夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

結婚記念日、78歳の私は、心の中で『愛染かつら』の主題歌を唄い・・。

2023-03-31 00:21:39 | 喜寿の頃からの思い
コメント (8)
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『ちょこっと共済』、私たち夫婦の外出の時の『お守り』代わり、早や18年を迎えて・・。

2023-03-30 07:41:51 | 喜寿の頃からの思い
私より5歳若い家内と2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭の中で、古ぼけた戸建て住んでいる。

こうした中、私は昨日、最寄りのある都市銀行に立ち寄り、
令和5年度の『ちょこっと共済』の掛け捨ての保険の申請をする為、
指定用紙を頂いたりした・・。

そして本日、最寄りのある都市銀行に立ち寄り、
私と家内のふたり分2000円を支払い、手続きを完了させる予定である。


          

私は年金生活を始めた2004年(平成16年)の秋の翌年に、
この『ちょこっと共済』を偶然に知り、これ以来、私たち夫婦は加入してきた・・。

当初、最初に加入した当時の私の記憶をぼんやりと浮かべると、
《 みんなで一緒。ちょこっとサイズのたしかな安心
                 小さな交通事故もカバーします! 》
と明示されていた。

たとえばひとり年額1000円の保険料で
不幸にして最悪の死亡となった場合の『1等級』の場合は、
300万円の見舞金が受け取れる保険である。
 
そして各等級別に見舞金が違い、最下位として、
実治療日数10日未満の傷害の『6等級』の場合は、
4万円の見舞金が受け取れる保険である。



私は2004年(平成16年)定年退職後は、多々の理由で年金生活を始めた。

私の住んでいる所は住宅街で、殆どの御宅は自動車があるが、
我が家は自動車も所有できない稀(まれ)な家となっている。

若き独身時代の時、生家の自動車を盛んに運転をし、ドライブをしていたが、
その後に結婚したり、定年前の30年間はペーパー・ドライバーとなり、
定年退職後は自動車をを購入して、ゆったりとドライブするのも、
ひとつの楽しみと思ったりした・・。
 
しかし、無念ながら齢を重ね感覚が衰えているので、自身の過ちで事故を起こした場合のことや、
何より人様に対して人身事故で傷つかせたりした場合を考慮すると、
単なる保険の支払いで済まなくなるので、自制し、
退職後まもない更新時に免許書を破棄することにした。
 
このように我が家は自動車も所有できないが、
私の住む世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅の地域は、
小田急、京王バスの路線バスが頻繁に走行し、
小田急、京王の私鉄路線も公共交通機関に恵まれた処となっている。

私は原則として、路線バスにも乗らず、
何よりも歩くことが健康の源〈みなもと〉であると確信している私は、
買物、散策などは、出来る限り路線バスにも乗らず、歩いたりしている。


そして冠婚葬祭、都心で懇親会、国内旅行、緊急の用事などは、
タクシーを利用したりしているが、
昨年も月平均は、福沢諭吉さんのお札を超えることなく今日に至っている。

 

こうした中、年金生活を私が始めた当時より、
大通りの歩道を自転車で疾走する登下校時の学生、買物の主婦など、
中には携帯電話を話したり、見たりする方たちがいて、
ここ7年ぐらいはスマホを眺めたりして、何かと前方を不注意の方も見かけたりした・・。

或いは、我が家の近くの大通り、そして住宅街でも、
特に高齢者の方が覚束ない自動車を運転される方たちを見かけたりしてきた。

こうした状況を見かけて危惧してきた私は、
万一、交通事故に事故に遭遇した時の用心として、
この後に、『ちょこっと共済』加入した。

                

そして、私たち夫婦は国内旅行が共通の趣味のひとつなので、
旅行先で万一交通事故に巻き込まれた時のことを配慮したりした。

私たち夫婦は、それぞれが毎年1000円ほどの掛け捨て保険をして、
確かに若き時代よりも、身体は衰え、少しボケてきたと感じる時もあり、
外出の時のお守り代わりに加入して、早や18年を迎えている。

この間、『ちょこっと共済』のお守りの効力の為か、
幸いにして私たち夫婦は、交通事故に遭遇しないで、無事に今日に至っている。



尚、この『ちょこっと共済』は、それぞれの都道府県別の自治体で、
運営管理されている、と私は保険に詳しい友人から教えられたりしている。
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『脱マスク』の昨今、78歳の私は戸惑いながら、微苦笑して・・。

2023-03-29 07:50:36 | 喜寿の頃からの思い
 


私より5歳若い家内と2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭の中で、古ぼけた戸建て住んでいる。

こうした中、3月13日より、屋外・屋外でも、
マスクの着用が個人の判断に委ねられるようになりました、
とテレビのニュースで報じられて、私は微苦笑した・・。



過ぎし2020年2月より、新型コロナウイルスの烈風に伴い、
マスクの苦手な私は、外出する時は、やむなく生まれて初めてマスクをしてきた・・。


そして新型コロナウイルスの感染拡大を防ぐために、
おひとりおひとりが、「相手と身体的距離を確保すること」、
「マスクの着用」、「三密(密集、密接、密閉)」を避けるといった、
国民の責務と思いながら、独りぼっちで出来る限り人影の少ない道を
選定して歩いたりしている。




こうした中、国が推薦するワクチン接種を5回受けたりして、
私は『新型コロナワクチン予防接種』を受けてきた・・。


そして各関係の専門の御方が一致団結して、医療体制を万全にして、
撲滅化を図り、
やがて政府より『新型コロナの終息』宣言を私は待ちわびている。


こうした根底のひとつには、私は園児、学童がマスクをしている状況は、
余りにも行動が制約され、痛ましく感じ、閉塞感を深めてきた・・。

もとより私だって、新型コロナ烈風の以前のように、
おおらかにマスクなしで、街中の食事処で、談笑しながら、
頂いたりすることを念願してきた・・。



このような深情のある私は、昨夜の10時過ぎにぼんやりと、
『脱マスク』について思案してしまった・・。

そして屋外・屋外でも、マスクの着用が個人の判断に、
と首相みずから『脱マスク』を高らかに宣言して、
公私ともマスクなしで言動すれば、殆どの国民は安堵して、
従うのになあ・・と苦笑したりした。

私は我が家の平素の買物専任者で、スーパー、専門店に、
独りで行ったりしている。

ここ一週間、10分前後のスーパーに行き時は、
マスクを左手に提げて、大通りの歩道を歩いていく・・。

そして若い母親がベービー・カーを押してくる時、
或いは人出の多い時は、やむなくマスクをしている。

やがてスーパーの店内は、お店の御方はもとより、
私たち買物客も、強制ではないが、暗黙の良識に従い、
マスクをしている。



帰路、幼稚園の近くを通ると、園内のグランドでは、
マスクなしに歓声をあげながら動き回っている園児たち・・、
先生、関係者のスタッフなどはマスクをして、数多くの園児を
あたたかく見守っている。

こうした数日後、この幼稚園の園児たちは、少し離れた公園に行く時は、
同じようにマスクなしで、歩いていた・・。
もとより先生、関係者のスタッフなどは、人出の少ない歩道を選定して、
園児が程々に列を乱さないように、誘導していた。

私は少し離れて、微笑ましく見守って、
やっと本来の園児たちのしぐさだ・・、と好感してきた。

しかしながら、新型コロナウイルスの烈風の以前のように、
たとえば人出の多い電車の車内・・或いはスーパーの店内・・、
やはり私だって、周囲の視線が気になり、やはり同調してマスクを付けている・・。



これから何かのきっかけがなければ・・、
たとえば熱い日々が続き・・口の周りが汗ばみ・・、
マスクをはずす方が見られ、やがて街中の3割前後になった後、
お互いの黙認しながら、解放感も加わり、マスクなしの状況になる・・。

このようなことを思い馳せ、念願したりしている・・。
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「春に三日の晴れなし」、都心の郊外に住む私は、戸惑いながら苦笑して・・。

2023-03-28 06:31:55 | 喜寿の頃からの思い

私は東京の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅みに住み、
結婚前後の5年を除き、この地域に年金生活をしてる78歳の身である。

私の住む地域は、3月14日に染井吉野(ソメイヨシノ)の桜が咲き始めたと宣言され、
まもなく大島桜(オオシマザクラ)、山桜(ヤマザクラ)など、多彩な桜花に、
少年のように高揚しながら、遊歩道、公園などを歩き廻った
りしてきた・・。















このように多彩な桜花に見惚(みと)れて、過ごしてきた・・。

過ぎし22日は、5月ような22度前後の陽気となったりしたが、
翌日の23日は小雨降る花冷えの15度前後となったりした。

そして翌日の24日は、花曇りの中、25度の今年初めての夏日となり、
私は天上の気候の神々の采配に戸惑ったりした。

この後の25日は、小雨降る花冷えの11度前後となり、
2月のような寒い日中となったりした。

そして私は、平素の我が家の買物担当の私は、中止と宣言した後、
雨、風舞う中を散策するのは、後期高齢者の天敵と思い、
やむなく私は、読書の日と変更して、ベットに横たわりながら本を読んだりした。



そして26日も、雨降る2月下旬のような寒い日となります、
と天気情報は報じられていた。

私は居間のソファに座り、本を読んだりしていたが、
玄関の軒下に降り立ち、雨降る小庭をぼんやりと眺めた・・。




そして昨日の27日は、花曇りの17度前後の中、
いつものように我が家の買い物でスーパーに行ったりして、
月曜日にしては混雑しているよなぁ・・と心の中で思ったりした。

そして土、日曜日・・連続の小雨降る寒い日が続いたので、
私のように買い物を中止して、やむなく本日の月曜日に、
買い物に来たのか・・我が家と同じだよなぁ・・と心の中で呟(つぶや)いて、
独り微苦笑したりした・・。

やがて帰宅した後、小庭の片隅に花梨(カリン)が咲き、
私は微笑んだりした・・。




過ぎし22日頃、たわわに莟(つぼみ)になったのに気づき、
そして小雨降る花冷えの中ても、健気に小花に成長したので、
微笑んだりしたのであった・・。

そして本日の28日、私は大学病院に通院する日で、早朝に出かける準備をしていると、
どうした訳か判らないが、東京地方だけが朝一時雨・・となり、
どうしてなのょ・・と戸惑ったりしている。

私は小雨を降る情景を眺めながら、「春に三日の晴れなし」、と思い馳せたりし、
確かに古人から伝えられる明言であるが、今年の春は極端だょなぁ、
天上の神々の采配に、少しボケた私でも、戸惑いながら苦笑したりしている。

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桜花、どなたでもお住まいの地域の桜花こそが、より美しく感じる、私は微笑み・・。

2023-03-27 08:49:15 | 喜寿の頃からの思い

私は東京の調布市に住む年金生活の78歳の身であるが、
ここ一週間、各地で桜が開花、七分咲き、或いは満開とテレビのニュースで報じられて、
微笑んだりしている・・。

東京の都心の多くは、染井吉野(ソメイヨシノ)の桜が3月14日に開花宣言をされた後、
5月のような陽気となったりして、満開となった中、各地に花見が盛大に行われた、
と私はテレビのニュースで知ったりした。

こうした中、私も自宅付近を散策して、春到来の情景を撮った・・。





やがて一昨日の25日、昨日の26日は、2月下旬のような寒さの中、小雨が降ったりした。

そして私は、せっかくの土曜、日曜日に、
花見を楽しみにされた働いて下さる諸兄諸姉の御家族・・、
お気の毒だよなぁ・・と天上の気候の神々の采配に戸惑ったりした。


私の住む地域は、桜花の時節は染井吉野(ソメイヨシノ)が開花した後、その後に山桜(ヤマザクラ)、
やがて4月下旬に八重桜(ヤエザクラ)が散り始めるのが、毎年の習性となったりしている。

こうした思いを馳せていると、過ぎし年に日本の各地の桜花が、
脳裏から舞い降りてきた・・。



私たち夫婦は国内旅行も共通趣味のひとつで、日本の各地の桜を観たりしてきた。

この中のひとつとして、南東北地方の桜の名所をバスでめぐる観光団体ツアーに、
私たち夫婦は参加した。

私のノートに記載されたメモを見ると、
2005年(平成17)年4月18日から1泊2日の短かき旅路であった。


樹齢1000年以上で日本一の紅枝垂桜(べにしだれざくら)と知られている『三春』の滝桜、

蔵王連峰を背に7キロ前後に1000本の咲く『白石』の一目千本桜、

最上川の置賜地域のさくら回廊として名高い『最上川』千本桜、

樹齢1200年でエドヒガンザクラと有名な『長井』の久保桜、

1000本前後の桜が咲き誇る会津の名所の『鶴ヶ城公園』、

1200本の桜が咲く福島の名所である『開成山公園』、

このような6ヶ所の桜めぐり旅であった。

私は旅行をした後には、その時に感じたことを記載する旅ノートがあり、
この旅路には下記のように記していた。


私達夫婦は東北地方の南部地方に、桜の季節を訪ねるのは初めてであったので、
未知の世界でもあった。
    
郡山の近郊にある《三春の滝桜》は、一分咲きだった。

紅枝垂桜(べにしだれざくら)で樹齢千年以上いわれる大木で、
枝は支柱で支えら、里の中の斜面に忽然とあった。

見事な大木であったが、支柱に支えられるのを視ると、
何かしら痛ましいような感情をよぎった・・。


この桜の周辺は、樹齢50年以上の桜が30数本あり、やはり一分咲きであったが、
清々しく、東北の遅い春を現(あらわ)していた。
肌寒かったが、観光客で賑わっていた。

その後、白石市のはずれにある白石川の川堤で、数多くの染井吉野が七分咲きを見せていた。
観光客は少なく、市民の人たちで賑わっていた。

この川べりに7キロ近くわたって千本の白っぽくたわわな桜並木が続いている、
と市民の方から教えて頂く。
こうした情景を観ると、地元にお住まいの市民の方たちの春の訪れを楽しまれているのに、
素朴な喜びを頂いた・・。

この地を後にして、宿泊先の蔵王温泉より高台にあるホテルに行くため、
スカイケーブルを乗り継いだ後、根雪が2メートル以上残っているので、雪上車に乗った。

落葉したブナ林の中に、ホテルがあり、その周辺にドッコ沼があった。
浴室から、ブナの樹木を通し、ドッコ沼が見え、根雪が沼に押し寄せていた。
雪解けのひとつの情景である。
   
早朝、部屋からドッコ沼を眺めた・・。
弱い朝陽がブナの樹木を照らし、樹元の根雪は幾分薄く、少し離れた根雪は相変わらず厚く、
沼岸に押し寄せている。

沼の水面は、陽差しを受けて早春の漂いを見せていた・・。

ホテルをチェックアウト後、
スカイケーブルで下山する途中、蔵王温泉の街並みが快晴の陽だまりの中、浮いているようだった。

バスの車窓からは、山形盆地の街並みが一望でき、ここからの景観は何回見ても飽きない光景である。

盆地特有の山並みから緩やかな斜線の中での雑木林が観られ、
その山里には、切り開かれた畑があり、点在した人家が見られた。
盆地の底は、人家の多い街並みがあった。

最上川に面した白鷹町の付近にある河川岸にある千本桜は、固いの蕾であった・・。
川の流れは急速で、ゆたかな清冷な流れでを見せてくれた。
やはりこの地は、東京の郊外より、暦(こよみ)を一ヶ月もどしたような遠方な地であった。

長井市にある久保桜を観に行くため下車し、歩き始めた時、田畑の道あぜの付近には、
土筆(つくし)、蓬(よもぎ)が見られた。
素朴な情景であったが、この後の江戸彼岸桜はどうでも良い、と思えた。

里の春の訪れを確かに受容できたので、私は満足し、心が豊かになったことを自覚した。

久保桜は、一分咲きで樹齢千二百年の風格があったが、
先ほど見た土筆、蓬の方に、私は魅了された。

観光客は多く、地元の方が、この地で採れた蒟蒻(こんにゃく)を串刺しで、
烏賊(イカ)で味付けをしたのが、
家内はイカ味を工夫してあって美味しい、と言った。

私は地酒の試飲をした後、純米酒は美味しくなく、やむなく原酒を買い求めた。

会津若松の鶴ヶ城公園の桜も、一分咲きであった。

その後、郡山の開成山公園に行き、満開の桜に出会ったのである。

桜はもとより、白木蓮、日陰の付近に辛夷(こぶし)咲き誇っており、
周辺一帯を白い花で染められていた・・。

旅の終わりに、たわわに咲く満開の桜の樹の下で、家内と言葉を交わした。

『色々と観て廻ってきたが・・
ここで春一色とは・・予想もしなかったょ・・』
と私は家内に言葉をかけた。


このようなことを拙(つたな)いメモ書きで綴っていた。

私は読み返したりして、やはりお住まいの地域で桜花を愛(め)でるのが最良、

と確信を深めたりした。



もとよりその地にお住まいの方が、寒い長きの冬の時節を過ごされて、
梅の咲く時節には春がまもなく到来すると感じ、やがて桃の花を眺めて、
そして桜の花が咲き、春爛漫の時節を家族、知人ともに悦ぶ合う季節である。



このようなことを感じたら、私の場合は近くに流れる野川の桜並木、               
そして上流に向かい45分ばかり歩いた先の私が通学した中学校の近くの都立・神代植物園、
私は調布市の片隅に結婚前後の5年を除き、73年ばかり住んでいるので、
過ぎ去る日々の時代の愛惜感も重ねながら、地元の桜が圧倒的に愛(いと)おしいのである。

このようなことをぼんやりと思ったりしたが、
どなたでもお住まいの地域の桜花こそが、どの桜より美しく感じる、

と私は気付き、微笑んだりしている。

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血液型B型の私は、七転八起の人生航路を歩んで、独り微苦笑して・・。

2023-03-26 08:28:24 | 喜寿の頃からの思い

私は東京の調布市の年金生活をしている78歳の身であるが、
恥ずかしなから血液型はB型であり、確か10年前の頃、ある書物を読んでいた中で、
《・・占いのように思われがちだが、
最近では会社の人事に取り入れられるケースも見受けられるのが血液型診断。
O型とA型で約7割を占める日本人。

その煮詰まりやすい社会のなかに、
発想転換のヒントを与えるとともに、潤滑油として「楽しさ」を与えるのがB型だ。
 
B型に向いているのは、音楽や芸術分野に関わる仕事。
独特の鋭い感性でイメージを展開したり、ひらめきや直感に富んでいるので、
クリエイティブな分野の仕事には最適だが、持続力がないのが弱点。・・》
と学んだりしてきた。

             

或いは小萩喜一さん著作の『人生の9割は血液型で決まる!』(世界文化社刊)に於いては、
《・・B型の人に大切なのは、“どこまでも真剣に遊ぶこと”です。

これはと思うものに出会ったら、思い切りそこに照準を合わせ、
夢をかなえるために一心不乱に取り組むと成功します。

占いなどでは「変わり者」扱いされがちなB型だが、その熱中ぶりや波瀾万丈さを評価する声も。
クリエイティブな企画者として独創性を認めてもらえるか、どうかがB型の人の分岐点なのである。・・》
     
このように学んできた私は、B型の長所、短所が明示され、
何かしら素肌を視られたように恥ずかしさの余り、赤面させられたりした・・。



そして何かと単細胞の私は、熱中すれば周囲が見えなくなるタイプであり、
これまでの人生の軌跡を思い馳せると、拙(つたな)いなりに当っている面もあるよなぁ、
と苦笑したりしてきた。

年金生活19年生の今、ときおり過ぎし日々のことに愛惜し、思い馳せたりすることもある。
そしてこれまで歩んできた人生の中で、ときには熱病のように無我夢中となったりする時があったりした。
              
大半は一時的な3ケ月前後で終わることが圧倒的に多いが、
少なくとも1年以上続き、やがて平熱になった時に振り返った時になど、
我ながら、そんな時代もあったねぇ、と微苦笑したりしてきた。

                       
                     
たとえば音楽の場合は、1971年(昭和46年)に、
偶然にシャンソンの作詞、作曲もされるバルバラの歌を聴き、
瞬時に魅了され、これをきっかけにシャンソンの世界にに熱中した・・。

そして銀座の片隅にあるシャンソン喫茶の『銀巴里』に、少なくとも週2回ぐらい退社後に通いだして、
出演された多くのシャンソン歌手の唄声に心酔した。

こうした中で、金子由香里さんなどに夢中となったり、この当時は、もとよりレコードが主流であったので、
『銀巴里』の往還時に『ヤマハ銀座店』に立ち寄ったりして、
アルバムを買い求めて、2年たらずで100枚を超えて、
本場のフランス、そして日本の歌手を居間で擦り切れる程度に聴き惚れていた・・。




やがて1989年(昭和64年)に、
遅ればせながらシンガー・ソング・ライターの中島みゆきさんを偶然に聴いた。

『エレーン』の歌であり、この当時の私はあるレコード会社の情報畑で奮闘していた時代であった。

こうした中、消費税実施が4月から実施されるのでシステム改定、
そして昭和天皇が御逝去となり、『昭和』から『平成』の年号改定も重なり、
苦闘していた時で、心身ボロボロのような時に聴いたりした・・。。

その後、私は40代の半(なか)ばに、ギックリ腰が悪化して、
28日ばかり入院して、もとより業務から離脱し、社会から取り残されたように心情の時、
『永久欠番』で救われたりした。

この後、リストラ烈風の中、あえなく出向した中、『ヘッドライト・テールライト』が
心の支えとなってきた。

この間、カセット、CDはもとより、随筆、そして評論集まで購読し、
私の人生の幾たびの苦境の時に、特にこの3曲から救われ、
今でも中島みゆきさんは、私の秘かな女神となっている。



そして1997年(平成9年)の頃に、ハードロック・グループの『X JAPAN』をテレビで観て、
この当時52歳の私でも瞬時に魅了され、
帰宅するたびに殆ど毎晩、2時間ぐらい聴きこんだりしていた。

この後の数年間は、物狂いのように熱愛し、殆ど毎晩CDで聴いたり、
ビデオテープ、DVDの映像作品を視聴したりした。
そして定年後の年金生活の今でも、ときおり聴いたりしている。

                                 

映画に関しては、小学4年生の頃から独りで、
たびたび映画館に通ったりしてきた映画少年の体験も加わり、
これが原因で、東京オリンピックが開催された1964年(昭和39年)の直前に、
映画の脚本家になりたくて、大学を中退した。

この間、高校時代の頃より、映画専門誌の『キネマ旬報』などを精読し、
古本屋まで行って買い求めたりし、やがて500冊ぐらいなったりした。

そして、脚本家として橋本 忍(はしもと・しのぶ)さんを神様のように信愛した。
映画監督の場合だと特にデビット・リーン、そしてセルジオ・レオーネの両氏に夢中になったりしていた。
アルバイトをしながら、映画青年の真似事をし、シナリオの習作をしたりしていた。

その後、養成所の講師の知人の新劇の長老からアドバイスを頂き、
映画で生活をするは大変だし、まして脚本で飯(めし)を食べていくは困難だょ、
同じ創作するなら、小説を書きなさい、このような意味合いのアドバイスを頂いたりした。

                       

私は遅ればせながら高校に入学してまもなく、突然に読書に目覚めて、
この時から小説、随筆、ノンフェクション、月刊雑誌などを乱読してきた。

読書に魅せられるのは、創作者より、文字から伝えられる伝達力、創造力が
それぞれ読む時の感受性、知性、想像力により多少の差異があるが、
綴られた文章はもとより、この行間から感じられる圧倒的な魔力から、
高校生の時からとりつかれたのであった・・。

そして小説・随筆系は文学全集のひとつ中央公論社の『日本の文学』90巻を基盤として精読した上、
純文学の月刊誌『文学界』、『新潮』、『群像』、
中間小説の月刊誌『オール読物』、『小説新潮』、『小説現代』を購読したりしたりした。

こうした中で、魅了された作家は20名ぐらいあったが、
圧倒的に魅せられたのは、井上 靖、そして立原正秋の両氏であった。

この当時の私は、アルバイト、契約社員などをしながら、習作をしていた。

確かな根拠はなく自信ばかりで、純文学の新人コンクールに応募したりしたが、
当選作の直前の最終候補作の6作品の直前に敗退し、こうしたことを三回ばかり繰り返し、
もう一歩と明日の見えない生活をしていた。

こうした時、私の実家で、お彼岸の懇親の時、親戚の小父さんから、
『今は若いからよいとしても・・30過ぎから・・家族を養えるの・・』
と素朴に叱咤された。

結果としては、30代に妻子を養う家庭のことを考えた時、
強気の私さえ、たじろぎ敗退して、やむなく安定したサラリーマンの身に転向したのは、
1970年(昭和45年)の春であった。

                                                                 

この間、何とか大手の企業に中途入社する為に、
あえて苦手な理数系のコンピュータの専門学校に一年通い、困苦することも多かったが、卒業した。
          
やがて1970年(昭和45年)の春、この当時は大手の音響・映像のメーカーに何とか中途入社でき、
そして音楽事業本部のある部署に配属された。

まもなく音楽事業本部の大手レーベルのひとつが、外資の要請でレコード専門会社として独立し、
私はこのレコード専門会社に転籍させられ、音楽業界のあるレコード会社に35年近く勤め、
この間に幾たびのリストラの中、何とか障害レースを乗り越えたりした。

しかしながら最後の5年半は、リストラ烈風が加速される中、あえなく出向となったり、
何とか2004年(平成16年)の秋に定年を迎えることができたので、
敗残者のような七転八起のサラリーマン航路を過ごした。

こうした中、出向先は遠い勤務地に勤め、この期間も私なりに奮闘した結果、
身も心も疲れ果てて、疲労困憊となり、定年後はやむなく年金生活を始めたひとりである。

             

この間、数多くのサラリーマンと同様に多忙な生活の中では、
特に水上 勉、庄野潤三、城山三郎、松本清張、山口 瞳、向田邦子、宮脇俊三、倉本 聡、浅田次郎の
各氏の小説・随筆、シナリオを読むことが多かった。

やがて2004年(平成16年)秋に定年退職後の年金生活の中で、
単行本、新書本、文庫本の書籍に於いては、
定年後からは特に塩野七生、阿川弘之、佐野眞一、藤原正彦、嵐山光三郎、曽野綾子、三浦朱門、
高峰秀子、松山善三、櫻井よしこ、徳岡孝夫、中西輝政の各氏の作品を中核に購読している・・。

雑誌の月刊総合雑誌としては、『文藝春秋』は1970年(昭和45年)の4月号より購読し、
毎月秘かに逢える心の友のひとりとなっている。
そして『中央公論』、『新潮45』(数年前に休刊)は、特集に魅せられた時は購読してきた。

或いは季刊誌としては、『文藝春秋SPECIAL』を購読してきて、
季節をめぐる毎の秘かな恋人のように愛読してきた。

                     

私は幼少の頃から、根は単細胞の性格のためか、ともかく惚れこんだら命がけの恋と同様である。
少年の頃から、なぜかしら女性に憧憬する癖があり、
青年の頃には失恋の方が多かったが、ときには相思相愛で無我夢中で、恋い焦(こ)がれて時もあった。
         
私は映画、文學、音楽、そして愛(いと)しき女性にも、
熱愛している時は、この世の中、あなたしか視(み)えない、というように、
時を忘れ、ともすれば食事も忘れ、寝る間も惜(ほ)しんで物狂いになったりしてきた。

恥ずかしながら齢を重ねても私の悪い癖は、ときたま活火山のようになるので、
もとより理性などの平常心は吹き飛んで、心酔を重ねることもある。

そして、病気は治療すれば殆ど治(なお)るが、癖(くせ)は治ることは少ない、
と格言があるが、ときおり私は理性のある人に何歳になったらなれるの・・、
と思ったりする時もある。



余談であるが、私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は私と家内とたった2人だけの家庭であり、
家内は料理、洗濯、掃除などを積極果敢にする専業主婦の優等生であるが、血液型A型となっている。

そして我が家では年に数回、私はB型、家内はA型の為か、ボタンの掛け違いのように差異が発生する。

こうした時、私は中小業の民間会社で35年近く奮戦して、何かと悪戦苦闘が多かった体験を応用して、
やがて私は、映画、文學、音楽に関しての粗雑なコメント以外は、私たちの人生に大勢に影響がないと判断して、
いつまでも心のわだかまりを残すことは、夫婦としてよくないと思い、15分以内に妥協してしまう。

『ボクが悪かった・・XXちゃんのおしゃる通りです!!』
と家内の前で、私は床に伏して詫びたりしている時もある。


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私のささやかな人生、『主役』になれたのは、確か一度だけだった、と私は微苦笑して・・。

2023-03-25 08:31:37 | 喜寿の頃からの思い

私は東京の調布市に住む年金生活の78歳の身であるが、
今朝いつものように家内と共に朝食を頂いた時、
ぼんやりと私たちの来週のスケージュルのことを話し合ったりした。

そして駅前に一緒に買い物に行く日を確認したりした後、
私たち夫婦が結婚した3月30日だったことが思いだされ、
結婚記念日まもなくだよねぇ、と私は家内に言ったりした。

この後、私は庭のテラスに下り立ち、昨日の5月のような25度前後の陽気から、
2月下旬のような寒さの中で小雨となり、花冷えにしては極端だよなぁ・・
天上の気候の神々の采配に、戸惑ったりした・・。

こうした中でも、小庭にある落葉樹が芽吹きを迎え、
幼い数多くの葉を眺めたりした・・。




やがて私はぼんやりと、これまでの人生を思い馳せたりした中で、
『主役』になれたのは、結婚式の後の結婚披露宴だった、

と独り微苦笑したりした・・。

誰しも人生は、生まれてきた誕生日、新たな家庭を築く両家の新郎新婦の祝賀会の結婚、
そしてやむなく亡くなった当人の葬儀が、その御方の人生の三大の出来事と称されてきた。

しかしながら私の場合は、1944年(昭和19年)の秋に農家の三男坊として生を受け、
両親はもとより、祖父、父の妹の叔母、そして長兄、次兄のもとで育(はぐく)まれたが、
もとより誕生した時の当人の私の自覚は、数年はなかった・・。

そして今後の天上の神々の采配により、私がこの世と別れた時の後、
葬儀の内容は家族葬を要望しているが、こうした時も命の果てた私には解らない・・。

こうした関係により、つたない私の人生で、
数多くの方から恥ずかしながら『主役』になれたのは、

新郎新婦の両家の結束を固める結婚式であり、
その後の知人、友人、親戚たちから祝賀される結婚披露宴だった、と私は思ったりした・・。


               
私は小、中学時代は劣等生であり、高校時代には始めて授業の楽しさを覚えたりする中、
何とか優等生のグループになったりした。

そしてクラブは写真部に所属して、風景部門で最優秀を頂いたこともあるが、
これはクラブの部員の中で選定された、文化祭のセレモニーのひとこまに
過ぎなかったことである。


或いは35年近くのサラリーマン時代には、わすか一度だけ社長から、社に多大に貢献したと、
表彰式を設けられて、感謝状と共に金一封を頂いたこともある。

しかしながら勤務して、たまたま目立ったことの業務に配属されて、
奮闘した結果のセレモニーである。



こうしたことは『主役』の範疇は、もとより対象外のささやかなイベントであり、
卑屈で何かと劣等感が多い人生を歩んできた私は、
『主役』になれた結婚披露宴の若かった私、新妻のだった家内、知人、友人たち・・
それぞれのしぐさ、言動を思い馳せて微苦笑をしたりした。

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都民の私たち夫婦は、ささやかな贈り物を頂き、微苦笑して・・。

2023-03-24 08:06:08 | 喜寿の頃からの思い
私より5歳若い家内と2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭の中で、古ぼけた戸建て住んでいる。

そしてお互いに厚生年金、
わずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。

こうした中、私たち夫婦は経済的に贅沢な生活は出来ないが、
『働らなくても、何とか生活ができるので助かるわ・・』、
と家内がときおり、 呟(つぶや)くように私に言ったりする。

『そうだよねぇ・・』
私は苦笑しながら応じたりしている。



昨日、小雨が降る小庭をぼんやりと眺めたりした後、
過ぎし日に配達された市報の『ちょうふ』を読んだりした。

そして福祉の欄に於いて、『東京都シルバーパスの発行』の記事を見たりした・・。

満70歳以上の都民で、都営交通、都内民営バスなどが、
所得制限があるが、利用できるパスカードの制度がある。

この制度に関しては、以前の私は、漠然としながらも、
支払うカード料金の方が高いと思っていたので、
注視してこなかったが、たまたま今回、記事を精読したりした。

何かしら住民税の令和4年の合計所得金額が、
135万円超・・・・費用・・2万510円
135万円以下・・・費用・・・1000円
と明記されたりした。

そして私は、年金の総収入だったら、すぐに判るが、
合計所得金額は・・何を見たら解かるかしら、と思ったりした・・。

そして『東京都シルバーパスの発行』に伴う、
利用できる交通機関の問い合わせも含めて、
こっそりと市の高齢者支援室に、問い合わせの電話連絡をした。



まもなく私が、平素利用している路線バスの京王バス、
小田急バスなども、東京都の範囲であれば、対象内であることが、
確認できたりした。

そして合計所得金額は、最新の『介護保険料決定通知書』に
記載されている合計所得金額を見て下さい、
と担当の御方より、私はアドバイスを受けたりした。

やがて合計所得金額は、恥ずかしながら135万円以下であったので、
シルバーパスの費用の負担額は、年間でたった1000円かょ・・、
と驚いたりした・・。

この後、家内は私が年金生活を始める以前は、長らく専業主婦だったので、
もとより家内の昨年度の合計所得金額は、135万円以下であったので、
私たち夫婦は、それぞれに『東京都シルバーパス』に加入しょう、
と思ったりした。

そして家内に経過状況を私は言ったりして、
遅ればせながら、我が家はそれぞれ加入しょうょ・・、
と私は家内に微苦笑しながら言ったりした。



本日、私は近くのあるバス会社の営業所に、
『東京都シルバーパス』の加入手続きをする為に出かけるが、
私は78歳であるが、確か75歳までは個人年金などがあった後、
厚生年金とわずかな企業年金だけとなったりした。

この時より、年金の総収入から必要経費を差し引いた合計所得金額は、
結果的には135万円以下になってしまい・・
『東京都シルバーパス』の加入ができたのに・・
本日より、遅ればせながら手続き完了後に、活用させて頂く。

さて、これから東京都の利用できる交通機関を利用して、
人並みの少ない所の施設、公園など、ゆっくりと遊学して、
甘受させて頂くことを思い浮かべて、微苦笑したりしている。

このような思いを馳せると、都民の私たち夫婦は、
遅ればせながら・・ささやかな贈り物を頂いた、と思い重ねている。

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ブログの世界でも、出逢い、別れがあると、改めて実感させられて・・。

2023-03-23 08:38:55 | 喜寿の頃からの思い

私は東京の調布市に住む年金生活の78歳の身であるが、
この3
月、園児の卒園式、中学、高校生の卒業式、或いは社会人の入社式などのニュースを見たりし、
思いで深い人と別れて、新たな旅たちをされる人たちから、感動させられることが多かった・・。

私も民間会社に35年近く勤め2004年(平成16年)の秋に定年退職を迎えたが、
この間は人事異動などで、もとより数多く人とめぐり逢う中で、
上司、同僚、後輩など盛んに交流を重ねたりしてきた。

やがて私は、定年後は多々の理由で年金生活を始めて、
次第に疎遠になり、年賀状だけを交わすだけが大半となっている。

或いは一部の人たちと、年に一度ぐらい居酒屋で会ったり、
会社のOB懇親会がある時は、必ず出席して、懐かしき人と談笑を繰り返してきた。

古来より誰しもが長き人生を過ごす中、人との出逢い、別れがあると学んできたが、
改めて年金生活を過ごす中、実感を深めて、愛惜を重ねてきた・・。



こうした中で、過ぎし年金生活を始めた当時、ネットの世界は私は殆ど無知な癖に、
この当時にIBMなどからホームページ作成素材のソフトを買い求めて、
漠然としながら『ホームページ』を立ち上げようと思ったりした。

そして自身の日々の思い、そして過ぎ去った時代の思いのことなどを
出来うる限り随筆風の散文を綴り、公開しょうと思案したりしていた。

しかしながらホームページの開設までの技量に乏しく、
無名の私が開設・運営した所で果たして、と躊躇していた時に、
偶然に本屋の店頭で一冊の本にめぐり逢え、私は初めて『ブログ』の世界を知った・・。


この本は『はじめよう! みんなのブログ』(インプレス)と題された、
別冊インターネット・マガジンであった。



ブログの世界は、多くは匿名制度であり、ある程度の良識を根底に於けば、
それぞれの御方が自由に、私生活の出来事から、政治、外交、軍事、経済、社会などの分野まで表現でき、
日本でも2002年(平成14年)の頃から急速に普及し、
誰でも発信できる人類史上初めての時代が到来してきた・・。

この少し前の時代は、もとより各専門知識のある有識者が、雑誌、新聞などに寄稿文を掲載することができる時代で、
私のように無名で素人の身は、せめて新聞・雑誌などの読者コーナーで、記事を投書できる範囲であり、
何よりも掲載の判断は、編集部の意向で決められていた。

こうした結果として、私は自在に私の生活のことから、政治、経済、社会などに専門知識がない私でも、
私なりの思いを発露できる上、何よりブログはホームページより手軽に開設、運営できると感じ、
ブログに加入しょうと決意した。

そして2004年(平成16年)11月12日にある大手のブログサービスに加入した後は、
2つばかりの10万人ぐらい加入していた小さなブログサービスに彷徨(さまよ)った後、
この【gooブログ】に翌年の2005年(平成17年)1月19日に加入した。

この間、まもなく他のブログサービスに加入して熱中して、2度ばかり中断したが、
やがて2008年(平成20年)の5月以来は継続し、今日に至っている。    

このような軌跡で、ブログの世界を知って丸18年が過ぎて、早や19年生となっている。
結果的には、パソコンの故障、国内旅行、入院などしない限り、日に少なくとも一通は投稿してきた。



こうした根底には、私の幼少時代から年金生活している現在までの生きてきた心の軌跡を発露して、

自己表現のひとつとして、心の証(あかし)として残したいからであった。

そして年金生活を過ごしている今、日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。

私は綴る際は、自身のその時の心に素直に綴るようにし、
あとで振り返った時、あの時はこのような思いで過ごしていたのか、
何より自身に対して、その時の思いの心情を大切にしているひとりである。

恥ずかしながら数多くの駄文を綴ってきたが、
ひとえに自身の為の心の軌跡の発露、と言っても差し支えない。

こうした中で、60代の投稿文の内容は、やはり幼年期~現役サラリーマン時代の想いでが多く、
或いは年金生活を過ごす実情を脚色もせず、ありのまま数多くの投稿文を綴ってきたりした。

そして70代になると、無念ながら自身の体力の衰えを実感した為か、
健康、病気、介護、葬儀、家計などを学んだことに、
私の思いを前後に加味した投稿文に変貌した内容となり、
まるで餡子(あんこ)の入った『お饅頭(まんじゅう)』のような投稿文となり、
独り微苦笑する時もある。                                   

最近、反省をして、初心に帰れと、随筆風の投稿文に帰路したりしている。



こうした中で、私は投稿文の時に、多くの方に読んで頂きたい自己顕示欲もあり、

投稿文の中では、改行を多くし読みやすいようにしている。

或いは11年近く前の頃から、何とか写真を添付することが出来たので、
乏しい筆力を補(おぎ)いながら、カット代わりに写真を掲載したりしている。

私はブログを投稿する際、ひとつのテーマを決めて、真摯に、ときには楽しく綴ることもあるが、
不勉強の為に筆力が乏しいながら、最後までお読み頂けるように試行錯誤をしたりしている。

しかしながら私の投稿文の内容は、あふれた思いを伝わるように熱意ばかりで、
一気呵成に書き上げてしまい、ときには長き投稿文になったり、
投稿文を送信した後、読み返したする時、つたない綴りが多いので反省する時もある。



こうした中で、ブログの投稿文を10年を過ぎた中に於いて、
ブログ上で出逢い、やがてコメント上で心の交流を盛んに重ねても、
ふとしたことで疎遠になり、別れとなる場合もある・・。

私がブログを初めてまもない2004年(平成16年)の12月の時、
ブログ形式に準じた【簡単gooホームページ】に加入している中、
確か一カ月後に、九州の北部にお住まいの60歳前後と思われる奥様と
投稿文に於いてコメントをお互いにしたりした。

その後、2年ぐらい高校生の交換日記のように、殆ど毎日コメント欄で心の交流を重ねた。

こうした中で、この奥方が一枚の写真を添付し、
散策する時に何かと魅せられている小花のひとつです、

と投稿文に掲載されていた。

私は恥ずかしながら無知であったので、ネットで検索したら、
『オオイヌノフグリ(大犬の陰嚢)』と明記されていたので、
命名された植物学者は、余りにも文学性の感性が欠落している、と思い苦笑した。

そして『瑠璃唐草』、『天人唐草』、『星の瞳』とも名づけられていたので、
この奥様に、『星の瞳』に瞬時に魅せられました、と私はコメントしたりした。


☆過ぎし2008年3月、私が近くに流れている野川の川べりで、
    偶然に『星の瞳』にめぐり逢い撮った一葉☆



こうした淡き心の交流を2年半していたが、ご主人様がご病気となり、入退院をされる中、

奥様の投稿文も途絶え、やがて私たちの交流も途絶えがちとなり、
まもなく加入している【簡単gooホームページ】自体が閉鎖となり、そして交流も終えてしまった。

このような私にとっては、貴重な思いを秘めているので、
『星の瞳』を通して、この奥様は、私の年金生活を始めて不安な心情の中、心おだやかに過ごせたので、
女神のような人と私は思っている・・。

そして、その後に私は春先に散策したりする時、『星の瞳』を見かけたりすると、
あの奥様はどのように過ごされているのかしら、と思ったりし早や15年が過ぎている。



或いは私より年配の男性の3名の御方のブログに魅せられて、愛読してきたが、
ある日、突然にブログの投稿が途絶えたりした・・。

この中のひとりの御方は、体調を崩されて、入院後、この世を去った、
と御子息がブログ上で公開して下さったりした。

或る御方は、介護施設に入居するので、ブログの投稿は途絶えると思われる・・、
と記載された後、最後の投稿となったりした・・。

このようなことを私は読ませて頂き、
私たち夫婦は子供に恵まれず、たった二人だけの家庭で、

こうした中で、家内は私のブログに関して、まったく関心がなく、
私もいつの日にか、この世とお別れになる前、突然に最後の投稿文になるかしら、
と思い馳せたりしている・・。

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春和景明の中、健康寿命、やがて逝去も余りにも格差がある、改めて思い馳せて・・。

2023-03-22 07:27:43 | 喜寿の頃からの思い
私は東京の調布市に住む年金生活の78歳の身であるが、
私より5歳若い家内と共に、雑木の多い小庭の中で、古ぼけた戸建てに住んでいる。
 
こうした中、私たち夫婦は、お互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。

私は年金生活の当初から、平素の買物を自主的に専任者となり、
独りで殆ど毎日のように家内から依頼された品を求めて、
最寄のスーパーに買物に行ったりしている。

この後、独りで自宅から数キロ以内の遊歩道、小公園などを歩き廻ったりして、
季節の移ろいを享受している。


            

こうした中で、私は幼年期に農家の児として育った為か、
数多くの落葉樹の欅(ケヤキ)、クヌギ、コナラ、モミジなど雑木は、
木の芽時(このめどき)の時節を迎え、膨らんだ莟(つぼみ)、
幼いあまたの葉を広げて、萌黄(もえぎ)色に染められる初春、

こうした季節のうつろいを眺めるのが、この世で最も好きな情景のひとつとなっている。
            

       
或いは純白の白梅、華やかな紅梅に長らく見惚れたりし、
やがて全国の女の子を祝賀するような桃の花を見たり、
そして河津桜、大島桜などの早咲きの桜花にめぐり逢え、

春到来かしら、と私は微笑んだりしてきた・・。
            

過ぎし14日、私の住む地域でも染井吉野(ソメイヨシノ)の桜が咲き始め、
やがて山桜(ヤマザクラ)、最後に八重桜(ヤエザクラ)が咲く時節となる。

このような春和景明の中、私は一昨日も散策して、のどかなひとときを享受したりした。

木のベンチに腰を下ろして長らく桜花を眺めたりしていると、
私はある民間会社に奮戦している50代の時、同僚が病死されたり、
そして知人は定年前の59歳で病死し、残されたご家族の心痛な思いが、
痛いほど理解させられたりしてきた・・。

            


やがて私は2004年(平成16年)の秋に定年退職し、

多々の理由で年金生活を始め、そして62歳の時、現役時代の一時時期に交遊した友も、
無念ながら病死したりした。

       
まもなく、知人のひとりの奥様が病死されて、
この知人は『おひとりさま』となり、私たちの多くは哀悼をしながらも、
動顛してしまった・・。


こうした根底には、私たち世代の周囲の男性の多くは、60代で妻が夫より先に亡くなることは、
考えたこともなく、こうしたことがあるんだぁ、とこの人生の怜悧な遭遇に深く学んだりした。
            
                                 

やがて私は高齢者入門の65歳を過ぎてから、

心身ともに自立し健康的に生活できる期間の健康寿命は、
男性の平均としては71歳であり、平均寿命は男性の場合は80歳と知った時、
恥ずかしながらうろたえたりした・・。

そして70代となれば、多くの人は体力の衰えを実感して、
75歳まではこれまでどおりの自立した生活ができるが、

80歳が見えてくる頃には、介護を必要とするようになり、
やがて80代後半では何らかの介護付き施設に入居する可能性が高くなる、
と専門家の人から数多く発言されている。

            
ここ数年は会社時代の少し先輩、或いは後輩の68歳が、
いずれも大病で入退院を繰り返した後、この世を去ったり、

ご近所の私と同世代の知人が、突然に脳梗塞で死去されて、
数か月の先は誰しも解らない、冷厳なこの世の実態に、
私は震撼させられたりしてきた・・。
            



過ぎし2019年の4月、家内は初期の膵臓がんに遭遇して、
 家内は2泊3日で検査入院した後、
5月12日より摘出する手術で入院をして、この後の経過状況、
やがて回復状況も医師より順調と診断され、19泊20日間を得て退院となり、
我が家に生還してきた。


もとより、この間の私たち夫婦は、最悪の場合を想定することもあったりして、
震撼しながら揺れ動いたりした・・。

そして転移などで死去する確率も高く、家内は身の回りを整理し、
やがて私たち夫婦は、再入院、葬儀、お墓、ひとり住まいなどを、
人生の晩年期の終活を話し合ったりした。

やがて4年近く
定例の精密検査を幾たびもしてきたが、
不安の中てでも、幸運にも転移がなく、今日を迎えている・・。

私たち夫婦はこうした体験をしてきた為か、
健康寿命、やがて逝去も余りにも格差がある、と思い馳せたりした。


私の父は、私が小学2年の時に、肝臓が悪化して、やがて42歳の若さで肝臓ガンで死去した。

そして母は、私が54歳の時に病死したが、数年前から入退院を繰り返して、

婦人系のガンで喜寿(きじゅ)と称される77歳を迎えて、まもなく亡くなった。

家内の父は、私が定年退職する直前に病死されたが、やはり4年前から入退院を繰り返して、
腎臓ガンで77歳で死去した。

家内の母は独り住まいとなり、11年前の80歳前後に膝(ひざ)と腰を悪化して、
やがて要介護3となり、やむなく介護施設にお世話になっている。

私の父の兄弟は、父、妹4人、弟であったが、
弟は二十歳を過ぎてまもなく病死し、父も42歳で病死したが、
妹ふたりは90代で亡くなり、下の姉妹は91歳、87歳で健在である。

このように父の兄弟は、男性は若くして死去し、女性は長寿となっているので、
過ぎし日に私は長兄に向かって、
『兄貴さぁ・・お父さんの代は男は短命だったが、
せめて兄貴と俺は、しばらく元気で過ごせれば・・』
と私は微苦笑しながら長兄に言ったりした。

しかしながら、この世はまさか出来事に遭遇することもある。
            


つたない人生航路を歩んできた私は、ささやかな死生観を秘めている。

過ぎし2010年8月下旬の頃に、私は医学博士で病院長の帯津良一さんに、紙上でめぐり逢えた。
新聞の出版広告で偶然に読み、この雑誌が女性月刊誌の『婦人公論』と知り、
私は恥ずかしながら買い求めて、精読したりした。

《・・(略)・・私の理想は、「達者でポックリ」逝くことです。
死ぬ直前まで自分の足で歩き、自分の口で食べ、自分の頭で考えることができる。
「寝たきり」とは180度対照的な死に方が、「達者でポックリ」だと言えるでしょう。
・・
人生は生老病死ーーつまり死も含めて、丸ごと自分の人生なのだから、
「死に時」も「死に方」も自分らしくありたいという考えが基本です。
                       


「いたずらに死を恐れるあまり不要に長生きしても意味がない」と考えるようになったのは、
このホリスティック医学の考え方に共鳴し、
その理念に基づいて自らの病院を設立した40半ば以降です。
・・
私もブラッと飲みに行けなくなったら、そろそろ「死に時」ですかねぇ(笑)。
理想は、下町の小料理店に出向き、さぁ、今日は何をツマミに飲もうかなとワクワクして暖簾をくぐっているときに、
心筋梗塞でバタッと倒れるなんていうのがいいですね。

年齢に関していえば、80歳くらいまで生きれば十分ではないですか。
もちろん、肉体面でも精神面でも人それぞれ個人差がありますから一概には言えません。

しかし、自力で自由に動けるのは、せいぜい80代まででしょう。
90代になると、何かしら衰え、欠けてくる。
いくら頭がしっかりとしている人でも、足腰が立たなくなったり、その逆のケースも起こります。

ましてや100歳なんて、どんな人でもポンコツになっているはずですよ(笑)。
おめでたいと言うけれど、100歳以上は、やはり「生き過ぎ」だと私は思います。

これとこれができなくなったら、自分はそろそろ「死に時」かもしれない。
その線引きは人それぞれですし、それがわかれば、
「生きているうちにこれだけはやり遂げておこう」という人生のテーマも見えてくる。

つまり、自分にとってベストな「死に時」を考えことは、
今、生きているこの時間を最大限に充実させて生きていくことにもつながるのである。(略)・・》
                      


このような深く学び、今後の確かな晩年期の導きの御人にめぐり逢えた、と深く感じて、
これ以降、帯津良一さんの言動に注視して、信愛を重ねている。


私は70代入門した当時は、心身共に自立し健康的に生活できる健康寿命を意識して、
確かな『生きがい』と『健康』、そして『気力』を持続できるように、
ときおり願いながら歩いたりしてきた。

       
こうした中で、私は母の遺伝を素直に受けたらしく男の癖に、おしゃべりが好きで、
何かと家内と談笑したり、ご近所の奥様、ご主人など明るく微笑みながら談笑したりしている。

或いは、好奇心をなくしたらこの世は終わりだ、と信条している私は、
体力の衰えを感じている私でも、その時に応じて溌剌とふるまったりしている。

もとより健康でなければ、自身の日頃のささやかな願いも叶わないので、
独りで自宅から数キロ以内の遊歩道、小公園などを歩き廻ったりして、
季節の移ろいを享受している。
                   


こうした中、天上の神々か仏(ほとけ)様の采配か解らないが、
生かしてもらっている、と思いが強く、

亡くなわれた御方のしぐさ、表情が走馬灯の思い浮かび、
過ぎし日々に愛惜を重ねたりしている。

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神様の神棚、仏様の仏壇もある私の生家、私も違和感なく育ち、やがて昨今は・・。

2023-03-21 07:26:33 | 喜寿の頃からの思い

昨夜、我が家の居間にある本棚のひとつの中で、
宗教学者・作家として名高い島田裕巳(しまだ・ひろみ)氏の著作された本のひとつ、
『神も仏も大好きな日本人』(ちくま新書)を見かけ、独り微苦笑したりした・・。

私は10数年前の頃、氏の『平成宗教20年史』(幻冬舎新書)、
或いは『葬式は、要らない』(幻冬舎新書)を購読し、
多々教示され、好感している著作人のひとりとなっている。

『神も仏も大好きな日本人』は、《 日本古来の神道と外国から伝わった仏教。
両者はお互いに影響しあい、日本独自の混合宗教となって・・》
と解説に明記されていたので、私の生家を思い浮かべ、微苦笑させられたりした。




私が小学校に入学した1951年(昭和26年)年の春の当時は、
生家は祖父と父が中心となって、
程々に広い田畑を小作人だった人たちの手を借りて、耕していた。


そして母屋の周囲には、竹林、雑木林、そしてお稲荷さんを所有し、

宅地の外れには蔵、納戸などがある農家であった。

母屋の中のひとつの10畳の和室には、梁の近くに神棚が備えられ、
ある10畳の和室には、片隅みの一角には仏壇があり、
朝には新たにお茶、お線香を捧げていた。、


この部屋の梁の近くには、昭和天皇のご一族の皇族の写真が掲げられていた。

そして土間の竈(かまど)のある梁の近くに、小さな神棚が備えられいた。



そして生家から程遠くない所に神社とお寺があった。
陵山と言われる少しばかり小高い丘陵があり、仲良く二分化され、
低い処にはお寺となり、高いの所には神社であった。

神社は『糟嶺神社』と命名されて、後年に私は、農業の神様の糟嶺大神を祀っている、
と知ったりした。

そしてお寺は『明照院』と称されて、やはり後年に、
16世紀の中頃に開かれた天台宗のお寺で、観音堂に祀ってある弁財天は、美人の神様、
と私は学んだりした。

この当時の幼年期の私は、神社で初詣、節分の時は豆まき、秋のお祭りの会場となったり、
お寺では、幼稚園がなかった当時で託児所、そして夏には境内でラジオ体操、
ある時は野外の映画が上映されたりしていた。

生家の墓地は、この当時は生家の近くにあり、この地域の住む方たちの墓地であり、
ある地主のご厚意で借地された場所であった。

この当時は土葬となっていて、私が小学2年の時に父が病死されて、
生家でお通夜、告別式の葬儀、そして墓地で埋葬したのを私は少し心の片隅に残っている。

その後、この墓地は1960年(昭和35年)の頃に解消され、
生家は曹洞宗であるので、本来の程遠い『泉龍寺』に母は移して、今日に至っている。


このように生家も日本の各地に数多くある神様と仏様の仲良くしている混合宗教であり、
違和感なく私は育ってきた。



その後、高校生の頃に歴史に興味を始めた頃は、
明治新政府の方針で強制的に分離され、神様が主役となり、
お寺の仏像などが粗末に扱われる風潮を学んだりして、少し悩んだりした時もあったりした。

そして現在、三男坊の私は生家の近くに住み、
長兄は生家を跡継ぎを順調にし、この実家も新築されて60年近くになっているが、
この家族の居間のようになっている和室には、仏壇と神棚が、仲良く同居している。




分家のようになった我が家は、神棚を設けず、お札を頂いた時は失礼にならないように、
居間の飾りケース棚に入れている。
そして仏壇は、私たち夫婦は子供に恵まれなかったため、無縁となっている。

私たち夫婦は、神も仏も特に関心はないが、お彼岸、お盆の時は先祖や両親に感謝して、
お墓詣りをしている。
そして神社やお寺に出逢ったりした時は、手を合わせたりしている。

ここ30年近く、居間のビデオ・ケースの上に立てかけている
曹洞宗を学ばれた書家・詩人の相田みつをの『日めくり ひとりしずか』に毎朝向っている。
そして彼の綴られた本日の格言を、心の中で、呟(つぶや)いている。

私はこの相田みつを氏の遺(のこ)された名言を、人生の生きた哲学のように学び、
私の独断と偏見の多い日頃の言動の多い中、
人生の戒(いまし)めとして、日々教示されている。



しかしながら、家内が4年前に大病に遭遇して、
私たち夫婦は、震撼しながら揺れ動いたりした・・。

そして転移などで死去する確率も高く、家内は身の回りを整理し、
やがて私たち夫婦は、再入院、葬儀、お墓、ひとり住まいなどを、
人生の晩年期の終活を話し合ったりした。

こうした中、終活の延長戦として、私たち夫婦は、
子供いないため一世一代となるため、仏壇のことも検討してきた・・。

そして昨年の秋、仏壇として名高い『はせがわ』の都心にある店に行き、
仏壇と多岐な備品を確認した後、買い求めたりした。

もとより私たちのどちらかが亡くなった時、
残された方が心の負担を軽減したい為、
或いは生前に仏壇をお互いに確認しておきたい、思いであったりした。

墓地に関しては、すでに5年前に買い求めてきたが、
このように我が家の居間には、仏壇があり、ときおり私は眺めたりしている。

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俳優の反町隆史さんの過ぎし年の発言、ブログの世界と同じ、と私は微笑んで・・。

2023-03-20 08:23:17 | 喜寿の頃からの思い

私は東京の調布市に住む年金生活の78歳の身であるが、
机の脇机にある茶箱を整理していたら、
古い新聞の切り抜きの記事があったりした・・。

そして私はぼんやりと見つめると、
読売新聞の2012年3月26日の夕刊の一部で、
13面の【テレビ&ラジオ】に於いて、フジテレビ系『市長死す』に主演されている
俳優の反町隆史(そりまち・たかし)さんのインタビュー記事であった。



私は反町隆史さんに関しては、
15年前の頃、家内が午後のひとときテレビの再放送の連続ドラマ『ビーチボーイズ』を居間で視聴していた時、
付近のソファーに居た私は、ほんの少し見たりした。

この後、映画の『男たちの大和/YAMATO』(2005年)がテレビで放送された時、
鑑賞して、ここのお方に好感したりした。

ここ数年は、テレビ・ドラマ『相棒』を見たりしてきた。

この程度の作品しか視聴していないが、
2012年3月、当時のインタビュー記事の発言の一部に於いて、
今でも、心の片隅に残っている。



《・・「写真やビデオは、その瞬間を絵としては残せるけど、

心情までは残せない。
日記は字を通して書いた人の気持ちまで分かる。
僕は書く習慣がないが、日記の良さに気付かされた」・・》
このような発言をされていた。

そして私は瞬時に、それぞれの数多く方が、
その人なりの思いを心情まで発露したブログの世界の投稿文と同じ、
と思ったりした・・。



私はある民間会社を35年近く勤め、定年退職したのは2004年(平成16年)の秋で、
多々の理由で年金生活を始めた。

まもなくブログの世界を知り、この後の私は、
パソコンの故障、国内旅行、入院以外、
原則として毎日一通は投稿してきた・・。

私は定年後に年金生活を始め、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、無念ながら写真、イラスト、絵などに素養もないが、
何より言葉の力を信じて、散文のような形式で投稿してきた。

古来、日本は人々の会話の伝達の時代が過ぎた後、
少なくとも飛鳥の時代の頃から言葉を綴り, 日記、随筆、小説、詩、短歌、俳句、
川柳などは文字で表現してきた。

そして、その時代なりに数多くの人々により、
心を思いを満天の星空のように、数多くの文を遺(のこ)されて、現世に至っている。


私は確固たる根拠もないが、私なりの拙(つたな)い感性と感覚を頼りに、
できうる限り随筆形式で綴ってみようと、投稿を始めたりした・・。

そして若き頃に小説の習作を少し体験し、幾たびか校正したりしてきたが、
ブログの投稿文と甘え、一気呵成(かせい)に書き上げてしまうことも多い。



しかしながら、その日に応じて、簡単に言葉を紡(つむ)ぐ時もあれば、
言葉がなかなか舞い降りてこなくて、苦心惨憺とすることも多いのが実情であったりした・・。

このような時、言霊(ことだま)に対して自己格闘が甘いのかしら、
或いは幼年期からの何かと甘さの多い人生を過ごしてきたから、
このような拙(つたな)い文章を綴るしか表現が出来ない、
と深刻に考えたりすることがあったりした。

しかし拙(つたな)い投稿文でも、その時の心情を素直に綴れば、幾年か過ぎた後、
のちの想いになることは確かだ、と思い原則として日々投稿文を認(したた)めている。

この後、確か11年前の頃、写真を掲載することが出来、
つたない綴りを補(おぎな)う為、イラストの代わりに写真を添付して、
少し気楽に投稿する時もある。



尚、『人気ブログランキング』のカテゴリーに於いて、
ここ数年、『コラム』に所属していたが、
19日より、ふたたび『エッセイ』に復帰させて頂いている。

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雑談は一番良く脳を使うと学び、男の癖におしゃべりな私は、微笑み返し・・。

2023-03-19 07:56:00 | 喜寿の頃からの思い
私は東京の調布市に住む年金生活の78歳の身であるが、
私より5歳若い家内と共に、古ぼけた戸建てに住み、ささやかに過ごしている。
 
こうした中、確か7年前の頃、居間で家内と共にテレビを視聴していた時、
脳学者として名高い茂木健一郎(もぎ・けんいちろう)さんが、
雑談は、一番良く脳を使う・・と発言され、私は驚いたりした・・。

『XXちゃんさぁ・・聴いていた?
脳学者の第一人者の御方が・・雑談は一番良く脳を使うだって・・
そうだったら、おしゃべりな僕は、ボケなくて長生きするかなぁ・・』
と私は家内に言ったりした。

『あなたは・・男の癖におしゃべりで・・ときには煩(うるさ)いくらいょ・・』
と家内に微苦笑しながら私に言った。

『だけど・・前にも幾度も言った通り・・昔は無口だったんだょ・・』
と私は苦笑しながらに家内に言ったりした。

            

私は今住んでいる近くに生家があり、
1944年〈昭和19年〉の秋に、農家の三男坊として生を受けた。


そして私は長兄、次兄に続いて生まれた三男坊であり、
農家の跡取りは長兄であるが、この当時も幼児に病死することもあるが、
万一の場合は次兄がいたので万全となり、今度は女の子と祖父、父などは期待していたらしい。

私の後に生まれた妹の2人を溺愛していた状況を私なりに感じ取り、
私は何かしら期待されていないように幼年心で感じながら、
いじけた可愛げのない屈折した幼年期を過ごした。

やがて1953年(昭和28年)の3月になると、
前の年から肝臓を悪化させ、寝たり起きたりした父は、

42歳の若さで亡くなった。

そして祖父も跡継ぎの父が亡くなり、落胆の度合いも進み、
翌年の1954年(昭和29年)の5月に亡くなった。


どの農家も同じと思われるが、一家の大黒柱が農作物のノウハウを把握しているので、
母と父の妹の二十歳前後の未婚のふたりの叔母、
そして長兄は中学1年で一番下の妹6歳の5人兄妹が残されたので、
家は急速に没落なり、生活は困窮となった。

こうした中、私たち子供は母と叔母に支(ささ)えられ、
そして親類に見守り中で、貧乏な生活が始まった。

                      

この当時も義務教育は中学校までであったが、PTA(授業料)の会費は有償であり、
確か教科書も有償の時代であった。

祖父が亡くなって後、私は担任の先生から母あてに一通の手紙を渡された・・。

帰宅後の私は母に手渡した後、
『PTA会費・・当分・・免除するって・・』
と母は呟(つぶや)くように小声で言っていた。

そばにいた小学5年の次兄は、母の小声の内容を知り、
『いくら貧乏していても・・PTAの会費ぐらいは・・払おうよ・・』
と次兄は怒ったような声で母に言ったりした。

次兄は翌日から下校した後、手入れが余り行き届かない生家の畑で農作物を採り、
程近くに広い敷地にある国際電電公社(現・KDDI)の数多くの社宅に売りに行ったりした。

このお陰で、何とか私は人並みにPTAの会費を支払うことができた。

長兄は旧家の跡取りであったので、
亡き父の願い、祖父の遺言もあり、国立大学付属の中学校を通学する中、

たとえ没落しても、冠婚葬祭などは中学生の身であっても、
主(あるじ)の役割として、参列したりしていた。
               
このした中で、兄の2人は学校の成績が良く、私は通信簿は『2』と『3』ばかりの劣等生で、
通信簿を学期末に頂くたびに、
お兄さんの2人は優秀だったのに、と担任の女の先生が溜息まじりに言われたりしていた。

そして私は、学校に行くのが苦手な児となった・・。
        
この当時の私は、クラスの仲間からは、私を『三原山』とあだ名を付けていた。

何かと平素は無口の癖、ときたま怒り出し、周囲の多くの同級生が困惑し、
伊豆七島のひとつの大島は、幾10数年ごとに爆発する活火山の由来だった。

                      
        
やがて小学6年生の頃になると、突然に人前でおしゃべりをすることが大好きと変貌して、
見知らぬ小父さん、小母さんと私の方から話すようになり、
母、兄妹、そして父の妹でこの当時未婚だった叔母も驚いていた・・。

これ以来、私はお調子者のひとりとなって、学生時代、社会人のサラリーマンの中、
ときにはトンボのように自由にふるまったり、おだてられると高揚しながら奮闘したりしてきた。

定年後、多々の理由で年金生活を始めると、
家内はもとより、ご近所の奥様、ご主人など談笑をしたりしている。

そして旅先で、食事処、ロビーなどて隣席した見知らぬ方でも、
私は話しかけて談笑したりしている。
            


私が恥ずかしながら男の癖におしゃべりなのは、
亡き母から色濃く素直に受け継いだ、と確信を深めたりしている。


長兄と妹ふたりと談笑する時、何故かしら私が七割ぐらい話すことが多く、

後で微苦笑したりしている。

世の中には、沈黙は金、という名言があるが、
私に取っては死語だょ、と思ったりしている・・。

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森山直太郎さんの『さくら(独唱)』、78歳の私、長らく心の片隅に・・。

2023-03-18 15:07:19 | 喜寿の頃からの思い
私は東京の調布市に住む年金生活の78歳の身であるが、
私より5歳若い家内と共に、古ぼけた戸建てに住み、ささやかに過ごしている。

昨夜のひととき、テレビ朝日の『 ザワつく!金曜日 』を見ている中で、
好きな卒業ソングスをテーマにされていた。

こうした中で、森山直太郎さんの『さくら(独唱)』も取り上げられ、
私は懐かし気に視聴したりしていた・・。




私の現役サラリーマン時代は、音楽業界のあるレコード会社に勤めていたが、
1998年(平成10年)に業界のCDを中核とした売上げがピークとなり、
その後は業界全体が縮小した・・。

この前後に、それぞれの会社が再構築がよぎなくされ、リストラなども行われた。

私たちの同世代は、この当時は定年退職時が60歳であり、
暗黙として、お互いに定年退職まで、頑張ろうとする意志は大半であり、
もとより若き入社時代から、人生設計の主軸として過ごしてきた・・。

こうした中で、私の知人の多くは50代となり、
私が勤めていた会社でも、組織の見直しによる人事配置転換の人事異動、出向、
そして社員を自主退職させる希望退職優遇制度などの烈風となった・・。

このような形で、同じ時代の空気を共にした上司、同僚、後輩などと別離があり、
業界から去った人も数多くあった。

          

私も55歳を迎える年に、1999年(平成11)年の初春、リストラ烈風の中、
各レコード会社の音楽商品のCD、DVDなどの物流を委託している物流会社に、
あえなく出向となったりした。

もとより出向身分は、会社に直接に貢献できる訳もなく、まぎれなく戦力外なので、
私は本社に30年近く勤め放り出され、屈辱と無念さが入り混じ、
私でも失墜感もあり都落ちの無念さを感じたが、
半年後から何とか馴染み、自分の敵は自分だ、と思いながら精務した。

出向先は、少し遠方地にある各レコード会社が音楽商品のCD、DVDなどを委託している物流会社で、
この中のひとつの物流センターに異動させられたりした。

そして約2万5千種類の音楽のCD、DVDなどの商品が並ぶ棚の大きな倉庫の中で、
センター長をはじめとする私を含めて正社員の5名の指示に基づいて、
若手の男性の契約社員、アルバイトの10名、
30代と40代の多い女性のパートの120名前後の職場であった。

こうした中、ソフトの販売店に出荷、返品など取り扱う商品センターで、
全国のCD販売店、卸店などからの注文に応じて、即日出荷するのが、業務が大半で、

或いは返品を含めた商品の出入り、保管などの業務管理を行っていた。

そして
私は、主要曲の出荷量を予測したりし、
効率よく迅速に出荷できるような業務も責務のひとつであった。

          

こうした中で、2003年(平成15年)3月の初め発売された森山直太郎さんの『さくら(独唱)』のCDシングルは、
発売日の初回枚数が、わずか1500枚前後であったと記憶している。

この当時、かって勤めていた出向元のあるレコード会社からは、
毎月発売されている新譜と称されるCD、DVD等の音楽商品に関して、
邦楽、洋楽、クラシックなどは、少なくとも100種類はあった。

その上に既に前月までに発売されてた旧譜と称されるの商品は、
2万5000種類は超えて、この中の一部にヒット曲もあり、主要曲として出荷量の大半を占めていた。

こうした状況であったので、3月5日に発売された森山直太郎さんの『さくら(独唱)』は、
初回枚数が余りにも少なく、私は注視することがなかった。

やがて桜の花が本州を北上するように、
この曲のCDが次第に上昇し、私は明日は3千枚ぐらいかしら、と予測して、
若手の男性契約社員に、商品を揃えるように依頼したりした。
               
しかし大半が私の当日出荷枚数を超えて、
私はCD5000枚単位のパレットを保管倉庫から出荷しやすい場所に移動させたり、
そして私が予測した以上の曲の数々の商品に於いても、現場を駆けずり廻っていた。

                    

この頃の私は、通勤時にビジネスバックの中に、CDウォークマンを入れて、数々の曲を聴き、
音楽専門雑誌を読みながら、それぞれの曲の出荷を予測の基礎としていたが、
30年近くレコード会社で情報・管理畑、営業畑で体験した身でも、需要予測は難しいのである。

特に数多い音楽商品の場合は、人々の好みを予測し、
この中の一部の方が一枚を購入して下さるので、
まぎれなく生きた心の商品でもある。

結果として、森山直太郎さんの『さくら(独唱)』は、東北の北部に桜の咲く時期まで、活発に動き、
5月の初めの大型連休の頃、ミリオン・セラーと称せられる百万枚となり、その後も出荷を重ねた。

私にとっては、たまたま定年退職の前の年に、この曲が私の予測を遥かに超え、
思いで深い曲のひとつとなった・・。

                    

この当時の頃のCDシングルは、何曲も収録されているのが、流行だった。
このCDシングルも『さくら(独唱)』、『さくら(合唱)』、『さくら(伴奏)』、
そして別の曲の『手紙』が入っていた。

私は『さくら』を3回ばかり聴いた後、『さくら(合唱)』が最も好きな曲となった・・。
何よりも女子高等学校の音楽部の方達が合唱に加わり、
より一層、哀切、惜別の情緒が醸(かも)し出されいる、と公言したりした・・。

このように私なりに体験をしたので、本社に勤務を含めた35年間でも、
数多くのヒット曲にめぐり逢えたが、とりわけ森山直太郎さんの『さくら(独唱)』の歌は、
思いで深い曲のひとつとなっている・・。

          
       

やがて出向先の大手企業の傘下の物流会社も大幅なリストラが実施されたり、
私が30年近く勤めてきた出向元のレコード会社でも、幾たびかリストラ烈風となる中、
私の同僚、後輩の一部が定年前の退社の連絡、或いは葉書で挨拶状を頂いたりし、
私は出向先で2004年(平成16年)の秋に、何とか定年退職を迎えることができた。

そして、この当時は大企業も盛んにリストラが実施されている中、
たとえ私が定年後に新たな職場を探しても、これといった突出した技術もない私は、
自身の力量のなさを悟(さと)ったりした・・。

そして何よりも遠い勤務先の出向先で、
私なりに奮闘して体力も気力も使い果たしてしまったので、
やむなくサラリーマン生活を卒業し、敗残者のような深情で年金生活を始めた・・。     

そして年金生活は、サラリーマン航路は、何かと悪戦苦闘が多かった為か、
つたない半生を歩んだ私でも、予測した以上に安楽な生活を享受して、早や丸18年半が過ぎている。

                

ここ10幾年、中学生、高校生の間で、卒業式の愛唱歌として、
森山直太朗さんの『さくら(独唱)』の歌が、唄われる、と私は風の噂で聞いたりすると、
作詞も良し、メロディーも、そして唄声も心に残る、と私は確信を深めて、
そうですよねぇ、と心の中で呟(つぶや)きながら、微笑(ほほえ)む時もある。

このようなことを私は思い馳せたり、
この森山直太郎さんの『さくら(独唱)』の出荷作業に奮闘していた時から、
早くも20年の歳月が過ぎてしまった、と微苦笑したりして、
そして年金生活をしていると実に早く過ぎ去ってしまう、と思いを重ねたりしている。

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過ぎし年、リストラ烈風の中、私は出向まもない時、『おじさ~ん・・イェ~イ!!』と激励され・・。

2023-03-17 12:02:58 | 喜寿の頃からの思い

私は東京の調布市に住む年金生活の78歳の身であり、
ときおり現役のサラリーマン時代を振り返る時、どなたも体験されたと思うが、
思いも寄らない人たちから、激励の言葉を受けたりしたことがある、と思ったりしている。




過ぎし東京オリンピックが開催された1964年(昭和39年)の秋、私は大学2年を中退し、
映画・文学青年の真似事をし、先行きの見えないような彷徨(ほうこう)した4年を過ごし、
あえなく敗退した。


そして止(や)むえず、何とかして民間会社に中途入社したい為に、
あえて苦手な理工系のコンピュータの専門学校のソフト科に、
1年間ばかり学んだりした。


やがて1970年(昭和45年)4月、
この当時は音響・映像メーカーの大手のある民間会社に、

知人のご尽力もあり、何とか中途入社が出来たのは、25歳の時だった。

まもなく外資の要請で、レコード会社が新設され、
私は新たなレコード会社に転籍させられた。


そして音楽業界のレコード会社の中で、私は音楽に直接に携わる制作畑でなく、

裏方の商品、情報、経理、営業などに35年近く勤め、
2004年〈平成16年〉の秋に定年退職した身である。

こうした中で、最後の5年間の職場が決まった時、
私なりの人生のターニング・ポイントのひとつと成った。

       

音楽業界の各レコード会社全般として、
1998年(平成10年)にCDを中核とする売上げのピークとなり、

この前後から違法な音楽配信、或いは社会の趣味の多様化の中、CDの売上も急速に下降した。

そしてこの前後は、各社が社内業務の見直し、組織の大幅な改定、グループ会社内の統廃合、
或いは資本による合併などが行われたりした。

これに伴ない、正社員のリストラが行われ、
人事配置転換による他部門の異動、出向、早期退職優遇制度により退職が行われた・・。


私は1970年(昭和45年)の4月の中途入社であったが、
この当時のサラリーマンの風潮としては、定年の60歳まで勤め上げる、と数多くの方が念願していたし、
遅ればせながら社会人となった私でも、それなりに人生設計を持っていた。

そして音楽業界としては激動の1998年(平成10年)の前後、
私の勤めていた会社も先輩、同僚、後輩の一部の人が、第二の人生を選択し、
早期退職優遇制度に申請を出されていたが、
私は定年まで勤め上げる思いが強くあったので、彼等の決断を見送っていた。

その後、1999年(平成11年)の新春まもない時、
私は人事担当の取締役から、出向の話を打診された時、
《何で・・俺が・・》 と思いがあった。

この当時、周囲の人事異動が激しく行われていた時期であったので、
私はある程度の人事の異動が覚悟していたが、
出向とは予期していなかったのが、本音であった・・。

       

やがて私は出向を受け入れ、取引会社のひとつに勤めはじめた。
もとより出向身分は、会社に直接に貢献できる訳もなく、まぎれなく戦力外なので、
つたない私でも、屈辱と無念さが入り混じ、失墜感があった。

出向先は神奈川県の東名高速道路に隣接した所にある物流会社の本社であった。

この物流会社は全国の主要都市の基点に物流センターを配置し、

各メーカーより委託された音楽商品のレコード、カセット、CD等、
そして映像商品としてビデオテープ、DVD等を運営管理している。

そしてそれぞれの物流センターは、
販売店からの日毎の受注に応じた出荷や返品を含めた商品の出入り、
保管などの業務管理を行っている。


私はこの中のひとつの物流センターに勤めたが、
センター長をはじめ私も含めた正社員の5名の指示に基づいて、
若手の男性の契約社員、アルバイトの10名、
30代と40代の多い女性のパートの120名前後の職場であった。

       

それまでの私は、殆ど30年近く都心の本社勤めで、
色々な部門を異動してきたが、もとより男性社員はじめ、多くの女性正社員、契約社員と職場を共にしたが、
こうした物流センターの職場環境には、戸惑ったりした。

そして通勤時間帯も大幅に変貌したのである。
それまでの都心の本社は、9時半が始業時であり、私は8時過ぎに自宅を出て、
45分前後の通勤時間で出社していた。

物流センターは原則として9時の始業時であったが、
曜日によっては変動するが実質8時からであり、
その前の事前準備などを配慮すると7時半過ぎとなっていた。


そして退社できるのも曜日によって異なるが、大半は夜の7時前後であり、

私の通勤時間は少なくとも1時間半は要していた。

私の通勤の最寄り駅は、小田急線の『成城学園前』駅で、
自宅から始発のバスに乗り、この駅から下りの電車で『本厚木』駅まで利用した後、
路線バスに乗り継いで、各諸業種の物流倉庫が建ち並ぶ場所のある中、通ったりした。

このように都心の本社に通っていた時代からすれば、まさに都落ちの心情であった。

       

通勤を始めて3か月ぐらいは、センター長のご厚意で、私の出社は8時半となった。
最初の頃、現場を学ぶために、1万5千種類前後のある商品の倉庫の中を歩き、
商品配列を覚えたりした・・。


或いは、急ぎの商品を手配したり、移動させたりすると、

不慣れとそれまでの本社はデスク・ワークばかりしてきた私は、
退社後は疲労困憊となっていた・・。


こうした時、確か週末の金曜日、ときには土曜日になると、
明日は休みだ、と退社後に思いながら、やがて『本厚木』の駅近くのバス・ターミナルでバスを下車した後、
小田急線の『本厚木』の駅に向う途中に長いアーケード街を歩き、
この中のある居酒屋に寄ったりした。


確か物流センターに通い始めて、数週間過ぎた頃と記憶している・・。
一軒の小さな居酒屋に、私は独りで夜の9時過ぎに入っていたのであるが、
お客さんが2人の男性客が、差し向かいとなっているだけであった。

私は片隅の席に座り、注文に取りに若い女性に、
地酒の弐合とおつまみとして2品をお願いした。

やがて私は弐合徳利を傾け、ぐい呑みに注(そそ)ぎ、少し呑んだ後、
おつまみの焼き魚を食べたり、煙草を喫ったりした。

そして、心身共々の一週間の悪戦苦闘が終った、と疲労困憊となったりしていたが、
安堵したりした。

       

この後、私は通勤のアタシュ・ケースの中から、
持参しているCDアルバムの5枚から、1枚を選定した後、
CDウォークマンをセットし、聴きはじめた・・。

この後、私は弐合徳利のお代わりを注文し、
運ばれてきた若い女性から、
『何を聴いて・・いらしゃいますの?・・』
と私は訊(たず)ねられた。

私はイヤホーンを外して、
『ここ一年は「X-JAPAN」が多いけれど・・
「中島みゆき」さんの歌もよく聴くよ・・』


確かこのように私は言ったりし、
たまたまこの若い女性が、中島みゆきさんのファンであったので、
お客さんが少なかったせいか、私達は10分ぐらい談笑した・・。

この若い女性は、小田急沿線にある大学に通学され、
アルバイトとして、友人と共にこの居酒屋に週三回勤務している、と私は教えられた。

私の疲労困憊の疲れきった表情、そして落胆している表情も隠し切れず、
『都落ちで・・この本厚木も不慣れでねぇ・・』
とこのような意味合いのことを私は言ったりしたと思われる・・。


この後、終電の一時間前に私はこの居酒屋を辞して、
駅の改札口に向かい歩き出した・・。

この直後、後ろから、
『おじさ~ん・・イェ~イ!!』
と先程の女子大学生が友人と共に、右手を高く掲げて、私に大声で云った。

私は驚きながら、右手を少し振りかざして、応(こた)えた。

       

この後、この居酒屋は店じまいされて、新たな店となり、
ふたたびこの女子大学生とは、お逢いできることはなかった・・。

そして、このアーケードを通り過ぎると、ときおり私は励まされた大学生の女性の表情と
しぐさを思い出されることがあった。
そして確かな一期一会に、私は胸が熱くなったりした・・。

まもなく私は、自分の敵は自分だと、自身を叱咤激励したりする中、
この出向先の物流センターに順応しながら
、精進し、
やがて物流センターで定年退職時の2004年(平成16年)の秋を迎えたりした。

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