夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

多くの皆様に感謝を重ねながら、改めて、良いお年をお迎え下さい・・。

2012-12-31 11:39:35 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の68歳の身であり、
2004(平成16)年の秋、民間の中小業の会社を定年退職後、
私の半生は屈折の多い人生だったので、せめて残された人生は・・と思いながら
直ちに年金生活にして、身過ぎ世過ぎの日常生活を過ごしてきたが、
私は随筆、ノンフィクション、現代史などの読書に続いて、文章を綴るのが好きである。

退職してまもなくして、偶然にブログの世界を知り、
日々に感じたこと、或いは思考したことを心の発露としてあふれる思いで、
原則として少なくとも毎日1通は投稿し、綴ったりしてきた。

投稿の内容は、定年後の身過ぎ世過ぎの年金生活の日々の思いはもとより、
過ぎ去った幼年期から定年退職するまでを余すことなく綴り、投稿を重ねてきた・・。

このように私はパソコンが故障、或いは国内旅行をしていない限り、
毎日投稿をしてきたので、少なくとも定年退職後の丸8年過ぎた日々の思いは、
私の日常の証(あかし)のひとつでもある。
               
     我が家の小庭に小鳥が定期便のように飛来し、私の定年退職時の少し前に、
     小鳥がたまたま飛び立つ時に、落し物のひとつが成長し、このような樹となっている。
     私は定年退職時の贈り物と確信を深めて、定年退職の記念樹と思い、ときおり四季折々ながめることが多い樹である。(11月上旬)

もとより、人それぞれ誰しもが光と影を持ちあわせているが、
つたない私でも、ささやかな光、秘められた影があるが、余すところなく綴ったりしてきた・・。

ここ数年、このサイトに綴ることが生きがいのひとつになっているので、
数多くのお方にお読み頂き、感謝の一言です。


こうして中で、数多くの諸兄諸姉の投稿文を読ませて頂くと、
ここ5年ぐらい殆どの方が心ある写真を添付し、
いつまでも言霊(ことだま)を信愛し、散文のような文章だけでの表現は、
時流に残されてしまう私なりに憂慮してきた。
そして 特に旅行関係の投稿文に関しては、散文を綴りながら危惧してきたのが本音でもある。

過ぎし日の『文化の日』の翌日の4日に於いて、私は遅ればせながら写真添付を始めて、
投稿文を重ねている。
                 
               

そしてこの少し前の9月中旬に、ブログランキングのひとつである【ブログ村】に於いて、
小説系の『エッセイ』に長らく加入していたのを取りやめて、シニア系の『60代』にすべて集約することにした。

このことは小説系の『エッセイ』の投稿文を読む時間を減らしたく、
まぎれなく私は68歳の身であり、真情としては50代~70代の世代の投稿文を深く読むことが多く、
シニア系の『シニア日記』、『60歳代日記』の投稿文を読む時間を増やしたく、
年金生活の私でも、時間に限りあるので、決意した。

こうした中で、何よりも数多くの方の投稿文を読ませて頂きながら、
日々の日常生活の過ごした方、或いは人生の思いを学び、
こうしたお考えで、この人生を過ごされているのか、と教示されることが圧倒的に多く、
確かな人生の教科書と思い、私は励まされたり、微笑んだりして、年金生活を過ごしたりしている。

そしてこの広い空の下で、未知のお方に投稿文の上で、めぐり逢えたことに秘かに感謝したりしている。
こうした中で、コメントを頂いたり、
或いは私は数多くの方の投稿文を読ませて頂き、感きわまってコメントをしたりしている。


我家では、大晦日の今宵は、お年取りのささやかな酒宴を致しますので、
今年の最後の投稿とします。

今年も政治は混迷し、経済はデフレ烈風で低迷し、社会は劣化し、
余りにも悲惨な出来事が多く、私は動顚したり、憂(うれ)いたりしましたが、
来年こそは、明るいニュースで数多くの方と共に微笑んだりしたい、と祈願しています。

皆様には、良いお年をお迎え下さい。

                  2012(平成24)年12月31日
                           『夢逢人』

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年の瀬、昨日より全国的に年末年始の休暇が始まり、東京郊外に住む私は・・。

2012-12-30 15:50:28 | 定年後の思い
東京郊外の調布市に住む年金生活の68歳の身であるが、
昨夜のテレビのニュースで、本日の早朝から帰省ラッシュでふるさとに向かい新幹線、在来線の乗客、
或いは自動車で高速道路を利用され帰省される方が多く、
成田空港では、年末年始を海外で過ごす家族連れらの出国ラッシュがピークを迎えました、
このようなことを報じていた。

一昨日の28日の金曜日は『官庁御用納め』とカレンダーに記載されていたので、
民間会社の数多くは29日の土曜日から年末年始の休暇が始まったのかしら、
と私は感じたりした。

私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

家内の父が2004(平成16)年の秋、私の定年退職時の直前に病死し、
家内の母は独り住まいとなったので、
私たち夫婦は年末年始の期間は我が家で共に新年を迎えよう、と誘い、
この年から恒例のようなこととなっている。

ほぼ毎年、28日の夕方に来宅して貰い、年末を過ごし、新年を迎え、3日か4日の午前中に帰宅する。

我が家の年末年始の情景は、居間の17畳ばかりの一角に6人用の炬燵(こたつ)を設置し、
家内の母には、奥の6畳の和室で休んで頂く。

こうした中で、居間の炬燵で、それぞれの好みの御節(おせち)料理の単品の数々を頂いたりし、
談笑するか、テレビを視聴したりして過ごすことが多くなっている。


このように我が家は私の定年退職後の年末年始は過ごしているが、
私のふるさとは、今住んでいる近くが生家の実家なので、
帰省の方たちを見かけると、少し羨(うらや)ましいのが本音である。

こうしたことは過ぎし一年の思いを秘めて、ふるさとの親、親族、そして友人たちに再会して、
共に語る合う情景が浮かび、
どうかご無事で行かれ一族再会のような親愛を深めて下さい、と思ったりしている。

そして、日本の各地、或いは海外に旅行される方たちにも、
せっかくの年末年始の休暇を楽しまれて下さい、と感じたりしている。

或いは自宅で年末年始を過ごされる方たちには、
昨日よりご家族で大掃除、買物などをされ、ゆったりと新年をお迎え下さい、
とニュースを視聴しながら思ったりした。

そして年末年始も仕事で業務に携(たずさ)わる方たちには、
大変ですね、お身体を程々にご自愛して下さい、と心を寄せたりした。


我家は、過ぎし23日の日曜日から家内は大掃除で孤軍奮闘し、私は庭の手入れをする程度であり、
26日からは年末年始の買物で、私は家内のボディ・ガード、荷物持ち、お供となり、お互いに奮戦し、
28日の朝から『お正月飾り』を始めた・・。
家内は何かしら末広がり吉日だわ、と毎年この日に、和室の戸袋から取りだして玄関の片隅に置いたりした。
そして私は掃除前に、簡素な我が家の『お正月飾り』を記念写真として撮ったりした。
                 

そして夕方に家内の母が予定通り来宅され、私達3人は、夕食を兼ねてささやかな酒宴をし、
互いに談笑を重ねたりした。

こうした中で、家内は年末年始の料理をしたりして、等であり、
私は幾度なく家内の依頼で買物のメール・ボーイとなったりした。

この間、私は近くの神社、寺院を訪れたりした。そして初詣前の人影もない静寂の中を歩いたした・・。
            
                     
                       霞嶺(かすみね)神社                
                 
                       明照院(みょうしょういん)

たまたま昨夜の場合は、夜の8時過ぎに酒宴を終り、
まもなく私は寝室で布団にもぐり読書をしているうちに眠ってしまい、早朝の3時に目覚めてしまい、
居間の炬燵(こたつ)で本を読んだりした。

そして朝の4時過ぎに小雨が降りだし、雨脚の音を微かに聴きながら、
昨夜は少し早く寝すぎたかしら、そして齢ばかり重ねた私でも早寝早起き元気な児かょ、
と微苦笑をしたりしている。

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齢ばかり重ねた私でも、心のふるさとの神社、寺院を訪ねれば・・。

2012-12-29 16:28:38 | 定年後の思い
私は年金生活の68歳の身であるが、東京郊外の世田谷区と狛江市の隣接した調布市のはずれに住み、
付近には野川が流れ、霞嶺(かすみね)神社、明照院(みょうしょういん)があり、私の生家も近くにある。
私は結婚前後の5年を除き、この地を60数年ばかり過ごしているので、
心のふるさとの原景も我が家の周辺にある。

たまたま本日の午前中、雨上がりの淡い陽射しが射す中、
新年の初詣の人出の多い前に、霞嶺(かすみね)神社、明照院を訪ねてみょう、
と突然に思い立ち、私は独りで自宅を出た・・。

私は1944(昭和19)年に北多摩郡神代村(現・調布市の一部)の農家の三男坊として生を受けた。
この当時、祖父、父が中心となって、小作人の人たちの手助けを借りて、
程ほど広い田畑、そして小さな川が田んぼの片隅に流れ、湧き水もあり、
竹林、雑木林が母屋の周辺にあった。
そして母屋の宅地のはずれに蔵、物置小屋と称した納戸小屋が二つばかりあり、
はずれに小さな稲荷を保有して、この地域の旧家は、このような情景が多かった・・。

そして、この頃の我が家は、周辺は平坦な田畑、雑木林、
少し離れた周辺はゆるやかな丘陵であり、国分寺崖、と学校の先生たちは称していた。

その後、私が1953(昭和28)年の小学2年の三学期に父が病死し、
翌年の1954(昭和29)年の5月に祖父も他界され、
我が家として大黒柱の2人が亡くなり、没落しはじめた・・。

そして1955〈昭和30〉年の頃から、都会の人たち達が周辺に家を建てられ、
私が小学校を卒業した1957〈昭和32〉年であるが、
この頃になるとベットタウンとなり、新興の住宅街に大きく変貌した。

このように私の生家の地域は大きく時代と共に変貌し、
私も生家の近くに1978〈昭和53〉年の春に一軒屋を構えて住んできたが、
何かと幼年の小学3年生の頃まで、多くの思いがあったので、四季折々訪ねたりしてきた。

  
霞嶺(かすみね)神社の鳥居に入ると、
                
小高い丘が聳えるようになり、
                
陵山(みささぎやま)といわれる小高い丘となり、高い所には老樹に囲まれた霞嶺神社があり、
隣接した低い所には明照院があり、仲良くふたつに別れている。
霞嶺神社に関しては、農業の神、霞嶺大神を祀るかつての村社(武蔵国多摩郡的矢荘入間村)で、
社殿は高さ3.81m、周囲127mの墳陵(墓)の上に建っている、と亡き父の知人から、
私は教えられてきた。
                          
そして左側には、それぞれの旧家が奉納した大稲荷神社があり、

周辺には推定樹齢が約500年、幹の周囲3.4mのクロマツの古木は、
幼児の頃から私は見つめたりしてきたが、松枯れにより枯死してしまい、
やむなく大きなクロマツの数本を私は眺めたりしてきた。

先ほどの本堂への石段を上がる前は、少し広い境内があり、
             
             
私の幼年期の頃は、秋のお祭りが開催され、
地方の劇団の招いて、旧家から借用した丸太を組み立てて即席舞台を作り、
田舎芝居が行われ、住民の多くが筵(むしろ)の上に座り鑑賞された。

お祭りは若い男性の青年団が運営し、年配者が後方支援となり、
大きな太鼓を載せた曳(ひ)き車を、30人前後の少年が曳(ひ)き、
青年団の人が進行と護衛をして、それぞれの地域を廻っていた・・。
私も小学生になると、この曳(ひ)き車を曳く一員となり、
そして旧家毎の門で停車し、
青年団の雄姿が太鼓を叩き、この旧家の方から、私たち少年はミカンやお菓子を頂き、
そして上納金が青年団の方に手渡されていた。

今の境内の片隅には、社務所と称される集会所があり、隣接に宮司の家があるが、
霞嶺神社の基軸の情景は余り変わらない、と深く感じたりした
そして初詣、節分の時は豆まきをしたことも、思いを重ねたりした。


私は小高い社殿を参拝した後、隣接した明照院に向った。
         
            この石段を下りた後、
         
            振り返ると、このような情景となる。
             
明照院は室町時代に開かれた天台宗の寺院であり、正面には提灯のさがる本堂のほか,
弁財天が祭られている観音堂,えんま堂そして整備された庭には地蔵尊・六地蔵巡拝供養塔などがある。
               
そして私は後年に、観音堂に祀ってある弁財天は、美人の神様、 と私は学んだりした。


私はこの明照院で、幼稚園がなかった当時で託児所となっていたので通ったりした。

或いは小学校の入学前、この境内で隅にスクリーンが張られ、夜のひとときを上映してくれた。
私は母に連れられ、近所の方達と共に立ちすくんで観た。
この当時の私の住む地域に於いては、娯楽が少なく、こうした映画を無料で観られるのは、
稀(まれ)であったので、盛会だったと記憶に残っている。
この映画は、『長崎の鐘』であり、私としては最初に観た作品なので、心の片隅に残っている。

小学生の夏休みには、この境内でラジオ体操が行われていた。
本堂の前のお賽銭箱の横にある階段にラジオを置き、付近の小学生と共に、
私も日参したりした。

このように何かとお世話になった明照院に別れを告げて、石段を下りた。
                
                   振り返ると、このような小高い上に明照院がある。
そして私は自宅に向った。
                
この路も幼年期から、馴染のある路で、遠い昔は素朴な路であった。
この後は塀、石垣などが整備されたりしてきたが、やはり私は幼年期に農家の児として育ったので、
やすらぎを感じ、愛惜の秘めている路のひとつである。

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お正月飾り、東京郊外の年金生活の我が家は、恥ずかしながら簡素となり・・。

2012-12-28 13:23:30 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の68歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

今朝、家内は朝早くから『お正月飾り』を始めた・・。

もとより飾り初めに於いては、『一夜飾り』の大晦日の31日は、お葬式の飾り付けなどを一夜で片付けることとつながり、
縁起が悪いから古来より避け、
或いは29日も『二重苦』に関連するので避け、従って27日から29日、31日を除いた日となり、
家内は28日は何かしら末広がり吉日だわ、と毎年この日に、和室の戸袋から取りだして玄関の片隅に置いたりした。
              
              主(あるじ)の私の性格が悪いせいか、少し斜めに撮られている。 
              
              後方にある掛け軸は我が家のいつも掲げているものであるし、
              右隅みにあるのは2009(平成11)年7月に京都の夏祭りのひとつの『祇園祭(ぎおんまつり)』を拝観した時、
              厄病災難よけの『ちまき』を頂だいた品である。

そして、家内も幾分寂しいと感じ、玄関の窓辺の片隅に、たわむれの置物を置いたりした。
左に視えるのは、獅子舞であり、右側を七福神を乗せた祝い船であり、
6年前頃に家内は百円ショップで買い求めた品である。

そして背景の陽よけの簾(すだれ)を布地に変えれば、我が家の『お正月飾り』は完成となる。

恥ずかしながら我が家の『お正月飾り』は、たったこれだけであり、
日本広しといえども我が家は一番簡素な飾り、と私は微苦笑したりした。


過ぎし私が若い33歳の時、2年ばかり賃貸マションで新婚生活を過ごした私たち夫婦は、
私の実家の近くに一軒屋を構えたのは1978(昭和53)年の春であった。

こうした時、家内は中学生の時から茶事を学んできたので、私は若さで世間知らず、気負いもあり
住居の中で茶室を設けたりした。
しかし作庭費用に困り果て、やむえず雑木主体の庭とした。
何より困窮したのは、色々な面で想定した価格より遥かに高く、すべてのローンは多額の借金となり、
月々、ボーナス時の返済は、私が孤軍奮闘しても赤字が多かったのである。

まもなく家内は、パート、契約社員などで、3年ぐらい援軍を受けたりした。

そしてクリスマスの頃になると、家内は御節(おせち)料理の素材を付近の専門店、スーパーなどで買い求めていた。
栗、黒豆、田作りなどの素材であり、
たとえば栗は丹波の栗、といったように家内は茶事で学んだ体験を生かし、
程ほど高価な品を選定していた。

家内は大掃除、御節(おせち)などで奮闘し、茶室の床飾りとして『結び柳』などをし、
私は28日頃に仕事納めをした後、翌日頃から我が家の庭の手入れをしていた。

そして何とか世間並みに玄関の軒下に、ホームセンターで買い求めた小さな門松、
可愛らしい松飾り、玄関と居間には程ほどの大きなお供え餅を備えたり、花を活けたりした。


遥か遠い昔、私が小学校に入学した1951〈昭和26〉年の春の当時は、
生家は祖父と父が中心となって、程々に広い田畑を小作人だった人たちの手を借りて、耕していた。
そして母屋の周囲には竹林、雑木林、そしてお稲荷さんを所有し、
宅地の外れには蔵、納戸などがある農家であった。

母屋の中のひとつの10畳の和室には、梁の近くに神棚が備えられ、
ある10畳の和室には、片隅みの一角には仏壇があり、朝には新たにお茶、お線香を捧げていた。、
この部屋の梁の近くには、昭和天皇のご一族の皇族の写真が掲げられていた。
そして土間の竈(かまど)のある梁の近くに小さな神棚が備えられいた。

そして毎年12月20日過ぎた頃から、この当時は江戸時代からの名残り農家の六人組で、
餅つきなどの場合でも、この日はあそこの家で餅つきをする互いの助成制度の風習が残っていた・・。

祖父の家の順番になると、祖父が中核となり、私の両親、父の妹の叔母、兄ふたりの家族総出で、
ご近所の主人たちが5人来てくださり、餅を搗(つ)いたりした。

こうした時は、もち米を精米にし、水に漬けた後、
その当日になると早朝から二つ大きな竈(かまど)に火をいれ、
二尺程の正方形の蒸篭(せいろ)を幾重にも重ねて、蒸した。

午後になると、杵(きね)で臼(うす)の蒸されたもち米を搗(つ)いた。
すべて手作業なので、労力のいる時代だった。

餅になると、お供え、長方形ののし餅、とそれぞれに作っていた。
長方形ののし餅は、長方形の板で形を整え、片栗粉でまぶした。

年末から正月のお雑煮、七草を得て、
その後、ときたま2月の上旬まで食卓に出されることもあった。

このために、のし餅などは10畳の部屋を二つ使い、廊下まではみ出していた。
そして新年を祝う『お供え餅』を幾つも作ったりしていた。

夕方の6時頃になると、搗(つ)きたての餅をあんこ、大根のからみ、きなこ用に
それぞれ作り、夕食がわりとなった。
こうした中で、ご近所の主人たちには、酒が振舞われ、茶碗酒として出された。

そして年末近くになると、祖父と父は注連飾り(しめ飾り)、注連縄(しめなわ)、輪じめを作ったりし、
神棚を清めたりしてして、新しい注連飾り(しめ飾り)、注連縄(しめなわ)で飾り、
各所に『お供え餅』を備えた。


こうしたことを思い馳せたりしたが、年金生活の今は余りにも簡素な『お正月飾り』となり、
神様はあきれているかしら、とぼんやりと私は苦笑していたが、
居間にあるテレビ台に、『お正月飾り』として可愛いお供え餅に見立てた香合を思いだした・・。
               
               テレビ台にある香合を居間のテーブルに移動して、記念撮影をすると、
               このように小さいながら、我が家の年末年始の情景を見守ってくれる品でもある。

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御節(おせち)料理、我が家も時代と共に変貌を重ねて・・。

2012-12-27 18:40:40 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の68歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

昨日の朝、新聞が配達された中に数多くの折込チラシがあり、
こうした中に最寄りのスーパー、駅前のスーパーで、
《 26日(水)の本日より、おせち全品 販売となります 》
このような内容が多く、チラシの中に、かまぼこ、伊達巻、栗きんとん、黒豆、田作り、昆布巻などの単品、
おせちセットの三種類が掲載されて、私は見ながら微苦笑したりした。

そして、この日の日中、家内の指示に基づいて、私は家内のボディ・ガード、荷物持ち、お供となり、
最寄りのスーパーを始め、最寄駅前のスーパーなど、私たち夫婦は日中の大半を買い物をしたりした。
御節(おせち)料理の素材とか単品の完成品を買い求めたのであるが、
家内は少なくとも『鮮度』、『味付け』、『お値段』などの三拍子を懸案するので、
なかなか妥協点に達しせず、あちらの店へと移ったりして、無知に私は苦笑するばかりであった。

そして深夜、私は居間でぼんやりと若き30代の頃からの御節(おせち)料理に関して、
思いを馳せたりした・・。


私が東京郊外の調布市の長兄宅の実家から離れたのは1972(昭和47)年で、
神奈川県・川崎市の登戸でアパート経営をしながら住んでいる母の宅に同居した後、
千葉県・市川市の国府台で賃貸マンションで新婚生活を2年ばかり過ごし、
実家の近くに一軒屋を構えたのは1978(昭和53)年の春であった。

家内は中学生の時から茶事を学んできたので、私は33歳の若さで世間知らず、
気負いもあり住居の中で茶室を設けたりした。
しかし作庭費用に困り果て、やむえず雑木主体の庭とした。
何より困窮したのは、色々な面で想定した価格より遥かに高く、すべてのローンは多額の借金となり、
月々、ボーナス時の返済は、私が孤軍奮闘しても赤字が多かったのである。

まもなく家内は、パート、契約社員などで、3年ぐらい援軍を受けたりした。

そしてクリスマスの頃になると、家内は御節(おせち)料理の素材を付近の専門店、スーパーなどで買い求めていた。
栗、黒豆、田作りなどの素材であり、
たとえば栗は丹波の栗、といったように家内は茶事で学んだ体験を生かし、
程ほど高価な品を選定していた。

家内は大掃除、御節(おせち)などで奮闘し、茶室の床飾りとして『結び柳』などをし、
私は28日頃に仕事納めをした後、翌日頃から我が家の庭の手入れをしていた。

大晦日の昼過ぎ、家内が御節(おせち)料理の完成を私に告げた後、
独り住まいの母用に、三段のお重に風呂敷でしっかりと結び、
私は家内から受取り、独りで母の所に届けたのである。

http://www.kibun.co.jp/enter/osechi/shogatu/tume/index.html
☆【紀文公式ホームページ】<==《お重詰め豆知識》☆
        注)三段のお重の状況を拝借致したく、掲載させて頂きました。

そして、途中で私は酒屋に寄り、地酒の四合瓶を買い求め、母の所に行ったりした。
その後、母の宅で、出前のお寿司を食べながら、私は持参した地酒を呑み、
母とふたりだけで他愛のない話を数時間を過ごしたのである。

こうしたことは、母の亡くなる1998(平成10)年の新春の前の年まで、
20年間続けた。

こうした中で、新年の2日の私の実家の長兄宅の『新年の祝い』に於いて、
家内は9時前に長兄宅に行き、長兄の奥方と共に、料理の仕上げ、席の準備などをしたり、
私は新年会の始まる30分前頃まで長兄宅に行き、
長兄の家族はもとより、叔父、叔母さんなどに新年の挨拶をしたりした。
この間、母、次兄、妹の家族も加わり、11時頃から新年会となった。

そして、3時頃に散会し、家内は長兄の奥方と共に後片づけをしたりしている間、
長兄、長兄の子供らと私は茶の間で談笑したりした。

こうした長兄宅での新年会は、母の亡くなる前の年まで続いた。


私たち夫婦が1978(昭和53)年の春に新居を構えた後、
1980(昭和55)年の大晦日に家内の両親に来宅して貰い、『お年取り』を復活させた。
私は家内の父と心身の波長が合うので、程々に遠慮なく、食べたり、呑んだりし、
私たち4人ながら心身盛り上がったりした。

そして宿泊して頂き、元旦の新年を迎え、殆ど昼下りに家内の両親は帰宅されたりした。
その後、家内の弟が加わったり、家内の妹夫婦に宿泊してもらったりし、
家内の父の体調が悪化するまで、20年ぐらい続いたのである。
                           

1998(平成10)年の新春に私の母は死去した後、
晩秋に喪中の葉書を関係者に送付したりした。

年末年始、喪に服するのは戸惑いを覚え、
何よりも母親の死去で失墜感、空虚感が私の根底にあった・・。。
世間の人々の多くに残された息子は、
幾つになっても父親の死より、母親の死の方が心痛と聞いたりしていたが、
私の場合は父は小学2年に病死され、もとより母、そして父の妹の叔母に育てられたので、
50歳を過ぎた私でも心は重かったのである・・。

このような私の感情を家内は察して、
『年末年始・・どちらかに旅行に行きましょう・・』
と私に言った。

そして私たち夫婦は、私の定年退職する2004〈平成16〉年の前年まで、
年末年始の休暇を利用して、国内旅行に行ったりしていたので、
もとより御節(おせち)料理は我が家では、お休みとなった。


家内の父が2004(平成16)年の秋、私の定年退職時の直前に病死し、
家内の母は独り住まいとなったので、
私たち夫婦は年末年始の期間は我が家で共に新年を迎えよう、と誘い、
この年から恒例のようなこととなっている。

ほぼ毎年、28日の夕方に来宅して貰い、年末を過ごし、
新年を迎え、3日か4日の午前中に帰宅する。

我が家の年末年始の情景は、居間の17畳ばかりの一角に6人用の炬燵で設置し、
家内の母には、奥の6畳の和室で休んで頂く。

こうした中で、居間の炬燵で、それぞれの好みの御節料理の単品の数々を頂いたりし、
談笑するか、テレビを視聴したりして過ごすことが多くなっている。

こうしてお互いに齢を重ねてきたので、御節料理は簡略となっている。
駅前、最寄りのスーパーで単品を買い求め品が多く、
里芋、くわい、蓮(ハス)などの農作物は、家内は相変わらず料理をしている。
このように私の母が生前した時のように、家内は黒豆などを吟味して買い求めて、
3日ぐらいで仕上げるようなことは略している。

昨日も私たち夫婦はスーパーで単品を選定する前の時、
紀文のメーカーの品であったら充分だょ、と無知な私は家内に言ったりして、
家内に微苦笑されたりしている。

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年末第一弾! 高齢者68歳の私でも、家内のボディ・ガード、荷物持ち、お供となり・・。

2012-12-26 19:09:27 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の高齢者の68歳の身であり、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我家は家内とたった2人だけの家庭であり、
そして雑木の多い小庭に築後35年の古ぼけた一軒屋に住んでいる。

我が家の平素の買い物は、私が年金生活を始めて以来、私は自主的に専任担当となり、
近くのスーパー、駅前のスーパー、専門店などに出かけて孤軍奮闘している。

昨夕、家内から、明日から年末の買い物に行きませんか、と私は告げられた。

何かしら自宅より20分ばかりの歩いた駅前の商店街に行き、
日常雑貨品をホームセンター、専門店で、
そして年末年始に対応した食糧品をスーパーを数店廻り買い求める主旨であった。
『はい! 了解しました・・行きましょう』
と私は若き自衛官の諸兄に負けないように、明るく大きな声で応(こた)えた。

私は2004年(平成16)の秋に定年退職した直後から年金生活をし、
やがて高齢者の身になったので、何かと世情に疎(うと)くなっているので、
ボケてはいけないと、家の中でも明るく大きな声で家内と会話することが多くなっている。

そして私は何かと家事の大半は家内をしてもらっているので、
せめて家内のボディ・ガード、荷物持ちをして、お供をしなければ、
一家の主(あるじ)としての責務が果たせない、と私は昨今を深めたりしている。

我が家は自動車もなく、私は根がケチなせいか、路線バスには乗らず、
ひたすら歩くことが多い。
私は買物をする時、多くの品を購入する時とか、或いはビール、お米などの重い品を買い求める時、
買物の引き車と称される『キャリーカート』を曳〈ひ〉いたりして歩いたりしている。

私は現役時代の緊張感から解放されて以来、身過ぎ世過ぎの年金生活の身であるので、
買物、散策をしたりする往復路で、ご近所の奥様の数人と立ち話をすることが多く、
私の秘かな楽しみのひとときとなっている。
こうした時、確か3年前に、あなたは演歌歌手の吉幾三〈よし・いくぞう〉さんに似てるわ、
と言われたりした。

私は顔立ち、大きな声で明るくユーモアをまじえながら話すことは確かに似ているが、
しかしながら私は歌を唄うことは、贔屓目に見てもNHKの『素人のど自慢』で鐘ふたつぐらいで、
吉幾三さんを思い浮かべて、申し訳ございません、と心の中で苦笑したりしている。

本日の午前の10時半過ぎ、曇り空で北風の吹く寒い中、
私はフリースのジャケットを着て、家内のボディ・ガード、荷物持ち、お供などで、
家内は赤い防寒着を着て颯爽と歩き、数歩遅れで私は『キャリーカート』を曳〈ひ〉いたりして、
第一弾として、最寄りのスーパーに行った・・。
そして帰路、『キャリーカート』に買い求めた品をダンボールを載せて、
私は曳〈ひ〉いて、帰宅した。

こうしたことは、私の定年後の年金生活で、特に年末の買物などで恒例となっているので、
今年の年末の買物の第一弾か、と私は微苦笑したりした。

そして帰宅後、駅前まで徒歩20分ばかりの歩道を私たち夫婦は歩き、
ホームセンターは1店、そしてスーパー3店、ドラッグストアー1店を廻り、
この間にファミリー・レストランで昼食をしたりした。

帰路、暗くなった5時過ぎに私は『キャリーカート』にダンボールを載せて、曳〈ひ〉きながら、
『XXちゃんさぁ・・今年あと何度出陣するの?』
と私は家内に買い物に出かける予定を訊(き)いたりした。

『あと2回くらいで済ます予定・・』
と家内は疲れを浮かべている私に応(こた)えた。

私は平素はブログの投稿文は国内旅行とかパソコンが故障しない限り、
定年後の8年間は毎日投稿しているので、早く帰宅して一筆綴らなければ、
と思ったりしていたのである。
              
昨今は昼下りから夕食の間に2時間ばかりパソコンに触れることが多いので、
パソコンは本日の日中はどうしてかまってくれないの、と寂しそうになっている、
と私は思いながら私たち夫婦は自宅に向った。

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今年わずか残すところ一週間となり、愚図の私でも何かと慌ただしく・・。

2012-12-25 16:58:25 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の68歳の身であるが、
今朝、ぼんやりとカレンダーを見ると、28日の金曜日は『官庁御用納め』と明記され、
今年の『大晦日』の日まで数えたら7日ばかりとなり、
来週の31日の月曜日まではわずか一週間で今年も終わってしまうのか、
と何かと愚図の私でも感じたりした・・。

私の現役サラリーマン時代は民間の中小業に勤めていた時、
『官庁御用納め』に準拠し、『仕事納め』となったりしたが、
それまでの一週間は年末年始を控えて、より奮闘していた。

昨今のサラリーマン諸兄諸姉の多くは、過ぎし22日の土曜日から3連休を過ごされた後、
本日の25日の火曜日から、『仕事納め』の28日の金曜日まで、
デフレ烈風の経済低迷の中で、成果が短期に求められる過酷な業務に奮戦されている、
と思ったりしていた。

私は年金生活をしているが、何かと愚図の私でも、この時節は何かと慌ただしい過ごしている。
我が家の住む地域は、市からの年末年始のごの収集日程が定められ、
25日の火曜日は、燃やせるごみ、カン
26日の水曜日は、古紙、古布
27日の木曜日は、プラスチック
28日の金曜日は、燃やせるゴミ、ビン
いずれも年内最終の収集日となっているので、
私は家内の指示棒に基づいて、最終日だ、と奮闘したりしている。

年賀状に関しては、私の住む地域は25日まで郵便ポストに投函したら元旦に配達できます、
と明記されたいたので、私は21日の金曜日に50通ばかり投函したりした。

この間、16日の日曜日に、衆議院選と東京都の都知事選の投票日に関しては、
生まれて初めて『期日前投票』をしたり、
16日から吾妻連峰の高原にある観光ホテルに3泊4日の温泉滞在旅行をしたりしてきた。
そして小庭の手入れをしたり、日常の買物の担当の私は殆ど毎日のようにスーパー、専門店を廻ったりしてきた。

本日は今年最後の庭の手入れを4時間ばかりした後、スーパーに行ったりしてきた。
家内は大掃除にここ一週間は奮闘したり、独り住まいの家内の母を28日に来宅して頂き、
私たち夫婦と共に三人で年始の1月3日まで共に過ごすぐらいが、恒例となっているので、
これらの準備で多忙なのである。

そして明日の26日からは、我が家は年末年始の買物が主体となり、
私は家内のボディガード兼お供で、荷物持ちの重責が待ち構えているが、
家内はその後に料理となる・・。

私は平素のように読書をしたり、のんびりと遊歩道、公園を散策したいのであるが、この時節は叶わないのである。

                私は自宅から45分ばかり歩いて、都立の『神代植物園』の冬木立の中、

                このような情景の中で過ぎ去り日々に思いを馳せたり、
                     これから訪れる日々にささやかな期待をめぐらしたりしたいのであるが、
年金生活の私でも、何かと慌ただしいのである。

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東京の田舎者の私でも、確かに札幌で『サンタクロース』を視(み)ました・・!?

2012-12-24 16:33:40 | 定年後の思い
私は東京の調布市に住む年金生活の高齢者4年生の68歳の身であるが、
午前の9時過ぎから、机、脇机の新聞・雑誌の切り抜き記事の整理をした後、
本箱の中の本があふれるようになっているので、やむなく単行本を50冊ぐらい廃棄した後、
整理整頓をしたりした。

この後、私はテラスに下り立ち、ぼんやりと煙草を喫ったりしていた時、
『今日はクリスマス・イブだったよなぁ・・』
と心の中で呟(つぶや)いたりした・・。


私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

若き日の私たちの結婚前の交際時には、クリスマス・イブの時に逢い、
プレゼントを交換して、私は少し背伸びをして、銀座の高級な食事処を誘って、
ワインなどを呑みながら、イタリアかフランス料理などを頂いていた。

その後、結婚して2年が過ぎた頃から、
私は退社後にプレゼントを買い求めて、カードにささやなな一文を認〈したた〉め、
ケーキを購入して、我が家に帰宅してたりした。

この後は、一軒家を建てて、ローン返済で苦闘していたので、
せめてケーキだけ購入して、帰宅していた。

私が40代の頃には、家内に何か欲しい品、とやんわりと訊(き)いたりしていたが、
必要な品は、デパートで買い求めているので必要はない、
できたら旅行に行って温泉にゆっくり・・と要望されたりした。

この当時は私は多忙であり、40代の後半の頃から、業務が幾分空〈す〉いた2月頃に、
冬の旅をして、家内の念願に応〈こた〉えたりしていた。

定年退職後の年金生活に於いても、我が家はプレゼントの品よりも、
観光ホテルに滞在して、ゆっくりと温泉を満喫することが多い。

このように我が家はクリスマス・イブは、旅先以外の年は、
ささやかな室内飾りを家内がして、平素より幾分多めの料理を私は日本酒を呑みながら頂いているのが、
定年後の我が家の習性となっている。

こうした関係で我が家は、もとよりサンタクロースにも無縁であるが、
たった一度だけ旅先で『サンタクロース』を視(み)たことがある。


過ぎし日の2008〈平成20〉年の12月、
家内が『さっぽろホワイト・イルミネーション』を観てみたい、と要望されたので、
12月21日より私たち夫婦は、市内のホテルに滞在して4泊5日で訪れた。

初めて『さっぽろホワイト・イルミネーション』を観たり、市内の各地をゆっくり散策したりした・・。

こうしたある時、街通りを歩き、回転寿司の清潔感ありそうな一軒に入ったのであるが、
味が良いのに好感し、地酒も良質で、値段も程々である。
私は昼前なので不謹慎と思いながら参合ばかり呑みながら、寿司を10ばかり頂き、
家内も、美味しいわ、と久々に言ったりした。

この後、中島みゆきさんの歌でも知られた『南三条』の街並みを歩いた後、
地酒の『千歳鶴』で知られている即売店、醸造所見学に寄った。
5種類ばかり試飲し、4合瓶を1本と300mi1本を買い求めたりした。

そして、家内が買物をしたい、と言うので、
近くの『サッポロファクトリー』に入店したのであるが、
大規模な造りに私は驚いたりし、疲れ果て、レンガ館が観える前の喫茶店で家内を待つことにした。

喫茶店の少し寒い外庭のテーブルに座って、ぼんやりとコーヒーを飲んだりしていると、
レンガの煙突にサンタの飾りがあり、空から雪が舞い降り、
偶然にクリスマスらしい光景に私は見惚(みと)れてしまったのである。
            
そして、サンタクロースかょ、と私は心の中で呟(つぶや)いたりした・・。
                  
私はこの建物の中で、煙突にサンタクロースを登らせた発想に瞬時に魅了させられて、
心豊かなデザイナーだ、と感服させられたのである。

もとよりサンタクロースは、この時節、世界の数多くの幼い少年、少女に夢をもたらす根源で、
齢ばかり重ねた東京の田舎者の私でも、長らく見つめたりした。

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ブログの投稿文に写真を添付して、早や50日が過ぎ、齢ばかり重ねた私でも微苦笑して・・。

2012-12-23 15:40:43 | 定年後の思い
私は東京の調布市に住む年金生活の高齢者4年生の68歳の身であるが、
中小業に35年近く勤めて2004〈平成16〉年の秋に定年退職後、
まもなく本屋の書物からブログの世界を知った後、パソコンの故障、国内旅行で出かけた以外は、
自宅から日々投稿文を重ねて、丸8年が過ぎている。

こうして中で、数多くの諸兄諸姉の投稿文を読ませて頂くと、
ここ5年ぐらい殆どの方が心ある写真を添付し、
いつまでも言霊(ことだま)を信愛し、散文のような文章だけでの表現は、
時流に残されてしまう私なりに憂慮してきた。
そして 特に旅行関係の投稿文に関しては、散文を綴りながら危惧してきたのが本音でもある。

過ぎし日の『文化の日』の翌日の4日に於いて、
私は昼下がりのひととき、私は遅ればせながら写真添付に初めて挑戦した。
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、教えを乞う人も近くにいなく、
やむなく加入している【gooブログ】の《 画像入りの記事を投稿する 》の解説を読んだりした・・。

そして深い意味合いも解らず、何とか一枚の写真を添付する投稿文ができた・・。
            
その後は横並びに2葉の写真を掲載することも学び、
愚図の高齢者の私でも、何とか出来たんだ、と安堵を重ねて微笑んだりしたのは、15日からであった・・。
                  

このように投稿文に写真を添付すると、日常の散策の時にデジカメを首から掛けて、
歩くことが殆どとなり、自分ながら微苦笑することがあったりしている。
                

そして自宅から45分の歩いた所に、都立の『神代植物園』があり、錦繍の深めた情景を撮ろうと、
出かけたりしてきた。
                
                

或いは旅先の情景を写したりした。
                

私はブログの投稿文は、定年退職後の年金生活の中で、何かと身過ぎ世過ぎの生活の中で、
日頃感じたことや思索したことなどがあふれる思いをブログ上で、心の発露として描写することが第一目標であり、
50日前の頃から写真を添付しているが、幾つかの写真はイラストの代わりと思ったりしている。
或いは表現力が未熟な私は、やむなく表現の補(おぎな)うために写真を添付している。

しかしながら写真たった一葉でも、私にとって深く思いを表現させる力があることは事実である。
                     
この拙(つたな)い一葉は、私が定年退職した時に、我が家の小庭に小鳥が定期便のように飛来しているが、
たまたま置き土産の種が成長し、やがてこのような樹形となり、私の秘かな定年退職の記念樹となっている。

このような意味合いもあるので、たかが写真の添付、されど写真、と私は微苦笑しているのである。

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クリスマス・ソング、園児から高齢者の多く方が思わず鼓舞される歌は『赤鼻のトナカイ』・・。

2012-12-22 14:42:34 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の68歳の身であるが、
12月初旬の頃から、新聞の折り込みチラシのデパート、スーパーなどで、
クリスマスに関しての贈り物、或いは駅前の洋菓子専門店のケーキが広告チラシとして掲載されてきた。

生家は仏教の曹洞宗の中で育てられ、中学生の頃から何かとアメリカの文化を影響されてきた私は、
この時節を迎えると、クリスマスのシースンかしら、と微苦笑したりしてきた。

過日、家内の依頼で商店街の洋菓子店に行った時、
店内にはクリスマス・ツリーが置かれて、思わず私は微笑んだりした・・。
そして過ぎし日の16日から吾妻連峰の高原の観光ホテルに3泊4日で温泉滞在していた館内でも、
可愛らしいクリスマス・ツリーがロビーの一角に置かれて、私は微笑んで眺めたりしてきた。
               

私は中小業の民間会社35年近く勤めて2004(平成16)年の秋に定年退職した後、
年金生活を始めて、日頃の買物ぐらいと自主的にしてきた。

そして初めてのこの時節を迎えた時、いつものようにスーパーに買い物をしていると、
数多くの人々が連休の上、クリスマス・シーズンに伴い、何時もの平日と違い、込み合っていた・・。
こうした中で ご家族の方たち、現役のサラリーマン風の40代、50代のご夫婦なども見受けられ、
私なりに微笑ましく、感じられた・・。

店内からは、

♪真っ赤なお鼻の トナカイさんは
 いつもみんなの 笑いもの
  ・・・
【 『赤鼻のトナカイ』 訳詞・新田宣夫 作詞、作曲・ジョニー・マークス 】

メロディが流れた・・。

私は何かしら追われるように、買物の選定をしたのであるが、
クリスマス・ソングの中で、誰しもが知っていて、親しまれ、心を高揚させる曲は、
『赤鼻のトナカイ』の歌は、突出して最高の曲と思ったりした。

買物の客が、何かしら追われるようにクリスマス関係商品を数多くお買い上げ頂ければ、
と店長の発想であったならば、優秀な店長と私は誉(ほ)め讃(たた)える。

選曲を『ホワイト・クリスマス』などにした場合、
買い物客は、何かしらしっとりと聴きこんでしまい、お買い上げの向上に図れないと思う。

たかがクリスマス・ソングされどクリスマス・ソング、
選定された曲は何かしらの向上に役立つ、と私は微苦笑したのである。

そしてこの時節、元気のない人は、『赤鼻のトナカイ』の一曲を聴けば、
心身元気を取り戻す特効薬かしら、と微笑んだりした。


こうした思いから早くも8年は過ぎているが、
世の中は政治は混迷、経済は低迷、社会は劣化を加速する中、
サラリーマンの諸兄諸姉は経済はデフレ烈風の中、短期に成果を求められる時代の今日、何かと大変だなぁ、
と無力な私でも同情してしまう。
そして予期した以上にボーナスが減額されて落胆している方も多くいると思ったりしている。

或いは園児の一部には、お友達との交際が巧くいがす、どうしてなのょ、戸惑いながら感じたりしていると思われる。

そして高齢者の一部には、知人が思いがけない終末に遭遇したり、ご自身の病気の悪化に憂いたり、
或いは衆院選で落選された国家議員だった諸兄諸姉も、失墜感にさいなまれていると感じたりしている。

こうした心痛の人たちに、この時節に励まされて、鼓舞される歌は『赤鼻のトナカイ』の歌かしら、
と思ったりしている。
『赤鼻のトナカイ』の歌を聴き、ぜひ自身を鼓舞して頂きたい、
と何かとお調子者の私は願っている。

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『冬至』の時節を迎えると、つたない私でも『日の出』の情景が恋しく・・。

2012-12-21 16:26:01 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の68歳の身であるが、
今朝6時少し前に目覚め、まもなく玄関先から新聞を取り入れと思い、玄関の軒下に下り立った。
薄暗い中、門扉の前の歩道を40代ぐらいのサラリーマン風の男性が出勤される様子で、
経済が低迷している中、短期に成果を求められる時代の今日、何かと大変だなぁ、
と心の中で呟(つぶや)いたりした・・。

そして居間に戻ると、何気なしにカレンダーを見たら、『冬至』と記載されていた。
もとより一年の中で日中の時間は短く、夜の長い時間であり、
私の住む世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅みの地域は、日の出は6時45分過ぎで、
日の入りは夕方の4時半過ぎである。
この後、ぼんやりと私のサラリーマンの現役時代を思い浮かべたりした・・。

1995(平成7)年の頃から、日本経済の足かせになってきた企業の「雇用・設備・債務」の三大過剰問題に対し、
やがて民間会社の多くは過酷なほどに経営改革が行なわれ、リストラ渦中で、殆どのサラリーマンが翻弄された。

私は中小業の多い音楽業界のあるレコード会社に勤めていたが、
レコード会社の各社も総合見直しとなり、
会社間の統廃合をしたり、組織の統廃合で大幅な人員削減も行われたのが多かった。

私の勤めた会社も同様に、早期退職優遇制度の下で、
上司、同僚、後輩の一部が業界から去ったりし、人事異動も盛んに行われたりした。

私も50代のなかば、1999(平成11)年の初春、取引先の物流会社に出向を命じられ、
この中のひとつの物流センターに勤務し、出向先で2004〈平成16〉年の秋に定年退職を迎えた。

この出向先に勤務していた時代、遠方の神奈川県の厚木地域が勤務所在地であったので、
朝の起床は4時45分であった。
家を6時に出たが、この『冬至』の時節の前後は、まだ暗く寒さの中、バス停で始発のバスを待ったりした。

そして小田急線の『成城学園前』の駅前に向うバスの乗客は殆ど8人の固定客で、
お互いに無言であったが、いつものメンバーと思いながら、
秘かに心の中では、お互いに健闘していますね、と私は感じていた。

そして、常連となったメンバーのひとりが欠けていた時は、
風邪を退いたのかしら、と思ったり、
或いは職場が変わったのかしら、やむなく退職をされたのかしら、と思ったりする時もあったりした。

このような心情で、駅前で下車した後、
小田急線の『成城学園前』駅のプラットホームで下りの電車を待っている時も薄暗く、
乗車して、やがて15分過ぎた『新百合ヶ丘』駅を過ぎた頃、車中で日の出を迎えていた。

出向の前は、都心にある本社に30年近く勤務していたので、始業時は9時半であり、
通勤時間は一時間弱であったので、
私は8時過ぎに家を出ていたので、出勤時、出勤状景が一変し、まさに都落ちの心情もあり、
心身何かと鍛えられたのである。

私の50代の後期であったので、体力テストは勘弁してほしい、というのが本音であったが、
出向元の会社も幾たびかリストラ烈風で、やむなく退職を余儀なくした先輩、同僚を思ったり、
出向先の大手企業の傘下の物流会社も、やがてリストラ烈風となり、
こうした中で私なりに背水の陣の心境で何とか頑張れたのが本音であった。

新春が過ぎ、節分の時節になる頃は、『成城学園前』の駅前に向うバスの車中で、
日の出を迎え、ほっとした気持ちは、今の私でも忘れることの出来ない思いでとなっている。


こうした心情を秘めた私は、この『冬至』の時節を迎えると、つたない私でも『日の出』が恋しく、
この後の定年退職後の年金生活をしているが、
無念ながら我が家は周辺が家並みが立ち並び、『日の出』の情景が見えないのである。

やむなく私は家内と共に旅行をした旅先で、『日の出』が見られる所は早朝目覚めて、
眺めたりしている。
             
2010(平成22)年5月24日より6月2日に、北東北の地域を周遊した時、
こうした中で、竜飛岬にある竜飛温泉の『ホテル竜飛』に宿泊していた早朝3時過ぎ、
部屋の窓辺から撮った日の出である。

最近でも、吾妻高原に12月16日から3泊4日で『花月ハイランドホテル』で温泉滞在している時。
部屋のベランダから朝の6時半に撮ったりした。
            

このように齢ばかり重ねた拙(つたな)い私でも、東の空が望める旅先では、
『日の出』が見られる所は、早朝目覚める習性となっている。

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吾妻高原の高湯温泉、初冬の秀麗のうつろう情景は・・。《下》【2012.12.16.~12.19.】

2012-12-20 13:14:18 | 
           最終章

私は滞在している中で、大浴場、露天風呂に定期便のように通ったりしたが、
部屋の中で、本を読んだり、或いは配布された新聞で、衆院選の結果状況のニュースを読んだりした。
もとより今回の衆院選は16日に投票日と公示され、
私は期日前に投票してきたので、結果には苦笑したりし、この思いは後日記載する。

こうした中で、私たち夫婦の指定された部屋は和室の10畳、
窓辺の近くの5畳ぐらいのスペースに椅子とテーブルが置かれている3点セットから、
そしてベランダに下り立ったりして、前方に広がる情景を朝、昼、夕に眺めたりしていた。

里山の樹林越しに、遠方の下方には福島市の大きな街並みが観え、遥か彼方には山なみが観え、
夕暮れ時から、福島市の大きな街並みの灯りが視(みえ)たりした。
             
そして私は早朝の朝焼けの移ろう光景に、圧倒的に魅せられた。
             
             
そして陽が出始め、快晴ではなかったが、天上の神々の姿が視えたと錯覚した程、見惚(みと)れた・・。
             
             

その後、昼下がりの曇り空の中で、たおやかな福島市の大きな街並みが視(みえ)たりした。
             

私はこの光景を見惚れた後、至福の時を過ごせた、と家内に言ったりした。
『今回の旅は、珍しく外出もせず館内で過ごしたりしてきましたが、
貴方が魅了された情景にめぐり逢えて良かったですねぇ』
と家内は微笑みながら私に言ったりした。

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吾妻高原の高湯温泉、初冬の秀麗のうつろう情景は・・。《上》【2012.12.16.~12.19.】

2012-12-20 10:18:23 | 
           序 章

私は東京郊外の調布市に住む年金生活の68歳となった身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

そして定年退職した2004〈平成16〉年の秋以降、年金生活をしてきた私たち夫婦は、
毎年11月初旬になると、12月の初冬の旅行はどうしょうかしら、と話し合ったりしてきた。

私たちは夫婦の共通趣味のひとつは国内旅行であるが、
特に12月はクリスマスに関しては、もとより孫もいないので、自宅で装飾しても張り合いがなく、
たまたま家内の誕生日が12月下旬となり、できれば観光ホテルで温泉に入り、ゆっくりとしたいわ、
と家内の要望もあり、殆ど毎年のこの12月に旅行をしてきた。

今年の12月も舞い降る雪の情景を観たい、そして温泉にゆったりと浸(つか)りたい、
と検討した結果、ある旅行会社が企画された団体温泉滞在型、
《~奥州三高湯の秘湯 良質な乳白色の硫黄泉 湯三昧「高湯温泉」・・》
このように明記された3泊4日の観光ホテル滞在に私たちは魅了され、
過ぎし12月16日から吾妻連峰の片隅みの高原地帯にある『高湯温泉』に初めて訪れた。


           第一章

今回の団体温泉滞在型に参加した私たち一行は総勢28名で、
東北新幹線の『福島』駅に下車したのは16日の午後2時40分過ぎであった。

そして観光ホテルのご厚意のマイクロバスの送迎車に乗車し、
殆ど吾妻連峰の山なみに一直線に向かう国道を走り、連峰の最初の山の中腹に高湯温泉の幾つかの観光ホテルが観え、
やがて登りきった山頂を切り拓いた標高800メートルの所に、宿泊する『花月ハイランドホテル』に着いた。
          

まもなくして私たち夫婦の指定された部屋に入室し、
ベランダからは里山の樹林越しに、遠方の下方には福島市の大きな街並みが観え、遥か彼方には山なみが観え、
『東京駅がたった2時間ばかりで、このような景観が望めるなんて・・』、
と私は家内に言ったりした。

周辺は4日前に雪が30センチぐらい降った、と送迎車のドライバーさんから教示されていたので、
雪が見られ、道路は除雪されていたが、道路のはずれは残り雪とアイスバーンで散策するには滑り易い状況であった。
          
               花月ハイランドホテルの駐車場

私たちは旅立つ前に積雪20センチぐらいの中、
中腹にある高湯温泉の幾つかの観光ホテルのはずれある共同浴場の『あったか湯』など立ち寄ったりすることを
想定していたが、余りにも少ない雪とアイスバーンの道路のはずれを歩くのは危険だなぁ、
と話し合い、館内滞在とした。
http://www.kagetsu.net/
☆ 『花月ハイランドホテル』公式ホームページ ☆    

          第二章

この後は私は、お風呂に行ってくる、と家内に言った後、長い廊下を歩いた・・。
               

私たち夫婦は、ここ数年『源泉かけ流し』の温泉地に注視して、旅を重ねることが多く、
今回の旅も、《平成22年6月1日  東北初!! 高湯温泉「源泉かけ流し宣言」》に魅了され、
旅行の予約をした。

もとより『源泉かけ流し』の温泉は、
《 温泉の浴槽への給湯・排水方法のひとつで、源泉から自然に湧出または機械的に汲み上げた温泉を
浴槽に加水・加温せずに供給し、浴槽から溢れ出た湯を循環させず排水すること》
このように、この世で贅沢極まりない温泉である、と無力な私でも確信している。
家内は日頃から、何かのプレゼントの品物よりも『源泉かけ流し』のある小旅行の方が遥かに嬉しいわ、
と私に言ったりしている。

当館の大浴場は乳白色の硫黄成分があり、入浴後は湯ざめなく心身心地よく、
特に露天風呂は大浴場より少し高めの42度ぐらいで、入浴後の30分過ぎた頃から何かしら汗ばむ程、
快感を増す不思議な湯質である。

大浴場、露天風呂を写真で絶賛したいところであるが、無念ながら紳士淑女のエチケットとして紹介できなく、
当館の公式ホームページを参考し、諸兄諸姉の感性ゆたかな想像力にゆだねる。
http://www.kagetsu.net/onsen.stm
☆ 『花月ハイランドホテル』公式ホームページ  温泉☆

私は滞在中、朝食前に大浴場で髪の毛、身体を洗い清め、身体を温めた後、
日中は幾たびか露天風呂に入ったりした。
                           《つづく》

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《初冬の12月の旅》 蒼穹&みゆき舞い降る十勝地方 【下】【2011.12.20.~12.24.】  

2012-12-19 15:01:16 | 旅のあれこれ
          第三章 糠平(ぬかびら)温泉、そして周辺は

帯広市の郊外にある十勝川温泉の筒井地域にある観光ホテルに連泊した後、
22日の11時過ぎにホテルの送迎バスの乗車し、次の宿泊地の糠平温泉郷に向い、
小雪舞う中を北上し、士幌、上士幌を通り、一時間ほとで、
積雪20センチぐらいの宿泊地の『糠平館 観光ホテル』に到着した。
             
http://www.nukabirakan.com/
☆『糠平館 観光ホテル』ホームページ☆

私たち夫婦は、レストランで昼食を頂いた後、
周辺を観光しょうと、フロントでタクシーを依頼し、最寄りのタクシーは士幌から着たが、
迎えの料金メーターは既に7000円を超えていたので、
やはり北海道は広いなぁ、と私は苦笑したりした。

その後、糠平湖の周囲を廻って頂こうとしたら、
小雪が降る中、この時節は氷結前であるので歩いても湖畔にも近寄れず、
周辺の道路からも霞〈かす〉んで視界が悪く、
やむなくダムの近場で湖の情景を眺めて、デジカメで10数枚撮って、帰館した。
               
そして指定された部屋に入り、浴衣に着替えて、風呂に入った。

http://www.nukabirakan.com/spa/
☆『糠平館 観光ホテル』ホームページ <== 温泉のご案内 ☆

このサイトで紹介されている通り、
大浴場は『木』と『岩』のふたつあり、それぞれ内湯と露天風呂がある。
私は内湯で身体を温めた後、前にある露天風呂に入った。
目の前は傾斜地で針広樹の森となり、下方は小さくなった川が流れ、
そして前方は丘陵に幾重かの樹木が観える景観の良い所である、

露天風呂の屋根は半分ほどで、私は前の方で入浴していると、
雪が強く降り変わり、頭の毛や顔も雪を受けたりした。

そして後方の屋根から、ときおり雪が落下してきたのに驚いたり、
私の在る所の上は、大きな樹木の枝葉に雪が積もっているので、
いつ雪が落下してくるのかしら、と時折不安げに見上げたりした。


或いは下方に川べりの付近には、『仙郷の湯』と称された露天風呂の館があるが、
私が入浴している場所からは、大浴場の入口の横の通りを少し歩いた後、
木の階段を40段ぐらい降り、館にたどり着く状態となっている。
雪は降る中、階段は積雪となっているので、滑らないかしら、と眺めたりした。

この後、小雪になった時、私は下方の川べりの露天風呂に挑戦した。
浴衣姿でこの40段ばかりの階段を下りたが、
足元は積雪で不安定、ときおり微風が吹くと、浴衣の裾は捲れ上がり、
寒い上に風吹くのは勘弁ねぇ、と心の中で叫びあげながら下ったのである・・。

何とか無事に館に着き、簡素な脱衣所で脱ぎ捨て、お湯に身をゆだねた。
男女混浴と称されているが、誰もいなく私は独り占めとなった。
積雪は30センチくらいで小雪が舞う中、
目の前の清流を眺め、川べりの樹木の情景に見惚〈みと〉れたりした。

私は齢を重ねても男女混浴は苦手である。
私の若き40代の半ばの頃、別所温泉に行った時、ある由緒ある観光旅館に宿泊し、
誰もいない大浴場で、ゆったりと身をゆだねていた時、
40歳前後の女性3人が入ってきた。
『あらぁ・・男の人・・独り入っているわ・・
でも・・あたしたち三人だから・・』
と悠然と入浴してきたので、私は圧倒されて、慄〈おの〉のいて片隅に移動したりした。

こうしたささやかな体験もあるので、たとえ同性であっても、
大浴場、特に露天風呂は静けさの中で、身も心も湯にゆだねたいのである。

たまたま今回は小雪舞い降る中で露天風呂は独り占めの贅沢なひとときを過ごしたが、
冬の旅を重ねてきたが、10回目ぐらいかしら、と指を折りながら微笑んだりした・・。


この糠平湖の周囲は、山なみが迫る地域で、大雪山連峰の東部に属し、
この時節でも雪が降り、ときおり止むといった状況であった。
               
私は小学校に入学した幼年期より、みゆき舞う情景に魅了されているので、
部屋の窓辺、ロビー、レストラン、大浴場などで、飽きずに見惚れたりしていた。


          最終章  旅の終わりは、メークイン

旅の最終日の24日、私たち一行は宿泊した『糠平館 観光ホテル』のご厚意で、
午後一時発のホテルの送迎バスで、とかち帯広空港まで送って頂けることとなっていた。

私は近くの『ひがし大雪博物館』に30センチぐらいの積雪の中を向かい、
小雪舞う中を歩いたりした。

私は旅をする時、その地の民族館などを鑑賞する習性があり、
もとより風土、文化などを教示されるためであった。
今回の『ひがし大雪博物館』は、動植物、土壌など多々学び、
特に数多くの樹木の特徴、盛衰、推移、
そしてアイヌ民族の長き歴史に及ぶ日常生活の変貌を教示させられたりした。
              
館内は、私たった独りで鑑賞したが、このようなことは初めてであった。
              

ホテルの前を午後1時少し前に送迎バスは出発し、雪道の中を上士幌、士幌を通り過ぎると、
路面は除雪した雪は消え、周辺は大雪原の中、小雪も止み、まばゆい晴れ間と変貌した。

ときおり微風が吹くと、大雪原の粉雪が吹き飛ばされて、道路に吹雪のような情景となり、
以前に観た道路際の風雪避けが、こうした時に大いに威力を発揮するが、
広い北海道の大地では限りある、とも感じさせられたりした。

やがて帯広市の郊外、やがて高速道路を疾走し、空港までは送迎バスは走ったが、
100キロぐらいの道のり、1時間半ばかりであったが、
改めて殆ど周辺の情景は大雪原であったので、やはり広い十勝平野を実感させられたのである。


とかち帯広空港発の午後4時の便であったので、それまでの待ち時間は家内がお土産を購入した後、
私は家内を誘い、レストランに入店した。
私たち夫婦は、旅の現地の最終には、食事処を利用することが多く、
私は地酒かビールを吞みながら軽食を頂くことが圧倒的に多いのである。
そして旅先の余情、そして旅先のこぼれ話を家内と談笑したりしている。

今回はレストランに入店すると、ビールとお徳用のつまみセットで1200円くらいを配慮していたが、
この時節はなく、やむなくメークインがふたつ蒸かしてある食べ物を指定した、
そして北海道だからサッポロビールの『クラシック』の銘柄と何かと優先していたが、
この店にはなく、サッポロビールの『生』の瓶ビールとした。

私はここ10数年、アサヒ、キリンは大手で成功しているビール会社で、
何かと劣勢なサッポロを応援したくなる性格であり、
特に北海道を旅する時は、サッポロビールの『クラシック』の瓶ビールであると公言し、
ほぼ実行を重ねてきたのである。

このたびは、やむなくサッポロビールの『生』の瓶ビールを吞みながら、
温かなメークインに少しバターをのせて頂いたのであるが、
ビールと波長が良く、家内に絶賛した、

そして家内から笑われてしまい、もとより私の独断と偏見の性格を発露したので、
あなたのとめとめない悪い性格が始まったわ、
というしぐさをまじえてである。


今回の旅先でも、私は地元の高齢者の70代の女性、60代の男性の3名、
そして中学生の男女の5名と談笑を重ねたりした。

旅のさなかに帯広の郊外の果てしなく拡がる大雪原の中、
大地は凛とし、果てしなく青空が観える蒼穹(そうきゅう)の情景に、
亡き作家の立原正秋(たちはら・まさあき)氏を思い馳せたりした。

そして一時時期に過ごされたシンガーソングライターの中島みゆきさん、
或いは亡き作家の福永武彦〈ふくなが・たけひこ〉氏にも思いを重ねたりした。

このようなことを思い、みゆき舞う情景も共に過ごせたのであり、
私にとっては限りなく贅沢な旅であった、と実感したりした。

この後、空港の待合室で、旅を共にした方たちと談笑し、
またお逢いしたいですねぇ、とそれぞれのご夫妻に私たち夫婦は言葉を交わしたりした。

                              《終わり》

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《初冬の12月の旅》 蒼穹&みゆき舞い降る十勝地方 【上】【2011.12.20.~12.24.】  

2012-12-19 06:22:07 | 旅のあれこれ
          序 章

私たち夫婦は、国内旅行が共通の趣味のひとつであり、特に雪の舞い降る情景に魅せられて、
この時節になると、雪恋し、心情となり、
昨年の2011〈平成23〉年12月20日より北海道の十勝平野の中の帯広市の郊外にある十勝川温泉に2泊し、
そして奥地の大雪連峰の東部の糠平〈ぬかびら〉温泉に2泊し訪れ、4泊5日の旅をした。

私たち夫婦は何故かしら北海道の風土に魅せられて、幾たびか訪れてきたが、
無念ながら帯広の地域は、二度ばかりしかない。
最初は周遊観光で晩秋の時に、道東めぐりの2泊3日の最終で十勝地方を観たりし、
その後は、5月の知床半島のクルーズに魅了された後、旅の終わりとして十勝川温泉に宿泊したが、
いずれも雪のない時節であった。

たまたま今回の旅の企画は、ある有力な旅行会社が団体観光滞在プランとして、
11月中旬の頃に新聞に掲載されていた。
家内が見て、十勝川温泉と糠平温泉の特色ある旅程に、
この時節は交通機関のことを配慮すれば、私たち夫婦の個人型の旅としては困難さが予測され、
何よりも旅行会社まかせで、旅費も驚くほどに格安であり、
私たち夫婦は瞬時に魅了されて、この団体観光滞在プランに参加した。


私の心の奥底には、この十勝地方の帯広の冬のイメージは、
郊外の果てしなく拡がる大雪原の中、蒼穹(そうきゅう)の情景である。
厳冬の晴れ間の中、大地は凛とし、果てしなく青空が観えるのが、蒼穹(そうきゅう)の言葉に何よりも相応しい、
と思ったりしている。

私が今でも敬愛している亡き作家・立原正秋〈たちはら・まさあき〉氏の随筆から、
私が30代のなかばの昭和55年(1980年)10月の初旬に遅ればせながら
蒼穹(そうきゅう)という言葉を学んだ。

この中の随筆のひとつとして、知人が古美術店を開き、命名を頼まれ『蒼穹』と氏は名付けられた。
氏の発想の根源は、もとより氏は朝鮮半島で生を受けられたので、
大陸性の気候の中、冬の晴れ間の凛とした情景を思い浮かべて、
蒼穹(そうきゅう)という言葉を思い重ねただろう、と私なりに解釈した。


そして帯広市は、シンガーソングライターの中島みゆきさんが、
小学時代の後半の頃から、帯広市の学校に学び、高校まで過ごされた、
と私は25年前に学んだりした。
私は中島みゆきさんを秘かに女神のように信愛し、
このお方の幾つかの歌に支えられて、この人生の難局を乗り切ってきたひとりである。

このような蒼穹(そうきゅう)の情景、そして中島みゆきさんが一時時期過ごされた地域を
私なりに少しでも学びたい心情があった。

糠平〈ぬかぴら〉地域に関しては、
一昨年の2009年2月にNHKテレビの『生活ほっとモーニング』を視聴していたら、
『糠平湖』の冬の情景の数々が映しだされ、
『一度は・・行った観たいわ・・』
と家内が私に言ったりしていた。


このような単純明快な発想で、この時節はマイナス10度前後、
烈風か寒気団が襲来すればマイナス20度前後と予測される地域を体感しながら、
多くの方とふれ逢いながら、旅をしてきた。


          第一章 壮大なる十勝平野の中、一部に心を寄せて

今回の旅で十勝平野の中、帯広空港から帯広市の郊外にある十勝川温泉の筒井地域にある観光ホテルの送迎バスの乗り、
宿泊地の筒井地域を散策し、
その後は糠平温泉郷に向い、送迎バスで士幌、上士幌を通り、宿泊地の糠平温泉の観光ホテル周辺を散策した後、
帰路は一路南下して帯広空港のコースであった。

20日より北海道の十勝平野の中の帯広市の郊外にある十勝川温泉に2泊し、
そして奥地の大雪連峰の東部の糠平〈ぬかびら〉温泉に2泊し訪れ、4泊5日の旅をした。

このようにわずかな旅路であったので、もとより壮大な十勝平野は、ほんの一部となる。

2000メートル級の山なみが聳える西方の日高山脈、北方の石狩山地、そして東は白糠丘陵に囲まれ、
平野の中を十勝川を中核とした札内川、戸蔦別川、岩内川、帯広川、売買川、ウツベツ川などの幾重の川が流れ、
中心地にはは帯広駅があり、明治の中期の頃から碁盤目状の大きな区画が四方に広がり、
この間には防風林が設けられている。

こうした壮大な十勝平野は、大豆、小豆、甜菜、じゃがいもなどの畑作を広い耕地、
或いは広大な酪農がされている情景が誰しも感じると思われる。


訪れた今回のこの時節は、この農地や酪農地は30センチ前後の大雪原に変貌し、
快晴の時は、遠方の山なみが雪で光輝き、高い大空は青い空が果てしなき拡がる蒼穹(そうきゅう)となった。
そして大雪原は陽射しを受けて、まばゆい光を帯びていた。
こうした時は、朝の6時はマイナス12度前後、昼下がりはマイナス4度前後、
そして夜の6時はマイナス6度前後となった。

或いは小雪が舞い降ると、天上から地表まで、みゆきの世界に変貌し、
ときおり風が吹けば、吹雪となるが、
寒さはマイナス7度前後で、雪が降る時は暖かく、
私は未知の大陸の北中国、朝鮮半島に近い気候かしら、と微笑んだりした。

尚、『みゆき』という表現は、もとより雪のことであり、
万葉集の頃は美由伎、私の敬愛しているシンガーソングライターの中島みゆきさんの本名は、
美雪だったかしら、と思いながら、私の好きな言葉のひとつである。


          第二章  『十勝川 国際ホテル筒井』に再訪、そして郊外を散策すれば

20日の午後3時20分に予定通り『とかち帯広空港』に着陸した私たち一行は、
宿泊先の帯広市の郊外にある十勝川温泉の筒井地域にある観光ホテルの送迎バスの乗り込んだ。
ここで初めて私は、今回の旅を共にする方たちのメンバーを知った。

羽田空港で旅行会社の方に参加最終チエックしたが、お互いにフリーの状況であり、
ただ航空便が指定されただけであったので、参加メンバーは不明であった。

私たちは送迎バスの車内で、60代、70代前半の夫婦が多く、
後で知ったのであるが独りで参加される男性5名、女性1名で、総勢23名であった。

私たち夫婦は、この後の宿泊地の食事処、ロビーなどの館内で、
共に旅する70代前半の3組の方たちを中心に、さりげなく談笑を重ねたりした。
そして現地にお住まいの方たちとも、私は何かと教えを受けながら、
ひとときを言葉を交わし、一期一会を享受した・・。

夕暮れが山なみに染め、そして大地は雪原の広大の情景を観ながら、
一時間ばかり車窓から鑑賞し、宿泊地の『十勝川 国際ホテル筒井』に到着した。

http://www.tutui-h.com/
☆『十勝川 国際ホテル筒井』ホームページ☆


この観光ホテルは、私が定年退職の翌年の2005年5月下旬に、
知床観光船で早朝にウトロから出航し、日の出の頃に洋上から知床岬を観る貸切クルーズに魅了され、
団体観光周遊ツアーに参加した3泊4日の中で、たまたまこの観光ホテルに宿泊した体験があったので、
6年ぶりの再訪となった。
                              
しかしながら、忘却とは忘れる事なり、と名言されたれ菊田一夫〈きくた・かずお〉氏の通り、
《 日本随一 天然植物性 モール温泉 》で、
《 肌にしっとりとなじみ、湯上りに肌がしっとりツルツル効果を実感する美人の湯 》
と明記されたポスターを見た記憶だけが鮮明に残っている。

その当時の私は、入浴後にポスターを見ながら、家内たちの女性なら喜ばしい限りであるが、
年金生活の駆け出し私は、温まればどうでもよいわ、と苦笑したりしていた。
                     


再訪した観光ホテルは、リニューアルされて、
《 真心美人のおもてなしの宿 》と称されて仲居さんの30数名を見かけたが、
男性の私としては、ひとりの小柄な黒髪の仲居さんに見惚〈みと〉れただけであるが、
全般としては溌剌と笑顔を浮かべながら、健気に動く感じは好感させられた。

私は早寝早起き元気な児に徹し、入浴後はビールを吞み、
持参した新書本の二冊を布団の中で読んだり、まどろみながら昼寝をしたりした。
そして、この間のひととき、この周辺をマイナス数度ぐらいの中、
5キロぐらいを歩き廻り、帯広の郊外の情景を観て、思索を重ねた・・。

シンガーソングライターの中島みゆきさんが、
小学時代の後半の頃から、帯広市の学校に学び、高校まで過ごされた情景に思いを馳せたりした。

或いは亡き作家の福永武彦(ふくなが・たけひこ)の遺〈のこ〉された作品を思い浮かべたりした。
私は若き20代の前半に、文学青年の真似事をしたことがあり、
氏の作品に魅了されたひとりであった。

たまたま『草の花』を読みだして、圧倒的に魅了された後、
『風土』、『夜の時間』、『冥府・深淵』、『愛の試み』、『心の中を流れる河』、『 世界の終り』、
『廃市』、『告別』、『忘却の河』、『海市』、『死の島』などを精読したりした。

氏は敗戦後の1945年、治療と疎開のため北海道帯広市に移り、
3か月ほど滞在したのち一時東京に戻るが、
翌年り1946年に再び帯広に渡り、帯広中学校(現在・柏葉高校)の英語教師として赴任する。
その年に処女作「塔」を発表された後、冬に肋膜炎を再発し、
1947年秋に手術のため上京し、清瀬の東京療養所に1953年まで入院した。
そして後年に、『心の中を流れる河』の作品は帯広を舞台に綴られている。

このようなことを思い馳せながら、
遠方の2000メートル級の山なみが雪で光輝き、高い大空は青い空が果てしなき拡がる蒼穹(そうきゅう)、
そして大雪原は陽射しを受けて、まばゆい光を帯びている中、
歩いたりした。
                    
                      
家内と共に歩いたりした時は、頬が寒いわねぇ、と家内は言ったりしていたが、
凛とした冷気の中、私は微苦笑をしたりした。
                
夜のひととき、中島みゆきさんの学んだ高校は、時代こそ違うが、
福永武彦さんが一時時期に英語教師をされていた高校と同じと思われ、
中島みゆきさんも『草の花』、『心の中を流れる河』、或いは『告別』を読まれた、
と私は確信を覚えながら、ぼんやりと思ったりした。

                              《つづく》

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