夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

どうして急に雨が降るのょ、と買い物専任者の68歳の私は、微苦笑し・・。

2013-04-30 12:59:39 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の68歳の身であるが、
民間会社の中小業に35年近く勤めて2004年〈平成16〉年の秋に定年退職となり、
何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった半生だったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたく、その直後から年金生活をしている。

そして年金生活を始めて、せめて平素の買い物ぐらいは私がしょうと、家内に承諾を得て、
これ以来、日常の買い物専任者となり、殆ど毎日スーパー、専門店に行っている。

私は年金生活になると何かしら根はケチとなり、路線バスには乗らず、
最寄駅のひとつに徒歩20分ばかりの大通りの歩道を歩いたり、
最寄りのスーパーなどに10分ぐらい歩いて、家内からの要望した品を買い求めたりしている。

こうした根底のひとつとして、歩くことは何よりも健康の基本である上、
歩きながら四季折々の情景が観られ、季節のうつろいを享受できる、と思ったりしている。


今朝、地元の天気情報を見ていたら、
朝の6時は18度、昼下りは20度前後、夕方の6時は18度前後、
午前中は曇り時々風が強く吹き、午後の3時前後は一時的に雨が降ります、
と世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住む我が家の地域として、報じていた。

私は4月の月末は花曇りかょ、そして午後は雨か予測されるので、
いつもより早めに買い物に行こう、と決意した。

本日は郵便局で振込み、そしてスーパーで購入する品は少量なので、
デジカメを首から掛けて、出かけた・・。

この後、少し遠回りして付近の野川の遊歩道を歩いたりした。
               
そして川辺に咲いている菜の花も、彩(いろど)ってくれている情景もあと一週間ぐらいかしら、
と感じたりした。
そして遊歩道を歩いていたら、どこかのお宅の白いツツジに魅了させられて、撮ったりしていた。
               

その後、小公園の樹木に見惚れて、長らく見つめたりした。
      

この後、郵便局に向おうとしていた時、ポッリと雨粒が舞い降りてきた・・。
そして郵便局で所要を終えて、スーパーで買い物を終えた時、小雨となっていた・・。

私はスーパーの袋をデジカメに被(かぶ)せて、急ぎ足で自宅に向いながら、
どうして急に雨が降るのょ、午後の3時過ぎが予報だったのに、
と傘を持参していなかった私は、住宅街の歩道を歩いたりした。

そして大きな樹木がある下で、少し雨宿りをしていた時、
前方に観えたお宅の垣根が美麗だったので、一枚撮らせて頂いた。
               

そして11時過ぎに帰宅後、家内に洗って貰ったスポーツシャツ、長ズボンも濡れて、
せっかく洗いたてだったのに・・、と嘆いたりした。

この後、15分過ぎた頃、小雨が止み、やがて空は明るくなった。
こうした小庭の情景を私は眺め、
最近の私は何か悪いことをしたのかしら、と私は苦笑しながら、
ここ一週間ばかりの私の言動を思い馳せたりした。

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『昭和の日』を迎えて、齢ばかり重ねた私でも、『昭和の時代』に愛惜を秘めて・・。

2013-04-29 13:24:13 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の68歳の身であり.
今朝、ぼんやりとカレンダーを見たら、『昭和の日』と朱記されていたので、
『昭和の日』かょ・・と朱記されていても齢ばかり重ねた私は、戸惑いながらも微苦笑したりした。

私は『昭和の日』については、遅ればせながら確か2年前の頃に、
日頃から何かとお世話になっているフリー百科事典と名高い『ウィキペディア(Wikipedia)』から学んだ。
《・・
昭和の日(しょうわのひ)は、日本国の国民の祝日の1日である。
平成19年(2007年)から加わった、現在のところ最も新しい国民の祝日である。

国民の祝日に関する法律(祝日法)の一部改正により追加されたもので、日付は昭和天皇の誕生日である4月29日。
同法における定義・趣旨は「激動の日々を経て、復興を遂げた昭和の時代を顧み、国の将来に思いをいたす」となる。
ゴールデンウィークの中の1日である。

昭和64年(1989年)1月7日の昭和天皇崩御により、
同年以降の4月29日はそれまでの天皇誕生日としては存続できなくなり、
祝日法の天皇誕生日に係る項を改正する必要が生じた。

当時から同日を「昭和記念日」など昭和に因んだ新祝日として存続させようという意見が出ていたが、
左派の反対からそのような案は見送られ、同年以降の4月29日は『みどりの日』という名称の祝日に改められた。

その後、『昭和の日』の実現を目指す運動に呼応・共鳴する国会議員により、
(略)幾たびか改正法案提出され、
やがて同改正法は平成19年(2007年)から施行され、
同年以降の4月29日は『昭和の日』、従前の『みどりの日』は5月4日に移動した。
(略)
・・》
注)原文にあえて改行を多くした。
               

このように明記されてことで、私は何となく理解できたが、
私は昭和19(1944)年に農家の児として生を受けたので、
昭和64(1989)年の1月7日の昭和天皇が崩御される前年まで、
この日の4月29日は・・身も心も『昭和天皇陛下のお誕生日』と思いながら、
『天皇誕生日』の祝日である、と敬愛を重ねてきたのである・・。


昭和天皇が崩御された後、4月29日は『みどりの日』として制定され、
私は中小業のサラリーマンの時代で、悪戦苦闘ながら奮闘していた多忙時であったので、
この時節は日本の多くが若葉に染められ、美しい日本の風土を象徴しているかしら、
と単細胞の私は感じたりしていた・・。

『昭和の日』と改称されたのは平成19(2007)年から施行されたと遅ればせながら学び、
私は定年退職は平成16(2004)年の晩秋であり、
その後は念願の年金生活となったので、少しボケた私は2年前の頃に気付いたりしたのであった・・。

そして、今回『昭和の日』に際して、私の『昭和』の時代は少なからず45年近く空気を共にしてきたので、
もとより私の自己形成は『昭和』の時代であったので、
今でも過ぎし『昭和の時代』は愛惜を深めて、ときおりあのようなことがあったよねぇ、
と私は思ったりしている。
              

私は昭和19(1944)年の秋、東京都の北多摩郡神代村(現・調布市の一部)の農家の三男坊として生を受けた。
長兄、次兄の次に私は生まれたのであるが、
何かしら祖父と父などは、三番目の児は女の子を期待していたらしく、幼年の私でも感じたりしていた。
もとより農家は、跡継ぎとなる長兄、この当時は幼児は病死することもあるが、
万一の場合は次兄もいるので、私は勝手に期待されない児として、いじけたりすることがあった。

そして私の後にやがて妹がふたり生まれ、 祖父、父が初めての女の子に溺愛したしぐさを私は見たりすると、
私はますますいじけて、卑屈で可愛げのない言動をとることが多かった・・。

しかし祖父は不憫と思ったのが、自身の名前の一部を私の名前に命名した、
と後年に父の妹の叔母から、教えられたりした。

私が地元の小学校に入学する昭和26(1951)年の春の当時は、
祖父、父が中心となって、小作人の人たちの手助けを借りて、 程ほど広い田畑、
そして田んぼの中のひとつには湧き水があったり、小さな川も流れ、
母屋の周辺は竹林、雑木林が周辺にあった。

そして母屋の宅地のはずれに蔵、物置小屋と称した納戸小屋が二つばかりあり、
この地域の旧家は、このような情景が、多かった・・。

この頃の生家の周辺には、平坦な田畑、雑木林が続き、
少し離れた周辺はゆるやかな丘陵であり、大人の人たちは国分寺崖、と称していた。

その後、私が昭和28(1953)年の小学2年の三学期に父が病死し、
翌年の昭和29(1954)年の5月に祖父も他界され、
生家は大黒柱の2人が亡くなり、没落しはじめた・・。

そして昭和30〈1955〉年の頃から、都会に住んでいた人たち達が周辺に家を建てられ、
私が小学校を卒業した昭和32〈1957〉年であるが、
この頃になるとベットタウンとなり、新興の住宅街となり大きく変貌した・・。
               

この間、祖父、父が健在だった前、私が地元の小学校に入学する前、
この当時は周辺にも幼稚園もなく、やっと託児所ができた頃であった。

託児所と称されても、寺院の片隅の大部屋を借用して、幼児を預かる程度の施設が実態であり、
お遊戯をしたり、挨拶を学んだり、ときには幻燈機で何かしらの観たりしていた。
幻燈機は若い方には不明と思われるが、
現代風に表現すればモノクロ(白黒)の画面で、ときには総天然色のカラーもあったが、
静止画面のスライド・ショーと理解して欲しい。

私の生家でも、祖父の指示の下で、大きな部屋に、ご近所の家族を招き、
『母をたずねて三千里』などの劇画を観たりした。
総天然色のカラー作品で、私はこの『母をたずねて三千里』に感動し、
涙を浮かべて観たりしたのが、5歳の頃であった。
               

こうしたある日、私は祖父から空の一升瓶を渡され、
『XXに行って・・大丈夫かなぁ・・』
と雑木林の拓いた村道で徒歩10分ぐらいの道のりを歩いた。

私が向った先は、酒屋でそれぞれの日本酒の四斗樽が壁一面に並び、
お菓子、佃煮などが並べられている不思議な店であるが、
この当時は駅の周辺は商店街があったが、駅までは15分の道のりであるので、
実家の周辺には、この店しかなかったのである。

私は空の一升瓶を割らないように大切に抱えて、
人気のない村道を歩き、この店に行った。

そして60歳ぐらいの店主に、私は空の一升瓶を少し振り、
『これ・・お願いします』
と私は店主に言ったりした。

店主は明るい表情を見せながら、壁面に置いてある四斗樽のひとつに、
栓を開けて、枡を満たし、その後は一升瓶に移したりした。

この当時は、冠婚葬祭で一升瓶を贈答したり、年末年始とか行事に限り、
何本かの一升瓶を購入していたが、
平素はこのような日本酒の量(はか)り売りの多い時代であった。

この後、私は祖父から預かったお金を渡し、
店主から満たされた一升瓶を受け取ろうとした時、
お煎餅(せんべい)を3枚を渡された・・。

『おじさ~ん・・ありがとう・・ごさいます』
と私は店主に言いながら、重くなった一升瓶を受け取った。

そして私は今宵の晩酌する祖父と父の表情を思い浮かべて、
薄暗くなった村道を歩いた。
そして右側のポケットに、お煎餅(せんべい)を3枚があり、
『この煎餅(せんべい)、美味(おい)しそう・・』
と思いながら、家路に急いだ・・。

後年、祖父と酒屋の店主は旧知で、もとより昵懇の仲であったので、
何かといじけることが多かった私を不憫に感じた祖父の思いだった、
と祖父が亡くなったある時、私は叔母から教えられたのである。

昨今、私はスーパーで買物をしている時、丸い大きく厚い『草加せんべえ』を見かけたりすると、
ときおり幼年期に酒屋から頂いた煎餅(せんべい)に思いを重ねることもある。
               

この頃、私は母に連れられ、年に一度ぐらい新宿の伊勢丹(デパート)に行ったりした。
母は私と妹を両手につなぎ、末妹は乳児だったので背中にしょっていた・・。
京王線の『金子(現在・つつじが丘)』駅から『新宿』駅まで電車に乗ったりした後、
新宿三丁目まで歩いたりした。

そして階段の踊り場、地下の通り道などで、
不幸にして戦争で身体の一部を失くされ、軍歌の音色とも、その容姿を見るのが恐かった。

ある時は母から私は勝手に手を放して、デパートの店内で迷子となり、
人形の売り場で半ベソの私は、店員さんから救出されて、探していた母の元に行ったりした。
               

私が小学校の高学年になると、映画に魅せられて、
付近の調布、布田、千歳烏山の映画館に、独りでよく通ったりしていた。
こうした中、次兄から都心の日比谷にある映画を観ようと、
新宿から築地行きの都電を乗ったが、乗り物酔いで私はしょげた・・。

確かあの頃の都電は、運賃は均一13円と記憶しているが、
下車したら当然もう一度支払う必要があったので、日比谷まで頑張れ、と次兄に励まされ、
青ざめた顔で日比谷で降りた記憶が残っている。
                

このように私の小学生時代までの思いでは、走馬灯のように思い浮かび、
その後の地元の中学時代、そして都心にあこがれ始めた高校時代・・など限りなく、
昭和64(1989)年の1月7日の昭和天皇が崩御された当時の私は、
中小業の民間会社で情報畑で悪戦苦闘ながら奮闘していた多忙時であり、
もとより私にとっては『昭和の時代』は、あふれるように愛惜を重ねたりするが多いのである。

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伊豆半島の『稲取温泉』、過ぎ去る年の5月中旬に近くの『菖蒲園』、『バラ園』を鑑賞し・・。

2013-04-28 13:18:53 | 旅のあれこれ
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の68歳の身であるが、
昨日の午前中のひととき、家内からの依頼で歩いて10分ばかりのホームセンターに行った。
要望された品を買い求めた後、このホームセンターの一階には園芸コーナーとなって、
数多くの草花もあり、何気なしに幾種類かの美麗なバラを観たりし後、
菖蒲の花も見え、早くも菖蒲の咲く時節になった、と私は微笑んだりした。

今朝、ぼんやりとテラスに下り立ちと、眩(まばゆ)い陽射しの中で、
落葉樹は新緑の色あいを深め、常緑樹の葉も燦々と陽射しを受け、
ときおり吹く風は薫風となり、まさに風光る時節、と感じたりした。

こうした時、なぜかしら過ぎし2006〈平成18〉年の5月中旬に、
伊豆半島の『稲取温泉』に滞在して、この間に近くの『菖蒲園』、そして『バラ園』に私は独りで訪れた時が、
甦(よみがえ)ったきたのである・・。

私は中小業の民間会社に35年近く勤めて2004〈平成16〉年の秋に定年退職した身であり、
この直前に家内の父が病死した。
そして家内の母は独り住まいとなり、これ以降は私たち夫婦は家内の母を誘い、
幾たびか3人で温泉滞在旅行を重ねてきた。

そして2006〈平成18〉年のゴールデンウィークも過ぎた5月中旬に、
たまたま伊豆半島の『稲取温泉』に5日6日の温泉滞在となった。


伊豆の稲取温泉は、広い相模湾の一角で、入り江の奥まった程ほどに賑わった温泉地であり、
私たちが宿泊した観光ホテルは海辺に近い小高い丘の中腹にあり、
部屋から見ると、霧雨降る中、入り江にある港から相模湾に目を転じると、
岬のように突出た山並みが豊かな新緑につつまれていた。
      
この間、伊豆急行の『稲取』駅まで15分ぐらいの街並みを、
幾たびか散策したりして、のんびりと過ごした。

こうした中で、動物好きな家内たちは、バイオパークの動物園に訪れることとなり、
私は何かと動物には苦手であるので、最寄駅から一駅先の『河津』駅の近くにある菖蒲園に独りで行った。

『かわづ花菖蒲園』と称された処であったが、300種類ほどの花菖蒲が咲き乱れていた。
       
私はデジカメで濃い紫、薄紫、そして純白の花の彩りは、
つたない私でも、まぎれない美を感じたりした・・。
               
その後、外れにある茶屋に、桜餅、柏餅のコシアン、ツブアンがあり、
甘い物に苦手な私さえ、煎茶と共に頂くと、やはり風情を感じたりした。

こうした時、俳句も詠(よ)めない私でも、心の中で数首呟いたりした・・。
      
    ひとときの 花菖蒲に 我想う時

    我思い 花菖蒲に 身を託し

    我想い 花菖蒲に 身を寄せる

    柏餅 花菖蒲に 季節ゆく

私はつたない句を詠んでいた時、霧雨の降りだしてきたので、苦笑したりした。


この後、近くにバラ園がありと知り、何かとバラには縁遠かった私は訪れることとした。

『河津バガテル公園』は、パリのバガテル公園にあるローズガーデンを
忠実に再現させたバラ庭園であり、
1100品種で6000本のバラが競い咲くバラ園であることを学んだりした。
               
私は霧雨の降る中、散策しながら、純白、黄色、真紅、深紅の色合いのバラの各種を観たりした。
そして私の心に魅了されたのは、ブルームーンの薄紫色のバラであった。
      
しかしながらバラを見る人の歳、或いはそのお方の心境により、
その時の魅了されるバラの種類、色合いが違ってくると思ったりした。
               

そして昼食頃になると、マリー・アントワネットのアモー(田舎屋)を再現させた処で、
               
フランスの田舎料理を食べたりした。
館内は、ほどほどに格式があったので、東京の田舎者の私は照れ隠しにグラスワインをお変わりをしたりした。

そして洋風なことに何かと苦手な私でも、ときにはバラの香りの余情が残る中で、
赤ワイン、白ワインを楽しんだりした・・。


このようなささやかな思いでが甦り、あんなこともあったよねぇ、独り微苦笑している。
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『KITTE(キッテ)』、遅ればせながら私は学び、瞬時に魅了されて、行って観たいと・・。

2013-04-27 13:41:39 | 時事【社会】
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の68歳の身であるが、
昨日の昼下り、最寄駅のひとつの京王線の『仙川』駅の駅ビルの中にある本屋に行った。
そして2冊ばかり買い求めた後、近くのお洒落なカフェテラスに入って、コーヒーを飲んだりした。

私は買い求めた本を開き、目次を見ていた時、
隣席の方から、『きって・・行って良かったわ・・思ったより素敵な処・・』
と私は聴こえて、思わず隣席を見たりした。

何かしら若い女性が向き合って、ひとりの方はセミロングの髪型で、華やかな淡いピンク色のワンピースを召して、
もう一人の方はロングヘヤーの髪型で、純白のブラウスでジーンズの容姿だった。
ともに二十歳過ぎた頃の顔立ちと思われ、近くにあるフランス系ミッションスクールとして有名な『白百合女子大』か、
音楽系の専門学校として名高いの『桐朋学園』の女子大生かしら、
と私は感じたりしていた。

帰路、自宅に向かって坂道を下っていた時、
先ほど女子大生と思われるおふたりが、『きって・・』と話していたことが、
何の事なのょ、と私は思ったりした。
               
そして帰宅後、好奇心を失くしたらこの人生は終わりだ、と信念の私は、
こっそりとバソコンを開き、ネットで検索した・・。

高齢者4年生の私が一番解り易かったのは、
小学館から発行されているトレンドマガジン「DIME」のネットに於いて、
『KITTE(キッテ)』の紹介記事が掲載されていた。

http://dime.jp/genre/74570/
☆【小学館 「DIME」公式サイト】<==《東京の新しいランドマーク、JPタワー「KITTE」完全攻略ガイド(2013.03.28)》☆

私は2時間ばかり読んだりし、この記事の序文として、
《・・3月21日にグランドオープンしたJPタワーは、東京駅前の新しいスポットとして早くも人気のスポットとなっている。
JPタワーは日本郵政グループの大規模不動産事業の第1号プロジェクトとなる建物で、
1931年に開局した「東京中央郵便局」の再開発計画。
地上38階建のオフィスビルと、既存建物の一部を保存した低層棟の商業施設「KITTE(切手)」で構成される。
過去と未来とつないだ新スポットの見どころを紹介しよう。》
と精読した後、

《 ◆建物施設として、旧東京中央郵便局舎の一部と新築部分で構成され、
地下1階、地上6階の低層ビルが商業施設の「KITTE」。
ネーミングの由来はもちろん元郵便局だけあって「切手」。
東京駅から直結で、飲食、ファッション、雑貨など98店舗が入っている。・・》
この由来、そして命名の「KITTE」を初めて知り、微笑んだりした。
                              
この後、瞬時に魅せられたことは、
《・・6階にある地上庭園「KITTEガーデン」。
ここは東京駅が目の前にある絶好の撮影スポット。
テラスもあるので飲食もできる。・・》であった。

そして《・・地下1階はご当地銘品、1階はバラエティ、2階はファッション、雑貨、ファッション、ビューティーサロン、
そして4階は雑貨、5~6階はレストランという構成であり、
KITTEのコンセプトが「Feel JAPAN」ということで、飲食店やショップも全国各地から出店しているのが特徴・・》
と学び、こうした館内であったら、園児から高齢者まで満喫できる、と確信を深めたりした。

そして私が、瞬時に圧倒的に魅せられたのは、4階にある『アンジェ ビュロー』である。
この記事から、《京都の雑貨店が「書斎」をテーマに手掛けたステーショナリーショップ。
アンジェの審美眼でセレクトされた、文具、雑貨、書籍が並ぶ。
オリジナルアイテムやヴィンテージの筆記道具も。
ユニークな東京グッズも揃っているので、お土産やギフト選びにも使えそう。》
こうした記事と掲載されている写真を見ると、行って観たい、と私は魅せられてしまった。
               

しかし大型連休の最中(さなか)であり、私たち夫婦は共々年金受給の身であり、
私たちの高齢者がお世話になっている社会保障制度の年金、医療、介護の基盤は、
その時の現役世代が保険料や税で負担する財政方式(賦課方式)を取っているので、
働いて下さる現役世代の諸兄諸姉が、その時の高齢者を支えて下さっている。

こうした現実であり、働いて下さる現役の諸兄諸姉は、何かと日頃は多忙な勤務をされ、
せめて大型連休の時ぐらいは、ゆっくりとご家族で休息されたり、
或いはご家族で皐月晴れの中、ご自由に行楽地などに行かれたり、
旅行をされりして過ごされればよい、と私は思ったりしている。

こうした意味合いからして、何かと人気のある『KITTE(キッテ)』館には、
働いて下さる現役の諸兄諸姉のご家族に邪魔することなく、
高齢者の年金生活の身の私は、心の節度として、連休が終わった後、私は家内と共に行こう、
と思いを深めたりしている。

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大型連休を迎え、年金生活の私でも、過ぎ去りしのゴールデン・ウィークに思いを馳せ・・。

2013-04-26 12:01:19 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の68歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に築後35年の古ぼけた一軒屋に住み、
お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

今朝、NHKのニュスをテレビで視聴していたら、
明日の27日より大型連休が始まります、と美麗な若き女性のキャスターが報じていた・・。

私はともすれば曜日感覚が恥ずかしながら衰えてきているので、
机の引き出しの中にあるカレンダーを取りだして、見つめたりした。

そして今年の大型連休は明日の27日の土曜日から、5月6日の月曜日の振替休日まで、
働いて下さる諸兄諸姉の多くの方たちの長期休暇かしら、と年金生活の私でも、微笑んだりした。
               

このようなことを思いながら、素足で下駄を履いて、庭のテラスに下り立った。
快晴の青空の中、樹木の枝葉は清々しい新緑の情景となっている。

そして大型連休は、私が現役サラリーマンの時代は、ゴールデン・ウィークと称していたのに、
いつのまにか呼び名が変わってしまった、と微苦笑したりした。
               
このゴールデン・ウィークの由来については、知識人・藤野邦夫(ふじの・のりお)氏が、
的確な解説を『幸せ暮らしの歳時記』(講談社文庫)で明示している。
《・・『ゴールデンウィーク』とは、日本でしか通用しない和製英語である。
1948年(昭和23年)に『祝日法』が公布され、
4月29日から5月5日にかけて、
休日が飛び飛びであれ連続としたことから、この一週間に映画館の入場数が激増。

それに味をしめた映画関係者がPRに使用したことから、
一般にもゴールデンウィークという表現が定着した。》

私は、映画関係者、多分どこかの宣伝部のコピー・ライター専任と思われるが、
命名された名付け親の人は、天分のある人と仰ぎ見てしまう・・。

こうした私の根底の思いとして、多くの家庭の現在でも、
この連続休暇を楽しみに、それ以前の日々の業務に励み、
そして国民の多くが甘受できる連続休暇であるからである。

いずれの名称にしても、働いて下さる現役の諸兄諸姉は、何かと多忙な勤務をされているのだから、
せめて大型連休の時ぐらいは、ゆったりと休息されたり、
或いはご家族で皐月晴れの中、ご自由に行楽地などに行かれたり、
旅行をされりして過ごされればよい、と思ったりしたのである。
              

私の現役サラリーマン時代の時は、民間会社の中小企業であったので、
通常は5月1日から5月5日の5連休がほぼ固定で、後は日曜と祭日が加味されていた。

そして私はこの当時は、1週間以上連休が採用されるのは、
大手の企業の開発と製造部門だろうと思ったりしていた。

私の30代の後半の頃は、住宅ローンなどで返済に重荷となり、
家内と45分ぐらい歩いた所にある都立・神代植物公園に行ったり、
高尾山のハイキングをしたりしていた。
そして、庭の手入れなどをして過ごしたりした。

40代には、格安の団体観光周遊ツアーなどの国内旅行をしていた時もあったが、
旅行先の渋滞に困惑して、その後は庭の手入れをすることが多くなった。

最も現役時代の固定とされていた5月1日から5日までの5日間に於いても、
5日間連続して休めたのは数えるばかりであった。
私は管理系の情報畑で長く勤めていた関係で、システムの開発、運用などで出勤したり、
50代の後半はリストラで烈風の中で出向となり、物流倉庫の再編成の最適な日々となったりし、
大型連休でゆっくりと休暇できたのは、遠い世界の出来事となり、奮闘していた。
               

年金生活の昨今は、若葉の色合いに見惚(みと)れ、萌黄色から黄緑色、そして新緑色に染められ、
私はさりげない日ごとに移つろう枝葉を眺めたりしてきた。

空は青さ一色で、ときおり微風が吹くと薫風かしらと感じたり、
風光る情景に身も心も寄せたりしてきた。
ときには陽射しは初夏のような感じで、この時節にしては強いかしら、と思いながら、
少しばかり大きなモミジの幼い葉を拡げた下で緑陰で、身を寄せたりした。
そして、ここ2週間ぐらい前の頃から彩(いろど)ってくれている躑躅(ツツジ)の紅色の花に
見惚(みと)れたりしていた。


ここ10数年、過酷な成果主義が加速される中、短期に成果を求められる責務の時代となり、
無力ながら憂(うれ)いているひとりである。

いずれにしても大型連休に恵まれた現役の諸兄諸姉、
日常は何かと業務に追わる多忙の身の方が多いと思われるので、
せめてこの大型連休のひとときは、ご家族との心身のふれあいを大切にして頂きたい、
と私はぼんやりと思ったりしている。
               
定年退職後の私は、この大型連休でもいつものように買物、散策などして、
季節のうつろいの情景を享受したり、
その時に思ったこと、思索したことなどを心の発露として、
このサイトに綴り投稿したりしている。

そして日常の大半は随筆、ノンフィクション、現代史、総合月刊雑誌などの読書、
ときおり20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
そして音楽も聴いたり、或いは庭を手入れをしたりしている。

そして、大型連休の終った頃に、現役の諸兄諸姉に邪魔にならないように、
家内との共通趣味の国内旅行を毎年行ったりしている。

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この人生は笑いと涙のあふれた『七転八起』かしら、と拙(つたな)い私でも思い馳せ・・。

2013-04-25 15:46:12 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の68の身であるが、
ときおり、過ぎ去った日々を振り返ることがあり、
あの時に、もしも何かがあったならば、私たち夫婦の今の生活も大幅に狂っていた、
と思い重ねる時がある・・。

私は中小業の音楽業界のあるレコード会社を2004(平成16)年の秋に定年退職後、
まもなくブログの世界を知り、余すことのないように私自身の幼年期から現役時代、
そして年金生活の思い等を綴ってきた。

私は綴る際は、自身のその時の心に素直に綴るようにし、
あとで振り返った時、あの時はこのような思いで過ごしていたのか、
何より自身に対して、その時の思いの心情を発露するのが大切と思ったりしている。

このような思いを秘めてきた私は、数多く投稿文を綴ってきたが、
ひとえに自身の為の心の軌跡の発露、といっても差し支えない。
               

私は幾たびも綴ってきたが、1944年(昭和19)年の秋に旧家の農家の三男坊として生を受け、
農家の児として幼年期を過ごし、やがて小学生の前期に父に病死され、まもなく一年過ぎた頃に祖父にも死去され、
肝要なふたりの大黒柱を失った生家は衰退し、生活に困窮した時期もあった。
その後は、母の孤軍奮闘に寄り、私たち兄妹は何とか世間並みの生活が出来るようになった。

この間の私は、長兄、次兄の学業は優等生であったせいか、
何かしらいじけた劣等生で、地元の小・中学校の時代を過ごした。

高校生になると、長兄、次兄の影響のない都心のある高校であったので、
自縛から解放されたかのように面持ちとなった。
そして初めて授業も楽しくなり程ほどの成績となり、
読書にも目覚めて、熱愛し、やがて小説の習作を始めたりした。

私は小学生の後半から映画に圧倒的に魅せられて、
この後の中学時代を含めて、相変わらず独りで映画館に通ったした映画少年となり、
高校生になると、下校後にたびたび都心の映画館に寄ったりし帰宅していた。

そして東京オリンピックが開催された1964(昭和39)年の秋、
映画の脚本家になりたくて大学を中退し、アルバイトをしながら映画青年の真似事をした。

その後、契約社員などをしながら文学青年の真似事をし、
新人の純文学の小説コンクールの最終候補作の6作品の寸前で、3度ばかり落選したりしていた。

こうした落胆していた時、30代に普通の家庭が築けるの、妻子を養っていけるの、
と素朴な叱咤を叔父さんから、やんわりと言われ、
根拠のない自信にばかりの私はうろたえ、はかなくも挫折した。


結果として、やむなく安定した人生航路に軌道修正し、企業に中途入社する為に、
コンピュータの専門学校に1年ほど学んだりした。
その上、幸いご近所に住まわれている大企業の経営陣のお方の助力もあり、
ある大企業に中途入社できたのは、
1970(昭和45)年の春であり、25歳の時であった。

その後、入社した大企業の音楽部門のひとつがレコード会社として独立され、
私も異籍させられて、これ以降は定年まで音楽分野に勤めることになった。
               

この間は家内と結婚したり、やがて1戸建ての家を構え、若さの勢いで家屋の中に茶室を設けたりし、
住宅ローンなどが重く苦心惨憺な時期も過ごした。

もとより会社の勤務も数多くのサラリーマンと同様に多忙で、落伍者になるまいと、私なりに奮闘したりした。

そして、ぎっくり腰で1ヶ月ばかり入院した40代の後半があったり、
レコード会社の合併などで完全外資となり翻弄された時代もあり、
そして音楽業界のピークとなるのは、私が50代のなかばであった。

こうした暗澹たる空気の中、私の勤めていた会社もリストラが行われ、
希望退職優遇制度の名の下で定年前に退職を余儀なくされた人もいたし、
人事異動が盛んに行われ、私のように出向となった人もいた。


こうした時に、私たち夫婦はどのような老後の生活をしたいのか、
と改めて真剣に話し合った。
私たち夫婦は子供も恵まれなかったので、老後も2人だけの家庭となるので、
残された歳月、その後の片割れになった時も配慮したりした。

老後の資金も肝要なので、私は出向先の不馴れな物流情報センターで、
何とか頑張れて、定年退職を迎えることが出来たのである。
              

そして定年退職後は、予定通り年金生活となり、
程々の貯蓄を取り崩しながら、古びた1戸建てに家内と生活を過ごしている。

ご近所の奥様と立ち話などをした時、
悠々自適な生活で羨ましいわ、と言われたりしているが、
学を卒業した後、官公庁、大企業などで邁進され栄達したエリートのお方たちと違い、
数多い中小業で35年ばかり勤め、苦楽の激しかったサラリーマン生活であったので、
高収入、高額な退職金には無縁で、程遠い生活実態である。


私の日常の大半は随筆、ノンフィクション、現代史、総合月刊雑誌などの読書、
ときおり20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
そして音楽も聴いたりし、ときたま小庭を手入れをしたり、家内との共通趣味のひとつの国内旅行をしたりして、
退職後の年金生活で過ごして今日に至っている・・。

そして青年時代に文章を綴り家庭生活を過ごすが夢であったので、
体力、感性も衰えた今は、もとより小説の習作もままならず、
大幅な変貌してきたが、プログで随筆形式をめざして、毎日投稿するのが、
生きがいのひとつとなっている。


このように改めて、私の簡略な軌跡を明示してきたが、
この中でひとつでも欠けていたら、私の今の生活は大幅に変更を余儀なくされている、
と思ったりしている。
               
定年後、念願の年金生活をしているが、
ときおり家内から、働かなくても私たちの生活できるのだから、ありがたいわ、
と言われたりするたびに、
私は拙(つた)ない自分の半生のひとこまが、走馬灯のように甦(よみがえ)ったりしている。

古来より、人生は『七転八起』と格言された名言の前、
私は確かにそうですよね、と自身の何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、
悪戦苦闘の多かった半生を重ね、微苦笑する時もある。

そして人生は、もとより自身の努力は必要であるが、
何よりもその時代ごとに、私は人との出逢いに恵まれて、叱咤激励されながら私は導かれてきた、
こうした思いがあるので、それぞれの時代にめぐり逢えた人に感謝の念を深めている。

そして老後の生活を迎えている私は、甘味な年金生活を続ける中、
いずれは私か家内が『おひとりさま』となるが、
こればかりは天上の神々の采配に基づく範疇なので、日々を大切に過ごせばよい、と深く思ったりしている。

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本屋に寄れば、やはり歳相応の雑誌を買い求めて、私は微苦笑を重ねて・・。

2013-04-24 14:16:52 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の68歳の身であるが、
本日の午前中のひととき、歯の治療の為に小田急線の『喜多見』駅の近くの歯科医院に予約していたので、
どんよりとした曇り空の中、私は出かけた。

駅前に近づくと、ひとつの雑誌を買い求める為に本屋に寄った。
一昨日の22日の夜、総合ビジネス情報誌として名高いビジネス情報サイトの【ダイヤモンド・オンライン】を見ていたら、
今週号の特集として『有料老人ホームの対抗馬で急増するサービス付き高齢者住宅を大解剖! 
本邦初で全国1218物件をランキング』と題されて、解説文が掲載されていたので、
私は読んだりした・・。
http://diamond.jp/articles/-/34958
☆【ダイヤモンド・オンライン】公式サイト 4/27・5/4 《親子で選ぶ「老後の住まい」》☆ 

私は高齢者4年生の68歳であり、家内は5歳ばかり齢下の63歳であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

しかしながら、この先は五体満足で心身いつまでも健(すこ)やかな過ごせることは不可能であるので、
参考として私は真摯に解説文を読んだりした・・。

そして本文の詳細記事を読みたく、購読を決意した。
               
本屋の店内で、この週刊【ダイヤモンド】を手に持った後、
何かしら魅了される本はないかしら、と私は探したりした。

そして雑誌コーナーの『教養』棚で、『鮮やかに生きた昭和の100人』と題された本を手に取って、
パラパラと捲りながら、魅了が増した・・。
http://gekkan.bunshun.jp/articles/-/598
☆【文藝春秋】WEB公式サイト 5月臨時増刊号《鮮やかに生きた昭和の100人》☆

                             
私は1944〈昭和19)年9月に東京郊外で農家の三男坊として生を受け、
小・中学校、その後の高校、そして大学を中退するまでの学業時代、
その後の社会人として民間会社に勤め、1989〈昭和64〉年1月に昭和天皇がご逝去されるまで、
私は『昭和の時代』を国民のひとりとして45年近く過ごしてきた。

もとより私の自己形成は『昭和の時代』であり、世の『昭和の時代』に確かな足跡を遺(のこ)された人に、
愛惜を秘めながら読んでみたい雑誌となった。

こうして齢ばかり重ねた私は、この二冊の雑誌を胸に抱くように、歯科医院に向った。

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恥ずかしながら私の『へそくり』、銀行に入金すれば・・。

2013-04-23 14:09:54 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の68歳の身であり、
いつものように買い物に行ったが、この前に少し重いお金を持ち、銀行に立ち寄り入金の手続きをした。

私たち夫婦は原則として、『へそくり』、『タンス預金』などは無縁である。

遠い昔の1975〈昭和50〉年12月の少し前、
私は家内となる女性と交際期間に於いて、デートとした最中に、
『お互いに・・隠しだて・・やめましょうねぇ』
と私は何かの話しの続きに言ったりした。

これ以来、私たち夫婦はオープンに話し合ったりし、
この中のひとつの『へそくり』などは無縁となり、早や38年の歳月が流れている。
               
そして世の中の一部の方に、配偶者に内緒で預金などお金を貯める『へそくり』をしていることを知り、
どうしてなの、と私は不思議に感じたりしている。

過ぎし日に、たまたま『へそくり』のことがテレビのニュースで報じられていた。

その後、私は煎茶を飲み、コーヒーを飲んでいる家内に話しかけたりした。
『XXちゃんさぁ・・テレビのニュースのひとつに・・へそくりをしている方がいて、
60歳以上の妻だと平均240万円みたい・・驚いたょ』
と私は家内に言ったりした。

『・・』
家内は少し苦笑していた。

『だけど・・どうして《へそくり》をするなんで・・夫婦なのに』
と私は家内に言ったりした。

『あらぁ・・私のお友達だって・・「自分のために」だって、へそくりしている方はいますわ』
と家内は私に言った。

『そぉ・・』
と私は家内に言ったりしたが、この地球の広い空の下で、たまたまめぐり逢い、
そして寝食を共にされる夫婦なのに、「自分のために」か、
おかしいよ、と私は心の中で呟(つぶや)いたりした・・。
               

私は民間会社の中小業に35年近く勤めて2004年〈平成16〉年の秋に定年退職となり、
何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった半生だったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたく、その直後から年金生活をしている。

私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我家は家内とたった2人だけの家庭であり、
そして雑木の多い小庭に築後35年の古ぼけた一軒屋に住んでいる。

私が年金生活を始めて最初に配慮したことは、
家内の従来の専業主婦の日常のペース、ささやかな憩(いこ)いひとときなどの過ごし時を配慮して、
私は独りで外出して、自宅の周辺にある遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受し、
本屋、古本屋に寄ったりしている。

もとより家内は料理、洗濯、掃除などがあり、
私の現役時代は小庭の手入れをするぐらいであったので、
せめて退職後は日常の買物ぐらいと思い立ち、私は自主的に買物の担当となったりした。
                               
殆ど毎日のように家内の要望品をスーパー、専門店などに行ったりしているが、
買い物を精算すると、殆ど10円玉、5円玉、1円玉のおつりがあり、
私の財布から、やがてはあふれてきた。

私はレジの込み合っている中で、齢ばかり重ねた私でも日本男児のひとりとして、
10円玉、5円玉、1円玉で支払うことが出来なかったのである。

帰宅後、私の困惑した表情を察した家内は、私にひとつの貯金箱を私に渡した。
確か17年前の頃、家内が郵便局で頂いた郵便ポストの形をした赤いプラステックの貯金箱がある。
         
         ☆平素は居間の片隅みあるが、今回はテーブルに特別移動させ、記念撮影とした。

これ以来、私は買い物を終えた後、財布から10円玉、5円玉、1円玉を取りだして、
この赤いプラステックの箱に入れたりした。

やがて可愛らしい箱の中が満杯となった時、初めて銀行に入金したら、5000円を少し超え、
私は嬉しげにパソコン用のプリンターの用紙、インクの購入費にしたりしてきた。

ここ数年は、私は散策したりする時、ときおり自動販売機で煎茶のペットボトルを買い求める時、
できる限る財布の中にある10円玉を使うことが多くなっている。
               

本日、最寄りの銀行に寄り、少し重い10円玉、5円玉、1円玉を入金した。
10分ぐらい待った後、入金金額は2034円、と通帳に記載され、私は微苦笑したりした。
そしてプリンターのインクの購入費には足らないが、用紙ぐらいは買える、と微笑んだりした。

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穀雨(こくう)の時節、私の住む東京の郊外は、若葉の色あい深めて・・。

2013-04-22 15:48:31 | 定年後の思い
私は東京郊外の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住む年金生活の68歳の身であるが.
一昨日の20日の朝、居間にあるカレンダーをぼんやりと見たら、
『穀雨(こくう)』と明記されていたので、思わず苦笑したりした・・。

過ぎし18日は初夏のような23度の快晴の陽気に恵まれた後、
19日には曇り時々晴れの日中であったが、北風の吹く3月中旬の気温となり、
20日は朝の6時は8度、昼下がりは12度前後、夕方の6時は9度前後、
曇り空の日中で夜から雨、と報じられ3月初旬の気温に戻ってしまい、
『穀雨(こくう)』の時節には相応(ふさわ)しくないなぁ、と苦笑させられたのである。

もとより穀雨の時節は、暖雨にうるおい百穀生じ育つ、と古人からの伝えられているので、
私は幼年期に農家の児として育った体験からして、
農作物は陽射しと雨と土、そして肥料で育つと固く信じているひとりである。
               
しかしながら肌寒いじゃないの、と思いながらも、家内と共に小庭の手入れを朝の9時から始めたが、
昼から小雨が降りだして、
信頼している気象庁の予報は夜から雨なのに、どうしてなのょ、と空を見上げたりしたが、
私たちは小雨降る中、午後4時頃まで奮戦したりした。

昨日の21日も雨降る日中で、2月下旬のような寒さとなり、
今頃になって寒気団の襲来は勘弁してょ、と我が家はガスファンヒーターで暖房し、
天上の気候の神々の采配に戸惑ったりした。


今朝は雨上がりの快晴に恵まれ、平年並みの昼下りは16度前後と報じられていたが、
北風か吹き、体感温度は寒く、私は冬のスポーツシャツで午前中のひととき買物に行ったりした。
その後、私は近くに流れる野川の遊歩道を散策した・・。
               

この後、この遊歩道に隣接した所に、過ぎし9年前ごろにある大手の不動産会社がマンションを建設し、
広々とした敷地の中に数10棟のマンションとなり、小公園を公開して下さり、
樹木も四季折々の情景をかもしだして、私は秘かに好感している処でもある。
      

そして私は歩きながら、ここ一カ月は落葉樹の若葉の色合いは、
萌黄色から黄緑色にうつろい、新緑色に染められ、昨今は色あいを深めている、と実感させられたりした。
      

私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思ったりしているひとりである。
               
このような思いを秘めている私は、平日の日中のひととき、
こうした情景の中をのんびりと過ごせるのは、この世の最上の時、と享受したりした。
      
そして樹林の中を一時間ぐらい身も心もゆだねて、時を過ごし、やがて自宅に向かった。


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『小雨降る径』の歌を唄い、過ぎ去る年の私たち夫婦の新婚時代、甦(よみがえ)り・・。

2013-04-21 12:27:13 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の68歳の身であるが、
昨日の日中、家内と共に肌寒く小雨降る中、小庭の手入れに昼食抜きで奮戦した為か、
夜の9時過ぎに疲れを感じ布団にもぐり、本を10分ぐらい読んでいると眠りについた。

そして目覚めたのは朝の4時好きで、洗面所の窓から外を眺めれは雨が降っていたので、
齢ばかり重ねた私でも、早寝早起き元気な児は敬遠して、再び布団にもぐり二度寝を甘受した。

そして目覚めたのは7時半過ぎで、ぼんやりと居間から小庭に降りしきる雨を眺めていたら、
単細胞の私は、ひとつの歌をかぼそい声で唄いだした・・。

♪静かな雨 並木の雨
 あなたを待つ 胸に降る

【『小雨降る径』 作詞・Robert CHAMFLEURY、訳詞・坂口 淳、作曲・Henry HIMMEL 】 

このような歌を唄った後、この歌を盛んに聴いたりしていた頃が想い浮かび、
過ぎ去る年の私たち夫婦の新婚時代を甦(よみがえ)ったりした・・。
              

確か40年前の前後、この頃の独身の私は銀座の一角にあるシャンソン喫茶として名高い『銀巴里』に通うように行き、
数多くのシャンソン歌手が近くで唄われるのを、
私はコーヒーを飲みながら、名曲の数々を聴いたりしていた。

そして、近くにあるカフェ・バー形式のような『蛙たち』にも行き、
私は濃い目の水割りのウィスキーを呑みながら、数多くのシャンソン歌手が唄われるのを、
聴き惚れ、心酔していた時期であった。
そして、ときおり歌をリクエストをしたりしていた。

この後、家内と結婚前に交際していた時も、この『銀巴里』とか、『蛙たち』にも行ったりしていた。
               

私たち夫婦は、1976〈昭和51)年の3月下旬に結婚し、新婚生活の始めた。
入居した所は、東京都と千葉県の間に流れる江戸川沿いにある『国府台』であった。
この駅の付近には東京医歯大、和洋女子大、国府台高校などある学園街であった。

駅より商店街を抜けると、真間川が流れ、
この近くに賃貸マンションがあり、ここの最上階のひとつの2DKを借り入れた。

角部屋の窓を開けると、樹木に覆われた小高い丘にお寺があり、
私はこの窓辺から観える景観に瞬時に魅了され、貸り入れることを決めたりした。
そしてこのお寺が由緒ある弘法寺(ぐほうじ)であることを知るのは後日ある。

私はこの当時は音楽業界のあるレコード会社に勤めて、コンピュータの専任者として、
兄弟会社のようなレコード会社の担当者と共に、
未熟な私は指導を受けながらシステム開発を共にして奮闘したりしていた。

そして家内は専業主婦として過ごす中、
中学生の時から茶事を学んできた延長として、週に一度にお茶の先生の宅に訪れて習ったりし、
料理、洗濯、掃除も手を抜くこともなく、何かと従順な新妻であった。
               

こうした中で、私たち夫婦が新婚まもない1977〈昭和51〉の晩春だったと記憶しているが、
東銀座にある東急ホテルの小さなレストランで、
デイナー形式でシャンソンを聴きながら、夕食を頂くのに、私たち夫婦は参加した。

歌い手は私がこの当時圧倒的に心酔していた金子由香里さんで、
私は、金子由香里さんが『銀巴里』、『蛙たち』と違った面が表現できる方、
と私は感じたりしていたので、家内を誘ったのである。

そして金子由香里さんが3曲を唄った後、ボーイさんがリクエスト曲の用紙を廻してきた・・。

私は万年筆で、『小雨降る径』と書き込んだ。

20分過ぎた頃、リクエストの3番目として、
『どなた様が・・この《小雨降る径》をリクエストして下さったのでしょうか・・』
と金子由香里さんは言った。

私は少し恥ずかしげに、片手を少し挙(あ)げた。

金子由香里さんはリクエストした方が人生の苦楽に未熟な若い方であり、
少し驚ろかれた表情されたが、唄いだした・・。

この後、数曲唄われた後、私たちのテーブルに近寄ってきた。

『今晩・・来て下さって・・
あたくしの歌を・・よく聴いてくださる方よねぇ・・』
と私に向って、金子由香里さんは言った。

私はカフェ・バーの『蛙たち』などにも、幾たびか通ったりし、
金子由香里さんの歌を聴きたくて時折リクエストなどをし、記憶されていたのかしら、と私は照れたりした。

そして、金子由香里さんは、
『あなた方・・お若くて・・これからの人生・・何があろうとも・・
お互いに思いやりがあれば・・大丈夫だから・・』
と微笑みながら、このような意味合いの言葉を私たち夫婦に言った。

私は、人生の駆け出しの夫婦として、希望と幸福に満ちたあどけない私たちを視(み)て、
人生は波乱に満ち、たとえ苦難にあっても、励ましと慰めを配慮され、
わざわざ私たちのテーブルに寄って下さった、と思ったりしている。


このようなささやかな思いでが私たち夫婦にはあったが、
若き日々、人生を歩みだした時、『小雨降る径』をリクエストしたのだから、
この頃の私は人生の痛みも知らず、ただ気負(きお)っていたのかしら、
と結婚生活37年を過ぎた私は、人生には世間の荒波などもあったからねぇ、微苦笑したりしている。

この後、私は金子由香里さんの『小雨降る径』を急に聴きたくなったのである・・。
                   
私の音楽棚には、金子由香里さんのレコード、カセット、CDは少なくとも15枚のアルバムはあるが、
この『小雨降る径』が収録されたのはレコードだけであり、少し気落ちしたのである。

私はレコード・プレイヤーを手放しているので、やむなくネットの【YouTube】に頼って検索し、
久々に【YouTube】の上であるが、
愛(いと)しき金子由香里さんの『小雨降る径』の歌に、めぐり逢えたのである。


http://www.youtube.com/watch?v=8ynlEywBSBI&playnext=1&list=PLC14E9415E89B51B1
☆【YouTube】【『小雨降る径』 作詞・Robert CHAMFLEURY、訳詞・坂口 淳、作曲・Henry HIMMEL 、唄・金子由香里】☆

私はあれから37年近く金子由香里さんにお逢いすることなく、
ときおりCDのアルバムで聴いたりするばかりであるが、
お齢を召されもお元気なのかしら、と私は小雨降る小庭を眺めながら思ったりした。

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肌寒く小雨降る中、私たち夫婦は小庭の手入れ、昼食抜きで奮戦しても・・。

2013-04-20 18:33:45 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の68歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に築後35年の古ぼけた一軒屋に住み、
お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

こうした中で、小庭の手入れは、原則として私の責務の範疇であるが、
蚊の出る5月下旬頃から10月頃を除き、体力の衰えた私を見かねて、家内の支援を受けている。

こうした理由の根底には、私が2004〈平成16〉年の秋に定年後まもなくして、
ご近所より少し広い我が家は、植木屋さんに年に数回依頼すれば、数10万円と教えられたので、、
家内は3泊4日ぐらいの私たちの旅行ができるわ、と私に言い、
強力な支援の根幹となっている。
               
過ぎし日の4月10日も小庭の手入れをしたが、程ほど残してしまったので、
昨日の19日に実施する予定であったが、北風が強く吹いたので断念した。

そして本日の9時少し前から私は庭に下り立った。
天気情報は朝の6時は8度、昼下がりは12度前後、夕方の6時は9度前後、
曇り空の日中で夜から雨、と報じられていたので、
3月初旬の気温に戻ってしまったが、気力充分の私は、肌寒さなんて、と笑い飛ばしていた。

そしていつものようにストレッチパンズの長ズボン、着古したスポーツシャツ、ウォーキング・シューズ、帽子、
滑り止めの軍手をした上て、寒さ対策としてジャンパーを着て、
剪定鋏(ハサミ)を腰の周りにしたりした。

そして家内も出てきて、トレーナー姿にエプロンを身に着け、そしてタオルを姉さん被(かぶ)り、
ウォーキング・シューズの万全な容姿で、滑り止めの軍手をして、
高枝鋏(たかえだばさみ)を薙刀〈なぎがた〉のように持ち、私に近寄ってきた。
               
        
この後、私は剪定用の鋸(のこぎり)を右手に持ちながら、
適度な台に乗り、枝葉を切り落としはじめた。

家内は高枝鋏(たかえだばさみ)を枝葉を切り落としたり、
或いは剪定鋏(ハサミ)を使ったりしていた。

こうしてお互いに3時間ばかり過ぎた12時過ぎに、なぜかしら小雨が降りだしてきた・・。
信頼している気象庁の予報は夜から雨なのに、
と私は家内に言ったりした。

そして来週は何かと予定事項が多いので、
今日しなくていつするのょ、と私は心の中で叱咤激励していた時、
もう少し頑張ってみませんか、と家内に言われたりし、
そうだよねぇ、と私は瞬時に同意し、お互いに小雨の中、奮戦した。

その後、一時雨が止み、私たちは微笑んだりしたが、
まもなく大粒の雨が降りだし、お互いに雨に濡れながらも奮戦した。

結果として枝葉の剪定は何本かは残してしまったが、お互いに昼食抜きで奮闘したので、
やむえないょ、と私は家内に言ったりしたのは午後4時過ぎであった。

この後、家内に風呂に入ってもらっている間、
私は主庭のテラスに簡易椅子に座り、煎茶を飲みながら小雨を眺めたりし、
本来ならば雨さえ降らなければ、午後5時頃まで終わっていたのに、と苦笑したりした。

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時代から取り残された我が家、わずか一本の光ファイバー回線を頼りに・・。

2013-04-19 12:38:58 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の68歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に築後35年の古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

今朝、玄関庭に下り立つと、曇り空の中で北風が強く吹き、
昨日は快晴で22度前後の初夏のような陽気に恵まれたが、何かしら急激に3月下旬のような気温に下り、
どうしてなのょ、と空を見上げながら、天上の気候の神々の采配に戸惑ったりした。

そして門扉に近い道路の片隅には電信柱があり、この電信柱から15メートルぐらい我が家の玄関側の二階の壁面に光ファイバー回線、
      
或いはこの電信柱から東京電力の回線が、20メートル足らずの台所に近い処に結ばれているが、
このたった一本の光ファイバー回線が北風を受けて揺れているのに気付き、
大丈夫かしら、と私は微苦笑したりした・・。


我が家は門扉に近い電信柱から、たった一本の光ファイバー回線を頼りに、
NTT東日本の管轄下で、電話は『ひかり電話』となり、
たまたま世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住んでいるので、都内地域の配線下となっている。

そしてネット回線は『フレッツ』なり、私はパソコンでネットを日々利用している。
或いはテレビも、アンテナ不要の『スカパー!光』となり、
このように我が家はすべて光ファイバー回線となっている。

私たち夫婦は恥ずかしながら、スマートフォンはもとより、
携帯電話さえも使えないので、やむなくインターネットは『フレッツ』の回線で、パソコンを利用している。
或いはフェイスブックとかモバイルパソコンに無縁で、無線のモバイル情報機器に遠い世界のようなことと思い、
このような稀(まれ)な国民のひとりとなっている・・。
              

私は1998〈平成10〉年の当時、音楽業界のあるレコード会社の管理畑に勤めていたが、
この少し前の年の頃から、若手の20、30代の世代が携帯電話を使い始めいたが、
50代の私たちも、いずれは携帯電話を利用しなければ、と思っていた。

この数年前の頃から音楽業界はリストラの烈風となり、
私は1999〈平成11〉年の初春に、取引先の物流情報会社に出向となった。
勤務した職場は、音楽のCD、DVDなどの商品をソフトの販売店に出荷、返品など取り扱う商品センターで、
私を含めた管理の正社員の5名の基で、契約・パート社員の男女120名前後で対応した。

東京ドームより広い商品センターの中で、連絡事項などはマイクを通して拡声器、もしくは電話などで通達し、
携帯電話も要求されない現場で奮闘し、
この出向先で5年半ばかり勤め、2004〈平成16〉年の秋に定年退職時を迎えた。

この間の世の中は、多くの方が携帯電話が愛用する時代となったが、
私は定年後の年金生活の中で、何かの機会で覚えればよい、と思ったりしていた・・。

私は携帯電話に興味がなく、今日まで至っているが、
5年前の頃から、私たち夫婦のどちらかが、ボケる前には、
迷子のように、私はどこにいる・・と確認できるGPS機能の携帯電話が必要と思い、
新聞に添付されるチラシの一部に、携帯電話とかスマートフォンの各社の広告が入っているので、
ときおり私たち夫婦は見たりし、思案するばかりで今日に至っている。


このように私たち夫婦は。携帯電話も使えず、ましてフェイスブック、スマートフォンは遠い世界のように思え、
世の中の時流から取り残されている中、
インターネットはせめてパソコンでと思い、自宅にラップトップ型のパソコンを置き、
ささやかながら対応している・・。
                              
この一年、経済・社会ニュースを見たりすると、
スマートフォンの普及で光回線の利用需要が頭打ちになり、減少してきている、
と昨年の初秋の頃から学んだりしてきた・・。

何かしら学んだひとつの社会現象としては
《家族でパソコンをフルに使う家庭にとって、固定の光回線は重宝かもしれないが、そのような家庭は限定的。
特に若年層の間で見受けられるのは、「インターネットの利用はスマホでアプリを使うくらいで十分」というトレンドだ。

「こうなると、100メガクラスの回線は必要ありません。
パソコンをモバイルで代用できる人なら、月々3980円ほどでモバイル回線を利用できるため、
“光回線は高い”と感じてしまいます」

一方、郊外エリアでは、光回線の方が通信品質は高くなり、インターネットへの接続もスムーズにできる。
しかし、各社が手がけるモバイル回線サービスの提供エリアが拡大し、モバイルブロードバンドが普及してくると、
光回線とモバイル回線の差はさらに縮まってくる。
そうなると、いよいよ光回線が不要になってくる。》


こうしたニュースに接した私は、我が家としては光回線が頭打ちになり、
やがて衰退することは、困るよなぁ、と大いに憂いながら戸惑ったりした。

この後、若い学生や働いて下さる若き諸兄諸姉の多くは、
光回線に頼らずモバイル情報にすがり、そして新聞も定期購読せずモバイルでニュース検索・・
世の中は変わるよなぁ、と漠然と思い馳せたりしたり、
今後ますます二宮金次郎の真似事をする方が多くなるの、と溜息(ためいき)をしたりした・・。
               
この二宮金次郎の真似事に関しては、
過ぎし一昨年の2011年12年13日の私の投稿文として、
『昨今の若き男女は、二宮金次郎のように歩く方が多くなり、高齢者の私でも戸惑いながら苦笑し・・。』
と題して、投稿しているが、今回あえて再掲載する。

【・・
二週間前に買い物で駅前のスーパーに行った時、駅近くの商店街を歩いていると、
若き20代の女性が前かがみで何かを見ながら歩いていた。

その後、駅前の広場を足早に歩いていた若き30代の男性も、
やはり前かがみで何かを見ながら歩いていた。

私は驚きながら周辺を見渡すと、10人ぐらいの方が前かがみで何かを見ながら歩いていたので、
まるで江戸時代末期に農民の児として育った二宮金次郎のような方が増えた、
と私は苦笑したりした・・。

もとより二宮金次郎は、貧困の少年時代を過ごし奮闘しながら朝から晩まで働き、
この間に薪(まき)を背負っての道中に本を読んで勉学に励んだ人で、
私が学んだ小学校の校庭の片隅に銅像があった。

私は注視しながら見ていると、何かしら携帯電話のような物に覗き込むように見ている人が多く、
無念ながら携帯電話も使えず、世の中の時流から取り残されている私でも、
ここ一年ぐらい話題となっている高性能携帯電話と称されているスマートフォンだ、
と解った。

そして過ぎし日に雑誌などで教示され、従来の携帯電話はもとより、バソコン、デジカメ、
カーナビ、携帯音楽プレーヤー、ゲーム機、電子辞書なども有している機能もある、
と知り私は驚いているひとりである。


この後日、私は久々に電車に乗ろうと改札口に入り、
地下にあるプラットフォームに通じるエレベータ乗った時、
隣にいる若き20代の女性が、このスマートフォンを忙しそうに画面を変えていた。

そしてエレベータの降り口から平坦となったプラットフォームを歩いていても、
スマートフォンの画面から目を離さないので、人の多い所で危ないなぁ、
と私は危惧したりした。
その後、やはりこの女性は40代ぐらいの男性にぶつかり、目礼しながら謝ったりしていた。

私は身体の衰えた高齢者、或いは構内のベンチとかに、ぶつかったり、
最悪の場合は電車が入線してきたら、と私の方がハラハラしてしまうのである。

               
昨日、私は近くの野川の遊歩道を散策していた。
落葉樹のたわわな葉は、紅色、朱紅色、黄色など染められている錦繍(きんしゅう)の情景が終わりかけ、
枝には少しばかりの葉が残り、朝のまばゆい陽射しが樹木の枝葉を照らしだして、
私は思わず足を止めて、見惚〈みと〉れていた・・。

まもなく後方から足音が聴こえ、突然に足音が消え、私は後ろを振り向くと、
わずか1メートルぐらいで、若き20代のツーピスを召された女性が、驚いたように立ちすぐんでいた。
私はこの女性の顔立ちを見た後、手に握りしめたスマートフォンに気付いた。

そして、この女性は人影の少ない遊歩道で、スマートフォンで情報を検索しながら歩いているうちに、
私の姿を手前で気付いた、と思われる。

この女性は私に目礼をして立ち去ったのであるが、
私の方が驚いたょ、と私は心の中で呟〈つぶや〉いたりした。


このように昨今は何かと慌ただしく、世の中は情報に溢れているが、
働いて下さる若き諸兄諸姉、せめて歩いている時ぐらいは、
前方を見据えて颯爽と歩くのが何よりも美しい、
とサラリーマンを35年近く体験した私は確信を深めている。
・・】
このように私は綴っていたが、こうした心情は今でも変わらない。
                             

そして私はサラリーマンを卒業し、年金生活の9年生の今、恥ずかしながらスマートフォンも使えない私は、
この地球上に果てしなく溢(あふ)れる情報に、
ときおり戸惑いながら、どこまで進んだら人々は気が済むの、と昨今は微苦笑したりしているひとりである。


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私の定年退職時の記念樹、ぐうだらな年金生活を過ごす中、成長して・・。

2013-04-18 14:37:42 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市の片隅に住む年金生活の68歳の身であるが、
午前中のひととき、いつものように平素の買物専任者の私は、
初夏のような20度近いの快晴の中、最寄りのスーパーで責務を終えて帰宅した後、
やがて下駄を履いて主庭のテラスに下り立った。

そしてモミジの日増しに枝葉を伸ばしているのに圧倒されながらも、眺めたりした。
              
その後、庭の片隅に植えている一本の樹を眺めて、長らく見つめながら微苦笑したりした・・。
                   

私は民間会社の中小業に35年近く勤め2004(平成16)年秋に定年退職し、
その直後から年金生活をしているが、
私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思ったりしているひとりである。

そして私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭に築後35年の古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

私が眺めていた樹は、つたない半生を歩んできた私が、せめて定年退職時の記念樹と思いながら、
ときおり四季折々ながめることが多い樹である。

記念樹といっても園芸店、或いは植木の即売店などで買い求めた樹ではなく、
小庭には小鳥が定期便のように飛来してくるので、
たまたま小鳥が飛び立つときに、小鳥からのささやかな贈り物のひとつであった。
                                   

私は東京オリンピックが開催された1964年(昭和39)年の秋に、
大学を中退し、アルバイトや契約社員をしながら映画・文學青年の真似事して、
あえなく敗退して、やむなくサラリーマンに転進する為に、コンピュータの専門学校で一年ばかり学んだ後、
何とか大手の民間会社に中途入社出来たのは、1970(昭和45)年の春であった。

そして音楽事業本部の片隅で勤めていた私は、まもなくこの中のひとつの大きなレーベルが、
外資系のレコード会社として新設され、私も移籍の辞令を受けて、
この新しいレコード専門会社に情報畑、管理畑、営業畑など35年近く勤め、
定年退職を迎えたのは2004(平成16)年の秋であった。

このようにサラリーマンの生活をしてきたが、もとより一流大学を卒業され後、
大企業、中央官庁などに38年勤め邁進し栄達された世にいわれているエリートとは、
遥かに遠い平凡な道を歩いたりしてきた。

その上、たまたま私が勤めてきた音楽業界は、
1970、80年代はそれぞれのレコード会社は躍進したが、
1990年代を迎えると、特に外資系は、世界市場の中でアメリカに続いて、日本が第二位となり、
抜きん出た市場となり、本国の要請で利益の追求が厳しくなり、
各会社は総合見直しとなり、会社間の統廃合もあり、人員削減も行われはじめた。

そして1998(平成10)年に売上の主軸となるCDがピークとなり、この少し前の年からリストラ烈風となり、
私の勤めた会社も同様に、早期退職優遇制度の下で、上司、同僚、後輩の一部が業界から去ったりし、
人事異動も盛んに行われたりし、 私も50代のなかば、取引先の物流会社に出向を命じられ、
この中のひとつの物流センターに勤務した。

私は本社で30年近く勤めいたが放り出され、私でも失墜感もあり都落ちの無念さを感じたが、
半年後から何とか馴染み、精務した。
                    

この間、出向先の物流会社も大幅なリストラが実施されたり、
私が30年近く勤めてきた出向元の会社でも、リストラ烈風となる中、
私の同僚、後輩の一部が定年前の退社の連絡、或いは葉書で挨拶状を頂いたりし、
私は出向先で2004〈平成16〉年の秋に定年退職を迎えたのである。

そして、私は出向身分であったので、何とか烈風から免れたのも事実であり、
定年前の退社された同僚、後輩に少し後ろめたく、
退職後の年金生活に入った理由のひとつとなった。
               

こうした中で、定年を半年後となった2004(平成16)年の春、
私は右腕が肩より上に上げたりすると何かと重く、痛みを感じたので五十肩かしらと思い、
毎週土曜の休日になると、自宅から最寄駅の駅前の近くにある整形外科に通院したりした。

思い当るとすれば、この当時は毎朝の4時45分に起床し、
自宅の付近の始発バスに乗り、小田急線の『成城学園前』駅より遠方の通勤場所に通い、
音楽商品のCD、DVDなどのある東京ドームより広い商品センターで奮戦し、
帰宅は早くても夜9時過ぎであったりした。
こうしたことを50代の後半に5年過ごしてきたので、疲労の蓄積かしら、
と苦笑したりした。

そして5月の大型連休になると、私の責務の範疇である自宅の庭の手入れの樹木の剪定、草むしりは、
やむなく放置していた。
そして7月頃になると、家内の父が腎臓癌で入退院を繰り返してきたが、
更に悪化状況になり、家内の母と家内は一日交代で、夜通し看護する身となった。

家内は我が家から2時間以上の電車に乗り、入院している大学病院に通ったりし、
帰宅後は疲労困憊の日々であった。
                    
こうした我が家として危機のような状況もあり、やむなく私は有給休暇を利用して、
実質定年退職時より早めの8月の月末で通勤を断念して、自宅で五十肩を労(いたわ)りながら、
家内の父の危篤のような状況を憂いたりしていた。

9月の中旬に私は、小庭の枝葉、雑草は伸び放題だったので、
とりあえず五十肩を気にしながら玄関庭、主庭の雑草の草むしりをした。
主庭の草ぼうぼうの中で、草取りをしている時、小さな幼い樹が三本を見つけた。

樹高は10センチぐらいで樹元の幹回りは3ミリぐらいの、かぼそい樹であった。
そして私は、小鳥が飛び立つ前のささやかな贈り物が成長したのかしら、と微笑みながら、
取るのをやめて放置した・・。
              

この後、家内の父は10月初旬に死去し、葬儀を終えてまもなく、
私の定年退職時の正式日に迎え、退職後の書類、退職金などで銀行廻りをしたり、
慌ただしい日々を過ごしたりした。

翌年の初め、五十肩を消え去り、私は60歳の年金生活であったので、
天上の神々は、何時までも50代ではない、と采配して下さったと思いながら微笑んだりした。

そして入梅前に私は草むしりに専念していると、
あの幼い三本の樹は、少し成長していたので、この中の一本を庭の片隅に移植して、
秘かに定年退職時の記念樹と私は決めたりした・・。

小さい樹ながら、早春には芽吹き、春には主幹と枝は成長して若葉の情景となり、
秋を迎えると、あまたの葉は黄色に染まり始め、やがて晩秋には黄色の色合いに染め、
12月の初めの頃に落葉して、そして冬木立となる。

この間、めざましく伸長したので、やむなく剪定を繰り返して、
樹高は5メートルまでとしたりした。
                    


こうして歳月は過ぎ去り、ぐうだらな年金生活を丸8年半を過ごしてきたが、
恥ずかしながら、この樹・・何の樹・・と思いながら、過ごしている。

一昨年の10月の終わりの頃、剪定していたらイチゴを小さくした赤い実がたくさん成っていたので、
ヤマボウシかしら、と思ったりしている。

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私の住む近くの『実篤公園』、この新緑の時節に訪ね、私の少年期の情景に思い重ねて・・。

2013-04-17 15:57:55 | 定年後の思い
私は東京郊外の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住む年金生活の68歳の身であるが、
いつものような家内から平素の買物専任者の私は、
本日は駅前のドラックストアーで購入する品を指定され、
私は花曇りの20度近い陽気の中、京王線の『仙川』駅の商店街をめざして歩いた。

ときおり風が強く吹いたりしていたが、10分ばかり歩くと、
いつものように音楽系の専門学校として名高いの桐朋学園の隣接した処に出た。
          
そして商店街にあるドラックストアーで家内の要望品を買い求め、
責務を果たしたので帰宅しょうと、先ほどの桐朋学園の隣接した四つ角で、
信号待ちをしていた時、
                    
近くの『実篤公園』を訪ねよう、と思った・・。

私は20数年前に一度だけ訪れたことがあるが、この後は付近を通っても、立ち寄ることはなかった。
たまたま昨年の秋に訪ねたが、新緑のこの時節には訪れたことがなかったので、
不意に思い立ったのである・・。

そして私は桐朋学園の隣接した歩道を歩き、『実篤公園』に向った。
               

やがて10分足らずで、『実篤公園』に入園した。
          

そして園内に入った後、下り路を歩くと、もとより秋の情景とは違い、
新緑の色あいに染められていた。
               

私は園内の雑木が黄緑色の抹茶を撒いたりするような新緑に見惚れたりした。
      

そして孟宗竹の竹林を眺めると、やがて私の少年期の頃に思い馳せられた・・。
          


私は1944(昭和19)年に北多摩郡神代村(現・調布市の一部)の農家の三男坊として生を受けた。
この当時、祖父、父が中心となって、小作人の人たちの手助けを借りて、
程ほど広い田畑、そして小さな川が田んぼの片隅に流れ、湧き水もあり、
竹林、雑木林が母屋の周辺にあった。
そして母屋の宅地のはずれに蔵、物置小屋と称した納戸小屋が二つばかりあり、
この地域の旧家は、このような情景が、多かった・・。

そして、この頃の我が家は、周辺は平坦な田畑、雑木林、
少し離れた周辺はゆるやかな丘陵であり、国分寺崖、と学校の先生たちは称していた。

その後、私が1953(昭和28)年の小学2年の三学期に父が病死し、
翌年の1954(昭和29)年の5月に祖父も他界され、
生家は大黒柱の2人が亡くなり、没落しはじめた・・。

そして1955〈昭和30〉年の頃から、都会に住んでいた人たち達が周辺に家を建てられ、
私が小学校を卒業した1957〈昭和32〉年であるが、
この頃になるとベットタウンとなり、新興の住宅街に大きく変貌した。

こうした中で、私が小学5年生の頃、付近の国分寺崖に面した傾斜地に、
日本では有名人らしい人が引っ越してきた、と大人たちの間で話題のひとつとなっていた。

この当時の私は、『金子』駅(現・つつじが丘駅)の付近ある小学校から旧街道で登下校したり、
下校時の時は、ときおり遠回りして隣接駅の『仙川』の商店街を歩いたり、
或いはこの中間の田んぼの多い畦道を歩いたりして帰宅したりしていた。


このようなある日、私は下校時に独りで田んぼの多い畦道を歩いたりしていたが、
国分寺崖の林の傾斜に寄り道をした。
そしては樹木の多い中で、孟宗竹の竹林が手入れされていなく密集ばかりし、下方に池があり、
池の近くで、独りの老人が難しいそうな顔して、池を見詰めていた。
              
『あの人が大人たちが噂している有名人かょ・・何か難しい顔しているが・・
だけど孟宗竹は生え放題・・孟宗竹のこと・・ぜんぜん解っていないなぁ』
と私は子供心に心の中で呟(つぶや)いた・・。

後年、高校生になった私は突然に読書に目覚めて、下校時に『仙川』駅の本屋に寄った時、
新潮文庫、岩波文庫などで魅了される本は・・と探していた時、
店内の壁面に色紙とひとりの老人の写真が掲げられていた。
そして、さりげなく《武者小路実篤》と明示されていたので、
私はあのお爺さんが・・武者小路実篤(むしゃのこうじ・さねあつ)かょ、と気づかされたのである。


私の生家から徒歩で10分ばかりに、武者小路実篤さんが、
《 水のあるところに住みたいという子供の頃からの願いどおり、1955〈昭和30)年、
70歳の時に仙川の地へ居をかまえ、90歳で亡くなるまでの20年間を過ごした 》
と伝えられている。

そして氏の亡くなわれた後、数々の遺品とともに、ご遺族より調布市に寄贈され、
できる限り実篤が暮らした当時のまま保存され、
晩年の20年間を過ごした邸宅(現:実篤公園)の隣接地に、調布市が設立と整備して、
1985〈昭和60)年10月に『武者小路実篤記念館』が開館した、
と私は市報などで知ったりしていた。

 
あの当時も孟宗竹は鬱蒼とあり、このように整備されておらず、もとより野趣の中、
私は子供心にひとりの老人を見つめていた。

そして池の中にいる鯉も確かあの当時いたが・・私に興味がなく、あまた雑木の情景に見惚れ、
あの当時の情景に思いを馳せ、重ねたりした。           
                      
過ぎ去った60年近い歳月を思い浮かべても、整備された公園の雑木だけは歳月を超越して、
四季折々のうつろいを私に見せてくれる・・。
           
このようなことをぼんやりと思ったりした後、やがて私はこの公園を辞して、自宅に向った。

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若葉の色合いは新緑色に染められる中、散策すれば夢幻のようなひとときを過ごし・・。

2013-04-16 15:40:38 | 定年後の思い
私は過ぎし3月22日の頃から桜花の染井吉野(ソメイヨシノ)、そして山桜(ヤマザクラ)、
終幕として八重桜(ヤエザクラ)を愛でながら過ごしてきたが、
いずれにしても平年より2週間は早く咲き、やがて散ってしまったと愛惜を秘めて過ごしてきた。

こうした中で私の住む世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅の地域は、
落葉樹は芽吹き、そして若葉の色合いは、萌黄色から黄緑色にうつろい、
昨今は新緑色に染められいる。

或いは常緑樹は、新芽を伸ばしながら葉色は光沢を増し、眩(まばゆ)い色合いとなっている。

私は本日の午前中のひととき、いつものように散策に出かけ、
我が家の近くに流れる野川の遊歩道を下流に向かい歩き始めた・・。

               
4月下旬のような18度前後の晴時々曇り空の中、ときおり吹く風は薫風かしらと感じたり、
               
風光る時節だよねぇ、と心の中で呟(つぶや)いたりした。

そして私は新緑の若葉の色合いに魅せられて、長らく見惚(みと)れたりした・・。
          

その後、再び遊歩道を歩いていると、八重桜(ヤエザクラ)が私を待っていたかのように、
残り花の咲いていたので、私は微笑みながら眺めたりしていた。
          

やがて私は歩きだして、対岸に向かう橋の上から、野川の流れを見つめたりした。
          
この川端に近い小路は、この時節は黄色い花の菜の花、そして淡き紫色のハマダイコンの花が、長く帯のように咲くので、
私は遊歩道から見下ろして、ここ10数年眺めてきた情景である。


その後、私は小公園に立ち寄り、足を止めたりしたり、この時節の情景を享受した。
         

この後、遊歩道に下り、帰宅に向かう途中で、
淡き紫色の藤(フジ)が首飾りのように咲いていたので、足を止めたりした。
          
平年ならばこの地域は、4月月末に近い大型連休の頃から咲き始めているので、
少し早いじゃないの、と思いながらも微笑んだりした。

やがて私は、遊歩道から川辺に下り、先ほど橋の上から眺めていた菜の花、ハマダイコンにお見合いする為、
川端の小道をわずかながら歩いた。
          
そして菜の花、ハマダイコンを長らく見つめたりした。
      
私は幼年期は農家の児として育てられたので、このような野花に今でも魅せられている。

このように平日の午前中のひととき、富や名声に無縁な拙(つたな)い私でも、
私にとっては夢幻のようなひとときを過ごしたりしている。

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