夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

この季節、長き歳月に魅了されいる花は、菖蒲(あやめ)、花菖蒲、そして杜若(かきつばた)・・。

2011-04-30 19:06:37 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であり.
散策したり、旅行に行ったりすると、何かと気になるのは、
菖蒲(あやめ)、花菖蒲、そして杜若(かきつばた)の花である・・。

私は幼年期は農家の児として育ったが、田んぼの外れに咲いていた花菖蒲を見て、
気品を秘めた高貴な花と思ったりしてきた。

しかしながら、20歳過ぎても、菖蒲、花菖蒲とよく間違えることがあった。

その後、秘かに菖蒲は乾燥地で育って、新芽が赤味を帯びているし、
花菖蒲は、やや水湿地に育ち、新芽が緑色と覚えたりした・・。
そして杜若は、水湿地に育ち、葉先が垂れている、と判断したりしている。

私の拙(つたな)い記憶によれば、
遠い昔、私が35歳の5月の下旬の頃、家内と明治神宮を散策している時、
小雨降る中の花菖蒲が最も深く心に残っている。

知識人の花言葉をお知恵を拝借すれば、
菖蒲は、よき便り、
花菖蒲は、優雅な心、
杜若は、幸運は必ず来る、
と記載されていた。

いずれにしろ、私はこれ等の花の咲くの観るのが、
何よりの心の良薬、とこの季節になると魅了されている。


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皐月(さつき)晴れの薫風の中、『鯉のぼり』の美麗を観て、そして思わず心の中で唄い・・。

2011-04-30 08:45:50 | 時事【社会】
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であり.
まばゆい陽射しで朝を迎え、庭の若葉は光帯びて、ゴールデン・ウィークに相応しい天気だ、
と微笑えんだりした。

昨日は『昭和の日』を祝うように、おだやかな快晴に恵まれ、
ときおり微風が吹き、昼下がりは18度の陽気になり、心地よい日となった。

こうした中、私は昼前の11時過ぎに、いつものようにスーパーに買物をしたりした。

その後、買い物を済ませ、小公園に寄ると、落葉樹が芽吹きを終え、
萌黄色の幼い枝葉の樹木もあれば、淡い緑に成長した樹木もある。

5、60本程度の樹木の中、風が通り過ぎると枝葉が揺れていた。
私の身体にも通り抜けて、薫風の季節になったと実感させられた。

心地良い風を受けて、清々しい空気に触れると、幸福感が一瞬よぎった。

この小公園の外れにある白色、紫色の菖蒲の花が群生していて、辺(あた)りを彩っていた。

こうした光景に見惚(みと)れたりしていると、何よりも私の心が和(なご)ませてくれる。


その後、住宅街を通り過ぎたが、この中の一軒のお宅の二階のベランタ沿いに、
鯉幟(こいのぼ)りが掲げられていた。

この住宅街は、私が高校2年の1961(昭和36)年の頃に、
大きな団地が出来て、その周辺に分譲地となった地帯であり、早くも50年近くになっている。

この住宅街は高齢者の夫妻『おふたりさま』住まわれたり、
お子様の家族が、親から引き継がれて住まわれたり、
或いは2所帯住宅で1階は親、2階はお子様の家族が住まわれて、
親子孫の三世代が同居されている家もある。

こうした家並みが並ぶ中を私は歩いていたりしたが、
我が家は子供に恵まれなかったが、たまたまこの中の家のお方が、
お孫さんの為に、鯉幟りが掲げられているのかしら、と私は微笑を頂いたりした・・。

私の住む周辺は、家並みが密集しているので、
旧家でない限り、とても鯉幟(こいのぼ)りを悠然と泳がせるスペースがなく、
ここ数10年は観かけることが少なく、たまたま鯉幟りを偶然に観て、思わず足を止め、
小振りな3つばかりの鯉が微風を受けて泳いでいたのを長らく見つめたりした・・。


その後、私は自宅に向う中、思わずひとつの歌を心の中で唄いだしたのである・・。

♪甍(いらか)の波と雲の波、
 重なる波の中空(なかぞら)を、
 
【『鯉のぼり』作詞、作曲・不詳 文部省唱歌 】


私は幼年期の頃は、農家であったので祖父、父が主軸となって田畑を耕し、
宅地の外れの高台には、この時節になると父が朝に鯉幟(こいのぼ)りをを掲げて、
夕暮れに取り込むことをしていた・・。
旧家のどの家も、宅地の外れに高く掲げられ、
あの当時はどの家も男の子のために、鯉幟りをこの時節になると掲げられていた・・。


♪橘(たちばな)かおる朝風に、
 高く泳ぐや、鯉のぼり。

【『鯉のぼり』作詞、作曲・不詳 文部省唱歌 】

このように心の中で唄ったりし、過ぎ去った時の流れを思い馳せたりした。


http://www.youtube.com/watch?v=HCOPPFP1MI8&feature=related
☆【『鯉のぼり』作詞、作曲・不詳、唄・真理ヨシコ  文部省唱歌 】☆


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敗戦後の『昭和の時代』、あまたの歌謡曲を思い浮かべて、あえてひとつの歌を選定すれば・・。

2011-04-29 21:51:13 | 音 楽
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であり、
先ほど、ぼんやりと敗戦後の『昭和の時代』に於いて、
歌謡曲の世界でも、満天の星空のように数多くの歌があるが、
あえて私の人生に影響を受けたひとつの歌を選定をしょうと思ったりした。

10数分ばかり思案したが、やはり敗戦後からの昭和の時代の終わりまで、
歌の数々を唄われ、この時代に身も心もささげて、そして殉死されたような歌手・美空ひばりさんを抜きにして、
この時代を語れないと確信さえしている・・。

このように思索すると、やはり『川の流れのように』(作詞・秋元康、作曲・見岳章)の歌かしら、
と思ったりした。
この歌は、周知の通り、1989(昭和64)年1月7日に昭和天皇が崩御され、
元号が「昭和」から「平成」へ移り変わって間もない1月11日に発売された名曲でもある。


この歌に決定しょうと思った後、敗戦後の昭和の時代を私自身の幼年期に重ねて、
思い馳せたりしていた時、ひとつの歌を思い浮かべて、微苦笑したのである。


私が小学校に入学したのは、1951(昭和26)年の春だった。
東京の郊外の調布市であるが、この当時は京王線の各駅の前は商店街があったが、
駅より5分離れると殆ど田畑、雑木林が圧倒的に多く、緑豊かな町村であった。

私の生家は農家で、祖父、父が中心となって程ほど広い田畑を小作人に助けられ耕し、
竹林、雑木林などを維持管理していた。

私は長兄、次兄に続いて生を受けた三男坊で、
祖父と父は女の子を期待していたらしく、私は幼児なりに何となく感じていたのか、
いじけた可愛げのない子の上、無口であった。


兄の2人は学校の成績が良く、私は通信簿を頂くたびに、
お兄さんの2人は優秀だったのに、
と担任の女の先生がため息まじりに云われたりしていた。


音楽の授業は、先生がオルガンを弾いて、
生徒の我々全員が『春の小川』、『夕やけこやけ』等を唄っていた。

学期末の頃に、ひとりの生徒が教室の1番前にある黒板の近くで、
先生のオルガンの伴奏に合わせて、唄うことが定例であった。
私は人前で他愛ないおしゃべりをすることが苦手であったので、
私の順番になると、ドキドキし、出来たら逃げ出したかった。

結果として、通信簿『2』であった。

こうした中で、小学二年の時に父が病死し、祖父も小学三年に亡くなり、
農家の要である大黒柱を失った我が家は没落しはじめた。

私はこの頃、ラジオから流れていた歌をうつろに覚え、私が下校で独りぼっちで歩いて帰る時、
或いは家の留守番をしている時は、

♪笛にうかれて 逆立ちすれば
 山が見えます ふるさとの
 わたしゃ孤児(みなしご) 街道ぐらし

【『越後獅子の唄』 作詞・西條八十、作曲・万城目正、唄・美空ひばり】


私は何となくこの歌に魅了されて、唄っていた。
唄い終わると、何故かしら悲しくなり、涙を浮かべることが多かった。

そして、私が気分が良い時は、
私は街の子、田舎の子・・、
と勝手に『私は街の子』を変更して、唄ったりしていた。

小学校の後年になると、私は映画を観ることが何よりも好きであったので、
母に百円を懇願して、独りで映画館にたびたび通った。
この当時は、電車賃は子どもで往復10円、映画館の入場料は殆ど三本立ちであったが子どもで40円で、
帰路にラーメン屋に寄り35円で、あとの15円は映画館の中にある売店で都こんぶ等を買い求めていた。


後年、この歌は『越後獅子の唄』であり、昭和26年に松竹映画『とんぼ返り道中』の主題歌として、
越後獅子の少年を美空ひばりが演じていた、
と解かった懐かしい映画のひとつとなった。

私が身勝手に孤独感を感じ、屈折した幼年期を過ごしたが、
この歌は心を癒(いや)して、慰めてくれた貴重な心の歌となっている。

http://www.youtube.com/watch?v=cvDqX5NhY9w&feature=related
【『越後獅子の唄』 作詞・西條八十、作曲・万城目正、唄・美空ひばり】


一昨年の2009年の3月下旬に、筒井清忠・著の『西條八十』(中公文庫)を読んだりし、
西條八十氏がこの歌の作詞された発想が描かれていて、私は驚いた・・。

《・・
昭和25年の春、西條八十が『山のかなたに』の打ち合わせるのため、
新東宝の撮影所を訪れると、
柳谷金語楼・主演の『続・向う三軒両隣り』のセツトがあり、
小憩中で、誰もいない中に一人の女の子がぼんやりと立っていた。

西條八十が元気づけようと、
「君も金語楼劇団に入っているの? 小さいのに感心だね」
と話しかけると、
少女は笑って、
「いやだわ先生、私コロムビアの専属歌手なのよ。
先生と同じ会社ですよ」と言った。

これが西條八十と美空ひばりの出逢いだと、森一和は著している。
西條八十は美空ひばりを知らなかったが、美空ひばりは西條八十を知っていたのである。


それ以来、西條八十は美空ひばりを興味をもって眺めていたのだが、
天才少女への世間の眼は冷たいものがあり、
新聞で「ゲテモノ!と叩かれたりしていた。


こうした中で、西條八十は会社から美空ひばりの正月用の作品を頼まれたのである。
西條八十は戦前に住んでいた柏木あたりに、
正月になると越後獅子が来ていたのであるが、
その子供達が芸をしながら、いつも怖い目つきの親方を恐れいた痛々しい様子を思い出し、
この曲を作ったという。

つまり、『越後獅子』とは当時、社会的に冷たい目で見られ、
大人の歌手の間で肩身の狭い思いをしていた美空ひばり自身のことなのであった。

この歌のテスト盤を聞いた斎藤寅次郎・監督が、
この歌を主題歌とした美空ひばりの主演映画『とんぼ返り道中』を企画、
26年の正月映画として大ヒットした。


浅草六区の直営館では、
満員の客をさばくためにフィルムを適宜カットし、上映回数を一回多くしたが、
美空ひばりの出る場面、歌う場面は残したので、客は満足して帰ったという。
しかし、この『越後獅子』が、美空ひばり自身を象徴していたことを
当時の観客の何人が察知していただろうか。
・・
(略)
・・》
注)本書の原文(425・6ページ)より、あえて改行など多くした。


このように作詞家としての西條八十氏の『越後獅子の唄』の発想としての秘話、
その後の斎藤寅次郎・監督の英知で『とんぼ返り道中』が上映されたのは、
私は無知であった。

私はラジオから聴こえたのを幼年心なりに覚え、
数年過ぎた頃、独りで三流の映画館で観ながら、涙を流したのである。

こうした創作の秘話などを読んだりし、具体的に教示されたのであるが、
こうしたことは本書のような本を読まない限り、
たとえネットの世界が広まり安易に知識が得られる今日でも、不明と思われ、
改めて読書は限りなく奥深く、思索させられる根幹かしら、と確信させられたのである。

尚、余談であるが、
《・・美空ひばりの歌った『越後獅子の唄』・・
後の名歌手・島倉千代子は少女の頃、
この歌を聞いて歌手になりたいと思ったという・・》

注)本書の原文(423ページ)より、あえて改行など多くした。

このような本書の一部を読むと、私は思わず微苦笑したりしたのである。


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『昭和の日』を迎えて、とりとめなく齢ばかり重ねた私は、『昭和の時代』に思いを馳せて・・。

2011-04-29 09:29:29 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であり.
今朝、ぼんやりとカレンダーを見たら、『昭和の日』と朱記されていたので、
『昭和の日』かょ・・と朱記されていても齢ばかり重ねた私は、
戸惑いながらネットでこっそりと調べたしたのである。

私は日頃から何かとお世話になっているフリー百科事典と名高い『ウィキペディア(Wikipedia)』を開いたら、
《・・
昭和の日(しょうわのひ)は、日本国の国民の祝日の1日である。
平成19年(2007年)から加わった、現在のところ最も新しい国民の祝日である。

国民の祝日に関する法律(祝日法)の一部改正により追加されたもので、日付は昭和天皇の誕生日である4月29日。
同法における定義・趣旨は「激動の日々を経て、復興を遂げた昭和の時代を顧み、国の将来に思いをいたす」となる。
ゴールデンウィークの中の1日である。

昭和64年(1989年)1月7日の昭和天皇崩御により、
同年以降の4月29日はそれまでの天皇誕生日としては存続できなくなり、
祝日法の天皇誕生日に係る項を改正する必要が生じた。

当時から同日を「昭和記念日」など昭和に因んだ新祝日として存続させようという意見が出ていたが、
左派の反対からそのような案は見送られ、同年以降の4月29日は『みどりの日』という名称の祝日に改められた。

その後、『昭和の日』の実現を目指す運動に呼応・共鳴する国会議員により、
平成12年(2000年)の第147回国会(参議院先議)、
平成14年(2002年)の第154回国会(衆議院先議)においていずれも議員提出法律案として審議に付され、
ともに先議の議院では可決したものの、国会会期終了・衆議院解散などにより後議の議院での可決に至らず廃案となった。

平成16年(2004年)の第159回国会において、
都合3度目となる改正法案提出(議員立法形式・衆議院先議)がなされ、
継続審議を経て平成17年(2005年)の第162回国会で成立した。

同改正法は平成19年(2007年)から施行され、
同年以降の4月29日は『昭和の日』、従前の『みどりの日』は5月4日に移動した。
(略)
・・》
注)原文にあえて改行を多くした。


このように明記されてことで、私は何となく理解できたが、
私は昭和19(1944)年に農家の児として生を受けたので、
昭和64(1989)年の1月7日の昭和天皇が崩御される前年まで、
この日の4月29日は・・身も心も『昭和天皇陛下のお誕生日』と思いながら、
『天皇誕生日』の祝日である、と安堵していたのである・・。


昭和天皇が崩御された後、4月29日は『みどりの日』として制定され、
私は中小業のサラリーマンの時代で、悪戦苦闘ながら奮闘していた多忙時であったので、
この時節は日本の多くが若葉に染められ、美しい日本の風土かしら、
と単細胞の私は感じたりしていた・・。

『昭和の日』と改称されたのは平成19(2007)年から施行されたと遅ればせながら学び、
私は定年退職は平成16(2004)年の晩秋であり、
その後は念願の年金生活となったので、少しボケた私は気付かずに今日に至っていたのであった・・。

そして、今回『昭和の日』に際して、私の『昭和』の時代は少なからず45年近く生活をしてきたので、
私なりの昭和天皇への思い、そして懐かしき『昭和』のことを綴ってみようかしら、と思ったりした・・。


私は『昭和の時代』を45年近く空気を共にしてきたので、
つたない身ながら、それなりの深い想いがある・・。

こうしたことの思いひとつとしては、
【 私は長渕剛 (ながぶち・つよし)氏の『昭和』を聴きながら、昭和天皇に愛惜を重ね・・。】
と題して、昨年の2010年の1月7日に於いて、このサイトで3回に及び投稿をしたが、
今回は編集を兼ねて、大幅に補筆したものを掲載する。

【・・
今朝、何気なしにカレンターを見たら、『七草』と明記されていて、思わず微苦笑したりした。

私は、昭和天皇が崩御された朝の方が、遥かにインパクトがあるので、
主庭のテラスに下り立ち、まばゆい朝の陽射しに向い、思わず両手を合わし、しばらく黙祷をしたのであった。


私は昭和19年9月に東京郊外で農家の三男坊として生を受け、
天皇家には何かと敬(うやま)う空気の中で家庭で育ち、
昭和天皇に関しては、私の40代かばまで自己形成、歴史観などで、多大な影響を受けていた。

1988(昭和63)年の晩秋、私はこの頃、あるレコード会社に勤務して15年が過ぎ、
管理部門の情報畑で、4月より実施される『消費税』のシステム対応の開発に追われていた。
昭和天皇が病状が悪化し、社会は何かと自粛の空気につつまれていた・・。

そして、私の勤めていた会社でも、音楽の世界では世界的な有名な『ボン・ジョヴィ』と命名したロック・グループが、
日本のある大手家電メーカーが強力なスポンサーとなり、
年末に日本で公演されることになり、テンカウントダウンを華はなしく実施する予定が、なぜか中止となり、
せっかくのチャンスだったのに、と私なりに落胆をしたりしていた・・。


そして1989(昭和64)年の1月7日の朝、
私は昭和天皇が崩御された、とNHKのテレビのニュースで視聴し、
とうとう陛下様は亡くなわれてしまった、というのが率直な思いであった。

この後、私はいつものように会社に出勤した後、
朝礼の時、専務取締役のひと言で、私達部の一同は皇居の方面に向かい、黙祷をしたのである。

その後の私は、4月から『消費税』の対応策で多忙な身である上、
更に『昭和』から新たな『平成』と制定されると、
コンピュータの和暦の表示を『請求書』に至るまで改定したので、慌しい日々を過ごしていた。

こうしたこともあるが私の心情は、平成元年といわれるより、
昭和64年といった方が心身の波長が合うので、何かしら戸惑ったのは事実である。


まもなく、他社の東芝EMIからシンガー・ソングライターの長渕剛が、
アルバム『昭和』というタイトルで3月25日に発売されて、
私自身レコード会社に勤め、音楽に直接たずさわる制作畑でない私であっても、
この時期に『昭和』を掲げた長渕剛の感性に注視させられたのである。

そして、まもなく長渕剛が『昭和』と題したツアーを行い、
横浜アリーナで1989年7月13日、14日の両日で行われた公演から
収録されたライブ盤の『長渕剛 LIVE’89』の2枚組CDを買い求め、
特に『昭和』の歌に感銘を受け、少なくとも百回以上は聴いたりしているひとりである。

このライブ盤に収録された一番最後の曲として、『昭和』(作詞・作曲:長渕剛)があり、
私はこよなく愛聴しているのである。

私は無念ながら私の所有しているCDから、このサイトに添付する技量はないので、
やむえず【YouTube】のお力をお借りした中で選定した『昭和』の名曲を掲載させて頂く。

http://www.youtube.com/watch?v=82PhpraMei4&feature=PlayList&p=95B31D81E1936AF6&playnext=1&playnext_from=PL&index=30
☆【『昭和』 作詞・作曲・唄 長渕剛 】☆


私は東京郊外の農家の児として、1944(昭和19)年の9月に生を受け、
昭和天皇に関しては、多くの日本人と同じように複雑な思いで、
何かと敗戦後から今日まで、注視してきたひとりである・・。

私もこのサイトに於いて、昭和天皇に関しは数多く投稿してきたが、
今回はこの中のひとつを再掲載をする。
【 私なりの『マッカーサー元帥』の想いは・・。 ② 】
と題し、昨年の2009年10月19日に於いて投稿しているが、敗戦の一年近くの頃の昭和天皇に関して、ふれている。

【・・
小学校の高学年になると、1葉の写真を見た時は、その夜は子供ながら、浅い眠りとなった。

この写真は、天皇陛下の横で悠然とたたずむマッカーサー元帥の姿であった。

そして私の生を受けた9月27日の1年後であったので、なおさら印象深く、私の心に残った。

読売新聞の『編集手帳』に綴られていたこともあるので、無断であるが引用させて頂く。

《・・
昭和天皇が東京・赤坂の米国大使館にマッカーサー元帥を訪問したのは、
1945年(昭和20年)9月27日であった。

2日後に新聞各紙に写真が残った。
モーニング姿で直立する陛下の隣で、開襟シャツの元帥が腰に両の手を当てて悠然とたたずむ。
勝者と敗者の違いを伝えて、余すところがない。
・・》

私は小学生の頃から昭和50年の頃までは、アメリカに対して複雑な思いでいた。
そして、敗戦の間際にソ連が北海道占領プランがあった、とおぼろげながら何かの本で読んだりしていた。

昭和50年のなかば、一冊の本に出会った。
『ドキュメント昭和史』(平凡社・発行)の全8巻を購入し、読み耽っていた。

この中で、第6巻目に《占領時代》を読み、この敗戦直後の状況を教示してくれた。

《・・
日本分割占領案が歴然と存在していた。
各国の国益をかけた外交が行なわれ、最終的にはアメリカのトルーマン大統領の国益の基に、
アメリカ人の連合国司令官の下で統治された。
・・》

この書物のお陰で、アメリカを静観した形で、アメリカを見ることが出来た。

あの敗戦の1年後に近い9月27日は、
陛下と元帥の写真を蘇るたびに、勝者から観た歴史の背景を知り、より一層鮮明な日の想いとなった。


このことと同時に敗戦後の日本の状況が鮮明に、私なりに理解できたのである。

日本の敗戦の1945(昭和20年)年8月15日は、もとより『敗戦記念日』であるが、
国土の大半は戦禍にまみれ、食料、衣料、住宅が国民の大半は困窮していた。

日本は国連軍の名の基にアメリカ軍隊の下で、占領された。
そして、占領軍は連合国最高司令官総司令部(GHQ)の指令に基づいて、
現行公布されている日本国憲法をはじめ、
農地改革、財閥の解体、要人の追放、言論の弾圧などが実施された。
そして、連合国最高司令官総司令部(GHQ)の最高責任者はマッカーサー元帥である。

このような占領軍の最高責任者ともなれば、
アメリカ大統領の意向、そしてアメリカ議会の状況、アメリカ国民の世論さえ配慮すれば、
敗戦国の日本などは自在に裁量できる帝王のような存在である。

こうした日本の中の動乱期の折、
米ソの冷戦、中華人民共和国の建国、そして朝鮮戦争の勃発、と各国の怜悧な国益に基づき、歴史は動いた。

このした中で、『対日講和条約』により占領下から独立でき、
朝鮮戦争の特需も含め日本の経済躍動のはじまりが、『対日講和条約』と私は思っている。

『対日講和条約』に関しては、知識人の藤野邦夫氏の言葉を借りれば、
《・・
第二次大戦の末期、日本が降伏勧告の宣言である『ポツダム宣言』を受け入れたのは、
1945(昭和20年)年8月14日。
これによって戦争は終結したが、この宣言には、幾つかの条件と共に、
日本が民主的で平和な政府が出来れば、直(ただ)ちに占領軍は引き上げるという条項が明記された。

しかしそのあと、アメリカと旧・ソヴィエト連邦の対立が激しくなり、
またアメリカ国内にも、軍事的な目的から占領状態の継続を望む国防省のような勢力があって、
対日講和は進展しなかった。

ところが、1950(昭和25)年6月に『朝鮮戦争』が勃発。
アメリカは日本を西側の陣営の一員として再建する為、講和条約を早く結ぶ方針の転換した。

こうして1951(昭和26)年9月8日、
サンフランシスコで、連合国と日本の間の戦争状態の終結を意味する『講和条約』に署名が行われ、
翌年の1952(昭和27)年4月28日に発効した。

この時の当事国は、45ヶ国。
幾つかの国とは、個別に講和条約が結ばれた。

これは結局、西側諸国を中心とした講和条約であり、
また連合国との協定によってアメリカ軍が駐留を続けたので、その後の日本の国際的位置が決定づけられた。
・・》

このような日本が激動する中、朝鮮半島は冷戦の大国の怜悧な国益に基づき、
過酷で悲惨な朝鮮戦争が行われていた。

私は高校生の時から時事好きで、教科書、雑誌、歴史書などで学び、
同じ民族の北朝鮮と韓国がお互いの半島地域を戦場を大国のもくろみで、
ローラーように南進したり、北進したりする戦争状況を過酷過ぎると思ったりしていたのである。

もとより韓国の強い背景となったのは、国連軍と称したアメリカ軍であり、
最高司令官に任命されたのはマッカーサーである。

そして中華人民共和国の大軍が半島になだれ込み、
結果として劣勢になったマッカーサーは中華人民共和国の本土に原子爆弾を落とす決意をするのであるが、
時のアメリカ大統領からマッカーサーは解任される。

こうしたことは高校生で学んだのであるが、
私は何よりも太平洋戦争のフィリンピンの統治下で日本軍の襲来で撤退、
そして日本の敗戦後の占領軍として、その後の朝鮮戦争の原子爆弾を落とす決意など含め、
マッカーサー自身の軌跡、思い、周辺の状況を知りたくて、数多くの本を読んだりして、今日に至っている。
・・】


そして、かの大戦で敗戦となり、これらの私なりの心情を、
【 64回目の『敗戦記念日』に際して・・。 】と題して、投稿している。

【・・
私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の64歳の身であるが、
洗面した後、玄関庭に下り立ち、襟を正して黙祷したのは早朝の5時過ぎであった。

私は昭和19年9月に東京郊外で農家の三男坊として生を受け、
敗戦となった8月15日からは、ほぼ一年前になるが、
少なくとも沖縄戦が事実上集結した6月23日の『沖縄慰霊の日』、
原爆という余りにも過酷で悲惨な8月6日の『広島被爆』、9日の『長崎被爆』、
そしてこの8月15日は、
たった一枚の赤紙と称せられた召集令状で徴兵され、戦場で亡くなわれたお方達、
そして戦時下、空襲などで亡くなわれた多くの人々に哀悼の意を表して、
黙祷をし、尊い命の冥福を祈っている。


そして、私はここ3年に於いては、
都心の千代田区の千鳥ケ淵戦没者墓苑の碑に刻まれた両陛下の詠まれた歌を重ねたりしている。


   国のため いのちささげし
      人々の ことを思えば 胸せまりくる         

                       昭和天皇

   戦なき 世を歩みきて
      思ひ出づ かの難き日を 生きし人々

                       平成天皇


私はこの歌を深く拝読するたびに、思わず胸が熱くし、
その時代の歳月に思いを馳せ、鎮魂曲のような感じている。

この昭和天皇の歌の思いは、
靖国神社から程近い所にある千鳥ケ淵戦没者墓苑は、
訪れる人も少なく、この季節は蝉時雨が響き渡る情景の中、詠まれた伝えられている。

平成天皇の歌は、戦後60年の年の歌会始の儀で詠まれた、と報じられていた。

そして昭和天皇の御製の碑と向き合う形で、
2005(平成17)年の9月に平成天皇の御製の碑が完成した、
と何かの新聞で読んだりし、私はつたない身ながら学び、思いを馳せたりしているのである。


私は毎年、『全国戦没者追悼式』が執り行われている中、
私はテレビを見ていて『黙祷・・!』の声を聴くと、
思わず襟を正し、黙祷をした後、しばらくするとこのふたつの歌を思い重ねている。


尚、私は8月15日は、『終戦記念日』と、どなたが名付けたかは無知であるが、
国際間の怜悧な視線からは、まぎれなく敗戦であり、
都合よく『終戦』と命名された方たちは、国際各国から観た場合は、国家としての信義にかかわることなのである。

そして、命名された方たちは、余りにも恥知らずと思ったりしながら、
私は無念ながら『敗戦記念日』と思っているひとりである。
・・】

このように私なりの昭和天皇に関しての思いなどが多々あるが、
このサイトに投稿しているので、これ以上は省略する。


ときおり私は、『昭和』の時代を45年近く社会の空気を共にし、
『平成』の時代も22年近く生活をしてきて、
平成の時代になってから、私たち日本の国民の多くは何を手にいれたのかしら、と考えたりすることがある。

もとより平成の時代は、昭和天皇がご逝去されたのが1989(昭和64)年1月7日により、
平成元年は1月8日から始まり、本年は平成22年5月となり、若者の成人された一部のお方は『平成』生まれで、
『昭和』の時代が無知なのに、私は驚いたりする。

私は平成の時代の始まりを思う時、
何故かしら1989年11月10日からベルリン市民に寄る『ベルリンの壁崩壊』の出来事と重ねてしまうのである。

世界の諸国の政治はもとより、外交・軍事・経済、やがて社会が一変したからである。


このような思いもさることながら、平成の時代になって、
私達の生活に於いて急速に変貌したのは、アナログからデジタルに変貌したこと。
そして水をペットボトルなどで購入したこと、思い浮かべたのである・・。

音楽の録音品のレコード、カセットはCDに普及して平成を迎え、
録画のビデオ・テープは平成になってDVDに変貌し、昨今はブルー・ディスクを迎えいる。

こうしたことは実感度は薄いが、パソコンが普及し、インターネットの急激な浸透である。
1995(平成7年)の秋に『Windows 95』が発売され、それまでのパソコン愛好者、専門職を領域から、
大衆化したことである。
そして、これに連動して、インターネットが急激に普及した。

もうひとつの変貌は、携帯電話であり、カメラ機能もある上で、
今や財布代わりの機能となり大きく変貌をしてきている。

映画のオリバー・ストーン監督の『ウォール街』は1987(昭和62)年にアメリカで公開された作品であるが、
冷酷で貪欲な投資銀行家が浜辺で大きな携帯電話を持ち、会話しているシーンがある。
確か、この頃はラジカセのように大きな形の携帯電話であり、
この当時としては破格な高価な品であった。

平成になると、形も性能も向上、価格も廉くなり、昨今は日本で一億台突破となり、
殆どの日本人が愛用している。

私は20世紀の時代は、テレビと原子爆弾の世紀だった、といわれたりしているが、
こうしたことを流用すれば、
平成の時代は、ネットと携帯電話、と断言したくなる。


もうひとつの日常生活に於いて、水を買い求める時代である。
『缶』から『ペットボトル』に変貌しているが、私は日常の外出先とか旅先で、
自動販売機で煎茶のペットボトルを買い求めることが多いのである。
これも平成の時代の始まりの頃からと記憶している。


私は煙草の愛煙家のひとりであるが、日本に嫌煙ブームが始まったのも平成になってからである。
喫茶店でテーブルの上には、灰皿と喫茶店独自のマッチが置いてあったりした。
飛行機の機内でも水平飛行になれば、スーモキング・ランプが点(つ)き喫煙可となり、
そしてJRの車内の座席の脇に灰皿が設置されたりして、ときおり煙草を喫う方が見られたりした。
私が酷いギックリ腰で入院生活を1991(平成3)年の頃は、
整形外科のフロアーの片隅に喫煙コーナーがあり、煙草を吸わない人でも憩いの場として、団欒していたのである。

昨今の社会状況は、諸兄姉はご存知であるから、省略する。


こうしたことを思いつくまま昭和の時代が終わり、
平成の時代になってから大きく変貌したことを綴ってきたが、
私は何より社会が劣化し、言葉、しぐさが雑になった、と憂いている。

はじらい、うつむく、待ちわびる・・死語に近く、そして黒髪などが少なくなり、
どうしてなの、と私はため息をすることが多いのである。

何よりも戸惑うのが、ジーンズの膝付近に、あえて穴を開けたり、
わざわざ磨耗したような生地にしたりすることである。

私は10代から30代の頃まではジーズンを愛用したひとりであるが、新品を購入し、
数年過ぎればそれなりの磨耗した状態となる。
ジーズンは普段着のズボンであり、気軽な労働服のような思いながら穿(は)きつぶしてきたが、
決してファーション着ではないのである。

こうしたことを余り綴ると若き諸兄諸姉に嫌われるので、これ以上は記載しないが、
平成の時代に育ち、現在は10代、成人となられた20代の世代の方たちに、
たとえば映画の小津安二郎・監督の『東京物語』(1953年=昭和28年)を観た時、
どのように反応するのかしら、と齢を重ねた66歳の私は限りなく関心がある・・。


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【YouTube】に於いて、映画の『ひまわり』の予告編を観て、改めて私は感動し・・。

2011-04-29 00:01:17 | 映画・テレビ
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であるが、
先ほど、加入している【YouTube】を開き、

《 あなたにおすすめのチャンネルが見つかりました 》

表示された下段に、

《 これらのおすすめは、あなたの再生履歴、共有動画、チャンネル登録などに基づいて表示されます。》

と表示されて、8つぐらいが紹介され、

この中のひとつに映画の『ひまわり』の主題歌をピアノ・ソロが掲載されていた。

私は映画の『ひまわり』であるならば、オリジナル・サンドトラックの方が、
この名作の叙情の余情が味わえる思い、少し検索したのであった。

http://www.youtube.com/watch?v=1m4NHNwulF4&feature=fvwrel
☆I Girasoli (ひまわり/Sunflower)-Henry Mancini ☆

投稿者された方は、Mrmikeyjrさんであり、
この映画の予告編かしらと私は思ったりしているが、
Mrmikeyjrさんのこの映画に対する思いの深さを感じたりした。

この映画は解説も不要の名作であるが、このラスト・シーンの駅構内・・
もとより監督のビツトリオ・デ・シーカーの演出も良いが、
これに応(こた)えたソフィア・ローレン、マルチェロ・マストロヤンニも
国際俳優の名に恥じない好演をしている。

私は若き26歳の時、映画館で観たり、
そして50代の半ば、ビデオ・テープで視聴したり、
その後は数年に一回ぐらい観賞している映画であるが、
改めて、予告編を見たが、名作は何度でも感動する・・と感じたりした。


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明日より大型連休を迎え、退職後の年金生活の私は大きく変貌しながら、微笑みながら・・。

2011-04-28 18:21:13 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であるが、
今朝ぼんやりとNHKのニュースを視聴していたら、
明日より大型連休のはじまります、と報じていた。

私は居間のあるパソコンの置いてある机の引き出しから、
カレンダーを取りだして、眺めて確認したりした・・。

そして民間の会社の多くは、明日の29日の『昭和の日』から5月8日の日曜日まで、
10連休になるのかしら、と思ったりした。

この後、いつものように素足で下駄を履いて、庭のテラスに下り立った。
昨日は風が強く吹く晴れ間から、ときより雨が降る一日であったが、
快晴の朝を迎え、樹木の枝葉は雨粒をたたえて、清々しい、潤(うるお)いのある情景となっていた。

若葉の色合いは、萌黄色からこの二週間ばかりで黄緑色から新緑色に染められ、
私はさりげない日ごとに移つろう枝葉を眺めたりしていた。

空は青さ一色で、ときおり微風が吹き、まさしく風光る情景であるが、
陽射しは初夏のような感じで、この時節にしては強いかしら、と思いながら、
少しばかり大きなモミジの幼い葉を拡げた下で緑陰で、身を寄せたりした。
そして、ここ一週間ぐらい前の頃から彩(いろど)ってくれている躑躅(ツツジ)の紅色の花に
見惚(みと)れたりしていた。

こうした情景を眺めながら、
これからの大型連休は、おだやかな皐月(さつき)晴れになれますように、
とぼんやりと思ったりした。


私は働いて下さる現役の諸兄諸姉の多くは、何かと多忙な勤務をされているのだから、
せめて大型連休の期間は、ご家族でゆったりと休息し、ときには行楽地などに行かれたり、
或いは旅行でも、と思ったりしたのである。


私が現役のサラリーマン時代の時は、民間会社の中小企業であったので、
通常は5月1日から5月5日の5連休が固定で、
そしてこの前後の日曜と祭日が加味されていた。

私は1週間以上連休が採用されるのは、
大手の企業の開発と製造部門だろうと思ったりしていた。

私の30代の頃は、住宅ローンなどで返済に重荷となり、
家内と付近の公園に行ったり、高尾山のハイキングをしたりしていた。
そして、庭の手入れなどをしていた。

40代には、格安の団体観光周遊ツアーなどの国内旅行をしていた時もあったが、
旅行先の渋滞に困惑して、その後は庭の手入れをすることが多くなった。

最も現役時代の固定とされていた5月1日から5日までの5日間に於いても、
5日間連続して休めたのは数えるばかりであった。
私は情報畑が長く勤めていた関係で、システム関係で出勤したり、
50代の後半は出向となり、大型連休は遠い世界の出来事となり、奮闘していた。

昨今は成果主義が加速される中、
政治は混迷し、経済は低迷、社会は劣化し、
その上に、今回の東日本大震災、そして福島原発・・
とニュースを見たりすると、無力ながら憂(うれ)いているひとりである。


いずれにしても大型連休に恵まれた方達は、
日常は業務に追わる多忙の身の方が多いと思われるので、
せめてこの大型連休のひとときは、ご家族との心身のふれあいを大切にして頂きたい、
と私はぼんやりと思ったりしている。


定年退職後の私は、この大型連休でもいつものように買物、散策などして、
季節のうつろいの情景を享受したり、
その時に思ったこと、思索したことなどを心の発露として、
このサイトに綴り投稿したりしている。

そして日常の大半は随筆、ノンフィクション、現代史、総合月刊雑誌などの読書、
ときおり20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
そして音楽も聴いたりしている。
こうした中で、数日は庭を手入れをしている。

そして、大型連休の終った後、5月の中旬過ぎに、、
家内との共通趣味の国内旅行をしている。


しかし、今年は東日本大震災の影響もあり、
やむなく国内旅行は中止をしょう、と家内と話し合ったりしている。

そして家の中の整理をしませんか、と家内から提案されて、
この5日前から始めている。

たまたま若き頃に、映画・文学青年の真似事をした体験もあり、
小説、随筆、歴史書、現代史など本は5000冊前後、
映画作品としてビデオ・DVDが1000本前後ある。

そして現役時代に音楽業界のあるレコード会社に35年ばかり勤め、
製作畑ではなく、管理畑の片隅に勤めていたが、
少しづつ買い求めた結果として、レコード、カセット、CD、DVDの総数として
3000枚前後となった。

こうして家の中の本の整理をここ4日してきたが、
いまだ完了せず、あとは映画作品の収容棚、そして音楽作品の収容棚も未整理で、
ため息を重ねながら整理しているのである。


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東京の郊外の我が家からでも、移りゆく荘厳なオーロラ、そして大地の情景が観られ・・!?

2011-04-27 23:51:29 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であるが、
先ほど、パソコンを立ち上げるとトップページは【YAHOO! JAPAN】に設定しているので、
この中央の下段には、

《 世界中から探し出した話題の映像をたっぷりお届け 》

《 “微速度で撮影された美しいオーロラ”ほか、
      衝撃的な投稿作品から驚きのニュースまで、見逃せない映像がズラリ。》

と明示されていた。


そして右側に《 幻想的な風景 》と明記していたので、
思わずクリックした。

http://vimeo.com/21294655
☆ The Aurora by Terje Sorgjerd ☆

このように移りゆく荘厳なオーロラ、そして大地の情景が観られ、
私は見惚(みと)れたりしたのである。

Terje Sorgjerdさんは、このようなオーロラの3作品を提供して下さり、
私はその地に訪れることなく、東京の郊外の我が家からで観賞させて下さったのである。

感謝・・感激・・こうした時に発露する言葉でもある。


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キャンディーズの歌の数々は、齢を重ねた私でも、心身のビタミンと思いながら・・。

2011-04-27 20:25:47 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳であるが、
ときおり、ぼんやりと自身のこのサイトで綴ってきたことを読み返したりしている。

私は定年退職後まもなくして偶然にブログの世界を知り、
私は若き日々より中断したこともあったが日記を書いたりし、
これとは別の状況で色々と綴ったりしてきたが、
改めて何らかの形式で公表したく、これ幸いと幾つかのブログ、
ブログに準じたサイトに加入して綴ってきた。

定年退職後の身過ぎ世過ぎの日常で日々に感じたこと、
或いは思考したことを心の発露とし、明記してきたことはもとより、
幼児からサラリーマンの退職時までの色々な思いを
書き足らないことも多々あるが、余すことなく綴ってきている。

誰しも人それぞれに、苦楽の光と影を秘めて日常を過ごしているのが人生と思っているが、
私なりに時には、ためらいを感じながらも綴ったりしてきたこともある。


私は昭和19年に農家の三男坊として生を受けたこと、
祖父や父が長兄、次兄と男の子に恵まれたので、
秘かに今度は女の子を期待していたらしく、私は何となく感じて、いじけたこと。
そして、小学生に入学しても、兄ふたりは優等生で、
私は中学生までは劣等性だったこと。

小学二年の時に父に死去され、まもなく祖父も亡くなり、
農家の旧家でも大黒柱のふたりが亡くなることは、没落し、貧乏になること。

高校時代になって初めて勉学が楽しくなり、読書にも目覚めたこと。

そして大学を中退してまで映画・文学青年の真似事をしたり、
その後は幾度も小説新人の応募で最終候補作に漏れ、落胆したこと。

この後は、コンピュータの専門学校に学び、
これを梃子(てこ)とした上で、知人の強力な後押しのお陰で、
大手の民間会社に中途会社にできたこと。

そしてまもなく新設されたレコード会社に移籍させられて、
六本木にある本社でコンビュータの専任者となり、時代の最先端にいる、と勘違いしたこと。
この間、幾度も恋をしたが失恋の方が多く困惑したことや、
結婚後の数年後に若気の至りで一軒屋を建てて、気負って家の中に茶室を設け、
住宅ローンの重みに耐えたこと。

そして、定年の五年前に出向となり、都落ちの心情になったこと。


このように私は大手のサラリーマンの一部に見られるエリートでなく、
屈折した日々の多い半生を歩み、定年を迎えたのであるが、
私は確固たる実力もないくせに、根拠のない個性と感性で独創性に優れていると思い、
ときには独断と偏見の多い言動をしたりしてきた。
そして、ある時には、その分野に優れた人の前では、卑屈になったりした。
このように可愛げのないひとりである。


こうして定年後の日常生活を過ごし、
ときおり、国内旅行などで、その地の情景を眺めながら感じたこと、
私なりの独断と偏見で綴ったのを読んだりしていると、
私の心情、思想、信条、趣向が見え隠れするので、
まぎれなく本、音楽、映画など作品の選定と同じだ、と微苦笑したりしている。

どなたも同様と思われるが、過ぎ去り日々は苦楽と反省が伴うが、
ほろ苦く、そして甘く受けとめ、
ときには懐かしく自身に秘かに再会でき、
あの時はあのような心情でふるまっていた、と愛惜も重ねることもある。

これが自身の心のまぎれない心情を心の発露として書き続けた効用かしら、
感じたりしている。


このような心情の時、何気なしに、

♪こっちを向いて涙をふいて

【『哀愁のシンフォニー』 作詞・なかにし礼、作曲・三木たかし、唄・キャンディーズ 】

と心の中で唄い、キャンディーズかょ、と呟(つぶや)いたりした。


私の現役時代は、たまたまあるレコード会社に勤めていた習性か、
他社のCBSソニーの所属のキャンディーズの歌でも、何かと歌の一節を唄ったりしている。

そして『微笑がえし』のタイトルも素敵だったと思ったりしたが、
しかし、齢を重ねた今、余り過去にこだわるより、もっと前向きにと思いながら、
特に春先の時節には、心身爽快に、

♪雪が溶けて川になって 流れてゆきます
 つくしの子がはずかしげに 顔を出します
 もうすぐ春ですね ちょっと気取ってみませんか

【『春一番』 作詞、作曲・穂口雄右、唄・キャンディーズ 】

と心の中で唄ったりしたのである。

そして、ときにはキャンディーズの歌の数々で励まされることもある。

この後の私は、市販のビタミン剤などよりも、遥か百倍以上は確かに効く、
と思ったりすることもある。


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孫正義(そん・まさよし)氏の東日本大震災に対しての深い思いを発露され・・、私は初めて学び・・。

2011-04-27 16:27:43 | 時事【社会】
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であるが、
今朝、ネットでニュースを見ようとして【YAHOO! JAPAN】を開き、
たまたま【雑誌】コーナーに於いて、ひとつの掲載されていた記事のタイトルに興味をいだき、
結果として深く精読させれたのである・・。

《 孫正義氏「自らの非力が震災犠牲者増やしたのでは」と自己嫌悪 》

と題された記事で、
小学館が発行する『週刊ポスト』、『女性セブン』、『SAPIO』などの4誌を統合したニュースサイト
【NEWS ポストセブン】から配信された記事のひとつであり、
無断ながら、転載させて頂く。

《・・
         孫正義氏「自らの非力が震災犠牲者増やしたのでは」と自己嫌悪

                                  NEWS ポストセブン 
                                  4月27日(水)7時5分配信

ソフトバンク社長・孫正義氏の「志」に迫った本誌連載『あんぽん孫正義伝』。
連載終了と同時に日本を国難が襲った。
孫氏は次々と被災者支援を打ち出す。
以下は、『あんぽん』筆者の佐野眞一氏(ノンフィクション作家)と孫氏による解説と一問一答である。

 * * *

孫は震災翌日の3月12日には、
国内向けSMSを無料化、iPhone用「災害伝言板アプリ」を提供している。

その翌日には、大量の充電器を現地に送る手配をし、
被災地のユーザーの支払い延長、破損・紛失対策、携帯貸出などの対策を矢継ぎ早に打ち出した。

また3月20日には「偽善者!」というツイートに
「私は偽善者と批難されても構わない」と答え、
「ドコモなどを使う震災孤児ユーザーにも携帯無償化したら見直す」というツイートに「やりましょう。
他社ユーザー震災孤児でも」と答えている。


――私が感心したのは震災後の孫さんの迅速な行動です。
  ツイッターを見ても、翌日からリアクションを起こしています。
  その衝動の理由は何だったのですか。

「津波から逃げたときにお母さんとはぐれてしまった小学5、6年生くらいの女の子が、
翌日、海に向かって『お母さん、お母さん』と叫んでいるシーンをテレビで見て、
涙が止まらなかった。

でも僕らには、ほんとに小さなことしかできない。
自分の非力さに腹が立って、悔しくて仕方がなかった。
それこそ、人生観が変わるぐらいのショックでした」


――1995年の阪神淡路大震災の時と比べてどうですか。

「当時はまだ携帯電話の会社をやっていませんでした。
インターネットをはじめてすぐでしたが、阪神の時はインターネットはつながってたんですよ。

関東にいて、距離が少し離れているという感じもあったし。
遠い場所の出来事という印象でした。
むしろ、ヤフーを抱える我々としてはインターネットでも強いでしょうみたいな。

でも、今回は、我々は責任ある立場でインフラを提供しているわけです。
電話がつながっていれば、何人かまだ救われた方がいるんじゃないか、
自分の力のなさのせいで、何人か犠牲者が増えてしまったんじゃないかという自責の念ですね。

それこそ腹をかっさばきたいくらいの責任感、自己嫌悪がある」

※『週刊ポスト』2011年5月6日・13日号

・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。


私はソフトバンクの孫正義社長は関しては、もとよりお逢いしたこともないが、
書物からは、少しばかり知っている程度である。

大下英治・著の『孫正義 起業のカリスマ』(講談社+α文庫、2005年11月・発刊)、
そして滝田誠一郎・著の『孫正義 インターネット財閥経営』(日経ビジネス人文庫、2011年1月・発刊)を読み、
ネットに関する本の中で、一部として取り上げられた孫正義氏の記事、
或いは総合月刊雑誌、新聞などから、この方の言動を少し学んでいる。

このお方の圧倒的に優れたことは、具体的に先進性のある言動を実行することである。
数多くの難題に、大手企業、或いは財閥グループの経営者の多くは、
ためらい、周辺の状況を見ながら、重い腰を上げて、決断されるこど多く見られる。

孫正義氏はもとより会社を創業され、果敢に先進性で時代の変貌に成功している状況下であるが、
この先の決断が一歩誤れば、巨額な借入の奈落に落ち込んでしまうので、
これまでの数多くの経営者の方たちは、無難な舵取りをされてきたことは歴史上からも圧倒的に多い。

こうした中で、周知の通り十二分に成功された方であるが、
あえて果敢に先進性のある時代を切り開らこうとする言動に、私は感動さえ覚える。


過日、東日本大震災に際して、過日に個人として100億円を寄付され、
たとえ創業の巨額な利益があったにせよ、こうした瞬時の感性の決断に、
無力な高齢者の私は、秘かに賞賛したひとりである。

その後、氏は明確に自然エネルギーへの転換を主張し、
個人として10億円拠出され「自然エネルギー財団」設立されたことは、
私は好感させられたりした。

この間、私の敬愛するノンフィクション作家・佐野眞一氏が、
『週刊ポスト』に於いて、孫正義氏の軌跡を描いた『あんぽん』を連載中と、
何かの記事で知り、完結した後の単行本を待ち焦がれていたひとりでもある。


この筆者の佐野眞一氏は、ダイエーの創業者の中内功(なかうち・いさお)氏を描いた、
『カリスマ-中内功とダイエーの「戦後」 』を『日経ビジネス』に連載中、
中内から事実無根として提訴されたが、後に訴えを取り下げらたりした。
注)功・・あて字(正確には、右辺は「刀」であるが、私も変換できなかった)

その後、『東電OL殺人事件』に於いては、
《被告人の無罪説を大胆に展開し彼の不法滞在の罪でさえ擁護する一方で、
被害者のエリート会社員に対しては、先祖代々の系譜から丸裸にし、
売春していた事を公に書くなどの内容が物議を醸した・・》
と称せられたりした。

私は氏が被告人の無罪説を確証するために、執拗までに懇切丁寧に取材をした思いは、
映画の脚本家の橋本忍(はしもと・しのぶ)氏が、
映画の『真昼の暗黒』(1956年=昭和31年)の脚本にあたり、
取材記録を読んだのを重ねあわしたりした・・。

もとよりこの映画は、八海事件で逮捕された青年を冤罪で無罪である、
と確信した製作者、監督、そして脚本家が、
裁判中にも関わらず無罪を確証するために橋本忍(はしもと・しのぶ)氏が、
徹底的に検証をして、脚本にされて映画化された作品である。
その後、1968(昭和43年)に最高裁で、無罪の判決となつた。

その上、佐野眞一氏は被害者のエリート会社員に対して、心の奥に秘そむ深淵まで描きあげたことに、
私は深く心を揺り動かされたのである。

この2作を読み終わった私は、氏の発刊されている殆どを愛読して、
信愛できる作家のひとりとしている。


このように私は佐野眞一氏には確信しているので、
今回の孫正義氏へのインタビューにも、注視させられたのである。

佐野眞一氏の問い、
《 私が感心したのは震災後の孫さんの迅速な行動です。
  ツイッターを見ても、翌日からリアクションを起こしています。
  その衝動の理由は何だったのですか。 》

孫正義氏の発言、
《 「津波から逃げたときにお母さんとはぐれてしまった小学5、6年生くらいの女の子が、
  翌日、海に向かって『お母さん、お母さん』と叫んでいるシーンをテレビで見て、
  涙が止まらなかった。

  でも僕らには、ほんとに小さなことしかできない。
  自分の非力さに腹が立って、悔しくて仕方がなかった。
  それこそ、人生観が変わるぐらいのショックでした」 》

私は瞬時に、このような心の思いを発露された孫正義氏の感性に、魅了されたのである。


私は無力な身であっても、提灯持ちの言動は何よりも険悪しているが、
こうした感性の方には、功罪の多さ少なさは別にして、思わず私は脱帽した・・。

そして数多くの方たちが、孫正義氏に魅了させられる秘密のひとつ、
遅ればせながら私は解かったのである。


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この世で一番怖い本は、佐高信(さたか・まこと)・著の『タレント文化人100人斬り』・・!?

2011-04-26 19:05:32 | 読書、小説・随筆
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳であるが、
本日も日中の大半、家内に手伝って貰いながら、本の整理をしていた。

文庫本、新書本の1000冊ぐらいの中から、一冊の本のタイトルに少し気になり、
片隅に置いたのである。
そして半分ぐらいは、やむえなく捨てることにした。

この後、夕方の4時過ぎに、本の整理につかれたので、
本日は終了しょう、と私は家内に言ったりした。

そして、片隅に置いていた一冊の文庫本を庭のテラスに下り立ち、
読みはじめて、動顚させられた・・。

佐高信(さたか・まこと)・著の『タレント文化人100人斬り』(現代教養文庫)であり、
1998年7月30日に発刊された文庫本である。

本の帯には、
《 実名をあげて筆力を振り下ろす--
    『噂の真相』に連載中の人気コラム100回分を一冊に収録 》
と明記されていた。

そして本のカバーの中には、
《 奢る昂ぶるタレント・作家・政治家・財界人などに
                 筆力を振り下ろされる。》
と明示されていた。

私が少し読んだ限りであるが、
ビートたけし、盛田昭夫、渡辺淳一、阿川弘之、田原総一郎、堺屋太一・・各氏の論評を読んだりしたが、
10数年前に読んでいたのであるが、殆ど忘却してしまい、
改めて読み、動顚させられたのである。

佐高信(さたか・まこと)氏は評論家であり、私は確か数冊は読んだ記憶があるが、
確かに反骨精神の旺盛なお方と心の片隅に、印象が残っていた程度であった。


本書は著名なタレント・作家・政治家・財界人などに論評をされた内容であるが、
確固たる信条に基づいて、著名人の言動、著作物を根底に、豪速球のような綴るのである。

論評された著名人たちは、徹底的に無視するが、或いは反論するにしても体力も知力も要求される、
と私は思ったりした。

私は、高校生に突然に読書に目覚めて、数多くの本を50年間に読んだりしてきたが、
私の知る限り、この世で一番怖い論評集の一冊である、と確信させられたりした・・。

もとより評論家は、紙面で論評するのは、いい加減な論評は反論されやすいし、
誤った批評は、名誉毀損で告訴されるので、評論家の生命をかけて、論評されるのである。
こうしたことから、特に著名人たち関しては、やんわりと変化球のような形で、
論評されることが多いが、
佐高信(さたか・まこと)氏の論評は、たとえ反論されても、
戦国時代に見られた豪太刀のような筆力で論破している。

これは怖いお方である、と深く感じたのである。


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過ぎ去りし、昨年の今頃は・・と私はぼんやりと思い馳せて・・。

2011-04-26 09:58:51 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳であるが、
先ほど、庭のテラスに下り立ち、心地よい陽射しが射す中、
常緑樹の新芽、落葉樹の幼い葉を眺めたりしていた・・。

そして昨年の今頃は、どのような思いですごしていたのかしら、とぼんやりと思ったりした。
居間に戻り、パソコンを開いて、このサイトした投稿文を読み返したりした。

私は定年後、まもなくブログの世界を知り、ブログのサイト、ブログに準拠したサイトに、
4つばかり彷徨いながら加入し、結果として現在は、この【gooブログ】に集約したのが、
2008年の5月初旬であった。

私は国内旅行、パソコンが故障しない限り、その日の思い、施行していることなどを、
あふれる心の思いを発露しているに過ぎないが、
過ぎ去った時、のちのかたみとなれば、という思いもある。


このように思いで、こっそりと昨年の4月26日の投稿文を読み返したりした・・。


朝の9時過ぎには、
【 東京郊外は、若葉の中、風光る日々に恵まれ・・。 】
と題して、投稿していた。

【・・
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが.
過日の23日の金曜日までは平年よりも10度前後寒い日々が続き、
その後の一昨日の24日の土曜日、昨日の25日の日曜日、16度ばかりの快晴の昼下がりを迎えて、
陽春の時節になったかしら、と私は微笑んだりしていた・・。

今朝も地元の天気情報に寄れば、
朝の6時は7度、昼下がりは19度前後、そして夕暮れの6時は15度前後が予測され、
快晴の一日となる。


このような陽春の陽射しにつつまれた中、たまたま本日は駅前の歯科医院で、
11時に治療の予約しているので、川沿いの遊歩道を歩こうと思っている。
徒歩20分ばかりの道のりであるが、ときおり私は足をとめて、
若葉を眺めたり、川辺の大半は菜の花が黄色い帯のように咲いているのを観たりするので、
駅前までは1時間ぐらいかしら、と微笑んだりしている。

そして歯科医院で治療が終れば、買物をしたり、本屋に寄ったりした後、
自宅の帰路はふたたび遊歩道を歩き、陽春の情景を享受する・・。

こうしたさりげない時を過ごせるのは、
現役のサラリーマン時代は何かと多忙な時が多かったので、私にすれば夢のような時であり、
年金生活の今、一日の時のうつろいを甘受していることが多い。
・・】


そして夕方の6時半過ぎには、
【 宮脇灯子(みやわき・とうこ)・著の『父・宮脇俊三への旅』を読みはじめ・・。 】
と題して、投稿していた。

【・・
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが.
駅前まで歩き、歯科医院で治療が終った後、本屋に寄ったが、
思いもかけずにひとつの文庫本にめぐり逢えて、購入した。

私が『昭和』から『平成』の時代に移り変る前後に、
鉄道に乗車しての旅をされる紀行作家の第一人者の宮脇俊三(みやわき・しゅんぞう)氏の著作に心酔し、
その後も氏の綴られた数多くの作品を殆ど愛読したひとりである。

今回、めぐり逢えた文庫本は、亡き作家の宮脇俊三氏のご長女・宮脇灯子さんが、
解説文に明記されている通り、
《・・娘がたどる「父・宮脇俊三」から「紀行作家・宮脇俊三」への旅――。》
である。

http://www.kadokawa.co.jp/bunko/bk_detail.php?pcd=200910000379
☆角川文庫 宮脇灯子・著の『父・宮脇俊三への旅』 ☆


帰宅してしばらくした後、私は読み始めたのであるが、
何となく読んだことのあるような綴りであったので、
この文庫の最後のヘージを開き、

《この文庫本は、2006年12月、グラフ社より刊行された単行本を文庫化したものです。》
と明記されていたので、
あれぇ、と思いながら、私は書庫に行き、
宮脇灯子・著の『父・宮脇俊三への旅』(グラフ社)の単行本を見かけて、
苦笑したのである。


私はこの単行本に関しては、このサイトの2007年2月23日に於いて、
【 宮脇灯子・著の『父・宮脇俊三への旅』・・♪ 】
と題して投稿しているので、この時の思いもあるので、あえて再掲載をする。

【・・
東京の郊外は、小雨が降り続いていた・・。

昼過ぎに本を一冊携えて、布団にもぐり、読みはじめた・・。

昨夜から、読み始めた宮脇灯子・著の『父・宮脇俊三への旅』であり、
娘からの父親に対する視線で描かれて折、鎮魂歌のように表現されている。

私は今は亡き紀行作家としての宮脇俊三氏の作品は、殆ど読んでいるので、
娘の愛憎には少し驚いたりしたが、単なる感傷にしたる父恋い記でない。
中でも《母と娘の後悔》は飛び抜けて表現力が優れている・・。
やはり、作家の血を受けた著作者と思ったりする。

本を読み終えた後、宮脇俊三氏の作品の数々を想い返しているうちに、眠り込んだ・・。

先程、目覚めると、雨はあがって、静寂な庭を眺め、
白梅の満開の花に宮脇俊三氏の紀行文を重ねたりしている・・。
・・】


このように投稿しているが、今回たまたま文庫本となったのを私は見かけて購入したが、
3年も過ぎ去っているので再読に良いかしら、と微苦笑を重ねたりしている。
それにしても、たった3年ばかりであるが私は忘れてしまっているので、
忘却とは忘れることなり、とある高名な方の言葉を思い出しながら、新鮮な気持ちで再読となっている・・。

その上、今回の文庫本の解説を作家・酒井順子さんが綴られて折、
宮脇俊三氏がご健在の時、この当時としては女流としては珍しく
鉄道に関して弟子志願のような思いで氏との対談で語られた酒井順子さんであったので、
最適な方が綴られている、と思いを重ねたりしている。
・・】

このようにこの日は2通ばかり投稿していたが、
去年の今頃は、このような思いで過ごしていたのか、ともうひとりの私から教えられたようであった。

過ぎ去ってしまえば、時の流れが早い、と改めて私は実感させられている。

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定年退職後、何かと読書する時間は多く、私なりに愛読している作家は・・。

2011-04-25 19:01:52 | 読書、小説・随筆
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳であるが、
日常は買物、散策などの折、季節のうつろいを享受し、
その時に思ったこと、思索したことなどを心の発露として、
このサイトに綴り投稿するのが、生きがいのひとつとなっている。

日常の大半は随筆、ノンフィクション、現代史、総合月刊雑誌などの読書、
ときおり20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
そして音楽も聴いたりしているので、一日が終るのが早い、と溜息をついたりしているのが多い。

そして、ときたま小庭を手入れをしたり、
家内との共通趣味の国内旅行をして、その地の風土、文化などを学んだりしている。


本日も日中、本の整理を家内に手伝って頂き、やむなく捨てる本などを整理した。

先ほど、庭のテラスに下り立ち、煙草を喫いながら、
退職後に愛読している作家は・・と思ったりした。
特に読んだ作家は、阿川弘之、嵐山光三郎、藤原正彦、佐野眞一、塩野七生・・各氏かしら、
と思ったりしている。

私は若き日に映画・文学青年の真似事をして、敗退した身であるが、
この当時は圧倒的に読んだのは、日本の数多くの作家の小説であった。
その後は、民間のサラリーマンを35年ばかりし、定年を迎えたのであるが、
この間は、小説の読書は減少し、随筆、ノンフィクションが増えたりした。

退職後は、殆ど小説は読まなくなり、随筆、ノンフィクション、現代史が多くなっている。

そして特例として、総合月刊雑誌の『文藝春秋』だけは、
少なくとも1970(昭和45)年以来、定期購読している。

このように時代の変貌と共に、つたない私の心もうつろっている。


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齢ばかり重ねた年金生活の私でも、税務署から『督促状』が郵送され、私は微苦笑して・・。

2011-04-25 09:10:58 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であるが、
過日の22日の金曜日の夕方、郵便受入箱を覗(の)ぞいたら、
所属地域の税務署から、何かしら書類封筒があった。

居間で開封したら、お知らせ状には、
《国税が未納となっていますので・・最寄の金融機関等で納付して下さい・・》
と明記されていた。

そして肝要の用紙には、『督促状』 5400円、
と明記されて、私は苦笑した。

つたない私でも、これまでの生涯、初めて税務署から『督促状』を受けたのである。


私は現役時代は民間の会社に勤めていたので、12月初旬に社内の担当部署に年末調整の書類を提出すれば、
医療控除、不動産等の用件がない限り、簡易であった。

定年退職したのは2004(平成16)年の秋であり、
翌年の2月に、退職金、不動産関係のこともあり、
やむなく所属地域の税務署に行き、、『所得税の確定申告書』をした後、
納める税金とした内容の用紙を手渡しされた。

そして私は帰路、自宅の最寄駅の郵便局で振込み納付して、
退職後に年金生活をした身なので、やれやれこれでサラリーマンの35年の精算が終った、
と安堵をしながら、食事処でビールを呑みながら、遅い昼食とした。


私の厚生年金に関しては、1944(昭和19)年9月に生を受けたので、
年金の満額は62歳からであり、
それまでの2年間は、報酬比例部分だけの支給となるので、満額の半額ぐらいであった。

そして私は、この厚生年金、厚生年金基金、そして個人年金で、
年金生活をスタートしたが、多くの人たちと同様に、程ほどの貯金から取り崩し生活を始めた。

そして、その後は私か家内か、どちらかが歯科医院の治療を受けたりしたので、
毎年の『所得税の確定申告書』には、医療控除していたので、
数万円ぐらい税金の還付金を受けていたのである・・。


昨年から、家内は国民年金を支払う立場から、わずかながら年金を受け取る年齢となり、
私たち夫婦共々、年金を受け取る人に変貌した。

今年の2月の『所得税の確定申告書』の作成の時は、歯科医院の治療を受けることもなく、
もとより医療控除がなく、
初めて申告納税額の欄に、納める税金として、5400円となった。

そして『所得税の確定申告書』を完成させて、所属地域の税務署に郵送した。

その後の私は、所属地域の税務署から、税金の請求書を待ちわびていたのである・・。

そして、過日の22日の金曜日の夕方、いきなり『督促状』が郵送されて、
このようなルールだったの、と苦笑させられたのである。

しかし、私のような場合は、2月下旬に『所得税の確定申告書』に所属地域の税務署に郵送した方たちは、
税金の請求書もないので、この間はどのように納付すればよいの、
と思ったりし、微苦笑したりしている。

そして私は、本日の午前中、最寄の郵便局に行き、
遅ればせながら、振込み納付をする。


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過ぎ去り日の時代の小説、評論の単行本、私は整理をして、処分をめぐらしても、やむなく・・。

2011-04-24 22:01:43 | 読書、小説・随筆
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であるが、
午後のひととき、家内に手伝って頂き、本の整理をし、処分する本などした。

こうした思いは、過日の21日に、このサイトに於いて、
【 本の整理を私なりに、大幅に見直して、日中のひととき行えば・・。】
と題して投稿している。

http://blog.goo.ne.jp/yumede-ai/e/e121fb2fcc0438df3e9625d264c3db3e
☆【年金青年たわむれ記 ~かりそめ草紙~ 】
     4月21日【 本の整理を私なりに、大幅に見直して、日中のひととき行えば・・。】☆


押入れに収納していた単行本を整理をし始めたのであるが、
主に私が東京オリンピックが開催された1964(昭和39)年前後の5年間ぐらいで購入した
小説・文学評論が圧倒的に多かったのである。

石川達三、丹羽文雄、三島由紀夫、安部公房、大江健三郎などの各氏が多く、
そして福永武彦氏の本は、殆ど所有していたのには、微苦笑させられたりした。

この方たち作家の作品は、今後は読むこともないだろう、
市の資源ゴミにだすことに決めたのである。


数年前、自宅から徒歩10分ばかりのある古本屋のチェーンの支店長と私は話し込んでいた時、
私は思いついたように、自宅の本を思い浮かべて、
もしも古本屋に売却したら、と小説、文藝評論の数々の名を上げたら、
『信じられいような廉(やす)さと思いますよ・・
ご愛読された本と思いますので、ご自宅で保管された方がよろしいかと思います・・』
と私は支店長から言われてしまったのである。

その後、やむなく市の図書館に寄贈しょうと思ったりしたが、
友人にこのようなことを話したら、
昨今は図書館でも過剰で困り果てているのが多い、と教えられた。


私が保有している小説、随筆、評論などは、市の図書館の本館に、八割方ぐらいあるが、
今現在としては、全ての本を処分する気にはなれないので、
結果として、図書館に寄贈は断念したのである。


本日の押入れにあった本は、3冊だけ保存することにして、
500冊ぐらい処分としたのである。

そして石川達三、丹羽文雄、三島由紀夫、安部公房、大江健三郎、福永武彦などの各氏、
さよならを告げたのである。


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季節がめぐり麗春のこの時節になると、秘かに一青窈(ひとと・よう)さんの『ハナミズキ』の歌を・・。

2011-04-24 14:02:57 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であり、
子供に恵まれなかったので、家内と2人だけの家庭となり、古惚けた一軒家に住んでいる。

昨日は早朝から雨が降りだし、降ったりやんだりした一日であり、
今朝は晴れ間の朝を迎え、樹木の枝葉は雨粒をたたえて、清々しい、潤(うるお)いのある情景となっていた。

若葉の色合いは、萌黄色からこの二週間ばかりで黄緑色から新緑色に染められ、
私はさりげない日ごとにうつろう枝葉を眺めたりしていた。

穏やかな陽射しが差し込み、空は青さを増し、ときおり微風が吹き、まさしく風光る情景となっている。
そして、私は皐月晴れの頃の陽気かしらと感じながら、
私は昨日の少しばかり肌寒い雨降る日であったので、戸惑いながらも主庭の樹木、草花を眺めたりしていた。


このような移ろいの中、午前中は市議選の投票を終えた後、
駅前の専門店で買物を済ませて帰宅した。

そして昼前に最寄のスーパーに買物に向ったのであるが、
道路際にある躑躅(ツツジ)、皐月(サツキ)が咲きはじめ折、
買物の帰路に広場を通り抜けようとした時、花水木(ハナミズキ)の樹に白い花、淡いピンクが咲きはじめて、
付近の落葉樹の多い公園は新緑となり、ときおり微風が吹き、小枝の若葉も揺れ、私は微笑んだのである。

そして、ここ10数年に建てられて大きなマンションの前にある小公園を通り過ぎると、
花水木(ハナミズキ)の樹木は、可憐な白い花は三本あり、それに並ぶように淡いピンク色した花は二本あり、
私はしばらく見惚(みと)れたりした。

この花水木(ハナミズキ)の樹木たちは、昨年の秋には数多くの朱紅色に染められ葉となり、
秋日和の陽射しを受けていたことも思い馳せたりしたのである・・。


そして私は自宅に向いながら、突然にひとつの歌が脳裏に浮かび、心の中で静かに唄いだしたのである。

この後、遊歩道で人影が少ないのを確かめて、小声で唄いだしたのである。


♪薄紅色の可愛い君のね
 果てしない夢がちゃんと 終りますように
 君と好きな人が 百年続きますように

【 『ハナミズキ』 作詞・一 青窈、作曲・マシコタツロウ 】


私なりに、残された歳月で私自身の夢を実現をさせる命題もあり、
そして私たち夫婦は、この先いつまでもつつましながらも年金生活の楽しい生活が続くわけでなく、
いずれ片割れになる・・。

このような思いを重ねたりしたのである。


確か数年前だったと思われるが、NHKの音楽番組の中で、
一青窈(ひとと・よう)さんと徳永英明(とくなが・ひであき)さんが、デュエットでこの歌を唄っていた。
私は遅ればせながら、退職後にこの一青窈ちゃんの『ハナミズキ』に魅了されて折、
改めてこの歌をお二人が唄うのを視聴したのであるが、
胸が熱くなり、やがて涙を浮かべそうなくらい圧倒的に感銘を受けたのである。

無念ながら【You Tube】には、デュエットでこの歌を唄っていたのがなく、
私は少なからず男性のひとりである上、一青窈ちゃんのような美麗で深淵まで深めた歌声を唄えないので、
せめて徳永英明さんが独りで唄う歌に魅了されながら、【You Tube】でたびたび聴いたりしていた。

http://www.youtube.com/watch?v=w9bxyOGTsrI&feature=related
☆【 『ハナミズキ』 作詞・一 青窈、作曲・マシコタツロウ、唄・徳永英明 】


無念ながら私は彼のように透明感あるシルキー・ヴォイスのようには唄えないけれど、
私なりに齢を重ねた66歳の体力と声も衰えた身であるが、心を込めて精一杯唄ったのである。


♪僕の我慢がいつか実を結び
 果てない波がちゃんと止まりますように
 君と好きな人が百年続きますように

 君と好きな人が百年続きますように


【 『ハナミズキ』 作詞・一 青窈、作曲・マシコタツロウ 】


私は小声で唄っているうちに、胸が熱くなり、
そして瞼(まぶた)も熱くなり、齢を重ねると涙もろくなる、と実感しながら家路に向ったのである。


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