夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

過ぎ去りし、この7月の私なりの思いは・・。

2010-07-31 20:38:52 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む民間会社のサラリーマンを卒業した65歳の身であるが、
定年退職後の年金生活の身過ぎ世過ぎの日々を過ごしてまもない時、
ブログの世界を知り、日々に感じたこと、思考したことを
心の発露とし、殆ど毎日投稿してきた・・。

投稿出来ない時、国内旅行に出かけた時かパソコンの買い替え、故障などであり、
少なくとも毎日綴れば、日々の確かな心のうつろう思いが残り、
過ぎ去った後、何かの機会に読み返せば確かに蘇(よみがえ)るので、
私は投稿してきた。

このような思いで、この七月も月末を迎え、
今年の七月はどのような思いで過ごしてきたのかしら、
玄関の軒下で煙草を喫いながら、ぼんやりと思い馳せたりした。

先月の14日に入梅(つゆ)入りした後、
過ぎし梅雨の合間の11日に『第22回の参院選』に清き一票を投じたり、
過日の17日に梅雨明け後、急激に35度前後の日々となり、
熱中症で高齢者の方が亡くなるニュースに心を痛めたりしていた。

一昨日の29日は小雨が降ったりやんだり、昨日の午前中は雨が降り、
まさに待ち焦がれた雨であった。
私も元気を取り戻し、樹木や草花が生気を取り戻し、私は微笑んだりした。

しかし、本日の31日から、ふたたび35度前後の日々が長らく続く、
と予報されているので、困ったなぁ、というのが本音である。

日中のひととき樹木の枝葉で休息している蝉(セミ)も元気なく、
先程から鈴虫(スズムシ)は思いだしたかのように、かぼそい声で鳴いている・・。

この後、私は居間に戻り、パソコンの前でこのサイトを開いたりした。

ラムネ、サイダー、懐かしき夏の飲み物は・・。
(2010-07-31 17:57:23 | 時事【社会】)

熱中症、齢を重ねた私が何かと気になり・・。
(2010-07-31 09:43:47 | 時事【社会】)

夏の季節、齢を重ねた私が聴く曲は・・。
(2010-07-30 17:03:16 | 音 楽)

『クマに襲われたカナダ人女性、「死んだふり」で命拾い・・』のお便りを拝読し・・。
(2010-07-30 09:41:11 | 時事【社会】)

中国人の観光客、ビザ条件緩和で5.6倍に激増・・。
(2010-07-29 16:51:35 | 時事【社会】)

初めてブログを投稿した頃の想いで・・。 【下】
(2010-07-29 13:36:30 | 定年後の思い)

初めてブログを投稿した頃の想いで・・。 【上】
(2010-07-29 12:15:16 | 定年後の思い)

霧雨降る朝涼(あさすず)のひとときを迎え・・。
(2010-07-29 06:55:46 | 定年後の思い)

トム・ジョーンズ、私の青年期に愛聴したひとりの歌手・・。
(2010-07-28 18:23:40 | 定年後の思い)

年金生活の私、季節のうつろいと共に・・。
(2010-07-28 10:35:43 | 定年後の思い)

浅田次郎(あさだ・じろう)氏の真摯な文学者としての発言を学び・・。
(2010-07-27 22:20:27 | 真摯に『文学』を思考する時)

定年後、最も魅了されたクラシックの珠玉曲は・・。
(2010-07-27 16:22:37 | 音 楽)

高齢者の私が、ネットで最初に検索するサイトは・・。
(2010-07-27 07:06:54 | 定年後の思い)

東京郊外の我が家の周辺は、雷鳴ばかりで小雨となり・・。
(2010-07-26 22:51:28 | 定年後の思い)

猛暑の折は、ネットで『南極』からの便(たよ)りを拝読して・・。
(2010-07-26 13:28:59 | 定年後の思い)

高齢者の私、熱中症を避ける為に、ふしだらな日々を過ごし・・。
(2010-07-26 09:37:51 | 定年後の思い)

『ビール』、ささやかな私の想いで・・。
(2010-07-25 18:12:35 | 定年後の思い)

亡き敬愛する山本夏彦氏の遺された名言に、私はうなだれ・・。
(2010-07-25 09:42:48 | 定年後の思い)

夏の風物詩の『花火』大会の想いで・・。
(2010-07-24 21:19:54 | 定年後の思い)

『地蔵盆』、古来からの行事を初めて学び・・。
(2010-07-24 10:32:56 | 定年後の思い)

『大暑(たいしょ)』の時節に応じて、猛暑の日々に苦笑し・・。
(2010-07-23 13:07:51 | 定年後の思い)

『日本熱島』に、年金生活の私でも、戸惑いながら・・。
(2010-07-23 10:54:32 | 定年後の思い)

扇子(せんす)と団扇(うちわ)、この夏も愛用し・・。
(2010-07-22 18:03:53 | 定年後の思い)

ふたたび、私の『心のふるさと』は・・。
(2010-07-22 13:29:40 | 定年後の思い)

八代亜紀さんの『雨の慕情』を心の中で唄い、雨乞いし・・!?
(2010-07-22 09:05:19 | 定年後の思い)

夢の中の『ぶなの森』は・・。
(2010-07-21 16:45:45 | 定年後の思い)

『玉すだれ』の白い花が咲きはじめ・・。
(2010-07-21 12:05:32 | 定年後の思い)

我が家は、『毘』の戦旗の小旗が揺れ・・。
(2010-07-21 10:28:25 | 定年後の思い)

簾(すだれ)越しに、夏の季節を過ごせば・・。
(2010-07-20 23:34:43 | 定年後の思い)

過ぎ去り日々に、思いを重ね・・。
(2010-07-20 12:08:13 | 定年後の思い)

淡紅色の花、百日紅(ヒャクジッコウ)の花が彩(いろど)り・・。
(2010-07-20 10:40:28 | 定年後の思い)

高齢者の私、猛暑の対策は・・!?
(2010-07-20 08:05:02 | 定年後の思い)

海の情景に初めて魅了された頃の想いで・・。
(2010-07-19 12:57:09 | 定年後の思い)

里彦の私、初めて海の匂いを感じた時は・・。
(2010-07-19 09:47:55 | 定年後の思い)

若き40歳頃の夢のひとつは、はかなくも・・。
(2010-07-18 15:50:44 | 定年後の思い)

『2000円札』、私なりの想いは・・。
(2010-07-18 08:24:14 | 時事【社会】)

東京の郊外も、『梅雨明け』となり、私は微苦笑し・・。
(2010-07-17 13:42:27 | 時事【社会】)

ささやかな私のトマトの想いでは・・。
(2010-07-17 11:03:56 | 定年後の思い)

菅首相の資産公開に、好感し・・。
(2010-07-16 19:50:01 | 時事【政治・経済】等)

涼しさの便(たよ)りは、『世界の氷山』の美景・・。
(2010-07-16 08:48:08 | 定年後の思い)

『高齢者の免許自主返納、過去最多・・』と知り、私は思わず微苦笑し・・。
(2010-07-15 18:06:23 | 時事【社会】)

梅雨明けの前に、庭の手入れを・・。
(2010-07-15 09:25:29 | 定年後の思い)

MISIA(ミーシャ)の『忘れない日々』の歌声を聴き、思わず私は・・。
(2010-07-14 15:18:59 | 定年後の思い)

ときには、総合月刊雑誌の『中央公論』の特集に注視させられ・・。
(2010-07-14 10:14:27 | 読書、小説・随筆)

『蓮(ハス)の花』に、思わず見惚れて・・。
(2010-07-13 21:52:25 | 定年後の思い)

『ブログの開設から 2000日』と明示され・・。
(2010-07-13 09:57:24 | 定年後の思い)

小沢氏側近の諸兄諸姉の議員、ご一読を・・。
(2010-07-12 21:31:11 | 時事【政治・経済】等)

参院選、揺れた私の思いは・・。
(2010-07-12 07:09:53 | 時事【政治・経済】等)

特急『こまち』の新車両をネットで観て、思わず微苦笑し・・。
(2010-07-11 19:45:36 | 時事【社会】)

高齢者の私は、身も心も清め、参院選に一票を・・。
(2010-07-11 11:32:48 | 時事【政治・経済】等)

たかが『文藝春秋』、されど『文藝春秋』・・。
(2010-07-10 20:27:14 | 読書、小説・随筆)

『参院選』の戦いの最中の当選祈願のお弁当は・・!?
(2010-07-10 14:10:35 | 時事【社会】)

参院選、各党の『消費税』論争に私は戸惑い・・。
(2010-07-10 10:49:46 | 時事【政治・経済】等)

高齢者の私、『年金』より差引かれることが多くなり・・。
(2010-07-09 15:51:40 | 時事【社会】)

『ゆうパック』、遅配気にせず選挙運動を続行・・!?
(2010-07-09 13:41:37 | 時事【社会】)

京の『祇園祭』の私なりの想いで・・。【下】
(2010-07-09 01:04:45 | 旅のあれこれ)

京の『祇園祭』の私なりの想いで・・。【中】
(2010-07-09 00:11:02 | 旅のあれこれ)

京の『祇園祭』の私なりの想いで・・。【上】
(2010-07-08 23:11:40 | 旅のあれこれ)

あべ静江ちゃんの『みずいろの手紙』の歌を思わず唄い・・。
(2010-07-08 12:02:35 | 定年後の思い)

我が家も『エクストラ・コールド・クーラー』が配達され・・。
(2010-07-07 22:22:08 | 定年後の思い)

ふたたび、私のささやかな七夕(たなばた)の想いは・・。
(2010-07-07 09:28:12 | 時事【社会】)

私の秘かな『お中元』の想いで・・。
(2010-07-06 12:56:28 | 定年後の思い)

私の秘かに心寄られた海辺のひとつは、小笠原・父島の扇浦海岸・・。
(2010-07-06 09:18:07 | 時事【社会】)

丸山健二・著の『田舎暮らしに殺されない法』・・。
(2010-07-05 12:12:34 | 読書、小説・随筆)

喫煙文化研究会・編集の『愛煙家通信 No.1』、時代のうつろいを学び・・。
(2010-07-05 02:02:31 | 読書、小説・随筆)

この時節、買物と散策の後は、読書することが多く・・。
(2010-07-04 20:22:57 | 定年後の思い)

ときには、日中のひととき本の整理すれば・・。
(2010-07-04 01:22:07 | 定年後の思い)

たがが『選挙公報』、されど『選挙公報』・・。
(2010-07-03 12:38:53 | 時事【社会】)

庭の手入れをすれば、過ぎ去り日々を想い浮かべ・・。
(2010-07-03 09:09:44 | 定年後の思い)

秘かな私なりのメガネの思いは・・。
(2010-07-02 19:36:24 | 定年後の思い)

我が家の初夏の花に思いを寄せながら、庭の手入れを・・。
(2010-07-02 07:12:54 | 定年後の思い)

秘かな木槿(ムクゲ)の思い・・。
(2010-07-01 18:27:24 | 定年後の思い)

水無月(みなづき)の6月に別れを告げ、文月(ふみづき)の7月を迎え・・。
(2010-07-01 00:09:24 | 定年後の思い)

 
このように投稿していたので、私は読み返して、苦笑していたのである。

私の年金生活に於いて、殆ど毎日、買物と散策をし、季節の移ろいに心を寄せたりしているが、
大半は小説、随筆、歴史書、現代史などを読み、総合月刊誌などを読んだりした上、
このサイトに散文を綴り、投稿したりしたりしているので、
日々は急速に過ぎ去ってしまうのである。

ここで思い出したのであるが、外出した時に、
ご近所の奥様方と立ち話しをしたり、
スーパー、駅前で40代以上の女性のしぐさ、言葉に魅了されることもある。

そして私は、何事も好奇心を失くしたら、この人生は終りかしら、
と心の中で呟(つぶや)いたりしている。


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ラムネ、サイダー、懐かしき夏の飲み物は・・。

2010-07-31 17:57:23 | 時事【社会】
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
いつものように午前中のひとときに買物に行って、
帰宅し、洗面所で顔を洗った後、居間のエアコンの冷風の下で、着替えて、
冷やした煎茶を飲んだりしている。

この夏の時節は、原則として日中は冷やした煎茶、
夜はビール、ときおり冷やした純米酒を呑んだりしている。

たまたま私は小学生の夏に、ラムネ、サイダーを飲んだ頃の話を、
家内に微笑みながら私は話しかけたりした・・。


1951(昭和26)年の春、小学校に入学して、初めての夏、
父の妹の二十歳過ぎの叔母に連れられて、付近の雑貨屋に行った。

叔母が、ラムネひとつ、と店の主人に言った。
店の主人が、栓を開け、ポーンと音がし、瓶の中からあわ立ちながらあふれてきたのを、
私に手渡された・・。

私は不思議な形の瓶もさることながら、
刺激のある飲み物であったが、喉越しに甘さが残る飲みと感じたりし、
3分過ぎて、お腹の満腹感を感じた頃、飲み終えた。

そして、瓶の中にビー玉のような玉に気付き、
瓶を少し振ると、不思議な音がした。

叔母は私を少しみつめながら、微笑(ほほえ)んでいた。
そして、叔母は購入したアイス・キャンディをかじっていた。

その後、夏休みになると、独りでこの雑貨屋に行き、
おじさん、ラムネ頂戴、と言って飲んだりした。

そして飲んだ後、いつもビー玉のような玉はどのように入れているのか、
不思議な思いでいた。

私はこの頃、家にあったB29(アメリカの爆撃機)の鉄製のおもちゃがあり、
どうして空に飛べるの、と同様に、
ラムネの中にある玉、どうして入れて作れるの、
と母や叔母を困らせた。

小学5年の夏休みになると、私はサイダーに変った。
三ツ矢サイダー、と明示されたサイダーをやっと飲み終えると、満腹となり、
これ以上の幸せはない、と子供心に充たされていた。


20数年前、家内と旅先で、ラムネを見つけた時、
私達は飲んだ後、こんな味だったかしら、とお互いに笑ったりした。
そして、瓶を振ると、かすかな音がし、
もう一度、手を振り、音色を楽しんだ。

昨今、スーパーで偶然にラムネを見かけたりすると、
お洒落(しゃれ)な瓶だったかしら、
私の幼年期のラムネの瓶は、蒼く素朴な色合いをしていた、
と思ったりしたが、少なくとも60年近くの歳月が過ぎ去っているので、
少しボケたのかしら、と微苦笑したりしている。


このような他愛のない話を、ときおり私は家内と話したりしている。


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熱中症、齢を重ねた私が何かと気になり・・。

2010-07-31 09:43:47 | 時事【社会】
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
先程、ネットでニュースを見ようと【YAHOO! JAPAN】を開き、
時事通信社の基幹ネットの【時事ドットコム】から配信された記事のひとつに驚いたのである。
無断であるが、この記事を転載させて頂く。

《・・
   熱中症死者、全国で200人超=梅雨明け後、水分補給を―8月に再び猛暑も

全国でほぼ一斉に梅雨明けした17日から29日までの約半月間に、
熱中症による死者が全国で200人を超えたことが31日、時事通信社の集計で分かった。

約9割が65歳以上の高齢者で、自宅など屋内での死亡例も目立った。

猛暑は大雨の影響で弱まったが、8月上旬にかけ再び強まる恐れがある。
気象庁や各地の消防などは、こまめな水分補給などの対策を呼び掛けている。

東京都監察医務院や各地の消防、警察などの情報をまとめると、
17~29日に熱中症で死亡した人は、全国で少なくとも217人に上った。
東京82人、埼玉42人のほか、栃木、千葉、三重、兵庫各県ではそれぞれ7人が亡くなっている。

草むしりなどの農作業や散歩の途中に倒れた人が多かった。
千葉県木更津市では女性(81)が介護施設の送迎車の中に約8時間放置され死亡。
大阪市では夫(79)と妻(87)が窓を閉め切った自宅マンションで死亡していた。
夫婦の部屋は扇風機のみで、「蒸し風呂状態」(府警)だったという。

一方、岐阜県恵那市では30代男性が道路工事現場で警備中に倒れたほか、
兵庫県新温泉町では40代男性が自転車レース中に倒れるなど、
比較的若い人が亡くなる例もあった。

梅雨明け後、最高気温35度以上の猛暑日が続き、
熱中症は「例年にないペース」(奈良県防災統括室)で増加。
東京都の担当者は「言葉のイメージから『日差しがなければ大丈夫』と感じるかもしれないが、
実際は屋内も危険。

クーラーを使わず死亡した高齢者も多かった」と話す。 

7月31日5時20分配信 時事通信
・・》
注)記事の原文に、あえて改行を多くした。

http://dailynews.yahoo.co.jp/fc/domestic/heatstroke/?1280526785
☆【時事ドットコム】熱中症死者、全国で200人超=梅雨明け後、水分補給を―8月に再び猛暑も☆


この後、私は下段に掲載されている特集を思わず読んでしまった。


   ◇熱中症を予防するために

    知っておこう!熱中症の予防と応急処置 - healthクリック 》

記事の丁寧な解説は、下記の通りである。

http://www.health.ne.jp/library/5000/w5000374.html
☆ ◇熱中症を予防するために
       知っておこう!熱中症の予防と応急処置 - healthクリック ☆
 
私は齢ばかり重ねた65歳で、体力も衰え、
梅雨明け後、急激に35度前後の日々に戸惑い、どうしてなの、と燦燦と照りつける中、
午前中のひとときに、買物や散策をしたりしていた。

一昨日の29日は小雨が降ったりやんだり、昨日の午前中は雨が降り、
まさに待ち焦がれた雨であった。
私も元気を取り戻し、樹木や草花が生気を取り戻し、
私は微笑んだりしたが、本日の31日から、35度前後の日々が長らく続く、
と予報されているので、困ったなぁ、というのが本音である。


私はこの間の心情として、
【高齢者の私、熱中症を避ける為に、ふしだらな日々を過ごし・・。】
と題し、過日の26日に投稿している。

【・・
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
過日の17日に梅雨明けの後、連日の猛暑のような35度前後の日々となり、
暑さに苦手な私は、戸惑どっている。

今朝もいつものように読売新聞の朝刊を読んでいたら、
悲しく高齢者の方が熱中症で亡くなる、と記事を読んだりすると、
私も昨年の9月に高齢者となっているので、何度も読み返したりしていた。


この記事に準じた記事は、読売新聞の基幹ネットの【YOMIURI ONLINE】に掲載されているので、
無断であるが、この記事を転載させて頂く。

《・・
      熱中症死者、半数は屋内…65歳以上が大半

全国的な猛暑は25日も続き、岐阜県多治見市で最高気温38・1度を記録したのをはじめ、
全国921の観測地点のうち、96地点で35度以上の「猛暑日」となった。

埼玉県、千葉県、兵庫県、奈良県では、熱中症とみられる症状で同日夕までに計6人が死亡した。

読売新聞の集計では、関東などで梅雨明けした17日~25日夕に、
熱中症が原因とみられる死者は全国で81人。
65歳以上が大半を占める。
半数以上の45人が自宅など屋内で死亡しており、
25日に亡くなった6人中5人も屋内で発症していた。

日本救急医学会の調査では、高齢者の熱中症の半数が室内で起きている。
介護を受けている人など活動が少ない人ほど重症が多い傾向があるという。

気象庁によると、26日以降の1週間の気温は、
全国的に平年並みか平年より高くなる見込み。
同庁は「屋外はもちろん屋内でも熱中症に厳重な警戒が必要」と呼びかけている。

(2010年7月26日03時02分 読売新聞)
       ・・》
注)記事の原文に、あえて改行を多くした。

http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20100726-OYT1T00046.htm?from=top
☆【YOMIURI ONLINE】 熱中症死者、半数は屋内…65歳以上が大半 ☆

そして新聞の【都内版】にも、《猛暑 救急出動最多の2766件 都内、24日》
とニュースも報じられている。
【YOMIURI ONLINE】にも【地域ニュース 都内】として掲載されているので、
無断であるが、この記事を転載させて頂く。

《・・
       猛暑 救急出動最多の2766件 都内、24日

今月24日の都内の救急出動件数が、統計が残る1936年以来、
過去最多の2766件に上ったことが東京消防庁のまとめでわかった。

この日は各地で35度を上回る「猛暑日」となり、
都内でも大手町で35・8度を記録。

同庁は「今夏の異例の暑さが救急出動の急増につながったのではないか」と分析している。

出動件数のうち178件が熱中症と診断された。
同庁によると、このほかにも、めまいや発熱など、熱中症と診断されなかったが、
暑さが原因とみられる症状が多かったという。

23日も2683件の出動があり、
同庁は「外出時はこまめに休憩して水分補給を」と呼びかけている。

(2010年7月26日 読売新聞)
       ・・》
注)記事の原文に、あえて改行を多くした。

http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/tokyo23/news/20100726-OYT8T00095.htm?from=navr
☆【YOMIURI ONLINE】 猛暑 救急出動最多の2766件 都内、24日 ☆


私は梅雨明けの後、連日の猛暑で、何よりも暑さに苦手な私は、
午前中のひととき、買物の担当の私は、買物の後の散策も短かなコースとなっている。

買物は駅前の15分の道のりを敬遠し、最寄のスーパーの二軒で購入したり、
散策も近所の住宅街の道を歩いたり、川べりの遊歩道を歩き、
ときおり大きな樹の下にあるベンチに座り、休憩をしたりしている。

このような時、半袖のスポーツ・シャツと長ズボンのストレッチ・パンズ、
そして夏の帽子を深くかぶり、サングラスした容姿で、
扇子(せんす)を扇(あお)ぎながら、
大通りの歩道や遊歩道を歩いたりすることが多いのである・・。

帰宅後、洗面所で顔を洗った後、
居間のエアコンの冷風の下で、着替えて、冷茶を飲みながら、
団扇(うちわ)を取り出して、冷房の中、扇(あお)いだしている。


我が家は子供も恵まれず、たった家内と2人で、
古びた一軒屋に住んでいるが、毎年、梅雨の晴れ間から秋の彼岸の頃まで、
簾(すだれ)で夏の陽射しをさえぎったりしている。

簾を各部屋に掛け、家内の指導の下で、私は助手となっているが、
のろまな私は役立たずで、家内が殆どしているのが実態である。

洋間の場合は、雨戸、網戸、ガラス戸となっているが、
この季節はカーテンを外して簾とする。
そして和室も同様に、雨戸、網戸、障子であるが、簾をつけたりしている。

朝涼(あさすず)が残る朝の9時が過ぎる頃まで、
網戸と簾にして、庭越しの風を通したりしている。


このように簾で夏の陽射しをさえぎったしているが、
午後のひととき居間のはずれで簡易ベットに横たわりながら、
エアコンの冷風を受けながら、本を読んだりして、少し昼寝をすることが多い。

このように熱中症を避ける為にふしだらな日々を過ごしているが、
高齢者の年金生活の私は、救急車のお世話になりたくないし、
『少しダラけた生活をしているなぁ・・』
と私は苦笑しながら、家内に云ったりしている。
・・】

このように投稿しているが、
今年の夏は異常な暑さ、と思っている。


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『夏になったら聴きたい曲は・・』、齢を重ねた私が聴く曲は・・。

2010-07-30 17:03:16 | 音 楽
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
先程、この【gooブログ トピックス】に於いて、
《 夏になったら聴きたい曲は何ですか? 》
と記載されていたので、齢を重ねた私が聴いたり、鼻歌で唄ったり、
心の中で唄う曲は・・と思い返したのである。

数分、思い浮かべていたら、

『長崎の鐘』サトウハチロー・作詞、古関裕而・作曲/昭和24年

『少年時代』井上陽水・作詞、作曲/平成2年

『さとうきび畑』寺島尚彦・作詞、作曲/昭和42年

『夏の思い出』江間章子・作詞、中田喜直・作曲/昭和24年

『浜辺の歌』林古渓・作詞、成田為三・作曲/大正5年

このような曲が出てきたのである。

私はこれらの歌に関しては、このサイトに綴っているが、
特に涙なくして聴けない歌は、『長崎の鐘』、『さとうきび畑』、そして『浜辺の歌』である。


今回、『長崎の鐘』に歌に関して、再掲載する。

【長崎のこの日には、私は永井隆氏の遺(のこ)された言葉を・・。】
と題して、昨年の2009年8月9日に投稿している。

【・・
私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の64歳の身であり、
洗面した後、玄関庭に下り立ち、西の空の長崎に向かい黙祷したのは朝の7時過ぎであった。

過日の6日の広島に向って西の空の彼方に黙祷したが、
同じような深い思いで、手を合わせたりしていた・・。

かの大戦の終末時、アメリカは広島に8月6日午前8時15分に人類史上初めて原子爆弾が投下され、
少なくとも15万人の人が即死した。
そして、長崎は8月9日午前11時2分に投下され、8万人以上の人が即死した。

私は今年の2月中旬の折、
家内の母は、新潟の高田町(現在・上越市)で戦時中の青春期の時、
多くの同級生と共に軍事工場に働き過ごした身であるが、
生きているうちに一度は長崎の『原爆資料館』を観てみたいわ、
と要望されたので、私達夫婦と家内の母で長崎を訪れた。

私は家内たちとは別行動で、独りで長崎の各所を拝観したりした。
こうした中で、うしろめたいような心情で長崎の『原爆資料館』に初めて訪れ、
改めて過酷な実態を知り、その当時のことはもとより、
被爆された後からも、心身ともに苦痛な日々を過ごされている人たちを思うと、
私は『原爆資料館』を辞する時、涙があふれたのである・・。

この後は、未知の長崎医大の前を歩いたりしながら、
初めて訪れる『長崎市 永井隆記念館』を探し求めながら、
小春日和の中を独り歩いたのである。

このことについては、このサイトに於いて、
【『長崎』、『雲仙』よかとこ滞在記 ~歴史のかたみの中で~ 】
と題して、投稿しているが、あえて再掲載をする。

【・・
(略)
    第5章 『長崎市 永井隆記念館』を訪ねて

私は永井隆氏の名を知ったのは、遅ればながら高校二年の時で、
昭和37年であった。

幼年期の5歳頃、ラジオから『長崎の鐘』の歌が流れ、
幼児の心なりに悲しみを覚えたりし、
この後には母に手を引かれて映画の『長崎の鐘』を観たりしたのである。

このような思いは、私はこのサイトに於いて、
【 『長崎の鐘』を聴くときには・・。 】と題して、
2007年8月27日で投稿しているが、あえて今回は再掲載をする。

【・・
私は昭和19年9月に東京の郊外で生を受けた。

昭和25年の頃に、自宅のラジオから『長崎の鐘』がよく流れてきた・・。

♪こよなく晴れた 青空を
 悲しと思う せつなさよ
 うねりの波の 人の世に
 はかなく生きる 野の花よ

【『長崎の鐘』 作詞・サトウハチロー 作曲・古関祐而 唄・藤山一郎 】

私は5歳の幼児であったが、何かしら物悲しく感じたりした。

♪なぐさめ はげまし 長崎の
 ああ 長崎の鐘が鳴る

【『長崎の鐘』 作詞・サトウハチロー 作曲・古関祐而 唄・藤山一郎 】

ここまで聴いていると、いじけた幼児の私でも涙があふれてきた・・。

翌年の夏、近くの寺院の境内で、映画が放映された。
この頃の時代は、学校の校庭とかで、スクリーンを張って、ときたま映画が放映されていた。
娯楽の乏しかった時代、ご近所の方達が集まって、
このような催しが行われた時代でもあった。

近くの寺院の境内で上映されたのは、映画の『長崎の鐘』であった。

母に連れられて、初めて観た映画だった。

帰路、満天の星空の中で、天の川も加わり綺麗だった、ということが今でも残っている。

映画のストリーは忘れてしまったけれど、幾つになっても、藤山一郎の歌声を聴くと、
私は涙ぐんだりしている。

私は後年になると、作詞はサトウハチロー、作曲方は古関祐而と知るのであったが、
肝心な『長崎の鐘』という原作を書かれた永井隆は無知であった。

その後、このお方の人生経路を知り、涙で曇った。

♪召されて妻は 天国へ
 別れてひとり 旅立ちぬ
 かたみに残る ロザリオの
 鎖に白き わが涙

【『長崎の鐘』 作詞・サトウハチロー 作曲・古関祐而 唄・藤山一郎 】

ここまで転記させて頂いているが、著者の永井隆の人生を思い馳せると、
また瞼(まぶた)が熱くなってしまう。


国家の国益という怜悧の中、アメリカは広島に続き、長崎にも原子爆弾を投下した。

思えば、7月26日に於いて、アメリカ、イギリス、ソビエトの首脳により、
『ポッタム宣言』で日本に降伏を勧告したが、
日本政府と軍の首脳部が混迷し、黙殺した結果となり、
8月6日に広島に続き、9日に長崎に投下された。

こうした事実を少しづつ知りはじめると、
なお一層、この歌は悲劇を通り過ぎて、悲惨な過去の実態にうっすらと涙を浮かべる。

私は年を重ねた62歳の身であるが、
ここ10数年、8月15日の敗戦日になると、
昼のひととき『長崎の鐘』を聴いて、平和の大切さをかみ締めている・・。
・・】

このような思いもあったりしたが、
今回の旅行の旅立つ数週間前に、ネットで『永井隆博士の生涯』などを学び、
少なからず衝撃を受けたのは、長崎医大物理療法科の部長の時を含め、
この当時は劣悪なレントゲン機器の状況となった中で、数多く撮った結果、
当人の永井隆自身がラジウムの放射線で白血病となり、
昭和20年6月に余命3年と診断された、ということであった。

そして永井隆氏は、妻に告げるのであるが、
この時の心情を思うと、私は思わず涙を流したのである・・。

館内の展示品を拝見しながら、
この後の原爆投下後の状況、そして無念ながら亡くなるまでの軌跡に、
改めて感銘を受けたのであった。

http://park10.wakwak.com/~cdc/nagasaki/nyokodou/
☆ 長崎市永井隆記念館 ☆

そして館を辞する直前、私は書籍の即売コーナーで、
恥ずかしながら未読であった『長崎の鐘』(アルバ文庫)を購入して、
ホテルで深夜の2時半過ぎまで読み、敬意を重ねたのである。
・・】

このように私は綴ったりしていたのである。


こうしてぼんやりと私は読み返したりしているが、
館を辞した後、市電の駅に向う途中で、小公園の石のベンチに座り、
永井隆氏の遺(のこ)された言葉が深く思いだしていた・・。

『この子を残して』の書物の『父性愛』と題された一節に於き、
《・・
この子を残して・・・・・
この世をやがて私は去らねばならぬのか!

母のにおいを忘れたゆえ、せめて父のにおいなりとも、と恋しがり、
私の眠りを見定めてこっそり近寄るおさない心のいじらしさ。

戦の火に母を奪われ、父の命はようやく取りとめたものの、
それさえ間もなく失わねばならぬ運命をこの子は知っているのであろうか?
(略)
・・》

『平和塔』の書物の『如己堂』と題された中に於き、
《・・
如己堂は、2畳ひと間きりの家、北側の壁に香台、本だなを取りつけ、
その下に幅2尺長さ6尺の寝台を置いて、ここに私は身を横たえている。

西側は一面の白壁、何の飾りもない。
東と南はガラス戸で、草に埋もれる原子野を隔てて浦上天主堂に向かう。

この家を狭いと思うは、なまじ敷居で庭と仕切って、この部屋をわが物ときめた人間がみずから招いた窮屈。
(略)
如己堂・・・・己の如く他人を愛す、という意味を名にとったこの家は、
家も妻も財産も職業も健康も失って、
ただ考える脳、見る目、書く手だけをもつ廃人の私を、
わが身のように愛してくださる友人が寄って建ててくださった。

そして今にいたるまで、その数々の友の如己愛は絶えずこの家に注がれ、
それによって廃人の私は生命を確かにつないできた。
寝たきりの私と幼い2人の子とが、ひっそり暮らすにふさわしい小屋である。
・・》
注)著作の原文より、あえて改行を多くした。

私は、ときおり今でも永井隆氏の遺(のこ)された言葉をかみ締めている・・。

そして、余りにも多くの市民の方が犠牲となられた人にご冥福を、
今なお被爆の後遺症に心身ともに苦しまれている方にお見舞いを、
ただ私はこれだけしか言葉にできないのである。

せめて私は平和を祈念する時、原点としてひとつの歌を幾度も聴いたりしている。

http://www.youtube.com/watch?v=Z3AOUJdbRKs
☆【『長崎の鐘』 作詞・サトウハチロー 作曲・古関祐而 唄・藤山一郎 】☆


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『クマに襲われたカナダ人女性、「死んだふり」で命拾い・・』のお便りを拝読し・・。

2010-07-30 09:41:11 | 時事【社会】
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
昨夕、ネットでニュースを見ようと【YAHOO! JAPAN】を開き、
たまたまロイターから配信された記事のひとつで。
【クマに襲われたカナダ人女性、「死んだふり」で命拾い】という記事を読んで、
私は微苦笑させられた・・。
無断であるが転載させて頂く。
《・・
[コディ(米ワイオミング州) 28日 ロイター]

イエローストーン国立公園にも近い米モンタナ州ギャラティンのキャンプ場で28日未明、
男女3人が野生のクマに襲われたが、
そのうちの1人は「死んだふり」をして命拾いした。

1人が死亡した今回のクマ襲撃で助かったのは、
カナダからの旅行者デブ・フリールさん(58)。

テント内で就寝中、クマにかまれて目が覚めたという。
搬送された病院のベッドで電話取材に応じ、
恐怖心と戦いながら危機を切り抜けた当時の様子を語った。

最初は「一瞬のうちにクマの歯が腕に食い込むのを感じ、骨が折れたのが聞こえた。
悲鳴を上げたが、
それがクマを怒らせたらしく、さらに歯を食い込ませてきた」という。

「それで死んだふりをしようと決めた。ぬいぐるみ人形のように、
すべての筋肉をだらりとさせた」と話した。

パニックと戦いながら落ち着きを失わなかったことが、
生死を分けるカギだったようだ。

フリールさんは、体をリラックスさせるとクマのあごからも力が抜けるのが分かり、
間もなく「自分を離して歩き去った」と説明。

その試練は35─40秒間の出来事で、
隣のテントで寝ていた夫でさえ気づかなかったという。

初めて訪れた地で遭った災難だったが、
キャンプの経験が豊富なフリールさんは
「クマを恐れてはいない。敬意を持っている」と語っている。

7月29日18時9分配信 ロイター

注)記事の原文に、あえて改行を多くした。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100729-00000024-reu-int
☆【ロイター】《クマに襲われたカナダ人女性、「死んだふり」で命拾い》


私は若き大学時代には、中退するまではワンターフォーゲル部に所属し、
冬山の登山、岩登り以外は、先輩の指導の下で、山の地や里山まで歩き回っていた。
もとより、キスリングに個人装備、共同装備を背負い、
テント生活に明け暮れていたが、幸いに熊に出遭うことはなかった。

昨今は家内との共通趣味の国内旅行をした時に、
たまたま独りで里山を歩いていた時、熊に出遭うことのないように予備対策をした。


過ぎ去りし2006(平成18)年10月中旬、
私達夫婦は家内の母の念願の北海道旅行に誘い、道央、道東めぐりをした。

この旅の中で、知床半島のウトロにある観光ホテルに連泊していた。

家内達は漁港周辺を散策するので、
私は独りで『知床自然センター』の周辺を散策することにした。

この館内の映像展示館で『知床の四季』を観た。
解説に寄れば、映像を超えたダイナビジョンが誘う、大自然の世界、と綴られていたが、
まさに遂力のある映像から知床の大半が集約されている名画、
と感動を受けたりした。

この後、私は、『乙女の涙』と称される海岸の滝までの遊歩道の路を、
係員の方に訊ねた時、
係員の方から、
『熊除けの鈴・・無料で貸し出ししていますので、持たれたら・・』
と好意の言葉を私に云った。

少しためらいながら私は、微苦笑しながら、
『ご好意・・ありがとう・・でも、大丈夫でしょう』
と私は係員に熊除けの鈴を受け取らず、歩きだした。

私は登山、ハイキング時などで、鈴の音を聴いたりすると、
何かしら拒絶反応するタイプであったのである。
樹林の中のゆるやかな坂道を下ると、あたり一面平地となり遥か彼方に知床の連山が観られる一帯であった。
前方に団体観光客の方たちが見えたので、
私はこの方たちにまぎれて談笑しながら、『乙女の涙』まで同行した。

私は、『乙女の涙』の周辺の海岸の光景に見惚れて、
ゆっくりと時間を過ごしたので、帰路は独りぼっちになってしまった。
樹林に近づくと、いつでも熊が出できても、おかしくないよなぁ、
と恐怖心がつのったりした。

しかし熊に出遭うことのないように、

♪イヨマンテ
 燃えろ かがり火

【『イヨマンテ(熊祭)の夜』 作詞・菊田一夫 】

歌手の伊藤久男のように朗々と唄えないが、
今回の旅行前から『イヨマンテ(熊祭)の夜』の歌を秘かに練習をしていた。
そして熊避(よ)けには、音痴な私の唄声でも鈴などより余程効果があると信じていた。


この後の数日後、阿寒湖の湖畔の観光ホテルに滞在した時、
家内達は、観光船でマリモ展示観察センター観たりするが、
私は興味がないので、湖畔周辺を散策することにした。

観光船乗り場の脇道から遊歩道があると聞いていたので、歩き始めた・・。

湖畔沿いの小道は、エゾマツ、トドマツ、ダテカンバ、ナナカマドの針広混生樹林の中を少し間引いて、
遊歩道として『湖畔コース』と名づけられていた。

湖畔に目を転じると、阿寒湖の情景が観え、
快晴の中、遠方に遊覧船が見えたりした。

広葉樹林は、紅色、黄色に染められて錦繍となり、
湖面の陽射しが差し込み、葉の一枚が枝から舞いながら水面に落ち、
微かな水紋でゆらいでいる・・。

この遊歩道をゆっくり歩きながら、
ときおりデジカメで風景を切り取り、15分過ぎたと思われるが、
私のほかは人影を見かけない。

こうした時も『イヨマンテ(熊祭)の夜』を唄いながら、
無事に通り抜けたのである。

最も熊だって、東京の田舎者の音痴な人には遭いたくない、
と隠れ潜んでいたと思われる。


戯(たわむ)れにささやかな体験を綴ったが、
若き頃のワンダーフォーゲル時代、先輩より熊に出遭った時、
動くことなく静止しろ、まして死んだふりは効果はない、
と教示されてきた。

今回のカナダ人女性は、テントの中で睡眠中に突然に襲われ、
動揺しながら、咄嗟に死んだふりで、災難を回避できたのは、
稀(まれ)なケースと私は思ったりしている。

尚、お読み頂いた若い世代の方には、『イヨマンテ(熊祭)の夜』の名曲は、
ご存知ないと思われるので、掲載する。

http://www.youtube.com/watch?v=Q2odR2ccZFs&feature=related
☆【『イヨマンテ(熊祭)の夜』 作詞・菊田一夫、作曲・古関祐而、唄・伊藤久男】


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中国人の観光客、ビザ条件緩和で5.6倍に激増・・。

2010-07-29 16:51:35 | 時事【社会】
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
先程、ネットでニュースを見ようと【YAHOO! JAPAN】を開き、
産経新聞社から配信された記事のひとつ『条件緩和で中国人観光ビザ5.6倍に』を読んで、
思わず微笑んだりした。

無断であるが、この記事を転載させて頂く。

《・・
観光庁の溝畑宏長官は28日の記者会見で、
7月から発給要件が緩和された中国人の個人観光ビザの発給件数が、
23日までで5836件と、昨年7月の1033件に比べ5.6倍になったと明らかにした。

[フォト]アキバの朝は「チャイナタウン」 ビザ緩和で10倍に

一方、同庁が28日発表した今年1~6月の訪日外国人旅行者数は420万3400人で、
前年同期比35.8%増加した。
中国人観光客が牽引し、リーマン・ショック前の水準に迫るまで回復した。

7月29日7時55分配信 産経新聞    
・・》
注)記事の原文に、あえて改行を多くした。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100729-00000048-san-bus_all
☆ 産経新聞社より配信 『条件緩和で中国人観光ビザ5.6倍に』 ☆

私はこの中にある、
《 アキバの朝は「チャイナタウン」 ビザ緩和で10倍に 》
記事も精読したりした。

無断であるが、この記事を転載させて頂く。
《・・
午前10時すぎの東京・秋葉原。家電量販店ラオックス本店前に、
観光バスやワンボックスカーが次々に乗り付けた。

降りてきた中国人観光客が店内へなだれ込む。
店員も客も中国人。中国語が飛び交う「アキバの朝」はチャイナタウンの様相を見せた。

上海から来たエンジニアの王陪さん(45)が真っ先に手にしたのは
キヤノンの一眼レフカメラ「EOS50D」。
続いてソニーのデジタルカメラ「サイバーショット」の最新機種、
パナソニックのステレオヘッドホン。
体温計にも手を伸ばし、合計25万円ほどの買い物を決めた。

中国人観光客は、あらかじめ商品を狙い定めた「指名買い」や「まとめ買い」が目立つ。
炊飯器6台を抱えた夫婦もいる。

ラオックスの菊池一営業企画部長は
「気に入れば、金に糸目をつけず迷わず買う中国人の富裕層は多い」と話す。


日本政府が新成長戦略で「観光立国」を柱の一つに掲げたのを受け、
外務省は中国人観光客の査証(ビザ)発給審査を1日に緩和。

要件を「十分な経済力」から「一定の職業上の地位および経済力」に変更した。
従来、家族は世帯主の同行が必要だったが、今後は家族だけの旅行も可能になる。

岡田克也外相は5月18日の会見で、
緩和により「従来に比べて約10倍、1600万世帯が対象になる」と述べた。

三菱総合研究所の幕亮二シニアエコノミストは、
日本は人口が5年ごとに約400万人減少し、そのたびに約6兆円の国内消費が失われると予測。
「成長持続には観光客の取り込みが必要。
人口が多く購買力上昇が予想される中国は有望」と話す。
・・》
注)記事の原文に、あえて改行を多くした。


私は世界の主要国の中で、特に日本経済の低迷で慢性のデフレ状況となり、
閉塞感のある社会に憂いたりしている。
何よりも経済の活性化こそ、今日の多々の難題を解決する第一の命題と思ったりしているが、
齢ばかり重ね、無力な私はうなだれてしまうことが多いのである。

過日、NHKのニュース、特集番組などで、
秋葉原で中国人の観光客で買物をされる状景、
或いは来日された中国人の観光客たちに、創意工夫のある食事処の情景など、
視聴し、私は好感したりしている。

そして私達夫婦は国内旅行が共通の趣味であり、
昨今、旅行先でも中国人の観光客たちを見かけることが多い。


過ぎ去りし2006(平成18)年5月頃、
この当時76歳の高齢者となった家内の母が、家内に
『元気なうちに・・北海道に行って観たいわ・・』
という要望のもとで、
私達夫婦は家内の母が初めての飛行機、北海道の道央、道東めぐりをしたのは、
この年の10月中旬であった。

家内たちは『旭山動物園』をゆっくり観たい希望したので、
旭川空港に昼に着き、旭川市のビジネスホテルに宿泊した翌日、
家内達は日中の大半を『旭山動物園』で過ごすので、
私は動物には興味がないので、次の周遊観光の層雲峡に、独りで家内たちの大半の旅行バックを持ちながら、
私は宿泊先の層雲峡に向い、早めに観光めぐりしょうと朝の9時過ぎにホテルを出た。

小雨が降る中、駅前で路線バスを待っている時、
中国人の観光客のグループと同乗となった。
60代の温厚そうな男性がリーダーらしく、15名の20代から40代の人達を先導していた。
上川市経由層雲峡に向かったが、雨は強さを増し、ときたま風が吹いた。

終点の観光ビルで私はホテルからの送迎車を待っている間、
私は『層雲峡・渓谷案内図』を温厚そうな中国人のリーダーらしき人に手渡し、
つたない英語の単語を並べ、身振り手振りで層雲峡の美景を解説した。

先方の方は、にっこりと笑い、頷(うなづ)いたりした。
たった数分のつたない説明であったが、
後で私は反省したが、メモ用紙で漢字を並べた方が好かった、思ったりした。


一昨年の2008(平成20)年2月初旬、
私達夫婦は家内の母を誘い、箱根の姥子温泉に7泊8日で滞在した。
この時に私は殆ど独りで観光めぐりをしていた時だった。

桃源台まで歩いた後、ロープウェイで姥子駅に向かって乗車していた時、
車内は中国人の20代の男女の方だけで、私は向かい合わせとなった。
まもなく冬の富士山の美麗に気付いた私は、若き男性に英語の単語をならべながら、
手で車窓から観える富士山を指したら、
若き女性が微笑みを浮かべられ、
私が下車する時、この若き男女から、英語で感謝の言葉を私は頂いた。


この数日後、私は独りで湖尻から元箱根まで遊覧船し、
下船後、元箱根の『成川美術館』からの観える冬富士の景観は一絵のように感銘を受けた後、
恩賜公園の高台にある記念館で、抹茶を頂きながら、冬富士を眺めたりした。
この時、窓辺にいる30歳前後の男女を見かけた。
裕福そうな洋装を召された2人であり、何かしら中国語を話されていた。

この後、私は公園を散策していると、
先程の中国人のおふたりが、冬富士を背景とした写真をお互いに撮っていた。
私は近づき、英語の単語をならべ、
男性からデジカメの高級なニコンを受け取り、
お2人を撮った後、男性に撮影した写真を確認して頂いた。
そして、私はお2人から感謝の言葉を英語と片言の日本語で、
感謝の言葉を頂いたのである。

私は齢ばかり重ねた年金生活の身であるが、
ささやかなインターナショナル・コミニケーションを果たせたのかしら、
と微笑んだりした。


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初めてブログを投稿した頃の想いで・・。 【下】

2010-07-29 13:36:30 | 定年後の思い
まもなくブログに準じたサイト【goo簡単ホームページ】を知り、
『風のように光のように』とタイトルを掲げて、
『kaze-hikari』のID名で、発信名は『風と光』として、入会したのは11月17日であった。

『風のように光のように』とタイトルにしたことに関しては、
【私のタイトル名【風のように光のように】の由来・・♪ 】と題して、
あるサイトに投稿しているが、再掲載をする。

【・・
私は大学中退後、映画青年、文学青年の真似事を20代の前半をしていた。

小説、随筆などで、明治以来の作家で最も影響を受けたのは、
私の長年のつたない読書歴からして、
1980(昭和55)年の夏に亡くなわれた小説家・立原正秋氏である。

小説、随筆、詩集など公表された作品は全(すべ)て読んでいるつもりであるが、
この中に1冊の詩集がある。

詩集『光と風』(角川書店)より、1978(昭和53)年5月に刊行された本である。

亡くなわれた後、追悼として、角川書店より愛蔵版として『立原正秋全集』(全24巻)はもとより、
数多くの知人、関係者から評論、随筆集が刊行された。

この中で、奥様の立原光代・著の『追想~夫・立原正秋~』、
そして長女の幹(みき)様より『風のように光のように~父・立原正秋~』が角川書店から刊行された。

特に立原幹・著の『風のように光のように』に関しては、
余りに激しく、余りに美しい《父恋の記》と解説に明示されていたが、
私は幼児に父と死別された上、敬愛した作家の愛惜の動揺からして、脳裏に長年深く残った。

幹様の綴られた随筆は、素人の文章であるが、きらめく感性があり、
何より父恋きの想いが深く、好感して読んだりしたのは事実である。

私は定年退職後、ブログの世界を知り、タイトル名には色々と考えた・・。

【のちの想いに】にするか、
或いは敬愛する小説家の長女の方の随筆のタイトルを借用するか、
迷ったのである。

結果として、私の青年期の自己形成に教示され、敬愛する小説家のなので、
長女の視線からと似た念願の意味合いから、
いけないと知りながらも、借用したのである。

尚、私は日本風土の四季折々の移ろいを限りなく愛着があるので、
それぞれの地の風光に心を寄せたりしている。
・・】
このような想いで、借用したのである。


この後、ブログに準じたサイト【すくすくブログ】を知り、
『極楽とんぼの奮闘記』とタイトルを掲げ、
『yumide』のID名で、発信名は『極楽とんぼ』として、
極楽とんぼシリーズを移管したのは、翌年の2005年1月11日であった。

このように並行として投稿していたが、
私は【すくすくブログ】の加入した短い間、
この当時、人気の漫才コンビに『極楽トンボ』の存在を初めて知り、
1部のお方から誤解されたり、
その後、この人気コンビのひとりが女性に不祥事を起こしたりしたので、
私は『極楽とんぼ』の命名の由来を明示したとおり、
何かしら60数年の心の純潔を汚されたようで、憂鬱な心が、しばらく続いたのである。


結果としては、【すくすくブログ】は投稿を中止し、
大手のブログ・サイトの【gooブログ】に移行したのは、1月19日となった。
そして『続・極楽とんぼ』とタイトルを掲げ、社会、経済、政治の諸問題を無邪気に投稿し、
『yumede-ai』のID名で、発信名は『夢逢人』としての発信名としたのである。

しかし、この分野に専門知識のない素人の私にとっては、ほころびも感じはじめ、
何よりも力量のない私にとっては、
ふたつのブログ・サイトで全く違った分野を併行に投稿し、
コメントを返信するのは、日常の時間が余りにもとられ、
読書の時間も少なくなり、ひとつだけ残すこととしたのである。

そして私の本命の【goo簡単ホームページ】で、2007(平成19)年9月末に閉鎖されるまで持続し、
この後は、『日記』の投稿文が移行できる【OCN Cafe】に加入し、
過日の7月26日まで継続した。

この間、3年前の5月に【gooブログ】を全面に改定し、
今日の『年金青年のたわむれ記~かりそめ草紙~』タイトルに改題し、
パソコンの故障、国内旅行をしていない限り毎日数通は投稿している。


私が初めてブログで、【アメーバ・ブログ】に加入し、
投稿したのは、
【 はじめまして 】と題して、2004(平成16)年11月12日している。

【・・
ブログの世界は、初めて書き出します。
まったくのヨチヨチ歩きですので、よろしくご指導をお願いいたします。
・・】
このような加入の挨拶を投稿した後、

【 Webは若葉マーク【その一】 】
と題して、30分後に投稿している。

【・・
インターネットの環境が整ってから、数ヶ月過ぎました。
この間、色々な未体験の連続で涙と笑いの連続でした。
パソコンは個人的に10数年。
職歴の一部として、コンピュータの専任者として、1971年~1990年経験していましたが、
Webの世界は未知でした。
・・】

このように幼い文体で綴っていたのであり、
今の私としては、微苦笑しながら、懐かしさを感じたりした。


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初めてブログを投稿した頃の想いで・・。 【上】

2010-07-29 12:15:16 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む65歳の高齢者の身であり、
今朝、霧雨が降る朝を迎え、ときおり微風が吹き、朝涼(あさすず)となり、
その後、霧雨がやんだら、日中のひととき庭の手入れをしょう、と思ったりした。

しかし霧雨から小雨となり降り続け、久々の雨に見惚れ、
二週間ぶりぐらいかしら、と心の中で呟(つぶや)いたりした・・。

やむえず庭の手入れを延期しょうと思ったりしたが、
予定がはずれて、ぼんやりとしていた。

この後、玄関の軒下で煙草を喫っていた時、
私がブログの世界を知り、初めてブログの投稿した頃が想いだされた。

そして、居間に戻り、パソコンを開き、
初恋の人に出逢ったような思いで読んだりしたが、
幼い綴りで恥ずかしい気持ちがあったが、このような心で投稿していたのか、
と微苦笑したのである。


私は2004年(平成16)年の秋、民間の中小業の会社を定年退職する数ヶ月前、
自宅で初めてインターネットを開設した・・。

私は東京オリンピックが開催された1964(昭和39)年に大学を中退し、
映画・文学青年の真似事をし、挫折した後、
企業に中途入社する為に、1年間コンピュータの専門学校で学び、
ある大手の企業に何とか中途入社できたのは、1970年(昭和45)年の春であった。

この時からほぼ20年間情報部門の専門畑となり、
その後は他部門の管理畑に異動し10年ぐらい奮闘した後、リストラ旋風となり、
最後の5年間は取引先の物流情報センターに出向としたのである。

1990年(平成2)年の初めの頃までは、
ある程度は専門畑のコンピュータの世界が解かっていたが、
その後は利用者の間接部門となったので、
先端技術は解からず、ただパソコンを利用し、業務に従事していたぐらいであった。


こうした体験で、いざ自宅で個人利用のパソコンにインターネットを連動させた時、
Webの世界の環境には、驚きと出遅れたと感じたりしたのである。

そして、定年退職後は、『ホームページ』を立ち上げて、
自身の日々の思い、そして過ぎ去った時代の思いを随筆風に綴り、
公開しょうと思案していたのである。

ホームページの開設までの技量に乏しく、
無名の私が開設・運営した所で果たして、と躊躇していた時に、
偶然、本屋の店頭で一冊の本にめぐり逢え、
私は初めて『ブログ』の世界を知ったのである。

『はじめよう! みんなのブログ』(インプレス)と題された、
別冊インターネット・マガジンであった。

私はブログの多くは匿名制度であるが、ある程度の良識を根底に於けば、
自在に私の生活~政治の分野まで発露でき、
何よりホームページより手軽に開設、運営できると決意したのである。

そして私は、11月12日に【アメーバ・ブログ】に加入し、
『極楽とんぼ~団塊世代のひとりとして~』とタイトルを掲げ、
『kaze-hikari』というIDで、発信名は『極楽とんぼ』と命名し投稿をはじめたのである。

私は初めてブログの世界に入り、【アメーバ・ブログ】に加入した時、
タイトル名、発信名は私なりのブログ・サイトで要(かなめ)を成すこと思え、
深く思案したのである。

タイトル名の『極楽とんぼ~団塊世代のひとりとして~』に於いて、
~団塊世代のひとりとして~、と副題をしたのは、
私が中途入社した25歳の時、職場で机を並んだのは、新卒の人が多く、
彼らは団塊世代の人たちが多く、その後30年ぐらいは、
それぞれの時代の苦楽を共にした心情があったからである。

発信名を『極楽とんぼ』と命名したのは、私の幼年期からの深い想いでがあった。
このことについては、あるサイトで、
【私の小学生時代の愛唱歌・・♪】
と題して、投稿していたが、再掲をする。

【・・
私が小学校に入学したのは、1951(昭和26)年の春だった。
東京の郊外の調布市であるが、この頃は田畑、雑木林が圧倒的に多く、
緑豊かな町村であった。

私は長兄、次兄に続いて生を受けた3男坊で、
祖父と父は女の子を期待していたらしく、私は幼児なりに何となく感じていたのか、
いじけた可愛げのない子の上、無口であった。

兄の2人は学校の成績が良く、私は通信簿を頂くたびに、
お兄さんの2人は優秀だったのに、
と担任の女の先生がため息まじりに云われたりしていた。


音楽の授業は、先生がオルガンを弾いて、
生徒の我々全員が『春の小川』、『夕やけこやけ』等を唄っていた。

学期末の頃に、ひとりの生徒が教室の1番前にある黒板の近くで、
先生のオルガンの伴奏に合わせて、唄うことが定例であった。
私は人前で他愛ないおしゃべりをすることが苦手であったので、
私の順番になると、ドキドキし、出来たら逃げ出したかった。

結果として、通信簿『2』であった。

私が下校で独りぼっちで歩いて帰る時、
或いは家の留守番をしている時は、

♪笛にうかれて 逆立ちすれば
 山が見えます ふるさとの
 わたしゃ孤児(みなしご) 街道ぐらし

【 『越後獅子の唄』 作詞・西條八十  】

私は何となくこの歌に魅了されて、唄っていた。
唄い終わると、何故かしら悲しくなり、涙を浮かべることが多かった。

そして、私が気分が良い時は、
♪私は街の子、田舎の子・・、
と勝手に『私は街の子』を変更して、唄ったりしていた。
・・】

この『越後獅子の唄』の名曲の悲しげな歌の裏返しの思考、
そして小説家・山口 瞳・著の『還暦老人極楽蜻蛉』の題名から拝借し、
定年退職後の自由自在でブログの世界で綴ってみたい、
秘かな思いであった・・。


そして【アメーバ・ブログ】に投稿を初め、
コメントを頂き、私なりに喜びであり、コメントをして頂いたお方の日記に、
私も盛んにコメントを書き込みをしたりした。

ただ、【アメーバ・ブログ】の日記投稿欄の書き込み、送信に、
たびたびエラーなどが発生し、初心者として技量もなく、
何度も書き直し投稿をしたりした。

その上、各部門による賞金制度が設置されていたので、困惑し、
私は他ブログ・サイトを探したのである。

                              《つづく》


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霧雨降る朝涼(あさすず)のひとときを迎え・・。

2010-07-29 06:55:46 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む65歳の高齢者の身であり、
霧雨が降る朝を迎え、ときおり微風が吹き、朝涼(あさすず)のひとときとなっている。

過日の17日に梅雨明けの後、連日の暑さの35度前後の日々となり、
雨は夜のあいだに三回ばかり小雨がわずかに降った程度で、
おかしな夏となり、朝涼は死語になったのかしら、と苦笑していた・・。


昨夜、9時過ぎに玄関の軒下で煙草を喫っていたら、
風が吹き、心身に心地良く、私は夜風に身をまかせながら、
明日の29日は曇りの日中が予報されているので、
庭の手入れに最適かしら、と微笑んだのである。


今朝、6時過ぎに玄関の軒下で庭を眺めれば、
霧雨降る中、樹木の枝葉、草花はわずかに濡れている。
そして、淡紫色の高砂木槿(タカサゴ・ムクゲ)の花を眺めたり、
塀際に群生している蒼色の紫露草(ムラサキ・ツユクサ)花が、
雨から遠のいているので、元気なく咲いている。

そして、居間に戻り、テラスに下り立ち、
淡紅色と白色の大輪のアメリカ芙蓉(フヨウ)を眺めてたりしていた。

このように私はぼんやりと過ごしているのであるが、
日中の最高気温は30度前後が予測され、久々に猛暑から解放されるので、
霧雨がやんだら、庭の手入れをしょう、と思ったりしている。


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トム・ジョーンズ、私の青年期に愛聴したひとりの歌手・・。

2010-07-28 18:23:40 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の65歳の身であり、
この【gooブログ】に加入して、
私のサイト『年金たわむれ記 ~かりそめ草紙~』と題してサイトは5年近くになっている。

【gooブログ】コミニケーションのサービスの一環として、
【マイホーム】があり、この7月の初めに加入させて頂いている。

この【マイホーム】は、私としては『夢逢人さんのマイホーム』と名称されているが、
この中のひとつに『友人・注目の人』のコーナーがある。

私は恐る恐る未知の人を設定したりした。
この機軸となったのは『プロフィール』を拝読し、瞬時に魅せられた人が多い。

この中のおひとりの女性のお方が、
《・・
60~70年代の洋楽、60~80年代の邦楽が好きです。・・》
と綴りはじめて、
具体的に著名なサイモン&ガーファンクル、トム・ジョーンズなど10名ぐらいをあげられ、
私は瞬時に魅せられて、
『注目の人』に選定してしまった。

私はサイモン&ガーファンクルの初期の作品を熱愛して聴いたりし、
このサイトにも綴ったりしているが、
トム・ジョーンズも私の心の片隅で長らく残っているので、
トム・ジョーンズ・・と微笑んだりした。


私はトム・ジョーンズに関しては、
【ときには、トム・ジョーンズの唄声に魅了され・・♪】
と題して、2007年12月8日に投稿しているが、あえて再掲載をする。

【・・
私は年金生活の4年生の身であり、
日中は散歩、買物などをし、本屋で数冊の本を買い求め、
コーヒーショップの『ドトール』に寄ったしている。

2週間前頃、何気なしにCD、DVD販売店に寄って、
色々と音楽ソフト作品を眺めていたが、これといって魅了されるCDがなかった。

私は現役のサラリーマン時代は、音楽関係の民間会社に勤めていたが、
ここ数年の音楽は殆ど知らないのである。

別のCD陳列棚に行って、ひとつのCDを購入することにした。

『トム・ジョーンズ グレイテスト・ヒッツ』と題されたCDであるが、
これには63歳の齢でも判るのである。

ここ2時間ばかり、繰り返し聴いたりしている。


確か1970年の頃だったと思われるが、
生家の居間で次兄と酒を呑みながら、深夜にテレビ音楽番組を観たりしていた。
『トム・ジョーンズ・ショウ』が放映されていたのを偶然に視聴した。

何の曲だったか忘れてしまったが、最初に聴いた時は、
熱気が感じられ、桁外れに巧い人で、野性味があり、迫力のある人と直感した。

このテレビ音楽番組で、ゲスト・スターとして、
エンゲルト・フンパーディングの歌い手も知った。
紳士的な振る舞いで、スケールのある甘い歌声で、顔立ちも良く、
『太陽にあたる場所』、『君の瞳に恋している』などを披露していた・・。

私は大学中退した後、映画、文学青年の真似事をし、
企業に就職する為に、コンピュータの専門学校に一年学んで、
大企業に中途入社できた時でもあった。

私は『トム・ジョーンズ・ショウ』で、
この2人に熱中し、レコードを買いはじめた・・。

特にトム・ジョーンズの『想い出のグリーン・グラス』(録音時・1966年)、
『デライラ』(1968年)、『忘れしの感傷』(1967年)、
『最後の恋』(1969年)、『ラブ・ミー・トゥナイト』(1969年)などを聴いたりしていた。

そして、1971年にラスベガスのライブ盤が2枚組で発売されると知ったので、
レコード店に駆けつけて買い求めた。
『シーザース・パレスのトム・ジョーンズ』である。

このような私にとっては、夢中になって聴いた歌い手のひとりである。
やはり、文学、映画、音楽などの場合、その当時の社会の空気を共にした時代に、
発売、放映された作品に時間をおくこともなく触れると、
その人の心に倍増され、深くその人に残るものである。


先程、聴き終わって少し呆然としながらも、
『家路』(1967年)、『愛の誓い(ティル)』(1971年)なども聴いたりした・・。

改めてトム・ジョーンズの唄声を聴いたりしたが、
20、30代の女性でワンピース姿であったならば、
思わず脱いで、スリップ1枚の下着姿で聴き惚れさせる、
唄声かしらと思ったりしている。

誤解を避けるために綴るが、
それだけトム・ジョーンズは、同性の男性から割り引いて聴いても、
圧倒的パワフルの歌唱力があり、限りなく底知れぬ魅力のある歌手である。


私はトム・ジョーンズに関して綴ってたが、
若い音楽ファンの方達には、私のつたない綴りだと、伝わないか、と少し心配している。

やむえず、CDに添付された解説文を借用して、補記する。

フレット・デラーで、訳はakiyama sistersiに寄れば、
《・・
『思い出のグリーン・グラス』1966年にヒットしていた当時、
エルヴィス・プレスリーは繰り返しラジオ局に電話をし、この曲をリクエストしていた。

ジャニス・ジョプリンも初めて彼の声を聞いた時、吹き飛ばされたと言っている。
・・》

曲の解説は、和田静香さんが綴られているが、無断であるが引用させて頂く。
《・・『恋はメキ・メキ』 トヨタ自動車『ポルテ』のCMソング

『よくあることさ』 ホンダの『オデッセイ』のCMソング

『セックスボム』アメリカのテレビドラマ『セックス・アンド・シティ』のエンディング・テーマ

『サンダーボール』 007の映画の第4作『サンダーボール大作戦』のテーマ曲。
・・》
このように解説の一部として、表記されている。

私は自動車のCMの場合は、購買層を設定し、曲の選定はされると思っているので、
私と同様に、あの当時夢中になった人、
広告制作会社か、自動車の宣伝部の人が選定されたと思い、
思わず微笑してしまう。

たがが歌であるが、されど歌である。
私はレコード会社の管理畑に長年勤めた結果となったが、
その時代に流行った曲は、制作畑でなくとも、
たとえ他社の発売された曲でも、それなりの思いは深いのである。

尚、当時トム・ジョーンズが旋風を巻き起こした時代は、
残念ながら他社の発売するレコードであった。

参考として、私がトム・ジョーンズに関して、
私が知る限り、最も好感し、熱気が感じられるネットのサイトは、下記のお方である。

http://www.geocities.jp/yasutera77/
☆ TOM JONES Collection ☆
・・】

このように綴っているが、

このように綴ったりしていると、若き頃の日々を思い馳せ、
懐かしき)『愛の誓い(ティル)』などの名曲を【YouTube】で聴いたりしている。


http://www.youtube.com/watch?v=oRdN50dT6LA&feature=related
☆ トム・ジョーンズ 『愛の誓い(ティル)』 ☆


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年金生活の私、季節のうつろいと共に・・。

2010-07-28 10:35:43 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む65歳の高齢者の身であり、
私は東京の郊外で農家の児として生を受けて、
中小業のサラリーマンを35年ばかり勤め、卒業した年金生活の6年生である。

古びた一戸建てに住み、小庭の雑木、草花を眺めたり、
周辺の遊歩道、公園を散策をしたりして、日々季節のうつろいを何よりも教示されている。

ときおり、家内との共通趣味の国内旅行などをして、
各地の四季折々の限りない美に心を留め、齢を重ねるたび愛惜が深まっている。

このように感じ受け止めて日々を過ごしたりしているが、
無知な私は何かと書物で、改めて日本の歳時などを謙虚に学んでいる。

例えば、藤野邦夫・著の『幸せ暮らしの歳時記』(講談社文庫)、
飯倉春武・著の『日本人のしきたり』(青春出版社)、
朝日新聞社・編の『色の彩時記~目で遊ぶ日本の色』(朝日新聞社)、
講談社・編の『茶花歳時記』(講談社)、
野呂希一、荒井和生・共著の『言葉の風景』(青菁社)、
長谷川 櫂・著の『四季のうた』(中公新書)、
松田 修・著の『古今・新古今集の花』(国際情報社)、
道行めく・著の『美しい日本語帳』(永岡書店)、
などを定年後に、恥ずかしながら精読した本もある。

そして無学な私は、ときおり国語の辞書を置き、
そおっと開いたりしている。
久松潜一・監修の『新潮国語辞典~現代語・古語~』(新潮社)であるが、
二十歳以来から何かと教示を受けているのである。


私は定年退職後に自宅にインターネットを開設した遅れた身であるが、
Webの環境に驚嘆したひとりである。

このような時に、『日本文化いろは事典 ~胸はって、ニッポン人!~』を知り、
ときおり開き、学んでいる。

http://iroha-japan.net/
☆【日本文化いろは事典 ~胸はって、ニッポン人!~】
このサイトを開き、知りたいことを検索し、
こうだったの、と下を向きながら学んだりしている。


そして昨日の27日には、駅前の歯科医院で治療に出かけた後、
治療前に本屋に寄り、一冊の本を買い求めたり、
治療後は古本屋に寄り、見過ごした本はないかしらと眺めていた・・。

山下景子・著の『美人の日本語』(幻冬舎文庫)が目に留まり、
若き女性たちに美しい日本の言葉を集積された本、
と感じ、齢ばかり重ねたつたない私は、ためらいながら、購入した。

私は古来より伝えられた言葉には、魅了されるひとりであり、
猫に小判かしら、と思いながら読んだりしている。


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浅田次郎(あさだ・じろう)氏の真摯な文学者としての発言を学び・・。

2010-07-27 22:20:27 | 真摯に『文学』を思考する時
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
今朝もいつものように読売新聞の朝刊を読んでいたら、
15面の『文化』面で、
小説家・浅田次郎(あさだ・じろう)氏が、新刊の『終わらざる夏』(集英社)について、
読売新聞社のインタビュー記事が掲載されていた。

この記事に準じた記事は、読売新聞の基幹ネットの【YOMIURI ONLINE】に掲載され、
村田雅幸・記者が綴られた記事で、
無断であるが、この記事を転載させて頂く。

《・・
     浅田次郎さん「終わらざる夏」 戦争、風化はさせない

「戦争を体験した方々が生きているうちに書かなければ意味がないと思いました。
歴史になってから書くのは無責任すぎる。
今しかないというタイミングでした」

浅田次郎さん(58)の新刊『終わらざる夏』(集英社)は、
玉音放送の3日後に、千島列島の先端の島で実際に起きた日ソ両軍の戦闘に材をとりながら、
戦争に巻き込まれ、翻弄(ほんろう)された人々の姿を描く大作である。

終戦から65年。風化しつつある戦争の記憶に対し、
今を生きる小説家として何ができるのかと挑んだ、
新たな代表作と呼ぶべき渾身(こんしん)の作だ。(村田雅幸)


1945年8月18日、対アメリカ戦を想定して日本軍が駐留していた占守(しゅむしゅ)島に突如、
ソ連軍が上陸、激しい戦闘が始まった。

現代の日本人の多くにとって“知られざる戦い”であり、
それゆえ小説家にとっては格好のテーマとなったはずだが、
浅田さんは上下巻合わせて900ページを超える作品の中で、
戦闘の描写をわずか10ページほどにとどめる。

「僕は占守島の戦いを書こうとしたんじゃない。
それを素材に、戦争というものをできるだけ全体的に書きたかったんだ。
その時代、社会の背景というものを」


大半を占めるのは、戦争という巨大な波にのみ込まれた個々人の、切なる思いである。
45歳となり、もう召集はないと考えていた翻訳編集者の片岡、
高い志を持つ医学生の菊池、
金鵄(きんし)勲章に輝く歴戦の英雄・富永。

占守島へ向かうことになった3人の全く異なる人生を軸に、
動員計画を立てる参謀、赤紙を配る村役場職員、疎開中の子供、そしてソ連兵の物語までも織り込みながら、
戦争の残酷さ、人々の悲しみの深さを重層的に浮かび上がらせる。

浅田さんは言う。
「日本人は戦後ずっと戦争を誠実に見つめ直してきた。
それは素晴らしいことだが、65年もたつと、どうしても戦争のイメージは画一化される。
僕はそれ自体、風化だと思う」。

例えば、広島の原爆ではその年のうちに14万人が死に、
東京大空襲の死者は10万人にも上る、
というデータを知ることは難しくない。
「でも、その数字それぞれに生活があったということまでは、
なかなか思い至らない。この一人一人の思いを知ることが戦争を理解することになる」


そのために数多くの資料にあたった。
地方の医大の卒業名簿を見れば、ある年代の死者が極端に多かった。
軍医として戦地で死んだのだった。

新聞の地方版には、英雄に祭り上げられた兵士の記事があった。
疎開の資料、ソ連の戦争の歴史も調べた。
しかし、戦争体験者へのインタビューだけは一度も行わなかった。


「小説家でありたかったんです」。
自分はノンフィクション作家ではない。
証言に引きずられ、物語を作る力が奪われるのを恐れたのだという。
そして理由がもう一つ。
「つらい記憶は誰もが語りたがらない。
それを代弁するのも小説家の務めでしょう」


そうして生まれた登場人物たちは、我々と変わらぬ普通の人々だ。
愛する人もいれば、将来の夢や希望もある。
その思いが絶たれていく様は、読む者に戦争の悲劇を我がことのように感じさせ、
強く心を揺さぶる。


占守島の戦いのことを知ったのは18歳、
三島由紀夫が自決した直後に、なぜ三島は死を選んだのかを知りたくて入った自衛隊でのことだったという。

そして本作の執筆には、「三島さんへの抵抗という意味もある」。

「文学者としての三島さんは尊敬する」。
だが、三島はペンを捨て、武器を取った。
「文学者がそこまでの『表現』をしてよかったのか。
僕は『戦争とはこういうものだった』
と次の世代、未来に伝えることが小説家の使命だと思うんだ」

(2010年7月27日 読売新聞)
       ・・》
注)記事の原文に、あえて改行を多くした。

http://www.yomiuri.co.jp/book/news/20100727bk03.htm?from=yolsp
☆【YOMIURI ONLINE】 浅田次郎さん「終わらざる夏」 戦争、風化はさせない ☆


私は作家・浅田次郎氏については、このサイトで8通前後は投稿している。

たとえば、昨年の2009年11月22日に於いては、
【 真摯な文学青年に薦める本のひとつは、浅田次郎・著の『つばさよつばさ』】
と題して投稿していた。

【・・
ここ10数年、トップランナーのベストセラー作家である浅田次郎・著の『つばさよつばさ』(小学館文庫)を読んだ。

http://skygarden.shogakukan.co.jp/skygarden/owa/sol_detail?isbn=9784094084375
☆ 浅田次郎・著の『つばさよつばさ』(小学館文庫)☆

氏の《あとがきにかえて》に於いて、明示されているが、
JALの機内誌『SKYWARD』に連載されたエッセイを単行本に刊行された後、
著者が加筆・訂正と文庫化した本である。

もとよりJALの機内誌のことであるので、各国の旅先の情景、食べ物、人との出会い、
そして日本人の若者の海外でのはがゆさ等が、
著者の思いが満天の星のように綴られている。

この間に、著者は小説家として流行作家の先頭グループで精力的に数多くの作品を発表されるお方であるが、
これまでの創作者として途上、やがて流行作家となった時の戸惑い、そして現在の心境までが、
散見であるが発露されている。

このことは文学青年の方たちに大いなる教訓となるのが、数多く見られる。
著者の貴重な体験から明示していることであり、特に小説家をめざす諸兄姉に学び取ることも多いと思われ、
あえて紡ぎ糸を紬(つむぎ)のような形で再編集してみようと、私は思ったのである・・。

《・・
(略)
私はかって、新人賞に三十回くらい落選した経験があるので、
この仕事(引用者・文学賞の選考委員)には気合が入る。
一行もおろそかにしてはならぬと思う。
三十回も落ちたのは何かのまちがいだったと、今でも信じているからである。
(略)
当時私は雑誌のライター稼業に精を出していた。
小説家になりたいのだが、小説を書かせてもらえないのだから仕方がない。
(略)
さる出版社からケンもほろろにつき返された小説のボツの原稿が、
机の上に置いてあった。
(略)
私はかって旅先作家に憧れを抱いていた。
心の赴(おもむ)くままぶらりと旅に出て、鄙(ひな)びた温泉宿やリゾート地のホテルで、
甘い恋物語を書き綴るのが夢であった。
(略)
不遇の時代には生活と格闘せねばならず、
やがて冬を一気に抜け出すと、
たちまち膨大な仕事がのしかかって身動きもできぬようになる。

むろん中には羨(うらや)むべきマイペース作家がいるが、
それは一種の才能であって、羨んだところで真似のできるところではない。

いくら忙しくなろうと、時間はなんとかなる。
夜も眠らず原稿を書いて、それでも物理的に到達不可能な目標などは、
いかに無計画な作家でも受けるはずがないからである。
これは経験上、たしかになんとかなる。

この際の問題は肉体でなく、精神力である。
たとえば五本の連載小説を抱えてしまうと、
そこには五つの異なったテーマが存在し、数十人の人格と彼らが構成する五つの世界がある。
多くの読者を得心させるエンターティンメントに、日常の退屈な些事(さじ)を書き綴ることなどは許されない。
すなわち、書くべき物語は血湧き肉躍る五つの嘘である。

合理的に考えれば、似たような作品を並べるという手はある。
しかしこれも一種の才能で、ひとつのジャンルを書きつないで恒久的な読者を維持するのは生易しい話でない。

私の場合は、(略)
少なくとも登場人物の人格が相互に侵食せぬだけの、
まったく異なった小説を同時に書くことになる。
(略)
小説家には小説を書くという本業のほか、さまざまな仕事が要求されるのである。
サイン会や対談、文学賞の選考委員やら授賞式の列席、
所属する日本ペンクラブや日本文藝家協会の活動、
テレビやラジオ出演、映像化や翻訳にまつわる打ち合わせ、
いやはやそのほかの雑事を挙げればきりがない。
・・》
注)原文の一部に、あえて改行を多くした。

このように著者の浅田次郎氏は、小説家としての心構えなどを発露しているのである。

私は単なる小説、随筆をこよなく愛する読者のひとりであり、
浅田次郎氏の作品は余り読んでいない。

このサイトで浅田次郎氏に関して投稿しているのは、
【 小説家・浅田次郎さんの一面・・♪ 】
と題して、2006年3月11日に於いて、投稿していた。

【・・
(略)
この4日間、私はⅠ冊の文庫本を読んだりしている。

小説家の浅田次郎・著の『待つ女~浅田次郎読本~』と題された朝日文庫のⅠ冊である。

作者が自作を語るのが載っていたので、購入した訳である。

私はこの作者の著作本を15冊保有しており、ごく普通の愛読者である。

最初に読んだ本は、『蒼穹の昴』であった。
偶然、本屋で見かけ、タイトルが素晴らしく、本を取り出した。
本の帯に書かれた内容を見て、購入した。平成8年の5月の頃だった。

私はこの作者に魅了して、その後は店頭で見かけるたびに、購入した。

それからしばらくして、短編集の『鉄道員』が発売され、
この中の『ラブ・レター』には、しばらくため息をした。

現在、作者の全てを読了してはいないが、15冊の本の中では、
長編は『蒼穹の昴』、短編では『ラブ・レター』が最も好きな小説である。

今回の文庫本は、作者を知る上で最も適した本である。

この中で、評論として、三島由紀夫・氏の文学について書かれている。
『寂寞(じゃくまく)の庭にて~三島由紀夫の戦場~』《初出『文学界』平成12年11月号》
と題され書かれているが、
1970(昭和45)年秋に作家・三島由紀夫氏が自裁された後、この後に数多くの作家、評論家が綴られていた。

今回の浅田次郎氏は、歳月が流れた後の有利さを配慮しても、
三島由紀夫氏にこれ程に明晰した評論は、私の知る限りない。

三島由紀夫氏に関心のある方は、ぜひご一読をお願いしたい、と思っている。
・・】


このように投稿していたが、この後2007年4月3日に於いて、
【 浅田次郎さんの語りに、思わず苦笑し・・♪】
と題して、投稿もあった。

【・・
昨日、『文藝春秋』5月臨時増刊号《~黄金の10年へ~》の中で、
小説家・浅田次郎氏のロング・インタビューを読んでいた。

この中で浅田次郎氏は、最後に、

《・・・
仮に僕がサラリーマンだとして、
会社を辞めて何をやってもいいといわれたら、たぶんずっと本ばかり読んでいるでしょうね。

安い温泉地を回って、本ばかり読んで過ごす。
それって最高の快楽ではないでしょうか
・・》
注)原文よりあえて改行を多くした。

私はもう一度深く読み直し、思わず苦笑した・・。
私は定年退職後の3年生の身であるが、日常は小説、随筆、歴史書、現代史などを読んでいる。
そして、ブログに綴ったりするのが、何よりの楽しみとしている。

家内と共通の趣味は国内旅行なので、ときたま国内の各地に旅行に行ったりしている。

家内の父が亡くなった後、家内の母は独り住まいとなったので、
ときおり家内の母を誘い、3人で年に3回前後は、温泉滞在旅行として5泊6日前後の滞在している。

こうした温泉滞在の折は、私は数冊の本を携えて行く。

日中のひとときは、周辺の観光地を訪ねたりしているが、
夕暮れから寝付くまでは、夕食時を除き、殆ど本を開ろげていることが多い・・。

このような日常、旅先と本を読んでいる日々を過ごしているので、
私は浅田次郎氏の発言された言葉に、思わず苦笑させられたりしたのである。


私は浅田次郎氏の本は20冊前後しか読んでいないが、
短編としては『ラブ・レター』、長編としては『蒼穹の昴』に魅せられて、
好感している愛読者のひとりである。

尚、浅田次郎氏の文学に対する真摯な思い、
そして小説以外の評論、エッセイなどの真髄を触れたいお方には、
私は『待つ女』(朝日文庫)の一冊の文庫本で知り、多々教示されたので、
推薦できる本かしら、と感じたのである。

この中で、評論として『寂寞の庭にて~三島由紀夫の戦場~』を読めば、
どれだけ浅田次郎氏が文学に対し、熱き思いがあるかは解かるので、
特に文学青年の方達には一読して頂きたいと思ったりしている。
・・】

私は作家・浅田次郎氏には、この程度しか解からない浅学のひとりである。


このように投稿をしたりした私であるが、今回のインタビュー記事を深く拝読したひとりであるが、
何よりも教示されたのは、
《・・
しかし、戦争体験者へのインタビューだけは一度も行わなかった。


「小説家でありたかったんです」。
自分はノンフィクション作家ではない。
証言に引きずられ、物語を作る力が奪われるのを恐れたのだという。
そして理由がもう一つ。
「つらい記憶は誰もが語りたがらない。
それを代弁するのも小説家の務めでしょう」


そうして生まれた登場人物たちは、我々と変わらぬ普通の人々だ。
愛する人もいれば、将来の夢や希望もある。
その思いが絶たれていく様は、読む者に戦争の悲劇を我がことのように感じさせ、
強く心を揺さぶる。


占守島の戦いのことを知ったのは18歳、
三島由紀夫が自決した直後に、なぜ三島は死を選んだのかを知りたくて入った自衛隊でのことだったという。

そして本作の執筆には、「三島さんへの抵抗という意味もある」。

「文学者としての三島さんは尊敬する」。
だが、三島はペンを捨て、武器を取った。
「文学者がそこまでの『表現』をしてよかったのか。
僕は『戦争とはこういうものだった』
と次の世代、未来に伝えることが小説家の使命だと思うんだ」
・・》

もとよりノンフィクションとフィクションの違いを明言した上で、
《・・証言に引きずられ、物語を作る力が奪われるのを恐れた・・》。

そして、《・・
本作の執筆には、「三島さんへの抵抗という意味もある」。

「文学者としての三島さんは尊敬する」。
だが、三島はペンを捨て、武器を取った。
「文学者がそこまでの『表現』をしてよかったのか。
・・》

こうした明晰ある発言に、氏の文学への熱く真摯な思いを深く読み、
私は幾度も読み返し、氏に敬意を重ねたりしたのである。

そして私は、作家・嵐山光三郎・著の『口笛の歌が聴こえる』(新潮文庫)に於いて、
嵐山光三郎氏が平凡社の編集時代、三島由紀夫氏の言動が描かれて折、
こうした思いも馳せて、<
浅田次郎氏の文学に対する確かに真摯な発露をつたない私なりに受け止めたりしている。


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定年後、最も魅了されたクラシックの珠玉曲は・・。

2010-07-27 16:22:37 | 音 楽
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であり、
音楽の楽譜も読めなく楽器もさわれない拙(つたな)い男であるが、
何よりも読書を優先するが、ときには映画を居間で観たり、そして音楽を聴くのも好きである。

このようなに日常生活を過ごしたりしているが、
定年退職後、多く聴いた曲は、と先程ぼんやりと振り返ったのである。

私は音楽に関してはオペラとジャズは苦手であるが、
クラシック、ハード・ロックから歌謡曲まで聴いたり、抒情歌も聴いたりしている。
そして、ときにはクラシックの珠玉のような数多くの名曲を聴くこともある。

このような珠玉曲を5分間ばかり思い浮かべと、やはりねぇ、と微苦笑したのである・・。

イギリスの作曲家のひとりでエルガーが『朝のあいさつ』と題した名曲を遺(の)こされているが、
この曲を特にサラリーマンを卒業した定年退職後の生活で最も多かったのである。

私は農家の三男坊として生を受け、小学低学年まで農家の児として育てられたが、
父が病死し、祖父も亡くなったので、生家は衰退し、一時は生活に困窮した時代もあったりした。

この曲を聴くと、イギリスの田園風景の中で、程ほど大きな邸宅の裕福な家で、
朝のひととき優雅な情景を私は重ねてしまうのである。

私は幼年期の劣等感、そして身過ぎ世過ぎの年金生活を過ごしている今、
せめて心の中だけでも優雅な裕福のひととき・・と思っているせいか、
この曲を聴く時が多いのである。

http://www.youtube.com/watch?v=BSv3iApK3DQ
☆EDWARD ELGAR: Salut d'Amour☆

http://www.youtube.com/watch?v=Ch8WwEAV3aI&feature=related
☆ELGAR - "Salut d'Amour"☆ ヴァイオリン

同じ曲があるが、演奏に関してはその日の思いで、聴いている。


そして、恥ずかしいことを告白すれば、
私はレコード会社の情報畑、管理畑を長らく勤めた身であったが、
現役時代は無知であったが、定年後にブログの世界を知り、
まもなく30歳前後の女性から教示された珠玉曲がある。
アルビノーニの『アダージョ』である。

私は現役時代はクラシックに関しては、モーツァルトのピアノ協奏曲第20番、
そしてベートーヴェンのピアノソナタの『悲愴』、『月光』、『熱情』が好きであり、
何百回を聴いたりしていた。

定年後はアルビノーニの『アダージョ』が加わっている。
私はこの曲を聴くたびに、
まぎれない美に触れ、作曲家の想いに深く立ち入れる時もある。

そして私のその時の心に動きにより、美はするりと逃げ去られたり、
ただのはかなさしか享受出来ないこともある。

この曲は確かな美の結晶であるが、
私のその時の心境により移ろう不思議な力が存在する。

美はこのように魔力を秘めている。

このようにアルビノーニの『アダージョ』に魅了され、
私は何百回も愛聴し、私が死去した時のセレモニーの時は、
この曲も加えてほしい、と家内に云ったりしている。

http://www.youtube.com/watch?v=u7G7QvydK4A&feature=related
☆ アルビノーニ  アダージョ ト短調   情景は箱根美術館 ☆


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高齢者の私が、ネットで最初に検索するサイトは・・。

2010-07-27 07:06:54 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
定年退職後からインターネットは友のひとりとなっている。

朝、パソコンを開き、一番最初に開くのは、
トップページは【YAHOO! JAPAN】を設定していているが、
この後、何よりに最初に見るのは、地元の天気情報である。

http://weather.yahoo.co.jp/weather/jp/13/4410/13208/1820004.html
☆【YAHOO! JAPAN】 天気情報 ☆

このサイトの情報を見ながら、当日の朝の6時、昼下がり時、夕方の6時、
天気と気温を見る習性となっている。

先程も私は見たりし、朝の6時は25度、昼下がりは34度前後、
夕暮れの6時は31度前後で、燦燦と照らす猛暑の日中かょ、
と心の中で呟(つぶや)いたりしているのである。

そして、私は日常の買物担当の身であるるので、
最寄のスーパー2店、駅前まで徒歩で15分コースのスーパー6店、
この後の散策コースが決定するので、私にとっては重要なのである。

この後は、朝のひととき、定年後まもなく知ったブログの投稿文を思案し、
綴った後、投稿している。
http://blog.goo.ne.jp/yumede-ai/
☆【gooブログ】 年金青年のたわむれ記 ~かりそめ草紙~ ☆ 


そして、私は読売新聞を40年ばかり愛読しているので、
日中のひとときに読売新聞の基幹ネットの【YOMIURI ONLINE】を開き、
ニュースを検索したりしている。
http://www.yomiuri.co.jp/
☆【YOMIURI ONLINE】☆

こうしたネットの優先順位は、パソコンが故障したり、国内旅行をしている時fは例外として、
年金生活の6年生の私は、殆ど変化することなく過ごしている。



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東京郊外の我が家の周辺は、雷鳴ばかりで小雨となり・・。

2010-07-26 22:51:28 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
過日の17日に梅雨明けの後、連日の猛暑となり、ほんの2回ばかり深夜に小雨が降った程度であり、
本降りの雨から、雨から遠のいている。

私は乾ききった燦燦と照らす日中の夏の陽射しを眺めたりすると、
暑さに苦手な私は、先程も戸惑いながら空を見つめたりし、
天上の気候の神々に雨乞(あまご)いをしたくなる・・。

このような心情でいたが、私が風呂から上がった7時過ぎに、
雷鳴が響きわたり、思わず玄関の軒下に出た。

暗くなった夜空に、雷の光線で明るく彩(いろど)られ、夜空を焦(こ)がす花火のようだ、
と思いながら、待ち焦がれた雨が、土砂降りの雨と期待したのである。

その後、小雨が降り、わずか15分ばかり路面を濡らし、
やがて雷鳴も消えて、雨が止んでしまった。

私は落胆し、居間に戻ったが、
その後の9時過ぎに、ふたたび玄関の軒下に下りたった時、
路面は乾ききってしまったが、何かしに涼しけな空気につつまれ、
気温が数度ぐらい下がったのかしら、と微苦笑したりした。

本降りの雨から我が家の周辺からは遠のいているが、
今宵は久しぶりに熱帯夜から、さよならをできて、快適な深夜を過ごせる、
と微笑んだりしている。



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