夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

幸せとは気付くことである、と教示され、敗残者の私でも瞬時に共感を深めて・・。

2014-11-30 17:10:20 | ささやかな古稀からの思い
私は東京郊外の世田谷区と狛江市に隣接した調布市(当時は北多摩郡神代村)の片隅の地域で、
1944年(昭和19年)秋に農家の三男坊として生を受けた。

やがて東京オリンピックが開催された1964年(昭和39年)の秋、
私は小学生から映画をこよなく愛して少年だった影響で、映画の脚本家になりたくて、大学を中退した。

そして養成所の演出コースに入所して、アルバイトをしながら映画青年の真似事をしたりした。
その後は講師の知人の新劇のある長老のアドバイスにより、
契約社員をしながら、小説を書き始めて、文学青年の真似事をした。

そして、習作に励んだりし、純文学の新人賞に応募したが、最終予選の6編の直前で3回ばかり落選し、
あえなく敗退し、挫折した。

この後、コンピュータの専門学校に一年ばかり学び、
1970年(昭和45年)4月、ある民間会社の大手に何とか中途入社し、
まもなく創立された外資系のレコードに移籍させられた。

そして音楽に直接に携わる制作畑でなく、裏方の商品、情報、経理、営業を配属され、
2004年〈平成16年〉の秋に定年退職した身である。
       

しかしながら最後の5年間はリストラ烈風の中、30年間奮戦してきた本社から放り出されて、
出向となり、つたない私なりに失墜感にさいなまわれ、
まもなく自分の敵は自分だ、と自身を叱咤激励して奮闘し、出向先で定年を迎えた。

このように私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多い中で、
敗残者のような状況だったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたく、その直後から年金生活を始めた。

私は調布市の片隅に住み、生家も近く結婚前後の5年を除き、この地域に65年ばかり住んでいる。
そして住宅街の外れに住み、雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、
私より5歳若い家内と共に過ごしている。

こうした中で私たち夫婦は、子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
長き結婚生活の中に於いて、最大の誤算となっている。

こうした影響の為か、私は何かとおしゃべりなので、家内と結婚前に交際していた時から、
私は家内に対して、XXちゃん付けで呼んだりしている。

そして私たち夫婦は語り合うことが多く、旅先の宿泊の食事処で、会話のないご夫婦を見かけると、
私は幾たびか驚いたりしてきた。

そして世の中の多く人たちから、人生の3大支出は教育資金、住宅資金、老後資金と言われたりしているが、
たまたま我が家は子供の「教育資金」は不要となったので、
定年した直後から年金生活を開始できたことも事実である。

私たち夫婦の年金生活の資金基本は、お互いの厚生年金、わずかな企業年金を頂き、
通常の生活費するのが原則としている。
しかし共通の趣味のひとつである国内旅行、或いは冠婚葬祭、そして思いがけない出費などに関し、
程々の貯金を取り崩して生活している。
       

2004年(平成16年)の秋に定年退職後、年金生活に入り、
現役サラリーマン時代は悪戦苦闘が多かった為か、解放感で高揚したりした・・。

そして年金生活を当初は、独りで近所の遊歩道を散策したりすると、
こんなに自由に散歩できるなんて、許されても良いのかしら、
と定年直前までの多忙期を思い重ねたりし、戸惑いながら甘受したりした。

何よりも朝の陽射し、昼下りのひととき、そして夕暮れ時に、
ゆっくりと時を過ごし、苦楽の激しかった現役時代を思いながら、微苦笑を重ねたりした。


私より5歳若い家内も、お互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。
そして私たち夫婦は、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

平素の殆どは、日常の買物専任者の私は、家内から依頼された買物を終えた後、
その後も独りで自宅の周辺3キロ範囲にある遊歩道、小公園、都立の公園、
或いは小学、中学時代の通学路などを歩き廻り、季節のうつろいを享受している。

こうした中で、何かとおしゃべりな私は未知の人な話しかけて、立ち話しをしたり、
或いは知人の人と、20数年ぶりに出会い、お互いに談笑したりしている。
       
       

日常の大半は、何かと随筆、ノンフィクション、小説、近代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまない映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

そして年金生活の今でも本屋で、単行本、新書本、文庫本のコーナーを見たりして数冊買い求めたり、
ときには雑誌コーナーで月刊誌、季刊誌、臨時特別号を眺めた後、魅了された時は購入している。

こうした時、ある本屋で魅了されそうな本を探し求めいる中、店内からクラシック珠玉曲が流れたりすると、
良きひととつに甘受してしまい、幸福感につつまれたりしてきた。


或いは月に数回は、寝不足と感じた時、昼下がりに布団を敷いて、
本を持ち込んで布団にもぐってしまうこともある。
そして布団の中、好きな本を読み始めて、ぬくもりの中、本を読みながら、やがて寝付いてしまうことがある。

こうした時、現役サラリーマン時代の時は、何かと睡眠不足で奮闘してきた私は、
いつでも昼寝ができることは年金生活の特権である、と心の中で呟(つぶや)きながら、享受する時もある。
       

私たち夫婦の共通の趣味のひとつは国内旅行で、日本の各地を遊学し、
観光ホテルなどに宿泊滞在して、周辺をひたすら歩きまわることが多い。

或いは少し離れた時は、やむなく公共交通機関の路線バス、電車を利用することが多い。
そして私は、その地域にお住いの未知と方と談笑したりしている。

こうして私たち夫婦は経済的に贅沢な生活は出来ないが、
働らなくても何とか生活ができるので助かるわ、
と家内がときおり、 呟(つぶや)くように私に言ったりするので、私は苦笑したりしているのが、
我が家の実態である。
       

このように60代に年金生活を過ごしてきた私は、
長き人生に於いては60代の期間が何より安楽な時代、と思い重ねたりして享受してきた・・。

そして年金生活を10年ばかり過ごしてきた中、
やはり『健康』、『生きがい』、そして程ほどの『お金』と深めて、
私たち夫婦はささやかな願いを叶えたりしてきた・・。

もとより健康でなければ、ささやかな願いも叶わないので、私たち夫婦は幸いに大病せずに、
今日に至っている。

世の中の多くの人たちは70代となれば、体力の衰えを実感して、75歳まではこれまでどおりの自立した生活ができるが、
80歳が見えてくる頃には介護を必要とするようになり、
やがて80代後半では何らかの介護付き施設に入居する可能性が高くなる、
と専門家の人から数多く発言されている。

しかしながら一部の75歳前後の方たちは、心身溌剌とし、私は勇気づけられたりしてきた。
そして私は、何よりも健康でなければ、ささやかな願いも叶わないので、健康寿命が肝要だ、
と深めたりしてきた。
       

そして何よりも日々歩くことが肝要と思いながら、認知症は勘弁してょ、と心の中で呟(つぶや)きながら、
ひたすら歩いているのが、70歳に一か月ばかり過ぎた私でもある。

そしていつまで健康寿命が保てるか、やがて命果てる日は、
自助努力は大切であるが、こればかり天上の神々の采配に寄ることである。

私の昨今の心情として、60代のささやかな成功体験を秘めながら、
確かに60代の初めより体力の衰えを実感しているが、
70代も『生きがい』を持ち続け、しなやかに生活を過ごせば、
60代と同じような安楽な生活が過ごせる、と漠然と思いながら微笑んだりする時もある。
       

本日の午後のひととき、ビジネス総合誌として名高い雑誌『プレジデント』のネットに配信された記事を読んでいる中、
『幸せとは気付くことである』と題された見出しを見て、クリックした。

そして脳科学者の茂木健一郎(もぎ・けんいちろう)さんが、『世界一の発想法』の連載の寄稿文と知りながら、
読み始めたりしたが、つたない私でも、瞬時には共感を深めてしまった・・。
http://president.jp/articles/-/13914
☆【PRESIDENT Online】
        <==茂木健一郎・著作の『世界一の発想法』==>『幸せとは気付くことである』

この記事の中核の大半を無断ながら転載させて頂く。
《・・(略)・・幸せとは、「気付く」ことであると、さまざまな研究結果が示している。
自分の人生の中の、ごくあたりまえの恵みに目覚めることが、汲めども尽きぬ幸せの泉となるのだ。

ある程度の経済的裏付けは、もちろん必要である。しかし、お金さえあれば、幸せになるというわけではない。

・・(略)・・「隣の芝は青く見える」という。
他人を羨ましく思うことが、明日への活力につながることもあるし、国全体としての経済成長を促すこともあるだろう。

しかし、それがいきすぎると、こだわりや執着を生む。
何よりも日々の生活が、「いつか幸せ」になるためのプロセス、手段になってしまう。

本当は、今日という日は、二度と帰ってこない。
だからこそ、日々の足元を見直すことが、幸せにつながる。
つまり幸せとは、一つの「発見」であり、「認知」なのだ。

そのことを表しているのが、メーテルリンクの「幸せの青い鳥」の寓話だろう。
幸せを求めてさまざまな場所を旅し、家に戻ってくると、幸せの青い鳥は、実は最初から自分たちの家にいたのだった。

この寓話が意味するところは、幸せの条件は、すでに足元にあることが多い、ということであるが、
もう一つ、大切なポイントがある。

それは、他人の人生、別の生き方を知ることが、自分自身の幸せを見直すきっかけになるということ。
幸せの青い鳥は、最初から家にいたのかもしれない。
しかし、家に閉じこもっていたままでは、その意味に気付くことはできなかっただろう。

さまざまな場所を旅して、いろいろな人と話すことは、だから、決してムダにはならない。
外国を旅した人が、日本の良さに目覚めるように、他者との出会いがあって初めて、
身近にある幸せの泉に気付くことができるのだ。・・(略)・・》
       

やがて読み終わった後、確かにそうですよねぇ、と私は微苦笑を重ねたりした。

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ないないづくし年金生活の我が家、早くも11月の家計簿の月次決算を終えて・・。

2014-11-29 13:43:35 | ささやかな古稀からの思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の70歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。
 

定年後の年金生活の当初から、私は平素の買物に関しては自主的に専任者となり、
独りで毎日のように最寄りのスーパー、専門店に行ったりし、
ときおり駅前で買物をした時は本屋に寄ったりしている。

その後は、自宅の周辺にある遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受している。

或いはときおり庭の手入れをしたり、友人と居酒屋など逢ったり、
家内との共通趣味の国内旅行をしたりしている。

日常の大半は、随筆、ノンフィクション、現代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

このような年金生活を過ごしているが、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、パソコンの故障とか旅行に行っていない限り、
ブログの投稿文を重ねて、早や丸10年が過ぎている。
       

私たち夫婦は恥ずかしながら、スマートフォンはもとより、携帯電話さえも使えなく、
その上にフェイスブック、ツイッター、そしてモバイルパソコンに無縁であり、
やむなくインターネットは固定回線の光ファイバーの『フレッツ』を頼りに、
せめてと思いながら据え置き型のパソコンとノートパソコンを利用している。

その上にフェイスブック、ツイッター、そしてモバイルパソコンに無縁で、
無線のモバイル情報機器に遠い世界の出来事のような思い、
このように稀(まれ)な時代遅れの国民のひとりとなっている・・。

その上、我が家の周辺のお住まいのお宅に於いては、殆どが自動車を所有しているが、
我が家は自動車も所有できなく、昨今のガソリンの価格も無知となっている。

このように自動車、携帯電話、スマートフォンもない我が家であるので、
ないないづくしだよねぇ、と私は家内にときおり言ったりしている。
       
         

このような拙(つたな)い年金生活をしているが、
本日の朝食のひととき、家内から『小雨が降りだしてきましたから・・買物はやめて、
11月の家計簿・・締めましょうか?』
と私は言われたりした。

『結構ですね・・やりましょう』
と買物専任の老ボーイの私は、責務から解放された為か、
若き自衛官の諸兄に負けないように、明るく大きな声で応(こた)えた。

もとより我が家は企業の月次決算と違い、年金などの収入もほぼ決まっているし、
11月度に支払う新聞代、電話料金、電気、ガス、水道料金なども確定しているし、
更に国民健康保険も納入を終えていた。

そして何かと今後の小事が山積する時期を迎えるので、確かに月末まで日は残っていても、
年金生活の我が家としては大勢に影響がない、と思えて賛意したのである。
       

私は2004年(平成16年)の秋に定年退職した直後から年金生活をし、
現役サラリーマン時代の緊張感から解放されて、やがて65歳の高齢者入門が許された時から、
ボケてはいけない、と家の中でも明るく大きな声で家内と会話することが多くなっている。

私より5歳若い家内も、お互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。

我が家の生計は原則として、私たち夫婦はお互いに厚生年金とわずかな企業年金を頂いた範囲で、
日常生活を過ごすことを原則としている。

そして耐久品の購入、冠婚葬祭、そして私たち夫婦の共通趣味の国内旅行に関しては、
程々の貯金を取り崩して、ここ10年を過ごしてきた・・。

そして我が家は、日常は買い物したレシートなどを、
家内が一週間に一度ぐらいノートに簡単に集計している程度であり、
月末を過ぎた後に、私たち夫婦は家計簿の月次決算をしたりしてきた。
                           

本日の午前中のひととき、家内が支出のそれぞれの区分項目を読み上げて、
私はパソコンの表計算ソフトのエクセルを活用して、入力したりした。

そして11月は厚生年金、企業年金などの収入の項目もなく、郵便局の個人年金ぐらいで、
やがて銀行、郵便局、信託銀行などの残高を入力した上で、
5表ばかり我が家の独自の家計管理表を作成したりした・・。

そして11月の家計簿の月次決算を終え、
連動させた計算で2014〈平成26〉年度の1月度~11月度までの通期決算も終えてしまったのである。

もとより我が家は赤字となってしまったが、今年も幾たびか国内旅行をしたり、
或いは親戚、知人の葬儀などもあったことを思い浮かべて、私たち夫婦は微苦笑したりした。
              

私たち夫婦は年金生活をして10年目となるが、我が家の銀行、郵便局、信託銀行などの貯蓄は、
安全利回りが原則で、金利はわずかであり、
年金生活を始めて数年は200万円前後の赤字となったりしたが、
その後は毎年は120万円前後の赤字の実態なので、予定通り残額は減るばかりとなっている。
          

しかしながら年金生活をして以来、確実に増えているのは、
現役サラリーマンの時は苦楽の激しかった時が過ぎ、
年金生活の中で、家内と共に過ごしてきた平穏な生活の中での日常生活のささやかな想いで数々である。

こうした中で、デジカメで季節の移ろう情景を撮った写真は、記憶の数々のかたみであり、
或いはブログの日々の思いの投稿文であり、ときおり過ぎ去り日々に愛惜を重ねたりしてきた。

或いは私たち夫婦は、国内旅行を幾たびか重ねてきたので、旅先の情景、こぼれ話を
のちの想いとなったりしている。
       

昨今、ここ10数年ばかり信愛している経済ジャーナリストの荻原博子さんが、
女性専用週刊誌『女性セブン』の2014年12月4日号の記事のひとつが、
ネットで配信された発言を読んだりした。

何かしら荻原博子さんは、シニア層のお金の貯め方、使い方に発言されていた。
《・・「2013年の総務省家計調査によると、世帯主が60歳以上の2人以上の家庭の貯蓄額は平均で2384万円。
6世帯にひと世帯は4000万円以上貯蓄を持っているんですよ。
家電メーカーもこの世代をターゲットにした市場に注目していますね。

この世代は本当に価値があるものを見抜くこだわりの世代。
自分のスタイルに合うものには価値を見いだし、買い替えにチャレンジする積極さもあります。
お金は貯め込んだって、死ぬときは持っていけないんだから、自分のために使うべき。
高いかなと思っても暮らしが豊かになるなら、それは買いですね」・・》
       

こうした記事を私は読み終わった後、我が家は利便性ある情報器具、健康器具、家電器具などは少ないが、
私たち夫婦は国内旅行で観光ホテルに滞在して、その周辺をひたすら歩き廻り、
その地の情景、文化などを教示され、語り合いながら遊学していることぐらいかなぁ、
と微苦笑したりしている。


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私のブログを、真の戦士のブログ、と未知の人から時空を越えて評価され・・。

2014-11-28 14:28:46 | ささやかな古稀からの思い
私は東京郊外の調布市の片隅に住む年金生活の身であるが、
年金生活をしていると何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを心の発露の表現手段として、
このブログのサイトに綴り投稿するのが、生きがいのひとつとなっている。

私は民間会社の中小業のある会社を35年近く奮戦して、2004年(平成16年)10月下旬に定年退職し、
多々の理由により年金生活を始めて、早くも10年が過ぎて、
過ぎし9月下旬に古希と称される70歳を迎え、不安と希望を秘めながら、70代を歩き始め二か月を過ぎた・・。
       
        ☆今回掲載した写真のすべては、どんよりとした曇り空、ときおり霧雨の舞う中、本日の散策ひとときを撮った☆       
    

私は定年退職して、まもない時に『ブログ』の世界を知り、
2004年(平成16年)11月12日にある大手のブログサービスに加入した後、
2つばかりのブログサービスに彷徨(さまよ)った後、
この【gooブログ】に翌年の2005年(平成17年)の1月中旬に加入したので、
これ以来、10年近くになっている。

しかしながら、この後に他のブログサービスに加入して熱中して、2度ばかり中断したが、
2008年(平成20年)の5月以来は継続し、今日に至っている。    
          

このような軌跡で、ブログの世界を知って丸10年が過ぎて、早や11年生に進級した。
結果としては、パソコンの故障、国内旅行などしない限り、日に少なくとも一通は投稿してきた。
               

こうした私の根底には、私の幼少時代から年金生活している現在までの生きてきた心の軌跡を発露して、
自己表現のひとつとして、心の証(あかし)の残したいからであった。

そして年金生活を過ごしている今、日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。
         

私の投稿文の殆どの内容は、幼年期からサラリーマン退職時まで、そして年金生活の日々の心情は、
脚色もないありのままの思い、真情を投稿文に認(したた)めたく、あますことのないように綴ってきた。

私は綴る際は、自身のその時の心に素直に綴るようにし、
あとで振り返った時、あの時はこのような思いで過ごしていたのか、
何より自身に対して、その時の思いの心情が大切にしているひとりである。
       
従って、数多くの駄文を綴ってきたが、ひとえに自身の為の心の軌跡の発露、と言っても差し支えない。
                      


昨夜、私はヤフーの検索機能で、自身のブログ『夢逢人かりそめ草紙』と入力した。

過ぎる1年半前、グーグルの検索機能で、自身のブログ名を入力したら、
私の投稿文の一節が、まったく未知の方に波及されて、引用して下さったこともあり、
嬉しげに驚いたりしたことがあったりした。

このような体験があったりしたので、たまたま昨夜のひととき、自身のブログ名を入力した。

こうした結果、30代の男性と思われる方のブログサイトで、2014年5月11日に於いて、
『夢逢人かりそめ草紙』と題した投稿文があり、驚きながら読ませて頂いた。

ご本人には無断であるが、ブログの投稿文は発信したなら、世の中に公開したと同一、
と甘受しながら、転載させて頂く。
       

《・・
何を隠そう私はエッセー、随筆ブログランキングに身を置いている。
その中の上位のほうを、ご覧になって欲しい。
わたしが今注目を置いているのは夢逢人かりそめ草紙というブログである。

定年退職された夢逢人管理人様のブログである。
キャッチフレーズは

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし68年の心の宝物から、
あふれる思いを真摯に、時には楽しく日々投稿・・♪

そのあふるる思いは日々の記事だけでも5000を超えている。
これはジャスティンビーバーのフォロワーが5000万と同じくらいの快挙である。

歳をとると人間は物事に億劫になりがちである。
しかし彼は意欲的な執筆活動をし世のブロガーを圧倒させるのである。
綺麗な花々がめくりめく美しい背景。
内容も極めて濃く心情を惜しみなく書いている。
果たして私が65歳を越えてブロガーになろうと思うだろうか?

いや思わないだろう。
うちの父といい現在定年された世代は団塊ソウルをもって生きている。
まさに高度経済成長を支えてきた世代最強の人々である。

私はいつも彼のブログを読むときは
きちんとXPの画面越しにお辞儀をして読むことにしている。

随筆、エッセーのカテゴリの真の王者は1、2、位の連中ではない!
断言しよう、夢逢人かりそめ草紙が真の戦士のブログなのである!!
・・》


こうした私のブログに対して、論評されて、私は戸惑いながら、照れたりした・・。

私は35年近く中小業の民間会社に勤めた中、若き40代の初めに会社に多大に貢献したと理由で、
社長より表彰されてながら、金一封の5万円を頂いたことがあるが、
これは今後とも更に奮戦しなさい、と経営者からの激励の意味合いである。

これに反して、ブログは互いに利害関係もなく、その上にコメントを交わしてきた人てはなく、
まったくの未知の人からの論評であり、評価までして下さったことに、
私は赤面してしまった。

もとより論評は批評した文章であり、評価は物の善悪・美醜などを考え,価値を定めることで、
「死後に小説の評価が高まった」といったような褒め言葉に流用されることもある。

私の投稿文は恥ずかしながら、少なくとも心象の描写(びょうしゃ)は不充分であり、心の深淵までの表現は乏しく、
言霊(ことだま)の自己格闘に甘い、と私は反省するばかりで、具体的な表現の向上が見られない、
と自分ながら時折うなだれることがある。

こうしたこともあり、今回の30代の男性と思われる方の私のブログに対しての評価は、過分である。
       

しかし私も加入しているブログランキングの『人気ブログランキング』の『エッセイ・随筆』に於いて、
たまたまか今回の30代の男性と思われる方が、私の投稿文に注視して下さったことは、
望外の喜びとなり、感謝したりしている。

そして何よりも嬉しく感じたことは、年代、男女、そして富貧も関係なく、
時空を越えた論評をして頂いたことである。

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紅白歌合戦、齢ばかり重ねた私、ささやかな想いで・・。

2014-11-27 14:35:48 | ささやかな古稀からの思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の70歳の身であるが、
昨夜、NHKテレビのニュースを視聴していたら、本年度の『紅白歌合戦』の出場歌手が決まりました、
と報じていた。

そして齢ばかり重ねた私でも、どの歌い手が出場されるのかしら、と思ったりした。
この後、音楽ランギングとして名高い『オリコン』のサイトに出場歌手が記載されていた。

《・・出場歌手一覧(カッコ内は出場回数)

【紅組】絢香(7)、E-girls(2)、いきものがかり(7)、石川さゆり(37)、HKT48(初)、AKB48(7)、SKE48(3)、NMB48(2)、
神田沙也加(2)、きゃりーぱみゅぱみゅ(3)、香西かおり(18)、伍代夏子(21)、坂本冬美(26)、椎名林檎(2)、天童よしみ(19)、中島みゆき(2)、
西野カナ(5)、Perfume(7)、藤あや子(20)、松田聖子(18)、水樹奈々(6)、水森かおり(12)、miwa(2)、May J.(初)、
ももいろクローバーZ(3)、薬師丸ひろ子(初)、和田アキ子(38)

【白組】嵐(6)、五木ひろし(44)、EXILE(10)、関ジャニ∞(3)、クリス・ハート(2)、郷ひろみ(27)、ゴールデンボンバー(3)、
三代目 J Soul Brothers(3)、SMAP(22)、SEKAI NO OWARI(初)、Sexy Zone(2)、T.M.Revolution(5)、
TOKIO(21)、徳永英明(9)、AAA(5)、長渕剛(4)、氷川きよし(15)、V6(初)、福田こうへい(2)、福山雅治(7)、細川たかし(38)、
ポルノグラフィティ(13)、美輪明宏(3)、森進一(47)・・》

私は歌手かグループ名で、代表曲が瞬時に結びつくのは、無念ながら3割ぐらいで、
歌の世界も遥か遠くになってしまった、と微苦笑したりした。
                 

私は中小業の多い音楽業界のあるレコード会社に、1970年(昭和45年)4月に中途入社し、
35年近く勤めた身である。
こうした中、最後の5年はリストラ烈風の中、音楽商品を扱う物流会社に出向となり、
2004年(平成16年)秋に定年退職をした。

こうした現役のサラリーマン時代は、音楽に直接に携わる制作畑でなく、裏方の商品、情報、経理、営業を配属されてきたが、
もとより音楽業界は、多少は知っていた。

そして週刊誌の音楽専門誌の『オリコン』、ビジネス全般として『日経ビジネス』、
月刊誌の『日経トレンディ』、そしてテレビ・CM・音楽・映画界などの『日経エンタテイメント』を購入し、精読していた。
或いは当然の責務として、音楽の業界紙も読んでいた・・。

こうした中、音楽専門誌の『オリコン』から公表される毎週のベストランキングの曲と歌い手ぐらいは知っていたし、
入社以来、給与を頂くたびに自社、そして他社のレコードLP、その後はCDアルバム、DVDを買い求めてきたりした・・。
       

私は恒例のように大晦日の夜に『NHK紅白歌合戦』をテレビで視聴してきたことは、
残念ながら少ない。

私は1976年(昭和51年)春に結婚して以来、『NHK紅白歌合戦』は殆ど視聴していない。
この日の大晦日の夜は、家内の宅では『お歳取り』を長らく行ってきた年越しの行事であった。

そして私は準拠してお節料理を頂きながら、ビール、日本酒を呑み、
お互いに談笑する酒宴となった。

当初の新婚時代の2年は、私たち夫婦が家内の実家に行き、家内の両親、義妹、義弟と、
私たちは酒宴をしながら、談笑したりしていた。

この後、私の生家の近くに私たちは一軒家を設けて、この日の大晦日には、家内の両親に来宅して頂き、
『お歳取り』の行事をして泊まって頂き、共に新年を祝った後、元旦の昼下がりに家内の両親は帰宅された。

こうした大晦日が20年ぐらい続いた時、私の母が病死し、
この後、家内の父が入退院を繰り返し、私たち夫婦は年末年始の休暇を利用して、
日本の各地を旅をしたりした。

このような大晦日であったので、『NHK紅白歌合戦』は視聴してこなかった・・。
       

今回の『オリコン』のサイトに出場歌手一覧の下段を見たりしていると、
《・・大みそか恒例の『第65回NHK紅白歌合戦』の出場歌手が26日、発表され、
中島みゆき(62)が2002年以来12年ぶり2回目の出場を果たすことが決まった。

12年前の出演時、富山・黒部ダムからの中継で「地上の星」を歌った中島は、
歌詞を間違えるハプニングで話題となった。

コメントを寄せた中島は自ら蒸し返し、
「黒部のときには一生の思い出だわ、と感激のあまり、歌詞を間違えました。
このたびはまさかの2度目出場。来世までの思い出だわ、
と感激のあまり、また何かしでかさないように、頑張って歌わせていただきます」
と柴崎哲也チーフプロデューサーが代読すると、会見場は笑いに包まれた。

中島は現在放送中の連続テレビ小説『マッサン』の主題歌「麦の唄」を担当している。・・》

こうした記事を読んだりした後、あの時の『紅白歌合戦』で、
私は中島みゆきさんが『地上の星』を唄われたを、偶然にテレビで視聴していたことが思い出された・・。
       

2002年(平成14年)の年末、
私たち夫婦は『ゆく年くる年 日本のてっぺんでお正月3日間』と称された団体観光周遊ツアーに参加した。

私の定年退職時は2004年(平成16年)秋であり、
この当時の私はリストラ烈風の中、あえなく出向となり3年が過ぎた頃で、
自分の敵は自分です、と自身を叱咤激励しながら奮戦していた時であった。

そして現役サラリーマンとして残すところ1年10が月前であった。

この当時も12月になると、家内と年末年始の旅行のことで話し合ったりした。
私は前年の能登の輪島温泉滞在で、程ほど高価な費用を払ったのに、と苦い思いでがあり、
ためらったりしていた。

こうした時、通販の旅行会社のクラブツーリズムから送付されてくる小冊誌に於いて、
『ゆく年くる年 日本のてっぺんでお正月3日間』と題した、団体観光ツアーがあった。

大晦日の31日の早朝、羽田空港に集合して、午前10時過ぎに釧路空港に着陸した後、
バスで釧路湿原を通り過ぎ、屈斜路湖、摩周湖の雪の情景を鑑賞した後、紋別に宿泊する。

翌日、2003年(平成15年)の元旦の朝、稚内を目指して、オーホック海沿いの道をバスは長らく北上し、
そして宗谷岬に午後の3時過ぎ到着した後、日本の最北端の駅である稚内駅を観たりし、
高台にある神社に初詣し、市内のホテルに宿泊。

そして翌日の2日、札幌を目指して、日本海を眺めながらバスは南下し、千歳空港から帰京するプランであった。

こうした風変わりな周遊観光コースであり、格安なプランであるので、
二度と企画されないかもしれない、と私は家内に云ったりし、参加したのであった。


大晦日の31日、羽田空港に早朝の集合時間であったので、
タクシーを予約して、暗い早朝の中、自宅から羽田空港までタクシーを利用した。

そして、厳冬の屈斜路湖、摩周湖の雪の情景を鑑賞したが、私たち夫婦は冬の北海道は幾たびか体験し、
それなりの防寒服を着たりしているので、マイナス10度ぐらいは心身順応出来たりしていた。

少し驚いたのは、紋別に宿泊する前、簡素な食事処で蟹(カニ)食べ放題の夕食となり、
私は地酒を呑みながら、それなりに懸命に頂いたが、
やはり蟹は毛蟹を一杯だけ頂き、ゆっくりと熱燗の地酒を呑むのが良い、と感じたりした。

そして、宿泊のホテルの部屋に戻り、
テレビを点(つ)けると、『紅白歌合戦』が映し出されて、
数分過ぎた頃に中島みゆきさんが『地上の星』を唄われた・・。

後年、伝説となった黒部の極寒の坑道の中で、唄いあげたシーンであった。
それぞれのアーティストの方たちが極寒の坑道の薄暗い中、それぞれの楽器を触り演奏され、
メロディーが流れ、やがて坑道から高価なドレスを召した中島みゆきさんが、
少しつづ歩みながら『地上の星』を唄われた・・。

もとより社会状況はリストラ烈風を体験している方たちが多い背景もあり、
私は中島みゆきさんが唄われる容姿が、人生の女神ように方と感じ受け止めたりした・・。
       

私は中島みゆきさんのファンのひとりであったので、この夜の夢は何故かしら、
中島みゆきさんが私の方を見ながら微笑んでいたような情景であった。


このような旅先で、偶然に『NHK紅白歌合戦』を視聴して、中島みゆきさんの『地上の星』の出演された情景、
私は今でも鮮烈に心の片隅に残っている。


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いつの日にか私が亡くなった時、家内が5つの最優先手続きをすることを学びながら・・。

2014-11-26 11:57:57 | ささやかな古稀からの思い
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、一代限りの身の為か、
私は家内には、俺が死んだ時は家族葬で、
花と音楽に包まれて、出来うる限り質素にして貰いたい、
とここ10数年言ったりしている。

そしてお墓は要らず、死者は土に還る、という強い思いがあるので、
樹木葬のある墓地の里山に埋めて頂きたい、と私は独断と偏見である。

その後、四十九日の納骨が終われば、
何らかの雑木の下で永久に安らかに眠る、という考えの持ち主である。

そして残された人は、旅行か何かの機会に時、気が向いたとき、お墓参りをしてくれれば良い。
数年に一回でも良いし、或いはそのままお墓参りなどしなくて、
ご自分の余生を楽しんだ方が良い、と私たちは話し合ったりしてきた。
       

私の生家は長兄が実家として継いで、確か18代目となって、
祖先代々からの位牌などのある仏壇を守り、
お墓は実家から徒歩で20分ばかり小田急線の『狛江』駅から数分歩いた所の寺院の広い墓地の一角にある。

私たち夫婦も、母の命日、春のお彼岸、夏のお盆、秋のお彼岸に、
長兄宅に寄って仏壇にお線香を捧げた後、長兄夫婦、来宅している叔母、親戚の方たちと談笑したりした後、
お墓参りに行ったりしている。

私は農家の三男坊として生を受け、分家のような形で実家の近くに住んでいるが、
実家のお墓の近くに墓地を買い求めるに、たまたま子供に恵まれなかったので、
一代限りとなるので、私たち夫婦が亡くなった後は、長兄の子供たちにご迷惑を配慮し、
躊躇(ためら)ってきた・・。

そして結果としては、樹木葬への思いを深めている・・。
                    

私は漠然としながらも、家内より先にあの世に行くと思っているので、
ときおり私の葬儀、お墓、そして家内の独りの老後で程ほどに生活できそうな状況のことも、
話し合ったりしている。

私は2004年(平成16年)秋に定年退職し、多々の理由で年金生活を始めた直後、
私たち夫婦はふたりで銀行、信託銀行、郵便局などで、個人年金、定期貯金、国債などの通帳を確認したりしてきた。

こうしたことは、どちらかが少しボケた時、或いはどちらかが亡くなった時を配慮して、
お互いに心身明確な時に、確認し合ってきた。

そして私は家内を誘い、公正証書の作成できる処に出向き、
遺(のこ)された家内が老後の生活が困窮しないように、私の遺言書を作成したりした。

しかしながら、こうしたことは天上の神々の采配に寄るものであり、
家内に先立たれることもあり、私が独りぽっちとなることも、一年に数回ぐらいは、
おひとりさまの生活を思いめぐらすこともある。
       

昨夜、私はネットでニュースを読みながら彷徨(さまよ)っている中、
《夫が突然死んだ場合にすぐにでも行うべき5つの重要な手続き》
と見出しを見て、どういうことなょ、と思いながらクリックした。

やがて女性週刊誌ひとつの『女性セブン』2014年11月27日号の記事ひとつで、
『産経デジタル』に於いて、2014年11月27日に配信された記事と解り、
無断であるが転載させて頂く。

《・・夫が突然死んだ場合にすぐにでも行うべき5つの重要な手続き

夫が突然死んだ場合、葬儀のことをまずは考えなくてはいけないが、
葬儀のあとは、法要を進めながら、亡き夫の身の回りの整理をしていくことに。
とりわけ夫が死んだあと、すぐにでも行うべき重要な手続きは、この5点だ。
       

1.世帯主変更届
   住民登録をしている市区町村役場に届け出る。
   14日以内の届け出が義務。本人確認書類・印鑑を持参すること。

2.公共料金などの名義・口座変更
   電気、ガス、水道、電話など各契約会社に提出。
   というのも、夫の口座は死後、凍結され、引き落としができなくなるから。

3.年金・保険金の届け出
   社会保険事務所、または自治体の国民年金課に届け出る。
   手続きをしないと遺族年金が受け取れない。

4.葬祭費の申請
   加入している健康保険の窓口に申請。
   3万~7万円程度給付。2年以内に請求しないと時効になる。

5.クレジットカードなどの解約
   カード会社に解約を申請する。
   そうしないと年・月会費がずっと引き落としになる。

ここで関係する書類が見つからない、契約先がわからないなどのトラブルが生じるケースも多い。
特に、遺族年金や保険の手続きは収入に直結するだけに、見つからない事態は避けたいもの。
       

ファイナンシャルプランナーの豊田眞弓さんは、
こうした手続きに必要な各種書類の所在を、生前に明確にしておくことが重要と話す。

「市販のエンディングノートなどを使い、引き継ぎノートをつくっておきましょう。
控えておくべき内容は、『所有している預貯金口座』
『各口座の自動引き落とし内容、およびその契約先』
『持っているクレジットカード』
『加入している保険』
『年金・健康保険の番号』など。

それぞれ収納場所も明記しておくことも忘れずに」(豊田さん)

各種名義変更などは、問い合わせ先やサポートセンターの一覧を引き継ぎノートにメモしておけば、
手の空いた時間に順にかけていくだけですむ。
ときどき見直し、追加・変更になったものは随時更新を。
       

他にも必要な手続きをあと3つ紹介する。
死亡届は死後7日以内に。
なお、このとき提出する死亡診断書(医師に書いてもらうもの)は、
保険などの請求に必要になることが多いので、1部はコピーをとって手元においておく。

もう一つは、免許証や保険証は該当機関に返却する。
そして治療費や入院費が多額(概ね8万円以上)だった場合は、
加入する健康保険の高額療養費制度を利用すれば、払いすぎた分を取り戻せる。・・》
注)記事の原文に、あえて改行を多くした。
       

私は読み終わった後、知らなかったことも多々あり、
その上、私の『エンディングノート』には、書き洩らしている項目があったなぁ、
と苦笑したり学んだりした。

そして私は本日の午前中のひととき、家内に《5つ手続き》を話題に、
私たちは共有したく、微苦笑しながら話し合ったりした。

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ジャンボ宝くじ、当選したならばと長年妄想し、やがて微苦笑し・・。

2014-11-25 13:42:12 | ささやかな古稀からの思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の70歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭に築後36年の古ぼけた一軒屋に住み、
お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

私より5歳若い家内も、お互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。

こうした中で、昨今、新聞の中の広告記事とか、家内がテレビを視聴していると、
何かしら『年末ジャンボ宝くじ』CMが映し出されている。

そして今年の1等前後賞合わせて7億円と知り、7億円を私が手にしたら人生観が変わるよなぁ、
と何かと単細胞の私は微苦笑したりした・・。
       

私は2004年(平成16年)秋に定年退職をする1年前の頃から、
宝くじの「ジャンボ」が発売される時だけ、確か一等は数億円と知り、
一枚300円の宝くじを10枚だけ、四季折々に発売されるたびに買い求めることが多かった・・。

私は中小業のある民間会社に35年近く奮戦してきたが、
サラリーマンの時代では、生涯の給与、ボーナス、退職金を合算しても税込2億5000万円であった。

そして最後の5年はリストラ烈風の中、あえなく出向となり、何とか年収1千万円台で卒業できたが、
大企業で栄進された方、或いは官公庁の上層部のように高額所得地位にも成れず、
程ほどの年収、退職金であり、金融資産も程ほどとなり、つたない私はもとより対象外となっている。

多くの方たちから人生の3大支出と称される教育資金、住宅資金、老後資金の中で、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、子供の教育資金は不要となり、程ほどの預貯金は出来たりしていた。

こうした中で、経済にも疎(うと)い私が、
信愛している経済ジャーナリストの荻原博子さんなどの数多く著名人の寄稿文を読み、
デフレ経済の蔓延している中、公的年金を受け取りながら堅実に年金生活をし、
預貯金が3000万円あれば、少しづつ取り崩して生活すれば、少しはゆとりのある年金生活ができるかしら、
と学んだりした。

しかしながら定年後に多々理由で年金生活を始めた時、
築後26年の古ぼけた一軒屋を、新たに新築すれば少なく3000万円は資金を要すると思い、
老後の資金に余裕がなくなり、私たち夫婦の趣味の国内旅行費などに制約されると思い、断念した。

そして定年退職時の2年前に、少しリーフォームをして500万円前後で整備した程度となった。
       

このような思いを秘めてきた私は、一枚300円の宝くじを10枚だけ、
四季折々に「ジャンボ」が発売されるたびに、買い求めることが多かった・・。

そしていつの日にか、1億円ぐらい当選すれば、5000万円前後で新築し、
残りの5000万円は、国内旅行の滞在日数を今より増やしたい、と夢想したりしている。

しかしながら夢から覚めた現実としては、定年退職時の半年前に5万円当選し、
半年前に1万円当選したが、これまでは少なくとも年に12000円を買い求め、
10年過ぎた今は概算12万円は投じてきたので、もとより採算は合わないのである。

こうした中でも、今回の『年末ジャンボ宝くじ』も、買い求めなければ当選はしないで、
いつの日にか、と思いながら私は近日中に購入する予定である。

そして見果てぬ夢だよなぁ、と微苦笑する時もある。


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寒い夜のひとときの最良の友は、電気敷き毛布、と微笑みながら享受して・・。

2014-11-24 13:25:26 | ささやかな古稀からの思い

私の住む東京郊外の世田谷区と狛江市に隣接する調布市の片隅の地域は、
平年11月3日の『文化の日』の頃から、あまたの落葉樹の葉は、朱色、紅色、黄色などに多彩に染め始め、
やがて11月23日の『勤労感謝の日』の頃になると、
周囲一帯までは朱色、紅色、黄色などに染められる錦繍(きんしゅう)の情景となる。
              

やがて数多くの葉が舞い散る中で、公孫樹(イチョウ)の黄色い葉が彩(いろど)りを見せてくれる。
                     

そして周囲に公孫樹(イチョウ)のあまたの葉が黄色い絨毯を重なるようになるのが、
12月の『師走(しわす)』の初旬となっている。
            

こうした錦繍(きんしゅう)の情景を私は見惚れながら、
我が家の周辺にある遊歩道、小公園などを散策して、晩秋のこの季節を毎年過ごしてきた・・。
       


こうした中、我が家の寝室は六畳の和室であるが、私たち夫婦を布団が敷いて寝て、
この地に住みはじめて36年が過ぎ、寝室にはテレビはなく冷暖房のエアコンがある。

私たち夫婦は、夏季シーズンは冷房を甘受しているが、暖房は何かと苦手となっている。
家内は11月3日の『文化の日』の頃から、敷布団の上に電気敷き毛布を敷き、シーツを敷いた上、
毛布、羽根布団を掛けて寝るのが恒例となっている。

私は11月23日の『勤労感謝の日』の頃までは、
布団にもぐれば自身の体で暖かくなるので、自助努力だ、と横にいる家内に笑いながら言ったりする時もある。

この間、天上の気候の神々の采配で、秋日和に恵まれることが多かったりしてきたが、
ときには戯(たむ)れか、12月上旬のような寒い時があったりした。

そして私は止む得ず家内が布団を敷く夕方に、
『XXちゃん・・俺も今晩から・・電気毛布を敷いてねぇ・・』
と私は家内に言ったりしたのであった。
       

我が家は居間に冷暖房のエアコンがあるが、暖房はガスファンヒーターを頼りにしている。
そして寒さを感じる昨今は、家に居る時は何かと居間で過ごすことが多くなっている。

こうした中で、私は本を読んだり、音楽を聴いたり、テレビでニュース、ドキュメンタリー番組を視聴したり、
ネットでニュースを見たり、或いはブログ投稿文を綴ったり、
愛読している数多く方の投稿文を読んだりして、人生の微笑みを感じたりしている。

やがて夜の11時過ぎの頃に、2階の寝室に階段を上がっていくのが日常の大半である。

この時間帯になれば、家内は早寝早起きタイプで寝付いているが、
私は自分の布団にもぐりと、数時間前に家内がセットしてくれた電気敷き毛布で暖かいのである。

寒い時節になると家内は、暖かさが何よりのご馳走です、とときおり私に言ったりしてきたが、
確かにポカポカした布団の中にいると、この世の最上の恵(めぐみ)である、と実感させられ、
特に齢ばかり重ねたここ10年は深めている・・。
       

そして電気敷き毛布のスイッチは切り、ぬくもりの中で、私は寝付くのである。
過ぎし年にスイッチは切るのを忘れて、余りにも暖かさの中で目覚めて、風邪気味になった、
苦い体験をしたので、何事も程ほどに、と苦笑したりしてきた。
       

私は幼年期は農家の児として育ったのであるが、小学校に入学して1951年(昭和26年)の当時は、
母が陶磁の湯たんぽに熱湯を入れて、古着の布切れを巻いて、
私の寝る布団の中に入れてくれたりした。

この当時の農家は、炭を熾(おこ)した火鉢(ひばち)を数箇所の部屋に置き、
台所の付近にある食事処は、囲炉裏のある板の間であったので、それぞれ座布団を敷いて、
それぞれのお膳を前に頂いたりした。

確かに火の近くは暖かかったのであるが、全般としては寒い部屋であった。

こうして幼年期の生活をしたので、
寝室の部屋全体が暖かいのは、今でも馴染まないのである。

家内と寝食を共にした新婚当時、家内は最初は戸惑っていたが、
主(あるじ)の私の影響か、すぐに順応したりした。
もっとも私は若かったので、隣に休んでいる家内の布団にもぐりこんだりしていたこともあったが・・。


こうして我が家は、寒い時節は布団は暖かく、部屋は少し寒い程度となっている。
そして、私たち夫婦は国内旅行が共通の趣味なので、
ときおり観光ホテルに宿泊した時、和室の場合などは戸惑うのである。

部屋全体が暖かく、空気は乾気されている上で、布団は常温なのである。
私は家内に、風邪が退(ひ)きやすい部屋だなぁ、と言ったりしている。

しかしながら冬の季節に山間部、北の方面にお住まいの方たちは、
もとより部屋は暖かくして過ごされることは、住民として当然である。

このように私は、寒い夜のひとときの最良の友は、電気敷き毛布、と微笑みながら、
昨今も享受している。

そして私は電気敷き毛布を愛用を始めたのは、確か独身時代の1970年(昭和45年)の頃からだった、
と思い浮かべたりしている。
       

私は10年前から多々の理由で年金生活を始めて、この寒い季節になると、
月に数回は、寝不足と感じた時、昼下がりに布団を敷いて、
電気敷き毛布にスイッチを入れて、15分過ぎた頃に、本を持ち込んで布団にもぐってしまうこともある。

そしてポカポカになった布団の中、好きな本を読み始めて、5分過ぎた頃に電気敷き毛布にスイッチを切り、
ぬくもりの中、本を読みながら、やがて寝付いてしまうことがある。

そして現役サラリーマン時代の時は、何かと睡眠不足で奮闘してきた私は、
いつでも昼寝ができることは年金生活の特権である、
と心の中で呟(つぶや)きながら、享受する時もある。

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ふたたび我が家は、ふたりで一人前の家庭体制となり、私は微苦笑を重ねて・・。

2014-11-23 10:09:37 | ささやかな古稀からの思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の70歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭に築後36年の古ぼけた一軒屋に住み、
お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

私より5歳若い家内も、お互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。

平素の殆どは、日常の買物専任者の私は、家内から依頼された買物を終えた後、
その後も独りで自宅の周辺3キロ範囲にある遊歩道、小公園、都立の公園、
或いは小学時代の通学路などを歩き廻り、
季節のうつろいを享受している。
       

私たち夫婦のお互いの両親は、無念ながら家内の母だけとなり、
私より14歳ばかり齢上の高齢者である家内の母は、
私が民間会社のサラリーマンの定年退職した2004年〈平成16年〉の秋の直前に主人に死去され、
築後36年の独り住まいの生活をされて、10年が過ぎている・・。

そして家内の母は、我が家から電車・バスなどを乗り継いて2時間ばかりの千葉県の八千代市で、
築後40数年を越えた一戸建てに住んでいる。


こうした中で、家内は実家に過ぎし13日より昨日の22日まで9泊10日間で行って、
昨夕の5時過ぎに帰宅した。

独り住まいの家内の母は、身の廻りのことが出来ても、
大掃除、季節ごとの室内のカーテン、暖冷房器具、衣服、庭の手入れをなどは、おぼつかなくなり、
長女の家内は季節の変わるたびに、程ほど長期に滞在し、孤軍奮闘を重ねている。

この間、家内は家内の母の宅で奮戦し、私は『おひとりさま』の独りぼっちの生活となり、
万一、私を残して家内に先立たれた場合、『おひとりさま』となってしまうので、
特別演習かしらと思いながら過ごしてきた。

そして何かと愚図な私は、気まぐれに食事、掃除、洗濯をしてきたが、
手抜きと称される簡略に何事も済ませてしまうので、家内のいる平素の日常生活から落第生だ、と苦笑したりしてきた。
                 

私は民間会社の中小業に35年近く奮戦して2004年〈平成16年〉の秋に定年退職した後、
私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多い中で、敗残者のような果てだったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたく、
その直後から年金生活をし、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

私が年金生活を始めて最初に配慮したことは、
家内の従来の専業主婦の日常のペース、ささやかな憩(いこ)いひとときなどの過ごし時を配慮して、
私は独りで外出して、自宅の周辺にある遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受し、
本屋、古本屋に寄ったりしている。
          

もとより家内は少なくても料理、洗濯、掃除などがあり、
私は現役のサラリーマン時代から、小庭の手入れをするぐらいであったので、
せめて退職後は日常の買物ぐらいと思い立ち、私は自主的に買物の専任者となっている。

それでも小心者の私は、引け目を感じて、家内の茶坊主に専念し、
家内がコーヒーが飲みたい雰囲気を察して、私は日に5回前後は淹れたりしている。

私は過ぎしの9月の誕生日を迎え、古希と称される70歳に進級して、
家内は12月下旬に65歳の高齢者入門の身となるので、
世の中から区分される高齢夫婦無職世帯となるが、ささやかながら第二の人生を享受している。

そして私は定年後から年金生活をしてきたが、何かしら現役サラリーマン時代の緊張感が無くなり、
時折ぼんやりとしながら、確か65歳の高齢者になった頃から、体力の衰えを実感している。
                           

我が家は無念ながら金庫がなく、新築した36年前より、最寄りの銀行の貸金庫を利用している。
こうした時、私たち夫婦は重要な不動産に関する書類、定期貯金通帳などをあずけているので、
私たちは出し入れをする時は、間違いないようにも、必ずふたりで確認してきた。

やがて年金生活を始めてからは、どちらかがボケたり、死去することも恐れ、
銀行、郵便局で100万円の出し入れをする時は、お互いに確認したりしてきた。

或いは人通りの少ない道に家内が出かけたり、ときおり家内の要望で駅前に買物をしたり、
年に4回ぐらいは都心の新宿のあるデパートに買い物をする時は、
体力の衰えた高齢者の私でも、一家の主(あるじ)の責務と確信を深めて、
家内のボディーガード兼お供、そして荷物持ちで、共に出かけたりしてきた。
          

ときおり小庭の手入れに関しては、私の責務の範疇となっているが、
蚊の出る5月下旬頃から10月頃を除き、体力の衰えた私を見かねて、家内の支援を受けている。

こうした理由の根底には、私が定年後まもなくして、
ご近所より少し広い我が家は、植木屋さんに年に数回依頼すれば、数10万円と教えられたので、、
家内は3泊4日ぐらいの私たちの旅行が2回ぐらいできるわ、と私に言い、強力な支援の根源となっている。
                  

初夏の陽射しが射す頃には、我が家は家内の指揮のもとで、 簾〈すだれ〉を各部屋に掛けているのが、
ここ10数年の習〈なら〉わしとなっている。

洋間であったら、雨戸、網戸、ガラス戸があるが、この季節はカーテンを外して簾〈すだれ〉とし、
和室も同様に、雨戸、網戸、障子となっているが、簾〈すだれ〉を掛けたりしている。

そして居間を中心に、和室、洋室、茶室、玄関、洗面所、トイレの窓際まで、
簾〈すだれ〉を付けている。
          
こうした時は、納戸に保管している簾〈すだれ〉を家内の陣頭指揮のもとで、
何かとノロマな私でも、頼りない助手となって、取り付けたりしている。
          
このように私たち夫婦は、ふたりで一人前だょねぇ、とお互いに微苦笑してきた。
                           
        

私は家内のことを、婚約する前の頃から、『XXちゃん・・』と呼んでいるが
家内は日頃の多くは、私のことを『あなた・・』と呼ぶことが多いが、
ときには、たわむれで、『XXクン・・』と苗字で呼ぶこともある。

しかしながら年金生活を始めてまもない頃、私が買物の購入品などで間違えたりすると、
『ボケチィンねぇ』と家内は笑いながら、私に言ったりした。

この日以降、私が何かで日常生活で失敗した時、
『ボケチィンねぇ・・』とか、ある時は『ダメオ(駄目夫)クンねぇ・・』
と家内は微苦笑しながら、私に言ったりしている。
                    
              
我が家は築後36年の古びた一戸建てであるが、
この間、何か火災、戸締りの不備などで、最悪の場合、もう一度新たに新築するようなことがあったならば、
老後の貯金は大幅に減少し、もとより残された老後の生活も変更が余儀なくされるので、
何かと小心者の私は、もとより困苦する・・。

こうした根底からして、平素の戸締りなどは主(あるじ)の責務として私は、
毎夜9時前後には、玄関、台所、お風呂場などを点検する時、
『ハイ、OKです!』
と指差し確認し、若き自衛隊の諸兄に負けないように、元気な声で言ったりしている。

こうした時の多くは、この後、居間でテレビを視聴しているか、雑誌を読んでいる家内に、
『戸締り・・終了致しました!』
と私は家内に報告したりしている。
こうした後に大半は
『ご苦労であった!』
と家内は私に言うのである。

私の現役サラリーマンの長き時代に於いては、孤軍奮闘して帰宅後に、
ご苦労さまでした、と家内は優しく労(ねぎら)いの言葉をしていたが、
ここ6年前の頃から、 どうしてなのょ、と私は不思議に思ったりした。

そして思い当るとすれば、家内は以前にNHKの連続ドラマの『篤姫』を視聴した頃からで、
お姫さま、或いは奥方に影響されたのか、
このような言葉を私にするようになっていることが多い。
                                             

昨日、家内が帰宅する日だったので、私は午前の10時より各部屋の掃除、台所の皿洗いなどをして洗い清めたりした。
やはり勝手気ままに『おひとりさま』を過ごしてきた私でも、あまりにも平素より汚れていると気になったのである。

もとより家内は家内の母の宅で孤軍奮戦し、私はのんびりと過ごしてきたので、
疲れ切った家内に、余りにも態度傲慢と思いながら、掃除機を持ちながら、各部屋を掃除をしたが、
やはり平素の家内がするようには及ばず、まぁいいとしょう、と微苦笑したりした。

やがて昼過ぎに家内から電話連絡があり、途中の都心のデパートの食品売り場に寄るが、と私は聴き、
『夕食の代わりに、チキンのスパイシーと和風仕立てに焼いたのを・・』
と私は要望した。

そして家内は夕方の5時に帰宅後、私は雨戸を閉めたりしたり、
お風呂のガスを点(つ)けたり、沸かす準備をしたりした。

やがて私はお風呂に入った後、家内にお風呂に入っている間、
私は居間でテレビのニュースを視聴しながら、
話し相手のいない独りぽっちの生活は、確かに寂しいかったょ、と心の中で呟(つぶや)いたりした。

この後、夕食の代わりに家内が買い求めてきたチキンの5品、
そしてキャベツ、ニンジンの千切りをお互いにビールを呑みながら頂いたりした。
『こうした情景は、クリスマス・イブの先取りだよねぇ・・』
と私は言ったりして、家内を笑わせたりした。
       

やがて私たちは一時間ばかり談笑してた後、家内は寝室に向かい、
私は独りで我が家を保守してきた疲れを感じて、早めに寝ようと8時半過ぎに布団にもぐりこんだ。

そして目覚めると真夜中の1時過ぎて、やがて居間に降り立ち、
昨日の夕刊を読んだりした後、ネットでニュースを読んだりしたり、
私が愛読している方の投稿文を読ませて頂いたりした。

やがて家内は5時過ぎに起きてきて、
『ふだんより、早いじゃありません』
と言ったりした。
『早く寝てしまったから・・早寝、早起き元気な児だょ・・』
と私は応(おう)じたりした。

そして家内は洗濯物を洗濯機にセットしたりした。
その後、私は家内にコーヒーを手渡したりした。

こうした私たち夫婦は、平素の日常生活に戻り、我が家はふたりで一人前の家庭だ、
と私は思いながら、煎茶を飲んだりした。

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小雪(しょうせつ)の時節を迎え、雪恋しと心の中で呟きながら、冬の旅路を思い馳せ・・。

2014-11-22 13:24:46 | ささやかな古稀からの思い
今朝、ぼんやりとカレンダーを見ると、小雪(しょうせつ)、と明記されていたので、
微苦笑したりした。

もとより旧暦で、冬とは言えまだ雪はさほど多くなく、
冬将軍が到来すると言われる時期で、北の地方ではコタツを押し入れから出す家が増える頃、
と伝えられてきた・・。

私の住む東京郊外の世田谷区と狛江市に隣接する調布市の片隅の地域は、
平年11月3日の『文化の日』の頃から、あまたの落葉樹の葉は、朱色、紅色、黄色などに多彩に染め始め、
やがて11月23日の『勤労感謝の日』の頃になると、
周囲一帯までは朱色、紅色、黄色などに染められる錦繍(きんしゅう)の情景となる。
              

やがて数多くの葉が舞い散る中で、公孫樹(イチョウ)の黄色い葉が彩(いろど)りを見せてくれる。
              

そして周囲に公孫樹(イチョウ)のあまたの葉が黄色い絨毯を重なるようになるのが、
12月の『師走(しわす)』の初旬となっている。
            

こうした錦繍(きんしゅう)の情景を私は見惚れながら、
我が家の周辺にある遊歩道、小公園などを散策して、晩秋のこの季節を毎年過ごしてきた・・。

こうした中で、ここ数週間、北海道、東北の各地で雪が降りました、とテレビのニュースを視聴したりすると、
なぜかしら私は心の片隅みで、雪恋し、と心の中で呟(つぶや)くこともある。


私は1944年〈昭和19年〉に、今住んでいる近くに生家があり、農家の三男坊として生を受けた。

そして私が地元の小学校に入学した1951年(昭和26年)4月の頃は、
祖父、父が中心となって、小作人だった人たちの手助けを借りて、
程ほど広い田畑、そして小さな川が田んぼの片隅に流れ、湧き水もあり、竹林、雑木林が母屋の周辺にあった。

そして母屋の宅地のはずれに蔵、物置小屋と称した納戸小屋が二つばかりあり、
この地域の旧家は、このような情景が、多かった・・。

この当時は、徒歩15分ぐらいの京王線の最寄駅まで、
殆ど田畑が広がり、雑木林、竹林なども観られた田園風景であった。

私の幼年期は、毎年、冬の時節になると、雪が30センチ前後が数回降った。

そして1951年〈昭和26年〉4月に私は地元の小学校に入学したが、
初めての冬を迎え、ときおり雪が降り、登校した時が想いだされる・・。

私はゴムの長靴の中に、母か叔母の手助けで藁(わら)を敷き、赤くなった唐辛子を少し入れ、
この当時は今のような傘は普及していなく、番傘を差して、家を出た。

やがて家、周辺は雪が降り積もり、空からは雪が絶えず舞い降り、
長靴は雪の中で埋もれてしまったので、30センチは越えていた、と思われる。

そして駅の最寄の小学校までの通いなれた通学路は、この時は無視し、
祖父、父の知人の畑も雪に埋もれていたので、この中を吹雪いていたが一直線で登校したりした。

小学校は木造の二階建てであり、教室の片隅に木造の正方形の1間幅の暖炉があった。
コークスはむろん、石炭も使用される前の時代であったので、
暖炉の中核には簡易に造ったブリキの中で、薪(まき)が燃やされていたりした。

私たち学童は、衣服に雪がまといついたのを払いながら、
雪深く、吹雪いた中をよく無事に学校に着いたと、子供心にお互いに健闘し合ったりした。

そして私たちは、学級のクラスの中で10数人欠席したので、
あいつ、こんな雪で休むなんて・・と悪口を言い合っていたりした。

下校のひととき、番傘でチャンバラの真似事をし、
番傘の数箇所が破れ、帰宅後に母に怒られたりした。

このように毎年、冬の時節は、少なくとも数回は降り積もった。


その後、1955年〈昭和30年〉の頃から、都会の人たち達が周辺に家を建てられ、
私が小学校を卒業した1957年〈昭和32年〉3月であったが、
この頃になるまでベットタウンの住宅街に大きく変貌した。

1964年〈昭和39年〉に東京オリンピックが開催された時代になると、
数年に一回程度、15センチぐらいが降るが、
この間は殆ど数センチ前後の小雪となっている。

こうした幼年期に体験した私は、心の奥底に雪恋しとなり、
私が40歳を過ぎた頃から、家内と共に毎年、冬の季節になると北の地域に旅行し、
遊学しながら雪の情景を享受してきている。

このように私たち夫婦は、国内旅行が共通の趣味のひとつであるが、
なぜかしら東京郊外の田舎者の私は、冬の時節になると北に旅をしてしまうことが多いのである。


たまたま昨年の12月中旬になると、旭川市の郊外にある天人峡温泉に3泊4日で訪れ、
スノーパウダーと称されている粉雪(こなゆき)舞い降る情景に心を満たされたりした。
       

              

そして本年の1月に、函館市の郊外にある湯の川温泉の観光ホテルに、
1月中旬に4泊5日で滞在して、函館市の市内、郊外を歩き廻り、遊学してきた。
        

              

この後、2月初旬に札幌市の郊外にある定山渓温泉の観光ホテルに13泊14日滞在し、
定山渓温泉地の周辺、札幌市内の郊外、そして市内の中心街を歩き廻ったりした。
          

          

このように私たち夫婦は、雪舞い降る山里の路、街の中を歩くことは20余年を体験してきた。
          
こうした時に愛用してきた軽登山靴はマイナス15度ぐらいの耐久のマインドルの靴で、
家内はマイナス30度に耐えられるアクの軽登山靴で、
お互いに滑り止めとして簡素なゴム製の金属製スバイク付いた品を装填して歩くことが多くなっている。

そして私は肌着の上に冬のスポーツ・シャツ、ジャケット風の襟(えり)のあるフリース、そして防寒コートとすれば、
マフラーはフリースの襟が首回りまであるので不要となっている。

そして帽子は、私は山岳用を愛用し、家内のはロシア婦人が被(かぶ)っている形を気にいっている。
このような容姿で私たち夫婦は、厳冬の中の雑木林の道、山里、そして街中を歩き廻ったりしてきた。
          


この滞在中、東京は40数年ぶりの大雪が降った、とテレビのニュースで視聴したりした。
どうして何10年ぶりの大雪なのょ、と気まぐれな気候の神々の采配に戸惑ったりした。

そして旅路を終えて深夜に帰宅した私たち夫婦は、
門扉から玄関先、そして庭の大半は残雪があり、せめて門扉から玄関まで雪かきをした。

何かと雪舞い降る情景に魅せられて、私たちは北国の旅路をしてきたが、
家に帰ってきて早々、深夜に雪かきかょ、と私は家内に微苦笑しながら言ったりした。
             
           

このようなささやかな冬の旅をしてきたので、今年の12月は家内が多忙となるので、
せめて2月には、オーホック海の流氷、サロマ湖の周辺を遊学しょうと旅行代理店に予約しているが、
1月は旅行の予定は空白だから、どちらかな訪れようか、と思案している。

尚、豪雪地域にお住いの人は、日常の生活に於いては多事苦難は少し解っているつもりであり、
江戸後期の商人、随筆家として、鈴木牧之が遺(のこ)された『北越雪譜』、
磯部定治・著の『鈴木牧之の生涯』(野島出版)を読んだりしてきたが、
あくまで旅人として、みゆき舞い降る圧倒的な情景、積雪の山里、街並みに魅了されているひとりの
思いからである。


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にほんブログ村が建国された2004年11月21日、この当時の私の心境を思い馳せれば・・。

2014-11-21 15:09:33 | ささやかな古稀からの思い
いつものように午前中のひととき、平素の買物専任者の私は、独りで最寄りのスーパーで買い求めた後、
自宅の遊歩道を散策して、しばらくした後、ネットを立てあげたりした。

やがてブログランキングとして名高い『にほんブログ村』に加入している私は、
《・・本日11月21日、にほんブログ村は建国 10周年を迎えました・・》
と管理サイドの明記されたのを読んだりした。

そして10周年ということは、平成16年(2004)年11月21日だったと解り、
この当時の私は、どのような心情で過ごしていたのかしら、と思い浮かべたりした・・。
       
          
私は民間会社の中小業の多い音楽業界のあるレコード会社に35年近く奮戦し、
2004年(平成16年)の秋に定年退職した。

こうした中で、最後の5年半はリストラ烈風の中、出向となり、
もとより出向身分は、会社に直接に貢献できる訳もなく、まぎれなく戦力外なので、
私は本社に30年近く勤め放り出され、屈辱と無念さが入り混じ、
私でも失墜感もあり都落ちの無念さを感じたりした。

遠い勤務地に通勤し、やかて半年後から何とか馴染み、自分の敵は自分だ、
と自身を叱咤激励しながら奮戦している中、出向先の物流会社も大幅なリストラが実施されたりした。

或いは私が30年近く勤めてきた出向元のレコード会社でも、リストラ烈風が加速され、
私の同僚、後輩の一部が定年前の退社の連絡、或いは葉書で挨拶状を頂いたりし、
私は出向先で2004年〈平成16年〉の秋に定年退職を迎えたのである。
       

そして、私は出向身分であったので、何とか烈風から免れたのも事実であり、
定年前の退社された同僚、後輩に少し後ろめたく、退職後の年金生活に入った理由のひとつとなった。
       

このように私は敗残者のようなサラリーマン時代であり、もとより一流大学を卒業され、大企業、中央官庁などに
38年前後を邁進し栄達されたエリートとは、遥かに遠い存在である。
         

更に私は定年退職するまで人生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれながら、つたない言動も多く、
悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思ったりしてきた・・。
                 

そして私たち夫婦は子供に恵まれずたった2人だけの家庭の為か、
定年退職後の60歳以降は、私は働くことを卒業し、ささやかに年金生活を始めた。

そして厚生年金、わずかな企業年金を基盤に、程ほど貯金を取り崩しながら、
お互いのささやかな趣味を互いに干渉することなく過ごして、
共通の趣味のひとつの国内旅行を四季折々できればよい、と願いながら年金生活を開始した。
       

この間、家内の父は10月初旬に死去し、仮通夜、通夜、本葬、告別式、初七日と日々を過ごした後、
私の定年退職時10月20日を迎え、私たち夫婦は退職後の書類、退職金などで銀行関係を廻ったりした。

そして私は関係先、知人に退職の挨拶した御礼の葉書を郵送したりし、慌ただしい日々を過ごしたりした。

こうした中、定年退職後の失業保険に関して、当初は申請して、5ヶ月分の失業手当を頂こうとした。
しかし、私は長年に及び管理畑の身であったので、これといって特別な技術もなく、
たまたま家内の父が死去された後の失墜感も加わったりした。

そして、この数年前の頃は大企業もリストラ烈風で失業された人達も多く、
私は勤める意志なく、求職される方たちの真摯な様子をホームページ、新聞、テレビのニュースなどで知ったので、
失礼と思い、失業保険の申請書を破棄したりした。

こうした心情の中、定年退職記念旅行は延期、失業保険は断念した予定外のことであったが、
人生は予定通り進まないことも多くあるので、私なりに後悔はしなかった。
       
       

年金生活を始めた当初、平素の買物は自主的に専任者と家内に宣誓したりした。
そして戸惑いながら買物の責務を終えた後、独りで近所の遊歩道、小公園などを散策したりすると、
こんなに自由に散歩できるなんて、許されても良いのかしら、
と定年直前までの多忙期を思い重ねたりし、戸惑いながら甘受したりした。

何よりも朝の陽射し、昼下りのひととき、そして夕暮れ時に、
ゆっくりと時を過ごし、苦楽の激しかった現役時代を思いながら、微苦笑を重ねたりした。
       

或いは私としては、家内より先にあの世に行くと思っているので、
私の葬儀、お墓、そして家内の独りの老後で程ほどに生活できそうな状況のことも、
話し合ったりしている。

こうした思いのある私は、定年直後に公正証書の作成できる処に出向き、
残された家内の生活が困苦しないように、私の遺言書を作成したりした。

そして自宅を処分して、2DKのマンションを購入して、残された人生を過ごされれば、
と私は家内に言ったりしている。
   

しかしながら、こうしたことは天上の神々の采配に寄るものであり、
家内に先立たれることもあり、私が独りぽっちとなることも、一年に数回ぐらいは、
おひとりさまの生活を思いめぐらすこともある。
       
             
そして、定年退職後は、『ホームページ』を立ち上げて、
自身の日々の思い、そして過ぎ去った時代の思いのことなどを出来うる限り随筆風の散文を綴り、
公開しょうと思案したりしていた。

しかしながらホームページの開設までの技量に乏しく、無名の私が開設・運営した所で果たして、
と躊躇していた時に、
偶然に本屋の店頭で一冊の本にめぐり逢え、私は初めて『ブログ』の世界を知った・・。
           

そして私はブログの多くは匿名制度であり、ある程度の良識を根底に於けば、
自在に私の生活のことから、政治、社会などに専門知識がない私でも、私なりの思いを発露でき、
何よりホームページより手軽に開設、運営できると感じ、ブログに加入しょうと決意した。

そして私は、2004年(平成16年)11月12日に【アメーバ・ブログ】に加入したり、
まもなく幾つかのブログサイトに彷徨い、この【gooブログ】に定着して、今日に至っている。
       

この間、私は2008年〈平成20年〉の頃に『にほんブログ村』に漠然と加入し、
何かしら他のブログのランキングに魅了され放置していた・・。

やがて『にほんブログ村』に於いては、投稿文ごとの具体的なランキングに気付かされて、
私の投稿文毎にどのくらい読んで頂いたか、と目安ができるので、ふたたび本加入させて頂いたのは、
2010年〈平成22年)9月28日であった。

そしてシニア世代の数多くのお方の投稿文を読ませて頂き、
こうした思い、お考えで日常を過ごされているのか、と深く感じながら、
確かな生きた人生の教科書と教示されたりしている。

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70代は60代に継続して、我が人生は最良の時かしら、と微笑みながら・・。

2014-11-20 15:56:46 | ささやかな古稀からの思い
私は民間会社のある会社に35年近く奮戦し2004年(平成16年)の秋に定年退職し、
最後の5年半はリストラ烈風の中、出向となったりし、敗残者のようなサラリーマン時代を過ごした。

その上、私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思い、年金生活を始めた・・。
      

この間、私たち夫婦は自分たちの老後の生活の改めて話し合ったのは、
1999年(平成11年)の新春の当時で、私が54歳あった。
       
        ☆ 今回、掲載した写真のすべては、昨日の私の散策の時に撮った ☆

私が勤めてきた中小業の多い音楽業界の各レコード会社は、
1998年(平成10年)に売上の主軸となるCDがピークとなり、
この少し前の年から各社はリストラ烈風となり、業務の大幅な見直し、会社間の統廃合もあり、人員削減も行われ始めた。

私の勤めた会社も同様に、早期退職優遇制度の下で、上司、同僚、後輩の一部が業界から去ったりし、
人事異動も盛んに行われたりし、 私も50代のなかば1999年(平成11年)の新春、
取引先の物流会社に出向を命じられた。

こうした時に、私が定年退職を出来た後、どのような生活をしたいか、そして生活資金などを話し合った。

具体的には、私たち夫婦の第二の人生は、どのように過ごしたいのか、主題であった。
                               
やがて結論としては、定年退職後の60歳以降は、
私は働くことを卒業し、お互いのささやかな趣味を互いに干渉することなく、
共通の趣味のひとつの国内旅行を四季折々できればよいなぁ、と漠然に念願したりした。
       

こうしたことを実現するためには、我が家の貯金の確認、定年退職までの年収、退職金など、そして年金の推定額も算出し、
収支概算表を年別に作表し、この当時の夫婦平均寿命までの年を総括表にしたりした。

そして、毎年の月別は、家計簿の応用で収入の項目、支出の保険、税金等を含め、予定表も作成したりした。

この時の私は、幸いに住宅ローンを終えていたが、私は1944年(昭和19年)9月生まれであるので、
年金の満額の支給は62歳であり、それまでの2年間は満額のほぼ半分となるので、このことも配慮した。

そして年金が満額となった62歳からの生活の収支は、
私たち夫婦の共通趣味である国内旅行費、そして冠婚葬祭など諸経費は例外として、
原則として生活費は年金を頂く範囲として、収支の概要を作成したりした。
              
                                        
こうした中、不慣れな遠い勤務先の出向会社に私が奮戦している時、
出向先の物流会社も大幅なリストラが実施されたり、
私が30年近く勤めてきた出向元のレコード会社会社でも、リストラ烈風が加速した。

そして私の同僚、後輩の一部が定年前の退社の連絡、或いは葉書で挨拶状を頂いたりし、
私は出向先で2004年〈平成16年〉の秋に定年退職を迎えたのである。

私は出向身分であったので、何とか烈風から免れたのも事実であり、
定年前の退社された同僚、後輩に少し後ろめたく、退職後の年金生活に入った理由のひとつとなった。

こうした中で、経済にも疎(うと)い私が、
信愛している経済ジャーナリストの荻原博子さんなどの数多く著名人の寄稿文を読み、
デフレ経済の蔓延している中、公的年金を受け取りながら堅実に年金生活をし、
預貯金が3000万円あれば、少しづつ取り崩して生活すれば、少しはゆとりのある年金生活ができるかしら、
と学んだりした。

私たち夫婦は子供に恵まれず、たった二人だけの家庭であり、
人生の3大支出と称される教育資金、住宅資金、老後資金の中で、子供の教育資金は不要だったこともあり、
程ほどの預貯金は出来たりしていた。

     
しかしながら私はつたないサラリーマン時代の軌跡であったので、
もとより一流大学を卒業され、大企業、中央官庁などに38年前後を邁進し、
栄達されたエリートの年収、そして退職金などは、遥かに及ぶことなく、遠い存在である。
       

我が家は東京の郊外の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に地域にあり、
住宅地の家並みが密集した外れにあり、雑木の多い小庭に築後36年が過ぎた古ぼけた一軒屋に住み、
私としては結婚した5年前後を除き、私の生家も近いので、この地域に65年ばかり住んでいる。

2004年〈平成16年〉の秋に定年退職後、年金生活の我が家の基本は、
厚生年金、わずかな企業年金を頂き、通常の生活費するのが原則としている。

しかし共通の趣味のひとつである国内旅行、或いは冠婚葬祭などの思いがけない出費などに関し、
程々の貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。


私は定年退職後、年金生活を始めた当初から自主的に平素の買物担当となり、
毎日のように独りでスーパー、専門店に行ったりし、ときおり本屋に寄ったりして、数冊を買い求めたりしている。

その後も独りで自宅から3キロ範囲の遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受している。
     
定年前の私は、現役時代のサラリーマンの時は数多くの人たちと同様に多忙で奮戦し、、
家内は我が家の専守防衛長官のような専業主婦であり、日常の洗濯、買い物、料理、掃除などで奮闘してきた。

そして家内なりの日常ペースがあり、この合間に趣味などのささやかな時間で過ごしてきたので、
定年後の年金生活を始めた私としては、このペースを崩したくなくなったのである。

そして少なくとも家内は料理、掃除、洗濯などをしてくれるので、
家内が煎茶、コーヒーを飲みたい時を、私は素早く察知して、日に6回ぐらい茶坊主の真似事もしている。

こうした中で、ときおり小庭の手入れをしたり、友人と居酒屋など逢ったり、
家内との共通趣味の国内旅行は、四季折々日本の各地を幾たびか遊学してきた。
                  
      
私の日常の大半は、随筆、ノンフィクション、現代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

このような年金生活を過ごしているが、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。

そして日常生活で、昼下がりのひととき眠くなったら、
いつでも昼寝ができることは、年金生活の特権かしら、と享受する時もある。


世の中の数多く60代の諸兄諸姉は、人生の苦楽を重ねた後、
何かと安堵しながら、身も心も溌剌と過ごせる人生の黄金時代と称せられるゴールデン・イヤーズ、
と知人、友人、知人からの便りを受けたりしてきた・・。

私たち夫婦は経済的に贅沢な生活は出来ないが、
働らなくても何とか生活ができるので助かるわ、
と家内がときおり、 呟(つぶや)くように私に言ったりするので、私は苦笑したりしているのが、
我が家の実態である。

そして私は定年後の年金生活を10年ばかり過ごしてきたが、
私たち夫婦は幸いにも、お互いに大病で入院することもなく、
歯がお互いに老化して、歯科医院で幾たびか治療を受けてきたぐらいであった。

このように私の長き人生に於いては、60代の期間が何より安楽な時代、と思い重ねたりして享受してきた・・。
       

こうした中で、第二の人生と称せられる年金生活を過ごしてきた中、
やはり『健康』、『生きがい』、そして程ほどの『お金』かしら、と感じ深めている。

『健康』に関しては、もとより健康でなければ、それぞれの人の日頃のささやかな願いも叶わない。

私は現役サラリーマンの時代の時、50歳の頃に会社の懇親会で、
定年退職されたOBの65歳のひとりと談笑した時に、
年金生活になると、病院にお金を運ぶか、趣味でお金を使えるか、と教示され、
天と地の開きがありますね、と私は応(こた)えたりした。

そして大病は、ご自身の自助努力と幸運がなければ避けられない、と漠然と思ったりした。
       

過ぎし9月に私は古希と称される70歳となり、安楽な60代を卒業した。

そして何よりも私が緊張したのは、心身ともに自立し健康的に生活できる期間の健康寿命は、
男性の平均としては71歳であり、
平均寿命は男性の場合は80歳と改めて知り、うろたえたりした・・。

こうした根底には、世の中の多くの人たちは70代となれば、
体力の衰えを実感して、75歳まではこれまでどおりの自立した生活ができるが、
80歳が見えてくる頃には介護を必要とするようになり、
やがて80代後半では何らかの介護付き施設に入居する可能性が高くなる、
と専門家の人から数多く発言されているのを学んだりした。

しかしながら私の先輩、ご近所の80歳前後のお逢いできる男性5人は、
溌剌と生活されているので、私は秘かにお手本のように、積極的に談笑する時が多い。

そして私は、何よりも健康でなければ、ささやかな願いも叶わないので、健康寿命が肝要だ、
と深めたりしてきた。

このような思いで、私は60代に引き続いて、
何よりも日々歩くことが肝要と思いながら、認知症は勘弁してょ、と心の中で呟(つぶや)きながら、
ひたすら歩いたりすることが多い。

そしていつまで健康寿命が保てるか、やがて命果てる日は、
自助努力は大切であるが、こればかり天上の神々の采配に寄ることである。
       

私の昨今の心情として、60代のささやかな成功体験を秘めながら、
確かに60代の初めより体力の衰えを実感しているが、
70代も『生きがい』を持ち続け、しなやかに生活を過ごせば、
60代と同じような安楽な生活が過ごせる、と漠然と思いながら微笑んだりする時もある。


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喪中のお便りが郵送される昨今、人生の悲哀を深め、やがていつの日にか・・。

2014-11-19 14:35:09 | ささやかな古稀からの思い
私は東京郊外の調布市の片隅に住む年金生活の身であるが、
過ぎし9月下旬に古希と称される70歳を迎え、70代を歩き始めているひとりである。

過ぎし一週間の前の頃から、私が会社に勤めていた知人などから、喪中のお便りが郵送されている。

こうした中で、たとえば母XXXがXX月XX日に94歳で永眠いたしました・・
と読ませて頂くと、ご長命でこの人生をお過ごしされた、と私は感じたりする。

或いは、義弟XXXXがXX月XX日に64歳で永眠いたしました・・
と読ませて頂いたりすると、これからの人生をゆったりと遊学できなく、
そしてご家族の方は、ひとり欠けた悲哀は・・と私は強く感じたりしている。
              

私の父は、私が小学2年3学期になると、黄疸〈おうだん〉で長らく自宅治療をしていたが、
肝臓が悪化して、42歳の若さで病死されて、
母、そして父の妹の叔母のもとで、私たち兄妹の5人が育てられた。

やがて私が54歳の時に、母は喜寿と称される77歳を迎えてまもない時に、病死した。

家内の父は、私が定年退職する2004年(平成16年)秋の直前に、78歳で病死された。

そして私たち夫婦の両親は、私より14歳齢上の家内の母だけとなっている。

この間、私が34歳時に次兄は自営業していて経済破綻して、
36歳の若さで自殺と称せられる薬物を飲み自裁して、自室で亡くなったりした。


私のサラリーマン時代に、同僚が57歳の若さで病死されたり、
ご近所の知人も54歳の若さで、急速に悪化して、亡くなったりしてきた。

私はお通夜に参列したりし、残されたご家族の悲痛な思いを感じたりしてきた・・。、
       

最近の厚生労働省から、平均寿命は男性は80歳、女性は87歳ぐらいと、公表されている。
こうしたことを知ると、あくまで平均値なで、中には溌剌と長寿をされる方もいるが、
小心者の私は、70代を終えたら、この世からお別れか、と思ったりする時もある。

或いは心身ともに自立し健康的に生活できる期間の健康寿命は、
平均値として男性は71歳、女性は74歳ぐらいと、公表されたりしている。
こうしたことを知ったりすると、何かと気弱な私は、
健康体でいられるのはあと一年かょ、と心の中で呟(つぶや)いたりすることもある。

私たち夫婦は子供に恵まれず、たった2人だけの家庭であり、
私より5歳若い家内も、お互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。

そして年金生活を10年ばかり過ごしてきた中、
やはり『健康』、『生きがい』、そして程ほどの『お金』と深めて、
私たち夫婦はささやかな願いを叶えたりしてきた・・。

もとより健康でなければ、ささやかな願いも叶わないので、私たち夫婦は幸いに大病せずに、
今日に至っている。
       
     

世の中の多くの人たちは70代となれば、体力の衰えを実感して、
75歳まではこれまでどおりの自立した生活ができるが、
80歳が見えてくる頃には介護を必要とするようになり、
やがて80代後半では何らかの介護付き施設に入居する可能性が高くなる、と専門家の人から数多く発言されている。

もとより中には、稀に心身ともに自立し、溌剌と長寿をされる方もいる。

こうして学んできた私は、何よりも健康でなければ、ささやかな願いも叶わないので、健康寿命が肝要だ、
と深めたりしてきた。

そして何よりも日々歩くことが肝要と思いながら、認知症は勘弁してょ、と心の中で呟(つぶや)きながら、
ひたすら歩いているのが、70歳を2か月ばかり過ぎた私でもある。
       

そしていつまで健康寿命が保てるか、やがて命果てる日は、
自助努力は大切であるが、こればかり天上の神々の采配に寄ることである。

私の昨今の心情として、60代は安楽に過ごせてきたささやかな成功体験を秘めながら、
70代はしなやかに生活を過ごせば、と漠然と思いながら過ごしている。

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高倉健さんの訃報に接し、長きに孤軍奮闘のように映画界に貢献されまして、ご冥福を・・。

2014-11-18 15:43:13 | ささやかな古稀からの思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の身であるが、
いつものように平素の買物、その後に散策した後、
ネットを立ち上げると、《 高倉健さん死去 83歳、》と見出しを見て、クリックしてしまった。

『スポーツ報知』が 11月18日(火)11時37分配信された記事に寄ると、
《・・高倉健さん死去 83歳、10日に悪性リンパ腫で
映画俳優の高倉健(たかくら・けん、本名・小田剛一)さんが、死去していたことが18日分かった。
10日午前3時49分、悪性リンパ腫のため東京都内の病院で死去した。83歳。福岡県出身。

1931年に福岡県に生まれ、大学進学のために上京。
1955年、東映ニューフェイス2期生として入社した。
演技経験などは全くなかったが、翌1956年に映画「電光空手打ち」で主演デビューした。

映画スターとしての地位を確立したのは、1960年代に入って出演するようになった仁侠映画だった。
「網走番外地」「日本侠客伝」「昭和残侠伝」などがシリーズ化され、大ヒット。
映画ファンは「健さん」と親しみを込めて呼ぶようになった。

テレビドラマなどにはほとんど出演せず、自らを「映画俳優」と呼ぶほど。
生涯の映画出演作は205本に及ぶ。
最後の作品は、2012年秋に公開された「あなたへ」(降旗康男監督)。(略)・・》
このような記事が報じられていた。
        

私は古き良き時代の映画愛好者のひとりなので、
東京オンリビックが開催された1964年(昭和39年)の頃から、映画界は衰退し、
その後も加速するように映画界は衰退するばかりであった。

こうした中で高倉健さんは、殆どテレビ劇に出演されず、
映画俳優として主演され続づけ、この長き映画界の烈風の中で、稀な男優であった。

映画はお金を払って鑑賞でき、高倉健さんは数多くの映画ファンを魅了させてきた人である。、

こうした中、映画の製作が激少する中、監督、脚本家、撮影、照明、美術などの数多くのスタッフは、
製作に携(たずさ)わることもでき、衰退する映画界の技術の伝承にも波及され、
高倉健さんは主演されるたびに貢献してきた人でもある。

こうしたことに敬意を重ねて、高倉健さんの訃報に接し、
長きに孤軍奮闘のように映画界に貢献されまして、お疲れ様でした。
貴兄の功績は数多くの映画ファンに感動をさせ、今はひたすらご冥福を祈ります。

私は呆然とした中で、こうした言葉を心の中で呟(つぶや)いたりした。
       

私は1944年(昭和19年)に東京郊外で生を受けて、
小学3年の頃から独りで映画館に行き、邦画に魅せられて、中学からは洋画にも魅了され、
これ以降は映画の愛好者のひとりなった・・。

やがて映画専門誌の『キネマ旬報』なども愛読し、シナリオにも関心をもち始めて、
シナリオライターになりたくて、大学を中退したのが、1964年(昭和39年)の秋であった・・。

まもなく養成所の演出コースに入所して、アルバイトをしながら映画青年の真似事をしたりした。
その後は講師の知人の新劇のある長老のアドバイスにより、
契約社員をしながら、小説を書き始めて、文学青年の真似事をした。

そして、習作に励んだりし、純文学の新人賞に応募したが、最終予選の6編の直前で3回ばかり落選し、
あえなく敗退し、挫折した。

この後、1970(昭和45)年にある民間会社に何とか中途入社し、
35年ばかり勤めて定年を迎えた身である。
          
このように若き時代の一時には、映画館に通ったりして、程ほどに映画作品を鑑賞してきたので、
1966年(昭和41年)頃までに上映された作品は知っているつもりであるが、
その後は数多くのサラリーマンと同様に多忙な時代を過ごしたので、余り鑑賞する機会がなくなった。

定年後は年金生活をして、ときおり居間の映画棚に保管してあるビデオテープ、DVDの1000作品ぐらいを
居間のテレビを通して鑑賞したりしている。

しかしながら、2000年(平成12年)の頃までに制作された作品が圧倒的に多いので、
古き良き時代の映画の愛好者のひとりかしら、と微苦笑する時もある。
       

高倉健さんの主演された『網走番外地』、『日本侠客伝』、『昭和残侠伝』などのシリーズ作品は、
私は何かと苦手であったので、5作品ぐらい鑑賞して程度であった。

この後、鑑賞してきたのは『幸福の黄色いハンカチ (1977年) 』、『八甲田山 (1977年) 』、『冬の華 (1978年) 』、
『遙かなる山の呼び声 (1980年)』、『駅 STATION (1981年)』、『海峡 (1982年)』、『南極物語 (1983年)』、
『居酒屋兆治 (1983年) 』、『夜叉 (1985年)』、『鉄道員(ぽっぽや) (1999年)』
『ホタル (2001年)』、『あなたへ (2012年)』

このくらいを思い浮かべたりしているので、私は高倉健さんの熱愛するファンには該当しない。

こうした作品の中のひとつに、降旗康男 ・監督の『駅 STATION』(1981年)』がある。
               

この作品はオリンピックの射撃選手であり、警察官でもある一人の男が、
それぞれの事件を通して、彼の心を通り過ぎていく女性たちをくまなく描き、
人生の哀歓を圧倒的な筆力で、主演・高倉健に捧げたと伝説される脚本の倉本聰(くらもと・そう)さんの作品でもある。

私が鑑賞してきた邦画の少なくとも5000作品の中で、最も好きな作品で、
監督の降旗康男、主演・高倉健、そして脚本・倉本聰のトリオの英知が発露された作品となり、
降旗康男、高倉健、倉本聰さんの各作品を鑑賞してきた中で、最も優れた作品と絶賛するひとりである。

この作品のファースト・シーンは、国鉄時代の1968年の北海道の『銭函』駅が駅舎が表われ、
そしてホームの情景となる中、
警察官の英次(高倉健)は雪の降り続くホームで、妻の直子(いしだあゆみ)と、四歳になる息子義高に別れを告げた。
やむなく離婚を承諾した直子は、動き出した汽車の中で、英次に笑って敬礼するが、その目には涙が溢れていた。

このファースト・シーンひとつでも、人生の哀歓、愛惜を描き、
感動を超えて感銘させられる名シーンである・・。

私は感銘させられて、後日に単行本となったシナリオを買い求めて、幾たびか精読した。

私は高倉健さんに関して、この『駅 STATION』(1981年)』は突出した作品と確信を深めているので、
今宵は高倉健さんのご冥福を重ねながら、居間で鑑賞する予定である。

余談であるが、高倉健さんが綴られた『あなたに褒められたくて』(集英社)、『旅の途中で』(新潮社)、
過ぎ去り年に買い求めて、 高倉健さんに好感を増したひとりである。

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女性、男性の文章の違いを学び、ブログ11年生の私は、微苦笑させられて・・。

2014-11-17 15:11:29 | ささやかな古稀からの思い
私は東京郊外の調布市の片隅に住む年金生活の身であるが、
年金生活をしていると何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを心の発露の表現手段として、
このブログのサイトに綴り投稿するのが、生きがいのひとつとなっている。

私は民間会社の中小業のある会社を35年近く奮戦して、2004年(平成16年)10月下旬に定年退職し、
多々の理由により年金生活を始めて、早くも10年が過ぎて、
過ぎし9月下旬に古希と称される70歳を迎え、
ピカビカの小学一年生のような不安と希望を秘めて、70代を歩き始めているひとりである。
             
    
私は定年退職して、まもない時に『ブログ』の世界を知り、
2004年(平成16年)11月12日にある大手のブログサービスに加入した後、
2つばかりのブログサービスに彷徨(さまよ)った後、
この【gooブログ】に翌年の2005年(平成17年)の1月中旬に加入したので、
これ以来、10年近くになっている。

しかしながら、この後に他のブログサービスに加入して熱中して、2度ばかり中断したが、
2008年(平成20年)の5月以来は継続し、今日に至っている。    
          

このような軌跡で、ブログの世界を知って丸10年となり、11年生に進級した。
結果としては、パソコンの故障、国内旅行などしない限り、日に少なくとも一通は投稿してきた。
               

こうした私の根底には、私の幼少時代から年金生活している現在までの生きてきた心の軌跡を発露して、
自己表現のひとつとして、心の証(あかし)の残したいからであった。

そして年金生活を過ごしている今、日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。
         

私の投稿文の殆どの内容は、幼年期からサラリーマン退職時まで、そして年金生活の日々の心情は、
脚色もないありのままの思い、真情を投稿文に認(したた)めたく、あますことのないように綴ってきた。

私は綴る際は、自身のその時の心に素直に綴るようにし、
あとで振り返った時、あの時はこのような思いで過ごしていたのか、
何より自身に対して、その時の思いの心情が大切にしているひとりである。
       
従って、数多くの駄文を綴ってきたが、ひとえに自身の為の心の軌跡の発露、と言っても差し支えない。
                      

午前中のひととき、ネットでニュースを見ている中で、偶然に、
『なぜ、「彼女」や「奥さん」のメールは やたらに行間が空いているのか』
と見出しを見て、どういうことなのょ、とクリックしてしまった。

この記事は、ビジネス情報誌として名高い『週刊ダイヤモンド』のネットの『ダイヤモンド・オンライン』で、
この中のひとつに『書籍オンライン』があり、ひとつの連載記事として『男女脳戦略』と解った

そして執筆された方は、メンタリストのDaiGoさんであり、
『男女脳戦略』の第4回として、2014年10月27日に配信され、
私が多々学んだことを無断であるが、記事の大半を転載させて頂く。
       
       

《 ・・(略)・・女性から来たメールを読んでいて、「もう終わりかな」と思ったら、
数行空いてまだ下に文章があった─―こんな経験のある男性は意外と多いのではないでしょうか。

メールに限らず、ブログやフェイスブックの投稿などでも、
「文章にやたらと行間が多い」のは、まさに女性脳ならではの表現方法と言えるでしょう。

ほとんどの男性はそういう書き方をしません。

行間を空けるのは、雑談から本題に入るとか話題が大きく変わるときくらいで、
それ以外は行間を詰めて書くのが男性脳の表現方法です。

理論的でシステム的な男性脳は、言葉にフィーチャーする言語中枢が発達しているため、
文字や言葉そのものに意味を求めようとします。

結果、メールやブログでも整然と並んでいる文章のほうが読みやすいし、
言いたいことを伝えやすいと考えるのです。
       

ところが、女性脳は感情にフィーチャーする脳。
そのため、伝えたい感情を文字だけでなく、別の形でも表現しようと考えます。
それが「広く空けた行間」とか「絵文字の多用」という形になって表れるのです。

女性が書いたメールや文章にある行間は、ただの空きスペースではありません。
そこには何らかの感情が詰まっています。
コミュニケーション能力の高い女性は、行間すらコミュニケーションの手段として利用しているのです。

しかし、言葉だけに意味を求める男性脳は、「行間を読む」ことが苦手というか、
そこに込められた感情に気がつかないのです。
男性脳の人にしてみれば、文字はそのままの意味でしかないからです。

特に女性のメールにある行間には、男性が読み解けない“無言の感情”が込められています。

私も普段から、女性から来たメールは文章だけでなく、その行間に注目するようにしています。
メンタリストにとって、無言の感情は絶対に見逃せない“おいしい”ポイントですから。
「どうしてここでこんなに行間を空けたんだろう」─―
むしろ行間に潜む感情を読み解くほうに重きを置いていると言ってもいいかもしれませんね。
       


さらに「広く空いた行間」には、女性脳の特性である「共感」も関係しています。
つまり、共感の女性脳は「読む人のことを考える」心理が働きます。
文章がギッチリ詰まっていたら読みづらいんじゃないか、と相手の事情を考慮するのです。

でも男性脳は、論理的にどうすれば伝わるかが最重要なので、行間が詰まっていても関係ない。
だからせっかく女性が考慮した行間や絵文字も、ほぼ無視して読みます。
むしろ、行間の多さにイライラしてしまうかもしれません。

逆に女性脳は、行間がギッチリ詰まった文字のかたまりのような文章を見ると、
それだけで「うわっ、こんなの読む気しない!」となるのです。

言葉そのものを受け取る男性脳と、行間に感情を込める女性脳。
行間や絵文字が多すぎると読みにくい男性脳と、行間が詰まっていて文字だらけだと読みにくい女性脳。
・・(略)・・
       

私も自分のブログを書くときは、行間の使い方には気を配っています。

多すぎると男性脳の人が読みにくく、少なすぎると女性脳の人が読みにくくなるので、
ひとつのテーマを大きく3ブロックぐらいに分けて、その切れ目に行間を入れるなど、
どちらの脳でもストレスなく読んでもらえるような“行間の配分”を意識しています。

男性脳・女性脳の違いを意識して表現方法の差を考える。・・(略)・・

(※本連載は、『男女脳戦略。男にはデータを、女にはイメージを売れ』の一部を抜粋し、編集して構成しています)・・》
       

私はブログを始めた2004年(平成16年)12月当初は、7行ぐらい長い文章を綴ったりした。

やがて読んで下さる方は、パソコンの画面が多い、と知り、
そして30文字ぐらいの長さで改行し、5行したら空白を一行・・
このように原稿用紙の数枚分を投稿文を重ねてきた。

その後、確か数多くのブログを投稿される方たちは、7年前の頃から写真を掲載することが多くなり、
この当時の私は、恥ずかしながら写真を掲載する技巧もなく、ひたすら文章だけの投稿文であった。

やがて2年前の頃に、何とかブログ上に写真を掲載することを習得して、今日に至っている。
こうした根底には、私は筆力が乏しく、写真を絵柄のようにサンドイッチにすれば、
もとより風景にしても、心象にしても表現に苦労が少ないので、愛用している。

そして私は写真を掲載した後、何かしら文章だけの投稿文を寂しく、
ときおり数多くの写真を添付することもあり、
心情の表現を第一、そして写真を掲載は第二、と反省することもある。
       

今回、《・・言葉そのものを受け取る男性脳と、行間に感情を込める女性脳・・》と学び、
小学2年生の時から何かと女性に憧憬してきた私は、どうしたら良いの、と微苦笑を重ねたりしている。

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ときには何かと愚図の私でも、『おひとりさま』の独りぼっちの生活をすれば・・。

2014-11-16 14:16:05 | ささやかな古稀からの思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の70歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

私より5歳若い家内も、お互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。

平素の殆どは、日常の買物専任者の私は、家内から依頼された買物を終えた後、
その後も独りで自宅の周辺3キロ範囲にある遊歩道、小公園、都立の公園、或いは小学時代の通学路などを歩き廻り、
季節のうつろいを享受している。
       

私たち夫婦のお互いの両親は、無念ながら家内の母だけとなり、
家内の母は我が家から電車・バスなどを乗り継いて2時間ばかりの千葉県の八千代市で、
一戸建ての独り住まいの生活をされている。

私より14歳ばかり齢上の高齢者である家内の母は、
私が民間会社のサラリーマンの定年退職した2004年〈平成16年〉の秋の直前に主人に死去され、
独り住まいの生活をされて、10年が過ぎている・・。
       
               
そして独り住まいとなった家内の母と私たち夫婦は、年に数回は国内旅行に行ったりし、
家内の母の『母の日』には、やはり温泉ね、と要望され温泉滞在旅行が多かった。

平素の家内の母は、女友達のグループで小旅行をしたり、街歩きをしたり、
或いは生家の新潟県の上越市に訪れたりすることが多い。

そして家内は、家内の母が独り住まいとなった当時から、
安否を含めて、殆ど毎晩30分前後ぐらい電話連絡をしたりしている。

しかしながら、家内の母は自身の身の周りは出来ても、
大掃除、季節ごとの室内のカーテン、布団、暖冷房器具、衣服、庭の手入れなどは、おぼつかなくなり、
長女の家内は季節の変わるたびに、7泊8日前後で年に5回ぐらい母宅に泊りがけで行っている。

こうした中、家内の母は2年前に膝(ひざ)を悪化して、
市の福祉サービスより『要支援の2』と認定をされている。

そして私たち夫婦は、やむなく温泉滞在旅行の代わりと思いながら、
お醤油、ソースなどの調味料、洗剤、雑貨品などの重い品物と感じられる品の数々を、
積極的に宅配便を活用して送付したりしている。
                  

たまたま今回、家内は過ぎし11月13日より家内の母宅に9泊10日で行っている。
もとより家内は、家内の母の宅で孤軍奮闘しているが、
この間は私は『おひとりさま』の独りぼっちの生活となっている。

こうした時の私の心構えは、何かとプラス思考の多い私は、
万一、いつの日にか私を残して家内に先立たれた場合、
私は『おひとりさま』となってしまうので、特別演習かしら、と思いながら過ごすこともある。
               
そして私は、家事の全般の料理、掃除、洗濯などは、家内にお願いしていたので、
恥ずかしながら初心者の若葉マークのような身であり、戸惑いながら行っているが、
いつも感じさせられることは、主婦の人はさりげない知恵と体力で日々の家事全般の責務を果たしている、
と幾たびか実感を深めたりしてきた・・。
                  

何かと愚図でノロマの私の『おひとりさま』となっている昨今は、
朝一番に行うことは、台所にある調布市から配布されたカレンダーを見て、
『燃えるゴミ』、『燃やせないゴミ』、『ペットボトル』、『古紙』、『ビン』の指定日を確認して、
これに対応して、調布市から指定された道路に面した門扉に置いたりした。

そして、最優先として一合ばかりのお米を洗い、五穀米を加えて電気炊飯器に10分後にセットした。
この後は読売新聞の朝刊を読みながら、煎茶とゴールトブレンドと明記されたインスタントコーヒーを飲んだりした。

朝食は幼年期に農家の児として育ったので、齢はかり重ねた今でも、
ご飯と汁、おかずと香の物で成り立っていた庶民の代表とされる『一汁三菜』の真似事をしている。

私は何かと単細胞の為か、キャベツとニンジンの千切りした盛り合わせを前菜とした後、
五穀米の入った白米のご飯、インスタントのワカメの味噌汁、
そしてコブの佃煮、ラッキョ、福神漬け、シャケの瓶づめ、或いは鯖(サバ)の味噌煮の缶詰が、
日々貫徹のように食べたりしてきた。

昼食は煎茶とインスタントコーヒーを飲みながら、
つぶあん、こしあんのアンパンをその日に応じて、ひとつだけ食べたりしてきた。

夕食は2日に1回、スーパーで買い物をし、野菜コーナー、肉類コーナー、お惣菜コーナーの売り場で、
適度に選定し、煎茶を飲みながら食べたりしてきた。

しかしながら独りだと話し相手がいなく寂しいので、缶ビール500mlを2本だけ呑んだり、
或いはウィスキーをオンザロックして数杯を呑みながら、テレビのニュースを視聴したりした。
       
          
洗濯に関しては、乾燥の機能がある洗濯機で、洗いから乾燥までしてくれるオール自動セットに頼り、
スポーツシャツ、肌着、タオルなど2日に1回まとめて、
あとはお願いねぇ、と洗濯機に向って、 心の中で呟(つぶや)くことが多かった。

日中のひととき、きまぐれに手抜きの部屋の掃除をしたりしているが、
本音を発露すれば、埃が多少あっても生死に影響はない、と3日1回ぐらいとなっている。

こうした中で、家内から借りたエプロンを着て、台所で皿洗いをしたりしているが、
現役時代のサラリーマンだった業務よりも、ただちに成果が明白なるので、
水遊びを兼ねて楽しんだりしている。

こうした時は、なぜかしら古き良き時代の歌謡曲をかぼそい声で幾度も唄いながら、
皿洗いをしたりした。
            

この間、平素のように本を読んだり、居間でビデオ棚から映画の作品を観たり、
或いは音楽棚から聴きたいCDを取りだして聴いたりしてきた。

このような生活を過ごしてきたが、料理に関しては素材から焼いたり、煮たりすることは無く、
掃除も簡略に済ませてしまうので、もとより家内のいる平素の日常生活から落第生となっている。

そして年金生活の当初の頃に、作家の曽野綾子さんの『夫族の中で、生活者として無能な人・・』と銘言を学び、
私は叱咤激励されながら、小・中学生の時は恥ずかしながら劣等生であった私は、
やはり年金生活の『おひとりさま』の劣等生かしら、と苦笑を重ねてきた。
                 

こうした中、何かと愚図でグウダラな私でも、つたないながら過ごしているが、
時間の制約もないで、勝手気ままに過ごしている。

起床の時間、食事の時間などは、平素のふたりの時は、ほぼ決まったりしているが、
自由奔放となったりしている。

たとえば平素の我が家の夕食は7時半過ぎであるが、
独りとなった昨今は、ときには居間でビデオ棚から映画の作品、或いは音楽のライブ盤のDVDを取り出して、
鑑賞したりしてきた。

平素の生活で、家内は何かと大きな音量が苦手であるが、家内の留守を幸いに、
大音量でテレビを通して鑑賞していると、時を忘れて、
結果的には夕食は9時半になったりしてきた。
       

余談であるが、年金生活されている男性諸氏の一部の中で、
愛妻にまとわりついて頼ってばかりいる諸氏に告ぐ・・。、

ときには愛妻を解放して、お友達たちと数泊でも旅行でも行ってらしゃい、といったような言動をしないと、
万一、残されて独り住まいとなった時、泣くのは諸氏である。

このような意味合いの言葉を、私は敬愛している作家の曽野綾子さんのご著書から数多く学んでいる。

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