夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

年金生活の私は、とりとめなく、睦月の一月も過ぎさり・・。

2010-01-31 09:49:54 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であり、
いつものように日の出前の5時半に起床し、ぼんやりとカレンダーを見たら、
月末かょ、と思いながら微苦笑したりした。

読売新聞の朝刊を煎茶を飲みながら、読んだりしていると7時になり、
雨戸を開けて、まばゆい朝陽を受けたしている。
そして地元の天気情報を見たら、
朝の6時は3度、日中は3月のような陽気に恵まれて14度前後、
そして夜の6時は10度前後となるので、
買物と散策に良し、夜のひととき月を誉(ほ)めるのも良いかしら、と思ったりした。

しかし、このようなことは私はいつものことであるので、
過ぎ去る一月は平年と変わったことはなかったかしら、とこのサイトに綴った投稿文を読み返したりしていた。

年末年始は家内の母に来て貰い、年末の28日より新年の4日まで、
私達夫婦と生活を共にしたのは、ここ6年ぱかりの恒例であるし、
新年の2日に洗濯機が故障し、やむえず家内が手洗いを孤軍奮闘したことかしら、
と思ったりした。

この後、私は使用してきた洗濯機は10年は過ぎているし、6年前頃に修理したことがあったので、
買い改めようと家内に了解させて、私は家内の機種の要望を聴いて、
家電の量販店に行ったぐらいかしら、と苦笑した。

そして思い返すと、何より変貌したのは、暖冬の日々であった・・。
年末に日本水仙が咲きはじめ、白梅も中旬から咲きはじめ、
私は微笑みながら戸惑ったりしていたのである。
このような状況であったので、私の住む地域は、
春のような暖かさに恵まれていたが、小雨が降ったのはわずか2日ぐらいで乾ききった空気につつまれている。

私は毎朝、天気情報を見たりしていると、
日本海沿いは平年より積雪が多く、除雪などに労苦を重ねている、と視聴したりすると、
傲慢かも知れないが、天上の気候の神々に積雪の多い地域から関東の南部も少しばかりわけてほしい、と思ったりしている。

私の住む地域は、私の幼年期の頃は、積雪も30センチ前後は毎年降っていたので、
何かと雪恋しのひとりである。

やむえず私達夫婦は、この時節は雪景色を求めて、国内旅行を幾度も重ねてきたのであるが、
この一月に私は家内に旅行に誘ってみたのであるが、経費節約と拒絶されてしまったのである。

去る11日には私の母の13回忌、次兄の33回忌の法事があったり、
家内のオーバー・コートも新調したりし、年金生活の我が家としては、ある程度は費用を要したのである。

そして、2月下旬より小笠原諸島に鯨(クジラ)が遊泳する情景を観る為に旅行があり、
生涯一回の機会と思われるので、ゆったりと滞在したいわ、
と家内の要望により、11泊12日となり、程ほどの高価な旅費となってしまったのである。

私は旅行会社に振り込む時、またもやパナソニックのプラズマ50インチのテレビが遠のいた、
と思いながら手続きをしたのである。

年金生活の今、洗濯、掃除、料理などはもとより何かと家内に負担をかけているので、
茶坊主に専念しても、買物を担当している私でも、降参よ、と心の中で呟(つぶや)いたりしている。


このような身勝手な私の心情すれば、
二月のある日、私の住む地域で雪が舞い降り、積雪15センチの情景を秘かに願っているのである。

そして我が家のテレビは、1997(平成9)年のワイド型32インチを眺めながら、
ハードの質感でなく、放送中味のソフトが何より重要である、
と悔(くや)し紛(まぎ)れに呟いたりしている。


このように私は、とりとめなく1月を過ごし、
相変わらず読書をしたり、このサイトに50通前後を綴ったりしている。



href="http://www.blogmura.com/">ブログランキング・にほんブログ村へ

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鳩山首相の施政方針演説は、新興の宗教家のような発言・・!? 

2010-01-30 13:44:37 | 時事【政治・経済】等
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
昨夜、NHKのニュースで鳩山首相の施政方針演説を視聴し、
私は少しボケたのかしら、と感じたのである。

恐れ多くも日本を代表する首相の施政方針演説とも思えず、
疲れ果てて寝言で云われたのか、或いは新興の宗教家のような独創性ある鳩山・新宗教家の発言かしら、
と思ったりし、困ったお方が政治の最高権力者の首相になられた、
と私は国民のひとりとして、憂(うれ)いたのである。


今朝、ぼんやりと読売新聞を読んでいたのであるが、
三面の政治面の記事を読み、《異色演説 驚く党内》の見出し記事を読だりしながら、
私は苦笑をしたりした。
そして、この首相の施政方針演説に関しての《社説》記事を読んで、
記事の途中から、思わず襟を正して、正鵠な論評をされる方もいる、
と精読したのである・・。


この記事に関しては、読売新聞の基幹ネットの【YOMIURI ONLINE】に於いても、
ほぼ同一の記事が掲載されていたので、無断であるが転載させて頂く。

《・・
   施政方針演説 危機打開の決意が足りない(1月30日付・読売社説)


財政危機にも、政治倫理の問題にも正対せず、政策断行の優先順位も不透明だ。

鳩山首相の初の施政方針演説を要約すれば、そのようなことになろう。

首相は、演説の中で「いのち」という言葉を多用して「私の政治理念」を語った。
子どもたちの、働く人々の、地球の「いのちを守りたい」と言われて、
異論をはさむ人は、まずいない。

首相は、2010年度予算案について、「いのちを守る予算」だと強調し、
公共事業費の2割近い削減や、所得制限のない子ども手当の創設などを例示した。

しかし今、「いのち」を言うなら、
景気の二番底を心配したり、解雇の不安に苦しめられたりしている人々に、十分目配りする必要があったろう。

景気や雇用対策については、踏み込み不足は明らかである。

10年度予算案は、借金が税収を上回るという異様な予算だ。

だが、首相は、財政規律の確立への戦略はこれから策定すると言い、
社会保障費の安定財源として欠かせない消費税率引き上げについては、全く素通りした。

民主党が昨年の衆院選で掲げた政権公約(マニフェスト)は、
予算編成の過程で、一部修正に追い込まれている。
だが、その総括も、今後の公約見直しの方向性も、示されなかった。

これでは、有権者への説明責任を放棄したに等しい。
そこをあいまいにしていては、今後展開しようとする政策の中身も工程も、定められるはずがない。

こんな調子では、いくら「責任ある政治」の実践を唱えようが、説得力を欠いてしまう。


首相は、自らの資金管理団体をめぐる偽装献金事件に関して、改めて陳謝した。
ところが、小沢民主党幹事長の資金管理団体による土地購入事件については、言及しなかった。

これはおかしい。首相と小沢氏は、ともに政治不信を招いた重大な責任がある。
逃げの一手では、国民の理解は得られまい。


外交問題も心もとなかった。
米軍普天間飛行場の移設問題で、首相が5月末までの移設先決定を表明したのは当然だ。
だが、こじれた日米同盟関係の修復へ、不退転の決意を示すべきだった。

異色の演説は、首相なりの創意だろう。
だが、言葉だけが走って政策内容に明確さを欠いては、施政方針としては物足りない。
このままでは、内政も外交も混迷が避けられないのではないか。

(2010年1月30日01時30分 読売新聞)
・・》

注)記事の原文にあえて改行を多くした。

http://www.yomiuri.co.jp/editorial/news/20100130-OYT1T00077.htm
☆ 【YOMIURI ONLINE】 施政方針演説 危機打開の決意が足りない(1月30日付・読売社説)☆


もとより世界の主要国は、外交、軍事、経済、微力な文化などを背景とした国益に基づき、
怜悧な国際政治が行われている中、
ぞれぞれの主要国も内外の諸問題があるが、特に日本は諸問題が山積しているので、
鳩山首相のような夢想家か、或いは新興の宗教家のような独創性ある鳩山・新宗教家のような言動には、
時間を無駄にお付き合いをしている猶予はないのである。

民主党の現政権は、実質は周知の通り、小沢一郎氏の下にあるので、
小沢一郎氏の責務として、鳩山首相を解任させ、
民主党の中で有力な前原誠司、野田佳彦、岡田克也の各三氏から首相として選定し、
早く正常な政権運営をさせるのが、日本国民に対する民主党政権の責務である、
と確信している。

このようなことを無力で政治に疎(うと)い私は、妄想か希望か判らないが、
ぼんやりと思ったりしているのである。


href="http://www.blogmura.com/">ブログランキング・にほんブログ村へ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

懐かしき『小柳ゆき』の唄声を聴き、思わず私は・・。

2010-01-29 17:53:36 | 音 楽
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
ここ4日間は佐野眞一・著の『ドキュメント 昭和が終わった日』(文藝春秋)を再読していたのであるが、
私なりの敗戦前後から昨今までの思いを重ねながら精読していたので、
不規則な睡眠時間となったりしていた。

http://www.bunshun.co.jp/cgi-bin/book_db/book_detail.cgi?isbn=9784163717906
☆ 文藝春秋  佐野眞一・著の『ドキュメント 昭和が終わった日』 ☆

このように熱中していて過ごしていたのであるが、いつものように散策と買物はしていた。

本日は昼下がりに、買物に行ったのである。
我が家の最寄にはスーパーが二軒あり、特売品などの関係で、
殆ど二軒を廻って、買物をしているのが、年金生活から買物担当している私の責務となっている。

一軒の方は、ディスカント風の格安品の多く品ぞろえしているスーパーであり、
店内に音楽が流れていることが多いのである。
私は年金生活を始めた5年前の頃は、
40、50代の女性が若き頃に流行(はや)った1970、1980代の歌が流れていることが多く、
私は殆ど知っているので、微笑んで聴いたりしていた。

ここ数年は若き世代から35歳ぐらいまでが聴く最新の流行音楽が流れることが圧倒的に多く、
私は無念ながら、半分ぐらいしか判らないのである。

このように店内の曲も変貌してきているが、
今日、陳列棚の品物を眺め、確認していると、

♪壊れそうな 明日に向かい
 信じあう 奇跡を

【『愛情』 作詞・小柳ゆき/樋口 侑、作曲・原 一博、唄・小柳ゆき 】

店内から、歌が流れてきたのである。

私は懐かしげの唄声と感じながらも、曲名が思い出せないのであった。

♪傷ついた翼ひろげ
 飛びたつ true heart uh yeah Hey

【『愛情』 作詞・小柳ゆき/樋口 侑、作曲・原 一博、唄・小柳ゆき 】

そして、小柳ゆきちゃんの歌だ・・と思い出せたのである・・。


私は、小柳ゆきに関しては、私なりに深い思いがあるので、
【 2000(平成12)年、小柳ゆきに熱中・・♪ 】
と題して、2007年3月10日にあるサイトに投稿している。

【・・
昼過ぎ、何気なしにX JAPANと小柳ゆきが聴きたくて、
先程までCDを取り変えりながら、ある程度の音量を上げて、聴いていた・・。

私が勤めていた現役時代は、レコード業界のひとつの会社であり、
1998(平成10)年をピークに業界全体が次第に縮小したので、
この前後からそれぞれの会社が再構築がよぎなくされ、リストラなども行われた。

こうした中で、私の勤務した会社も組織の見直しによる人事配置転換の人事異動、出向、
そして早期退職優遇制度による退職、
このような形で同じ時代の空気を共にした上司、同僚、後輩などと別離があり、
中には業界から去った人も数多くあった。

そして、私は本社勤務の管理畑を30年近く勤めていたのであるが、
出向となり、ある物流情報会社に勤めたのは、
1999(平成11)年の春で55歳を迎える年であった。

不馴れな音楽商品のCD、DVD、カセット、ビデオテープ等の商品センターの現場もさることながら、
何で俺が・・、と言う気持ちがあり、数が月は私なりに失墜感があった・・。

都心の本社から、遠方の物流倉庫で周辺も物流倉庫が数多く並んでいる場所であり、
世にいう都落ちの感であった。
何より、出向というのは、本社の戦力からは不必要の烙印であり、私はうつろな心情であった・・。

このような時は、長い通勤の途中、私はビジネスバックに、
親しんできたX JAPANのアルバム5枚前後持ち歩き、CDウォークマンで聴いたりしていた。


9月の初旬、休みの日曜日に偶然にテレビの音楽番組の新人紹介コーナーで、
『あなたのキスを数えましょう ~ You were mine ~』を唄う若い女性歌手を視聴し、
上手すぎる、と正直うろたえたのである。
そして、清潔感はないが、破格の歌唱力で唄う人は、小柳ゆき、
という名を知り、魅了されたのである。

翌年の2000(平成12)年の4月頃になると『愛情』が街に流れ、
そして5月にアルバムが発売になり、『明日に架ける橋』などのカバー集であった。
7月に『be alive』が盛んに街に流れ、
そして8月にオリジナル・アルバムの『EXPANSION』を新譜予約していたので、
発売日の前日に手にし、よく聴いていた・・。

退社直後の8時過ぎ、暗い物流倉庫の立ち並ぶ夜道でバス停まで歩きながら、


♪壊れそうな 明日に向かい
 信じあう 奇跡を
 傷ついた翼ひろげ
 飛びたつ true heart uh yeah Hey

【『愛情』 作詞・小柳ゆき/樋口 侑、作曲・原 一博、唄・小柳ゆき 】


♪出会った頃と 同じ季節(とき)が来て
 やっと2人で 歩き出したの

【『be alive』  歌詞・小柳ゆき/樋口 侑、作曲・原 一博、唄・小柳ゆき 】

この2曲は好く聴いたり、小声で唄ったりし、或いは心の中で唄ったしていた・・。

小柳ゆきもこのアルバムはミリオンとなり、
各地でライブ公演をして、私はWOWOWで視聴しながら、ビデオに収録したり、
DVDのライブ盤を購入したりした。

私がこの2000(平成12)年で熱中したのは、まぎれもなく小柳ゆきであり、
このお方の曲から私は限りなく励まされた・・。


尚、小柳ゆきの所属するレコード会社は、
無念ながら私の勤務した会社とは関係がなく、他社の専属契約の歌手である。
・・】

このように投稿していたのであるが、
たったひとつの歌によって、その人の人生の苦渋のはざま、励まされ、ときには救われることがある。

私は40代の時は、中島みゆきの歌の数々であり、女神のように深愛したが、
50代の後半の初め、出向となり、うつろな時期、その後も小柳ゆきの歌の数々に救われ、最後の女神かしら、
と微苦笑することが多いのである。


私は買物の帰路、このような心情であったせいか、

♪いつまでも この想いは
 変わらぬまま 必ずここにあるはず
 遠すぎる 見えない答え
 だけど2人 探しつづけた

【『be alive』  歌詞・小柳ゆき/樋口 侑、作曲・原 一博、唄・小柳ゆき 】

心の中で唄っていた。



http://www.youtube.com/watch?v=PS97xL6vATM
【『愛情』 作詞・小柳ゆき/樋口 侑、作曲・原 一博、唄・小柳ゆき 】

http://www.youtube.com/watch?v=qYCONPmRjNc
【『be alive』  歌詞・小柳ゆき/樋口 侑、作曲・原 一博、唄・小柳ゆき 】




にほんブログ村 音楽ブログへ
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

余りにも見苦しい、閣僚、議員の諸兄姉・・。

2010-01-29 09:18:28 | 時事【政治・経済】等
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
今朝、まばゆい陽射しを受けながら、ぼんやりと読売新聞を読んでいたのであるが、
四面にある政治面のひとつの記事を読み、無力で政治にも疎(うと)い私さえ、
日本の有権者のひとりとして怒りを覚えて、30分ばかり冷静になれなかったのである・・。

この記事に関しては、読売新聞の基幹ネットの【YOMIURI ONLINE】に於いても、
ほぼ同一の記事が掲載されていたので、無断であるが転載させて頂く。


《 答弁拒否、閣僚席飛び出し…“国会崩壊”の様相  》

と見出しされ、読売新聞・政治部の松永宏朗氏の記事である。

《・・
28日に成立した今年度第2次補正予算の審議の過程は、
学級崩壊ならぬ「国会崩壊」の様相を呈していた。

鳩山内閣は同日、臨時の閣僚懇談会を開き、
官房長官が閣僚の委員会での不規則発言を注意したというが異例のことだ。

甚だしきは亀井金融相だ。
閣僚席で強烈なヤジを飛ばし、自分がヤジられれば答弁中でも相手をどなりつける。
「くだらん質問には答えられん」
と前代未聞の答弁拒否も行った。

前原国土交通相は25日の衆院予算委で、
質問者に反論しようと閣僚席を飛び出し、執拗(しつよう)に発言を要求した。
冷静さに欠ける行動だ。

議場では与野党議員のヤジがひどかった。発言者の声さえ聞こえないほどだった。

衆参予算委員長の対応も問題があった。
議場の乱れに申し訳程度の注意だけでは職責を果たしていない。
簗瀬進参院予算委員長は、政治とカネの問題で全閣僚に見解をただそうとした野党議員の質問を
「もういいでしょ」と遮ったが、理解できない行動だ。


過去にも閣僚の不適切な言動はあったし、ヤジもあった。
しかし、今国会ほど乱れた議場を見たことはない。
政権交代間もないため与党慣れしていないではすまされない。
まもなく2010年度予算案の審議が始まる。
閣僚、議員は襟を正すべきだ。(政治部 松永宏朗)

(2010年1月29日07時43分 読売新聞)
・・》
注)記事の原文に、あえて改行を多くした。

http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20100129-OYT1T00109.htm
☆ 【YOMIURI ONLINE】 答弁拒否、閣僚席飛び出し…“国会崩壊”の様相 ☆


私は民間会社を2004(平成16)年の秋に定年退職した後、
ときおり国会審議の中継をテレビで視聴している。

黙認は賛意とみなす議会制民主主義の政治の怜悧な哲学あるので、
無力な年金生活で政治の世界に疎い私さえ、日本人のひとりとして、有権者の責務として、
ときおりこのサイトにも投稿している。

この中のひとつとして、2005(平成17)年9月29日に於いて、
余りに酷く感じ、いたたまれずにこのサイトに投稿している。
【  見苦しい、国会議員達・・♪ 】
と題して、投稿していた。

【・・
昨日の日中、NHKで衆議院の『代表質問』ま実況中継を観ていたが、
私は何時も不思議な面持ちとなる。

自民党、民主党を始め、国会議員の人々は、
演説席で述べられている人に対して、ヤジを飛ばす。
テレビの座談会でも、発言者に対し、ヤジる。

発言者に対して、静観し拝聴する言動が何故取れないか、という事である。

私は日本の国会の歴史は無知であるが、
吉田茂首相の時代から、お互いにヤジっていた、と記憶する。

少なくとも国会議員は、国民から選出された方であるので、
心に節度、を取るのは論争以前の話である。

小学生の人が、これらを観ていたら、
大人のひとりとして、恥ずかしい限りである。
情操教育など、とても子供に対して大人は言えなくなる。

国会の答弁、テレビの座談会など
発言される方に静観した上で、反論するのが常識である。
悪き習慣を持ち合わせた国会議員は、見苦しい限りである。

ヤジる暇があるなら、ご自分の政治信条、政策課題を深めなさい、
と政治に疎(うと)い私さえ感じるのである。

野球などのスボーツの世界と違い、
少なくとも国会議員は真摯な態度の言動で望むのが、国民に信託された最低限の責務である。

小泉首相は、国民の声を聴きたい、とこの前の衆院選の時、述べられていたが、
私は国会議員たるものは、真の大人の言動をとれ、
と私は国会議員の全員に言いたい。
・・】

このように四年近く前に投稿したいたが、閣僚、議員の諸兄姉は改善もされず、
むしろ劣化が増して、有権者から信託された言動のふるまいかしら、
と私は憂(うれ)いている。

内外に諸問題が山積する中、審議の時間が足らないと閣僚、議員の諸兄姉を思うならば、
すくなくとも朝の9時より夜の9時まで徹底的に究明すべきである。
多忙とか体力的に無理と言い訳をするお方は、現役の議員の資格はなく、即刻議員を辞職して頂きたい。

このようなことは民間会社さえ悪戦苦闘しながら実施してきたことであり、
まして国民の血税からの高給と破格に優遇されている身分の議員の諸兄姉は、
真摯に問題解決への言動を明確にするのが、権力と同様に責務があると確信している。



href="http://www.blogmura.com/">ブログランキング・にほんブログ村へ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

春の便(たよ)りは、南の風に運ばれて・・。

2010-01-28 09:23:38 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
今朝、読売新聞の朝刊を門扉の近くの郵便受入箱から取り込んでいた時、
暖かい朝じゃないの、と感じたりした・・。

この後、ぼんやりと地元の天気情報を見ていたら、
朝の6時は4度、午前中は曇り空となるが、午後より雨となり14度前後が予測されている。
そして夜の6時は雨があがり12度前後が予測されているので、
私は思わず、どうしてなの、と空を見つめたりしていた。

4月の初めの頃の暖かさの中、二週間ぶりに雨となるが、
乾ききった空気につつまれているので、私は雨を待ちわびていたのである。

この後、主庭のテラスに下り立ち、ときおり南風が吹き、
暖かな風を受けると、何故かしら心身が心地よいのである。

そして私はぼんやりと白梅、白玉椿の純白の花、藪椿の紅色が、
ときおり微かに揺れているのを眺めたりしていると、
春一番には少し早いじゃないの、と思ったりしたのである。

古来より春一番は、2月から3月の初めの頃に、嵐のように強い南風であるので、
ときおり風が吹く程度であるので、春一番ではないなぁ、
と思ったりしたのである。

私の住む地域は、明日からの3日間は12度前後の暖かい快晴となるので、
昨日の北風から一転して、今朝の南風からひとときの春到来かしら、と微笑んだのである。

そして、節分の時節の前なのに、
天上の気候の神々は、ときおり恵(めぐみ)の暖かな南風をプレゼントして下さる、
と空を眺めたりしている。



href="http://www.blogmura.com/">ブログランキング・にほんブログ村へ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

齢を重ねた私の好きなメッセージのタイトルは・・。

2010-01-27 10:48:14 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
今朝、まばゆい陽射しを受けながら、ぼんやりとネットでニュースを見ていた。

そして、読売新聞の基幹ネットの【YOMIURI ONLINE】を見ていたのであるが、
この中に私が愛読している【新おとな総研】というサイトがあり、
この中の『ジーンズフィフティ 応援宣言』のそれぞれのお方コラムを拝読した。


http://otona.yomiuri.co.jp/jeans50/sengen/
☆【YOMIURI ONLINE 新おとな総研】『ジーンズフィフティ 応援宣言』☆

余りにも多くのお方が寄稿されていたので、私の好みのメッセージのタイトルを選び、
読みはじめたりしたのである。


☆アルベルト・ゼッダ氏の『満天の星のような言葉に導かれて』

私は遅ればせながら高校生になって、読書に目覚めて以来、
こよなく小説、随筆、歴史書、ノンフィクションなどを濫読してきたので、
年金生活の今でも何よりも優先し過ごしているので、好きな言葉のひとつである。


☆ボナ植木(ナポレオンズ)氏の『子供のような大人でいろ!』

私の人生信条のひとつには、好奇心を失くしたらこの世は終わりだ、
と私の生活方針でもある。

日常の買物、散策したりする時、季節のうつろいに深く感じたり、
或いは中年以上の女性の表情、しぐさ、そして言葉など限りなく興味があり、
ときには恥ずかしながら、ときめきを感じることもある。

そして旅行先などで独りで散策しながら、未知の里道、遊歩道を歩き、
多々教示されながら、感銘さえすることがある。


このような身勝手なメッセージのタイトル選定であり、
つたない私はこのお2人も私にとっては未知の人である。
謙虚に人生を学べば、未知の人との出会いもあるのかしら、と私は微笑している。


href="http://www.blogmura.com/">ブログランキング・にほんブログ村へ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

昨夜、テレビで『竹内 智香(たけうち・ ともか)』を初めて視聴し、真摯で過酷な挑戦に感動し・・。

2010-01-26 08:22:22 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
昨夜、いつものようにNHKの『ニュースウオッチ9』を視聴した後、
ぼんやりと『世界遺産への招待状』を視聴し、テレビのスイッチを切ろうかなぁ、
と思っていたら、
次の番組が始まり、若き女性スポーツ選手の表情の美しさに見惚(みと)れてしまったのである・・。

私はスポーツに関しては苦手であるし、特にスキーの世界はまったくの無知であるので、冬季オリピックについては、関心のないひとりである。

しかしながら、過酷な競技に挑戦する意思の言動、具体的な練習を視聴して、
圧倒的な感動を頂いたのである・・。

このテレビ番組は『スポーツ大陸』の「“ぶっちぎりの速さ”をめざせ~スノーボード 竹内智香~」と題された番組であった。

私はスノーボートの世界もまったの無知なので、NHKの解説文にすがる。

《・・
バンクーバー五輪のスノーボード・アルペン日本代表・竹内智香、26歳。
女子選手には不可能と言われる最速の滑りをスイスで学んでいる。
その挑戦の日々に密着した。
(略)
2007年から単身、スイス代表チームで練習を続けている。
2008-09年シーズン、世界ランキング3位に上り詰めた竹内だが、オフに大きな決断をする。
これまでの滑りを捨て、男子選手の滑走技術「カービング」を習得することだ。
強じんな脚力とテクニックが必要とされ、女子選手には不可能といわれる。
“ぶっちぎりの速さ”を目指す竹内の挑戦に密着。
・・》

《・・
スノーボードのアルペン種目・パラレル大回転で、昨シーズン、世界ランキング3位になった竹内智香。
バンクーバー五輪でメダル獲得が期待される日本のエースだ。

過去2回の五輪に出場するも入賞できず、一念発起し、単身スイスに渡り代表チームに入門を願い出た。

チームに認められ帯同が許されると急成長。
去年W杯で4度の準優勝を果たした。最も優勝に近づいたときのタイム差はわずか0.05秒。
いつ優勝してもおかしくない実力をつけた竹内だが、今年、その滑りを捨てることを決意。
男子にしかできないといわれる滑走技術に挑むことを決めた。
無謀ともいえる挑戦の理由はひとつ、
「ぶっちぎりの速さ、絶対に優勝できる速さ」を手に入れるためだ。

「常識の中でやっていたら常識の結果しか得られない」と語る竹内。

番組では3度目となるバンクーバー五輪で、ぶっちぎりの金メダルを追い求める竹内の挑戦を追う。

竹内 智香(たけうち ともか)
1983年12月21日生まれ 北海道出身
スノーボードアルペン選手
ソルトレイクシティ五輪(パラレル大回転)22位、
トリノ五輪(パラレル大回転)9位、
2009年世界選手権(パラレル大回転)で4位の成績を収める。
・・》
注)解説の原文に、あえて改行を多くした。


私は竹内 智香さんが16歳で国内の大会で優勝された後、
まもなく切磋琢磨を重ねながら世界の大会に進出されながら、栄誉を勝ち得たが、
頂点の一番になるためには、「ぶっちぎりの速さ、絶対に優勝できる速さ」目的の為に、
不可能といわれている他国のスイスのチームに、再三に及び懇願して、
単身でスイス・チームに加わり、強靭な下半身を作るために過酷な訓練の状景・・。

そしてインタビューを受ける時の表情、しぐさが美しくしい上、強い意志の言葉に、
齢ばかり重ねた65歳の私さえ、圧倒的な感動を受けたのである。


今朝、ぼんやりとネットで、この若き美麗な竹内 智香さんのことを検索して、
一時間ほど眺めながら、見惚れたりしている。

http://www.tomoka-t.net/
☆ 竹内 智香 公式ウェブサイト ☆

そして、スノーボードの世界に無知な私は、このお方の数々の写真を拝見しながら、
この世で一番・・真に美麗な人、と確信を深めながら、見たりしている。

☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、幸いです♪
にほんブログ村 シニア日記ブログ 60歳代へにほんブログ村
人気ブログランキングへ

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

本と煙草があれば、何時間でも・・!?

2010-01-25 16:41:08 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
昨日、神代植物園に行ったが、家内と共に神代植物園に出かけたのは昨年の桜の花見をして以来だった。
陽射しの高い中に帰宅しょう、と園内を辞したのは、午後の3時過ぎで、
野川の遊歩道を30分ぐらい歩いたら、
『この先にある・・イトーヨーカドーに寄ってみませんか・・』
と家内から誘われて、私達夫婦は5、6年前にできた国領店に寄ったのである。

家内はエプロン、バスタオルを買い求めたかったので、
2階の衣服売り場のファション・フロアーに私達は行った。

私はこの国領店には、10数回ぐらい利用したことがあったので、
2階の外れに、トイレ、休憩室、そして喫煙室があることを知っていたので、
この辺で私達は待ち合わせることとし、
『ゆったくと・・品物を選べば・・』
と私は家内に、明るく大きな声で云った。

私は家内と別れた後、喫煙室に行き、煙草を喫っていると、
3階に本屋に行ってみようと思ったのである。

過日、新聞の広告に掲載されていた新書を思い出し、買い求めたのである。
http://www.chuko.co.jp/shinsho/2009/05/102000.html
☆ 中公新書 猪木武徳・著の『戦後世界経済史 ~自由と平等の視点から~』


私は現代史に興味があるので、無知な経済分野でも戦後史を学ぼうとし、
購入したのである。
そして、日本近現代史の専門家である中村政則(なかむら・まさのり)氏の『戦後史』(岩波新書)を遅ればせながら昨年読んだりしたので、
この二冊で程々に戦後史が判るかしら、と微笑んだのである。


そして、この後の一冊は佐野眞一・著の『ドキュメント 昭和が終わった日』(文藝春秋)の単行本を買い求めたのである。

http://www.bunshun.co.jp/cgi-bin/book_db/book_detail.cgi?isbn=9784163717906
☆ 文藝春秋  佐野眞一・著の『ドキュメント 昭和が終わった日』 ☆

もとよりこの本は、著作者が明示されている通り、
月刊総合雑誌の『文藝春秋』の昨年の2009年3号から5月号に連載された内容であり、
私は40年間ぐらい『文藝春秋』を愛読しているので、通読していた。

たまたま私は、『調布市 市報』の最新号を18日頃に読んでいた時、
時局講演会として、佐野眞一氏が『「真実を知る日」昭和が終わった日』と題して、
私の住む市の文化会館で講演を2月中旬にされるので、
私は氏の愛読者のひとりで、この際、拝聴しょうと思ったりしていたのである。

この講演の開催されるニュースを知る前の昨年に、
当然ながら佐野眞一・著の『ドキュメント 昭和が終わった日』の単行本の発刊を知っていたが、
月刊総合雑誌の『文藝春秋』の連載記事を読んでいたので、私は購入を見送っていたのである。

しかし、氏の講演を拝聴する立場となれば、
氏の連載記事が終わり、新刊本になった場合、やがて文庫本になる時、
もとより「あとがき」あり、そして加筆、大幅な追記もある作家なので、
読んでみたいと思い、あえて購入したのである。


このようにたった5分で本屋から戻り、煙草を喫いながら、
買い求めた本を開いたのである・・。

私は自動販売機のペットボトルの煎茶を飲みながら、
ときおり煙草を喫ったりし、読書ができれば、
たとえ一食を抜いても何時間でも過ごせる身なのである。

一時間ぐらいして家内が買物を終えて戻ってきた時、
『早かったじゃないの・・』
と私は微笑しながら、家内に云ったりしたのである。


私の煙草に関しての思いは、私は煙草を若き19歳の大学の夏季合宿に覚えて以来、
たとえギックリ腰で救急車に運ばれて、28泊29日の入院生活を40代のなかばに体験したが、
ビール、日本酒などのアルコールは止められても、
車椅子に乗りながら、整形外科のフロアーにあった喫煙場に通ったひとりであった。

昨今、本人の健康に良くない、もとより人さまに迷惑、と嫌煙の風潮があり、
何よりも水戸黄門の紋章のワッぺンのように、かけがえのない地球と称して環境問題まで云われる方がいるので、
せめて私の出来ることは、公共交通機関の利便性にある地域に住む私は乗用車に乗らないように、
定年退職後の免許書の更新の時、破棄している。

このような思いで、私は自宅のテラス、玄関の軒下で蛍族のひとりとして煙草を喫ったり、
外出の時は、喫煙場を見つけ、ほっとしながら喫ったりしている。



href="http://www.blogmura.com/">ブログランキング・にほんブログ村へ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

我が心のふるさとのひとつは、都立『神代植物園』・・。

2010-01-25 11:13:44 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
この時節になると花が少なくなり、少し寂しい気になる時もある。

こうした折、付近の小公園、遊歩道を散策したりしている。
ときには飽き足らず都立の公園に行ったりしている。

私の住む最寄の大きな公園としては、都立の『神代植物公園』があり、隣接した所に深大寺もあるが、
我が家からは少しばかり遠い徒歩で45分前後の道のりである。

私は野川の川沿いの遊歩道を歩くのが圧倒的に多いが、
時として違ったコースを歩き、途中からパスを利用することもある。

いずれにしても、この公園は私が通った地元の神代中学校の付近にあり、
私が中学校を卒業した1960(昭和35)年の頃に開園したが、
自転車で通学していた私は、ときおり開園前の雑木林の中を下校の時などに、学友と自転車で走りまわったりしていた。
その後、人生の節目などを含めて、四季折々通ったりしてきた。

私が心に迷ったりした時などは樹木を眺めたり、それぞれの花に心を寄せて、
心の濾過をして浄化されたりしてきた。

私がこれまで生きてきたつたない人生には、
時として心の証(あかし)が梅(ウメ)、椿(ツバキ)、櫻(サクラ)、花水木(ハナミズキ)、躑躅(ツツジ)、紫陽花(アジサイ)、
花菖蒲(ハナショウブ)、蓮(ハス)、木槿(ムクゲ)などに心を寄せてきたので、
それぞれのコーナー園が私のひとときの迷いも知っていると思っている。
             

東京オリンピックが開催された1964(昭和39)年に、
私は大学2年であったが、この公園の雑木林を歩いたりしながら、
中退を決意したりしたのである。

私は結婚して2年が過ぎた頃、私の生家の実家に近くに家を建てた後、
家内を家の周辺を案内したり、ときおり神代植物園にも訪れたりしていた。

そして私が40代の頃は、サラリーマンの多忙の休日の折、
四季折々に家内を誘い、私は純米酒の辛口を弐合ばかり持参して、
花咲く樹木の前で、ベンチに座りながら家内と語り合いながら、呑んだりりしたことが多かったのである。

50歳代になると私は会社の業務が益々多忙となり、
家内の方はテニスに熱中していたので、
国内旅行だけは何とか休暇のスケジュール合わせる程度となり、
私が日曜日に休めた時は、ひとりで通ったりしていた。

私は定年退職後の年金生活に於いても、独りで植物公園まで四季折々、訪ねてたりしている。


一昨日、家内と夕食の時、昨年の桜を観て以来、久々に神代植物公園に行ってみよう、と私は提案した。

我が家は世田谷区と狛江市の隣接した調布市のはずれにあり、
付近には霞嶺神社、明照院があり、私の実家も近くにある。
私は結婚前後の5年を除き、この地を60年過ごしているので、心のふるさとの原景は
我が家の周辺にある。

私は農家の児として生を受けたのは、1944(昭和19)年の秋であり、
祖父、父を中心に小作人の手を借りながら、程ほど広い田畑を耕していた。
そして竹林、雑木林に囲まれた農家であった。
この頃の周辺の情景も京王腺の駅付近を除き、田畑や雑木林の多い緑豊かな村里の情景であった。
私が小学生2年に父が病死し、まもなく祖父も死去し、
我が家は衰退したが、小学校を卒業する頃に、東京のベットタウンに変貌しはじめ、
住宅街となった。
そして、この間に曲がりくねっていた野川も本格的に大きな川として護岸工事の上、
整備されたり、遊歩道や小公園も新たに設けられたりした。


昨日、11時少し前に家内と神代植物公園に向かって川沿いの遊歩道を歩いた。
冬晴れの澄み切った青空で風もなく暖かな11度前後の中、歩き出したのであるが、
日曜日の為か、家族連れの方たちの散策されたり、ジョキングをされる若い人たちを見かけたりした。

川の水辺の近くに鷺(サギ)、鴨(カモ)が数多く観られ、そして鶺鴒(セキレイ)、椋鳥(ムクドリ)も飛来して、
私は興味がなかったが、家内は動物、小鳥達が好きだったので歓声をあげていた。

深大寺に着いて、いつもだったならば付近の蕎麦屋に入り昼食とし、
ビールで喉を潤(うるお)した後、十割蕎麦を頂き、蕎麦湯を飲んだりすることが多かったが、
今回は遅い朝食だったので、通り過ぎたのである。

深大寺を参拝した後、神代植物公園内を散策しはじめた。
この時節は、梅園に寄り、全般としては莟(つぼみ)の多い情景であったが、
白梅の清楚な白難波(シロナンバ)、恥らうように咲いている冬至(トウジ)、
紅梅の華やかな大盃(オオサカヅキ)、若き女性の頬(ほお)のような紅鶴(ベニズル)、
このような早咲きに私はしばらく見惚(みと)れていたのである。

この後、蝋梅(ロウバイ)の咲き始めている花に近寄ったりした。
色は黄色で花の中心は紫褐色となって折、冬の陽射しの中で安らぎのある情景を彩っていた。
この近くに黄色の花色となって、中心が淡い黄色となっているのに私は魅了させられた。
品性があり、芳香が少し強い難点を除けば、私の好きな冬の花となる。
主木の外れに『ソシン・ロウバイ』の樹木名の札があった。

そして、蝋梅の近くに、マンサクは黄色い莟となっていて、
こうした光景に魅了されて、この梅園の中で何よりも心酔させられたのである。


この後、藪椿(ヤブツバキ)を誉(ほ)めたりした後、
福寿草を探したが、数輪が土の中から黄色い花が見られた程度であった。
家内は身体が冷えたというので、正門の喫茶コーナーに行き、
陽射しが受ける温室のような窓辺の席で、家内はコーヒーとホットケーキ、
私はヒールを呑みながら、ソーセージの盛り合わせの軽食としたのである。

そして正門の近くに、寒ボタンの美麗な数々が展示されていたが、
私は先程に椿園で観た秘っそり咲いていた薄紅色の卜伴錦(ボクバンニシキ)と名づけられた椿に心を奪われていたので、
ボタンは華やかさだスターのような花だけ、と心の中で呟(つぶや)いたりした。

この後、家内の要望の温室に寄ったが、私は温室は何かしら好きになれない。
私は樹木、草花に魅了されるのは、その地の四季折々の自然の中で、
それぞれの移ろいがあるので、心を寄せているのである。
食べ物の世界でいうと、人工栽培より露地野菜を好む習性と同様と思っている。

まもなく、私達は欅(ケヤキ)、クヌギ、コナラ、ハクウンボク、ヒメシャラ、
イヌシデ、ヤマボウシ、コブシなどの冬木立の中を歩いた。

私はこうした葉を落とした冬木立の光景が歳を重ねるたびに、最も魅了させられている。

陽が高いうちに引き上げようとして、私達は3時過ぎに神代植物園の深大寺門を後にした。

http://www.kensetsu.metro.tokyo.jp/seibuk/jindai/
☆ 都立『神代植物公園』☆



href="http://www.blogmura.com/">ブログランキング・にほんブログ村へ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

思わず食べてみたい、館林市の『大根そば』・・。

2010-01-24 08:47:43 | 食べ物、お酒
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
今朝、まばゆい陽射しを受けながら、ぼんやりとネットでニュースを見ていた。
この中で、読売新聞の基幹ネットの【YOMIURI ONLINE】の経済ニュースのひとつに、

《 「大根そば」200年ぶりに再現 》

と見出しされた記事があり、大根が好きな私は、記事を精読したのである・・。

無断であるが、転載させて頂く。

《・・
大根そばを新しい名物に(下の赤椀) 群馬県館林市と市観光協会は22日、
江戸時代のレシピ本に「上州館林名物」として載っていた大根そばを約200年ぶりに再現した。

館林の名物はうどんだが、市内のそば店は細切り大根を混ぜたそばも出している。
目をつけた市花のまち観光課係長田島敏邦さん(52)が、
名物に出来ないか思案する中、1785年刊行の「諸国名産大根料理秘伝抄」に、
「大根蕎麦(そば)」と書かれたレシピを見つけた。

細切り大根にそば粉をまぶして煮た後、だし汁をかける。
田島さんは昨年暮れ、精進料理に詳しい同市当郷町、善長寺副住職前山文伸さん(35)に再現を持ちかけた。

この日、前山さんが調理して寺への観光客約30人に振る舞った。
かめば歯切れの良い大根のさくさく感と、そばの舌触り双方が味わえる逸品。
市内の主婦(78)は「大根の風味を感じられておいしい」と話していた。

市は新たな名物にと意気込んでおり、「観光イベントで試供品として出し、PRしたい」としている。

(2010年1月24日05時35分 読売新聞)
・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。


http://www.yomiuri.co.jp/atmoney/news/20100123-OYT1T00049.htm?from=main7
☆ 群馬県・館林市 「大根そば」200年ぶりに再現 ☆

私は何かと大根が好きで、特に大根おろしを愛食し、ご飯とか餅などと共に頂き、
この世で一番美味しいので、大根おろしかしら、と微笑んでいるひとりである。

このサイトにも、少しばかり大根おろしに関して投稿している。

今年の元旦の日にも、
【 大根(ダイコン)下(お)ろしに、温かいご飯・・。 】
と題して、投稿している。

【・・
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であり、
2004(平成16)年の秋に家内の父が死去し、家内の母は独り住まいとなったので、
年末年始には我が家に来て貰い、私達夫婦と共に三人で過ごしている。

私の母が生前までは、世間並みに御節料理を三段重として、
家内は素材の購入から料理までを一週間ぐらいで、ふたセットを作ったりしていた。
ひとつは独り住まいの私の母、そして我が家で頂く分である。

このようなほど程の御節料理から遠ざかって、昨今の我が家は、
それぞれ三人が食べたい品を購入したり、家内は料理をしたりしている。
成城、仙川、最寄のスーパーに買い求めたり、ここ数年は通信販売の盛況で、
我が家も遅ればせながら、製造元の現地などの販売所に連絡して、購入したりしている。
たとえば、ホタテ、数の子などである。

結果として、我が家の食卓は、御節料理の単品が並び、各自が好みの品を食べ、
元旦の朝はお雑煮を頂いている。

このような昨年末の28日から夕食の時に、
家内、家内の母はビール、私は弐合徳利で純米酒の辛口を呑みながら、
談笑しながら頂いている。


こうした時の私の昼食は、ときおり大根(ダイコン)下(お)ろし、御醤油をかけて、
温かい白米のご飯にのせて食べたりしている。
そして、食後は煎茶を飲み、至って満足している。

家内達はこのような私の昼食を見ていて、最初の頃はあきれていた。
『農家の児として育った私は・・この世で一番美味しく・・贅沢な食事だょ・・』
と私は笑いながら云ったりしている。
・・】


そして大根をおろした餅のからみ餅に関しては、
【 呑んべえの予感した頃・・♪ 】
と題して、2005年5月1日に投稿している。

【・・
私が小学1年の頃だったので、昭和26年の年だった。
祖父と父は、東京の郊外で農業をしていたので、年末近くになると、餅を搗(つ)いた。

祖父の家を含み、六軒の家で交互に手伝う習慣となっていた。

祖父の家の順番になると、もち米を精米にし、水に漬けた後、
その当日になると早朝から二つ大きな竈(かまど)に火をいれ、
二尺程の正方形の蒸篭(せいろ)を幾重にも重ねて、蒸した。

ご近所の主人たちが5人来てくださり、それに私の家の人である。

午後になると、杵(きね)で臼(うす)の蒸されたもち米を搗いた。
すべて手作業なので、労力のいる時代だった。

餅になると、お供え、長方形ののし餅、とそれぞれに作っていた。
長方形ののし餅は、長方形の板で形を整え、片栗粉でまぶした。

年末から正月のお雑煮、七草を得て、
その後、ときたま2月の上旬まで食卓に出されることもあった。

このために、のし餅などは10畳の部屋を二つ使い、廊下まではみ出していた。

夕方の6時頃になると、搗きたての餅をあんこ、大根のからみ、きなこ用に
それぞれ作り、夕食がわりとなった。

ご近所の主人たちには、酒が振舞われ、茶碗酒として出された。

こうした時、ご近所の叔父さんが、私に云った。
『XXちゃん・・何を食べるの・・』

『う~ん、大根の辛いの・・』
と私は云った。

『そうかい、からみねぇ・・
XXさん、この子きっと呑んべえになるね・・』
と赤い顔した叔父さんは、笑いながら私の父に云った。


この数年後に父が亡くなり、祖父も他界したので、私の家は急速に没落しはじめた・・。

そして昭和32年の頃になると、
私の周囲の家々も時代の波が押し寄せ、住宅街に変貌し、このような風習は、消えた去った・・。

・・】

このように幼年期の頃から、何かと大根おろしを愛食し、
旅行先の食事処の蕎麦屋で、調味のひとつとして大根おろしがあれば、限りなく嬉しいのである。
そして、我が家でも年に10回ぐらい頂いている。

数年前の夏、蓮(ハス)の花を観るために群馬県・館林市に3泊4日で滞在したことがあるので、
200年ぶりに再現された「大根蕎麦(そば)」を食べてみたい、
と先程から10分ぐらい掲載された写真を眺めたりしている。



href="http://www.blogmura.com/">ブログランキング・にほんブログ村へ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

この時節、昨年は大和路を旅して・・。 【下】

2010-01-23 15:54:09 | 旅のあれこれ
私は旅の帰宅後、昨年の1月26日から28日に於いて、紀行文のような綴りで、
【 冬の大和路、短かな旅は夢幻と現(うつつ)のなか・・。 【2009.1.24. ~ 1.25】】
と題して、6回に及び投稿していたが、今回は集約して掲載する。

【・・
    序 章


私は東京郊外の調布市に住む年金生活の5年生の身であるが、
家内と共に、奈良の『若草山 山焼き』を観る為に、
奈良に1泊2日のある旅行会社の企画された団体観光ツアーで訪れた。

『東京駅』から『名古屋駅』まで新幹線の《こだま》に乗車した後、
観光パスで、大和路の『西大寺』に寄り、
『若草山 山焼き』観た後は奈良市内のホテルに宿泊した。
翌日は、『長谷寺』と『室生寺』を鑑賞した後、帰路する短かな旅行であった。


私なりの奈良の大和路の思いは、拙(つたな)いなり学べば学ぶ程、
整然とした歴史と文化などの伝統の前に怖気づき、遠のいたのであるが、
『若草山 山焼き』を観たいわ、と家内の要望により、
私は50年ぶりにわずかな名所・旧跡を訪れたのである。

私は短歌、俳句を詠(よ)む素養はないが、
旅の前に、たわむれに一句を脳裏に浮かべたりしたのである。

長谷寺への思いは、

冬牡丹 霙(みぞれ)舞ふなか 花灯(あか)り


室生寺へは、

大和路(やまとみち) みゆき舞い降る 昼下り


このような思いを秘かにいだきながらの旅だった。


短かな旅は底冷えする夜のひとときを歩き廻ったり、ときには小雪が舞い降る中を歩いたり、
或いは早春の陽射しにつつまれた中を散策したりしたのであるが、
夢幻と現(うつつ)の中のひとときでもあり、
のちの想いになればと思いながら、綴ることにする。

                             

        第一章 みゆき舞い降る『西大寺』

新幹線の『名古屋駅』を下車後、指定の観光バスに乗車する寸前、
晴れ渡った中、ひとひら、ふたひらと小雪が舞ってきた。

奈良市の街中の『西大寺』まで、小雪が降ったり、晴れ間となったりし、
うつろいやすい冬の情景が変貌したりした。

無学な私は『西大寺』が街の中で、ひっそりと程々の規模であったのはあったので、
私は少し驚いたのである。

奈良時代の天平期に創建された頃は、
東の東大寺と対応するように西の大寺として西大寺があったが、
平安時代には衰退し、鎌倉時代の中期の頃に、ひとりの名僧の叡尊により復興した、と伝えられている。

http://www.naranet.co.jp/saidaiji/

端正ですこやかな『釈迦如来立像』、
つぶやな瞳で何かを訴えるような『善財童子』はさることながら、
私はやはり西大寺を復興させながら、多くの僧侶からはもとより、民衆からも尊敬され、
親しまれた叡尊に心を寄せられたのである。
そして、このお方の『興正菩薩叡尊坐像』に見惚(みと)れたのである。

家内と多くの人たちは、『愛染明王坐像』の秘佛特別開扉で、
説明を聞き入っていたが、私は興味がなく、
小雪の舞う中、境内を歩き廻ったり、しばらく土塀を眺めたりしていた。

そして、遙かかなたの時代、民衆の貧しくも苦楽の営みの中、
天皇はもとより、時の権力者に対し、仏教による民衆の救済を武器に、
毅然と求道しながらも、確かなひとつの権力者への軌跡をたどった人に思いを馳せた。



       第二章 『若草山 山焼き』の後には

『西大寺』を観た後、宿泊する『日航ホテル 奈良』に観光バスは向ったが、
市内の道路は、『若草山 山焼き』を観に行く方たちで、自動車で渋滞であった。

そして、予定時間より遅れ、『日航ホテル 奈良』に到着した。

http://www.nikkonara.jp/

ホテルに入室後、窓べから市内の街並み眺めた後、
私達夫婦は『山焼き』を観る為に、4時半過ぎに三条通りを歩き始め、春日大社の方面を目指した。

私は途中で『猿沢池』に立ち寄り、
私が敬愛している亡くなわれた作家・立原正秋氏を偲(しの)ぶ為、
しばらく湖面や周辺の情景を眺めていた。

作家・立原正秋氏が若き頃に、大和路を歩かれた折、

馬酔木(あしび)さく奈良公園に
      たたずむもなみだながせし二十歳(はたち)のなつかしき

                             作・立原正秋

このような短歌を私は想いだし、亡き作家に愛惜を重ねたのである。

そして、前方の状景を改めて見上げた時、『興福寺』の五重塔がひっそりとたたずんでいた・・。


この後、私達は春日大社の長い表参道を歩いたが、
無念ながら大社の門は時間が過ぎて閉門なり、
『山焼き』を観る場所は、視界の開けた飛火野の地が最良と思い、
『山焼き』の開始前の合図として花火を打ち上げるのを待ちわびたのである。

http://www.kasugano.com/wakakusayama/

暗くなった夜空に、星が10数個がまばたいて折、私の住む街よりも美麗であった。
そして、花火の打ち上げの音(ね)の後、数秒後に夜の空を彩(いろど)ったのである。

この後は、若草山は予定通り点火され、山裾から燃え始めたのであるが、
過日に雨が降ったためか、期待したより燃え上がらず、
私達は諦(あきら)めて、『東大寺』に行ったが、
やはり閉門と知り、宿泊先のホテルに戻ったのである。


風呂を上がった後、ぼんやりと純米酒を呑みだし、

  秋篠の名をなつかしみ
      そのかみこの道を行きし

               正秋

と捺印された一枚の色紙を想いだした。


この一枚の色紙は、
角川書店が立原正秋三周忌記念出版として『立原正秋 全集』(全24巻)を昭和59年に発刊した時、
予約した中で希望者に抽選で配布された稀な色紙である。

私は敬愛している作家であったので、即急に予約し、
幸運にも頂けたひとりであり、私のガラス戸のある本棚で
いつでも拝見できるようにし、早くも25年が過ぎようとしている。



       第三章 『長谷寺』は限りなく優(やさ)しく

観光バスが『長谷寺』の近くを走ると、車窓からは里の情景となった。

私は『長谷寺』は初めて訪れるので『仁王門』を見上げた後、
ゆるやかな昇り廊を歩きはじめが、
歩幅は和服の裾が乱れることなく歩ける、と余計なことを思ったりした。

そして、左右に牡丹(ボタン)園となって折、幾重にも牡丹が植えられて、
寒牡丹がひっそりと10数輪が彩っていた。

http://www.hasedera.or.jp/

『花の御寺』として名高く、四季折々、花木と草花で彩(いろど)られ、
この時節には、寒牡丹、山茶花(さざんか)、蝋梅(ロウバイ)、福寿草、雪割草、
と解説書に明記されているが、
私は花がなくとも、それなりの時節を想像できるので、あればそれに越したことはないと思う程度である。

本堂にある大きな『十一面観世音菩薩』、
金文字で大きく『大哀閣』と明示された額などは興味はなく、
ただ山の中腹に張り出すような板の間からの前方の雄大な展望は、
遠方の空を眺めたりすると、それぞれの時の権力者の姿が浮べ、
歴史に埋もれた人たちも浮かび上がってくるように思えたりしたのである。

この後、早春の暖かな陽射しにつつまれた中、
『弘法大師御影堂』を観たり、『五重塔』を眺めたりした後、
歩道を下り、休み処で椅子に腰掛けて、温かいペットボトルの煎茶を飲んだりしていた・・。

そして、煙草を喫いながら、前方の傾斜の落葉樹を眺め、
見上げると『五重塔』が観えて、視界全体が一幅の絵のように私は観えたのである。
私は少しため息をしながら、見惚(みと)れていたのである。

私はこの寺院全体は、限りなく優(やさ)しい情景に思え、
まるで6歳ぐらいの少年が母親の胸元に顔を近づけて甘えているしぐさ、とも感じられたのである。


長谷寺を辞去すると、土産売り場の店並みがあり、
この中で『奈良漬』の店に家内の後に続いて入ったのである。
私はお酒大好きな呑兵衛のひとりであるので、奈良漬は苦手である。

店内のうり、きゅうり、すいか、かぶら、しょうが、守口大根の種類の多さに驚き、
家内の勧めで、しょうがをひと口を頂いたのであるが
まぎれなく美味で、私は思わず、
『晩酌の・・付け出しにぴったり・・』
と私は家内に囁(ささや)いたのである。

結果として、しょうがを2袋、ネギのように細長い守口大根を1袋を買い求めたのであるが、
このひと味でも、私は少なくとも一日は幸福感をかみ締めることができたのである。

家内と店先を去るとき、
《 本家 白酒屋の奈良漬 》と私は垂れ幕が見えたりした。



       第四章  秘かに私は恋していた『室生寺』は・・。

観光バスが『室生寺』の近くづくと、周辺の山なみはなだらかな状景から鋭角な風景に変貌した。

『室生寺』を参拝する前に、昼食として『山菜料理』を頂くことになって折、
私達は『橋本屋旅館』に入った。

http://www.jtb.co.jp/kokunai/Sight.aspx?bookid=A3903180&categorytype=4

2階の大広間の私の座った処からは、
『室生寺』の門前に架けられた太鼓橋と称された朱色の橋が観え、
そして、室生川は清冽な水が流れ、山里の情景であった。

http://www.mapple.net/spots/G02900020703.htm

サイトの解説に明記されているとおり、
ワラビ、タラの芽、ゼンマイ、ウドなど室生で採れた山菜が小鉢に盛られ、
山菜づくしの料理であり、
素朴な食材を丁重に味付けをしていたので、何よりの私好みの料理であった。


この後、私達は初めて訪れる『室生寺』の大きな仁王門を通り、
鎧坂の自然石の石段を登り上がると、忽然と金堂が観えたのである。

http://www.murouji.or.jp/

私は無念ながら仏像を視(み)る素養がないので、少しばかり見たりした後,
本堂を通り過ぎ、石段を昇ると、杉木立の中に、五重塔があった。

大きな杉木立の中、森厳につつまれ、優美で気品を秘めた姿であった。
しばらく私は見惚(みと)れて、ため息をした・・。
私は20代のなかばより、いつの日にか、この方にお逢いしたい、
と片思いを続けてきた男のひとりであった。

そして、まぎれない美を目の前にすると、
私は心が高まり、少し照れながら、塔の全貌を眺めたりしたのである。


この後は、奥の院に向う歩道は、
樹齢何百年か定かでないが、杉の巨木が山の斜面に限りないほどあり、
その間の空間からは前方の山なみが観え、広大な一幅の絵となり、
圧倒的な存在の光景となり、確固たる森厳の中、
山林仏教を求道した古人の僧侶たちの思いが、少し解かったような思いとなったのである。


帰路、お守りなどを販売している所で、一冊の本に目が止まり、買い求めたのである。
『女人高野 室生寺』と題された美麗な本で、表紙には五重塔であり、
《 国宝 室生寺五重塔  落慶記念 》と帯に明記されていた。

私は2500円と見本品の隅に書かれていたが、
この『女人高野 室生寺』の本は、どこにも定価は印刷されておらず、
私が高校時代より数多くの本を買い求めてきたが、このようなことは初めての経験であり、
私は微笑しながら、昔の女子学生のような大切に本を胸に抱(かか)えながら、
観光バスの駐車している集合場所に向ったのである。



       最終章  旅の終わりは、同行グループのご夫婦と談笑し・・。

今回の短か奈良の旅も名古屋駅で、東京駅行きの新幹線の『こだま』に乗車する為、
駅の構内で時間調整をしていた。
団体観光ツアーだったので、所定の集合場所と時間を決められていたが、
早めに所定の場所に私達夫婦は行った。

私達が参加した今回のツアーは40数名で、何かしらキャンセル待ちの人々がいた、
と聞いたりした折、旅行会社の企画としては成功部類かしら、と私は微笑んだりしていた。

このような思いでいたら、家内は私達と同じツアーのご夫婦と談笑していた。
私は今回の団体観光ツアーの人たちとは、
観光バスで休息地、観光先、ホテルのチェック・アウト後のひとときなどで、
同行グループとは余り会話をすることがなかったことに改めて気付き、異例のことでもあった。

家内とご夫婦の方と、以前に旅行した思い出話をしていたが、
奥様が私の方を見て、微笑みながら、
『ご主人さま・・あなた方を見ていて・・羨ましいわ
だって・・ご主人は奥様のことを・・XXちゃん・・とお名前を呼ばれるんですもの・・
最初・・聴こえた時は・・びっくりしたわよ・・』
と云われたのである。

『・・婚約する前から・・呼んでいましたので・・』
と私は少し戸惑い、そして照れながら云ったりしたのである。

この後、私は主人と旅のこぼれ話を談笑したのである。

私より5歳ぐらい齢上の方の主人であったが、
私達夫婦は40代の頃から、団体観光ツアーに参加した折、ご夫婦の方たちのしぐさ、言葉、そして会話をしたりし、
人生の教科書として、多くを学んだりしてきた。
そして、私達もあのように60,70代を迎えたいね、
と私は家内の話したりしてきたのである。


東京駅から自宅に着くまで、1時間で有ったので、
日曜日のせいか10分早かったね、と私は家内に云いながら、門扉を開けた。
そして玄関までの薄暗い中、石段を上がる途中、
玄関庭の白梅が5輪ばかり咲き、私達を出迎えてくれた。
                             (終わり)
・・】



この翌日の1月29日に於いては、旅の余韻、そして余情として
【 私の夢のかけらの奈良大和路の旅は・・♪ 】
と題して、投稿していた。

【・・
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の5年生の身であり、少しボケて体力の衰えた64歳である。

過日、家内が、一度は奈良の『若草山 山焼き』を観たいわ、
と要望したので、私としては50年ぶりに、
家内と共に奈良に1泊2日のある旅行会社の企画された団体観光ツアーで訪れたのである。

わずか『西大寺』、『若草山 山焼き』、『長谷寺』、『室生寺』と観た限りであり、
こうした私の思いは、このサイトに、
【 冬の大和路、短かな旅は夢幻と現(うつつ)のなか。 【2009.1.24. ~ 1.25】 】と題して、
6回に及び、投稿している。

私は朝のひととき、ぼんやりと奈良大和路を思い馳せると、
やはり奈良大和路は、一日に一ヶ所の名所を訪れるのが、理想と思ったりした・・。
私は歴史と文化が好きであり、日本の場合は奈良時代から現世までは、魅了させられている。


奈良市内の近くの名所であれば、必ず徒歩で訪ねて、鑑賞する。
過ぎ去った歴史のかなたの人々の営みが、視(み)えなくなるからである。
そして、『東大寺』、『興福寺』、『薬師寺』、『唐招提寺』、『秋篠寺』などを観て、
ひたすら歩くのである。

郊外であれば、やむえず自転車に乗り、大和路の道を走ったり、止まったりしながら、
『法隆寺』、『慈光院』、『長谷寺』、『室生寺』などを鑑賞し、古人に思いを馳せる・・。

このような思いになると、少なくとも市内を中心に50日以上は宿泊し、
各地の名所を訪ねる旅路となるのである。


このようなことを家内に話したら、
『それは・・貴方の夢でしょう・・
私達の旅行は奈良でしたら、3泊4日程度で観光バスで周遊するのが、
現実的ですわ・・』
と家内は私に微笑みながら云った。

私は光明正信、塚本珪一・共著の『カラー版 奈良の散歩みち』(山と渓谷社)の
本を思い浮かべながら、
『僕達の年金生活だったら・・残念ながら・・そうだよねぇ・・』
と私は苦笑しながら、家内に云ったりした。

尚、光明正信、塚本珪一・共著の『カラー版 奈良の散歩みち』は、
昭和58年(1983年)の初夏の頃に、
私は本屋で偶然に見かけて、購入した美麗な本である。
この頃は、奈良にあこがれ夢中になっていた頃で、思い出の一冊でもある。
・・】


このように私なりに深い思いがあるので、たとえ1泊2日の短かな旅でも、
このような投稿文を綴り、改めて読み返しながら微苦笑しているのである。





href="http://www.blogmura.com/">ブログランキング・にほんブログ村へ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

この時節、昨年は大和路を旅して・・。 【上】

2010-01-23 13:39:58 | 旅のあれこれ
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
今朝、NHKのニュースを視聴していたら、
奈良の『若草山 山焼き』が本日の夜に盛大に開催されます、
と報じられて、私は早くも一年の月日が過ぎたのか、と感慨深く感じたりしたのである。

一度は『若草山 山焼き』を観てみたいわ、と家内のかねてからの要望で、
ある旅行会社の団体観光ツアーに私達夫婦は昨年のこの時節に参加して、
『若草山 山焼き』を初めて拝観し、この前後に大和路にある名所の一部を観たりした。


このことに関しては、このサイトに於いて、程々に投稿したので、
私は読み返しながら、微苦笑をしたりしていた・・。


昨年の2009(平成21)年1月23日に於いては、
【 齢を重ねた私に、優(やさ)しい『奈良の歴史・文化』の教科書は・・♪ 】
と題して、投稿している。

【・・
ここ数日、4日ばかり『カラー大和路の魅力 ~寧楽(なら)~ 』という本を、
ときおり読んだりしていた。

昨日は霧雨降る1日であり、散髪屋(理容店)、買物に行ったぐらいで、
居間から霧雨降る主庭の樹木を眺めたりしていた。

そして、近日中に、奈良のほんの1部を中学の修学旅行以来ほぼ50年ぶりに訪れるので、
少しボケた年金生活5年生の私は、改めて『奈良の歴史・文化』を学ぼうとして、
『カラー大和路の魅力 ~寧楽(なら)~ 』を読んでいたのであるが、
ネットでも色々と検索していたのである。
5分ぐらい検索していた時、これなら私にびったり、と私は思わず微笑んだのである。

《なら修学旅行ガイト 奈良の歴史文化》

というサイトで、

http://www.narasyugaku.jp/

四つのエリアに区分された地域で、この中から訪れたい名所、旧跡が見られのである。
何より私にとって心強いのは、解説はもとより、
『ゆかりの人物、文物』、『関連ある仏像』などが優しく解説されている。

私は少年が、やったぁ、と歓声をするように、しばらくの間、検索したのである。


尚、過日にこのサイトで、
【 『カラー大和路の魅力 ~寧楽(なら)~ 』を再読しはじめて・・♪ 】
と題して、投稿しているので、
今回の付録として、再掲載をする。

【・・
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の5年生の身であるが、
家内と共に、近日に奈良の『若草山焼き』を観る為に、
奈良に1泊2日のある旅行会社の企画された団体観光ツアーで訪れる。

『東京駅』から『名古屋駅』まで新幹線の《こだま》に乗車した後、
観光パスで、『西大寺』を観た後は、奈良のホテルに宿泊する。
翌日は、『長谷寺』と『室生寺』を鑑賞した後、帰路する短かな旅行である。


昨日、朝のひととき、私は奥の書棚で奈良に関して、何かと探していたのである。
まもなく、ひとつの懐かしい本の一冊を抜き出したのある。

『カラー大和路の魅力 ~寧楽(なら)~ 』(淡交社)と題された美麗な本で、
大和の情景を写した入江泰吉氏のそれぞれの名所の一葉の写真に、
美術史学者の杉山二郎氏の綴りを寄せた大和路の風土、歴史、文化を醸し出した一冊である。
そして、発行日は昭和47年9月20日と印字されていた。

この本は、私が二十歳過ぎた頃、作家・立原正秋氏に心酔していた時から10年足らず頃、
偶然に本屋で見かけて購入した本である。


私は二十歳まもなく大学を中退し、映画・文学青年の真似事をしていた時期に、
作家・立原正秋氏の小説、随筆、そして短歌も熱愛しながら、
多少の私なりに濾過し、古都の奈良にも思いを馳せたりしていた。

私は奈良に関しては、中学時代の修学旅行の時に、
京都・奈良の名所を鑑賞したりしたが、
京都は大学を中退する前後に2回ばかり各名所を観たり、
そして新婚旅行の時に桂川に隣接したホテルに2泊したが、
何かと古都に気後れて西芳寺と桂川の遊歩道を散策した程度であった。

特に奈良については、整然とした歴史と文化を学んだ後で、
鑑賞しなければ単なるうわべの観光客に過ぎないと、
東京の郊外の田舎者の私は、伝統の前に怖気づいたのである。

そして私は、拙(つたな)いなり学べば学ぶ程、古都・奈良と京都は、遠のいたのである・・。


このようなことであったが、今回たまたま奈良のわずかな名所を訪ねるので、
この本『カラー大和路の魅力 ~寧楽(なら)~ 』を35年ぶりに開いたのである。

私は風邪気味であったので、朝の10時半にこの本を布団の中に持ち込んで、
『西大寺』、『春日神社』、『東大寺』などを読んだりしているうちに、
眠り込んでしまったのである。

夕方の5時過ぎに目覚めたが、夢の中か、現(うつつ)か定(さだ)かでないが、
奈良の旧跡の情景がぼんやりと現れたのである。

・・】

このように古都の思いをありのままに発露している。



この後、1月24日に於いては、
【 本日より、奈良の『若草山 山焼き』観る短かな旅行に・・♪ 】
と題して、投稿していた。

【・・
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の5年生の身であるが、
家内と共に、本日より奈良の『若草山 山焼き』を観る為に、
奈良に1泊2日のある旅行会社の企画された団体観光ツアーで訪れる。

『東京駅』から『名古屋駅』まで新幹線の《こだま》に乗車した後、
観光パスで、大和路の『西大寺』に寄り、
『若草山 山焼き』観た後は奈良市内のホテルに宿泊する。
翌日は、『長谷寺』と『室生寺』を鑑賞した後、帰路する短かな旅行である。


私達夫婦の共通の趣味は、国内旅行であり、
子供に恵まれなかったせいか、若い頃から四季折々各地を訪れているが、
読売新聞が過日に『平成百景』の候補の300の候補地を見たりしていると、
まだ半分程度である。

http://www.yomiuri.co.jp/feature/heisei100/


私はB型の思い込みの激しく、魅了されたことには熱中するが、
平素の多くは、きまぐれ言動をしたりしている。
家内は何事も整理整頓好きなA型の几帳面タイプであるので、
私のことをときおり戸惑いながら、35年近く過ごしている。

そして私と同世代の夫婦を見かけ、仲良し恋しのご夫婦の言動に接すると、
私は微苦笑したりしている。

このような少しばかり風変わりな私達夫婦であり、
今回の旅に於いて、『若草山 山焼き』は家内のお好みで、
私は何より未知の『室生寺』にあこがれがあるので、小雪が舞い降る中で『室生寺』の情景が観られれば、
無上の悦(よろこ)びと思っている程度の男である。

さて、今宵は奈良市の郊外は、雨降ることなく『若草山 山焼き』が予定通り施行され、
そして私の秘かな願いである『室生寺』を訪れた時、小雪が舞い降るかしら、
と私は暗い早朝の空を見つめながら、天上の気候の神々に祈願したりしている。
・・】


                                   《つづく》
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

この時節、冬麗(とうれい)の情景に心を寄せて・・。

2010-01-23 08:10:28 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
屋根、庭の黒土にわずかな霜が観られ、朝の陽射しが射しこんでいる。

庭に下り立ち、樹木を眺めながら、煙草を喫ったりしているが、
朝のひとときは1度前後であり、何かしら凛とされる心持である。

冬晴れの日中となり、9度前後の暖かな陽射しにつつまれる中、
私は川沿いの遊歩道を散策するのが最適かしら、と微笑んでいる。

ここ一週間、自宅の近くに流れる野川を眺めながら、
この川の両端にある遊歩道を独りで歩くのが、多かったのである。

川の水辺の近くには、鷺(サギ)、鴨(カモ)が数多く観られ、
そして鶺鴒(セキレイ)、椋鳥(ムクドリ)も飛来してきているが、
私は興味がなく、陽射しを受けた川面、清冽な水の流れを見つめたり、
川辺の薄(すすき)などの冬枯れの情景に魅せられたりしている。

そして遊歩道を少し歩くと、小公園となり30本前後の落葉樹は冬木立の景観を見せている。
この地域に古くからあるクヌギ、コナラの樹木が中核となして、
ハクウンボク、ヒメシャラ、イヌシデ、ヤマボウシ、コブシなどの冬木立となして、
昼下がりの暖かな陽射しを受ける情景を見たりすると、
私は幼年期に農家の児として育てられたためか、心身和(なご)むのである。

私は足を止めて、木のベンチに座り、煙草を喫ながらしばらく見詰めていることが多い・・。

そして付近の垣根の傍で赤い実の南天が陽射しを受け、
その脇に千両の赤い実も見られ、地表から福寿草の黄色の花がひっそりと咲いている。

帰宅すれば、玄関庭の外れにある白梅が咲きはじめ、早春の匂いを受けたりしている。

このように冬木立の眺めたり、光がきらめく空を眺めたりし、
古人から冬麗(とうれい)と称されている情景に、心を寄せている。



href="http://www.blogmura.com/">ブログランキング・にほんブログ村へ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

改めて、私の本棚の上には・・。

2010-01-22 16:37:40 | 読書、小説・随筆
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
私は小説、随筆、歴史書、ノンフィクションなどの読書が好きなので、
若き頃に映画、文学青年の真似事をした時期もあり、同世代の人々に比べれば、本は多く持っている方と思っている・・。

私は映画青年の真似事を挫折した後、
映画の雑誌の『キネマ旬報』の300冊ぐらい、シナリオ集の20冊前後を映画の世界に熱愛する友人に上げたり、
月刊の雑誌などは二年毎に捨てるようにしてきたが、
結果として高校時代より買い求めた5000冊前後の本となっている。

この中には、私の青年期に定職に就かず、食事を抜いて買い求めた本もある。

そして私は本棚を居間に4本、書庫に4本、2階の洋間に2本、そして溢れて捨てるのが欲しまれるので、
やむえず押入れに入れたりしている。

居間にあるのは、頻繁に見返す本を置いている。
この中の本棚のひとつには、最上段の右側に最も敬意している本を置いている。

『世阿弥芸術論集』(新潮日本古典集成 4) 新潮社 1976(昭和51)年、
栗山理一・編の『日本文学における美の構造』 雄山閣 1976(昭和51)年、
北 一明・著の『ある伝統美への反逆 ~焼きもの伝説決別の美学~』 三一書房 1982(昭和57)年、
上田三四二・著の『この世 この生~西行・良寛・明恵・道元~』 新潮社 1983(昭和58)年、
安田章生・著の『西行』 彌生書房 1982(昭和57)年、
中野孝次・著の『西行の花 ~中世紀行~』 淡交社 1982(昭和57)年、
と並び、ここ10年ぐらいは変らないが、
私の定年退職後には、この並びに、
稲田利徳、山崎正和・共著の『方丈記・徒然草』(新潮古典文学アルバム 12) 新潮社1990(平成2)年が加入しているくらいである。

3年前の頃、この本棚の上に、ディズニーのキャラクター・グッズが並ぶようになったのである。
家内がディズニーランド、ディズニーシーで買い求めた品であり、
ミッキー・マウスが中心となり、七つばかりがちょこんと居座っているのである。

もとより私はディズニーのキャラクターは苦手であるが、
長年苦楽を共にした家内の悦ぶ表情を見つめると、なぜか撤去命令を云えないのである。

そして、私はミッキー・マウスなどに顔を合わせた最初の頃には、
人生を過ごす折、たとえ夫婦でも、ときには妥協も必要なの、判るかい、
とミッキー・マウスに向いながら、心の中で呟(つぶや)いたりしたのである。


href="http://www.blogmura.com/">ブログランキング・にほんブログ村へ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

改めて、言霊(ことだま)に魅せられて・・。

2010-01-22 07:01:28 | 読書、小説・随筆
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
私は短歌の三十一文字(みそひともじ)、俳句の十七音に関して、
詠(よ)む素養がないが、ときたま人さまの詠(よ)まれたのを拝読し、味わいを得て多々教示を受けている。

そして無念ながら、詩も詠めないので、もっぱら散文の世界で小説、随筆を読んだりしていることが多い。

私は東京郊外の農家の児として、1944(昭和19)年の秋に生を受けたが、
小学生に入学した当時は、幼い記憶をたどれば、家には農協の月刊誌のひとつの『家の光』しか見当たらなかった。

私は人生の歩みは、多くの日本人の方たちより、遥かに奥手であり、
高校生になり、やっと読書の魅力に目覚めたが、
古文の短歌、俳句や漢詩などの世界の基礎学習の授業をさぼったので、今だに不明なことが多いのである。

文は人格を表す、と古人から伝えられているが、
つたない私は、遅ればせながら散文の修行と思い立ち、せめてこのサイトに毎日綴り投稿している。

齢ばかり重ねた定年退職後の6年生の身であるが、つたない才能なりに綴っているが、
テーマがすんなりと決まることもあるが、苦心惨憺の時が多い。

後で読み返せば、月平均50前後に投稿しているが、
大半は気恥ずかしく、数編程度は私なりの独創性ある特有の綴りと思ったりしている。

いずれにしても、言葉の綴りは魔力が秘めている。



href="http://www.blogmura.com/">ブログランキング・にほんブログ村へ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする