夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

そだねー、高齢者夫婦の我が家でも、遅ればせながら流行(はや)りの会話となり、私は微笑み返し・・。

2018-02-28 16:20:26 | ささやかな古稀からの思い

私は東京の調布市に住む年金生活の73歳、家内は68歳であり、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。

そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、
私たち夫婦はお互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごして、早や14年目となっている。

昨夕、家内は『いつものように5時半過ぎに、お風呂に入りますか?
』と私に言ったりして、
私は『そだねー』と応(こた)えて、まもなくして私は入浴したりした。

やがて私たち夫婦は、居間で夕食を食べ終わると、家内はテレビを視聴しているので、
私は料理の大皿、小皿などを台所に運んだ後、
『コーヒー、すぐに飲むよねぇ・・』と私は家内に問いかけたりした。

『そだねー』、と家内は微笑みながら応(こた)えた・・。

        

我が家は、そうだね・・、そうだよねぇ・・、そうするょ・・、そうですよねぇ・・、そうしますわ・・、
こうした私たち夫婦間は42年近く会話をしてきたが、
ここ5日前の頃から、『そだねー』、高齢者夫婦の我が家でも、遅ればせながら流行(はや)りの会話となっている。


私たち夫婦は、スポーツには余り関心がないが、平昌五輪(2018年平昌冬季オリンピック)の放送が、
ここ2週間ぐらい連日、テレビで実況中継の番組が放送されてきた。

こうした中で、私は特に小平奈緒さん、高木ご姉妹の御三方のこれまでの人生軌跡を初めて学び、
よくぞここ一番、日頃の鍛錬の成果を実証されたことに感銘させられたりした。

そして恥ずかしながらカーリング競技も初めて知る中で、
何かしら女子日本代表・LS北見の所属する若き女性陣の試合の実況中継を少し視聴した。

        
         ☆ネット上、無断ながら写真をお借りしました。

こうした
緊迫する試合の中で、「こっちいってみよっかー?」、
「うん、そだねー」、「とりあえずやってみよー」、「ナイスー」
と北海道訛りが混じった穏やかな口調で作戦会議をしたりしていた。

やがてナイスショットを決めると、お互いに笑顔で喜び合ったりする状景が映し出されて、
もとよりこれまでも多事多難の労苦をしてきたと思われる中で、
スポーツ音痴の私でも、感動をしたりしてきた。

        

         ☆ネット上、無断ながら写真をお借りしました。


こうした余韻が何かと単細胞の私が脳裏に残り、私は家内に『そだねー』と言ったりし、
家内もテレビで少し視聴して、好感を増して、ときおり『そだねー』の真似事をしたりしている。

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年金生活の我が家、2月は年金収入があっても、赤字となり、やがて私たち夫婦は微苦笑して・・。

2018-02-27 16:16:03 | ささやかな古稀からの思い

私は東京の調布市に住む年金生活の73歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。

そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、
私たち夫婦はお互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごして、早や14年目となっている。

朝食後、
家内より2月の『家計簿』を締めようかしら、と私に言ったりした。

2月の出費としては、1月度に買い求めたパソコン、布団乾燥機の請求が2月15日にあったり、
2月でも台所、押し入れの備品を多く買い求めたりしてきた・・。

2月は偶数月であり、厚生年金が振り込まれてきたが、早く黒字か赤字の実態を把握したのが主旨であり、
やがて昼下がり、私たち夫婦は毎月の『家計簿』を締め始めた・・。

           

我が家の生計は原則として、私たち夫婦はお互いに厚生年金とわずかな企業年金を頂いた範囲で、
日常生活を過ごすことを原則としている。

そして耐久品の購入、冠婚葬祭、そして私たち夫婦の共通趣味の国内旅行に関しては、
程々の貯金を取り崩して、ここ13年半ばかり過ごしてきた・・。

こうした中で私たち夫婦は、原則として月初めには家計簿をお互いに確認しながら実施している理由は、
40数年前、私たち夫婦が婚約する前、
お互いに隠し立ては・・やめましょうねぇ、と私は妻となる人から言われたりしてきた。

そして私たち夫婦は、結婚以来、毎月家計簿を原則として翌月の初めにしているが、
もとより生活費をお互いに確認した上で、私、家内が趣味に使える費用を捻出する為に、
毎月確認し、家計簿の月次決算をしている。

            

我が家の家計簿の月次決算は、至って簡素に行っている。

最初に
厚生年金、企業年金などの収入の項目、そして郵便局の個人年金を入力した上、
そして銀行、郵便局、信託銀行などの残高を入力をしたりした。

その後、日常は買物したレシートなどを、家内が一週間に一度ぐらいノートに簡単に集計している程度であるが、
こうした簡略な支出の区分項目を家内が読み上げて、                

私はパソコンの表計算ソフトのエクセルを活用して、入力したりした。

やがて残高が1107円ばかり差異があったりしたが、
『大勢には影響はないょ・・食費で調整するからねぇ・・』
と私は苦笑しながら家内に言ったりした。

まもなく5表ばかり我が家の独自の資産表と収支別明細表を作成し、
2月の月次決算を終えてしまった・・。

結果として、今月の2月度は年金収入があっても、2万円近く赤字となり、
やがて私たち夫婦は微苦笑してしまった・・。

もとより年金は2か月分を偶数月に振り込まれるので、
単純として2か月分の生活費として、何かと単細胞の私でも認識してきた。

やがて私は今月のような年金収入を振り込まれても、赤字となるのは久しぶり、
と思い馳せて微苦笑したりした。

       

こうした中、私たち夫婦の共通趣味のひとつの国内旅行が減少してきた。

私たち夫婦の両親は、今や家内の母だけとなり、遠方の地に一戸建てに住んでいる。

一昨年より家内が家内の母宅に宿泊数が多くなってきたことは、
私にとっては、まさかの出来事のひとつとなっている。
                          
やがて家内の母が『要介護2』となり、家内と家内の妹は交互に、
大半は家内の母宅に宿泊して、家内の母の食事、洗濯、掃除、或いは通院の付き添いなどしているので、必然的に多くなり、
この間、我が家は私が『おひとりさま』の生活となり、これも人生だよねぇ、と私は独り微苦笑したりしている。

こうした関係で、確かに国内旅行費は減少しても、家内の母の介護関係にまつわる経費が増えているので、
プラス・マイナスとなり、私たち夫婦はお互いに微苦笑する時もある。

そして家内が介護の合間に、我が家の備品、衣服などの買物を私たち夫婦はしているので、
我が家の出費も大波、小波となり、平均的には程遠くなり、
やむえないよなぁ・・と私は苦笑したりしている。       


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『ちょこっと共済』、私たち夫婦の外出の時の『お守り』代わり、早や13年を迎えて・・。

2018-02-26 14:39:06 | ささやかな古稀からの思い

私は東京の調布市の片隅みに住む年金生活の73歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭の中で、築後38年を過ぎた古ぼけた一軒屋に住み、自動車もない稀(まれ)な家となっている。

本日の午前中のひととき、私は最寄りの銀行に行き、
平成30年度の『ちょこっと共済』の掛け捨ての保険、申請をして、
私と家内のふたり分2000円を支払い、手続きを完了させた。

          

私は年金生活を始めた翌年に、この『ちょこっと共済』を知り、
これ以来、私たち夫婦は加入してきた・・。

当初、最初に加入した当時の私の記憶を思い馳せると、
《 みんなで一緒。ちょこっとサイズのたしかな安心
                 小さな交通事故もカバーします! 》
と明示されていた。

たとえばひとり年額1000円の保険料で
不幸にして最悪の死亡となった場合は、300万円の見舞金が受け取れる保険である。

私は2004年(平成16年)定年退職後は、多々の理由で年金生活を始めた。

そして長年ペーパー・ドライバーであったが、自動車を購入して、
私たち夫婦は、国内の各地をドライブしょうかしら、と夢想したりした。

しかしながら私は、無念ながら反射神経が鈍(にぶ)くなった感じ、その上に小心者の為、
万一、交通事故で人さまに傷つけたりして被害者はもとより、加害者の私でも心身の傷を深く残すので、
自動車の運転免許証の更新時に破棄して、自動車の運転を断念したひとりである。

      

こうした中で、私の住む世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅の地域は、
路線バス、私鉄沿線などの公共交通機関に恵まれた処であるが、
何よりも歩くことが健康の源〈みなもと〉であると確信している私は、
買物、散策などは路線バスにも乗らず、歩いたりしている。

そして駅までの15分前後の道のりも、冠婚葬祭、旅行、都心で懇親会などの時以外は、
路線バスなどに頼らず、ひたすら歩いたりしてきている。

家内も年金生活をしてまもなく、栄養剤のビタミンなどの薬に頼らず歩くことが何よりだわ、
と遅ればせながら目覚めて、私たち夫婦は遊歩道、大通りの歩道を歩いたりすることが多くなっている。

しかしながら年金生活を私が始めた当時、大通りの歩道を自転車で疾走する下校時の学生、
買物の主婦など、中には携帯電話を話したり、見たりする方たちがいて、
昨今はスマホを眺めたりして、何かと前方を不注意の方も見かけたりした。

或いは、我が家の近くの大通り、そして住宅街でも、
特に高齢者の方が覚束ない自動車を運転される方たちを見かけたりしてきた。

こうした状況を見かけて危惧してきた私は、万一、交通事故に事故に遭遇した時の用心として、
この後に、『ちょこっと共済』加入した。

                

そして、私たち夫婦は国内旅行が共通の趣味のひとつなので、
旅行先で万一交通事故に巻き込まれた時のことを配慮したりした。

私たち夫婦は、それぞれが毎年1000円ほどの掛け捨て保険をして、
確かに若き時代よりも、身体は衰え、少しボケてきたと感じる時もあり、
外出の時のお守り代わりに加入して、早や13年を迎えている。

この間、『ちょこっと共済』のお守りの効力の為か、
幸いにして私たち夫婦は、交通事故に遭遇しないで、無事に今日に至っている。

尚、この『ちょこっと共済』は、それぞれの都道府県別の自治体で、
運営管理されている、と私は保険に詳しい友人から教えられたりしている。


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体力の衰えた私でも、ときおり家内のボディガード、お供そして荷物持ちで、早や13年半が過ごして・・。

2018-02-25 16:12:34 | ささやかな古稀からの思い

私は東京の調布市の片隅みに住む年金生活の73歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭の中で、築後38年を過ぎた古ぼけた一軒屋に住み、自動車もない稀(まれ)な家となっている。

私は年金生活の当初から、我が家の平素の買物に関して、
私は自主的に買物専任者として宣言し、家内から依頼された品を求めて、
独りで殆ど毎日、スーパー、専門店など歩いて行き、買物メール老ボーイとなっている。

この後は、やはり自宅から3キロ以内の遊歩道、小公園などをひたすら歩き廻ったりして、
季節の移ろいを享受している。

このような午前中の過ごし方を定例事項のように過ごしてきた・・。

例外として、家内のボディガード、お供そして荷物持ちで、3週間に一度ぐらい駅前で買物、
或いは年に3回ぐらい都心の新宿にある伊勢丹、小田急、京王などのデパートに買物、
そして庭の手入れ、国内旅行、懇親会、冠婚葬祭などで小用がない限り、定年後の13年半を過ごしてきた。

       


こうした中で、昨夕、家内は、
『仙川のホームセンターで買物に行きたいんですが?

と私は言われたりした・・。

『行きましょう・・』
と私は微笑みながら家内に言ったりした。

家内は我が家より遠くに住む家内の母の介護で、家内の妹と交代で、
泊りがけ行ったりし、この間は私は独りぽっちの『おひとりさま』となっている。

こうした関係で私は家内と共に外出する機会は、減少してきたので、
せめてときには高齢者の夫婦の我が家でも、
良き事と思いながら、私は家内に明るく応(こ)えたりした。

何かしら今回の買物は、台所の備品、押し入れの備品などであり、
京王線の仙川駅に近いホームセンターで買物が主旨であった。

       

やがて私たち夫婦は、こうした時は徒歩15分ばかり歩いて行ったりしてきたが、
家内は母の介護の疲れもあり、路線バスに乗車して行ったりした。

そしてホームセンターで目的の5品を買い求めた後、
センター内に最近『百円ショップ』が出来ていたので、家内は積極的に何かしら買い求めて、
私はレポート用紙を見て、お得感あるよなぁ・・と心の中で呟(つぶや)きながら買い求めたりした。

やがて私は、両手にレジ袋を提げて、家内の従者のように、お供そして荷物持ちで、
商店街を歩いたりした。

こうした中で、昼食処を私たち夫婦は思案したりしたが、
結果的には私の小学校時代の女性の同級生が経営している和食処で、昼食とした。

ランチで1500円前後の和食であったが、この経営者は小学生時代も優等生であり、
そして通信簿『3』と『2』が多かった劣等生だった私でも、確かな味を賞味して、
家内も思ったより美味(おい)しいわ・・と私に微笑んだりし、私は安堵したりした。

       

やがて私たち夫婦は、食品スーパーに立ち寄り、家内も両手にレジ袋を提げて、
路線バスに乗車して、まもなく帰宅したのは午後3時であった。

このようなことを私たち夫婦は、3週間に一度ぐらいし、
体力の衰えた私でも、家内のボディガード、お供そして荷物持ちをしたりしている。

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所得税の確定申告、遅ればせながら所属地域の税務署から『所得税の確定申告』の用紙が郵送され、私は微苦笑して・・。

2018-02-24 13:59:05 | ささやかな古稀からの思い

私は東京の調布市に住む年金生活の73歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

こうした中、私たち夫婦はお互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。

過ぎし2月11日に於いて、私はこのブログ上で、
所得税の確定申告、年金生活の我が家、恥ずかしながら納める税金は一万円と判り、やがて微苦笑して・・。
と題して投稿してきた・・・。

この時に、本日、私は遅ればせながら所得税の確定申告の下書きを始めた・・、と記載していたが、
毎年1月下旬には、
所属地域の武蔵府中税務署から『所得税の確定申告』の用紙が郵送されてきたが、
今年は未着で、やむなく昨年の確定申告の下書きを消して、計算結果用に作成したのが実態であった。

      

やがて私は、『所得税の確定申告』の用紙が未着であったので、待ちくたびれて2月20日に、
所属地域の武蔵府中税務署に電話連絡をした。

『年金生活をしている身ですが、毎年1月下旬の頃に、貴税務署より、『所得税の確定申告』の用紙が
郵送されてきましたが、今年は変わったのでしょうか?

1月下旬の頃に、『e-Taxで確定申告』を推進する案内状は郵送されてきましたが、
e-Taxの場合は、マイナンバーカードとICカードリーダライタが必要であると記載されていますが、
私は両方なく、戸惑っている次第です。

恥ずかしながら私は年金生活13年の中、e-Taxの技量もなく、
やむなく『所得税の確定申告』を清書して、提出してきました。

今月の11日、ネットの国税庁のホームページの『確定申告書等作成コーナー』をパソコンで開き、
源泉徴収票などの書類に基づいて、入力して、
『所得税の確定申告書』の用紙の最後のページに添付されている昨年の『下書き用』を活用して転記も終了して、
税務署より、『所得税の確定申告』の用紙が郵送されてくるのを待ち焦がれている次第です・・』

このように何かと小心者の私は、電話で応対して下さった若き女性に言ったりした。

      

『当方の手落ちでして・・早速郵送させて頂きます。
ただ、郵送物はたてこんでいますので、申し訳ないですが、
10日ぐらい御猶予を頂き、お手元に着くように手配致します・・』

このように若き女性より私は言われたりした。


やがて昨日の金曜日の夕方、我が家の郵便受け入れ箱に、
所属地域の武蔵府中税務署から『所得税の確定申告』の用紙が郵送されてきた。

そして本日の土曜日、遅ればせながら今回の『所得税の確定申告』の用紙に清書して、
そして月曜日の26日に郵便局に私は行き、郵送しょうと、微苦笑したりしている。

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デジタル写真、パソコンに於いて、経済的に安全に保存する方法のひとつ、私は思案した結果は・・。

2018-02-23 15:21:27 | ささやかな古稀からの思い

私は東京の調布市に住む年金生活の73歳の身であるが、
過ぎし1月5日の朝、主力機のパソコンのハードディスクが故障した上、
外付けのハードディスクも不安定な状態となってしまった。

やむなくパソコンを新たに買い求めたが、難題は少なくとも2万枚以上ある写真で、
不安定な外付けのハードディスクから、苦渋しながら新たなパソコンのハードディスクに移行した。

そして大切な写真が消えてしまうのを恐れて、一部が重複と知りながら作業をした。
この後、やむなく不安定な外付けのハードディスクは断念して、新たな外付けのハードディスクを購入したりした。

        

私は現在はコンバクト・カメラのパナソニックの『LUMIX(ルミックス)DMC-FZ1000』を
愛用している。

こうした中で、年金生活の午前中のひとときは、殆ど毎日のように自宅の周辺3キロ範囲を散策していると、
季節の移ろいに魅了され、一期一会かしらと思いながら、情景を撮ったりしてきた。
或いは家内と共通趣味の国内旅行を幾たびも重ねる中、その地の情景に圧倒的に魅せられて、撮ったりしてきた。

恥ずかしながら私は、齢を重ねるたびに忘れることもあり、やむなく記憶のかたみ、として撮り続けてきた・・。

        

たまたま私は買い改めたパソコンは、1980年の前半に初めてパソコンを買い求めて、確か6台目となり、
私は73歳であるので、私の人生で最後のパソコンになるかしら、と思いながら、
少し背伸びして選定したのが、本音である。
http://www.fmworld.net/fmv/fh/#from=mart_tag
☆富士通公式HP==>『FH90』☆


           


こうした中で、私が年金生活13年半の中、デジカメで撮った少なくとも約2万枚の写真であり、約100GBとなり、
外付けハードディスクより本体のパソコンにコピーした時は、約8時間要したことがあったりした。

そして新たなパソコンの『ウィンドウズ10』に於いて、マイクロソフトの写真管理として『フォト』機能があり、
たまたま私は『ウィンドウズ10』で、富士通のパソコンを選定したが、
富士通には、『My Cloud
』と称せられた写真などの総合管理があり、私は理解しないまま導入した。

或いは、私はここ10年、『ウィンドウズ7』はソニーのディスクトップ型を愛用して、
写真管理は付随していたソニーの『Play Memories』を愛用してきたので、
今回の新たなパソコンでも転用している。

こうした結果として、写真管理でもマイクロソフトの『フォト』、富士通の『My Cloud』、
そしてソニーの『Play Memories』の三本立てとなり、
パソコンの技量に乏しい私は、戸惑いながら遊ばれたり、困苦したりしてきた。
       
          

ここ一週間、基本に返りデジタル写真をパソコンに於いて、経済的に安全に保存することを思案して、
昨夜、つたない私でも思い深めて、やがて微笑んだりした・・。

①パソコンのハードディスクに、すべての写真を保存する。

②ハードディスクが破損に備えて、外付けのハードディスクに、すべての写真を保存する。

③しかしながら、上記のふたつが不安定か破損になった時は、
  昨今流行(はやり)りのオンラインストレージサービスを使う。

最初に検討したのが、
『Googleフォト』で無料バックアップであった。
Googleのアカウントを取得すれば、誰でも無料で利用でき、
万一、自身のバソコンが破損しても、オンラインストレージの機能より写真をダウンロードできる。

しかしながらGoogleフォトは、写真のサイズが自動的にGoogle規定のサイズ(最大1,600万画素)に
リサイズ・圧縮され、
写真を送信する時は、予測した以上に時間を要してきた。

私は日頃の写真は、1,800万画素前後で撮っている上、
送信したい写真は、少なくとも500枚以上あり、こうしたことを思案すると大変に時間を要するので、
やむなく断念した。

          

代わりに決意したのは、『ウィンドウズ10』に付随している『OneDrive』機能である。
写真のサイズなどは制約なく、オンラインストレージの機能より写真を復旧できる。

ただし容量は、5GBまでは無料であるが、これ以上は有料となっている。
そして私は、私の写真を5GBまで・・計算した結果、約930枚・・保管できると判り、
微笑んだりした・・。

そして私は、旅の一部の未整理の写真、愛しき家内の写真など、約700枚を
『OneDrive』の『画像』に移行したのが、昨夜であった。

こうした方法で、デジタル写真をパソコンに於いて、経済的に安全に保存できる、
と私は独り微笑んだりした。

尚、外付けのハードディスクをお持ちでない御方は、①そしてオンラインストレージの機能を活用すれば、
更に経済的・・と微笑んだりした。

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海外旅行に無縁な私達夫婦は、せめてテレビ番組の『世界の村で発見! こんなところに日本人』、視聴して・・。

2018-02-22 13:52:13 | ささやかな古稀からの思い

私は東京の調布市に住む年金生活の73歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、ささやかに過ごしている。

こうした中、私達夫婦の共通趣味のひとつは、国内旅行であり、結婚して以来、幾たびも旅路を重ねたりしている。

過ぎし2004年(平成16年)の秋に定年退職後、多々の理由で年金生活を始めた。

こうした中、私は相変わらず亡き母の遺伝を純粋に受け継いだ為か、
おしゃべりが好きで、何かと家内と談笑したり、
ご近所の奥様、ご主人など明るく微笑みながら談笑したりしている。

そして私は、遊歩道、公園などを散策していると、見知らぬ男性、
女性グループの御方たちと、話しかけられたり、或いは話しかけたりして、談笑し、
殆ど毎日過ごしている。

或いは、知人とか友人と時折お逢いする時は、しばらくねぇ・・、と私は笑いながら逢ったりして、
日中はコーヒー、夕暮れからはビールか水割りのウィスキーを飲みながら、談笑をしたりしている。


        

過ぎし2010年2月の中旬、前年の秋に家内が海上で遊泳している鯨(クジラ)を観てみたいわ、
と私に要望されて、未知の小笠原諸島のひとつの『父島』に訪ねたりした。

宿泊先の選定は静寂で景観の良いリゾートホテルに宿泊し、
船室はトイレのある部屋を家内が要望したので、『特一等客室』となり、
結果的には
船中泊往復路2泊、『父島』のホテル滞在9泊となった。

こうした中で、父島の緯度は沖縄やフロリダとほぼ同じで、美しい海が広がり、
熱帯植物が茂る常夏の島で、”最後の楽園”と称されている通り、
私たち夫婦は、島内を歩き廻ったり、或いはクジラウォチング船に3回ばかり乗船して、満喫したりした。

そして私は感銘を深めて、ドリーム・アイランド(夢の島)だよねぇ、と家内に微笑みながら言ったりした。

やがて帰路、旅費も程々に要したので、数多くある海外の景観地にも行けるよなぁ・・
と漠然としながら、私は夢想したりした。


        

こうした中、ときおり私たち夫婦は、都心のシティホテル、街、公園、国内の旅先で、異国人から話しかけられ、
私は英語の単語をたどたどしく並べて、身振り手振りで応対していた状況を、
家内が傍で見かけて、家内は私に、外国に行ったらアブナイわ、と信頼が失墜しているのが実情となっている。

私としてはサラリーマン時代に、会社として台湾、その後はハワイに旅行で遊学したが、
特にハワイの時は、オプション・ツアーで独りぼっちで、やはり身振り手振りで英語の単語をたどたどしく、
微笑みながら対応したりしてきた。

このような事情もあったりしたが、私たち夫婦として、異国の海外旅行に行ったことのない稀な夫婦となっている

そして気楽に日本語が通じる国内旅行を私たち夫婦は重ねてきたが、
旅先でも、私は食事処、ロビーなどて隣席した見知らぬ方でも、話しかけて談笑したりしている。
                          
こうした中で、好奇心をなくしたらこの世は終わりだ、と信条している私は、
体力の衰えを感じている私でも、その時に応じて溌剌とふるまったりしている。


           

過ぎし2年前の頃、家内がテレビの旅行番組を視聴している中、
私は何気なしにテレビを視たりした・・。

そして海外の情景が映し出されて、何かしら日本人のリポーターが、未知の御方を訪ねる、
と少し判った後、CMの合間に私は家内に話しかけて、番組の概要を教えて貰ったりした・

テレビ番組はテレビ東京が放映している『世界の村で発見! こんなところに日本人』であり、
世界各地の小さな村や町に住む日本人をリポーターが訪ね、その生活状態、その地に住むようになった軌跡、
それまでの半生などを紹介するドキュメンタリー番組であった。

そしてリポーターは、未知の地にスタッフは同行するが、
ほとんど御自身で、戸惑いながら、ときには困苦して、やがて日本人に出会える・・。

私が瞬時に魅せられたのは、異国の未知の地に行くまでのそれぞれの情景、
旅先で異国の人々の出会い、顔立ち、会話、しぐさ、かもしだす情緒を感じたり、
その地の文化や風土など・・多少ながら教示されてきた・・。


もとよりその地にお住まいになるまでの日本人の軌跡と目的には、圧倒的に感動したりしてきた。

https://www.asahi.co.jp/konnatokoroni/backnumber/index.html
☆【テレビ朝日】公式ホームベージ☆【『世界の村で発見! こんなところに日本人』(製作・朝日放送)】
                    ==>最近放送した『バツクナンバー』


このように私は感じながら、海外旅行に無縁な私達夫婦は、
せめてテレビ番組の『世界の村で発見! こんなところに日本人』を
こよなく視聴しているのが、ここ2年となっている。

尚、私を含めた関係者に、朝日放送、テレビ朝日には一切無縁であることを付記する。

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年金生活13年半の私、最も聴いてきた歌は『ハナミズキ』かしら、と微笑み返しして・・。

2018-02-21 14:41:02 | ささやかな古稀からの思い

私は東京の調布市に住む年金生活の73歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

こうした中、私たち夫婦はお互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごして、早や14年目となっている。

過ぎし2004年(平成16年)の秋、私は民間会社の中小業のある会社に35年近く勤めて、定年退職となり、
この間、幾たびのリストラの中、何とか障害レースを乗り越えたりしたが、
最後の5年半はリストラ烈風が加速され、あえなく出向となった。

そして遠い勤務地に勤め、この期間も私なりに奮闘した結果、
身も心も疲れ果てて、疲労困憊となり、定年後はやむなく年金生活を始めたひとりである。

        

私の午前中の殆どは、年金生活を始めた当初から、平素の買物ぐらいは担当をする、
と家内に宣言して、家内から依頼された品を求めて、
私は独りで歩いて7分前後にある最寄のスーパー2店に行ったりしている買物メール老ボーイとなっている。

或いは最寄駅まで15分前後を歩いて、数多くスーパー、専門店で買い求めたり、
ときには本屋に寄ったりして、数冊を買い求めたりしている。

やがて買物メール老ボーイの責務を終えた後、帰宅後も私は独りで外出して、
自宅から3キロ以内の周辺にある遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受している。

こうした根底として、もとより健康でなければ、自身の日頃のささやかな願いも叶わないので、
いつの日にか認知症、或いは脳梗塞などの難病に遭遇したら、困窮するので、
ひたすら歩き、ときおり大股で歩いたり、或いは足早に歩くことが多くなっている。

このように私は午前中の大半は、小庭の手入れ、冠婚葬祭、懇親会、或いは家内と共に国内旅行、
そして家内が買物をする時は、ボディガード兼荷物持ちをする以外は、殆ど毎日している。

                                
      
こうした主な原因は、定年前の私は、現役時代のサラリーマンの時代は、数多くの人たちと同様に多忙で、
家内は我が家の専守防衛長官のような専業主婦であり、日常の洗濯、買い物、料理、掃除などで、
家内なりの日常ペースがあり、この合間に趣味などのささやかな時間で過ごしてきたので、
定年後の年金生活を始めた私としては、このペースを崩すのは天敵と確信したりした。

そして昼食だけは、お互いに制約することなく、自由な時間で、
お互いに殆ど我が家で、きままに食べたりしている。

こうした中、家内は専業主婦の延長戦のように朝夕の料理、そして掃除、洗濯などをしてくれるので、
家内が煎茶、コーヒーを飲みたい時を、私は素早く察知して、日に6回ぐらい茶坊主の真似事もしている。

              
    
やがて、午後の大半は、私は随筆、ノンフィクション、近現代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

先程、年金生活13年半過ぎしてきた中で、最も聴いてきた歌は・・ぼんやりと思い馳せたりした。

私はシンガー・ソング・ライターの中島みゆきさんに関して、
遅ればせながら1989年〈昭和64年〉初春に、偶然に聴いたりした。
『エレーン』の歌であり、この当時の私はある会社の情報畑で奮闘していた時代であった。

この当時、消費税実施が4月から初めて実施されるのでシステム改定、
そして昭和天皇がご逝去となり、『昭和』から『平成』の年号改定に苦闘していた時で、
心身ボロボロのような時に聴いたのである。

その後、私は40代の半(なか)ばに、ギックリ腰が悪化して、
28日ばかり入院して、もとより業務から離脱し、社会から取り残されたように心情の時、
『永久欠番』の歌で救われたり、
齢を重ねた今は、『ヘッドライト・テールライト』の歌が支えとなっている。

この間、カセット、CD、DVDはもとより、随筆、そして評論集まで購読し、
私の人生の幾たびの苦境の時に、特にこの3曲から救われ、今でも私の秘かな女神となっている。

そして年金生活の中でも、数多くの曲を幾たびも愛聴している。

        

こうした深情で、中島みゆきさんは別格であるが、
やがて一 青窈(ひとと・よう)さんの『ハナミズキ』の歌かしら、と私は微笑んだりした・・。

私は遅ればせながら、2004年(平成16年)年の秋に退職してまもない時、
偶然にラジオから、一 青窈(ひとと・よう)さんの『ハナミズキ』の歌が流れて瞬時に魅了された。

やがて確か12年前だったと思われるが、NHKテレビの音楽番組の『SONGS』中で、
一 青窈(ひとと・よう)さんと徳永英明(とくなが・ひであき)さんが、デュエットでこの歌を唄っていた。

一 青窈(ひとと・よう)さんは美麗ながら、心の深淵まで託した御自身の思いを唄い、
徳永英明さんは、透明感あるシルキー・ヴォイスで、圧倒的な歌唱力の声量で唄い、
この歌をお二人が唄うのを視聴したのであるが、
胸が熱くなり、やがて涙を浮かべそうなくらい圧倒的に感銘を受けたりした。

私としては異例であるが、この曲を録画したのが【YouTube】にあり、掲載させて頂く。


http://www.youtube.com/watch?v=vh_nZWhX3Es
【YouTube】☆『ハナミズキ』 作詞・一 青窈、作曲・マシコタツロウ、唄・一 青窈、徳永英明 ☆

留意・この曲はこの時の番組が放送されてまもなく、どなた様が【YouTube】に於いて掲載されたが、
          その後NHKテレビは著作権の侵害と判断し削除された後、
          やがて投稿された《akikoh1121》氏の勇意で復活したのを、敬意し付記する。


       

私がこの歌に圧倒的に魅せられたのは、歌詞の中で、特に、
♪君と好きな人が 百年続きますように・・である。


家内は日頃の多くは、私のことを、

『あなた・・』
と呼ぶことが多いが、
ときには、たわむれで『XXクン・・』と苗字で呼ぶこともある。

しかしながら年金生活を始めてまもない頃、私が買物の購入品などで間違えたりすると、
『ボケチィンねぇ』
と家内は笑いながら、私に言ったりした。

この日以降、私が何かで日常生活で失敗した時、
『ボケチィンねぇ・・』とか、ある時は『ダメオ(駄目夫)クンねぇ・・』
と家内は微苦笑しながら、私に言ったりしている。

私たち夫婦は幸運にも大病に遭遇せず、今日に至っている。

このような私たち夫婦でも、命果てるまでの残された歳月は、
もとより神様が仏様の采配に寄ると思われるが、

この先いつまでも慎(つつ)ましながら、生活ができますように、と念願したりしてきた・・。

       

私は、散策したりする時、ときおり心の中で唄ったり、人影の少ない道などで、
♪君と好きな人が 百年続きますように・・
一青窈(ひとと・よう)さんの『ハナミズキ』の歌を、かぼそい声で唄ったりする時もある。

私たち夫婦は、この先いつまでもささやかな生活が続くわけでなく、
いつの日にかは、無念ながらどちらかが片割れになる・・。
このような思いを重ねたりして、歩く時もある。

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団塊世代の諸兄諸姉、70代の仲間入りが多くなり、73歳の私は微笑みを重ねて・・。

2018-02-20 14:43:27 | ささやかな古稀からの思い

本日の午前中のひととき、私はいつもの通り、野川の遊歩道を散策していると、
ご近所のご主人が奥様と散策されて、偶然に逢って立ち話をしたりした。

ご主人は、昨日に古希を迎えられた、と照れながら私に打ち明けて下さり、
私は70歳になられたご主人に、
おめでとうございます・・70代も楽しき日々ですよ・・私は微笑みながら言ったりした。

やがて私たちは別れて、私はこのご夫婦の仲良し後ろ姿に好感しながら、
70代の仲間入りが、また増えた、と私は微笑んだりした・・。

       

私は1944年(昭和19年)の9月に農家の三男坊として、生を受けた身である。

やがて私は民間会社の中小業のある会社に35年近く勤めて、2004年(平成16年)の秋に定年退職し、

この間、幾たびのリストラの中、何とか障害レースを乗り越えたりしたが、
最後の5年半はリストラ烈風が加速され、あえなく出向となった。

そして遠い勤務地に勤め、この期間も私なりに奮闘した結果、
身も心も疲れ果てて、疲労困憊となり、定年後はやむなく年金生活を始めたひとりである。
                          
そして年金生活は、現役サラリーマン時代は何かと悪戦苦闘が多かった為か、
予測した以上に安楽な生活を享受して、早や14年目となっている。

       

過ぎし2012年(平成24年)の晩春の頃、団塊世代が65歳を迎え、大量退職が始まる年、
と雑誌を読んで教えられ、思わず微笑んだりした。

私より少し若い世代の団塊世代の諸兄諸姉は、
多くの御方は60歳で定年退職をされて、その後は年金完全支給年まで何らかの形で働かれ、
65歳になった今日、セカンドライフと称せられる年金生活を迎えられた、と私は解釈したりした。

こうした中で、団塊世代の諸兄諸姉は、第一線を退かれ、年金生活を過ごされ、
今までの多忙な勤務の生活を終えて、それぞれお好きな趣味の時間で過ごされる、と思ったりした。

もとより60代は、ゴールデン・イヤーズと称される通り、身体も元気、
心は長年の勤務から解放感で満ち、心身共に第二の人生を満喫されている年代でもある。

私は25歳の時に中途入社し、何かと職場に団塊世代の諸兄諸姉の新卒の方が多く、
時代の空気を共にしてきたので、何かと親近感が増し、好感したりしてきた。

その上、私の妹のふたりは1947年(昭和22年)の1月生まれ、
1948年(昭和23年)の10月生まれ、そして私の家内も1949年(昭和24年)の12月生まれであり、
私は何かと団塊世代の御方には、注視したりしてきた。

             
私たち夫婦の日常に関しては、このサイトで幾たびも投稿を重ねてきたで、
今回は省略する。

       

過ぎし2017年3月15日に総合教養雑誌『サライ』がネットで配信された記事の中に於いて、
70代は「黄金の10年」、一節があり、私も微笑んだひとりである。

《・・子育てや親の介護といった困難を乗り越えた安心感もあり、
幸福感は70代に入ってからも上昇し続けます。
生活の自由度が増し、夫婦関係も心地よく、良い意味でお互いを頼りにする年代です。

老いを実感する瞬間は、たまにあるかもしれませんが、日常のほとんどのことは支障なくこなしていけます。
その上で「円熟期」に入った手応えがあれば、老化に対する漠然とした不安に悩むことはないでしょう。

祖父母としての務めを果たしたり、ボランティア活動をするなど、目的意識を持つことが、
この世代の幸福感につながります。
             
豊かな人生経験に裏打ちされたあなたの意見や考えに、多くの人が耳を傾けるでしょう。
あらゆる場面で意見を求められるかもしれません。

その反面、若い時に加齢への偏見が根付いている人は、
自らの偏見が自分へ向かい、老人性うつ病のリスクが高まることもあります。

その他、一般的な幸福度は健康の問題に直結し、健康管理ができる環境や信頼できる医師がいるかどうかで、
生活の満足感が左右されます。

健やかに長生きする秘訣は、自分のライフスタイルに目を配り、見通しを持つことです。
刺激を求めたり、人づきあいや親密な触れあいを持つことで、余生はいっそう楽しいものになります。・・》

       

或いは昨年の9月、楠木新さんが著作された『定年後』(中公新書)を読んだりすると、
《・・60歳が定年だとすると、家族の扶養義務からも解放されて、
かつ他人の介助も受けずに裁量をもって活動できる75歳位までは案外と長い。

それを「黄金の15年」にできるなら、人生の締めくくりとして素晴らしい。
では、その15年をどのように生きるか。・・》

何はともあれ、私は70代を三年ばかり過ごしているが、
裕福には無縁な私でも、年金生活を過ごす中で、楽しき日々を享受している。


こうした中で、私は団塊の世代に関しては、
過ぎし2006年〈平成18年〉8月下旬、年金生活丸2年を迎えようとした時、
山口文憲(やまぐち・ふみのり)さんの著作『団塊ひとりぼっち』(文春新書)を読んだりした。       

その後、三浦展(みうら・あつし)さんの著作『団塊格差』(文春新書)を読んだりした。

そして不運にも生活に困窮される御方、或いは充実感のない御方の実態は学んだり、私の知人もいるし、
すべて団塊の世代の御方が、バラ色とはいえない人生を過ごしている御方も少し知っている。。

       

私は今年の9月の誕生日を迎えると、恥ずかしながら74歳となる。

過ぎし年にゴールデン・イヤーズと称される60代を卒業し、
定年退職をするまで、何かとつたないサラリーマン航路を歩んだ為か、
我が人生として、予測した以上に安楽な期間を享受できたりしてきた・・。

そして70代を過ごし始めると、ときには60代の日々に愛惜を重ねたり、
これから到来する日々に期待を膨らましたり、微笑んだりしている。

或いは、ときおり物忘れもあり、やむなく人生は気合だ、と自身を叱咤激励をしりしてきた。

こうした中、70代を迎えてからは、心身共に自立し健康的に生活できる健康寿命を意識して、
確かな『生きがい』と『健康』、そして『気力』を持続できるようにと願いながら
プラス思考で過ごしているのが実態となっている。

もとより健康でなければ、自身の日頃のささやかな願いも叶わないので、
歩くことが何より健康体の源(みなもと)と思い、そして適度な熟睡する睡眠、或いは程ほどの食事が、
セカンドライフ健康体と信愛し、年金生活を過ごしている。

       

こうした中、私と同世代の御方が、不運に大病されて亡くなわれた御方は、
私の友人、知人にも8名いたり、或いは大病で入院されている御方もいる。

私はそれぞれの御方がこの世を去る御歳は、確かに日頃の自助努力も大切であるが、
こればかり神様か仏様の采配に寄るものだ、と友人や知人の御通夜、告別式に参列して、
うなだれながら思い深めたりしてきた。

しかしながら長寿社会の今日、殆どの70代の御方は、身体の衰えを実感しながらも、
溌溂と日々を過ごしているのが実態と思えて、私なりに70代の仲間として、
ときには友人、知人と談笑したりして、私は楽しい日々を享受している。


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台所で皿洗いをする時、楽しきひとときだなぁ、と老ボーイの私は微笑みを重ねて・・。

2018-02-19 13:53:35 | ささやかな古稀からの思い

私は東京の調布市の片隅みに住む年金生活の14年生の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
そして雑木の多い小庭の中で、古ぼけた一軒屋に住み、ささやかに過ごしている。

こうした中で、遠い地に独り住まいをしている家内の母宅に、
家内は家内の妹で交互に、介護に泊りがけで行く日もあり、

こうした時は私は我が家で、独りぼっちの『おひとりさま』の生活を過ごしている・・。

食事に関しては、平素と殆ど変わりなく食べたりしているが、
夕食用として家内が準備してくれた料理を主体に食べたりしている。

そして4泊以上になる時は品切れとなり、
私がスーパーのお惣菜(総菜と同意語)売場で買い求めた品を並べて

食べているのが実態となっている。

こうした中で、平素の買物は、年金生活を始めた当初より、せめて買物ぐらいは私がするよ、
と自主宣言をして、家内から依頼される品を求めて、私は独りでスーパー、専門店に行っている
買物メール老ボーイなのであり、苦も感じることなく、ここ数年はベテランかしら、と微笑む時もある。

      

昨日の昼食は、昨年の10月からの定番、ヨーグルトを箱の二分の一を食べた後は、
リンゴを一個ばかり頂いたりした。
     
この後、台所に行くと、大皿、小皿、小鉢、茶碗、グラスなどが散乱していたので、
恥ずかしながら一日一回だけ、台所を整理した・・。

私はカーディガン風のフリースを脱いで、冬用のスポーツシャツを腕まくりして、
家内から借りた可愛らしいエプロンを着たりした。

そして『燃えるゴミ』、『燃えないゴミ』、『プラスチック』などを整理した後、
瞬間湯沸かし器の温かなお湯と石鹸で、手を清めたりした。

まもなく食器専用の洗剤液をスポンジにたらし、大皿、小皿、小鉢、茶碗、グラスなど
丁重に擦(こすっ)たりした後、瞬間湯沸かし器で少し温かなお湯で
盛大に洗い清めたりした・・。

      


こうした時、どうした心情が解からないが、

♪嵐も吹けば 雨も降る・・と大津美子さんの『ここに幸あり』の歌を、かぼそい声で唄っていた。

そして♪・・女の道よ なぜ険(けわ)し  君をたよりに わたしは生きる・・
と唄ったりした。

この数分後、家内や私の妹も団塊世代の人であり、専業主婦が多く、
妻が専守防衛長官ように家庭内を維持管理していたので、もとより発言力も増し、
まして平成の時代になると、共稼ぎの多い時代に変貌してきたので、
この歌の内容は、死語だょねぇ、と苦笑したりしていた。

そして私は微苦笑しながら、確か1956年(昭和31年)の私が小学5年生の時に、
ラジオから盛んに流れていた歌だったので、
俺も古い人間でやはり齢は隠せない・・、と思ったりした。

やがて家内から教えてもらった通り、忠実に食器はもとより、包丁、まな板、スポンジなどは、
丁重に洗い清めて、乾燥できるようにした。

まもなく、台所が少しばかり綺麗になり、独り微笑んだりした・・。

こうした根底のひとつには、過ぎしサラリーマンの時代は何かと悪戦苦闘が多かった為か、
成果が素直に現れるので、私としては楽しい時となっている。

      


こうした独りぼっちの『おひとりさま』の私が、台所で皿洗いをする時は、
何故かしら歌を唄う時が多いである・・。

しかながら、こうした時に恥ずかしい思いを私は秘めたりしている。

確か8年前の4月下旬に於いて、やはり家内が留守なので、昼食後のひととき、 私は台所に立った。

台所のひとつの戸を開け、そして前掛けをして、腕まくりをした後、皿洗いなどをした・・。
こうした中、CDラジカセを持ち込んで、一枚のCDをセットした・・。

少し山積みとなった大皿、小皿、丼ぶり、小鉢などを水道水を盛大に出しながら、
スポンジでこすり洗ったりしながら、心の中は、さぁ~いくぞ・・という心境であった。

私がセットしたCDは、ハードロック・グループの『X JAPAN』のひとつのアルバムであった。
過ぎし1997年(平成9年)の頃に、当時52歳の私でも瞬時に魅了され、
遅ればせながら『X JAPAN』に夢中になり、帰宅するたびに殆ど毎晩、2時間ぐらい聴きこんだりしていた。

こうした体験を秘め、平熱になった定年後の年金生活でも、ときおり余韻のように聴いたりしている。

そして私が唄ったのは、高校野球の応援歌で、演奏されたりしている『紅(くれない)』であった・・。

                  

♪紅に染まったこの俺を慰める奴はもういない
・・・
【『紅』 作詞・作曲 YOSHIKI】

この後、台所専用の洗剤で皿などをこすった後は、水洗いを盛大にしたのであるが、

♪もう二度と届かないこの思い
 閉ざされた愛に向かい
 叫びつづける
・・・
【『紅』 作詞・作曲 YOSHIKI】

この歌に準拠して、ボーカルのTOSHIに負けじと私なりに唄い続けた・・。

私は水洗いをしながら、この歌を『一曲繰り返し』セットし、唄い続けたのであるが、
不思議ながら合致するのである。

もとよりバラードであると、聴き込んでしまうので、
程々のハード・ロックが心身の波長に合うと、小綺麗になった台所で、独り微笑んだりした・・。

                  

この後、台所の戸を更に大きく開け、西陽をぼんやりと眺めていたら、
玄関のチャイムが、コッキラ・・コ~ン!・・、と鳴り出した・・。

私は玄関が見える洗面所の窓から、そぉ~と見たら、
30歳前後の麗(うるわ)しい御婦人が幼児の女の子を伴い、立っていた。

私は自治会の役員の御方が、共同募金の収集でお見えになったのだ、と解かったが、
この御婦人の表情、言葉、しぐさも私は好感していたので、
私は前掛けと腕まくりの容姿としては、少しあわてたりした。

そして、私は『はぁ~い』と明るく大声で言いながら、前掛けを取り、応対したりした・・。

もしも私は15分ほど早かったら、『X JAPAN』と共に、大声で唄っていたので、
もとより見せられる格好でなく、今であってよかったよなぁ・・、
と心の中で呟(つぶや)いたした苦い体験があったりした。
       

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遠い昔となった昭和30年代、『都電』に乗ったささやかな思いでを馳せて、独り微苦笑して・・。

2018-02-18 15:23:29 | ささやかな古稀からの思い

私は東京郊外の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住む年金生活の73歳の身であり、
昨日の夕方、本の整理をしている中で、ひとつの本に懐かしく、しばらく読んでしまった・・。

私が読んでいる本は、正井泰夫(まさい・やすお)氏が監修された『東京の昭和』(青春出版社)であり、
副題として『図説 地図で暮らしを読む東京の昭和』と題されている。

昭和の銀座、秋葉原、路面電車、東京タワー、皇太子御成婚、東京オリンピックなど
昭和の激動期に首都の東京都心の敗戦後から今日まで急激に変貌してきた実態を
写真と共に、記事が克明に記されている内容であった。

私は定年退職した翌年の2007年(平成17年)の晩秋に、
たまたま本屋で見かけて、懐かしさの余り買い求めた雑誌であった。

        

先ほど何気なしに《路面電車》のページを読んだりしていると、
そうだったよねぇ、あの頃は都心でも盛んに『都電』が走っていたよなぁ・・、
と私は心の中で呟(つぶや)いたりした・・。

都心に住む若い世代の人には、都電と綴っても、現在は確か荒川線が走行しているぐらいと思われ、
殆どの御方はお解りにならないと思うが、

東京の都心で昭和30年代は、路面電車として隈(くま)なく走っていた・・。


私が地元の小学校に入学した1951年(昭和26年)の春、
この頃から母に連れられて京王線の金子駅(現在・つつじが丘駅)から新宿駅まで乗車し、
母はデパートなどで、年に数回ぐらい買い物をしたりしていた。

或いは父の妹の叔母に連れられて、親戚が住んでいる高幡不動駅まで電車に乗ったりしていた。


この後、私は小学4年の頃から、映画に魅せられて、
独りで映画館に行ったりしていたが、あくまで近場の布田駅、調布駅、
或いは千歳烏山駅の映画館であった。

私が小学6年の1957年(昭和32年)の時、
次兄から有楽町で洋画のロードショーを観に行こう、と誘われた。

この当時の私は、電車に乗ってきたが、乗り物に酔いやすい少年であった。

次兄に導かれて、私は京王線で新宿駅まで30分前後で到着したが、
何となく気分が悪かったりした。

そして新宿駅より有楽町までの国電(現在・JR)より、廉(やす)いから都電で行こう、
と次兄から私は言われたりした。

        
        この写真はネットより、拝借させていただきました


まもなく
新宿駅より西口の地下ガートを通り、確か歌舞伎町の前の大通りの中央に、
都電の新宿駅があり、築地駅、月島(通り8丁目)駅方面に行ったりしていた。

そして私たちは数寄屋橋駅まで利用する為に乗車した。

確かこの当時の都電の電車賃は、終点の築地まで乗っても、13円だったと記憶している。

私は初めて乗った都電は、一両編成で大通りを走ったが、
自動車も両脇に走って折、繁華街、ビル街が車窓から観え、
その上、都電は揺れるので、気分が悪くなった。

普通の電車のように枕木、砕かれた石などの弛緩材などはなく、

敷石の間に線路を敷いていたので、揺れるのであった。

私は次兄に、
『まだ・・遠いいの・・』
と私は言った。

『もうちょっとだから・・我慢してよねぇ・・』
と次兄は私に言った。

次兄が私に言った言葉の中には、一区間が13円で降りたら、もう1度支払う必要があると、
意味合いの言葉が含まれていたので、私は我慢をしたりしていた。

やがて私はどんよりとした曇り空り中で、皇居のお堀が観えた頃、
『もう無理だから・・降りよう・・』
と私は次兄に懇願した。

結果として、目指した数寄屋橋駅のひとつ手前の日比谷駅で降りた。

私は青白い顔で次兄に謝(あやま)り、
まもなく私たちは、とぼとぼとお堀端を歩き、数寄屋橋のガートの近くの映画館に到着した。

映画は『朝な夕なに』であったが、
綺麗な白人女性の教師とトランペットを吹く生徒が心に残った。

後年になると、私としては洋画の初めてのロードショーであり、
綺麗な女性はルート・ロイベリックで、
映画の主題歌は『真夜中のブルース』が流行した、と判明した。


こうした私は都電で関して苦い体験をしたので、
この後も都電を観るたびに、苦手意識を持っていた。

       

この後、私は1960年(昭和35年)年の春、都心の中野にある私立の高校に入学した。
京王線のつつじが丘駅、或いは仙川駅から新宿駅まで乗車した後、
西口より5分ぐらい歩いた先に青梅街道の大通りがあった。

この当時は、この西口の大きなガード下に近い場所に、
新宿駅から荻窪駅まで青梅街道を走行する都電の路線があった。

私が通った私立の高校は、青梅街道沿いにある中野警察署の近くにあり、
ここから5分ぐらい歩いた先にあったので、
ときおり
中央線の新宿駅から中野駅まで乗車することがあったが、
殆どはこの都電の路線で通学していた。

新宿駅より混雑時には二両連列となり、新宿駅の街並みを離れ、
商店街の情景に変わったが、この区間の沿線に美術短期大学、女子高校等が三校あり、
私は車内で数多くの綺麗なお姉さんに気を取られたせいか、乗り物酔いなどは忘れ去ってしまった。

私が卒業した1963年(昭和38年)の春を過ぎて、まもなく地下鉄が開通して、
この区間の都電は廃線となった。

この間、私は青梅街道の都電の新宿駅の近くに『小田急デパート』(現在・小田急ハルク)が
1962年(昭和37年)に開店したりしていたので、
やがて西口、周辺はどのように変わり果てるのか、私は戸惑いを覚えたりしていた。

そして新宿の西口の郊外にあった淀橋浄水場は移転された後、
後年に西口の高層ビル群、そして都庁も移転してきて新宿副都心として大きく変貌した。

                     

このようなことを愛惜感を秘めながら思い馳せて、
昭和30年代・・激動で大きく変貌してしまった・・遠い昔となってしまったよなぁ・・
と思い重ねたりした。


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ブログの投稿文、丸13年重ねてきた私は、嬉しい限りのひとつにも、数多くの御方にひたすら感謝して・・。

2018-02-17 14:20:37 | ささやかな古稀からの思い

私は東京の調布市に住む年金生活の73歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

こうした中、私たち夫婦はお互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごして、早や14年目となっている。

過ぎし2004年(平成16年)の秋、私は民間会社の中小業のある会社に35年近く勤めて、定年退職となり、
この間、幾たびのリストラの中、何とか障害レースを乗り越えたりしたが、
最後の5年半はリストラ烈風が加速され、あえなく出向となった。

そして遠い勤務地に勤め、この期間も私なりに奮闘した結果、
身も心も疲れ果てて、疲労困憊となり、定年後はやむなく年金生活を始めたひとりである。

       

そして年金生活を始めてまもない時、偶然に本屋の店頭で一冊の本にめぐり逢え、
私は初めて『ブログ』の世界を知った・・。

この本は『はじめよう! みんなのブログ』(インプレス)と題された、
別冊インターネット・マガジンであった。
     
ブログの世界は、多くは匿名制度であり、ある程度の良識を根底に於けば、
それぞれの御方が自由に、私生活の出来事から、政治、外交、軍事、経済、社会などの分野まで表現でき、
日本でも2002年(平成14年)の頃から急速に普及し、
誰でも発信できる人類史上初めての時代が到来している。

この少し前の時代は、もとより各専門知識のある有識者が、雑誌、新聞などに寄稿文を掲載することができる時代で、
私のように無名で素人の身は、せめて新聞・雑誌などの読者コーナーで、記事を投書できる範囲であり、
そして掲載の判断は、編集部の意向で決められていた。

こうした結果として、私は自在に私の生活のことから、政治、経済、社会などに専門知識がない私でも、
私なりの思いを発露でき、何よりブログはホームページより手軽に開設、運営できると感じ、
ブログに加入しょうと決意した。

                 
        
そして2004年(平成16年)11月12日にある大手のブログサービスに加入し、
早や丸13年が過ぎて、14年生を迎えている。

しかしながら、この後、2つばかりのブログサービスに彷徨(さまよ)った後、
この【gooブログ】に翌年の2005年(平成17年)1月19日に加入したりした。

そして、この後に他のブログサービスに加入して熱中して、2度ばかり【gooブログ】を中断したが、
2008年(平成20年)の5月以来は継続し、今日に至っている。    
       
このような軌跡で、ブログの世界を知って丸13年が過ぎて、早や14年生に進級した。

結果としては、パソコンの故障、国内旅行などしない限り、日に少なくとも一通は投稿してきた。

          
                                                               
こうした私の根底には、私の幼少時代から年金生活している現在までの生きてきた心の軌跡を発露して、
自己表現のひとつとして、心の証(あかし)の残したいからであった。

或いは年金生活を過ごしている今、日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。
                    
私の投稿文の殆どの内容は、幼年期からサラリーマン退職時まで、
そして年金生活の日々の心情を脚色もないありのままの思い、真情を投稿文に認(したた)めたく、
あますことのないように綴ってきた。

私は綴る際は、自身のその時の心に素直に綴るようにし、
あとで振り返った時、あの時はこのような思いで過ごしていたのか、
何より自身に対して、その時の思いの心情を大切にしているひとりである。

そして恥ずかしながら数多くの駄文を綴ってきたが、
ひとえに自身の為の心の軌跡の発露、と言っても差し支えない。

     

こうした中で、私は投稿文の時に、多くの方に読んで頂きたい自己顕示欲もあり、
投稿文の中では、改行を多くし読みやすいようにしている。

或いは6年前の頃から、何とか写真を添付することが出来たので、
乏しい筆力を補(おぎ)いながら、カット代わりに写真を掲載したりしている。
         
そして私はブログを投稿する際、ひとつのテーマを決めて、真摯に、ときには楽しく綴ることもあるが、
不勉強の為に筆力が乏しいながら、最後までお読み頂けるように試行錯誤をしたりしている。

しかしながら私の投稿文の内容は、あふれた思いを伝わるように熱意ばかりで、
一気呵成に書き上げてしまい、ときには長き投稿文になったり、
投稿文を送信した後、読み返したする時、つたない綴りが多いので反省する時もある。
               
ここ6年近く、このサイトに綴ることが生きがいのひとつになっているので、
数多くの御方にお読み頂き、私がブログが継続できたこともあり、偏(ひとえ)に感謝の一言です。

                                       

今朝、私の【gooブログ】に於いて、『アクセス解析』の中で、昨日の投稿文ごとの『ページごとの閲覧数』があり、
こうした中、過ぎし年の2014年8月21日に投稿した文が、70PV、と表示され、
古き私の投稿文を、70人の未知の御方にお読み頂けた・・と驚いたりした。

http://blog.goo.ne.jp/yumede-ai/e/25679710e533e3a5757efd17f7d71da9
血液型B型の私、ときには理性を失くして、物狂いになることもあり』

最近の投稿文、或いは年金、病気、介護、死別などは切実なことであり、

こうしたことは何かとお読み下さっているが、今回のこうした私のあふれる思いをお読み下さり、
驚きながら、微笑んでしまったりした。

もとより私はブログを投稿する際、ひとつのテーマを決めて、真摯に、ときには楽しく綴ってきたが、
古き投稿文もお読み下さることは、嬉しい限りであり、独り微笑みを重ねてしまった・・。

                         

             
私は自身の投稿文も大切であるが、数多くの御方の投稿文を読ませて頂いたりした。

私は特に数多くの50代以上の数多くの諸兄諸姉の投稿文を読ませて頂きながら、
いつも感じられることは、日記として綴られている場合は、
その人なりの思いをその御方ご自身の言葉で、淡々と綴られているのに、
圧倒的に感動を覚(おぼ)えたりしてきた。

そして日々の日常生活の過ごした方、或いは人生の思いを学び、
こうしたお考えで、この人生を過ごされているのか、と教示されることが圧倒的に多く、
お住まいの地域、これまで綴られた人生航路の軌跡に思い重ねながら、
何よりも生きた人生の教科書、と確信を深めたりしている。

こうして読ませて頂きながら、私は秘かに励ましを感じたり、微笑んだりして、
確かな人生の底知れぬ哀歓を学びながら、年金生活を過ごしたりしている。

或いはその地域の情景の四季折々の移ろいを背景とし、
デジカメの数葉を掲載され、絵葉書のような観光地の解説でなく、
その方ご自身の言葉で綴られるのに感動させられたりしている。

そして言霊を信愛し、何よりも投稿文で吐露(とろ)しなければ、
この人生を生きて行くことはできない、
このような圧倒的に心の深淵まで描写できる方もいる。 


            
                           
こうした数多く投稿文を読ませて頂く中、たとえたった一行の綴りでも、
私は瞬時に琴線(きんせん)が静かに奏(かな)で始めて、
やがてその御方のブログに魅了されて、愛読者のひとりになってきた・・。

或いはコメントを頂いたり、或いは私は数多くの方の投稿文を読ませて頂き、
感きわまってコメントをしたりしている。

或いはそれぞれの御方よりコメントを頂き、
私は思いかけずに喜んだり、私の投稿文をこのように解釈されたのかしら微苦笑したりし、
返信を認(したた)めたりしている。

こうした中で望外の喜びとして、ブログサイトを開設していない数名の方より、
幾たびかコメントを頂き、もとより私は本心を発露して、返信を認(したた)めてきたりした。

そして現代の私は、私がブックマークに掲げた人を中核に、
毎日のように数多くの御方の投稿文を読ませて頂きながら、
日々の日常生活の過ごした方、或いは人生の思いを学んだりしている・・。
           
このように私は、感じ深めていることは、この広い空の下で、未知のそれぞれの御方に投稿文、
或いはコメント上で、めぐり逢えたこと、
私にとっては心の宝物、と改めて感謝を重ねている。


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『花ことば』、まぎれなく人々の思いが凝縮されて名言、と思いながら微笑んで・・。

2018-02-16 13:13:30 | ささやかな古稀からの思い

私は東京の調布市の片隅みに住む73歳の身であり、
今住んでいる近くで、農家の児として生を受けて、
やがて中小業のサラリーマンを35年近く勤めた後、多々の理由で年金生活の14年生となっている。

こうした中で、古びた一戸建てに住み、小庭の雑木、草花を眺めたり、
周辺の遊歩道、公園を散策をしたりして、日々季節のうつろいを教示されている。

ときおり、家内との共通趣味の国内旅行などをして、
各地の四季折々の限りない美に心を留め、齢を重ねるたび愛惜が深まっている。

このように感じ受けとめながら日々を過ごしたりしているが、
つたない無知な私は何かと書物で、改めて日本の歳時などを多々教示されている。


                 
        
例えば、藤野邦夫・著の『幸せ暮らしの歳時記』(講談社文庫)、
飯倉春武・著の『日本人のしきたり』(青春出版社)、
朝日新聞社・編の『色の彩時記~目で遊ぶ日本の色』(朝日新聞社)、
講談社・編の『茶花歳時記』(講談社)、
野呂希一、荒井和生・共著の『言葉の風景』(青菁社)、
長谷川 櫂・著の『四季のうた』(中公新書)、
松田 修・著の『古今・新古今集の花』(国際情報社)、
道行めく・著の『美しい日本語帳』(永岡書店)、
山下景子・著の『美人の日本語』(幻冬舎文庫)

などが私の机の横にある小さな本箱にあり、

定年後に幾たびか読み返したり、或いは初めて精読した本もある。

そして齢ばかり重ねた無学な私は、ときおり国語の辞書を置き、
そおっと開く時もある。

久松潜一・監修の『新潮国語辞典 ~現代語・古語~』(新潮社)であるが、

二十歳以来から何かと教示を受け、私の秘かな言霊(ことだま)の恩師となっている。

私は齢ばかり重ねた高齢者の身であるが、
何よりも季節感を大切に日常生活を過ごしているので、
この机の端にある程度の書物を置いたりしている。


こうした中で、私にとっては本棚の片隅みには異例とも思える一冊の本があり、
恥ずかしながら記載するが、弘田 茂(ひきた・しげる)・著作の『花ことば』(保育社)がある。

この本は確か1974年(昭和49年)の頃、私は20代の後半であったが、
季節感を深めたくて、店頭で偶然に買い求めた一冊である。

        

こうした根底には、特に西洋花が苦手であるので、拙(つたな)いなりに少し勉強をしょうと、
通勤の満員電車の中で読み耽ることが多かった。

チューリップは『博愛・名声』
ヒアシンスは『競技・遊技』
アモネスは『薄れゆく希望』
クロッカスは『焦燥』
デージー(ひなぎく)は『無邪気・平和・希望』
水仙は『うぬぼれ・我欲』
スノードロップは『慰め・希望』
フランス菊は『忍耐』
ガーベラは『神秘』
矢車草は『繊細さ・優雅』

・・このような『花ことば』と丁重な解説を学び、若き独身の私は、ときには女性とデートを重ね、
日比谷公園、新宿御苑を散策した時に、こうした花を見たりし、この『花ことば』を重ねたりしていた。

もとより『花ことば』は、人々の日常生活の中で、それぞれの人々の思いが凝縮され、
託された名言と思ったりしている。


        

そして何かと無知な私が、ヨーロッパの諸国の文化を学ぶ時、キリスト教、石の建物と同様に、

歴史書、文学、音楽、絵画などの世界は、その地に描かれた地域を理解する上で、
少なくとも幾つかの花のうつろいの情景、そして情緒は欠かせないと思ったりしている。


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また独りぼっちになってしまった・・、と時折『おひとりさま』になる私は、微苦笑を重ねて・・。

2018-02-15 14:48:21 | ささやかな古稀からの思い
今朝8時過ぎに、私は門扉の近い道路に降り立って、
『お義母(かあ)さんに、よろしく・・』
と私は家内に言った後、家内を見送ったりした・・。

私は東京の調布市の片隅みに住む年金生活の14年生の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
そして雑木の多い小庭の中で、古ぼけた一軒屋に住み、ささやかに過ごしている。

本日は、 家内は独り住まいの家内の母宅に、6泊7日で介護に行く日であったので、
私は平素より1時間半ばかり早く、5時過ぎに起床した。

やがて私は家内と共に朝食を頂いた後、小田急線が人身事故の為に、大幅に遅延していると知り、
家内は家内の母宅に行く時間を遅らして、我が家を8時過ぎに出かけた。

こうした関係で、ときおり私は我が家で、独りぼっちの『おひとりさま』の生活を過ごしている・・。

        

私たち夫婦の両親は、今や家内の母だけとなり、遠方の地に一戸建てに住み、
私より14歳年配で87歳の身となっている。

過ぎし私が2004年(平成16年)の秋に定年退職する直前に、家内の父が病死されて、
これ以来、家内は季節が変わるたびに、独り住まいとなっている家内の母宅に、

季節の変わり目の支度で、6泊7日前後で行ったりしてきた。

やがて家内の母は、80歳過ぎた頃から膝(ひざ)を悪化して、まもなく杖(つえ)を突く身となって、        
こうした後、整形外科、内科、眼科に通院している中、膝(ひざ)と腰に激痛が感じ、
一昨年の5月より少し遠い大学病院で検査、そして入院、退院後の検査が加わりした後、
リハビリで近くの病院に行ったりして『要支援2』となってきた。

そして家内は付き添う為に、家内の母宅で駐在することが多くなってきた。

やがて家内の妹が強力な援軍となり、家内と家内の妹が交互に、
家内の母宅に殆ど宿泊して、家内の母の食事、洗濯、掃除、或いは通院の付き添いなどしている。

そして昨年の5月より、家内の母はデイ・サービスに通った成果で、市の福祉課が再審査を得て、
『要介護2』から『要支援2』と回復して認定されたりした。
           
このように、家内は家内の妹と逐次連絡しあって、家内は独り住まいの家内の母宅に行っている時は、
私は我が家で、独りぼっちの『おひとりさま』の生活を過ごしている・・。

いつの日にか私たち夫婦も、どちらかが片割れとなる『おひとりさま』になる時が来るので、

私としては『おひとりさま』の特別演習かしら、と思いながら過ごしている。

        

こうした中、ときおり『おひとりさま』になる私は、勝手きままに過ごしたりしている。

恥ずかしながら、私の『おひとりさま』の生活の実態を発露する。

朝、目覚めた後は、やがて台所にある調布市から配布されたカレンダーを見て、
『燃えるゴミ』、『ベットボトル』、『古紙・新聞』、『燃えないゴミ』などの指定日を確認して、
これに対応して、調布市から指定された道路に面した門扉に置いたりしている。

やがて朝食は、家内は炊き上げた十六穀米の入った白米のご飯を、
半合単位にラップに包んで、冷蔵庫の片隅に保存してくれているので、
私は電子レンジで温めて、頂いたりしている。

こうした中で、私の朝食の前菜は、新タマネギと生ワカメとあえたりした常食をミッカンぽん酢とお醤油をかけて、
大きな皿に盛大に食べたりしている。

この後は、電子レンジで温めた十六穀米の入った白米のご飯、インスタントのワカメの味噌汁、
納豆、しらす干し、コブの佃煮、ラッキョの塩漬け、福神漬け、焼きノリ、サバの味噌煮の缶詰としてきた。

この後は、我が家の最寄のスーパーに行き、夕食用のお惣菜(総菜と同意語)売場で数品を選定したり、
野菜、果物売場で少し買い求めて帰宅することが多かった。

昼食はヨーグルトを箱の二分の一を食べた後は、リンゴを一個ばかり頂いたりした。
その後は、台所で鼻歌を唄いながら皿洗いなどをして、水遊びをした。

                     

午後の時間は、いつものようにブログの投稿文を送信した後、
私が愛読している御方のブログの投稿文を読ませて頂いたりし、
或いは本を読んだり、音楽が聴きたくなった時は、音楽棚からDVDを取り出して、
ライブ盤などはテレビを通して、視聴したりしてきた。

やがて夜の8時前後に入浴した後、家内が温めて食べられる料理を数多く準備してくれているのを、
夕食として食べたりしている。

そして健康の源(みなもと)は、程々の食物から形成されると学んだりしてきたので、
前菜として、ニンジンを千切りにして、電子レンジで少し温めて、
ゴマドレッシングに少しお醤油をかけて、食べている。

そして家内が4泊以上になる時は、家内が準備してくれた料理は品切れとなり、
私がスーパーのお惣菜(総菜と同意語)売場で買い求めた品を並べて
食べているのが実態となっている。

こうした中で、話し相手がいない私は、ウィスキーをオンザロックして数杯を呑みながら、
殆ど映画棚から、その日に観たい作品をテレビを通して、視聴したりしてきた。

        
洗濯に関しては、洗濯から乾燥できるまでの洗濯機に頼り、
せめて下着、タオル、パジャマぐらいはしょう、と私は思ったした・・。

しかしながら家内より、着替えはたくさんあるでしょう、私が帰ってからします、
と強い口調で私は言われてしまい、助かるよぅ・・と私は即答したりしてしまった。

このような洗濯機の機能も知らずに、今日まで至っている軟弱な私となっている。

掃除に関しては、多少の埃(ほこり)がたまっても・・とグウダラな心情で、
二日に一回・・電気掃除機を曳いて、掃除したくらいである。


こうした中、私は亡き母の遺伝を純粋に受け継いだ為か、恥ずかしながら男の癖におしゃべりが好きで、
平素は何かと家内と談笑したり、ご近所の奥様、ご主人など明るく微笑みながら談笑したりしている。

そして私は、遊歩道、公園などを散策していると、見知らぬ男性、
女性グループの御方たちと、話しかけられたり、或いは話しかけたりして、談笑し、
殆ど毎日過ごしている。

そして私は、ときおり『おひとりさま』になる時は、家内が留守の為か、
ご近所の奥様、ご主人などと長話になることが多くなったりしている。
        

このように私は手抜きの『おひとりさま』の生活
をしているが、
家内は料理、掃除、洗濯などの家事は優等生であり、私などはいつまでたっても初心者以下あり、
もとより落第生だよなぁ・・と微苦笑を重ねたりしている。

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バレンタイン・デー、年金生活の我が家は、一日早い13日となり、私は微苦笑を重ねて・・。

2018-02-14 12:42:21 | ささやかな古稀からの思い

私は民間会社の苦楽の多い中小業の会社に35年近く奮戦し、2004年(平成16年)の秋に定年退職し、
多々の理由で年金生活を始め、早や14年生となっている身である。

そして私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
都心の郊外で雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住んでいる。
         
私は73
歳の身となり、家内は67歳となり、お互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。

こうした中で、家内は昨日の13日の昼過ぎに美容院に行き、
やがて帰宅後に『おみやげですょ・・』と家内は私に微笑みながら、小さな紙袋を手渡した・・。

そして私は紙袋を開けると、何かしらチョコレートの親戚ような物が三つ入っていた。



『明日、バレンタイン・デーでしょう・・先程、スーパーで買ったのょ』
と家内は私に微笑みながら、言ったりした。

『そうだょだったよねぇ・・明日は全国的にバレンタイン・デーだ・・いち早く有難う・・』
ともすれば祭日さえ忘れることが多くなっている私は。明るい声で応(こた)えたりした。

『でもねぇ・・全部で千円を超えていませんから・・』
と家内は笑いながら言ったりした。

『そぉ・・それだったら・・気楽に食べられるょ・・』
と私は安堵しながら言ったりした。

やがて私は、こっそりと見ると、昨年と同じだ、と微苦笑をしたりした。

  

私はチョコレートに関して、家内から長年に頂いているが、
私は少しだけ食べて、殆ど家内が頂いているが、結婚以来の実態となっている。

私はバレンタイン・ディーに、女性がそれぞれの思いを男性に託してチョコレートを贈呈する風潮は、
確かに25年前の頃からあったと思われるが、もとより私の若き20歳の頃は記憶になかった。

昨今、デパートのチラシの中には、高価な15000円もあったりしていたので、苦笑したりした。

もしも私が25歳ぐらいの若き独身の男性であったならば、昨今の経済の諸情勢を配慮すれば、
愛しき女性からは300円ぐらいのバレンタイン・チョコレートを頂ければ充分だし、
こうした中で、ささやかに食事をしながら語り合いたいなぁ、と思ったりした。




そして私には、チョコレートの板チョコには、人生観を変えるぐらい深い思いでを秘めている・・。

私が1954年(昭和29年)の小学3年生になったばかりの時、私を可愛がってくれた祖父が死去した。
前年に祖父の長兄だった私たちの父が亡くなり、跡継ぎを失くし、
その上に祖父自身も病状が悪化して、落胆した表情が少年の私さえ感じていた。

そして祖父、父が中心として、程ほどの広さの田畑を耕し、
多忙な時期は小作人だった人たちの助けも借りて農業をしていたが、
大黒柱の2人を失った生家では、長年の農業の技量の伝承が絶たれてしまったので、没落しはじめた・・。

こうした中で、母、父の末妹の叔母、長兄、次兄、私、そして妹のふたりが残された家族となり、
生活は困窮し始めた・・。

                      
        
このような状況下の時、祖父の妹に当たる祖母のような心優しい御方が、
何かと不憫に思い心配されて、とても私たちが日常生活で買い求めることのできない和洋菓子などを持参してくれた。
その上、妹の2人には、何かと品を頂き、ときにはお揃いの洒落た下駄などを頂戴した。

この御方が帰路する時、小学3年生だった私は、
駅までの15分ぐらいの町道をこの御方と共に歩いて、駅で見送った。

この少し前、この御方は私に、
『チョコレートでも買ってねぇ・・』
と私に百円玉ひとつを手渡して下さった。

この後、私は小汚い身なりであったが、駅前の商店街の菓子屋に行き、
まばゆい包装紙に包まれた一枚の板チョコレートを買ったりした。

そして私は駅前から急いで帰宅し、妹のふたりと割って食べたりした。

しかし恥ずかしながら告白するが、正確には私は少し大き目の3分の1であった・・。

あの家も貧乏になった、と少年の私さえ、近所の人たちの風の噂を聴こえたりしていたが、
この時ばかりは妹2人と食べあった板チョコは、この時は何かしら貧乏のことも忘れさせてくれた。

こうした体験を秘めた私は、たった一枚の板チョコレートであるが、
ここ10年前の頃からのベルギー産の高級品、宇治抹茶生チョコなどのチョコレートより、
遥かに美味しく感じられるのである。

そして私は少年心に、たった一枚の板チョコレートでも人生観を変えることがある、
と思ったりしている。

            

私が定年前の現役サラリーマン時代は、家内からは程々に高価なハート・マークのような品を頂いたが、
定年退職後の多々の理由で年金生活を始めると、私は家内と結婚してまもない頃に、
私の小学3年生のチョコレートの思い出を話した為か、板チョコは一枚となってしまった・・。

やがて8年前に高齢者入門の65歳となり、このお祝いの為か、
ミルクチョコレート、ブラックチョコレート、ホワイトチョコレートの板チョコ3枚に昇格し、
これ以来、板チョコ3枚が毎年の恒例となってきたが、
一昨年より更に昇格して、今回のようなチョコレートとなっている。

余談であるが、日常の買物メール老ボーイの私は、最寄りのスーバーで買い物をしている時、
特売として一枚80円前後の懐かしい包装紙に包まれた板チョコを見かけると、
確かに私が小学3年生の時に食べた板チョコだよねぇ、と思いを馳せたりして、買い求めたりしている。

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