狛江』の両駅は徒歩20分となり、
そして私が長年通勤で利用した『成城学園前』駅は徒歩30分となっているが、
何かしら京王線と小田急線にサンドイッチされたかのような辺鄙(へんぴ)な地域に住んでいる。

いずれの最寄駅までの路線バスの利便性は良い所で、たとえば都心の新宿のデパートに買物に行っても、
電車を利用すれば、我が家よりデパートの店内に45分ぐらい、
或いは東京駅でも我が家から一時間前後となっている。
          

2004年(平成16年)の秋、年金生活の当初から、私は平素の買物を自主的に専任者となり、
独りで殆ど毎日のように家内から依頼された品を求めて、
最寄のスーパーに買物に行ったり、或いは駅前までの片道徒歩20分ぐらいのスーパー、専門店に行ったりしているが、
根がケチなせいか利便性のよい路線バスに乗るのことなく、歩いて往還している。

その後、自宅から数キロ以内の遊歩道、小公園などをひたすら歩き廻ったりして、季節の移ろいを享受している。
                           
こうした私の根底には、定年前のサラリーマン時代の私は、数多くの人たちと同様に多忙で、
家内は我が家の専守防衛長官のような専業主婦であり、日常の洗濯、買い物、料理、掃除などで、
家内なりの日常ペースがあり、この合間に趣味などのささやかな時間で過ごしてきた。
          

そして定年後の年金生活を始めた私としては、このペースを崩したくなく、
平素の買物専任者を自主宣言したりした。

私は年金生活の中で、日中の大半を随筆、ノンフィクション、現代史、総合月刊雑誌などの読書、
ときおり20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
或いは音楽も聴いたりする時間を確保したく、積極的に買物メール老ボーイとなった。

こうした中で、家内は料理、掃除、洗濯などを従来通りしてくれるので、
せめて家内が煎茶、コーヒーを飲みたい時を、私は素早く察知して、日に6回ぐらい茶坊主の真似事もしている。

そして私は家内が外出する時は、殆どボディガード兼お供となり、
最寄のホームセンター、スーパーなどに買物に行く時、荷物持ちの責務を果たしている。
          

或いは私がときおり小庭の手入れをする時、年に4回ぐらい家内が手助けをしてくれる。

こうした私たち夫婦の年金生活を、ご近所の方の奥様たちが見かけて、
あなたたちは仲良し恋しねぇ、と社交辞令のお世辞を頂くこともある。

しかしながら日常生活の実情は、私は家内のことを、婚約する前の頃から、『XXちゃん・・』と呼んでいるが
家内は日頃の多くは、私のことを『あなた・・』と呼ぶことが多いが、
ときには、たわむれで、『XXクン・・』と苗字で呼ぶこともある。

しかしながら2004年(平成16年)の秋、年金生活を始めてまもない頃、
私は家内から依頼された買物の購入品などで間違えたりすると、
『ボケチィンねぇ』
と家内は笑いながら、私に言ったりした。

この日以降、私が何かで日常生活で失敗した時、
『ボケチィンねぇ・・』とか、ある時は『ダメオ(駄目夫)クンねぇ・・』
と家内は微苦笑しながら、私に言ったりしている。
          

こうした中で、私たち夫婦の共通趣味のひとつは国内旅行であり、幾たびか各地を旅路を重ねてきた。


私は70歳の身であり、私より5歳若い家内も、お互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。

私たち夫婦は年金生活を過ごして、早や11年目になっているが、
幸いにもお互いに大病に遭遇せず、過ごしてきた。

もとより健康でなければ、自身の日頃のささやかな願いも叶わないことが多く、
私たち夫婦は38年寝食を共にしてきた結婚生活の中で、幾重かの人生の荒波を乗り越えて、
ここ10年は安楽の日々を過ごしてきた。

世の中は少年時期から青年時期を過ごした後、やがてボクの青春時代はあの時期だった、
と後年になって走馬灯ように思い馳せたりすることがある。
このようなこともあるので、今こうして過ごしている私たち夫婦は最良の日々かしら、と私は感じたりしている。

これからの日々は、体力の衰えを増すことを実感しながら、
やがていつの日にか、どちらかが不運にも大病になったり、最悪の場合は死別して、おひとりさまとなったりする。

こうしたことは自助努力も必要であるが、こればかりは天上の神々の采配に寄る。
          

このように思案している私は、こうして過ごしている昨今こそが、
いつまで続くか解らないが、私たち夫婦にとっては最良の日々、と私は感じ深めている。


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ブログの投稿文、定年後の年金生活の中、毎日書き続けて早や11年生・・。

2015-04-23 15:27:47 | ささやかな古稀からの思い
私は年金生活の70歳の身であるが、今朝の8時半過ぎに自宅を出て、
近くの内科の病院に向かった・・。

過ぎし2010年(平成22年)の秋に、私は健康診断の結果、糖尿病と診断され、
そして内科の医師の指導、家内の野菜を多くした料理、そして私はウォーキングをほぼ毎日したりした。

やがて翌年の2011年(平成23年)の3月の初旬、
最寄の内科に4週間毎に定期健診を受けて、糖尿病の範囲の対象から克服でき、
悪玉コレステロールは基準値の90%、これ以外はすべて優等生となった。

この後は、4週間毎に定期健診を受けるたびに隣接した薬局で、血糖値を下げる薬を頂き、
日々朝食後に飲んでいるが、これ以外は至って健康だ、と思ったりしている。
        
もとより健康でなければ、自身の日頃のささやかな願いも叶わない。
私自身の糖尿病の再発防止もさることながら、何よりも怖いのは認知症である。

こうした根底があり、自宅の周辺3キロぐらいの中の住宅街の道、遊歩道、小公園などを
ひたすら歩いたりする中で、 季節のうつろいを享受している。
          

内科の病院の帰路、野川の遊歩道を歩いたりしたが、川辺の近くには
黄色い花の菜の花、そして淡き紫色のハマダイコンの花が仲良し恋しのように連れ添い、
長く帯のように咲いている。

そして静寂の中、川面は陽射しを受けて煌(きら)めいていた・・。

やがて橋から、先ほど歩いてきた情景を見て、
こうしてのんびりと過ごせるは、定年後の年金生活の中で、何より特権かしら、と私は微笑んだりした・・。
          

私は2004年(平成16年)の秋、ある民間会社に35年近く勤めて定年退職後、
多々の理由で年金生活を始めた。

そして私は東京の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住み、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

日常は定年後から自主的に平素の買物担当となり、
毎日のようにスーパー、専門店に行ったりし、ときおり本屋に寄ったりしている。
その後は、自宅の周辺にある遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受している。

ときおり、庭の手入れをしたり、友人と居酒屋など逢ったり、
家内との共通趣味の国内旅行をしたりしている。

日常の大半は、随筆、ノンフィクション、小説、近代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

このような年金生活を過ごしているが、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。
          

私は定年後、まもなく偶然にブログの世界を知った・・。

そして2004年(平成16年)11月12日にある大手のブログサービスに加入した後、
2つばかりのブログサービスに彷徨(さまよ)った後、
この【gooブログ】に翌年の2005年(平成17年)1月19日に加入した。

しかしながら、この後に他のブログサービスに加入して熱中して、2度ばかり【gooブログ】を中断したが、
2008年(平成20年)の5月以来は継続し、今日に至っている。    
        

このような軌跡で、ブログの世界を知って丸10年が過ぎて、早や11年生に進級した。
結果としては、パソコンの故障、国内旅行などしない限り、日に少なくとも一通は投稿してきた。
                 
               

こうした私の根底には、私の幼少時代から年金生活している現在までの生きてきた心の軌跡を発露して、
自己表現のひとつとして、心の証(あかし)の残したいからであった。

そして年金生活を過ごしている今、日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。
         

私の投稿文の殆どの内容は、幼年期からサラリーマン退職時まで、そして年金生活の日々の心情は、
脚色もないありのままの思い、真情を投稿文に認(したた)めたく、あますことのないように綴ってきた。

私は綴る際は、自身のその時の心に素直に綴るようにし、
あとで振り返った時、あの時はこのような思いで過ごしていたのか、
何より自身に対して、その時の思いの心情が大切にしているひとりである。
       
従って、数多くの駄文を綴ってきたが、ひとえに自身の為の心の軌跡の発露、と言っても差し支えない。    
                                                
                   
私はブログを投稿する際、最後までお読み頂けるように工夫したり、
その上に数多くの方にお読み頂けるように、文才に乏しく試行錯誤をしたりしているが、
日本だけでもブログをされている方は、数千万人と風の噂で聞いたりしていた。

そして私の加入している【gooブログ】のサイトでも、
2008年(平成20年)の当時は、確か加入数150万人ぐらいで、
この当時の私は写真を添付する技量もなく、ひたすら散文らしき文を綴り投稿文としていた。

そして私のサイトは訪問者数は長らく日々300人前後が多く、
【gooブログ】の総加入数の中に於いては、
多くある広大な砂糖黍(さとうきび)畑の中で、たった一本の砂糖黍(さとうきび)のような存在であった。
          

このように私は、やがて埋もれてしまい、誰からも読まれなく無視されることが想像され、
つたない私でも、余りにも悲しきことで愕然とするので、ひとつの対策をした。
          

こうした思いからひとつの方法として、
やはりブログのランキングに加入して、程ほどに上位にランキングされれば、
少しでも多くの方に読んで頂けると、つたない投稿文ながら自己顕示欲が増して、加入することとした。
                    

そしてブログのランキングのサイトも幾つか彷徨(さまよ)うように加入したが、
『人気ブログランキング』の『随筆・エッセイ』に加入し、今日に至っている。

その後、2010年〈平成22年〉の秋に、やはりブログのランキングの『にほんブログ村』に再加入した。

私は2008年〈平成20年〉の頃に『にほんブログ村』に漠然と加入し、
何かしら他のブログのランキングに魅了され放置していたが、
投稿文ごとの具体的なランキングに気付かされて、私の投稿文毎にどのくらい読んで頂いたか、
と目安ができるので、ふたたび本加入させて頂いた。

そして現在は、『人気ブログランキング』に於いては、『随筆・エッセイ』に所属し、
『にほんブログ村』に関しては、加入時は『随筆・エッセイ』系に重点していたが、
2年の秋の頃から、世代のよしみに甘えてシニア日記系『60歳代』に移行している。

やがて私は昨年の9月に古稀と称される70歳となり、シニア日記系『70歳代』に加入している。
           
                

こうした中で、私は投稿文の時に、多くの方に読んで頂きたい自己顕示欲もあり、
投稿文の中では、改行を多くし読みやすいようにしている。

或いは2年半前の頃から、何とか写真を添付することが出来たので、
乏しい筆力を補(おぎ)いながら、カット代わりに写真を掲載したりしている。

そして私の投稿文の最初の一行に於いては、殆ど私の住んでいる地域を明記している。
このことは私が投稿文の中で、散策、買い物したりする場合、日本のどの地域なのか、
初めて読んで下さる方に理解して頂く為である。

こうしたささやかな思いで、つたない投稿文を繰り返して、早くもブログは11年生となっている。
          
私はブログを投稿する際、ひとつのテーマを決めて、真摯に、ときには楽しく綴ることもあるが、
恥ずかしながら筆力が乏しいながら、最後までお読み頂けるように試行錯誤をしたりしている。

しかしながら私の投稿文の内容は、あふれた思いを伝わるように熱意ばかりで、
一気呵成に書き上げてしまい、ときには長き投稿文になったり、
投稿文を送信した後、読み返したする時、つたない綴りが多いので反省することが多い。
                                                          
こうした中で、セカンドライフを過ごされる数多くの諸兄諸姉のブログの投稿文を読ませて頂いたりした。

私が定年退職する数年前の頃には、世界一の長寿国で、日本の平均寿命は男性が78歳、女性は85歳、
と厚生労働省から公表されたりしてきた。

こうした中で60歳でリタイアしてから80歳まで生きるとして20年間の歳月があり、
この間に本人が好きなことに使える自由時間は、約7万から8万時間といわれたりしてきた。

こうしたことは学校を出て就職してから定年退職するまでの総労働時間に相当し、
このあり余る自由時間を有意義に使えるかどうかは、まさに本人の心構え、実行力と、
有識者が発言されたりしてきた。

私はセカンドライフを過ごされる数多くの諸兄諸姉のブログの投稿文を読ませ頂く中で、
このように日常はお過ごしされている、このような思いを秘めている・・
多々教示させられ、ときには私が励まされるようなこともあったりしている。
          

私はブログを書き始めて、丸10年が過ぎて、早や11年生であるが、
何よりもこの広い空の下で、未知のお方に投稿文、或いはコメント上で、
めぐり逢えたこと、秘かに感謝したりしている。

そして偏(ひとえ)に数多くの皆様にささえられて、私が投稿文を継続できていることも確かな事であり、
その上に、数多くのお方の確かな人生の教科書を学び、改めて感謝している。

余談であるが、私が70歳を過ぎてまもなく、私のブログの訪問者数が激少してしまい、
私が少しボケて感性が衰えたのか、70代でブログを投稿される方が少ないのか、
不明であり、ときおり苦笑したりしている。

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好奇心をなくしたら、私の生きがいはない、と思いながら早や60数年が過ぎて・・。

2015-04-22 14:51:19 | ささやかな古稀からの思い
私は年金生活の70歳の身であるが、平素の買物専任者の私は、いつものように午前中のひととき、
家内から依頼された品を求めて、スーパーに向う途中、少し遠回りをした・・。

この時節は私の好きな花木のひとつ花水木(ハナミズキ)が満開になったかしら、
と気になり、足早に向かったりした・・。

確か8年前の頃に、偶然に花水木(ハナミズキ)が咲いていた所に、私は魅せられて、
愛(め)でてきた所であった。
          

私は花水木(ハナミズキ)の花に、長らく見惚(みと)れながら、今年も逢えたねぇ、と心の中で呟(つぶや)いたりした・・。
          

そして再び歩きだすと、車路と歩道の境界線にも、花水木(ハナミズキ)の花が咲いて、
私は微笑んだりした。
          

やがて歩きだしながら、私は幼年期から好奇心が旺盛だったなぁ、と独り微苦笑をしたりした。


私は農家の三男坊として生を受けたのは、1944年(昭和19年)の秋であり、
私が地元の小学校に入学した1951年〈昭和26年〉の春の当時は、
祖父と父が中心となり、小作人だった人たちの手を借りながら、程々に広い田畑を耕したりしていた。
そして宅地の周辺に竹林、雑木林を維持管理していた。

こうした中で、田んぼの中には小川に流れたり、ある処には湧水(わきみず)があったり、
この近くに150坪ぐらいの半反程度の広さの蓮(ハス)専用の水田があった。
          
幼年期の私は、何かと湧水(わきみず)に魅せられて、
夏も冬も変ることコンコンと湧き出る水を不思議に思ったりしていた。
そしてこの湧水(わきみず)は、田んぼの中央に流れる小川に流れていった。

初夏になると湧水(わきみず)の周辺は、夏のお盆に使う朱紅色したミソハギの花が咲いたりしていた。
          
            ☆昨年の7月23日に近くの『水生植物園』で撮った☆

私は湧き水を観るのが好きで、春の季節であっても、冬の時節に於いても
コンコンと湧き出る水を、どうしていつまでも湧いてくる、と不思議そうに眺め、飽きることがなかった。

後年、私が結婚した後、家内と湧き水を観に旅行をしたりした。
富士山の伏流水が湧き出る三島郊外の柿田川、或いは忍野八海の湧き水を観に行ったりした。

或いは伊豆地方の湯島に宿泊した時、湯ヶ島にある山葵(わさび)が植えられている処があり、
杉木立の斜面の外れに湧き水があった。
小さな湧き水が四箇所あり、コンコンと湧き出て、やがて小川となっていた。


蓮(ハス)専用の水田に関しては、7月の下旬の頃になれば、蓮の花は莟(つぼみ)となり、
やがて8月の初めに私の住む地域はお盆を迎えるので、祖父か父が6本前後採ってきた・・。

そして私は祖父に懇願して、大きな葉をひとつ貰ったりした。
私はこの大きな葉に水を少し入れると、水玉になり、陽射しを受けると、
キラキラと水玉が輝きを帯びたりするので、幼児なりに魅了されて独り楽しんでいた・・。

そして泥だらけの中で、どうしてあんなに綺麗な白い花が咲くの、と子供心に不思議に思ったりした。
          
            ☆昨年の7月23日に近くの『神代植物園』で撮った☆
          

こうした中、父や母にコンコンと湧く湧水(わきみず)とか、
泥だらけの中で育ち、綺麗な白い花が咲く蓮(ハス)の花に、どうしてなの、と困らせたりした。


やがて高校生の時に、世界史を学んだりすると、
ローマ帝国とかモンゴル帝国の歴史上稀に見る広大な地を占領できたこと、
そして滅亡してしまったことなど、どうしてなの、と私は長らく思考したりした。

或いは後年、日本は第二次世界大戦で敗戦後、
国際連合軍の占領下で、日本は大きく変貌させられた事態を、
私なりに、どのような変わり果てたか、今でも課題となっている。


私たち夫婦は国内旅行が好きで、幾たびか各地に旅を重ねたりしてきた・・。
そして観光ホテルなどで滞在して、周辺の里山の道、街はずれ、街中を歩くことが多い。

未知の景観を学びたく歩き廻ったりしているが、予期した以上の風景にめぐり会えることが多く、
百聞は一見に如(し)かず、だよねぇ、と私は家内に言ったりしてきた。
          

私は齢ばかり重ねた身であるが、何かと幼年期からは、
好奇心をなくしたら、私の生きがいはない、と思いながら早や60数年が過ぎている。


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人生の晩年期は、何よりも『生きがい』と『気力』が肝要、と70歳の私は思い深めて・・。

2015-04-21 14:40:02 | ささやかな古稀からの思い
平素の買物専任者の私は、いつものように午前中のひととき、
家内から依頼された品を求めて、スーパーに向かった・・。

どんよりと曇り空で、曇り時々小雨と天気情報は報じられていたので、足早に向かっている中で、
後期高齢者と思われる女性が、小さなバックを背負って、杖(つえ)を突きながら、ゆっくりと歩かれていた。

私はお歳を召した後期高齢者はお方は、日常の買物さえも大変だなぁ、と思ったりした。
          

私の家内の母も、少し遠い地で独り住まいして、私より14歳齢上で84歳であるが、
3年前に膝(ひざ)を悪化して、日常は杖(つえ)を突きながら生活し、病院に通院したりしている。

こうした中で、家内の母は自身の身の周りは出来ても、
大掃除、季節ごとの室内のカーテン、布団、暖冷房器具、衣服、庭の手入れなどは、おぼつかなくなり、
長女の家内は季節の変わるたびに、7泊8日前後で年に4回ぐらい母宅に泊りがけで行っている。

或いは平素の日常は、家内は毎晩、家内の母の思い、ふるまいなどの安否を確認をする為に、
電話で30分くらい話し合ったりしている。

家内の母は80歳前は、スーパーでご自身の食べたい品を買い求めていた中で、
重いと思われるお醤油、洗剤などは我が家から送付したりしてきた。

しかしながらここ10年スーパーなどでネット販売で配達して頂く方法は、
齢を重ねた身であるので、携帯電話、パソコンも使えない身となっている。

このような関係で、家内の母の日常の食物、調味料、洗剤などは、我が家から宅配便で送付したりしている。
           

私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭に築後35年を迎えた古ぼけた一軒屋に住み、
お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

私より5歳若い家内も、お互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。

こうした中で、定年後は多々の理由で年金生活を始めて、早や10年過ぎたが、
やはり『健康』、『生きがい』、そして程ほどの『お金』と深めて、
私たち夫婦はささやかな願いを叶えたりしてきた・・。

もとより健康でなければ、ささやかな願いも叶わないので、私たち夫婦は幸いに大病せずに、
今日に至っている。


過ぎし私の現役のサラリーマンの50代に同僚が病死されたり、
知人は定年前の59歳で病死し、残されたご家族の心痛な思いが、痛いほど理解させられたりしてきた。

或いは定年後の62歳で、現役時代の一時時期に交遊した友も、無念ながら病死したりした。
       
何よりも思いがけないことは、知人のひとりの奥様が病死されて、
この知人は『おひとりさま』となり、私たちの多くは哀悼をしながらも、動顛してしまった。

こうした根底には、私たち世代の周囲の男性の多くは、60代で妻が夫より先に亡くなることは、
考えたこともなく、こうしたことがあるんだぁ、とこの人生の怜悧な遭遇に深く学んだりした。
                 

そして2年前に、私が会社時代の懇親会などに列席すれば、
早くも60代で亡くなった方を知ったり、先輩の75歳前後にお逢いし、体力の衰えが明確となりヨボヨボした方に、
私は唖然として、70代のなかばになると、あのような容姿になるのか、と悲嘆したりした。

数多くの専門家の人から、やがて70代となれば、多く方は体力の衰えを実感して、
75歳まではこれまでどおりの自立した生活ができるが、
80歳が見えてくる頃には介護を必要とするようになり、
やがて80代後半では何らかの介護付き施設に入居する可能性が高くなる、と発言されている。

しかしながら一部の75歳前後の方たちは、心身溌剌とし、私は勇気づけられたりしてきた。

このように学んできた私は、これからの70代の日々の年金生活は、どのように過ごせるか、
と思案したりしてきた。
          
人それぞれの『生きがい』を持ち続けて、今日は明日はこれだけは実行しょうと『気力』があれば、
たとえ病(やまい)に遭遇して介護付き施設に入居しても、
晩年期は、その人なりに充実した人生になる、と思い深めたりしている。


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60代の年金生活を卒業した私、今でも身も心も、安らぎを感じる処は・・。

2015-04-20 15:52:07 | ささやかな古稀からの思い
この一週間の午前中のひとときは、いつもように平素の買物専任者の私は、
家内から依頼された品を求めて、独りで最寄のスーパー、或いは駅前のスーパー、専門店に行った後、
野川の遊歩道を散策することが多かった。

私の住む所は、東京の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅の処でありながら、
住宅街で家並みが密集しているが、
自宅の近くに野川が流れ、この両岸に遊歩道がある。

そして私は何かしら解放感を感じて、この野川の上流に向かったり、ときには下流に向かったりし、
こよなく散策しているコースのひとつとなっている。
          
          
この野川は川べりに小道があり、そして少し高い処の両岸には遊歩道がある。
                                 
私は散策と買物の時は、この時節は制服のようになっている服装として、
スリー・シーズンのストレッチパンズの長ズボン、長袖のスポーツシャツ、ウォーキング・シューズとなり、
紳士用の小物入れのA4サイズのショルダー式バックを斜め掛けをしている。

そして時折コンバクト・デジカメを首回りからネクタイのように下げて、颯爽と歩くことが多くなっている。

こうした中で、情景に瞬時に魅せられた時、立ち止まりデジカメで、
記念写真ねぇ、と心の中で呟(つぶや)きながら、記憶のかたみとして撮ったりしている。

この地帯は、桜並木となっていて、過ぎ去り日の3月下旬に染井吉野(ソメイヨシノ)の桜が咲き始め、
その後に山桜(ヤマザクラ)、 最後に4月中旬に八重桜(ヤエザクラ)が咲き、
私も桜花に心を寄せて愛(め)でて、ここ10数年も歩いてきた路である。

こうした中、今年も八重桜(ヤエザクラ)にめぐり逢えたねぇ、と思いながら撮ったりした。
          

やがて再び歩き出すと、川辺に黄色い花の菜の花、そして淡き紫色のハマダイコンの花が見えて、
少し高い遊歩道を歩いていても、香(かぐわ)しい芳香が漂(ただよ)ってくるので、私は微笑んだりした。

そして私は遊歩道から川辺の近くに下り立った。

この一カ月近く、この野川の川辺に長く帯のように菜の花、そしてハマダイコンの花が、
仲良し恋しのように咲き、私は見惚(みと)れてきた野花のひとつであったが、
まもなくお別れだよねぇ、来年もお逢いしたいょ、と思いを強めたりした。
          

やがて橋に戻り、四季折々こよなく見惚(みと)れてきた情景に長らく立ちすぐんだりした。
          

私は過ぎし東京オリンピックが開催された1964年(昭和39年)の秋、私は大学を中退し、
映画・文学青年の真似事をしていたが、やがてはかなくも敗退した。

そして止(や)むえず何とかして民間会社に中途入社したい為に、
苦手な理工系のコンピュータの専門学校のソフト科に1年間ばかり学んだりした。

やがて1970年(昭和45年)4月、この当時は音響・映像メーカーの大手のある民間会社に、
知人のご尽力もあり、何とか中途入社が出来たのは、25歳の時だった。

まもなく創立された外資系のレコード会社に移籍させられ、
音楽に直接に携わる制作畑でなく、商品、情報、経理、営業を配属され、
2004年〈平成16年〉の秋に定年退職した身である。
         


こうした中で、勤務地の多くは都心の赤坂見附、六本木、そして渋谷と30年近く本社で奮戦したが、
最後の5年半はリストラ烈風の中、あえなく出向となり、遠い本厚木の外れにある音楽商品を扱う物流センターに勤めて、
やがて定年退職時を迎え、サラリーマンを卒業した。

このように私のつたないサラリーマン時代であるが、
高校時代から何かと都心の新宿、銀座、日比谷、原宿も含めて彷徨してきた・・。

特に六本木の本社勤務は、1971年(昭和46年)の春から1992年(平成4年)春まで、
20年ばかり変貌する空気の中で過ごしてきたが、50歳の頃から、都心には疲れを感じてきた・・。


やがて2004年〈平成16年〉の秋に定年退職後、
多々の理由で年金生活を始めて、今や年金生活11年生となっている。
           
         
こうした中で私は、都心には避けるようになっている。

しかしながら、家内と共にデパートに買物する時は新宿に行ったり、
冠婚葬祭、懇親会などは新宿、六本木、青山、品川など、
或いは国内旅行で東京駅、羽田空港も利用してきたが、何かと苦手となっている。

確か数10年前の頃までは、イギリスの都心のロンドンで勤めた人の中には、
第二の人生は地方に住み、のんびり農家の真似事をする方とか、
渓流釣りなどに熱中する方とか、私は映画とか書物から教えられてきた。

私は地方の農地、家も買い求める資金力もないし、農作物を育てるノウハウもなく
何よりも年金生活の中で、のんびりと散策しながら、常時樹そして落葉樹の四季折々うつろう情景に、
圧倒的に魅せられている。
          

私は住宅街の片隅に住み、ご近所より少し広めの雑木の多い小庭に築後36年を迎えた古ぼけた一軒屋に住み、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

こうした中、小庭にある落葉樹の四季折々うつろう情景に、居間から眺めたり、
或いは私は小庭に降り立ち、樹木の繁った下で、ぼんやりと過ごす時もある。
このような時、私は身も心も、安らぎを感じている。

そしてときおり小庭の樹木の剪定をしたり、草むしりもしたりしている。
          

私は地方の雑木林の中で、老後は住むことが夢のひとつであったが、
我が家の近くにはスーパー、コンビニ、本屋、病院もあり、体力の衰えた今は、利便性に降参してしまい、
今の地に住んでいる。

そして付近にある公園、小公園、遊歩道などを歩き、
人が余りにも多い都心よりも、圧倒的に安らぎを感じて、歩いたりしている。
          

こうした所を歩くと、私は幼年期まで農家の児として育てられたので、
70歳の今でも、身も心も、安らぎを感じている処である。


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たかが創作家されど創作家、若き日に小説家にあこがれて敗退した私は、敬意を重ね・・。

2015-04-19 15:04:41 | ささやかな古稀からの思い
私は午前中のひととき、私の机の横にある箱を整理した。
この箱はA4サイズで書類など入れる整理箱で、
私は新聞、雑誌で気になった記事とか感銘させられた記事を切り抜いて保管している。

たまたま今回も開けて、不要と思われる記事を整理している中で、
ひとつの古い新聞の切り抜いた記事に目が留まり、読んでしまった・・。

この記事は購読している読売新聞の2012年(平成24年)9月12日の朝刊で、
【文化】面において、恒例の『本よみうり堂』の中のひとつに、
『文庫新書』のコーナーがあり、最近に発刊された文庫本、新書本の何冊か紹介している記事がある。

この中のひとつ本が紹介された中で、
【『あらゆる小説は模倣である。』 清水良典著 】と題された記事を切り抜いていた。

《・・村上春樹がデビュー作の翻訳を許可しないのはなぜか。
英語にしてしまうとある米作家の作品を踏襲していることがわかってしまうからだとと著作者は推測する。
ほかにも寺山修司、芥川龍之介などの事例を元に「模倣」と「盗作」の境界線を提示し、
作家志望者に対して「巧みに模倣する」ことを勧める。・・》
              
このように記載され、再読しながら私は若き日に映画・文学青年の真似事をして敗退した身であった為か、
思わず苦笑させられてしまったのである。
                    

人は誰しも、若き日のひととき、小説、随筆などを読み、読書に魅せられ、
やがて一部の人が、ある作家たちの作品に魅了され、多くの作品に感銘さえ感じることだろう。
或いは世界、日本文學全集などで読む中で、圧倒的に魅せられる作家を見いだし、
単行本、文庫本、文藝雑誌を読んだりすると思われる。

こうした中で、一部の人は、このくらいの作品であったならば、
私だって書けると錯覚して、習作されると思ったりするが、
もとより読者と創作する作者とは、天と地以上に差異があることに気付かされたりする。

或いは魅了されている作家の作風、文体を真似ていたことに気付き、
創作者には到底なれないと自覚させられ、創作者にあこがれるが、断念する人が多い。

こうした中で、この作品を書き上げなければ、一歩先に進めない、と自覚する方で、
独自な作風、文体を確立しそうな方だけが、作家の第一歩に相応しい、と感じている。

従って、どのような分野の作家も、魅了された先人の創作者の模倣から始まり、
やがて独自な作風、文体を確立できなければ、職業作家としては失格となる。

こうしたことは小説の世界にとどまらず、映画の作品も同様である。
ある作品を観れば、先人の創られた作品に影響され、あるシーンを巧みに模倣している、
と気付いたりすることもある。
或いは音楽の世界でも、メロディーラインも同様なことが発生し、多くの方も気付いていると思われる。


私は定年後の年金生活10年を過ぎている中で、読書は好きであるが、
小説を読むことは激減して、随筆、ノンフェクション、近現代史を読むことが圧倒的に多い、
と微苦笑したりした。
                              

私は1955年(昭和30年)の小学4年生の頃から、独りで映画館に通ったりした映画少年であったが、
都心の高校に入学した直後から、遅ればせながら読書の魅力に取りつかれたりした。

新潮文庫本、岩波文庫本を中核に読み、ときおり単行本を購読したのであるが、
創作者より、文字から伝えられる伝達力、創造力が
それぞれ読む時、感受性、知性、想像力により多少の差異があるが、
心の深淵まで綴られた文章はもとより、この行間から感じられる圧倒的な魔力に引きづり込まれた。

たまたま小説に熱中していた私は、ある小説家の作品を読んでいたら、
このくらいの作品だったら、僕だって書けそうだ、
と自惚(うぬ)れながら、高校一年の夏休みに50枚ぐらいの原稿用紙に、 初めて習作した。

そして 私は写真部に所属していたが、まもなく文芸部の先輩に見てもらったりした。
やがて一週間が過ぎた頃、川端康成(かわばた・やすなり)さんの影響を感じられるが、何よりも青年の心情が感傷過ぎている、
と苦笑されたりした。

こうした高校生活を過ごしたりし、映画は相変わらず映画館に通い鑑賞し、
映画専門誌の『キネマ旬報』などを精読し、付随しているシナリオを読んだりしていた。

こうした中で、脚本家の橋本忍(はしもと・しのぶ)さんの『切腹』(監督・小林正樹、1962年)を観て、
圧倒的に感銘させられ、やがて大学2年の時に、映画の脚本家になりたくて、中退した。
          

そして専門の養成所に学び、この養成所から斡旋して下さるアルバイトをしたりして、
映画青年の真似事をし、シナリオの習作をした。

その後、養成所の講師の知人の新劇の長老からアドバイスを頂き、
映画で生活をするは大変だし、まして脚本で飯(めし)を食べていくは困難だょ、
同じ創作するなら、小説を書きなさい、
このような意味合いのアドバイスを頂いたりした。

この当時の私は中央公論社から確か『日本の文学』と命名された80巻ぐらいの文学全集を読んでいたが
その後に講談社から出版された『われらの文学』と名づけられた全22巻の文学全集を精読したりした。
こうした中で、純文学の月刊誌の『新潮』、『文學界』、『群像』を愛読していた。

やがて私は契約社員の警備員などをしながら生活費の確保と空き時間を活用して、
文学青年のような真似事をして、この間、純文学の新人賞にめざして、習作していた。

しかし大学時代の同期の多くは、大学を卒業して、社会人として羽ばたいて活躍を始めているらしく、
世の中をまぶしくも感じながら、もとより私の方からは連絡も避けていた。

そして私はこの世から取り残されている、と思いながら、
明日の見えない生活をしながら、苦悶したりしていた。

そして純文学の新人賞に投稿していたが、三回ばかり最終候補6作品の寸前で敗退し、
落胆していた時、親戚の叔父さんから、
今は良いが、30歳を過ぎた時、妻子を養って家庭を持てるの、 と私は諭(さと)されて、
確固たる根拠もなく独創性があると自信ばかり強い私は、あえなく挫折した。
          

その後、やむなくサラリーマンに転職する為に、コンピュータの専門学校で一年ばかり学び、
何とか大手の民間会社に中途入社して、まもなくレコード会社が新設され、
私も移籍の辞令を受けて、中小業の多い音楽業界のあるレコード会社に35年近く勤め、
定年退職を迎えたのは2004年(平成16年)の晩秋であった。


私は40代の少し前、あるレコード会社で社内のシステム開発で奮戦していた時、
若き日に映画・文学青年の真似事をして、創作家にあこがれを持ち、
小説家になりたい、と念願していたことが、いかに甘かったか、と遅ればせながら気づかされたのである・・。

こうした心情の奥底の思いは、私と似たような作家志望の人たちに対して、
後年に長年に出版社の光文社でご活躍された山田順(やまだ・じゅん)氏が、的言している。

氏の長年の編集者の体験をした発露のひとつ、
《・・私の経験から言うと、作家志望者のほとんどが実際には印税や名声を望んでいるだけである。
彼らが作品を書くのは、それを得るための手段に過ぎない。
ほとんどの作家志望者は、社会に伝えたい明確なメッセージや思想を持っていないし、
それを裏付ける経験もない。・・》
このように明言され、今後も創作者をめざす人には、貴重な哲学のような銘言と私は感じたりした。
          

そして小説家をめざす数多くの人は、文学部で学び基礎を習得し、その中のほんの一部の方が、
純文学の『新潮』、『文學界』、『群像』などの雑誌で掲載される機会があり、
こうした方たちでも、果たして筆一本で妻子を養っていける方が少ない、と学んだりした。

若き日に私が、たとえ純文学の新人賞を得ても、
その後の作品を書き上げて、掲載される保証もなく、才能も乏しく、
やむえず生活の為に、この世に多い教養講座の文藝講師などにありつければよい方だろう・・。

そして、たえず生活費に追われながら、文學の夢を捨てきれない時期を過ごしていただろう、
と深く思ったりした。
          

このように私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
せめて残された定年退職後の人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思ったりしているひとりである。

私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

日常は定年後から自主的に平素の買物担当となり、
毎日のようにスーパー、専門店に行ったりし、ときおり本屋に寄ったりしている。
その後は、自宅の周辺にある遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受している。

ときおり、庭の手入れをしたり、友人と居酒屋など逢ったり、
家内との共通趣味の国内旅行をしたりしている。

日常の大半は、随筆、ノンフィクション、小説、近代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

このような年金生活を過ごしているが、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。
          

ここ10数年の出版業界の不況を読書好きな私は憂いたりしている。

作家・瀬戸内寂聴さんが確か2009年(平成21年)10月で読売新聞社・主催の講演会で、
発言されたことを思い重ねている。

《・・私を見習って、もしもみなさんの中に小説を書こうと思っていらっしゃる方がいれば、
お勧めしかねますね。
非常に険しい道でございます。
そして人が認めようが認めまいが、芸術というのはその人に才能がなければ意味がないんですね。

一に才能、二に才能、三に才能なんです。
あとは運ですよ。
努力なんてしなくても才能があればモノになる。
これは芸術だけでございます。

作品がどれだけ読まれるか、残るかというところで勝負がつきます。
だいたい流行作家のよく売れてる本というのは死んだら3年と持ちませんよ。

わたしの先輩の円地文子さんが、女流作家では最高のところにいらっしゃった方で、源氏物語も訳した方なんです。
その方が顔を見るたびに言ってらっしゃったんです。
「作家なんて生きている間だけよ、生きている間に稼ぎなさい」と。

私もその教えが身にしみていますから、本当に死ねば誰も読んでくれなくなるんですよ。
・・
文学というものは量ではなく質です。
私がなかなか文学賞をもらえないように、これも量ではなく質の問題で、
いくら量を書いても意味がないんですね。
          

しかしその中でも人は認めないけれども、私がよしとするものもあるんです。
それがないと作家なんてやってられませんからね。
小説家で通す、書くことだけで生活する、というのは、やはりとても難しいことです。

私は長く生きて、長くこの世界におりますけれど、今また最低の時代がやってきました。
本屋に行くと山ほど本がありますよ。
読みきれないほど新刊本が並んでおります。
その中でどれだけ残るかわからない。
目まぐるしく人の嗜好(しこう)が変わっておりますからどんどん読み捨てになっています。
出版社がだんだん、もちきれなくなっている。 (2009年12月3日 読売新聞)一部を引用 ・・》
          

こうした出版業界と創作者の作家の状況の中、電子書籍の時代の著作権が不明確のまま到来、
何よりも出版社と著作者に無断のまま、本を裁断してコピーし、販売する業種も出現し、
出版社などは大揺れの状況下となっている。

或いはアマゾンなどのネット書店に席巻されて、街にあった中小書店が激少し、
出版業界全般として縮小している。

そして私が勤めてきた音楽業界のレコード会社の各社でも、
1998年(平成10年)に売上のピークで、これ以降今日まで下降している。

主因としては、経済の低迷化の中で、ネットの違法な音楽配信の蔓延化、そして社会全般の多趣味化であり、
やがて正規な音楽配信元でも、無料、或いは有料の音楽利用料金が普及してきたが、
著作権を有するアーティストに対しての対価は、余りにも廉(やす)過ぎる、と私は感じたりしている。

このような環境下では、肝要の音楽アーティストの多くは、
収入の激少化となり、生活もままならず、創作意欲がなくなってしまうのではないか、
或いは転職を余儀なくされてしまうのではないか、と憂いたりしてきた。
          

この世には職業には貴賤がないといわれているが、
たとえば政治家の諸兄諸姉は、法律を立案や憲法を改定したり、外交が破綻した時は戦争をしたり、
或いは財界人は経済を発展させる基盤を施策したりして、国民の豊かさを享受させる能力を有する方が、
ここ百年でも歴然といる。

こうした方の前では、小説家とか音楽アーティストなどの創作家の多くは無力であるが、
しかしながら一部の人に圧倒的に感動させたり、感銘させる心を豊かにする作品に、
私は小説家になれなかった劣等感のためか、敬意し絶賛してしまう習性が、ここ50数年の深情である。

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つたない人生航路を歩んだ私でも、第二の人生は最良の日々と感じ深めて・・。

2015-04-18 17:13:47 | ささやかな古稀からの思い

私は民間会社の中小業のある会社に35年近く奮戦し2004年(平成16年)の秋に定年退職し、
最後の5年半はリストラ烈風の中、あえなく出向となったりし、敗残者のようなサラリーマン時代を過ごした。

このように私のつたないサラリーマン時代であり、もとより一流大学を卒業され、大企業、中央官庁などに
38年前後を邁進し栄達されたエリートとは、遥かに遠い存在である。

私は定年退職するまで人生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれながら、つたない言動も多く、
ときおり敗残者のように感じることも多く、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思い、年金生活を始めた・・。

世の中の数多く60代の諸兄諸姉は、人生の苦楽を重ねた後、何かと安堵しながら、
第二の人生は身も心も溌剌と過ごせる人生の黄金時代と称せられるゴールデン・イヤーズの中、
知人、友人から何かと嬉しい、楽しげな便りを数多く受けたりしてきた・・。

そして私も過ぎ去った60代の年金生活の10年間の日々は、私の人生の中で何より安楽な時代、
と思い重ねたりして享受してきた・・。
                        

私は東京の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住み、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

そして最寄駅としては、京王線の場合は、『つつじが丘』、『仙川』の両駅は徒歩15分である。

或いは小田急線の場合は、『喜多見』、『狛江』の両駅は徒歩20分となり、
そして私が長年通勤で利用した『成城学園前』駅は徒歩30分となっているが、
何かしら京王線と小田急線にサンドイッチされたかのような辺鄙(へんぴ)な地域に住んでいる。

いずれの最寄駅までの路線バスの利便性は良い所で、たとえば都心の新宿のデパートに買物に行っても、
電車を利用すれば、我が家よりデパートの店内に45分ぐらい、
或いは東京駅でも我が家から一時間前後となっている。

そして我が家の周辺は、それぞれ住宅が密集している住宅街となっている。
          

2004年(平成16年)の秋、年金生活の当初は、
現役サラリーマン時代は悪戦苦闘が多かった為か、解放感で高揚したりした・・。

そして独りで近所の遊歩道を散策したりすると、
こんなに自由に散歩できるなんて、許されても良いのかしら、
と定年直前までの多忙期を思い重ねたりし、戸惑いながら甘受したりした。

何よりも朝の陽射し、昼下りのひととき、そして夕暮れ時に、
ゆっくりと時を過ごし、苦楽の激しかった現役時代を思いながら、微苦笑を重ねたりした。
                

そして私は年金生活の当初から、平素の買物を自主的に専任者となり、
独りで殆ど毎日のように家内から依頼された品を求めて、
最寄のスーパーに買物に行ったり、或いは駅前までの片道徒歩20分ぐらいのスーパー、専門店に行ったりしているが、
根がケチなせいか利便性のよい路線バスに乗るのことなく、歩いて往還している。

その後、自宅から数キロ以内の遊歩道、小公園などをひたすら歩き廻ったりして、季節の移ろいを享受している。
                           

定年前の私は、現役時代のサラリーマンの時は数多くの人たちと同様に多忙で、
家内は我が家の専守防衛長官のような専業主婦であり、日常の洗濯、買い物、料理、掃除などで、
家内なりの日常ペースがあり、この合間に趣味などのささやかな時間で過ごしてきたので、
定年後の年金生活を始めた私としては、このペースを崩したくなく、平素の買物専任者を自主宣言したのであった。

そして少なくとも家内は料理、掃除、洗濯などをしてくれるので、
家内が煎茶、コーヒーを飲みたい時を、私は素早く察知して、日に6回ぐらい茶坊主の真似事もしている。

ご近所の方の奥様たちから、私たち夫婦の年金生活を見かけると、
仲良し恋しねぇ、と社交辞令のお世辞を頂くこともある。

しかしながら実際は日常生活の中で、ときおり私が失敗事をしたりすると、
平素は『あなた・・』と呼ばれるのに、
『ボケチンねぇ・・』と家内から微笑みながら私に苦言される時もある。

こうした中で、私は66歳の時に糖尿病と診断され、青色吐息となる中、
食事の改善とひたすら歩いて、何とか克服してきたので、
糖尿病の再発防止もさることながら、何よりも怖いのは認知症であり、
もとより健康でなければ、自身の日頃のささやかな願いも叶わないので、ひたすら歩くことが多くなっている。
                                      
      
この後の大半は居間で過ごしたりすることが多く、何かと随筆、ノンフィクション、現代史、総合月刊雑誌などの読書が多い。
定年後の年金生活の単行本、新書本、文庫本の書籍に於いては、
特に塩野七生、阿川弘之、佐野真一、藤原正彦、嵐山光三郎、曽野綾子、三浦朱門、
高峰秀子、松山善三、櫻井よしこ、徳岡孝夫、中西輝政の各氏の作品を中核に購読している・・。

雑誌の月刊総合雑誌としては、『文藝春秋』は45年近く購読し、毎月秘かに逢える心の友のひとりとなっている。
そして『中央公論』、『新潮45』は特集に魅せられた時は買い求めたりしている。

新聞は『読売新聞』を40年近く購読しているが、気になり記事を更に深く知りたい時は、
総合ビジネス情報誌として名高いビジネス情報サイトの【ダイヤモンド・オンライン】に縋(すが)り、
多々教示されている。

ときおり映画に関しては、20世紀の私の愛してやまい作品を居間にある映画棚から、
DVD、ビデオテープなどを取りだして、テレビを通して鑑賞したりしている。

或いは音楽を聴きたい時は、やはり居間にある音楽棚からCD、DVDなどを取りだして、聴いたりしている。
          

このような年金生活を過ごしているが、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。

そして日常生活で、昼下がりのひととき眠くなったら、
いつでも昼寝ができることは、年金生活の特権かしら、と享受する時もある。
                 

こうした中で、ときおり我が家の小庭の手入れをしたり、友人と居酒屋など逢ったり、
家内との共通趣味の国内旅行を幾たびか重ねている。

私たち夫婦は、子供に恵まれなかった為か、新婚時代から幾たびか旅路を重ねてきた。

現役サラリーマン時代は、殆ど2泊3日ぐらいの日程であったが、
年金生活を始めると日程の制約から解放されて、5泊6日前後の旅路が多くなっている。

こうした中で私たちは観光ホテルなどに滞在して、周辺の山里、遊歩道、街並みの中を歩きながら
その地の情景を観ながら風土、文化を教示されて、遊学したりしてきた。

そして観光ホテルなどに帰館すれば、心身共に解放感が満たされる露天風呂、大浴場に入り、
享受したりしてきた。

そして早朝、夕食前など時に広い露天風呂などで、たったひとり身を預けたりすると、
更に心も身も解放された上、四季折々の中のひととき景観を観ながら、圧倒的に充たされたりしてきた。
                           

年金生活の我が家の基本は、厚生年金、わずかな企業年金を頂き、通常の生活費するのが原則としている。
しかし共通の趣味のひとつである国内旅行、或いは冠婚葬祭などの思いがけない出費などに関し、
程々の貯金を取り崩して生活している。

そして、毎年年始が過ぎた頃に、新年度の月別の概算表を作る際、
家内の要望などを織り込んで作成し、予算としている。
従って、年金生活の身であるから、今年も赤字が120万円前後かしら、とお互いに確認し合っている。

こうして私たち夫婦は経済的に贅沢な生活は出来ないが、
働らなくても何とか生活ができるので助かるわ、
と家内がときおり、 呟(つぶや)くように私に言ったりするので、私は苦笑したりしているのが、
我が家の実態である。
                  

こうした60代の中で、多くの退職された方たちも同様と思われるが、
過ぎ去る年の会社時代の先輩、同僚、後輩たちの集いより、
家族の団欒はもとより、孫の世話で・・自身の病院の治療、或いは親族、親戚関係の冠婚葬祭が優先となっているのが、
私の周囲には多くなっている。
   
こうした中で、私の現役のサラリーマンの50代に同僚が病死されたり、
知人は定年前の59歳で病死し、残されたご家族の心痛な思いが、痛いほど理解させられたりしてきた。

或いは定年後の62歳で、現役時代の一時時期に交遊した友も、無念ながら病死したりした。
       
何よりも思いがけないことは、知人のひとりの奥様が病死されて、
この知人は『おひとりさま』となり、私たちの多くは哀悼をしながらも、動顛してしまった。

こうした根底には、私たち世代の周囲の男性の多くは、60代で妻が夫より先に亡くなることは、
考えたこともなく、こうしたことがあるんだぁ、とこの人生の怜悧な遭遇に深く学んだりした。
                 

やがて私は高齢者入門の65歳を過ぎてから、心身ともに自立し健康的に生活できる期間の健康寿命は、
男性の平均としては71歳であり、平均寿命は男性の場合は80歳と知った時、
恥ずかしながらうろたえたりした・・。

そして70代となれば、多くの人は体力の衰えを実感して、75歳まではこれまでどおりの自立した生活ができるが、
80歳が見えてくる頃には介護を必要とするようになり、
やがて80代後半では何らかの介護付き施設に入居する可能性が高くなる、と専門家の人から数多く発言されている。

このように学んできた私は、昨年の9月に古稀と称せられる70歳になり、
家内も12月に高齢者入門の65歳となり、お互いに介護保険を支払う無職高齢世帯となった。
       

昨今、同世代の知人たちと懇親会の中で、何かしら葬儀の話題が多くなっている。
たとえば現役時代だったら葬儀に多くの友人、知人に来て貰いたいが、
今や退職後の10年・・自分なりのささやかな家族葬で執り行って欲しいよ、
と私は聞いたりしている。

そして昨今の私は、布団の中で目覚めた後でもボンヤリとして正気には程遠く、
やがて起床してボンヤリとして煎茶を飲んだりして、
15分ぐらいの後に正気になり微苦笑することが多くなっている。

こうしたことは少なくとも60代には感じなかったことであり、
体力の衰えを増したのかしら、と苦笑してしている。

或いは亡き作家の渡辺淳一さんが、その歳になって見なければ解らない、
と確かこのような言葉を発露されていたので、
そうですよねぇ、と定年まで敗残者のような人生航路を歩んで私でも、同意したりしている。
                 

いつの日にか私たち夫婦は、片割れとなり、残された方は『おひとりさま』となるが、
果たして・・と年に数回は思案したりしている。

しかしながら私は何とか60代を大病もせず卒業できたが、
不幸にも知人の病死、大病で入退院している友人を思い重ねれば、涙を浮かべたりしている。

そして現役サラリーマン時代でも、幾たびのリストラ烈風の中、
何とか障害レースを乗り越えて、敗残者のようなつたない私でも、
五体満足で生かされているのは、選ばれたひとりかしら、と微苦笑したりしている。


こうした中で、今の私が平素何よりも恐れていることは、痴呆症となり、自身が正常に自覚をできないことである。

私は親戚の方、知人の方とか、本などで痴呆症の悲惨さを少しばかり学んだりし、
たとえば私が痴呆症となり、介護をしてくれる家内の身を案じるとたまらないのである。
或いは逆に家内は痴呆症となり、私が看病する場合も同様である。

痴呆症の本人は介護して下さる方も解らず、
何よりも介護する方は、看病する張り合いがないと思われるからである。

このような私の思いから、痴呆症になる前に、ポックリとこの世と別れを告げたい、と思ったりする時もあるが、
こればかりは天上の神々の采配に寄るものである。
                 

私はゴールデン・イヤーズと称される60代を昨年の9月に卒業して、
私としてのこれまでの10年は、我が人生として最も安楽な期間を享受できたりしてきた。

そして70代入門の初心者して、心身共に自立し健康的に生活できる健康寿命を意識して、
確かな『生きがい』と『健康』、そして『気力』を持続できるように、ときおり願いながら歩いたりしている。
       
こうした中で、私は母の遺伝を受けたらしく男の癖に、おしゃべりが好きで、何かと家内と談笑したり、
ご近所の奥様、ご主人さまと話し合ったりすることが多い。

或いは、好奇心をなくしたらこの世は終わりだ、と信条している私は、
体力の衰えを感じている私でも、その時に応じて溌剌とふるまったりしている。

そして悲嘆の出来事に遭遇しても、やがて落胆してばかりでは解決にならないので、
プラス思考に転じて、これまで過ごしたりしてきた。
           
    
私は、散策したりする時、ときおり心の中で唄ったり、人影の少ない道などで、今の時節は、
♪君と好きな人が 百年続きますように・・
一青窈(ひとと・よう)さんの『ハナミズキ』の歌を、かぼそい声で唄ったりする時もある。

私たち夫婦は、この先いつまでもささやかな生活が続くわけでなく、いずれ片割れになる・・。
このような思いを重ねたりして、歩く時もある。


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健康寿命を延ばす「10の方法」を学び、60代を卒業した私は微苦笑を重ねて。

2015-04-17 14:46:28 | ささやかな古稀からの思い
東京郊外の調布市に住む年金生活の70歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

昨夜、愛読している総合ビジネス情報誌として名高いサイトの【ダイヤモンド・オンライン】を見ていたら、
『健康寿命を延ばす「10の方法」』と見出しを見て、
どういうことなのょ、とクリックして、記事を精読してしまった。

このサイトの中に『男の健康』コーナーがあり、そして『アンチエイジング・老化防止』の中にひとつ記事であり、
『週刊ダイヤモンド』編集部・大坪稚子さんが綴られた記事であった。
そして副題として、『生活習慣と食事、運動がカギ! 』と明記されていた。

無断ながら私は要約させて頂いた。
          

《・・同年代でも若々しい人もいれば、老け込んで見える人もいる。
その差はどこからくるのか。健康で長生きする秘訣を探った。

「100歳を超えても若々しく人生を楽しんでいる人たちに共通するのは、長寿遺伝子が働いていることにある。
長寿遺伝子を活性化させ、健康寿命を延ばす条件もわかってきた」。
こう話すのは、加齢制御医学を専門とする白澤卓二・順天堂大学大学院教授。

実際に人間の長寿遺伝子が特定されたわけではないが、
白澤氏は、多くの“健康長寿者”に会い、体の状態や食事、生活習慣などから、長生きの秘密を研究してきた。

健康寿命を延ばす10の生活習慣を結果として、提言をまとめた。

          

☆☆【健康寿命を延ばす10の生活習慣】☆☆

①食事は一日3回、朝食を抜かない。

②魚は積極的に食べる。

③「ベジフル7」は、厚生労働省が掲げる「1日に野菜5皿、果物2皿」

④抗酸化物質を取り入れる。
    ==>「βカロテンが豊富なニンジン、ビタミンCが豊富なブロッコリー、リコピンが豊富なトマト、
       アスタキサンチンの豊富なサケの切り身など、抗酸化力の強い食品はいろいろある。

⑤お酒を飲むなら赤ワイン。

⑥腹七分目でカロリー制限。

⑦定期的、継続的に身体を動かす。

⑧情報をアウトプットする。

⑨ストレスを毎日解消する。

⑩今日の自分を記録する。

長寿遺伝子を働かせ、健康寿命を延ばす基本は、食事と運動、そして前向きな生き方にかかっている。
自ら働きかけないと、長寿遺伝子は静かに眠ったままである。・・》
                  

私は私は民間会社の中小業のある会社に35年近く奮戦し、2004年(平成16年)の秋に定年退職した後、
多々の理由で年金生活を始め、やがて昨年の秋に60代を卒業した70歳の身である。

過ぎし2010年(平成22年)の秋に、私は健康診断の結果、糖尿病と診断され、
内科の医師の指導、家内の野菜を多くした料理、そして私はウォーキングをほぼ毎日したりした。

そして翌年の2011年(平成23年)の3月の初旬、
最寄の内科に4週間毎に定期健診を受けて、糖尿病の範囲の対象から克服でき、
悪玉コレステロールは基準値の90%、これ以外はすべて優等生となった。

この後は、4週間毎に定期健診を受けるたびに隣接した薬局で、血糖値を下げる薬を頂き、
日々朝食後に飲んでいるが、これ以外は至って健康だ、と思ったりしている。
        
もとより健康でなければ、自身の日頃のささやかな願いも叶わない。
私自身の糖尿病の再発防止もさることながら、何よりも怖いのは認知症である。

こうした根底があり、自宅の周辺3キロぐらいの中の住宅街の道、遊歩道、小公園などを
ひたすら歩いたりする中で、 季節のうつろいを享受している。
          

食事に関しては、ここ6年は程んど変わらず、頂いてきた・・。

昨日の朝、いつものように家内共に朝食を頂いたりした。

私は何かと単細胞の為か、キャベツとニンジンの千切りした盛り合わせを前菜としている。
そしてこの寒い時だけは、電子レンジで少し温めて、愛食している。

この後、五穀米の入った白米のご飯、インスタントのワカメの味噌汁、春菊のゴマ和え、
そしてコブの佃煮、ラッキョの塩漬け、福神漬け、シャケの瓶づめ、或いは鯖(サバ)の味噌煮の缶詰が、
日々貫徹のように食べたりしている。

私は幼年期に農家の児として育ったので、齢ばかり重ねた今でも、
ご飯と汁、おかずと香の物で成り立っていた庶民の『一汁三菜(いちじゅうさんさい)』が、
何かと心身の波長に合うのであるので、このような内容が多いのである。

ここ一週間は、長兄宅から頂いたタケノコが、家内に料理してもらい、加わっている。

家内は食パンにジャム、オレンジ・ママレード、或いはブルーベリーを塗り、
二枚ばかり食べながら、コーヒーを飲みながら頂いている。


昼食は蕎麦(そば)或いは素麺(そうめん)が多いが、
私はフランスパンを三分の一、或いはアンパンを食べることもあり、
家内はケーキのような菓子パンを食べたりする時もある。

夕食はキャベツとニンジンの千切りした盛り合わせを前菜とした後、
牛肉、豚肉、鶏肉、ラム肉をその日に応じて、家内の料理してくれた食べることが圧倒的に多い。
そして5日に一回ぐらいは、私はビールかウィスキーの濃い水割りを呑んだりすることもある。

昨年の秋の頃から、キュベツの代わりにタマネギをスライスしてワカメを混ぜ、
血液サラサラになるわょ、と家内の助言で、大皿に盛り合わせたのを、
ミツカンポン酢を加味して、頂く時もある。

そして私は母親の遺伝と思われるが、男の癖におしゃべりなタイプで、
家内を微苦笑させながら、談笑をしたりするので、夕食は少なくとも一時間を要したりしている。
          


私は何かと朝食と夕食の前には、大皿にキャベツ、ニンジンを中心の前菜を欠かせなくなっている。
普通サイズキャベツを四分の一ぐらい千切りし、
その脇に寒い時期以外は、セロリ、トマト、ニンジン、キュウリなどの季節物を大皿に盛り合わせている。
そして婦女子の野菜の盛り合わせの量からは、少なくとも4人前ぐらいかしら、と私は思いながら頂いている・・。

こうした根底には、私は幼年期に農家の児として育ち、その上に遠い30年前の頃に、
今は亡き俳優の森繁久弥さんが、胃腸薬のキャベジンの宣伝に出演していたので、
キャベツの多大な効力を信愛してきたので、こよなくキャベツは盛大に頂いている。

そして朝食の時は、五穀米の入った白米のご飯の量を減らしたい為に頂き、
夕食の時は、何かと牛肉、豚肉、鶏肉、ラム肉などが大好きであるが、
食べる量を減らしたい為にも、キャベツ、ニンジンを中心の前菜を頂いたりしている。

こうした中で、魚が少ないので、朝食の時にはシャケの瓶づめ、或いは鯖(サバ)の味噌煮の缶詰を
食べたりしているが実態となっている。

私は年に数回、家内を誘いイタリア料理店に寄り、料理の濃厚な風味、ワインの香りも好きである。
そしてイタリアの映画や音楽の1950年代、1960年代は好みであり、
訪れていない町、街角の情景も本を読んだり、テレビで視聴したりして、思いを馳せたりする時もある。

或いは私たち夫婦は、旅先の食事処でその地の料理、食物も好奇心にあふれて、
頂いたりする時もある。

しかしながら日本の東京の郊外で70年近く過ごしてきた私は、
平素の料理を食べながら、談笑し、やがて買物したり、その後は散策することが心身の波長に合う。
          

日頃の運動に関しては、特にしていなく、ひたすら散策して歩くだけとなっている。

私は年金生活の当初から、平素の買物を自主的に専任者となり、
独りで殆ど毎日のように家内から依頼された品を求めて、
最寄のスーパーに買物に行ったり、或いは駅前までの片道徒歩20分ぐらいのスーパー、専門店に行ったりしているが、
根がケチなせいか、利便性のよい路線バスに乗るのことなく、歩いて往還している。

その後、自宅から数キロ以内の遊歩道、小公園などをひたすら歩き廻ったりして、季節の移ろいを享受している。

このようにウォーキングは一時はしたが、時速5キロぐらいでひたすら歩く中、
樹木、花に瞬時に魅了されてしまうと、足を止めて長らく見惚れることが多いので、
あなたは運動はしていませんよねぇ、と私は家内から言われたりしている。
          

私は、亡くなった両親から受け継いだのは血液型としてはB型であり、
更に私は母親の遺伝と思われるが、恥ずかしながら男の癖におしゃべりなタイプであり、
何かと談笑をすることが多い・・。

家内はもとより、ご近所の奥様とか主人に対しても、買物、散策、或いは自治会の回覧板の時などで、
談笑したりしている。

或いは遊歩道、公園などで散策している中で、見知らぬ人と談笑することも多い。
そして旅先も宿泊先でロビー、食事処で隣席した方たちと、私は談笑を重ねたりしてきた。

懇親会、冠婚葬祭などで、数多く知人にお逢いできた時は、
私は積極的に信愛を重ねて談笑したりしている。
          

ストレスに関しては、年金生活の中でも、ときおりある。
しかしながら私は、たとえば政治とか社会に不満を感じる時は、近代史の本を読めば、
この世の不条理な実態を学ぶことができる。

年に数回は、自身のつたなさを嘆き、やるせない時は、早めに風呂に入った後、早めに寝るとか、
読書か音楽を聴き、自身を叱咤激励したりしている。

或いは散策をして、四季のうつろう情景を眺めて解消する時もある。

そして私は、たまたま定年後にブログの世界を知り、
パソコンの故障、国内旅行をしていない限り、毎日一通は投稿文を重ねた11年目となっている。

このように私は、今回の健康寿命を延ばす「10の方法」を学びながら、
小、中学時代に通信簿『2』と『3』が多かった劣等生であったので、
【健康寿命を延ばす10の生活習慣】も、落第生かしら、と微苦笑したりしている。

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いつの日にか、この世とお別れする前、ひとつの事を残して、と深く念願し・・。

2015-04-16 13:30:16 | ささやかな古稀からの思い
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

私は民間会社の中小業のある会社に35年近く奮戦し、2004年(平成16年)の秋に定年退職した後、
多々の理由で年金生活を始め、早や年金11年生となっている。

そして私たち夫婦は幸運にも大病に遭遇せずに、ささやかながら年金生活を過ごしてきた。
          

私の父は、私が小学2年3学期になると、黄疸〈おうだん〉で長らく自宅治療をしていたが、
肝臓が悪化して、42歳の若さで病死された。

やがて私が54歳の時に、母は喜寿と称される77歳を迎えてまもない時に、
婦人系のガンで3年ばかり入退院してきた中で、死去した。

家内の父は、私が定年退職する2004年(平成16年)秋の直前に、
腎臓のガンに5年ばかり入退院してきた中で、78歳でこの世を去った。

いずれも幸いに認知症には関係なく、亡くなった。

そして私たち夫婦の両親は、私より14歳齢上の家内の母だけとなっているが、
3年前に膝(ひざ)を悪化して、杖(つえ)をついて歩いたりしているが、心は溌剌としている。
          

こうした中で、私の現役のサラリーマンの50代に同僚が病死されたり、
知人は定年前の59歳で病死し、残されたご家族の心痛な思いが、痛いほど理解させられたりしてきた。

或いは定年後の62歳で、現役時代の一時時期に交遊した友も、無念ながら病死したりした。

過ぎし6年前に知人のひとりの奥様が病死されて、
この知人は『おひとりさま』となり、私たちの多くは哀悼をしながらも、動顛してしまった。

そして私たち世代の周囲の男性の多くは、60代で妻が夫より先に亡くなることは、
考えたこともなく、こうしたことがあるんだぁ、とこの人生の怜悧な遭遇に、心痛な思いで深く学んだりした。

このような思いを秘めてきた私は、私たち夫婦もこの先いつまでもささやかな生活が続くわけでなく、
いずれ片割れになる・・、と年に数回は思案したりする時もある。

やがていつの日にか、私か家内が死去するが、
私が先に亡くなる場合は、せめてひとつの事を残して、とこの世とお別れしたい、
と深く念願している。
          

そして心筋梗塞、交通事故などに遭遇して、突然の死もありえるので、
事前に私は、たった一通の葉書を書き上げて、私が亡くなり家族葬を終わった後に、
家内に投函してもらおう、と思案を重ねている。

☆========================================☆
              感 謝

この葉書をお読み頂く時は、私は亡くなり、あの世にいます。

つたない人生航路を歩んだ私は、特にサラリマンを定年退職するまで人生は、
何かと卑屈と劣等感にさいなまれながら、つたない言動も多く、多々皆様にはご迷惑をお掛け致しました。

こうした中で、めぐり逢えた皆様のあたたかいご厚情により、過ごせてきました。

やがて定年後の年金生活は、人並みに享受できた生活を過ごせましたが、
やはり天命を迎え、このたび死去した次第です。

そして偏(ひとえ)に数多くの皆様にささえられて、つたない私でも楽しく人生を過ごせましたので、
幾重にも感謝しています。

残された家内には、あたたかく行く末を見守ってやって下さい。

尚、故人の遺志により葬儀は身内で執り行いましたので、
ご香典、ご供物等は固く辞退申し上げます。

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このような文面を瞬時に思い、つたない人生航路を歩んだ私は、
せめて数多くの人に、感謝、一言を御礼致したく、深く思ったりしている。

そして家内はパソコンの入力も出来ない身であるので、
私が葉書に文面を認(したた)めて、あて名まで印刷して、完成させてしまうことも、
配慮している。
          

しかしながら、あと10数年は私は生かしてもらいたいので、
このような文面の印刷済みの葉書は、私の脇机に収容する予定であるが、
長らく皆様に届かない葉書になって欲しい、と念願をしたりしている。

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