夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

東京の郊外の我が家は、簾〈すだれ〉に別れを告げて、ときには午後のひとときは・・

2011-09-30 10:49:37 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の高齢者3年生の身であり、
我が家では、5月の大型連休の頃から秋のお彼岸の頃まで、
簾〈すだれ〉を各部屋に掛けているのが、ここ10数年の習〈なら〉わしとなっている。

洋間であったら、雨戸、網戸、ガラス戸、そしてカーテンを外して簾〈すだれ〉とする。
和室も同様に、雨戸、網戸、障子、簾〈すだれ〉としている。

朝涼(あさすず)が残る9時が過ぎる頃まで、
網戸と簾〈すだれ〉にして、風を通したりしている。

私は居間で机の上に置いているパソコンに向かったり、
或いはソファーに座り、庭を眺めたりする時、ほのかな暗さを通して、
樹木、草花が涼しげに見えるのである。

このような陽射しが熱く感じらる季節に対応して過ごしてきたが、
過ぎし27日に、初秋の陽射しが恋しくなり、
家内の先導の下で、簾〈すだれ〉を取り外したりした。

何かしら初秋の陽射しが直接に受けると、部屋全体が明るくなり、
簾〈すだれ〉に今年も大変お世話になりました、来年の5月までお別れねぇ、
と心の中で呟〈つぶや〉きながら、私は別れを告げたりした・・。


こうした中で、ここ数日は午後の2時過ぎ頃からは、
居間の17畳ぐらいの広さの洋間の片隅に、移動式の簡易ソファ・ベットに横たわる多い。

私は本を1時間前後読み、そして昼寝を1時弱したりしている。

夏季の時節は、暑さに苦手な私はエアコンの冷気をこよなく愛していたが、
ここ数日はガラス戸を開けて、網戸越しに外気を取り入れ、
秋色の微風が通り過ぎ、心身心地良く身をまかせているのである。

昼食後、私は台所へお運びさんの役割を終え、
家内は皿洗いなどをし、庭の外れにある洗濯物を取り込む4時頃まで、
安息のひとときとなる。


家内は居間の外れに、夏掛けの古びた布団を敷いて、バスタオルを2枚掛けて床に横たわっている。
家内はソファの椅子席は苦手であるので、
当初、私は夏掛けの整然とした布団と枕を持ち運ぼうとしたが、
こうした方が気持ちが良いから、と家内は言ったりしている。

そして、本棚が6冊ばかり雑誌を取り出して枕代わりし、
ときには軽い寝息をしたりしている。


4時過ぎに、お互いに起き上がり、整理をするが、
家内の仮枕の雑誌を見ると、私はいつも微苦笑させられる。

月間総合雑誌として名高い『中央公論』、『文藝春秋』であり、
日本広しといえ、この雑誌を枕代わりにしているのは、
我が家の家内ぐらい、と思っているのである。


このような午後のひととき、5月の下旬頃から10月の中旬頃まで、
1週間で4日前後、午後のひととき過ごしたりしている。

これ以外の季節は、寝室で暖かな布団で、横たわり昼寝のひとときを享受し、
過ごすこともある。


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たかがブログ『ランキング』、されど『ランキング』、ときおり私は微苦笑させられ・・。

2011-09-29 10:00:19 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の高齢者3年生の身であり、
この【gooブログ】の私のサイト『年金たわむれ記 ~かりそめ草紙~』に於いて、
『ブログの開設から2443日』と明示されて、こんなに過ぎたのかしら、
と微苦笑したのである。

そして、昨日までのトータルアクセス数の閲覧数(PV)は1、914、858、
訪問者数(IP)は420、052と表時されて、多いか少ないか判らないが、
本音としては、もう少し増やしもよいかしら、と思ったりしている。
しかし回覧数は、ここ数年グーグルなどの大手のロボット検索があるので、
実質は不明であると苦笑したりしている。


私は2004(平成16)年の秋、ある民間会社に35年近く勤めて定年退職して、
まもなくブログの世界を知った・・。

最初に【アメーバブログ】に加入して、
『極楽とんぼ ~団塊世代のひとりとして~』と題し、発信名を『極楽とんぼ』と称した。
Webの世界に未熟な私は、戸惑いながら投稿をはじめ、
まもなく賞金ランキングのような形式が公示され、私は投稿をやめた。

そして【簡単gooホームページ】に加入し、
『風のように光のように』とタイトルを掲げて、発信名を『風と光』とし、
原則として毎日数通投稿したのは2004(平成16)年11月17日である。

まもなく【すくすくブログ】を知り、
『続・極楽とんぼ』と題し、発信名も『極楽とんぼ』と称し、
気楽に綴れる専用サイトとしたのは、翌年の2005(平成17)年1月11日であった。
一週間ぐらい投稿したが、【gooブログ】を知り、取り止めた。

この後、この【gooブログ】に加入して、
『新・極楽とんぼ日記』と題し、発信名も『極楽とんぼ』と称し、
少し気楽に団塊世代、社会、政治・経済の諸問題を綴ろうと思い、
投稿をはじめたのは、 2005(平成17)年1月19日であり、
この日から2443日が過ぎた、ということである。

まもなく『極楽とんぼ』と称した芸能人がいることを知り、その上に社会的な不祥事を起し、
関係ない私までコメントが寄せられ、迷惑限りないと思い、心の純潔を汚されたように感じ、
やむなく発信名を『夢逢人〈ゆめあうびと〉』に改称した。


このように【gooブログ】と【簡単gooホームページ】
二刀流のようなことを一年半ばかりし、
特に政治・経済に関しては、素人のつたなさ、そして無責任の広言を反省し、
【gooブログ】の投稿を中止したのである。


その後、2007(平成19)年、肝要の【簡単gooホームページ】が9月末で閉鎖と知り、
8月より半ばより、これまで投稿文が移動できる【OCN Cafe】を知り、加入し、
『風のように光のように』として、殆ど毎日数通は投稿した。
後日には、改題し『風、そして光のように』とした。


しかしながら、自身の綴った過去の投稿文の内容を振りかえる時、
あらゆる分野を綴ったりしてきたので、
例えば美空ひばり、五輪真弓さんのことを綴ったのは、いつの日だったかしら、
自身で探しあぐねる時が多いのである・・。


こうした思いがあり、検索機能を有した【gooブログ】のサイトを再開したのは、
2008(平成20)年5月である。
『年金青年のたわむれ記』のタイトルを掲げ、副題として『~かりそめ草紙~』とした。

定年退職後、今まで各サイトに書き散らかした3000通前後の投稿文を整理、統合をし、
私は定年後の年金生活の日々の思いはもとより、
幼年期から想いより綴っているので、私の光と影を余すことなく網羅しているので、
『日記』の部分をカテゴリー区分を設定し、独立させた。

そして新たに、『定年後の思い』 『幼年・少年時代の想いで』、『青年時代の想いで』、
『現役サラリーマン時代の想いで』 、『退職後の旅行』、
この他の区分は、従来どおり、『音楽』、『映画・テレビ』、『小説・随筆』、『時事(団塊の世代)』 、
『時事(社会)』、『時事(政治・経済)』等、
カテゴリー区分としては、12分野とし、現在は増加している。

こうした結果、各カテゴリー区分にしているので、
さしずめ私にとっては、10数冊の文庫本のような形となっている。
人は誰しも光と影があるのと同様に、
私なりの万華鏡かしら、と微苦笑したりした・・。

私の半生は屈折の多い人生だったので、せめて残された人生は・・、
と思いながら旅行とかパソコンが故障しない限り、投稿してる。


私はブログを投稿する際、最後までお読み頂けるように工夫したり、
その上に数多くの方にお読み頂けるように、試行錯誤をしたりしているが、
日本だけでも数千万人と風の噂で聞いているブログの投稿者から、
誰も読まれなく無視されることは、悲しきことで愕然とするので、
ひとつの対策をした。。

こうした意味合いからのひとつの目途として、
やはりブログのランキングに加入して、程ほどに上位にランキングされれば、
少しでも多くの方に読んで頂けると、ささやかなブログの体験上で学んできた。

もとよりランキングに加入し、数多くの方の投稿文を拝読しながら、
日々の日常生活の過ごした方、或いは人生の思いを学び、
こうしたお考えで、この人生を過ごされているのか、と教示されることが多く、
私は励まされたり、微笑んだりして、年金生活を過ごしたりしている。

私は以前のあるサイトで、コメントで交流を深めた人も含めた人もいるが、
何かしら『お友達リスト』が掲示機能があった。
ある方を加入してサイト上に明示できるので、こうした関連からまもなく100人は超えてしまい、
この影響もあり、ランキングの首位に4週間ばかりなったことがある。

しかし、私は気楽にコメントを書くことはできず、
書き込んで下さった方のプロフィールはもとより、
最近のその方の心情まで配慮して返信するタイプであるので、
時間を要して、日常生活の肝要の読書、散策の時間まで影響したので、
原則としてコメントの返信は取りやめて、お互いに投稿文を読んで頂ければ、
と変貌したのであった。


このような心情の私は、昨年の2010〈平成22〉年の秋に、
ブログのランキングの『にほんブログ村』に再加入した。
2008〈平成20〉年の頃に加入していたが、
何かしら他のブログのランキングに魅了され放置していたのであるが、
加入者数の多い『にほんブログ村』に、ふたたび本加入させて頂いた。

そして、少しばかり加入ジャンル部門を彷徨〈さまよ〉った上、
小説系の『エッセイ』、シニア系の『60代』に加入し、
ランキングを少しばかり気にしたりしている。

何よりも『お気に入りメンバー』の機能があり、相手方に表示できないので、
私は小説系、シニア系の加入している中で、圧倒的に魅了された方を身勝手に選定し、
現在89名で、男性51名、女性が38名となっている。

そして私の『お気に入りメンバー』の方が投稿された文を精読して、
このように日常生活を過ごされている、或いは人生の思いを深く学んでいる。


昨今、たかがランキング、されどランキングと思いながら、
この広い空の下で、たまたまランキングなどで未知のお方に、
投稿文の上で、めぐり逢えたこと、秘かに感謝したりしている。


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政府・民主党の復興財源案に賛意であるが、なぜ国家議員の歳費削減を実施しないのか?

2011-09-28 09:39:02 | 時事【政治・経済】等
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の高齢者の身であるが、
今朝、いつものように読売新聞を読んだ後、しばらく苦笑させられた。

政府・民主党の復興財源案であるが、政治に疎〈うと〉い私でも、
概要として、やむなく賛意する、と苦笑したのである。

この記事の準じる内容が、読売新聞の基幹ネットの【YOMIURI ONLINE】にも掲載されているので、
無断ながら転載させて頂く。

http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20110927-OYT1T01267.htm?from=main1
☆【YOMIURI ONLINE】 《 JT株売却なども…復興増税9・2兆円に圧縮 》☆

この後、関連した記事を読みながら、無力な私に今回の復興財源案に直接影響するのは、
『所得税』一律4%上乗せ、2013年1月から10年間
『住民税』年500円、2014年6月から5年間
『たばこ税』1本当たり2円引き上げ、2012年10月から10年間
と感じながらも、間接的には何かと影響大と思われる。

しかしながら、震災、長期デフレ、円高、世界経済の危機など、国題が山積している今日、
やむなく賛意するほか、具体的な手立てはないだろう、と苦笑した。


もとより過ぎし3月11日、東日本大震災、そして福島原発により、
巨大な大津波で余りにも多くの人たちが亡くなわれ、
被災された方たち、原発で避難されている方たちが、明日の見えない生活を過ごされている。

こうした方たちの前では、無力な私は言葉もなく、
被害の甚大を知るたびに茫然と過ごしながらしてきた。

私は5月中旬の北東北旅行をやむなく中止した分の半額を赤十字、
自治会でわずかな義援金を供出したぐらいで、恥ずかしい身であるが、
政治は混迷、経済は低迷、社会は劣化を深める中、
震災地の復旧・復興に関し、日本経済の復興こそが、何よりも日本再生の道である、
と無力な私は心の片隅に思い続けている。

政府の首脳閣僚の諸兄諸姉の議員が、真摯で国益に合った政策を取れば、
やがては私たち多くの国民が享受できるので、
直面する税負担が多少増えようと、私は生活を切り詰めて我慢し、賛意をする。

私たち高齢者は、敗戦後からの一部の方を除き、誰しも貧乏な時代を知っている世代なので、
あの悲惨な時代を思い馳せると、
今日の難題が山積しているが、日本の多くの人たちが一時的に総集すれば、
乗り切り、明るい明日が見える、と信じているひとりである。

このように思ったりしてきたが、今回の政府・民主党の復興財源案の財源の検討の中で、
27日の党税調では、国家議員の定数削減、公務員の人件費削減なども検討された、
と読売新聞の記事に掲載されていた。

この記事を読んだ時、国家議員の歳費の大幅な削減こそが、何よりも肝要である、
と私は瞬時に感じた。

私は国家議員の歳費の大幅な削減に関しては、
今年の2011年5月13日にこのサイトに於いて、
【 国家公務員の給与を1割削減する政府方針の前に、なぜ国会議員歳費の大幅な削減をしないのか・・!? 】
と題して、投稿しているが、再掲載をする。

【・・
昨今、東日本大震災の復興財源に充てるため国家公務員の給与を1割削減する政府方針を
テレビのニュースで知ったりした。

この後、私はそれ以前に、国会議員の歳費は優遇されていると風の噂で聞いたりしているので、
なぜ自ら国会議員の歳費の大幅な削減を臨時特別会議で可決させないのか、
不思議に感じているひとりである。

昨年の11月17日、民主党の政治改革推進本部(本部長・岡田幹事長)は、
国会内で役員会を開き、同党が7月の参院選公約で掲げた「国会経費の2割削減」に向け、
衆参両院の『事務局の経費削減』として、職員数の削減などが検討したりした。

或いは党内に異論が出ている国会議員歳費の1割削減案については、
19日に同本部の総会を開き、再び意見集約を図ることにした、
とニュースで私は知ったが、
この後は、私が知る限り、明白な国会議員歳費の1割削減の実施は知らない。


私は政治にも疎(うと)く、国会議員の歳費の実態は不明確なので、
確認致したく、ネットにすがり、検索した。

フリーの百科辞典として名高い【ウィキペディア】に寄れば、
《・・
国会議員の歳費、旅費及び手当等に関する法律は、
国会議員の歳費、旅費及び手当等の支給について規定した日本の法律である。

基本的な内容

歳費
   議長  218万2000円(月額)
   副議長 159万3000円(月額)
   議員  130万1000円(月額)

旅費 
   公務により派遣された場合に支給

議会雑費
   各議院の役員、特別委員長、参議院の調査会長、各議院の憲法審査会会長 6,000円以内(日額)

文書通信交通滞在費 
   各議院の議長、副議長及び議員 100万円(月額・非課税)

JR特殊乗車券、国内航空会社航空券の支給

期末手当の支給(6月、12月)
・・》

このように記載されていたので、月額の破格な歳費に、期末手当の支給(6月、12月)も頂いた上、
文書通信交通滞在費の余りに優遇されているのに、改めて私は動顚したのである。

そして、数多くの国民の有権者から信任された国会議員の諸兄諸姉であるが、
昨今の国家財政の悪化の前、どのような心情で、民主党の党内で異論が出ているのか、
高齢者2年生の私には、理解できないのである。


日本は、1991(平成3)年にバブル経済の崩壊後は、
日本経済の足かせになってきた企業の《雇用・設備・債務》の過剰問題は、
民間会社は自助努力に基づいて、過酷な程、事業の再編、人員削減を行なってきた。

私は中小業の民間会社に勤めた身であったので、
まともに大波を受けたりし、多くの先輩、同僚たちと別れ、
そして残された私たちは、困苦の時期を過ごした体験もある。

そして数多くの民間会社のサラリーマンはもとより、多くの国民が困窮した時期を送られた、
と私は確信する。


特に昨今、政治は混迷、経済は低迷、そして社会も劣化する中、
こうした国民の生活を無視するかのように、
国会議員の諸兄諸姉の既得権、もしくは自己保身のような現状の待遇・・
いかがなものだろうか、と私は深く感じてしまうのである。


まして今回の東日本大震災の復興財源に充てるため
国家公務員の給与を1割削減する政府方針を知ったりすると、
心の節度と古来から伝えられているが、
遅ればせながら国会議員の諸兄諸姉は、国民の前で襟を正して、歳費の大幅な削減に努めるのが、
有権者から信任された礼節、と私は思ったりしている。
・・】
このように私は投稿していた。

今回の政府・民主党の復興財源案であるが、
働いて下さる現役のサラリーマンの諸兄諸姉の多くは、所得税をはじめ、
家計に大きな影響がある、と私は学んだ。

こうした律儀な現役のサラリーマンの諸兄諸姉の前で、
国会議員の諸兄諸姉は、権益とも思われる余りにも優遇された歳費、待遇に関し、
自ら大幅な削減を臨時国会審議を開催して可決し、実施するのが、
少なくとも国民の前の礼節であり、心の節度とも私は深く感じている。


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恥ずかしながら齢ばかり重ねた私は、満67歳の誕生日を迎え、高齢者3年生に進級し・・。【下】

2011-09-27 16:14:56 | 定年後の思い
3月11日、東日本大震災、そして福島原発により、
巨大な大津波で余りにも多くの人たちが亡くなわれ、
被災された方たちが、明日の見えない生活を過ごされている。

こうした方たちの前では、無力な私は言葉もなく、
被害の甚大を知るたびに茫然と過ごしながら、平常心こそが大切である、
と自身に言い聞かせてきた・・。


過ぎし東日本大震災の時、東京郊外の我が家は、
家も揺れ、本棚から10数冊の本が床に落ちたぐらいであったが、
我が家は防災に不備なことに気付かされたり、その後も幾たびか余震があり、
私たち夫婦は困惑したりした・・。

こうした中、我が家は懐中電灯が2つばかりあるだけで、予備電池がないことも解かったりした。
そしてペットボトルの2リットルの煎茶が6本あるだけであった。

この後、改めて調布市から市民に配布された『調布市防災マップ』を見たりし、
この中の注意事項、連絡表の記載事項を互いに確認したり、
家内と共に買物に行った帰路に、指定された避難所の場所を近くを通り、確かめしたりした。

そして我が家は、そのうちに電池不要の手回しで電源が発生する軽い携帯ラジオを購入しょう、
と話し合ったりした。


その後、旅行用のショルダーもできるバックを居間の片隅に置き、
いざ避難所に行く時に、持って行こう、と互いに決めている。

この中身は、電池不要の手回しで電源が発生する軽い携帯ラジオ〈電池対応、可〉、
懐中電灯、電池、タオルを4枚、板チョコレートを4枚、ペットボトル500mlが2本、
百円玉を中核として10円玉も少しで、3000円。
そして私のメガネの予備、タバコ、
脇サイドには『調布市防災マップ』が入っているだけである。

無念ながら携帯電話は私たちは互いに使えないので、この程度ぐらいと思っている。
あとは、非常食として、乾パンぐらいは、購入しておかなければ、
と思いながらも、実行していないのが我が家の現状である。


この間、私たち夫婦は、5月中旬の北東北旅行をやむなく中止した分の半額を赤十字に、
そして自治会でわずかな義援金を供出したりした。

或いは、自宅の本棚、押し入れを整理し、大幅に処分をしたりした。
若き頃の私は、映画・文学青年の真似事をした体験もあり、
小説、随筆、歴史書、現代史など本は5000冊前後、
映画作品としてビデオ・DVDが1000本前後ある。

そして現役時代に音楽業界のあるレコード会社に35年ばかり勤め、
製作畑ではなく、管理畑の片隅に勤めていたが、
少しづつ買い求めた結果として、レコード、カセット、CD、DVDの総数として
3000枚前後となった。

こうして家の中の本の整理を主体にして、
押入れに収納していた単行本を整理をし始めたのであるが、
主に私が東京オリンピックが開催された1964(昭和39)年前後の5年間ぐらいで購入した
小説・文学評論が圧倒的に多かったのである。

石川達三、丹羽文雄、三島由紀夫、安部公房、大江健三郎などの各氏が多く、
そして福永武彦氏の本は、殆ど所有していたのには、微苦笑させられたりした。

この方たち作家の作品は、今後は読むこともないだろう、
市の資源ゴミにだすことに決めたのである。


数年前、自宅から徒歩10分ばかりのある古本屋のチェーンの支店長と私は話し込んでいた時、
私は思いついたように、自宅の本を思い浮かべて、
もしも古本屋に売却したら、と小説、文藝評論の数々の名を上げたら、
『信じられいような廉(やす)さと思いますよ・・
ご愛読された本と思いますので、ご自宅で保管された方がよろしいかと思います・・』
と私は支店長から言われてしまったのである。

その後、やむなく市の図書館に寄贈しょうと思ったりしたが、
友人にこのようなことを話したら、
昨今は図書館でも過剰で困り果てているのが多い、と教えられた。


私が保有している小説、随筆、評論などは、市の図書館の本館に、八割方ぐらいあるが、
今現在としては、全ての本を処分する気にはなれないので、
結果として、図書館に寄贈は断念したのである。


結果として、押入れにあった本は、3冊だけ保存することにして、
500冊ぐらい処分としたのである。
そして石川達三、丹羽文雄、三島由紀夫、安部公房、大江健三郎、福永武彦などの各氏、
さよならを告げたのである。

この後も、本棚も整理して、1500冊ぐらい処分し、
3000冊前後が愛着を秘めて保管している。

そして映画作品の収容棚、音楽作品の収容棚も整理したりした。


こうした中で、6月初めに『地上デジタル放送』の7月24日の実施日に対応して、
遅ればせながら、我が家でも3D機能のあるテレビの50型とブルーレイディスク・DVDレコーダーを購入し、
設置しながらも、従来から愛用していたビデオテープも再生専用として、接続した。

そしてバソコンも5年ぶりに買い改めたり、
エアコンの一台が壊れて、やむなく購入したりした。


今年は東日本大震災、そして福島原発、台風なとで余りに甚大な被災がある中、
我が家も何かと変貌の多い一年を過ごしてきたが、
4月22日に於いて、東京大地震研究所のグループが、
南関東でM7級の大地震が、今後30年間に70%の確率で起きる、
と発表され、私は動顚しながら、勘弁してほしい、と思ったりしている。


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恥ずかしながら齢ばかり重ねた私は、満67歳の誕生日を迎え、高齢者3年生に進級し・・。【中】

2011-09-27 13:38:41 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳となった身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

日常は定年後から自主的に平素の買物担当となり、
毎日のようにスーパー、専門店に行ったりし、ときおり本屋に寄ったりしている。
その後は、自宅の周辺にある遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受している。

ときおり、庭の手入れをしたり、友人と居酒屋など逢ったり、
家内との共通趣味の国内旅行をしたりしている。

日常の大半は、随筆、ノンフィクション、現代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

このような年金生活を過ごしているが、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。


このように定年後からの生活を過ごしてきたが、
この一年で何よりも変わったことは、日本酒、ビールなどが激少したことである。

私は定年退職後、直ちに年金生活に入り、
純米酒の辛口好きの私は、晩酌の時は、現役時代と同様に2合、ときには3合を呑んだり、
或いはビールの時は500mlの缶ビールを数本を呑んできたので、
この結果、毎年少しずつ体重が増えたのである。

2008(平成20)年秋に健康診断を受診した後、
市の斡旋の『メタボの研修』を受講した後、
国内旅行、冠婚葬祭、或いは懇親会などに限り、地酒をある程度は呑んだりしたが、
缶ビールの350mlを2本までを殆ど守ってきた。

もう少し呑もうかしら、と思うと、
何故かしら優しい保健師の女医さんの笑顔が蘇(よみがえ)り、
缶ビールの350mlを2本まで夜が圧倒的に多かったのである。

そして一昨年の2009(平成21)年の秋に健康診断を受診した時は、
体重は3キロばかり減少て、75キロとなり、
優しい保健師の女医さんのおかげかしら、と私は微笑んだりした。

そして私は悦びながら、家内に伝えたら、
『あなたの健康にも良いし・・家計費のアルコール代も減りますから・・』
と家内は私に微笑みながら、言われたりした。

この後、私は相変わらず缶ビールの350mlを2本までを守り、
幾たびか旅行を重ねた時は、昼はビール、夕食の時は地酒も呑み、
日常生活は散策と買物ぐらいの運動不足、その後の猛暑でエアコンの冷風に頼ったりしたので、
昨年の2010(平成22)年の秋に健康診断の結果、ふたたび78キロに戻ってしまったのである・・。

この結果の上、『糖尿病で、内科に受診して下さい』と明記され、
私は青ざめ、翌日に自宅から徒歩10分ばかりの内科専門病院に行き、検査、
そして問診の時、
『国内旅行に何とか70歳ぐらいまで行きたいので・・何なりと御指導をお願い致します』
と私は内科の医師に懇願した。

私は定年の5年前の頃から、60代は五体満足で生かしてくれ、その後は余生である、
と公言してきたが、家内との共通趣味は国内旅行であり、
糖尿病の場合は、もとより食事制約がある。
このような時、家内は旅行先の美味しい夕食を頂いていた場合、
私は食べてはいけない料理だったら、余りにも惨(みじ)めである、と思ったりしたからである。

医師から、料理のカロリー試算表を渡された上、
軽い運動を毎日して下さい、と私は言われた・・。


この後、6週間の私は、家内が料理のカロリー試算表を確認しながら料理を作って貰い、
これ以来、朝夕頂いている。
そして私は晩酌の缶ビールの350mlを2本さえも取りやめて、
お酒はしばらく・・さよならねぇ、煎茶を飲んだりしている。

昼食は婦女子のようなフルティ・ランチで、リンゴを一個、そして柿一個としていた。

その上、散策は時速3キロぐらいの歩みから、時速6キロぐらいのウォーキングとなり、
汗をかきながら最低30分は歩き廻り、ほぼ毎日していた。


この結果、体重は74キロとなり、4キロばか減少し、
ズボンの腰回りも楽になり、ベルトについている穴も2つばかり減り、
何かしら身体が軽快に成ったと微笑んだりしていた。

しかし、以前ゆっくり歩いた散策の時は、
この時節の晩秋の朱紅色、黄色に染められた錦繍の情景に、深い心を寄せられることができたが、
ウォーキングとなれば、風景が通り過ぎるように心を寄せる瞬時の思いが、
なくなってしまうのである。

やむなく私は、公園を目指して、ウォーキングに専念した後、
公園内で汗をふきながら、ゆっりと散策して過ぎ行く美麗な錦繍の情景に心を寄せ、
そして帰路は、ウォーキングして、日中のひとときの定例事項としてきた。


この間、私は最寄の内科に3週間毎に定期健診を受けて、
糖尿病の範囲の対象から克服でき、悪玉コレステロールは基準値の90%、
これ以外はすべて優等生となったのは、今年の3月の初旬であった。

そして私としては何よりも不思議と感じたのは、
冷蔵庫の中にビールがあること、
台所の片隅の収納所に日本酒の一升瓶、四合瓶も忘れてしまっていることである。
かって呑兵衛と自任してきた私は、平素の夕食に煎茶でもまったく違和感が感じることなく、
10ヶ月ばかり過ぎている・・。

このように私は20代から昨年の秋まで日本酒、ビールを吞んできたが、
歌を忘れたカナリヤのようにアルコールから遠ざかり、
国内旅行、冠婚葬祭、或いは懇親会、そして我が家で月に一度ぐらいのイベントに限り、
呑むぐらいとなり、激少となったのである。


国内旅行に関しては、昨年の5月24日から9泊10日間で、
若葉の季節に、青森県の日本海に面した黄金崎(こがねざき)にある観光ホテル『不老ふ死(ふろうふし)温泉』に3泊、
その後は竜飛岬にある竜飛崎温泉の観光ホテル『ホテル竜飛』に3泊、
そして八甲田山連峰のほとりにある『酸ヶ湯』温泉に1泊、
最終として『蔦〈つた〉温泉旅館』に2泊をした。


その後、昨年の夏の終りの旅路は、8月30日から9月4日まで5泊6日で、
東北地方の太平洋に面した三陸海岸で、岩手県の宮古市の海岸にある清麗な『浄土ヶ浜』を訪れ、
『浄土ヶ浜パークホテル』に3泊した後、
盛岡市の郊外にある繋(つなぎ)温泉の奥地にある鶯宿(おうしゅく)温泉の『長栄館』に2泊した。


12月中旬になると、青森県は雪の舞い降る頃と思い、
12月14日より、青森県の十和田湖の山奥にある『蔦(つた)温泉』に再訪し4泊し、
ブナの雪景色の中を散策したり、観光客のいない雪舞い降る奥入瀬渓流に魅了したり、
その後は青森市内の『青森グランドホテル』に1泊し市内を散策、
そして日本海の黄金崎の『不老ふ死温泉』に再訪して3泊して、8泊9日間で訪れてきた。


そして今年の2月13日より、雪舞い降る時に山形県の銀山温泉に行って観たいわ、
と家内は私に言ったりしたので、
銀山温泉の旅館街の中ほどにある『旅館 永澤平八』に4連泊して、
街並み、そして付近を散策した。
その後は、最上地域の『最上川の船下り』をする為に、
悪天候を配慮して、付近の新庄のビジネス・ホテルの『ルートイン新庄』に1泊宿泊し、
5泊6日で冬の旅をした。


このように青森県、岩手県、山形県などの東北に改めて魅了された私たち夫婦は、
五月中旬に秋田県の田沢湖を北上した乳頭温泉郷の各地の温泉めぐりと散策で、
8泊9日間の予定を3月の初旬に立案して、
いつも愛用している旅行代理店に予約をしょう、と決意していた。

この後は、もとより3月11日に東日本大震災で各地が甚大な被災となり、
私たち夫婦は、訪れてきた各地の余りにも痛々しい被害に唖然とし、
旅行の予定も中止し、私たち夫婦は日常生活も変貌したのである。

                          《つづく》


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恥ずかしながら齢ばかり重ねた私は、満67歳の誕生日を迎え、高齢者3年生に進級し・・。【上】

2011-09-27 08:51:35 | 定年後の思い
私は恥ずかしながら、満66歳の誕生日を迎え、高齢者の3年生となった。
一昨年の2009〈平成21〉年に初めて高齢者の入門を許されて、
我が街の調布市から『介護保険証』が郵送されて、私は驚きながらも高齢者なってしまったのか、
と微苦笑を重ねたりしてきた。

私は民間会社の中小業に35年ばかり勤め定年退職後、
残された人生の日々を自身の趣味で過ごしたく、年金生活とした。

数多くのサラリーマンの人たちと同様に、多忙だった現役時代であったので、
せめて人生の後半戦ぐらいは、読書と散策などをし、
ときには国内旅行で各地の四季折々の情景に心を寄せれば、
本望かしらと思っていた。

そして、私の何よりの望みは、こうした日常生活をし、
心の発露として散文を綴ることである。

幸い2004〈平成16〉年の秋に定年退職後、
まもなくして、ブログの世界を知り、四つばかりのサイトに加入して書き散らかしてきた。


私の心の根底には、退職後の1年を過ぎた頃、
亡き作家・城山三郎〈しろやま・さぶろう〉氏の『無所属の時間に生きる』の随筆集を読んでいた時、
『この日、この空、この私』の一節を教訓としている。

《・・
人生の持ち時間に大差はない。
問題はいかに深く生きるか、である。
深く生きた記憶をどれほど持ったかで、
その人の人生は豊かなものにも、貧しいものになるし、
深く生きるためには、ただ受け身なだけでなく、
あえて挑むとか、打って出ることも、肝要となろう。
・・》

私は年金生活の7年生の身であるが、
果たして振り返った時、私自身は深化したか、
或いは体力の衰えに甘えて、退廃したか解からない。

私は先ほど、自身の過去に綴った投稿文を読み返していたりした・・。


私は1944(昭和19)年9月に、
今住んでいる北多摩郡神代村入間(現・調布市入間町)近くの実家で生を受け、
祖父、父、母、そして父の妹の叔母2人、
長兄、次兄に続いて生まれたので、三男坊として乳児の時を過ごした・・。
敗戦の大戦の一年前の頃であるので、もとより戦争を知らないひとりでもある。

祖父と父が中心となり、小作人だった人たちのご厚意手を借り、
程々の広さの田畑を耕し、宅地の周辺には竹林、雑木林があった。

長兄、次兄に続いて私は生を受けたが、跡取り候補の男の子は2人いたので、
祖父、父らは、3番目は何かしら女の子を期待していたらしかった。
私の後に生まれた妹の2人を溺愛していた状況を私はなりに感じ取り、
いじけた可愛げのない劣等感のある幼年期を過ごした。

このした中で長兄、次兄は、学校の成績は優等生であり、
私は小学校に入学しても、通信簿は『2』と『3』ばかりの劣等生であった。
父が私が小学2年3学期になると、黄疸〈おうだん〉で長らく自宅治療をした後、
42歳の若さで肝臓が悪化して、病死した。
この後、まもなくして祖父は胃がんで最寄の大学病院で亡くなった。

そして、大黒柱をなくした農家の我家は没落しはじめたのである・・。

母、そして父の妹の未婚の叔母、そして私達の兄、妹の5人の子供が残され、
私達子供は母と叔母に支えられ、そして親類に見守り中で、
貧乏な生活が始まった。

母は私が中学校に入学した1957(昭和32)年の春、
やむなく田畑を売り、小田急線の狛江駅の近くにアパート経営をしたが、
何とか明日の見える生活となったが、学業に何かと経費を要する5人の子供がいたので、
家計は余裕もなかった。

そして私が高校に入学した1960(昭和35)年の春、
母はラブホテルのような連れ込み旅館の経営に打って出て、孤軍奮闘したので、
私達の生活は何とか普通の生活になった。


幼年期の頃、本といえば、農協の月刊誌だったと思われる『家の光』しかなく、
小学5年の時に都心から引越してきた同級生の家には沢山の本があり、
愕然としたこともあった。

私は都心の私立の高校に通い、
地元から離れ、都心の空気と兄達の影響のない高校であったので、
私なりに純粋に伸び伸びとして育ち、高校時代になって初めて勉学が楽しくなった。
そして遅ればせながら、読書にも目覚めたり、文学、歴史などに深く興味を持ち、
小説らしき習作を始めたりした。

この後、大学を中退し、アルバイトなどをしながら映画・文学青年の真似事をし、
やがて幾度も小説新人の応募で最終候補6作に漏れ、落胆し、やがて挫折した。
やむなく民間会社に中途会社にする為に、コンピュータの専門学校に学び、
これを梃子(てこ)とした上で、知人の強力な後押しのお陰で、
この当時は映像・音響メーカーのある大手の民間会社に中途会社にできたのは、
1970(昭和45)年の春であった。

そしてまもなく、この会社の中の音楽事業本部のひとつのレーベルが、
外資レコード会社として新設されて、私も異動させられた。
そして六本木にある本社でコンビュータの専任者となり、
もとより音楽業界とコンピュータ業界に関連していたので、
時代の最先端にいると勘違いしたりした。

この間、幾度も恋をしたが、失恋の方が多く困惑したり、
結婚後の数年後に、若気の至りで一軒家に茶室まで付け足して建てて、
住宅ローンの重みに耐えたりていた。

そして私は30代の後期になると、次兄が自営業していたのであるが、
経済的な理由で、突然に次兄は自宅の布団の中で、睡眠薬を過剰に飲み自裁された・・。

私は援助も出来なかったことを知り、さいなまれながら、
たとえどのようなことがあっても、少なくとも父の死の42歳を乗り越えなければ、
という思いが強く意識した。

そして、55歳を迎える寸前に、音楽業界はリストラ旋風の中、
私は30年近い本社勤務から、出向となり、都落ちの失墜感の中、
家内と退職後の生活設計を改めて話し合い、
定年後の私は年金生活に入り、お互いに残された人生の歳月を趣味の時間で過ごそう、と決意した。


このように私は大手企業のサラリーマンの一部に栄進したエリートでなく、
屈折した日々の多い半生を歩み、定年を迎え、
半生記は何かと自慢史が多いと伝えられている中、私は限りなく遠い存在である。

私は確固たる実力もないくせに、根拠のない自信があり、
感覚と感性は人一倍あると思いながら、独創性に優れていると勝手に思い込み、
ときには独断と偏見の多い言動もしたりしてきた。
そして、ある時には、その分野で専門知識があり優れた人の前では、
卑屈になったりした・・。
このように可愛げのない男のひとりである。


私は定年退職時の5年前頃からは、
漠然と定年後の60代は五体満足で生かしてくれ、
これ以降の70代は余生だと思ったりしている。

昨今の日本人の平均寿命は、男性79歳、女性86歳と何か本で読んだりしているが、
私は体力も優れていないが、
多くのサラリーマンと同様に、ただ気力で多忙な現役時代を過ごしたりしてきた。
退職後も煙草も相変わらずの愛煙家の上、お酒も好きなひとりであるので、
平均寿命の前にあの世に行っている、と確信に近いほどに思っている。

世間では、よく煙草を喫い続けると五年前後寿命が縮じまるという説があるが、
身勝手な私は5年ぐらいで寿命が左右されるのであるならば、
私なりの愛煙家のひとりとして、
ときおり煙草を喫ったりしながら、思索を深め日々を過ごす人生を選択する。
そして、昨今は嫌煙の社会風潮があるので、
私は場所をわきまえて、煙草を喫ったりしている。


このように身勝手で屈折の多い人生を過ごしたのであるが、
この地球に生を受けたひとりとして、私が亡くなる前まで、
何らかの欠片〈かけら〉を残したい、と定年前から思索していた。
あたかも満天の星空の中で、片隅に少し煌(きらめ)く星のように、と思ったりしたのである・・。

私はこれといって、恥ずかしながら特技はなく、
かといって定年後は安楽に過ごせれば良い、といった楽観にもなれず、
いろいろと消却した末、言葉による表現を思案した。

文藝の世界は、短歌、俳句、詩、小説、随筆、評論などの分野があるが、
私は無念ながら歌を詠(よ)む素養に乏しく、もとより小説、評論は体力も要するので、
せめて散文形式で随筆を綴れたら、と決意したのである。


私は若き日のひととき、映画・文学青年の真似事をした時代もあったが、
定年後の感性も体力も衰えたので、
ブログ、ブログに準じたサイトに加入し、文章修行とした。

何よりも多くの方に読んで頂きたく、あらゆるジャンルを綴り、
真摯に綴ったり、ときには面白く、おかしく投稿したりした。
そして苦手な政治、経済、社会の諸問題まで綴ったりしたが、
意識して、最後まで読んで頂きたく、苦心惨憺な時も多かったのが本音でもある。


私の最後の目標は、人生と文章修行の果てに、
たとえば鎌倉前期の歌人のひとり鴨長明〈かもの・ちょうめい〉が遺〈のこ〉随筆の『方丈記』があるが、
このような随筆のかけらをたったひとつ綴れれば、本望と思っている。
そして私の死後、数百年を過ぎた頃、文愛人の一部の方から、
あの時代に短かき随筆をたったひとつ遺した人もいた、と思って頂ただければ望外の思いである。
このような思いを秘かに私は思ったりしている。


こうして定年後の年金生活の身過ぎ世過ぎの日常生活で、
家内とふたりだけの生活の中、買物の担当をしたり、
散策をしながら、四季折々のうつろいを享受し、
長年の連れ合いの家内との会話も、こよなく大切にしている。

そして時折、何かと甘い自身の性格と文章修行に未熟な私さえ、
ときには総合雑誌の『サライ』にあった写真家の竹内敏信氏の連載記事に於いては、
風景写真を二葉を明示した上で、文章も兼ね備えて掲載されていたが、
このような形式に誘惑にかられ、悩んだりする時もある。

たとえば私が国内旅行をした後、
投稿文に写真を数葉添付して、旅行の紀行文の真似事をすれば、
表現上として言葉を脳裏から紡(つむ)ぐことは少なくすむが、
安易に自身は逃げる行為をしていると思い、自身を制止している。

そして、言葉だけによる表現は、
古来より少なくとも平安時代より続いてきたことであるので、
多くの人の心を響かせるような圧倒的な文章力のない私は、
暗澹たる思いとなりながらも、まだ修行が足りない、と自身を叱咤したりしている。


そして拙(つたな)い才能には、
何よりも言葉による表現、読書、そして思索の時間が不可欠であり、
日常の大半を費(つい)やしているので、年金生活は閑〈ひま〉だというのは、
私にとっては別世界の出来事である。

このような思いで今後も過ごす予定であるので、
果たして満天の星のひとつになれるか、
或いは挫折して流れ星となり、銀河の果てに消え去るか、
もとより私自身の心身によって決められることである。


しかしながら、いつの日にかは命(いのち)果てる時がある。
ある日、私の自宅の近くの川沿いの遊歩道を歩いていた時、
この遊歩道は片側が帯状に小公園となり700メートル前後あり、
樹木、草花が四季それぞれに彩(いろ)っている場所で、
私の散策の好きなひとつのコースでもある。

一昨年の秋、ある日にいつものように木のベンチに私は座り、
煙草を喫いながら、少し休息をした・・。

この時に、どうした思いか解らないが、いつの日にか命が果てる時は、
晩秋の午前のやわらかな陽射しの中、
ポックリと死を迎えられたら本望である、と脳裏をかすめたのである。

この遊歩道で、独りで歩き、
桜(サクラ)、モミジ、ドウタン躑躅(ツツジ)等の朱色を誉(ほ)めたり、
白梅、公孫樹(イチョウ)、コナラ等の黄葉の彩(いろど)る錦繍の中、
木漏れ陽を受け、ときおり舞い散る葉を眺め、
好きな本を抱(かか)えて、突然に命が果てる、といった状況を願ったのである。

5年先か10年先か、或いは数10年先か判からないが、
いずれいつの日にか、命は絶えるのであるが、
亡くなる時は、こうした思いもあることは確かである。


私の葬儀に関しては、お通夜、告別式も家族葬とし、
死者は土に還るという意味あいから、樹木葬にと、
私達は子供に恵まれなかったこともあり、寺院の墓地は不要である、
とここ7年ばかり家内に云ったりしている。

このような身勝手な身ながら、ぼんやりとカレンターを見ていたら、
『先負』と明記されているので、
《午前中が悪いが、午後から良好》と古人から伝えられているので、
私の残された人生の後半戦は、恵まれることが多いのかしら、
と私は微笑んだりしている。

                       《つづく》

次回は、ここ一年の私の日常生活、変貌を気楽に綴る。


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金木犀の咲く前にと、庭の手入れをすれば、小雨降る中、泥まみれになり・・。

2011-09-26 16:54:00 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であるが、
朝の8過ぎに、ぼんやりと主庭のテラスに下り立つと、
庭の片隅にある金木犀〈キンモクセイ〉の樹に、枝先の周辺にたわわな実が付け、
まもなく橙黄色の小花が咲くと、時節の到来を教えられた。

私は微(かす)かな匂いが漂う金木犀(キンモクセイ)の芳香は好きであるが、
盛りを過ぎる頃、樹の周辺に橙黄色の小花が黒土の上に落ち、
彩〈いろど〉る情景に幼年期の頃から魅了されている。

このように思っている私は、金木犀の咲く前に庭の手入れをしょう、と決意したのである。


地元の天気情報をネットで確認すれば、
朝の6時は16度、昼下がりは20度前後、そして夕暮れの6時は17度前後で、
曇りの日中となります、と報じていたので、
暑さに苦手な私は、樹木の剪定、草むしりに最適だ、と微笑んだ。

そして9時過ぎから気合いを入れて、枝葉を剪定したり、草むしりを始め、
わずかに汗ばむぐらいで、絶好調ねぇ、と心の中で叫んでいた。

一時間ぐらい過ぎると、なぜかしら霧雨が降りだしてきたので、
どうしてなのょ、と天上の気候の神々に問いながら、空を見たりした。

やむなく大きな樹の下、或いは枝葉の伸びた下の地面などで、
雨宿りのように、ここだったら濡れるのも少ないからねぇ、と孤軍奮闘した。

この後、霧雨から小雨になり、私は濡れた勢いで、
小雨の中、昼食も抜きで、草むしりに専念した。

そして、一時的な雨、と頼りにして、
泥まみれ、そして小雨に濡れながら奮闘していたが、午後3時頃に、
高齢者2年生の私は無念ながら体力困憊となり、断念した。


この後、お風呂に入った後、テラスの片隅みの屋根の下で、
庭の手入れの成果を見たりしていると、
あれぇ、雨が止〈や〉んでいる、と私は気づいて、苦笑したのは午後3時半であった。

そして私は、最近・・何か悪いことをしたのか、と思いめぐらしたのであるが、
思いあたるとすれば、ウォーキングの回数が減り、散策が増えたことぐらいかしら、
と少し肥満体の私は苦笑を重ねしている。


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『アナタが大金を持つ可能性は・・?』の心理テストに、齢ばかり重ねた私も挑戦し・・。

2011-09-25 21:22:56 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であるが、
夕暮れのひととき、パソコンのネットの『お気に入り』を整理をしていたら、
何かしら思い出せないサイトが、こっそりと私は開いた・・。

画面には、

《 お金で失敗したくないから
       正しく使ってきちんと節約
           どう使って、どう貯蓄する?

 お金の悩みは尽きないけれど、ちゃんと向き合って賢いマネープランを実践しよう。》

と表示された・・。


そして、この下段のひとつには、

《 アナタが大金を持つ可能性は ・・》

とあったので、たわむれに挑戦しょうかと思ったのである。

そして私は、何事も好奇心を失くしたら、この人生は終りだ、
と信念の持ち主のひとりであるので、
恥ずかしながら、こっそりとクイックしたのである。


マネーライフの心理テスト
    【 ズバリ、大金を持つ可能性は? お金持ち度テスト 】

http://contents.insurance.yahoo.co.jp/column/psychology/index.html?d=20090622


☆私の心理テストの結果は・・☆

《・・
     ☆☆☆ よく稼ぎ、よく使う才能あり! ☆☆☆

金は天下の回りもの。
潜在意識であなたは、お金のことをそんな風に思っていそうです。

実際に稼ぐ能力は高い方ですが、それと比例して気前よくポンポン使ってしまっているでしょう。
当然、お金はあまり貯まりません。

お金にセコいのは考えものですが、だからといって散財するのはもってのほか。
貯蓄に対する意識改革ができれば、お金持ちになる可能性も上がっていくでしょう。
・・》

このような心理テストの結果となり、やはりね、と私は微苦笑したのである。


私は古惚けた一戸建てに住み、程ほどの小庭のある家に住んでいる。

私が結婚したのは31歳の時であり、
賃貸マンションを借り、家内は茶事を習いながら専業主婦で、
収入に関しては私の責務であったので、私は孤軍奮闘して、それなりに収入、支出、貯金も順調であった。
この間、国内旅行も希望したところは行ったり、或いは都心のシティホテルに宿泊したり、
外食も都心のレストランにも行き、程ほどの優雅な生活をしていた。

この生活は二年ほど続いた後、実家の近くに一戸建てを建てたのである。
どうせ住宅ローンで多額に借金するのであるから、ついでに茶室も母屋の中に設けよう、
と私の若気の至りで決意した。

予想以上に経費も要し、庭の樹木などの予算が乏しく、雑木を植えたりしたのである。
何より驚いたのは、住宅ローンの返済と一戸建ては何かしら経費がかかるので、
働けど毎月は赤字が多く、家内はパート、その後は契約社員となり、
共稼ぎの生活となったりした。

移住した直後は、居間の絨毯、ソファなども購入できなく、クーラーも買えなかったのである。
そして私はワイシャツも最低価格帯、作務衣も一番廉(やす)いのを選定したりしていた。
国内旅行も希望したコースを断念し、廉(やす)い地域ばかり行ったりしていた。

このような困窮した生活を続けている間、家内がデパートに契約社員として働いていたので、
デパートのカードローンを利用して、少しづつ、絨毯〈じゅうたん〉やソファなどを購入したりした。

そして3年目に何とか赤字の生活から脱して、しばらくして家内は専業主婦に復帰した。
私達夫婦は共通趣味の国内旅行であり、子供に恵まれなかったせいか、
サラリーマンの多忙な合間に多少経費を抑え、たびたび行ったりした。

そして、50代を迎えた頃、定年退職後の生活設計をお互いに話し合い、
本格的に検討したのが、私が55歳の直前に出向となった時である。

結論としては、定年してから年金生活をして、
お互いの趣味を尊重し、共通趣味の国内旅行に行くことである。
生活基盤は年金で通常の生活をまかない、
国内旅行、冠婚葬祭、思いがけない出費は貯金から取り崩すことを原則としたのである。


昨今、年金生活の7年生の身となり、
定年退職の数年前に少しばかりリーフォームした古惚けた家に住んでいるが、
雑誌の広告で、外資銀行などは、『金融資産一億円の皆様に』、
このような広告を見ると、私は苦笑してしまうのである。

私はこの5月に本の整理などを兼ねて、大幅に処分したが、
小説、随筆、ノンフェクション系、歴史書などは2000冊前後は残っているし、
映画のVCT,DVDの1000本前後、
そして音楽のレコード、カセット、CD、DVDは1500枚前後を所有して、
その日に応じて読んだり、観たり、聴いたりして過ごすことが多い。
家内も少しばかりであるが、程ほどの茶道具もあり、
お互いに魅了されそうな処に、国内旅行に行ったりしている。

我が家はソフトに関しては、その時に応じて使ってきているので、
残念ながらが、程ほどしか貯金ができなかったね、
と私は家内に言ったりしている。

そして私は負け惜しみのように、
たとえ倹約ばかりして金融資産一億円あったとしても、
私達の人生の思いでの欠片〈かけら〉を数多くなかったら寂しいよ、
と現役時代の中小業である音楽業界のある会社に35年ばかり勤めた拙(つたな)い身の私は、
言い訳をしたりしている。

このように家内に話したりすると、
働らなくとも何とか生活できるのだから、有りがたいわ、
と笑ったりしている。

尚、我が家は自動車も持てず、携帯電話の使えない変わった家庭でもある。


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時流に取り残された我が家、ときには愛惜ある黒電話が懐かしき、微苦笑を重ね・・。

2011-09-25 09:00:02 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であり、
私達夫婦は子供に恵まれなかったので、我家は家内とたった2人だけの家庭であり、
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住んでいる。

恥ずかしいことを告白すれば、自宅に備えている電話機に関して、
私が定年退職した2004(平成16)年の秋まで、我が家は黒電話であった。

その直後、退職後の何かと多い手続きなどもある中で、
銀行の残高照会にしても、インターネット関係のプロバイダーの問い合わせをする際、
『一番から四番の・・何番を押して下さい』
と言われても、ダイアル式ては対応出来なかったのである。

やむなく困り果てて、遅ればせながらプシュホンの電話機に代えた。

プシュホンの場合、親子機にあったのを導入した。
家内は、この子機を戸惑いながらもマスターしたが、私はいまだにおぼつかない。

私が現役サラリーマンの時代は、1970年代が終る頃は、職場などではプシュホンの電話機であり、
一般の家庭に於いては1980年代の半(なか)ば頃までには、殆どプシュホンの電話機に変貌した。

この当時、悪友たちと居酒屋に行ったりし、何か気まずい話になると、
『俺の家・・まだ黒電話なんだ・・』
と私は云ったら、
『嘘だろう・・本当かょ・・』
と悪友の数人が私の顔を改めて見ながら、云われたりしたのである。
この後、お互いに和気藹々〈わきあいあい〉となり、互いに談笑を重ねたりした。

その後、定年退職後、やっとプシュホンの電話機とした後、
インターネットの回線に於いて、地元のケーブルテレビ回線から光ファイバーに変えた時、
電話回線もひかり電話とした。

たった1年で黒電話からひかり電話になったのは、単なるなりゆきである、と微苦笑したのである。

ただ、少しばかり寂しい気がしたのである。
何かしら黒電話のダイヤルを廻す時、相手方にこう話そうかと考え、
戻り時の感覚、状況が私達夫婦は好きである。


私の好きなセルジオ・レオーネ監督が映画の『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』1984(昭和59)年の完全版に於いて、
男主人公が友人を密告する際、ダイヤル式の電話機が使われていた。

友が連邦銀行を襲うとする時、友の女から、殺されるのは決まっているから、
やめさせて、・・と依頼され、
主人公が警察に密告する電話のシーンであった。
ためらいながら、ダイヤルを廻す、その後の呼び出す音・・。

このように長らく世界から愛用されたダイヤル式の電話機が捨てられ、
安易にプシュホンの電話機に変えられた社会風潮に、少しばかりわだかまりがあったりした。

我が家の取り外された黒電話機は、居間の棚の片隅に、ちょこんと載せている。
何かしら私達夫婦を30年近く見守ってきたので、心の形見と思いながら、ときおり私は見たりしている。


ここ10数年、社会は急速に携帯電話が普及し、今や子供さえ使用し、
しかしながら私たち夫婦は、携帯電話が使えなく、
この広い世の中で保有していない稀(まれ)な国民のひとりとなっている。

まして昨今、携帯電話はスマートフォン、パソコンはスマートパッドの時代になります、
と新聞、とか何かの雑誌で読んだりすると、遥か遠い世界のような出来事と思ったりしている・・。


我が家は子供に恵まれなかったので、我が家は夫婦2人だけの家庭である上、
私の現役サラリーマンの最後の5年間は、物流情報会社に出向となり、
職場では携帯電話を使用することのない勤務状況であったので、
携帯電話は無知となったのである。

昨今の年金生活に於いても、携帯電話に興味がなく、
もとより携帯電話の使い方も知らないが、不自由することなく今日まで至っている。

このような関係で、我が家の通信費は『ひかり電話』だけであり、
家内が独り住まいの家内の母に、殆ど毎夜、長電話しても毎月2000円以下で、
年金生活をしている夫婦の家庭の中で、最も安い家庭かしら、と微苦笑している。

しかし、私たち夫婦のどちらかが、ボケる前には、
迷子のように、私はどこにいる・・と確認できるGPS機能の携帯電話が必要と思い、
ここ半年ばかり新聞に添付されるチラシの一部に、携帯電話の各社の広告が入っているので、
ときおり私たちは見たりしている。


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『暑さ寒さ彼岸まで・・』と私は呟〈つぶや〉き、心の中で小躍〈こおど〉りしながらも・・。

2011-09-24 12:57:24 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であるが、
昨日は彼岸の『お中日』の秋分の日となり、お墓参りをしたりし、
熱かった夏の日々に別れを告げた。

そして古来の人たちから、暑さ寒さ彼岸まで、と伝えられているので、
確かにそうですよねぇ、と何よりも暑さに苦手な私は、微笑んだりした。

今朝は、穏やかな陽射しが射し込む中、
ぼんやりと地元の天気情報を見たりし、朝の6時は14度、昼下りは23度前後、
そして夜の6時は20度前後が予測され、
快晴の一日と、報じている。


私の住む地域は、この時節の秋日和に恵まれて、
やがて数多くの葉が朱紅色、黄色に染められる錦繍〈きんしゅう〉を迎えるまで、
エフコンの冷気、ガスファンヒーターのお世話になることもなく、
最も過ごしやすい季節と感じている。

こうした快適な中で、農業、果樹業の方たちが労苦の成果とした農作物、果物を頂いたり、
散策をしながら、ときには心の中で小躍〈こおど〉りし、秋の訪れから深まりゆく情景を享受し、
定年後の私は、毎年この時節を過ごしてきた。

或いはウォーキングで健康な汗を流したり、
夜になれば月を愛〈め〉でたりし、ときおり私の心の合わせ鏡のような心情で眺めたり、
鈴虫、こうろぎの健気〈りなげ〉な鳴き声を友とし、書物に熱愛してきた。


このように私は、この季節を享受してきたが、今年ばかりは複雑な心情である。
もとより過ぎし3月11日、東日本大震災、そして福島原発により、
巨大な大津波で余りにも多くの人たちが亡くなわれ、
被災された方たちが、明日の見えない生活を過ごされている。

こうした方たちの前では、無力な私は言葉もなく、
被害の甚大を知るたびに茫然と過ごしながら、平常心こそが大切である、
と自身に言い聞かせてきた・・。

私は5月中旬の北東北旅行をやむなく中止した分の半額を赤十字、
自治会でわずかな義援金を供出したぐらいで、恥ずかしい身であるが、
政治は混迷、経済は低迷、社会は劣化を深め、震災地の復旧・復興に関し、
日本経済の復興こそが、何よりも日本再生の道である、
と無力な私は心の片隅に思い続けている。

政府の首脳閣僚の諸兄諸姉の議員が、真摯で国益に合った政策を取れば、
やがては私たち多くの国民が享受できるので、
直面する税負担が多少増えようと、私は生活を切り詰めて我慢し、賛意をする。

私たち高齢者は、敗戦後からの一部の方を除き、誰しも貧乏な時代を知っている世代なので、
あの悲惨な時代を思い馳せると、
今日の難題が山積しているが、日本の多くの人たちが一時的に総集すれば、
乗り切り、明るい明日が見える、と信じているひとりである。

このようにことを初秋のおだやすな陽射しを受けて、
ぼんやりと私は思ったりしている。


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『秋分の日』、祖先を敬い、亡くなった人々を偲びながら、私たち夫婦はお墓参り・・。

2011-09-23 17:13:14 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であり、
まもなく67歳を迎える高齢者であるが、
今朝、曇り時々淡き陽射しとなり、おだやかな『秋分の日』の朝を迎えた。

この日は、『祖先を敬い、亡くなった人々を偲ぶ日』と称せられ、
私たち夫婦も、毎年この日は私の実家の長兄宅に行き、
長兄夫婦と他愛ない話をした後、お墓参りに行く。

その後は、お寺の境内、墓地は、『春分の日』と同様に、にぎわう日でもある。

私はお墓参りは、生者の死者に対する慰めと思ったりしているが、
生を受け、両親、祖父母、親族、祖先のお陰で、私がこうして生きているので、
感謝の意味から墓前にお線香、花をささげて手を合わしている・・。

このように、『春分の日』、『お盆の日』、この日の『秋分の日』、そして『母の命日』、
年にわずか4回ばかりであるが、私たち夫婦はお墓参りをしている。


このような心情を私は思ったりしているが、
今朝いつものように朝の9時半過ぎに、私の実家の長兄宅に行くと、
親戚の叔父さんが来宅されていて、
長兄は不意の用事で留守であったが、義姉と叔父さんをまじえて私たち夫婦の4人で談笑したりした。

叔父さんは私より10年齢上の77歳の方で、この地域で住んでいる代々農家のひとりであったが、
ここ40年前頃から植木業をしている人である。
こうした叔父さんであるので、私は地元の情景の変貌などを、
敗戦後の1945〈昭和20〉年から、私が地元の小学校を卒業した1957〈昭和32〉年頃まで、
話題にしたのであった。

私の育った地域は、田畑、竹林、雑木林など圧倒的に緑の豊かな地帯であったが、
都心のベットタウンとして、私の小学生の高学年に急速に住宅街に変貌していたので、
私の幼年期のおぼろげな記憶をたどりながら、
叔父さんの確かな視線と思情を頼りに、話題の中核とした。


一時間ばかり談笑を重ねた後、叔父さんも帰宅されたので、
まもなく私たち夫婦も長兄宅を辞した後、
私たち夫婦は小田急線の『狛江駅』から徒歩数分にあるお寺まで、
お互いに運動不足もあるので、20分ばかり徒歩の道を往復しょう、と歩きだした。

寺院の境内は、大きな樹木が数多くあり広い方であるが、ご家族連れが多く、にぎわう中、
私たち夫婦はお墓に向った。

お墓は過日の台風で葉が散乱し、少し清めた後、
墓石を水で清め、途中で買い求めた生前の母が好きだったお花を4束のお花が奉(ささげ)、
お米を備えた。
そして、お線香を奉げた。

お線香の紫煙が立ち昇る中、
祖先はもとより、祖父、父、母、次兄などから、改めて私は見守られて日々を過ごしている、
と私は感謝をしながら、手を合わしたりした。


こうした思いを重ねた後、母のおもかげがよぎっていった。

生前の母と家内は、ある程度の遠慮がお互いにあった上、
何かと心身の波長が合い、
私は家内、母に秘かに、今でも感謝している。

私の場合は、父が私の小学校の2年の時、
その数ヵ月後に祖父も死去されたので、何かと母の存在が多かった。

このためか、ときたま生前の母のちょっとしたしぐさ、
言葉づかいが想いだされる・・。

そして淡き陽射しの中、お線香の煙が芳香を残して、
青き空の中にゆったりと、立ち昇りながら消えていった・・。


この後、私は80代のご高齢のご夫妻を見かけ、
お互いに労〈いたわ〉りながら、お墓にお花を捧げている情景を見たりした。
このように人生を過ごされれば、と私は深く感じさせられた・・。


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山口百恵ちゃんの『いい日旅立ち』が街に流れていた頃、私は『L特急』の思い出と共に・・。

2011-09-23 00:13:01 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であるが、
一昨日の21日は台風15号で暴風雨の後、
昨日の22日は台風一過にふさわしく早朝から快晴となり、
買物担当の私は、いつものように午前中にスーパーに行ったり、そして散策をしたりした。

昼過ぎに自宅の居間で、ぼんやりとしていた私は、
ラジオから山口百恵ちゃんの『いい日旅立ち』の唄声が聴こえてきた・・。

この後、私は庭のテラスに下り立ち、煙草を喫いがら、微風が吹く中、
樹木や草花を眺めたりし、秋めいた情景に心身をゆだねたりした。


♪雪解け真近の 北の空に向い
 過ぎ去り日々の 夢を叫ぶとき

【 『いい日旅立ち』 作詞、作曲・谷村新司、編曲・川口 真、唄・山口百恵 】

先程、ラジオから流れていた歌が脳裏に残っていたせいか、
私は心の中で唄いだしたのである・・。


この歌は街に流れていたのは、 確か1978〈昭和53〉年の晩秋であったと思われるが、
JRの前身の国鉄時代の新宿駅で『いい日旅立つ』の歌が流れて、
私は中央線のプラットフォームで、快速の東京駅行きを待っていたのである。

この頃の私は、あるレコード会社に勤め、六本木の本社で情報畑で奮闘していた時代であった。
そして毎月20日過ぎの数日だけは、新宿駅から神田駅に行き、
日本橋ある情報処理会社にコンピュータ処理を委託していたので、通ったりしていた。

このような時、朝のラッシュ時に山口百恵ちゃんの唄声、或いはメロディーでよく流れていた・・。

♪帰らぬ人たち 熱い胸をよぎる
 せめて今日から一人きり 旅に出る
 ああ 日本のどこかに
 私を待ってる 人がいる

【 『いい日旅立ち』 作詞、作曲・谷村新司、編曲・川口 真、唄・山口百恵 】


私は前方に見える中央線の松本行きの『L特急 あずさ』の列車が、
始発前の車両6両ぐらいで待機している状況で勇姿を見せて、
多忙な私にとっては、平日にゆっくりと旅行に行けるのは夢のようなことであり、
羨望しながら見つめたりしていた。

この年の春に、賃貸マンションから思い切って一戸建てにした年であったので、
公私共々多忙な中、
住宅ローンなどを含めて一戸建ては、何かと出費が多く、私たち夫婦は悲鳴をあげながら、
この難局を何とかしなければ・・と家内はパートに出たりし、
お互いに奮闘したりしていた。

この年の前の2年間は、私たち夫婦は新婚生活を始めて賃貸マンションに住んでいて、
最初の夏季休暇の時は、『L特急』に乗車し、上野駅から長野電鉄に乗り入れた湯田中駅の終点で下車し、
その後は路線バスで志賀高原の奥地のホテルに2泊3日で行ったりした。

翌年も、『L特急』で新宿駅から松本駅で下車し、
その後は大糸線で簗場駅で下車し、青木湖の湖畔にあるホテルに2泊3日で滞在し、
周辺を散策したりした。


そして、家を建てた当年、殆ど生活に余裕はなかったが、
せめて夏季休暇の時ぐらいと、旅行会社のJTBの格安のパンフレットを見て、
蓼科高原の白樺湖の湖畔にある観光ホテルに2泊3日としたのである。
この時も、新宿駅から茅野駅まで『L特急』を利用した後、路線バスで白樺湖に行ったりした。


このような私たち夫婦は、ささやかな旅の思いでと共に『L特急』があり、
私はラッシュアワーで混んでいるプラットフォームに立ちすくんで、
前方に観える『L特急』の列車を眺めていたのである。

そして、いつの日にか、平日のゆっくりとした時に、『L特急』で旅行するのが、
夢のひとつであったが、
私の30代は、多忙と生活に余裕のない時期であり、叶うことがなかった。

その後の『L特急』列車は、優美な最新鋭の列車に変貌し、
中央本線は『スーパーあずさ』となったりした。

後年になると、たまたま『スーパーあずさ』を利用したが、
世の中の大きく変貌した為か、何かしら旅情が浅く感じられて、失望をしたりした。


私は、『いい日旅立ち』を聴いたりすると、『L特急』の列車が浮かび、
私の苦節の多かった30代の思いでと共に蘇(よみが)り、
年金生活となった今、なぜかしら愛惜を深めたりしている。


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東京郊外の鈴虫、こうろぎ、めまぐるしい天気に戸惑いながら、ときおり鳴き・・。

2011-09-22 18:44:14 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であり、
私達夫婦は子供に恵まれなかったので、我家は家内とたった2人だけの家庭であり、
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住んでいる。

ここ三週間ばかり鈴虫とこうろぎの2部合唱が、早朝、夕暮れ、夜の3度ばかり鳴いている。

昨夕は台風15号の暴風で、元気だった鈴虫とこうろぎは、
もう駄目よ、と雨宿りして、
鳴くより、風を避けて、雨に濡れるのは、ご免よ、といったように鳴き声も途絶えた・・。

その後、夜の9時過ぎになると、雨は上がり風もときおり吹く中、
鈴虫とこうろぎは、盛大に鳴きはじめて、今鳴かなくていつ鳴くの、というように、
健気〈けなげ〉に鳴いていた。


今朝は早朝から澄み切った青空となり、雲が5つばかり浮かぶ快晴を迎え、
鈴虫とこうろぎは、どうしてこうなるの、と驚いたせいか、
或いは夜通しで鳴き疲れたのか、鳴くのも忘れたりしていた。

その後、昼下がりの2時過ぎ、にわかに黒い雲が空いっぱいに変貌し、
まもなく小雨が降りだし、
鈴虫とこうろぎは、戸惑いながら鳴き、その後に本降りになる雨宿りし、鳴き声も途絶えた・・。

齢ばかり重ねた私は、昨夕から本日の夕方まで、
めまぐるしい天気の変貌に戸惑ったりしてきたが、鈴虫とこうろぎも同じような心情かしら、
と微苦笑させられている。


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高齢者2年生の私、秘かに『お気に入り』で7年間ばかり、愛し続けているサイトは・・。

2011-09-21 22:53:25 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身でありるが、
自宅でインターネットを開通させたのは、2004〈平成16〉年の秋に定年退職の数ヶ月前であった。

私はコンビュータのネットに関する参考書を購入して、
Webの世界の若葉マークとなり、ネットで魅せられたのを『お気に入り』に登録したりするが、
半年か一年も過ぎると、殆どが飽きて、『お気に入り』から削除するのが圧倒的に多い。

このように退職後の丸7年を秋に迎えようとしているが、
私が秘かに愛し続けているサイトがあり、自身としては稀(まれ)なケースとなっている。

ある歌の歌詞を知りたくて、色々と検索して偶然に知ったサイトであるが、
ときおり学び、心の洗濯かしら、と心の中で歓声したりしている。

【 なつかしい童謡・唱歌・わらべ歌・寮歌・民謡・歌謡 】
と題されたサイトで、数多くの名曲の歌詞が掲載されている。

http://www.mahoroba.ne.jp/~gonbe007/hog/shouka/00_songs.html

私は曲名が解かっても、歌詞を忘れたりすると、『50音順索引』を利用し、
歌詞の内容を思い出したり、
或いは初めてこの歌詞の最後まで知り、こうした詞だったの、と教示されたりしている。

そして、曲名が不明であるが、確かこの歌の、歌いだしは・・
このような場合は、『歌い出し索引』にお世話になっている。

私は歌に関し、現役時代のサラリーマンの時でも、
人前で唄うカラオケは苦手で、やむなく唄ったりしてきたが、
退職後の今は鼻歌を人影の少ない遊歩道や家の中で唄ったり、心の中で唄うことが多い。


どなたも同じと思われるが、
その時代に街に流れていた歌の流行(はやり)歌と共に、
その当時の自身が甦(よみが)ったりするので、私の微苦笑することが多いのである。


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列島を縦断するような台風15号、私は憂いながら、現役時代の通勤時を思い馳せ・・。

2011-09-21 09:55:58 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であるが、
古びた一戸建てに住んでいるが、
一昨日の19日の夜から、台風15号の影響で小雨が降ったり止んだりしている。

この間、私は台風情報に関しては、何よりもNHKのテレビの台風情報を頼りにし、
何かと注視している。

今回の台風15号は、暴風域を保ったまま時速60キロまで速度を上げ、列島を縦断する可能性があり、
既に九州、四国、近畿、東海各地方で多量の雨になっており、各地で氾濫し、
愛知や兵庫などで約3000人に避難指示、約122万人に避難勧告が出ている、
と知り、無力な私はお気の毒にと憂いたりしている。

そして漁業、農業、果樹園、運送などに携わる方たちはもとより、
対策される道路、鉄道、消防、警察などの関係者は労苦が多く、
特に災害救助に対応される自衛隊の諸兄諸姉も職務といえ大変だ、と見守っている。

私の住む地域は、午後6時前後に豪雨と強風が予測され、
私は現役時代は都心にある職場に通ったサラリーマンのひとりであったので、
働いて下さる現役の諸兄諸姉は、退社時、帰宅の途中と思われ、
お気をつけて無事に自宅に、と思ったした。

このように朝の7時のNHKのテレビの台風情報を視聴した後、
思ったりした。


この後、玄関の軒下で小雨が降り続いているのを眺めたり、
門扉の前の歩道に通勤されるサラリーマン風の男性のふたりを見かけた後、
都心の郊外の地域から会社まで、余り濡れないで無事に、
と私は年金生活で自宅に居られるので、瞬時に感じたりした。

このような情景を見たりしたせいか、私の現役時代の台風の時、
通勤していた時の状景が思いだされた・・。


確か15年前頃、朝、目覚めると風が強く吹いて、雨は強く降っていた。

こうした時はバス、電車は通常通りの運行期待する方が無理なので、
何時もより30分早めに家を出たりした。

勤務先の最寄駅までは順調であったが、
会社までの川沿いの幅広い遊歩道を歩いていた時、
風は相変わらず強く、雨は横殴りとなっていた。

会社に着いた頃は、10分足らずの道のりであったが、
スーツのズボンは膝頭から足元、靴はびっしょりと濡れた。

私は自分の席に着いて、ハンドタオルで拭いて、
この後、洗面所に行き、身支度を整え、
そしてフロアーの通路にある自動販売機でお茶缶を買い求め、
窓辺に寄り、川沿いの遊歩道を見下ろした。

前方の対岸は、なだらから丘陵となっている斜面に、
数多くの小さなビル、商店街、そして住宅街から雨水が、
道路際の排水溝、路上から流れていたので、
川の側面にある1メートル前後の大きな排水口は、瀧のような川になだれ込んでいた。

川べりの遊歩道の樹木の枝葉は、強く風を受けて、しなっている。

私は、台風の直撃かしら、と感じながら、煙草に火を点(つ)けた・・。

そして席に座り、業界紙を読み始めた。

始業時の25分前だった。

15年前頃の職場の状景としては、私のように振舞う人が、各部署で数人はいた。


退社後の台風の時、鮮烈な記憶のひとつとして、
私が31歳の時で、東京都と千葉県の間に江戸川が流れ、
川沿いの千葉県側の京成線の国府台駅の近くの賃貸マンションに住み、新婚生活を始めた年だった。

この当時は会社の最寄駅は六本木であり、
地下鉄で『六本木』から『東銀座』、その後は『押上』から『青砥』、そして『国府台』まで、
通勤時間は自宅から45分ぐらいであった。

夜9時過ぎに退社後、京成線の『青砥』駅までは平素より多少は混む程度であったが、
この先の千葉県のある箇所の線路に倒木があり、
『新小岩』駅まで行けるが、その先は不通となった。

やむなく私は、『新小岩』駅で下車して、
JRの『小岩』駅までの未知の歩道を、雨が激しく降る夜道を15分ばかり歩いた。

そしてJRの『市川』駅で下車した後、風が強く吹く豪雨の中、
傘を差しても余り効果がないねぇ、と零〈こぼ〉しながらも
新妻の待つ我が家に20分ばかり歩いた。

もとよりスーツ、靴、そしてビジネス・バックはズブ濡れとなり、
何とか自宅にたどりついたが、
家内は、私の全身シャワーを浴びたような容姿に、
驚きながらも笑いだした・・。

このような台風の通勤、退社後、ささやかな思いでを私は秘めている。


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