夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

【YouTube】、私が圧倒的に感銘させられた音楽の映像作品は、『X JAPAN』 の・・。

2011-03-31 18:51:03 | 音 楽
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であるが、
日常の私は、買物と散策をする以外は、殆ど読書をすることが多く、
ときには居間で映画を鑑賞したり、音楽を聴いたりしている。
そして日々感じたりしていることを心の発露として、文章に綴り、
このサイト等にほぼ毎日投稿している。

たまたま若き頃に、映画・文学青年の真似事をした体験もあり、
小説、随筆、歴史書、現代史など本は5000冊前後、
ビデオ・DVDの映画作品は1000本前後ある。
そして現役時代に音楽業界のある会社に35年ばかり勤め、製作畑ではなく、
管理畑の片隅に勤めていたが、少しづつ買い求めた結果として、カセット、CD、DVDも3000枚前後ある。


午後のひととき、パソコンで【YouTube】を開き、色々な曲を視聴していたのであったが、
久しぶりに私の好きだったハードロック・グループの『X JAPAN』を数曲を視聴し、
偶然にある投稿された作品を視聴して、私は動顚させられながらも、
視聴後はここ4年ぐらいの【YouTube】の音楽の映像作品として、最もを感銘させられた・・。

投稿者の方は、X JAPANの名曲のひとつ『Rusty Nail 』を採り上げて、
1997年の大晦日に東京ドームで行われたLAST LIVEの音声で、
これまでの1994年~2008年のLIVE映像から、構成力のある編集がされ、
優れた感性のある作品となっている。

1997年の解散時を現在とたとえるならば、過去への1994年まで、
そして再結成の2008年と、小説の作品をみられるように、回想の取り入れ方に技巧があり、
私は動顚させられたのである。

そして私は、この投稿者された方の確かな熱情を感じ、圧倒されたのである。

私はこの間の1994年~2008年のLIVE映像に関しては、
1997年の大晦日LAST LIVEまでのビデオテープ、DVDの映像作品、
そして音声のCDは殆ど所有してきた熱愛者のひとりであったが、
今回、この投稿された《bonjovijova》方に、脱帽した。

66歳の私が感銘受けた作品を添付させて頂くが、
もとよりハードロックの作品で音量が大きいので、再生にはご配慮の程を。

http://www.youtube.com/watch?v=zfzv8-gT7FM&feature=related
☆【X JAPAN】の『Rusty Nail 』 (Live Digest 1994-2008) ☆

尚、私は遅ればせながら『X JAPAN』を知ったのは、53歳頃からであり、
この後の数年間は、物狂いのように熱愛し、殆ど毎晩CDで聴いたり、
ビデオテープ、DVDの映像作品を視聴したりした。
そして定年後の今でも、ときおり聴いたりし、このサイトにも投稿している。


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震災後、東京郊外に住む私は、ときには『埴生の宿』の歌を聴きながら、うつろな心の慰(なぐさ)め・・。

2011-03-31 12:43:03 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であるが、
過日の11日に発生した観測史上最大の地震の東日本巨大地震に伴い、
大津波が発生して壊滅的な大惨事を、テレビでNHKニュースを視聴したり、
新聞、ネットでニュースを読み、各地域で甚大な災害に、知るたびに驚嘆している・・。

その上、福島第一原子力発電所で事故が発生、その後も相次ぐ事故に関して、主要国の方まで注視された。
そして、私は恐れていた周辺の一時避難、その上に農作物、水の汚染などに影響をもたらした。

この間、大惨事の被災した地域で、亡くなわれるた方が日ごとに増え、
私はただ呆然としながら、犠牲者の多数に悲しみに、ときおり黙祷をしたりしている。

こうした中、もとより被災された方たちの前に於いては言葉もないが、
私は、度(たび)重なる余震におびえたり、
電力不足が予測されるので、東京電力による『計画停電』が実施され、
対象地域、時間による停電が行われ、平常心こそ何よりも肝要であると思いながら、
落ち着かなくうつろな日々を過ごすことが多い・・。


私はここ2週間ぐらい近くの小公園の落葉樹の芽吹きに、
そして櫻の莟(つぼみ)も大きく膨らんだ情景に見惚(みと)れたりしたが、
何かしら社会の空気が大きく変貌したのを感じ、
ときおりぼんやりと過ごすこともある。

先ほど、居間にある音楽棚から一枚のCDを抜き取り、聴き入っていた・・。
『思い出がいっぱい』と題された、どなたでもご存知のクラシックの名曲のアルバムである。
この中のひとつに、ビショップ作曲の『埴生の宿』を聴いていた時、
ソプラノの歌手の唄声を聴きながら、思わず胸が熱くなり、涙がこぼれそうになったのである。

私の心の底には、大津波で被災され、避難所の生活を余儀なくされた人たち、
福島第一原子力発電所で相次ぐ事故で、一時避難された周辺の住民の人たち、
昨年までの春先であったならば、
たんたんと苦楽を共にしながら過ごされ、春到来の情景に心を寄せていただろう、
と思いを重ねていたのである。

私は齢ばかり重ねた無力な身で、ときにはこうした思いで午前のひとときを過ごしたりしている。


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日本の『原子力行政の組織』、無知な私さえも不可解と感じ、国民より信頼される原発体制の構築を・・。

2011-03-30 22:45:37 | 時事【社会】
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であるが、
今朝、いつものように読売新聞の朝刊を読み、
11面に掲載された【基礎からわかる原子力発電 《上》】の記事を読みながら、
少し原子力発電について解かりかけた拙(つたな)い身である。

そして左側には、『行政のしくみは』と題されて、
『原子力行政の組織図』が明示されて、恥ずかしながら私は初めて学んだのである。
そして、解説された記事を精読した。

無断であるが、転記させて頂く。

《・・
原子力エネルギーは、どんな役所や組織が担ってきたのだろうか。

長期的な視野で原子力の開発・利用計画を立案する司令塔は、『原子力委員会』。
首相が任命した5人の委員と54人の専門委員らで構成され、
10年先までの行政の基本方針となる原子力政策大綱を作る。


原発の安全規制を担うのは、『原子力安全委員会』だ。
原子炉や耐震構造などのエキスパート約400名を抱える。
事故への対策や放射性物質の拡散範囲を予測、
首相に助言できるなど、強い権限を持つが、今回は情報発信力の弱さが目立つ。

本来なら専門家集団として事故の概要を説明し、
国民の不安を解消する役目を担うが、
記者会見を開いたのは、事故から12日後の23日で、
「信頼できる情報を発信できていない」などと批判された。


以上、内閣府として、、『原子力委員会』、『原子力安全委員会』を所轄している。


一方、経済産業省には、運転中の原発を監督する『原子力安全・保安院』があり、
商業用原発などを定期検査している。
今回のように、緊急事態が発生すれば、
首相が【原子力緊急事態宣言】を出し、自らをトップとする【原子力災害対策本部】を設置する。

また、高速増殖炉「もんじゅ」を開発する『日本原子力研究開発機構』など
次世代炉の研究を進める組織があり、
これらの外側に電力会社、原子炉の製造メーカーなど、
多様の企業が存在し、巨大なネットワークで原子力を支えている。

・・》


『原子力行政の組織図』として、
内閣府として、『原子力委員会』、『原子力安全委員会』を所轄し、
この下段には、
関係省庁として、文部科学省、経済産業省の『資源エネルギー庁』、『原子力安全・保安院』があり、
電力会社などの規制・審査権の権限を保有している。

私は最近『原子力安全・保安院』という存在を知ったのである。
ネットで検索すれば、
《・・経済産業省の一機関であり、法令上の位置付けは「資源エネルギー庁の特別の機関」とされる。
東京都千代田区霞が関の本院の下、
地方機関として、全国の所要の地に産業保安監督部、原子力保安検査官事務所などが置かれている。

そして、原子力、電力、都市ガス、高圧ガス、液化石油ガス、火薬、鉱山関係の施設や
産業活動の安全規制、保安を所管し、
これらの施設に対しては必要に応じて、立入検査、報告徴収、改善命令等を行うことができる。

2008年の年間予算として、376億4000万円で、
人員は803名(本院・443名、監督部等・360名)
・・》
と明記されていた。

そして、この上の上部機関として、経済産業省の『資源エネルギー庁』があり、
《・・
石油、電力、ガス、原子力などのエネルギーの安定供給政策や省エネルギー・新エネルギー政策を所管する
日本の経済産業省の外局のひとつ。
経済産業省が所管する独立行政法人のうち、資源エネルギー庁が担当部局となっているものは以下のとおりである。

日本原子力研究開発機構
石油天然ガス・金属鉱物資源機構

資源エネルギー庁の任務として、
(1)鉱物資源やエネルギーの安定的かつ効率的な供給を確保すること
(2)鉱物資源やエネルギーの適正な利用の推進を図ること、
(3)産業保安を確保すること、が規定されている。
なお、産業保安に関しては、特別の機関として付置されている原子力安全・保安院の任務とされる。
・・》

このようなネットで検索た後、改めて『原子力行政の組織図』を見ると、
たとえが悪いが、官庁が既得権限を拡大して、『資源エネルギー庁』、『原子力安全・保安院』等が、
存在し、強い権限を持っている、と私は感じたのである。


しかし、今回の東電の福島第一原発の大惨事は、
福島第一原発の一部の欠陥を知りながら、なだめるように余りにも長く活用してきたので、
安全性より採算性を優先してきた、と私は確信を深めている。
その上、発生後の『初動ミス』も加わり、
付近の住民は避難された上、農作物、水の汚染まで波及された。
そして、原発の安全神話も崩壊させ、主要国の原発の保有国はもとより、
世界の多くの人たちさえも震撼させた・・。

このような惨事となったのは、特に原子力の活用は安全性が最優先されることであるが、
安全性を軽視し、採算性ばかり配慮し、慢心に陥(おちい)った原子力安全・保安院の上層部と、
東電の首脳部の方たちの罪は重い、と私は感じている。


こうした思いで、再び『原子力行政の組織図』を見ると、
内閣府としての『原子力安全委員会』、そして関係省庁の『原子力安全・保安院』等、
規制・審査されている電力会社の東京電力が、
酷評すれば、全く有機的に動いていない上、安全といわれたきた原発の神話を崩壊させ、
日本の国民はもとより、世界の多くの人たちさえも震撼させた。


今回の大惨事の教訓とし、欧米諸国の原子力行政を謙虚に学び、
抜本的に現在の『原子力行政の組織』を見直し、廃棄させ、
利害のない第三者による原子炉や耐震構造などのエキスパートを結集させた完全独立した機関を新設し、
強い権限により、国民に信頼できる原発体制の構築が急務である、
と原発に無知な私でも、感じ始めている。


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国、東電は福島第一原発の一部の欠陥を黙認し、安全性より採算性を優先してきたのか、と私は思い・・。

2011-03-30 00:04:52 | 時事【社会】
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であるが、
先ほど、ニュースを見ようとして【YAHOO! JAPAN】を開き、
たまたま【雑誌】コーナーの記事のひとつを読み、
国、東電は福島第一原発の一部の欠陥を黙認し、安全性より採算性を優先してきたのか、
と私は動顚させられた。

この記事は、『週刊朝日』が 3月28日(月)に配信され、
《 原発元設計者が米メディアで告白 「原子炉構造に欠陥あり」》
と題された記事であり、
『週刊朝日』の堀井正明、三嶋伸一、大貫聡子、永井貴子、今西憲之、シャノン・ヒギンスの各氏が、
取材し纏められた記事である。

無断であるが、記事の大半を転載させて頂く。

《・・
          原発元設計者が米メディアで告白 「原子炉構造に欠陥あり」

                      週刊朝日 3月28日(月)17時27分配信

福島第一原子力発電所の原子炉には、重大な欠陥があった--。
爆発事故を起こした原子炉の設計にかかわった日米の元技術者が、そろって証言を始めた。

経済性を優先するあまりに小型に造ったため、
冷却システムなどに余裕がなく、地震や大規模停電になると爆発しやすいという。
今回の地震では、まさにその心配が現実になった可能性が高い。


現地時間で3月15日、米CNNが、
米国を代表する原子炉メーカーであるゼネラル・エレクトリック(GE)の元エンジニア、デール・ブライデンボー氏のインタビューを放送した。
白髪に白いひげをたくわえたブライデンボー氏は、悲痛な表情でこう語った。

「福島原発の事故は、私たちが想定したシナリオよりもはるかに悪い。
このままだと、何千もの命が失われる可能性がある。
それが怖くてたまらない」

遠い米国で、なぜ米国人に福島のことがわかるのか? 
実は、ブライデンボー氏は福島第一原発の1~5号機で使われているマーク1型原子炉の原設計をした人物だった。
(※型の数字はローマ数字、以下同)


今回、最初に水素爆発を起こした1号機は、日本製ではない。
1号機の建造が始まった1960年代、日本はまだ自力で商業用原子炉を造っていなかった。
このためGEが造った。

このあと2号機はGEと東芝が共同で建設し、
3、4号機になってようやく東芝や日立製作所が主体で造った。
炉心損傷を起こしている1~3号機はいずれも、GEの設計を基にしたものなのだ。

そしてブライデンボー氏は在職中から、
このマーク1の安全性に疑念を抱き、1975年に同僚2人とともにGEを退職すると、
米原子力規制委員会と共同戦線を張ってマーク1の製造中止を訴えてきた。
この3人は、いまでは「GEスリー」と呼ばれている。


前出の番組でブライデンボー氏はこう語っている。

「マーク1は大規模事故に耐えうるようには、設計されていません。
冷却システムがギリギリの容量で設計されているため、
電力供給が途絶えて冷却システムが止まると、爆発を起こす危険性がある。

使用済み核燃料の貯蔵プールも、最新型のように自然に冷やされるタイプではないため、
電気が切れるとすぐに温度が上がってしまう」

福島でも地震で冷却システムが止まり、
1、3号機はいずれも格納容器の圧力が高まった。
使用済み核燃料の貯蔵プールの温度が上がり、消防車などで必死に水をつぎだした。

まさに氏の指摘どおりだ。
一体、このマーク1とはどんな原子炉なのか。


「マーク1が欠陥を抱えているとの米国での指摘は、当時から知られていました。
格納容器全体の容積が小さいため、炉心部を冷却できなくなって、
圧力容器内の蒸気が格納容器に抜けると、格納容器がすぐに蒸気でパンパンになってしまう。
最悪の場合は格納容器が破裂してしまう心配がありました」

こう説明するのは1968年から1977年まで日立製作所の関連会社「バブコック日立」に勤務し、
福島第一原発4号機の圧力容器などの設計に関わった田中三彦氏だ。

圧力抑制プールを含めたマーク1の格納容器の容量は、
新型の「マーク3」の4分の1程度しかない。

「今回、津波による電源喪失などで、炉心冷却システムがすべて動かなくなったことで、
格納容器が破裂しそうになりました。
1号機の格納容器が8気圧になったのがそれを物語っています。
運転中の格納容器は中の気体が、外へ出ないように1気圧よりもすこし低くしており、
設計上も約4気圧までしか耐えられないので、ものすごく大変な事態でした」(田中氏)


このため東京電力は、格納容器にある「ガス放出弁」を開けて、
容器内の圧力を下げざるを得なくなった。
そしてこの弁こそ、ブライデンボー氏が会社人生をかけてまで求めたマーク1の安全対策の一つだった。

「80年代後半、私の訴えの一部が認められ、
圧力を逃すガス放出弁を取り付けることが、義務づけられました」(ブライデンボー氏)

ガス放出弁がなければ今回、早い段階で格納容器が爆発しただろう。

しかし皮肉にも、このガス放出弁から出た放射性物質を含む蒸気のために、
原発周辺の放射線濃度が上がり、作業員らが被曝している。

さらに、炉内で発生した水素ガスも蒸気と一緒に出て、
1号機と3号機で水素爆発を起こし、建屋を吹き飛ばした。


マーク1の欠点はこれだけではなかった。
再び、田中氏が証言する。

「圧力容器に付属する再循環ポンプは、重さが数10トンもあるのに支えが不安定で、
大地震時に再循環系の配管が壊れないかが、よく問題になってきました。
もし壊れると、ここから冷却材が格納容器へ噴き出し、『冷却材喪失事故』という悪夢になってしまうからです」

再循環ポンプは、原子炉内に発生する気泡を取り除くためのもの。
最新型では圧力容器内にあるが、福島原発のような古い型では、圧力容器の外にある。

「格納容器の圧力の上がり方、水素爆発の起こり方などから推測すると、
とくに1、3号機では今回、冷却材喪失事故が起きたように思えます」(田中氏)

国はこれまで、格納容器の欠点に、どれだけ向き合ってきたのだろうか? 

「ガス放出弁について当初は
『そんなバカな。
格納容器は放射性物質が外に漏れないようにするものだ』
としばらく検討していました。
設置されたのは1990年代に入ってからでした」(同)


そもそも、40年以上前に設計された原子炉を、今も使っていること自体どうなのか。
田中氏は言う。

「日本の原発には、法的な寿命がありません。
設計者は耐用年数を40年としてきました。
1号機は40年を過ぎていますが、日本は米国をまね、
1990年代に入って最長60年まで使えるとの見解を示しました」

マーク1のコンパクトな設計については、ロシアの専門家は、
「安全性よりも、経済性を優先した結果ではないか」
と、指摘している。

ブライデンボー氏もCNNのインタビューで、こう話す。

「社員だった当時、上司にマーク1の廃炉を嘆願すると、
上司は『そんなことをしたら、わが社の原子炉部門だけでなく、
会社自体がなくなってしまう』
と聞き入れられなかった」


被災から11日後の22日に、福島原発にはやっと電源が回復し、温度計が復活した。
1号機の圧力容器の温度が設計限界の309度を超える400度だったことがわかり、
東電はあわてて炉内への注水を増やすことにした。

しかし、注水を増やすと、それによって発生する蒸気で、圧力容器内の圧力が格納容器に抜けて、
再び格納容器が爆発する危険が高まることになる。

小さかった格納容器という欠陥が、今も福島原発を苦しめている。

(略)
・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。


この後は記事は、11日の震災直後の状況が、現場作業員の視線から、克明に証言している。
地震が発生して、東電の方、警備員、関係会社、現場作業員たちが逃げ惑う中、
この直後に、津波が原発に襲いかかり、
《・・これで福島第一は終わりだ、あのボロい原発が倒壊して、放射能が漏れたらどうなる--
と思うと、背筋がぞっとした。・・》


この記事を読み終わった後、
福島第一原発の1~5号機で使われているマーク1型原子炉の原設計をしたブライデンボー氏が、
明言した、
《マーク1は大規模事故に耐えうるようには、設計されていません。
冷却システムがギリギリの容量で設計されているため、
電力供給が途絶えて冷却システムが止まると、爆発を起こす危険性がある。
・・》

その後、格納容器の欠点を補(おぎな)うために、ガス放出弁が設置されたのは1990年代とされている。

何より1968年から1977年まで日立製作所の関連会社「バブコック日立」に勤務し、
福島第一原発4号機の圧力容器などの設計に関わった田中三彦氏の発言の、
《・・「日本の原発には、法的な寿命がありません。
設計者は耐用年数を40年としてきました。
1号機は40年を過ぎていますが、日本は米国をまね、
1990年代に入って最長60年まで使えるとの見解を示しました」・・》

こうした中で、《・・マーク1のコンパクトな設計については、ロシアの専門家は、
「安全性よりも、経済性を優先した結果ではないか」
と、指摘している。・・》

この証言などを読み、安全性よりも、採算性を優先した結果ではないか、私は動顚したのである。

東京電力は福島第一原子力発電所などを管轄し、もとより電力全般に関して日本の指定された多地域を
独占した巨大企業である。
敗戦後から今日まで、たえず電力は増加の一途となりながらも、技術革新など安定した供給、
程ほどの価格で提供してきた公共民間企業としての責務を果たしてきた電力会社である。

しかし、11日の震災後、大津波が発端となり、相次ぐ福島第一原発の事故に関し、
無知な私でも数多くの記事を読んだのであるが、
いつの日から東京電力の首脳部の方たちは、
公共民間企業として、たえず利益も求められ経営基盤の責務も配慮した上であるが、
あたかも利益優先で、肝要の電力安定基盤の責務に対して、
謙虚さを失い、傲慢と慢心に陥(おちい)ったのか、と感じてきたのである。

そして今回の記事を読んだ後、福島第一原発の一部の欠陥を知りながら、
なだめるように余りにも長く活用してきたので、
安全性より採算性を優先してきた、と私は確信を深めている。


恥ずかしながら、私は最近『原子力安全・保安院』という存在を知ったのである。
ネットで検索すれば、
《・・経済産業省の一機関であり、法令上の位置付けは「資源エネルギー庁の特別の機関」とされる。
東京都千代田区霞が関の本院の下、
地方機関として、全国の所要の地に産業保安監督部、原子力保安検査官事務所などが置かれている。

そして、原子力、電力、都市ガス、高圧ガス、液化石油ガス、火薬、鉱山関係の施設や
産業活動の安全規制、保安を所管し、
これらの施設に対しては必要に応じて、立入検査、報告徴収、改善命令等を行うことができる。
・・》
と明記されていたので。
まぎれなく国の原子力に関しての監督機関である、と私は解釈したのである。

こうした多大な権力と責務のある方たちが、今回の福島第一原発の一部の欠陥、
そして老朽化に黙認してきたか、私は不思議なのである。

原子力の維持管理はもとより、今後のエネルギーの総合施策を根幹を立案される英知の方たちが、
専門家として、まさか見逃してきた、とは園児と同様なので、私は考えたくない。


今回の原発の事故は、新聞、テレビのニュースなどで周知の通り、
付近の住民は避難された上、農作物、水の汚染まで波及された。
そして、原発の安全神話も崩壊させ、主要国の原発の保有国はもとより、
世界の多くの人たちさえも震撼させた・・。

このような惨事となったのは、特に原子力の活用は安全性が最優先されることであるが、
安全性を軽視し、採算性ばかり配慮し、慢心に陥(おちい)った原子力安全・保安院の上層部と、東電の首脳部の方たちの罪は重い、
と私は感じている。


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原発修復の最前線の人たち、いつもの時代でも、現場の方は悪戦苦闘が日々が続く、と私は深く感じ・・。

2011-03-29 09:18:46 | 時事【社会】
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であるが、
今朝、いつものように読売新聞の朝刊を読んだりした。

そして何よりに精読させられたのは、2面にある
《 原発修復、極限の数百人 》
と大きく見出しされた記事であった。

記事を読み終わった私は、
今回の記事は、たまたま原発修復の最前線の人たちであり、
過酷で危険性のある中、社会生活に多大な影響のある原発修復の重圧に戦いながら、
東京電力の社員はもとより、多くの協力会社の作業員、技術者の方たちは、
悪戦苦闘をされ、疲労困憊で極限状況である、と改めて知ったのである。

この記事の要約は、読売新聞の基幹ネットの【YOMIURI ONLINE】でも掲載されているので、
無断であるが、転載させて頂く。

http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20110329-OYT1T00091.htm?from=top
☆【YOMIURI ONLINE】<==《原発修復、極限の数百人…1日2食、雑魚寝 》☆


私は今回の福島第一原子力発電所で事故が発生、その後も相次ぐ事故に関しては、
東京電力の首脳部の方たちの慢心と事故の発生後の『初動ミス』が思いながら、
このサイトに一昨日の27日に於いて、
【 いつから東電の首脳部は謙虚さを失い、傲慢と慢心になり、世界の原発の利用者の人々に震撼させたのか・・。】
と題して投稿したりした。


そして東京電力の社員の最前線にいる状況の記事を読み、3月26日に於いて、
【 『心身共に極限まできている・・でも私たちは最後まで戦う・・』、私は配信記事を読み思わず・・。 】
と題して投稿したりした。


こうした私なりの思いがあるので、首脳部の方たちの上層部の指示に基づいて、
もとより最前線の現場の方たちは、業務を遂行する職責があるので、
いつもの時代でも、社員はもとより、特に多くの協力会社の作業員、技術者の方たちは、
悪戦苦闘をされ、疲労困憊になるケースが圧倒的に多い、と感じたのである。

私は現役時代は、中小業の民間会社に35年ばかり勤めた身であり、
ささやかな悪戦苦闘を繰り返し体験をしてきた。

もとより今回のような危険はなく、社会生活に多大な影響のある重圧の責務とは違うが、
抜本的なシステム開発の時などで、
徹夜をしたり、数時間だけ自宅に帰宅したり、
或いは夜明け前に、コンピュータ・ルームの近くの片隅で、床に段ボールを敷いて、少しまどろんだりしたことが、
何百回も体験してきたことがある・・。


そして何よりも、敗戦後の日本において、経済復興、躍進にあらゆる分野で、
最前線の現場の方たちは、業務を遂行する職責の中、
悪戦苦闘をされ、疲労困憊になりながらも何とか達成してきた数多くの事例を、
私はわずかながら学んできたので、
こうした思いを重ねて、この記事を深く読んだりしたのである。


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小沢一郎元代表は国難に対する協調解決よりも、党内の確執ある権力闘争をされるのか、と私は感じ・・。

2011-03-28 19:26:41 | 時事【政治・経済】等
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であるが、
先ほど、ネットでニュースを見ようと、
時事通信社の基幹ネットの【時事ドットコム】を開き、

《 原発事故「明確な話避けてた」=政府、東電を批判-小沢氏 》

と題いされた記事を読んだりした。

この後、政治にも疎(うと)い私は、
しばらく考えされた後、
小沢一郎元代表は、国難に対する具体的な協調解決よりも、
やはり党内の確執ある権力闘争をされるのか、と私は感じてしまったのである・・。

無断であるが、今回の記事を転載させて頂く。

《・・
        原発事故「明確な話避けてた」=政府、東電を批判-小沢氏

民主党の小沢一郎元代表は28日午前、東京電力福島第1原発の事故に関し
「原子力の溶融がずっと前から指摘されていたが、
原子力安全・保安院、東電、内閣は明確な話を避けてきた」と述べ、
政府や東電の対応を厳しく批判した。

岩手県庁で達増拓也岩手県知事と会談後に記者団に語った。

小沢氏は、現在の事故対応について
「思い切った手だてなしに(原発に)水を入れる、バルブを開けることを繰り返せば、
放射能は広範囲に飛散し、汚染が広まることがある」と疑問を呈すとともに、
「(政府は)国民、地域の皆さんに正直に話をして、
理解を求めた上で、思い切った作業をするべきだ。
このままずるずる行ってしまうと日本全体がめちゃくちゃになる」と強調した。

(2011/03/28-13:07)
・・》
注)記事の原文にあえて改行をした。


私は素直にこの記事を読み、
やはり政治の世界で長年に及び重責あるボストを歴任された小沢一郎元代表は、
まことに正鵠のある指摘をされた、と私は感じた。

しかし、この後、私は最近の小沢一郎元代表の言動を、
少し新聞などで読んだ限りであるが、
少しボケた私でも、おかしいことを発言される、と感じた・・。


読売新聞の基幹ネットの【YOMIURI ONLINE】に於いて、を開き、
2011年3月18日16時49分に配信された記事、
《・・
     小沢氏「政府・東電は正しい情報を迅速に」

民主党の小沢一郎元代表(衆院岩手4区)は、
東日本巨大地震と東京電力福島第一原子力発電所の事故を受け、17日付の自らのホームページで、
「政府・東京電力に対し、正しい情報を迅速に公表することを強く求める」と、
政府などの情報公開が不十分だとする見解を表明した。

地震による被害について、
「戦後の荒廃期に匹敵するほどの危機的状況」と指摘し、
「日本国民は有史以来、幾多の国難を乗り越えてきた。
今こそ私たちは勇気と英知を結集し、この危機を乗り切らなければならない」と呼びかけた。
・・》


この後、私の知る限りに於き、
やはり読売新聞の基幹ネットの【YOMIURI ONLINE】に於いて、を開き、
2011年3月19日15時24分に配信された記事、
《・・
    首相、小沢氏らと意見交換…政権運営協力求める

菅首相(民主党代表)は19日午前、
小沢一郎元代表、鳩山前首相、前原誠司前外相の3人の代表経験者と首相官邸で会談した。

出席者によると、首相は東日本巨大地震や東京電力福島第一原子力発電所事故への政府の対応を説明し、
「野党にも協力を要請している」と理解を求めた。

その上で、「元代表の皆さんにも色々と知恵を貸してほしい」と党内の結束を呼びかけるとともに、
被災者支援や復興策などについての意見を求めた。

また、福島第一原発の事故対応で進められている外部からの電源復旧作業について
「今日中にできるかどうかだが、そんな簡単な話ではない」との見通しを示した。


これに対し、小沢元代表は
「災害復旧に、ぜひ全力を挙げていただきたい。
特に原発に関しては、全力というより総力をあげて頑張ってもらいたい」と注文。

鳩山氏は「福島第一原発3号機には、海から直接長いホースを使って海水をかけるべきだ」と提案した。

政府・民主党は野党からの入閣も念頭に、閣僚数の増員を提案している。
この日の会談は、野党に協力を求める前提として、
首相と距離のある小沢元代表や鳩山氏の協力を取り付け、
民主党の結束ぶりを示す狙いがあったと見られる。

ただ、自民党の小坂憲次参院幹事長は
19日朝のTBSの番組で「野党の地震対策の提言を取り入れてくれればよく、
政権運営は自分たちの責任でやることが必要だ」
と述べ、閣内協力に否定的な考えを示した。

・・》


このような記事を読んできたので、
今回の小沢一郎元代表は、
《・・原子力安全・保安院、東電、内閣は明確な話を避けてきた・・》の発言、
私としては《・・内閣は全力で奮闘しているが、
無念ながら原子力安全・保安院、東電は、明確な話を避けてきた・》
と期待していたのである。

私は中小業の音楽業界のある会社に35年ばかり勤めた身であり、
社内の今後の大きな岐路の時、私の至らない発言をした時、
他部門の方が、やんわりと私の発言を補(おぎな)って、アドバイスしてくれた。

こうした民間の中小業の体験しか私にはなく、
昨今も政治の世界も疎(うと)く拙(つたな)い無力な高齢者の身である。

このような私なので、もとより一民間の中小業の会社と違い、
政権を担う民主党であるが、
《・・菅首相(民主党代表)は19日午前、
小沢一郎元代表、鳩山前首相、前原誠司前外相の3人の代表経験者と首相官邸で会談した。・・》
こうした時に、重責あるボストを歴任された小沢一郎元代表こそが、
菅首相(民主党代表)に対して、具体的に国難の解決策を教示できる立場である。

この席上でたとえ、小沢一郎元代表が菅首相を一時的に罵倒しょうが、
菅首相を支えて、党内を結束させて、この国難に与党として立ち向かう言動を公式に声明すべきである。
こうした言動を取れば、風格ある政治家として歴史上に刻まれる、
と私は思ったりしたのである。

そして、今回の発言として、
《・・内閣は全力で奮闘しているが、
無念ながら原子力安全・保安院、東電は、明確な話を避けてきた・》
と期待していたのである。

こうした意味合いから、私は小沢一郎元代表は国難に対する協調解決よりも、
やはり党内の確執ある権力闘争をされるのか、
と失望を増したのである。


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震災後、東京郊外に住む齢ばかり重ねた私は、先ほど『年年歳歳花相似 ・・』と心の中で呟き・・。

2011-03-28 15:29:48 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であるが、
過日の11日に発生した観測史上最大の地震の東日本巨大地震に伴い、
大津波が発生して壊滅的な大惨事を、テレビでNHKニュースを視聴したり、
新聞、ネットでニュースを読み、各地域で甚大な災害に、知るたびに驚嘆している・・。

その上、福島第一原子力発電所で事故が発生、その後も相次ぐ事故に関して、主要国の方まで注視された。
そして、私は恐れていた周辺の一時避難、その上に農作物、水の汚染などに影響をもたらした。

この間、大惨事の被災した地域で、亡くなわれるた方が日ごとに増え、
私はただ呆然としながら、犠牲者の多数に悲しみに、ときおり黙祷をしたりしている。

こうした中、もとより被災された方たちの前に於いては言葉もないが、
私は、度(たび)重なる余震におびえたり、
電力不足が予測されるので、東京電力による『計画停電』が実施され、
対象地域、時間による停電が行われ、平常心こそ何よりも肝要であると思いながら、
落ち着かなくうつろな日々を過ごすことが多い・・。


午前中のひととき、いつものように駅前まで歩き、買物に行ったのであるが、
落葉樹の芽吹きに見惚(みと)れたりした。
家内からの依頼された品を購入した後、老舗の和菓子屋に寄り、
桜餅、草餅を二つづづ買い求めたりした。

帰宅後、居間の食卓テーブルで、家内と小庭を眺めながら、
煎茶を飲み、桜餅、草餅を頂いたりした。
小庭は、純白の大きな花が咲いている白玉椿(シラタマ・ツバキ)、
濃紅色の藪椿(ヤブ・ツバキ)、群生させた水仙(スイセン)が咲いたりする中、
落葉樹の芽吹きが始まっている。
そして片隅に植えた蕗の薹(フキノトウ)が大きく成長し、黄緑色の色合いを見せている。

こうした彩(いろど)った情景を眺めていると、
中国初唐の詩人である劉廷芝(りゅうていし)が遺(のこ)された詩のひとつに、
思わず思いを重ねたのである・・。

年年歳歳花相似 歳歳年年人不同        

毎年たんたんと美しい花を咲くが、
この花を観賞できる人は変っている・・

私はこのように解釈しながら、人生のはかなさを若き二十歳の時に、
この詩を学び初めて、40数年の歳月が流れている。

そして、果たして昨年、一昨年の今頃はと思い浮かべても、
せんなきことかしら、と思ったりしている。


もとより今回の東日本巨大地震は自然災害であり、大津波が発生して壊滅的な大惨事は、
言葉もないが、
福島第一原子力発電所で事故が発生、その後も相次ぐ事故に関しては、
東京電力の首脳部の方たちの慢心と事故の発生後の『初動ミス』が思われるので、
無力な私でも、やりきれない心情なのである。

こうした思いから、昨晩にこのサイトに於いて、
【いつから東電の首脳部は謙虚さを失い、傲慢と慢心になり、世界の原発の利用者の人々に震撼させたのか・・。】
と題して投稿したのであるが、
今の私としては、むなしさを深めたりしている。


そして、年年歳歳花相似 歳歳年年人不同、と心の中で呟(つぶや)いたりしている。


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いつから東電の首脳部は謙虚さを失い、傲慢と慢心になり、世界の原発の利用者の人々に震撼させたのか・・。

2011-03-27 22:22:25 | 時事【社会】
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であるが、
先ほど、ネットでニュースを見ようと、
時事通信社の基幹ネットの【時事ドットコム】を開き、

《 大津波再来の恐れ、09年に指摘=東電、津波想定に反映せず-審議会で 》

と題いされた記事を読んだりした。

この後、しばらく思考させられた後、
いつの日から東京電力の首脳部の方たちは、謙虚さを失い、傲慢と慢心に陥ったのか、
と電力にも無知な私さえも、改めて感じたのである。

無断であるが、今回の記事を転載させて頂く。

《・・
        大津波再来の恐れ、09年に指摘=東電、津波想定に反映せず-審議会で

想定を大幅に上回る津波に襲われた東京電力福島第1原発について、
津波の専門家が2009年、原発の耐震安全性を検討する経済産業省の審議会の席上、
東北地方に大津波をもたらした869年の「貞観地震」(マグニチュード8.4と推定)に触れ、
同規模以上の津波再来の可能性について指摘していたことが27日、分かった。

東電側は「歴史上の地震で、耐震設計上考慮する地震にならない」と述べ、指摘は反映されなかった。

指摘したのは、産業技術総合研究所の岡村行信活断層研究センター長(地質学)。
岡村さんは、史料に津波被害の記録が残る貞観地震について研究。

福島第1、第2原発の敷地付近を含め、内陸部に津波で運ばれた砂が堆積していることや、
450~800年周期で津波が起きたことなどを明らかにしてきた。

岡村さんは、2009年6月に開かれた経産省の審議会で、
福島原発について貞観地震の知見から
「津波に関しては(東電の想定する地震と)比べものにならない非常にでかいものがくる」と指摘。
「まったく触れられていないのはおかしい」と再検討を求めた。

しかし、東電側は
「被害がそれほど見当たらない。
歴史上の地震であり、研究では課題として捉えるべきだが、設計上考慮する地震にならない」
と答え、消極的な姿勢を示した。


翌7月の審議会でも、岡村さんは2004年のスマトラ沖地震などに触れ、
今回の地震のように複数の震源域が同時に動く連動型地震の危険性を指摘したが、
東電側は「引き続き検討を進める」と述べるにとどまった。

(2011/03/27-18:00)
・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。


私は現役時代は、中小業の音楽業界のある会社に35年ばかり勤めた身であり、
恥ずかしながら、電力はどうして出来るのかも無知な高齢者の男である。

しかしながら、電力は、戦後の日本経済の大躍進の産業基盤を、確かに支え、
私たちが豊かな生活をめざし、それぞれが奮闘した成果のひとつの形として、
家庭の中で、洗濯機、テレビ、掃除機、冷蔵庫、クーラーなどで、
実感し享受してきたことは、
まぎれない事実であることは、知っているつもりである。


過日、日本の原子力発電所のひとつの福島発電所が、東日本大震災に伴い、事故が発生、
その後も相次ぐ事故、やがては農作物、水の汚染などの大被害となっている。

人は誰しも真実を知りたがる良悪を持った動物なので、
つたない私なりに、どうしてこのような相次ぐ事故に波及したのか、
そして原子力発電所を活用した主要国の多くの専門家、利用者に震撼させ、
今後の原子力発電所に疑惑さえも波及させたことなどを素朴に思いながら、
新聞、ネットのニュースを読んだり、NHKのニュースを視聴したりしてきた。

こうした中で、総合ビジネス情報誌として名高いダイヤモンド社の情報サイト【ダイヤモンド オンライン】で、
この中のひとつ記事を、たまたま読み、多々教示されながら、動顚させられた。

『Close Up Enterprise』の『第49回』2011年3月25日に於いて、
週刊ダイヤモンド編集部の片田江康男、小島健志、柴田むつみ3氏が綴られた、
《 世界が震撼!原発ショック 悠長な初動が呼んだ危機的事態 国主導で進む東電解体への序章
と題された記事である。

序文として、
《・・
東京電力の福島第1原子力発電所で起きた事故は、峠を越える手前にまできた。
原発は一民間企業の負うリスクを超えたものだと明らかになった。
それでも東電はすぐにはつぶれない。
あまりに悠長な体質がもたらした初動ミスが東電解体への序章となるだろう。
・・》
と書かれていたので、私は読み込んだのである・・。

無断であるが、この記事の前半部分を長く引用させて頂く。

《・・
福島第1原子力発電所は、東京電力初の原発で“聖地”ともいえる場所だっただけに、
無残な姿が原子力関係者に与えるショックは大きい。
ある政府関係者は東京電力の対応に怒りをあらわにする。

「(3月14日に)2号機の燃料棒が露出したとき、
東電側は『全員撤退したい』と伝えてきた
。撤退したら終わりだった。
絶対に止めなければならなかった」

あの時点で撤退とは、無責任極まりない。
この政府関係者は、事故の初動から東電の対応に不信感を抱いていた。


地震発生時の11日、福島第1原子力発電所1~3号機は自動的に止まったものの、
津波により外部の設備が使えなくなった。
予備の電源も失われ原子炉内を冷やすシステムも動かなくなった。

炉内を冷やさなければ、燃料棒が溶け深刻な事態を招く。
東電はまず電源を復旧しようと電源車を送った。
しかしそれをつなぐ部分が水没しており結果的に失敗した。


そのうちに1号機では炉内の熱で水蒸気が発生し、圧力が高まっていった。
破裂しないうちに放射性物質を含む水蒸気ごと逃がし、圧力を下げる必要があった。
これをベント(排気)という。
「ベントをやらなければならなかったが、本店は非常に消極的」(政府関係者)という状況だった。

福島第1原発の現場責任者は、吉田昌郎・執行役員発電所長である。
その陣頭指揮は光っていたようだ。
「吉田所長は勇敢で現実的だった」と政府関係者は言う。
「しかし、本店を経由してしか現地に連絡できなかった。
だから12日朝、菅直人総理がヘリで現地に飛び『ベントしろ』と言った。
吉田所長の背中を押しに行ったんだ」(政府関係者)。


はたして12日午後、ベントが行われたものの、
格納容器内で発生した水素が建屋に漏れ、水素爆発が起こった。
14日には3号機でも水素爆発が起き、安定的だった2号機でも炉心の水位が下がり、
燃料棒が露出して空炊きという非常に危険な事態となった。
水を入れる必要があった。


冒頭の「全員撤退」という話が飛び込んできたのは、そのときである。
政府側はあわてた。

政府側が現地に連絡すると、吉田所長らが、懸命に注水作業をしているところだった。
そして、「水が入った」と言っているのに、東電はいっこうに発表しない。

「とにかく、本店と現地に温度差があった。
そもそも予備電源が切れたときの想定がなくて驚愕した。
最初から自衛隊でも警察でも使えと言っていたのに、本店はあまりにも悠長だった」
と、政府関係者は言う。

プラントメーカーの東芝首脳も唇をかむ。

「最も原発を知っている技術者たち専門家集団は、
地震直後からスタンバイしていた。
東電の本店の廊下にもいた。
しかし部屋に入れてもらえなかった。
東電とメーカー、官邸が仲間になれたのは、地震発生の3日後だった。
もっと早く手を打てたはずだ」

それに対して、東電の武藤栄副社長は
「全員撤退については言っていない。
プラントや通信の状況が悪いなかで、ともかく人身の安全が重要だという判断で、
プラントの保守や保安に必要な人間だけを現場に残し、
それ以外の人を一時的に避難させた」と言う。

初動についても「状況を見ながら適切に判断してきた。最大限の努力はした」と話す。


福島第1原発3号機では3月18日に自衛隊が放水を行った。
使用済み核燃料プールの水位が下がり、放射性物質の拡散が心配されたからだが、
現場判断が奏功したようだ。

いずれにせよ、当初は東電内で事をすませようとしたことは、間違いないようだ。
政府は15日朝、東電と一体となって危機対応に当たるべく統合対策本部を設置した。


事態を好転させたのも本店ではなく現地の英断だった。
18日にはプラントの電源を復旧させるため、送電線から回路を引き下ろす作業が行われた。
そのさなか、自衛隊によって3号機の原子炉内を冷やすための放水作業も続いた。

東電関係者は興奮気味に語る。

「放水作業のなか電線工事をすることは、作業員の安全を確保できるものではなかった。
何が起こるかわからないからだ。
本店と現地は何時間も議論した。
本店は『自衛隊の放水は止めてもらえ』とまでなった。
だが吉田所長が『やる』と判断した」

ぎりぎりの選択だったが、この工事は成功。
現場でも本店でも拍手が起きた。
「本店がいろいろと言っても吉田所長は、『評論家はいらない』と取り合わなかった。
彼がいなければ現場も本店もパニックだったろう」(東電関係者)。


本稿執筆の22日時点、電線の工事は進みプラントに電源がつながった。
電源の復旧は、原子炉を制御するうえで大きな意味を持つ。

現在も、詳細は(略)予断を許さない。
放射性物質をまき散らしており、健康被害や農作物、水産物への影響も計り知れない。
だが、状況が改善に向かっているのは確かだ。

(略)

・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。

今回の大惨事に波及させた《・・あまりに悠長な体質がもたらした初動ミス・・》
に私は動顚させられたのである。


この後、この記事に基づいて、ブログの投稿文を綴ろうと思ったのであるが、
ある面、一方側からの記事で綴るのは、ある面は危険なことであるので、
複眼的な視線が必要と思い、投稿は断念した。


今回、地質学を専門とされる産業技術総合研究所の岡村行信・活断層研究センター長の度(たび)重なる警告を、
東電側は、あたかも無視したかのような記事を読んだりした・・。


東電のホームページの中に、『2020経営ビジョン』として、社長のメッセージがあり、
《・・
平成19年7月16日、多くの被害をもたらした新潟県中越沖地震により、
柏崎刈羽原子力発電所の全号機が停止し、当社は、安定供給、収支および環境対応等の面で、
創業以来の危機的な状況に直面しました。

私たちは、このような事態に際し、危機克服に全力で取り組むとともに、
災害に強い原子力発電所づくり、立地地域のみなさまとの信頼関係の強化、
さらには徹底した業務改善を定着させること等により、
一層強靭な事業基盤の構築に努めてきました。
困難な道を乗り越える過程で学んだ多くの知見を貴重な財産として、
これからの経営に活かしていきたいと考えています。
・・』
と明言されている。

しかしながら、この柏崎刈羽原子力発電所の全号機が停止の教訓を謙虚に学び、
改めて立地の地盤強化、そして危機対策を真摯に対策をしておれば、と思ったりしている。

更に岡村行信・活断層研究センター長の度(たび)重なる警告を再度検討し、対策をしておれば、
今回の大災害の波及も防止できたのではないだろうか、と強く私は感じたのである。


東京電力は、電力全般に関して日本の指定された多地域を独占した巨大企業であるが、
たえず電力は増加の一途となりながらも、技術革新など安定した供給、
程ほどの価格で提供してきた公共民間企業としての責務を果たしてきた電力会社である。

しかし2つの記事を読み、その後も思考させられ後、私は大きくため息をさせられたのである。
そして私は初めて複眼性の視点から、
いつの日から東京電力の首脳部の方たちは、
公共民間企業として、たえず利益も求められ経営基盤の責務も配慮した上であるが、
あたかも利益優先で、肝要の電力安定基盤の責務に対して、
謙虚さを失い、傲慢と慢心に陥(おちい)ったのか、
と心の中で呟(つぶや)きながら、この投稿文を認(したた)めている。


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巨大地震後、東京郊外の調布市に住む我が家は、防災対策は落第生のような状況であり・・。

2011-03-27 07:51:04 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であるが、
築後33年の古びた一軒家で家内と住んでいる。
子供に恵まれなかったので、たったふたりだけの家庭となっている。

過日の11日に発生した観測史上最大の地震の東日本巨大地震に伴い、
我が家も大揺れで、余りにも長く続いたので、
このような地震は初めてだょ、と私は家内に言ったりした。

その後は、国民の周知の通り、大津波が発生して壊滅的な大惨事を、テレビでNHKニュースを視聴したり、
新聞、ネットでニュースを読み、各地域で甚大な災害に、知るたびに驚嘆している・・。

我が家は本棚から本が飛び出し散乱し、2階の寝室にある古いアナログ・テレビが転げて、
再起不能で駄目になったぐらいであった。

この後、福島第一原子力発電所で事故が発生、その後も相次ぐ事故に関して、
計画停電が発令されたので、
私たち夫婦は、我が家の防災用具を点検したりした。

恥ずかしながら、告白すれば、
単1電池の2本入りの懐中電灯、家内の携帯用の単4電池の4本入り懐中電灯だけで、
あとは蝋燭(ろうそく)だけは多くある。
そして、ベットボトルの2リットル入りの煎茶が6本だけ、
万一に備えて置いてある。

震災後、電池の予備がないことに気付き、ノロまな私は買い求めに行ったが、
無念ながら品切れであった。


もとより被災された方たちの前に於いては言葉もないが、
私たち首都圏に住む人も、度(たび)重なる余震におびえたり、
電力不足が予測されるので、東京電力による『計画停電』が実施され、
対象地域、時間による停電が行われたりしている。

こうした中で、私は市のホームページで、
朝夕、『計画停電』の対象地域、時間による停電を確認したりしている。

そして、市のホームページで、『調布市地域防災計画』を開き、
『震災編』、『風水害編』などを見たりしている。

http://www.city.chofu.tokyo.jp/www/contents/1216694277772/index.html
☆【調布市ホームページ】<==『調布市地域防災計画』☆

そして、本棚から市民に配布された『調布市 防災マップ』を引き出して、
私たち夫婦は、避難所の場所を改めて確認したりしていた。


このように我が家の防災対策は、落第生であり、
そのうちに電池の要らない手動で発電できるラジオ付きの携帯懐中電灯を購入しょう、
と話し合ったりしている。


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巨大地震後、東京郊外に住む私は、いつの日にか突然に命(いのち)果てる時を思いめぐらし・・。

2011-03-26 17:44:34 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であるが、
過日の11日に発生した観測史上最大の地震の東日本巨大地震に伴い、
大津波が発生して壊滅的な大惨事を、テレビでNHKニュースを視聴したり、
新聞、ネットでニュースを読み、各地域で甚大な災害に、知るたびに驚嘆している・・。

その上、福島第一原子力発電所で事故が発生、その後も相次ぐ事故に関して、主要国の方まで注視された。
そして、私は恐れていた周辺の一時避難、その上に農作物、水の汚染などに影響をもたらした。

この間、大惨事の被災した地域で、亡くなわれるた方が日ごとに増え、
私はただ呆然としながら、犠牲者の多数に悲しみに、ときおり黙祷をしたりしている。

こうた中で、何とか生き延びられた生存者の方たちは、壊滅的な災害地となった人たちが、
避難所などの中で、日夜で寒さの中、水、食べ物が不足する中で、
困窮した生活をされている人たちは、何よりも具体的に先の見えない日々を過ごされ、
余りにも過酷である。

こうした間に、大惨事の被災した地域で、被災者の救出、救援などに関しては、
政府はもとより、各自治体の関係者、警察、消防、そして自衛隊の方たち、
米軍はじめとする主要国の救援隊などに、日夜奮闘されている状況を、
無力な私はハラハラとしながら、救出される人たちの状況を感動させられながら、
テレビのニュースで視聴したりしている。


16日の夕刻に天皇陛下が東日本巨大地震に関し、
被災者を案じ、救援関係者をねぎらい、
国民が深い悲しみの中にも希望を捨てず、苦難を分かち合って乗り越えることを願いを発露された。
もとより天皇陛下が、国民に映像を通し語られるのは、初めてのことである。

そして、経済の基盤である製造業の部品、完成品までの産地も多大が被害され、経済の悪化を深め、
今回の巨大地震は、敗戦後の長い65余年の中で、最大の大惨事であり、
日本の社会は大きく変わり果てた、と私は思ったりした。


もとより被災された方たちの前に於いては言葉もないが、
私たち首都圏に住む人も、度(たび)重なる余震におびえたり、
電力不足が予測されるので、東京電力による『計画停電』が実施され、
対象地域、時間による停電が行われたりしている。

そして、公共交通機関は節電に協力に伴い、終日運休や部分運運休などが実施されて、
働いて下さる現役の諸兄諸姉が往復路で大混乱となったりしてきた。

こうした首都圏の昨今の実情は、
被災地でもないのに、ガソリンや食料などの買いだめの具体的な動きがあり、私は動顚している。

こうした状況の中、私はぼんやりと過ごしてきたのであるが、
気弱になった私は、ある日、突然の命(いのち)果てる時を思いめぐらすことがある・・。


私は定年退職後も何よりも読書が好きであるので、駅前まで歩いて本屋に寄り、
幾冊かの単行本、新書本、文庫本を買い求めることが多く、
10日になれば総合月刊雑誌の『文藝春秋』、『中央公論』など、
そして季刊誌として『文藝春秋 SPECIAL』を購入したりしている。

こうした帰路、川沿いの遊歩道を歩くことが多い。

この遊歩道は片側が帯状に小公園となり700メートル前後あり、
樹木、草花が四季それぞれに彩(いろ)っている場所で、
私の散策の好きなひとつのコースでもある。


私の命(いのち)果てる時の秘かな願いのひとつとして、
この遊歩道にある木のベンチに座り、晩秋の午前のやわらかな陽射しの中、
ポックリと死を迎えられたら本望である、と思ったりしている。

或いは、この遊歩道で独りで歩き、
桜(サクラ)、モミジ、ドウタン躑躅(ツツジ)等の朱色を誉(ほ)めたり、
白梅、公孫樹(イチョウ)、コナラ等の黄葉の彩(いろど)る錦繍の中、
木漏れ陽を受け、ときおり舞い散る葉を眺め、
好きな本を抱(かか)えて、突然に命が果てる、といった状況を願っている。

高齢者となった今、明日か10年先か、或いは数10年先か判からないが、
いずれいつの日にか、命は絶えるのであり、
亡くなる時は、こうした思いもあることは確かである。

しかしこればかりは、天上の神々の采配に寄るのだから、
国内旅行の旅先などで、死に遭遇することもある、と思ったりしている。


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『心身共に極限まできている・・でも私たちは最後まで戦う・・』、私は配信記事を読み思わず・・。

2011-03-26 08:51:40 | 時事【社会】
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であるが、
先ほど、ネットでニュースを見ようと、
時事通信社の基幹ネットの【時事ドットコム】を開き、

《 「私たちは最後まで戦う」=心身極限も、職務全う=福島第1原発復旧で東電社員  》

と題いされた記事を読んだりした。

福島第1原発で危機的状況が続く中、復旧作業に、
東京電力の社員で、現場で日夜不眠不休のような状況で奮闘され上、
今回の発生の責務を感じられながら、苦渋の心情を発露された記事を読み、
私なりに同感できると深く感じたのである。

無断であるが、家庭内の節電に関心のある方に紹介致したく、転載させて頂く。

《・・
     「私たちは最後まで戦う」=心身極限も、職務全う=福島第1原発復旧で東電社員


「心身共に極限まできている。でも私たちは最後まで戦う」-。

福島第1原発で危機的状況が続く中、復旧作業に携わる東京電力社員は、
知人に送ったメールで苦しい胸の内を打ち明けている。

メールの送信者は、現在も施設内で復旧作業を続けている。
あまり語られない社員の被災状況に触れ、
「原発で働く人の大半は地元住民で、家を流された社員も多い」という。

この社員の実家も津波に襲われ、両親は行方不明のままだ。

不眠不休での作業が続き、社員らの疲労もピークに達しつつある。
「本当ならすぐにでも実家に飛んでいきたい。
こんな精神状態での過酷な労働…もう限界」とも。

「家も仕事も学校も友達も家族も全部失ってしまった。
こんな現実を誰が耐えられるのか」と弱音も垣間見える。

東電社員も被災者の一人に違いないが、思いは複雑だ。
「地震すら東電のせいだ、と言わざるを得ない勢いだと思う」と住民感情を察する。

「地震は天災。
でも原発による放射性物質の汚染は、東電がこの地にあるせい」との現実と向き合う。

1~4号機に外部電源が通じた一方、24日には作業員3人が被ばくする事態も発生した。
復旧に向けて一進一退の状態が続く中、作業は長期化するとの見方もある。

「被災者である前に、東電社員として、みんな職務を全うしようと頑張っている」とした上で、
メールは気力を振り絞るような文面で結ばれていた。
「私たちは最後まで戦います!」。

(2011/03/26-05:17)
・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。


私は現役時代は、中小業の音楽業界のあるレコード会社に35年ばかり勤めた身であり、
特に情報畑が20数年勤務した中で、社内が大幅な改革の時、
抜本的な開発の時などで、徹夜をしたり、数時間だけ自宅に帰宅したり、
或いは夜明け前に、コンピュータ・ルームの近くの片隅で、床に段ボールを敷いて、少しまどろんだりしたことが、
何百回も体験してきたことがある・・。

こうしたささやか体験があるが、今回の福島第1原発で危機的状況が続く中、復旧作業に於いて、
私はテレビのニュース、新聞の記事などが報じるニュースを見たり、
東京電力の社員で、現場いる方は、日夜不眠不休のような状況で奮闘されていると思いを、
ときおり馳せたりした。

もとより原発による放射性物質の汚染の波及は、東京電力の社員として、重責は重い中、
《実家も津波に襲われ、両親は行方不明のままだ》である中、
《家も仕事も学校も友達も家族も全部失ってしまった。》
このような状況は、余りにも過酷である・・。

しかし、この東京電力の社員は、微かな希望の光がある。
それは、被災者の中には、肉親を亡くなり、家屋も失い、そして職も失ない先行きのない状況の方たちが
多くいるとニュースで知るたびに、私は思わず胸が熱くる・・。

今回の社員の立場は、少なくとも他地域を独占し倒産の心配のない巨大企業の東京電力であるので、
今後はたとえ異動があっても、失業することはないと思われのである。

私は99%は同情させられるが、誰しも予測できなかった難題を乗り越えて、
今後は失われた東京電力の信頼を取り戻すように、業務に邁進して欲しい、
と涙を浮かべて綴っている。


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東京電力の『計画停電』の長期化に伴い、遅ればせながら私は、敗戦後からの電力の歴史を学び・・。

2011-03-25 17:01:12 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であるが、
昨日、読売新聞の朝刊を読んで、改めて東京電力の『計画停電』の長期化になる実情を知った。

そして、『東京電力の電力供給状況』と題された表が掲載さて、
それぞれの原子力、火力発電所の稼動実態、供給力が明示されていた。

この下段には、『東京電力の最大電力需要と最大供給電力の見通し』と題し、
今年の3月下旬の頃から、来年の2月までの見通しが表とされていた。

私はこの2表を長らく見つめて、再びため息をしたりした・・。

http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20110324-OYT1T00260.htm
☆【YOMIURI ONLINE】
             <==《 東電、夏の電力不足必至…供給最大で5千万kw 》☆


今朝の午前中のひととき、電力にも無知な私は、この表を思い浮かべ、
いつのまにか水力発電所はなくなり、火力発電所の一部が稼動停止になったのだろうか、
と原子力発電所のひとつの福島発電所が、東日本大震災に伴い、事故が発生、
その後も相次ぐ事故、そして農作物、水の汚染などを思い重ねていた。

もとより電力は、戦後の日本経済の大躍進の産業基盤を、まぎれなく支えてきた。
私たちが豊かな生活をめざし、それぞれが奮闘した成果のひとつの形として、
家庭の中で、洗濯機、テレビ、掃除機、冷蔵庫、クーラーなどで、
実感し享受してきた。

こうした中で、たえず電力は増加の一途となりながらも、
安定した供給と程ほどの価格が求められる責務のある電力会社は、
それなり時代の変貌と共に、激動の時代を過ごしてきたと思われる。


無念ながら、この程度しか知らない無知な私は、
昼過ぎに、こっそりと敗戦後からの電力の変貌を学びたく、ネットで色々と検索した。

結果として、東京電力のホームページの中に、【東京電力50年史】があったので、
2時間半ばかりで読み、多々教示された。
無断であるが、転載させて頂く。

http://www.tepco.co.jp/company/corp-com/rekishi/50anniver/index-j.html
☆東京電力のホームページ <==【東京電力50年史】☆


私は『50年の歩み』のコーナーに於いて、
1951(昭和26)年に東京電力が創業して以来、大きな7世代の変貌をして、
今日までの歴史を知ったのである。

この後、『発電の50年』、『年表50年』、『データベース』の「最大電力」、「電源構成」などを、
読んだりした後、深くため息をしたりした。


この後、『2020経営ビジョン』で、社長のメッセージを読んだりした。

《・・
そうした中、平成19年7月16日、多くの被害をもたらした新潟県中越沖地震により、
柏崎刈羽原子力発電所の全号機が停止し、当社は、安定供給、収支および環境対応等の面で、
創業以来の危機的な状況に直面しました。

私たちは、このような事態に際し、危機克服に全力で取り組むとともに、
災害に強い原子力発電所づくり、立地地域のみなさまとの信頼関係の強化、
さらには徹底した業務改善を定着させること等により、
一層強靭な事業基盤の構築に努めてきました。
困難な道を乗り越える過程で学んだ多くの知見を貴重な財産として、
これからの経営に活かしていきたいと考えています。
・・》

こうしたメッセージの一部に、私はため息を重ねたりした・・。


もとより、今回の東日本大震災の日本の歴史上始まって以来の大災害であり、
福島原子力発電所に多大に波及し、事故が発生し、その後も相次ぐ事故に、
主要国の方まで注視された。
そして、私は恐れていた周辺の一時避難、その上に農作物、水の汚染などに影響をもたらした。

この間、供給電力の不足となり、『計画停電』が実施され、長期化が予測されている。
産業基盤の部品から生産まで製造業はもとより、あらゆる経済に多大に影響し、
住民は停電に困惑しているのが昨今である。

こうした誰しも予測できなかった自然災害が発端となり、
その後の東京電力の対応に疑問視するひとりであるが、
東京電力の架せられた責務は重く、英知を結集して、迅速に乗り越えて欲しい。

もとより信頼のある電力会社に取り戻すには幾年も要するが、
今回の教訓を関連会社を含めて謙虚に受け止めて、再建して頂きたい、
と無力な高齢者の私は、ぼんやりと思ったりしている。


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『計画停電』の長期化に伴い、私は『今年の夏は・・余り熱くならないでねぇ・・』と祈願し・・。

2011-03-25 00:02:33 | 時事【社会】
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であるが、
昨日の朝、いつものように読売新聞の朝刊を読んでいたら、4面に於いて、

《 計画停電 長期化は必至 》

《 東電 夏冬需要に対応不能 》

《 企業生産現場 混乱 》

《 全世帯「エアコン・照明 我慢」 》

《 原発3基分の節電 》

と見出しされた記事を読んだりし、ため息をしたりした・・。

そして、『東京電力の電力供給状況』と題された表に於いて、
それぞれの原子力、火力発電所の稼動実態、供給力が明示されていた。

この下段には、『東京電力の最大電力需要と最大供給電力の見通し』と題し、
今年の3月下旬の頃から、来年の2月までの見通しが表とされていた。

私はこの2表を長らく見つめて、再びため息をしたりした・・。


この記事を要約したのが、読売新聞の基幹ネットの【YOMIURI ONLINE】にも掲載されて折、
無断であるが、記事を転載させて頂く。

http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20110324-OYT1T00260.htm
☆【YOMIURI ONLINE】
             <==《 東電、夏の電力不足必至…供給最大で5千万kw 》☆


高齢者の私は、少しボケてきたので、この記事を2回ばかり、読んだりした。
そして、過日の22日に於いて、朝日新聞社の基幹ネットの【asahi.com】のひとつの記事を偶然に読み、

《 東電の計画停電、今夏・冬も 大規模火力発電所、被害大 》

と題された記事であり、多々教示されて、
やはり東京電力に寄る計画停電で長期化になる可能性がある、と知ったのである。

このことに関しては、このサイトに、
【 『東電の計画停電の長期化』を朝日新聞で知り、東京郊外に住む高齢者の私は、覚悟をきめて・・。】
と題して、私は投稿したりした。

http://blog.goo.ne.jp/yumede-ai/e/0527075dc988fbea0b03fc0b1c92ce78
☆【年金青年たわむれ記 ~かりそめ草紙~】
      3月22日【 『東電の計画停電の長期化』を朝日新聞で知り、東京郊外に住む高齢者の私は、覚悟をきめて・・。】☆


今回の読売新聞の記事を読んだ後、
やはり東京電力は、東日本巨大地震で、東京電力は多くの原子力発電所や火力発電所が運転停止に追い込まれ、
供給能力の回復が遅れ、もとより夏場のピークの需要には、間に合わず、
計画停電で長期化になる、と改めて知ったのである。


東北地方の太平洋側の産業生産基盤が壊滅的になり、首都圏の産業生産地に負担がかかるが、
肝要の電力と水の不安定には、生産がままならず、日本経済はますます低下してしまう。

もとより日本は、経済の復興がなければ、明日の見えない社会となり、
社会保障費などは大幅な削減となり、多くの国民は路頭に迷ってしまうのは明白である。


このような思いで、年金生活の無力な私のできることは・・と思いながら、
過日、このサイトに於いて、
【 東日本大震災で日本の経済損失は、最大19兆円であるが、やがては復興努力で回復のニュース、安堵・・?】
と題して、投稿したりした。

そして、元気こそ何よりも肝要であると、たわむれ風に、
【『家庭の節電ポイント』、高齢者の私でも解かりやすいニュースを読み、思わず微笑みながら・・。】
と題して、投稿したりした。


しかしながら、何よりも肝要な現役世代の働いて下さる諸兄諸姉のご家庭は、
節電の中、通勤に悪戦苦闘した上、勤務に奮闘され、多大に社会貢献をして下さっているので、
せめてクーラーなどは、従来どおり享受する資格はある、と私は確信している。

そして私たち社会貢献に乏しくなった首都圏に住む年金生活される方は、
積極的に節電し、多少の貢献をする責務があると思ったりしている。

もとより私たち齢を重ねた多くの人は、敗戦後の貧しかった時代を体験し、生きた知恵がある・・。
たとえば夏の熱っかった時節は、窓を開けて、団扇(うちわ)、扇子(せんす)を活用したり、
晩秋は厚着に徹すれば、何とか生活できるのである。

しかし、高齢者となった私たちは、無念ながら体力が衰えてきたので、
昨年のような記録的な猛暑が続くのは困惑するばかりであり、
『今年の夏は・・余り熱くならないでねぇ・・』
と私は秘かに呟(つぶや)きながら、天上の気候の神々に祈願したのである。


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テレビ旅番組の『いい旅夢気分 ~小笠原諸島~』、私達夫婦もこの旅路に思いを馳せ・・。【下】

2011-03-24 16:02:33 | 旅のあれこれ
        第4章  小笠原ビジターセンター

ホテルで一晩過ごしたので、船中泊の疲れも取れたので、
街中を見たり、街外れにある『小笠原ビジターセンター 』を見よう、と私達は出かけたのである。
ホテルの前の道路を渡ると、左手にコテージ風の休憩所の前に、
村営バスの『扇浦海岸』のバス停があり、10時45分過ぎに乗車した。

そして街中の中核の『村役場前』で11時に下車した後、観光協会に行き、
http://www.geocities.jp/tabiasi/ogasawara.html
☆ 小笠原諸島父島滞在記念証 ☆

頂こうとしたが、無念ながら観光協会は中止となり、船待合所で発行できます、
と教えて貰い、私達は苦笑した。

そして私達は、街外れにある『小笠原ビジターセンター 』に入館し、
展示室を見たりし、クジラの生態などを学んだりした。

この後、ビデオの観賞室に於いて、
『父島の昭和50年頃と最近の状景の対比』で、時代と共に人々の営みの変貌を拝見しのが、鮮烈な感動を受けたりした。

『南硫黄島』は戦前戦後も全くの無人島に学術調査隊の記録であり、
無垢な無人島の動植物の生態を多く学んだのである。
そして北硫黄島は戦前のひと頃に人が住んだ影響で、ネズミが生息し動植物に影響を与えた状況も教示された。

そして最後に『硫黄島』の現状の記録を拝見したが、
もとより日米の激戦地の結果として数多くの慰霊の塔、碑が映し出され、
この背景に大平京子さんが淡々と唄う『マイリディ・ボイン・アイランド?』が哀切きわまる唄声に深く感銘し、
あやゆく涙が流れそうになった感きわまる名作であった。

このように私達は、三作品を拝見した後、
街中で私達はおにぎりを昼食代わりに買い求めて、付近の大神山公園にある、
わずかに高い休憩所で微風を受けながら、煎茶を飲み、頂いたのである。

そして私は、前方は大村海岸の情景を眺めたりし、硫黄島と父島の戦争時期、
その後の変貌などに思いを馳せたりしたのである。



        第5章  それぞれ魅力を秘めた『ホエール・ウォッチング』

今回の旅行で家内の念願である『ホエール・ウォッチング』なので、
2月27日、3月2日、そして3月4日と3回に及び一日ツアーに加入した。
いずれもこの時節は、ザドウクジラが父島の周辺で子育ち期間で、親子の遊泳するのが多い、と知られている。

私達は数多くの『ホエール・ウォッチング』の遊覧船によるツアーがあるが、
下記の三種類の遊覧船ツアーを利用した。


2月27日
http://pinkdolphin.p1.bindsite.jp/index.html
☆ ピンクドルフィン号 ☆

今回の私達のようなツアー参加者は20名前後であり、
朝の9時に青灯台を前方に見える岸壁から出船となり、二見湾を抜けると、
父島の西岸をザトウクジラの姿を追い求めてピンクドルフィン号は疾走した・・。

私達は船長のクジラ発見の合図で洋上を見つめ、ザトウクジラを見るたびに、歓声をあげたりした。
南下にある南島に寄る予定であったが、波高しに伴い、父島の北部にある兄島に進路を変更とし、
この島に上陸して昼食を頂いたりした。

その後、この兄島の海中公園で魚群を観賞した後は、再びザトウクジラの姿を追い求めて、
私達はイルカの群れ共にザトウクジラを数多く見ることができた。

家内は船首のそばで手すりに捕まりながら、殆ど帰港まで洋上のザトウクジラなどを見つめたりしていたが、
私は船首のそば、ときおり船尾でペットボトルの煎茶を飲んだり、或いは煙草を喫ったりし、
ザトウクジラを見つめたり、洋上からの景観を眺めたりしていた。

帰港は午後の3時15分で、上陸した後、付近の大神山公園の休憩所で、
ひと息ついた時、私の顔が日に焼けた、と家内は笑い転げていた。


3月2日
http://www.d7.dion.ne.jp/~chichitx/
☆ 小笠原観光(旧・父島タクシー)  ドリーム号III ☆

今回の私達のようなツアー参加者は20名前後であり、
朝の9時に遊覧船が多い岸壁から出船となり、二見湾を抜けると、
父島の西岸をザトウクジラの姿を追い求めてドリーム号Ⅲは疾走した・・。
出航前に船長の自己紹介、女性スタッフの紹介、女性スタッフに寄る概要説明があり、
さわやかな笑顔の船長、女性スタッフに私は瞬時好感をしたのである。

今回のツアーの7名ぐらいは、一眼レフに超望遠レンズの高価な撮影器具でザトウクジラを写しており、
リピータの方かしらと私は微笑んだりした。

船長、女性スタッフのクジラ発見の合図で、私達一同は洋上を見つめ、ザトウクジラを見るたびに、歓声をあげたりした。
この後、ドリーム号Ⅲは南下し南島に接岸し、私達一同は未知の南島に上陸した。
この南島の秘めたる魅力については後述する。

南島を離陸後、父島の小港海岸を目の前にしたところで停船し、私は昼食とした。
その後も船長のザトウクジラの姿を徹底的に追い求める熱意で、
私達一同は予期した以上にザトウクジラを数多く見ることができた。

家内は相変わらず船首のそばで手すりに捕まりながら、殆ど帰港まで洋上のザトウクジラなどを見つめたりしていたが、
私は午前中は船首のそば、午後は船尾でペットボトルの煎茶を飲んだり、或いは煙草を喫ったりし、
ザトウクジラを見つめたり、洋上からの景観を眺めたりしていた。

帰港は午後の3時40分で、家内は十二分にザトウクジラを観られたわ、
と満足していた。


3月4日
http://www.interq.or.jp/blue/papaya/tour-information.html
☆ パパヤ MissPAPAYA ☆

今回の私達のようなツアー参加者は30名前後であり、
朝の9時に遊覧船が多い岸壁から出船となり、二見湾を抜けると、
父島の西岸をザトウクジラの姿を追い求めてMissPAPAYAは疾走した・・。

出航前に船長の紹介、女性スタッフに寄る概要説明があり、
数多くの女性スタッフが配置され、大型高速船に相応しく、コーヒー、紅茶などのサーピスを受けたりした。

今回のツアーの15名ぐらいは、洋中を潜水や遊泳するシュノーケリングをされる方も折、
私達が宿泊したホテルで知り合った若い女性も加わっているので、
私達夫婦はマリン・スポーツに苦手な身であったが、何かと興味を持ちながら、
シュノーケリングされる多くの方を眺めたりしていた。

肝要のザトウクジラに関しては、船長、女性スタッフのクジラ発見の合図で、
私達一同は歓声を上げながら見つめたりしていた。

そして南島に接岸は、大型高速船なので小船に乗りついて上陸した。

南島を離陸後、父島の小港海岸を目の前にしたところで停船し、私は昼食とした。
その後も船長のサービスなのかザトウクジラの姿を追い求めて、
父島の西岸を遥か北部から南部、西の彼方まで疾走して下さる、
私達一同は予期した以上にザトウクジラを数多く見ることができた。

家内は相変わらず船首のそばで手すりに捕まりながら、殆ど帰港まで洋上のザトウクジラなどを見つめたりしていたが、
私は船尾でペットボトルの煎茶を飲んだり、或いは煙草を喫ったりし、
ザトウクジラを見つめたり、洋上からの景観を眺めたりしていた。

帰港は午後の4時45分で、家内は十二分にザトウクジラを観られたわ、
と満足していた。


このように私達夫婦は、『ホエール・ウォッチング』ツアーに三回ばかり乗船し、
私は長ズボン、長袖のシャツを少し腕まくりしていたが、顔と手、手首まで日焼けをしたのである。
家内は万全の対応策をしていたが、手袋をしていなかったので、手だけ日焼けをし、
私達は微苦笑をしたのである。

もとより家内は、『ホエール・ウォッチング』を観る為に今回の旅行を立案したので、
十二分に観賞でき、満足している。

私の本音といえば、最初から数回ザトウクジラを観た時、迫力あるねぇ、と歓声をあげ、
この後は、ザトウクジラか、と感じたぐらいであるが、
洋上からの島、海岸などの景観は深く魅了されたのである。

そして各船長のひたむきなサービス精神、そして各スタッフの健気な言動に、
海に無知な私でも感動させられたのである。



        第6章  南米チリの巨大地震:津波発生に伴い父島の人々も避難となり

2月28日の朝、私はシーサイド・ホテルの『ホライズン』で早朝に目覚めた。
昨日、私達夫婦は初めて『ホエール・ウォッチング』の遊覧船に日中の大半を乗り、
少し疲れを感じていたので、のんびりと日中は過ごそうとしていた。

薄日の射す穏やかな海の色合いを眺めた後、
私はNHKのニュースを視聴しょうと、部屋に戻りテレビをぼんやりと見たりしていた。

そして、南米のチリで巨大地震が発生し、この周辺一帯は甚大な災害を受けた、と知ったのである。
この後、日本の海岸にも津波が押し寄せる、と報じていた。

私はチリの震災に遭われた方は、大変にお気の毒で被害が少なければよいが、
と思いながら家内と話したりしていた。

レストランで朝食を頂いた後、4人グループの男性とロビーで談笑し、
本日の父島の二見港の午後2時発の船便で明日の午後3時半に東京・竹芝桟橋に下船した後、
東京の赤坂にあるホテルで1泊した後、お住まいの愛媛県に帰られる、
と聞いたりした。

私達夫婦は、ここ2日ばかり4人グループのひとりの方と談笑を重ねてきたので、
まもなくお別れだなぁ、と名残り欲しく感じたりしていたのである。

そして、女性のふたり連れの方とは、挨拶をする程度に話したり、
あとは30歳前後のビジネスマン風と男性と目礼をする程度であったが、
閑散期のホテルの客は、私達夫婦を含めても9人だけであった。
いずも私達夫婦以外は、本日の船便で帰京されるので、少し寂しくなる感じていたのである・・。


まもなく9時35分過ぎに、村役場のアナウンスがホテル前の拡声器から聴こえ、
『浜辺にいる方は、高台に避難して下さい』
と津波警報が報じられたのである。

この後、11時過ぎにホテルからは、
ホテルから荷物を全て持ち、避難場所に退避する準備をして下さい、
と連絡があり、私達夫婦は3階の部屋で海面からは少なくとも17メートル以上あるから、
手持ちバックだけにしょう、と話し合ったりした。

まもなくホテルの方が、私達一同をホテルから付近の避難場所の『扇浦 交流センター』に自動車で誘導して下さった。

『扇浦 交流センター』の入り口に入り、退避人名表に記載した後、
扇浦地区にお住まい方、私達のような外来者、そして警察官の3人、村役場の職員か青年支援者で、
総数50名前後であり、時刻は12時過ぎであった。

私達夫婦は、津波などを含めても避難のは初めての体験であり、
戸惑いながらも、街中の避難場所は小・中学校の体育館などの大多数よりも、
この豪壮なログ・ハウスの『扇浦 交流センター』が水の確保、トイレだけでも配慮した場合、
少人数でよかったかしら、と思えたのである。

まもなくホテルのご好意により、私達の客一同はお弁当とペットボトルの煎茶を頂き、
昼食とした。

この後、村役場の公報が、
津波の第一波は、午後一時は10センチが観測されました、報じられていた。

そして、午後2時過ぎに津波の第二波は、午後2時は20センチ、
午後3時過ぎに津波の第三波は、午後3時は30センチ、と報じられていた。

この間、船舶への注意報がされて、午後2時発の東京・竹芝桟橋行きの『おがさわら丸』も順延となり、
停泊していた二見港の岸壁から二見湾の中核に移動され、停止していた。


私達夫婦は何時になったならば避難の解除が発令されるか、と思ったりしたが、
私達よりも本日乗船する予定の方たち、村民の方たちの方が遥かに心配される立場であるので、
私は無言のまま『扇浦 交流センター』の外で煙草を喫ったりしていた。

そして時折、交流センターの広間のテーブルに解除を待ちわびている地元の人たちのひとりが、
50年前のチリ地震に伴う父島での津波の災害、台風時の災害などを話されていたのを聞いたりしていた。

夕暮れの6時頃に、災害救助用の食料品が置かれて、
私は生まれて初めて『災害救助用 クラッカー』をひとつ頂いた。
この袋には、88グラム(26枚入)、納入年月:平成20年8月、賞味期限:平成25年8月と明記されて折、
私は口に含み、そして噛み砕いたが、味の薄く、やはり保存食だ、と苦笑したのである。

この後、私は疲れを感じ、部屋の角にある災害救助用の毛布が残っていたので、
一枚を床に敷いて、私のフィールド・ジャケットを身体にかけて、横たわった。
そして、ホテルからのご好意の夕食のお弁当を頂いたりしていた。

夜の8時が過ぎた頃、避難解除が発令されて、私達一同は解放されたというのが実感であった。

ホテルの方が私達夫婦をホテル前まで、
別の車で本日に乗船する4人グループ、女性のふたり、そして30歳前後のビジネスマン風と男性を送迎して下さることとなり、
私達夫婦は『扇浦 交流センター』の駐車場で慌ただしく別れを告げた。


私達はホテルの部屋に戻りと、ときおりベランダから夜景の二見港の『おがさわら丸』を注視していた。
『おがさわら丸』が出航する時は、父島と並んだ母島より『ははじま丸』が連絡して折、
平常時には母島港10時30分発で父島に12時40分に入港した後、父島発14時の『おがさわら丸』に人々は合流して、
一路『おがさわら丸』は東京の竹芝桟橋を翌日の午後3時半に着岸するのが定例であった。

このような状態であるので、母島が津波警報の解除が父島と同様に行われていたとしても、
『ははじま丸』が母島港を夜の9時に出航しても父島に入港できるのは夜の11時過ぎであり、
この後の『おがさわら丸』が出航できるのは夜の12時過ぎとなるのである。
このような思いで、父島の二見港の夜景を見つめていたのである。

しかし11時少し前に過ぎ『ははじま丸』らしき船は見えず、私は疲れを感じて、
部屋に戻り、ベットにもぐり寝込んでしまった・・。

翌日、ホテルの方の風の噂によれば、未明時に『おがさわら丸』が出航でき、
東京の竹芝桟橋に接岸できるのは翌日の深夜であり、この時間帯になると公共の交通機関はなく、
結果的には二晩船中で過ごされる、と聴いたりした。

そしてNHKのニュースで津波の実態報告によれば、
小笠原の父島は、昨日の午後4時21分に42センチが観測されました、と報じていた。



        第7章  ホテルの客は私達夫婦だけとなり

2月28日の津波の襲来で避難した翌日の3月1日、
滞在しているシーサイド・ホテルの『ホライズン』のレストランで朝食を頂いたが、
私達夫婦以外の客はいなく、少し戸惑いを感じたりした。

私達は国内旅行が共通の趣味であり、新婚時代から四季折々各地を旅行してきたが、
リゾート・ホテル、シティ・ホテル、ビジネス・ホテル、観光ホテル、旅館、民宿などを宿泊してきたが、
私達夫婦だけの宿泊客となったのは初めての体験であった。


このことは小笠原諸島の『父島』、『母島』の交通の便が大きく左右されているのが、
主因と思われる。
この『父島』にしても、東京の竹芝桟橋と父島の二見港を小笠原海運に寄る『おがさわら丸』の客船が、
定期航路として随一あるだけである。

http://www.ogasawarakaiun.co.jp/
☆ 小笠原海運 ホーム・ページ ☆

定期船が運航するのは、年末年始、5月の連休、7月下旬~8月中旬の夏季期間を除けば、
6日毎のサイクルで順行する。

たとえば3月8日(月曜日)の午前10時に『おがさわら丸』は東京の竹芝桟橋を出航した場合、
翌日の9日(火曜日)の午前11時半に父島の二見港に入港する。
そして10日(水曜日)、11日(木曜日)は停泊し、
12日(金曜日)の午後2時に父島の二見港を出港し、
翌日の13日(土曜日)の午後3時半に東京の竹芝桟橋に入港する。

このようなパターンであると、9日(火曜日)の午後より12日(金曜日)の午前中まで、
島内で滞在することとなり、自在に周遊できる。

数多くの旅行客は、船中泊の2泊、島内で3泊の5泊6日の日程が多く、
父島にしても『おがさわら丸』が停泊していない期間は旅行客は大幅に減少するのである。
私達のような退職後のリタイアした60、70代の人たち、或いはマリン・スポーツなどで熱意ある人たちのリピータの一部が、
この間に滞在しているのが多く見られたのである。


このような状況なので、シーズン・オフの今、たまたまホテル『ホライズン』さえも、
私達夫婦だけとなってしまったのである。
そして、2月28日(日曜日)の夜から3月3日(水曜日)の『おがさわら丸』が入港するまで、
私達夫婦はたった一組の客となり、レストランで朝食、夕食を頂いても、何かと落ち着かないのが本音である。


        第8章  父島の内陸を散策すれば

3月1日の午前中は、昨日の2月28日の津波の襲来で避難しりしたせいが疲れを覚え、
ホテル内でのんびりと私達夫婦は過ごしたが、
『父島 ガイドマップ』を見たりしていた。

そして、初心者向けの『森・山歩き』のツアーで島内の森を散策しょう、と私達はツアー先に連絡した。
島内は『おがさわら丸』が昨夜の未明に出航した後、観光客は閑散とした状況なので、
何とか連絡が取れて、特別に施行して下さる方に依頼したのである。

http://www.e-ogasawara.com/activity/shima.html
☆ ボニンブルーシマ ☆

私達の滞在しているホテルに自動車で12時半過ぎに来て下さり、
体力の衰えた夫婦のやさしい森の散策を、と私は40歳前後の方に依頼したりしたのであるが、
三言ばかり話し合っているうちに、私達はこのガイドのお方に魅了されてしまったのである。

そして父島の最北部にある三日月山の展望台より180度は超える広い海原を眺めたのである。
家内はガイドさんの指導で、双眼鏡を眺めながら、クジラが観えるわ、
と歓声を上げたりしていた。

この後、山道を走破し、長崎展望台、初寝展望台から切立った崖を眺めたり、父島の東岸の洋上を観たり、
いずれも道路から数百メートルを歩いた見晴らし良い展望台からの美景であった。
この間、壮大な国立天文台VERAの小笠原観測局を観たりし、
この後は旧海軍の食料の防空壕、施設跡を歩き廻り、西岸の穏やかなコペペ海岸にたたずんだりした。

そして落陽の光景を観たい、と私達の要望で、ガイドさんは、
二見湾に射しこむ夕陽を境浦、そして三日月山の展望台に戻り、洋上に壮麗な夕陽から落陽の光景を長らく見つめたのである。

そして夜のとばりになり、ガイドさんは私達の滞在しているホテルまで送迎して下さり、
私は初めて父島の秘めたる情景に心は充たされたのである。



        第9章  峻久な時を秘めたる無垢な南島

私は『ホエールウォッチング』の2回目の3月2日で、父島の西岸の彼方に南島に上陸したと記載したが、
たまたまこの日は、『おがさわら丸』が父島の二見港がなく、観光客は少ない日となっていた。

そして私が未知の南島に上陸したのであるが、優しい女性ガイドの説明を受けながら、
私達一行の10名のほかは人影も見当たらず、歩き出したのであるが、
私は島の無垢な情景の数々に圧倒されたのである。

小笠原村観光協会の解説文の言葉をお借りすれば、
《・・
この南島は都の天然記念物に指定され、また、新東京百景の1つに選ばれた石灰岩でできた小笠原随一の景勝地。
世界的にも珍しい沈水カルスト地形の島でまぶしいほどの白い砂浜、
エメラルドグリーンの扇池、そして青く澄み切った空がとても美しい。
手つかずの自然以外何もない、別世界の時が流れているこの空間へ
・・》

大半の観光地の美麗な写真、解説には、一番良い時節にプロの方が撮る景観を掲載していることが、
殆どであるが、今回の南島の光景はまぎれなくこの写真以上に美しいのである。


しかしながら、私はこの後3月4日の三度目の『ホエールウォッチング』の時も南島を訪れたのであるが、
数多くの観光船のグループの人たちが上陸されて折、私は途中で断念した。
この秘めたる無垢な情景は、できうる限り少人数で歩き、
それぞれが心の留められれば、心の片隅に深く残る、と確かに教えられたのである。



        第10章  ふたたびホテルは活気となり

相変わらずホテルの客は私達夫婦だけで、朝食を終えた後、
散歩かわりに歩いて一キロ程近くにある『亜熱帯農業センター』に出かけたのである。

ゆるい登り道路の脇の歩道を歩き、少し汗をかいた頃に到着したのであるが、
人影もなく、桜の花、亜熱帯の植物を観賞したが、数多くの花の咲く時節の谷間であり、静寂な情景であった。

一時半ばかりセンター内を散策した後、ホテルの前にあるバス停の『扇浦海岸』までの下り道を歩き、
この後は村営バスで街の中心街に出たのである。

そして家内は、昼食は緬類を食べてたい、というので、素朴に食堂風の店に入った。
店内の一昔の看板が展示するように数多く見られた。
私は家内に懐かしい看板だね、と云いながら、その当時の思いで話をしたりした。
私はチキンのガーリック味を頂きながら、ビールの大瓶を2本を呑んだりした。
店を辞する時、『波食波食(ぱくぱく)』と店の看板があり、私は思わず微笑んだりした。

そして街中を歩き、家内は長袖のスポーティなシャツを買い求めたりした後、
私達は村営バスに乗り、ホテルに戻ったのは午後2時前であった。

そしてバルコニーで二見湾の情景を眺め、煙草を喫っていると、
『おがさわら丸』がゆったりと二見港に入港してきた。

『おがさわら丸』の定時入港は午前11時半であるが、
過日の津波により少なくとも10時間以上遅れて出航したので、
少しは挽回して4時間遅れの午後3時半に入港したのである。


そしてこの船に乗船してきた一部の人たちが、
ホテルの宿泊者となり、70歳前後の女性の4人グループ、50歳前半のご夫婦の二組、
70代のご夫妻、30代のご夫妻、そして女性の30代前半が宿泊者と加わり、
私達夫婦を含めて15名となり、
私達はレストランで隣席の人たちと穏やかに談笑したり、或いはロビー等で話したりしたのである。



        第11章  夜の浜辺、里の情景は

私達はホテルのベランダからは、夜のひととき前方の扇浦海岸、二見湾、
そして彼方に観える二見港の船舶の灯り、大村の街灯りを眺めたりしていた。

観光のひとつとして『ナイト・ツアー』があり、浜辺、里山の情景を観せてくれるのを知っていたので、
日中に観る情景とはまったく変貌すると思われるので、私達夫婦は3月3日の夜にツアーに参加した。

この日は『おがさわる丸』に入港したので、若い20歳前後の女性3人とグループとなり、
ガイドさんの導きに観賞したのである。

私達は暗い小浜海岸で特有のの蟹(カニ)を観たり、
付近の大きな樹木の実が、たとえ川に流れようとしても、やがて岸辺の地に根付く、
たくまし樹木を眺めたりした。

そして、たまたま午前中に訪れた亜熱帯農業センターで、
この小笠原諸島に住むコウモリの生態を見つめ、椰子の花などを食べている状況を見るができたのである。

その後、幻のキノコを観るために山沿いのせせらぎに行ったのであるが、
湿度と温度の微妙な環境を要求されるキノコであるので、
無念ながら拝見できなかったのである。

私は蟹、コオモリに余り興味がなく、家内は喜んでいたが、
独り夜空の星の方に魅了されていたが、曇り空で余り観えなかったのである。
そして雲間に恥ずかしげに隠れてしまった数多くの星に、
どうして内気なの、と私は恨めしげにわずかな星を眺めていたのである。

ホテルに戻り自動車の中で、ツアーのさなか若い女性3人の歓声、ため息、話し声、そしてしぐさに、
カニ、コウモリより遥かに学んだことを思いだし、
独りで微苦笑していたのである。



       第12章  そよ風を海辺の休憩所で受けながら

3月5日の朝食後、明日の6日は『おがさわら丸』に乗船するので、
家内は帰り仕度の荷物の整理をしていた。

私達は日中はホテルの間近にある休憩所でのんびり過ごそう、と昨夜に話し合ったていた。
ホテルの前の道路を渡ると、左手にコテージ風の休憩所があり、
四角い木目の大きなテーブルが四つあり、それぞれ長イスがあって、外れにはシャワー・ルームとトイレが備えられて折、
村営の休憩所として優美なたたずまいである。

前方に幅広い砂浜が広がり、そして青い色をなして白く打ち寄せる波、彼方は蒼い色の海原、
私達は最初にこの場所に来た時から、何かと気に入って、
近くにある村営バスの『扇浦海岸』のバス停で街中に行く時も、
この休憩所を利用させて頂いたのである。

10時過ぎに大きなテーブルのひとつにバックとデジカメを置き、
長イスに座って、前方の白い砂浜に打ち寄せる波、そして青い浅瀬の海が広がり、
その先は蒼い色彩を増しながら彼方まで続く洋上を眺めると、時が過ぎさるのが忘れるくら見惚(みと)れていたのである。

そして、時折そよ風を私は受けながら、煙草を喫ったりしていると、
旅も終わりに近づいてきたことをぼんやりと感じてきたのである。


思い返せば、2月24日に早朝に自宅を出て、竹芝桟橋に早めに到着し、
『おがさわら丸』は定時の午前10時に出航し、一路南下して翌日の25日の午前11時半に父島の二見港に入港した。

そして滞在するホテル『ホライズン』にチエック・インし、この夜から創意工夫のある夕食、そして朝食を頂いたりした。

26日の日中は大村の街中に行き、『小笠原ビジター・センター』でビデオを3本ばかり観賞し、
小笠原諸島のことを多々教示を受けたりした。

27日は初めての『ホエール・ウォッチング』の観光船に乗船し、
潮風を受けたり、潮水を浴びたりしたが、ザトウクジラを数多く観られ、洋上からの父島、兄島の景観に魅せられた。

そして28日には、津波警報に驚きながら『扇浦 交流センター』に避難し、
夜の8時の避難解除まで過ごしたりした。
この間に『おがさわら丸』は二見港を定時の午後2時に出航が遅れ、深夜の未明に出航したと翌朝知ったりした。

3月1日からは、3日の『おがさわら丸』が午後3時に入港するまで、
ホテルの宿泊客は私達夫婦だけとなり、レストラン等で何かと落ち着かない日々が続いた。

2日の日中は、二度目の『ホエール・ウォッチング』の観光船に乗船し、
まぎれなく神秘の南島に上陸し、散策しながら数多くの景観に魅了させらたのである。

3日の午前中はホテルから程遠くない『亜熱帯農業センター』を散策したり、
夜のひとときは『ナイト・ツアー』に参加し、夜の情景を眺めたりした。

4日の日中は、三度目の『ホエール・ウォッチング』の観光船に乗船し、
高速大型船で父島の西岸を北部の彼方から南部の彼方まで、縦横くまなく走破しながら、
ザトウクジラを見飽きるほど観せてくれたのである。


このようなことを思い浮かべたりしたのであるが、過ぎてしまえば余りに早く感じる・・。

前方の浅瀬の海に、カヤックが三隻が観られ、
この中のひとりの指導員がシーカヤック挑戦の初心者を教えている。
家内は微笑みながら、この状景を見つめたりし、
私も挑戦すればよかったわ、と私に云ったりしながら笑ったりした。

この後、家内がホテルに引き返して、缶ビールを2本とおつまみ、お菓子を提げてきた。
よそ風に身をゆだねて、ビールを呑み、前方の海の色合いを観れば、
贅沢すぎるかしら、と感じるのである。
そして私にとっては、このような天国であったならば、通俗の言葉で記すと、確かな極楽だね、
と心の中で呟(つぶや)いたりした。



       第12章  『おがさわら丸』父島・二見港の出航の光景は

6日の朝食後、午後2時に出航する『おがさわら丸』に乗船する為、
ホテルの方が船客待合所に私達の大きめの旅行バックを届けて下さるので、
チエック・アウト後は私達は身軽に村営バスに乗り、二見港から近くにある『小笠原ビスターセンター』に行った。

そして過日、感銘を受けたビデオを3作品を観賞した後、
付近の大神山公園の東屋風の休憩所で、昼食として煎茶を飲みながら、お弁当を頂いたりした。

そして船客待合所に行き、数多くのいる人々中、予約券の指定乗船券を本券に代え、
券の右側にある乗船名簿欄に記載したりした。
そして、確約した午後1時15分過ぎに、ホテルの方が所定場所に私達の旅行バックを届けて下さり、
私達はホテルの方に滞在中に何かとお世話になった意味合いのお礼を云ったりした。

この後、ホテルのお方から、私達にそれぞれ真紅の大きなハイビスカスの花を二輪を頂き、
私達は大きめの旅行バックを持ちながら乗船し、指定されたBデツキ・フロアーの『特一等』の一部屋に入室した後、
船室と船べりの間のデッキに行ったが、
岸壁に面した右舷は私達と同様な船客で鈴なりになり、上階のAデツキでも同じように船客で満ちていた。

下方に見える船客待合所の前の岸壁に面した広場は、数多くの観光関連の村人、滞在されている観光客が折、
中央には太鼓を打ち響かせる青年がいて、活気ある歓送の宴となっていた・・。
私達の船客は少なくとも600名ぐらい折、お互いに思いを残しながら、手を振ったり、大きな声で感謝の言葉を張りあげていた。


そして『おがさわら丸』はドラの音を鳴らすと、船は岸壁を静かに離れはじめた・・。
乗船した私達も見送りに来て頂いた下方に見える人々に手を振り、
ホテルのお方も見えて、私達夫婦は手を大きく振ったしていた。

私はこの後、華やかな真紅の大きなハイビスカスの花を二輪を岸壁に向かい、
お世話になりました、と心に呟(つぶや)きながら投げたのである・・。

そして盛大な歓送をして頂き、岸壁から50メートル以上離れたので、
船室に戻ろうとしていた時、『おがさわら丸』の右舷の数10メートル離れた周辺に観光船が少なくとも30隻以上が見え、
私達の乗船している『おがさわら丸』に並列するように小さな波間を疾走してきたのである。

それぞれの観光船は船長をはじめ、男性、女性スタッフ、滞在客も乗り、大きく手を振っていた。
そして、この中の一隻は後部に太鼓を響かせ、
最上部の狭い観覧席でひとりの青年が逆立ちをして、両足を開き『V』サインをしばらくの間し、
私達乗客600名ぐらいの殆どは、盛大な拍手と歓声を上げたりしたのである・・。

二見湾の中央付近になっても、それぞれの色彩を帯びた観光船は波間を疾走し、
私達が『ホエール・ウォッチング』に利用させて頂いた『ピンクドルフィン号』、『ドリーム号III』、『MissPAPAYA』の三隻も観え、
思わず私は大きく手を振り、そして遊覧船のスタッフも盛大な手を振りあげていた・・。

この後、二見湾から外洋に出る前に、それぞれの遊覧船のスタッフが海に飛び込み、やがて海上から手を振っていた時、
私は涙を流していたことに気付いたのである。

『おがさわら丸』は外洋に出て、速度を上げ、私は潮風を顔に受けながら、過ぎ去っていく二見湾、そして父島を眺めていた。



       最終章  『おがさわら丸』を下船後、都心を過ぎ、そして我が家に

7日の午後3時45分に『おがさわら丸』は15分ばかり遅れて、東京湾の竹芝桟橋に着岸した。
昨日の午後2時に南方1000キロの彼方の父島・二見港を出航し、
私達の父島滞在の9日間は快晴に恵まれた22度から26度の快適な日々を過ごせ、
津波で避難した日だけは曇り時々霧雨であったが、
都心に向かい北上するたびに気温は低下し、小雨の降る6度ばかりの肌寒い状況で下船した。

私達は大きめの旅行バックを二つばかり持ちながら、竹芝客船ターミナルの食事処に入った。
私は笊蕎麦(ざるそば)を頂きながらビールを呑だりし、
『旅立つ前は11泊12日は長い旅路と思われたが・・こうして過ぎると早かったね・・』
と私は家内に云ったりした。

家内は早朝に船酔いに青ざめてに、下船する3時間前に少しは元気になったが、
疲れを感じた表情をしていた。

私は別室の喫煙できる部屋に行き、煙草を喫いながら、ビールを呑んだりしていると、
広場を急ぎ足で現役の諸兄諸姉の10数人が通り過ぎて行くのが見えたりした。
私が現役の民間サラリーマン時代には、数多くの人たちと同様に多忙で、
新婚旅行、勤続30、35年で特別休暇を頂いた時でも、4泊5日が限界であり、
職場に慌ただしく復帰し、私なりに精勤していたのある・・。

定年退職後、初めて長め旅行ができ、今回の父島にしても3泊滞在を少し長く5日ぐらいと思ったりしたが、
船の定期船のサイクルで結果として9泊の滞在となったのである。

このようなことをぼんやりと思いながらも、
父島でお逢いした人たちの多くは、純粋な心を持ちながらしなやかに生活をされている、
と改めて思いを馳せたりしていた。
何よりも都心と違い、単なる利便性に惑うことなく、確かな日々を過ごされていると感じ深めたのである・・。

冷たい小雨が降り、大きな旅行バックが二つもあり、家内にタクシーで帰宅しょう、と提案し、
私達はタクシーに乗車し、車窓から浜松町、芝公園、六本木、青山、渋谷のビジネスと繁華街を眺めながら通り過ぎ、
そして成城学園の住宅街を通過して、まもなく調布市に入ると我が家に到着したのである。

そして門扉を開けて、玄関への石段を上がると、玄関庭の白梅は散り、周辺の黒土に花びらが散乱し、
門扉の近くの椿は数多くの赤い花を咲き、小雨の中を彩(いろど)っていた・・。


私は旅の終わりで『おがさわら丸』で船中泊したせいか疲れていたが、
深夜の夢の中で、小笠原の父島でお逢いできた人たちが数多く出て、話し合ったりしていたのである。
この中のひとつとして、硫黄島で敗戦前に農業をされていた高齢の女性、
観光船の船長と女性スタッフの船上で溌剌としたしぐさ、明るい笑顔で私に話しかけられ、
私は長年に都心の利便性を享受せいか弱虫となり、モジモジと返事をしたり、
落ち着かないしぐさをしたり、眩(まぶ)しげに見つめたりしていたのである。


                                 《終り》
・・】

このように私達夫婦は、東京都の一部である都心から遥か彼方の小笠原諸島の父島の旅をしてきたが、
これまで幾たびか島めぐりの旅を重ねてきた私共は、
限りなく素朴さの秘めたまぎれない美しい島であった。


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テレビ旅番組の『いい旅夢気分 ~小笠原諸島~』、私達夫婦もこの旅路に思いを馳せ・・。【上】

2011-03-24 15:41:15 | 旅のあれこれ
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であり、
昨日の23日の夕食前に、家内は読売新聞の夕刊を読んでいた時、
私はネットでニュースを見たりしていた・・。

『8時から・・テレビで小笠原諸島のこと・・旅番組で放送するわ・・』
と家内は私に云った。

平素の私は、テレビ番組に関しては、NHKの総合ニュースを視聴したり、
ドキュメンタリー番組を見る程度であるが、
私達夫婦は共通趣味は国内旅行であるので、ときおり私達はテレビの旅番組を視聴している。

家内から私は教えられた小笠原諸島を放送する番組は、
テレビ東京で、『いい旅夢気分』の定例番組で、
『いつかは行ってみたいNo.1 ”東京都小笠原諸島” クジラ&イルカに遭遇 青海と白浜』
と読売新聞のテレビ番組表に明記されていた。

私たち夫婦は、たまたま小笠原諸島の父島に、
昨年の2010年2月24日から3月7日に旅をしてきたので、
この時の思いも多々あり、昨今の東日本地震の影響で何かしら自粛したような風潮が感じられ、
少しばかり後ろめたい気分であったが、私達夫婦は、この番組を視聴した・・。

http://www.tv-tokyo.co.jp/iitabi/backnumber/thisweek/index.html#01
☆【テレビ東京】<== 『いい旅夢気分』3月23日《 紺碧の海と緑の島々 美しき小笠原諸島 》☆



この番組を視聴しがら、ぼんやりと私私達夫婦の小笠原諸島の父島の旅路を思い馳せたのである・・。


私は一昨年の秋に、家内が海上にクジラが遊泳する情景を観たい、と念願していたので、
昨年の2010(平成22)年の2月24日から3月7日の11泊12日間で、
小笠原諸島のひとつの父島に私達夫婦は旅行をした。

私達夫婦は国内旅行は共通の趣味であるが、一昨年の2009(平成21)年の晩秋、
海外旅行は苦手であるので、クジラを観るのは小笠原諸島にしょうとした上で、
最も観られる確立の高い2月前後が良いかしら、と思ったのである。

そしてこの間に私は、小笠原諸島の父島などについて、
【YAHOO! JAPAN】の『地図』情報に於いて、検索したのであるが、
東京から南下し、遥か彼方の1000キロぐらいの時点に、父島があることがわかったのである。

この遥か西方には、同じような緯度で沖縄本島にあり、少しばかり驚いたりした。
そして、小笠原諸島は父島のある父島列島、母島のある母島列島をはじめ、
東方には日本の最東端の南鳥島、南下にはかの戦争で過酷な激戦地となった硫黄島のある硫黄列島、
西南方には日本の最南端として有名な沖ノ島が海上にある。

もとより小笠原諸島の父島は、同じような緯度にある沖縄本島とは、
人口、面積、そして託されている肝要の状況も全く違い、人口の最も多い父島さえ、
東京都小笠原村と明示されている。
このような状況下などで、交通の利便性は、
沖縄本島の那覇空港には羽田空港からは頻繁に3時間ばかりの航空路であるが、
父島は東京の竹芝桟橋から週に2回だけ客船で25時間半で、何とか接岸するのである。


2月24日から3月7日の11泊12日間であったが、
都心より南下すること1000キロの客船の航路だけが交通手段であり、25時間半の船中泊を得て、
はじめて小笠原の父島に入港できる稀な旅路となったのである。
そして、この定期船はトップ・シーズン以外は、6日サイクルで運行されるので、
遥かなる南の島と私は称したりしていたのである。

船旅で往復路にそれぞれ1泊し、現地のリゾートホテルに9泊をしたが、
この間に感じたり、深く心に残ったことは、このサイトに於いて、
【光と風の中、夢の島のひとつは小笠原諸島の『父島』・・。】と題して、14回に及び投稿した。

投稿を重ねていると、書ききれなかった心残りにあり、思い浮かべながら記載する。

新聞に関しては、定期船の運航サイクルの関係で、
東京・竹芝桟橋を出航の直前に、最新数日分の同乗させるので、
私の見た限りでは父島の現地のスーパーは入港した分だけが並ばれていた。
週刊誌も最新号がわずかにあり、本屋は見当たらなかったのである。

そしてガソリン・スタンドは一軒、タクシーも一台を滞在期間中に見かけただけで、
村営バスが公共交通機関となっていた。

何よりも村人の多くは、携帯電話は業務用には見かけたが、
これ以外は街中で携帯電話で私用されている状景は私として皆無であった。


このような状景を見たり、現地の圧倒的な風光明媚な数多くの景観を観たりすると、
もとより東京都に所属し南下したひとつの島であるが、
まぎれなく夢の島であり、ドリーム・アイランドと私は称したのである。

そして、旅路の時、宿泊したホテルのスタッフの方のひとりに、
ホテルから港まで、たびたび送迎をして下さった時の言葉を重ねた中のひとつを思いだしたりしたのである。

小笠原の父島は、同じような緯度にある沖縄本島あるが、
人口、面積、そして託されている肝要の状況も全く違い、
交通の利便性は、沖縄本島の那覇空港には羽田空港からは頻繁に3時間ばかりの航空路であり、
父島は東京の竹芝桟橋から週に2回だけ客船で25時間半で、何とか接岸する。

父島も空港が検討されてきたと知ったが、
空港ができた場合は、少なくとも現在の10倍の観光客は訪れ、島の経済は確かに向上するが、
沖縄本島のリソート地で観光客のにぎわう状況を見れば、
まぎれなくドリーム・アイランドの美麗な情景はまたたくまに失くなる。

父島は客船で25時間半に乗船して、はじめて訪れることのできる稀な島であるので、
数多くの美麗な情景、何よりも素朴な人たちのしぐさ、言葉、さりげない笑顔がある、
と私は確信しながら、ホテルのスタッフの方に云ったりしたのである。


私はこうした思いがあるので、たとえ世界自然遺産登録されなくとも、
まぎれなくドリーム・アイランドは、島民のひたむきな努力で存在するのである。

そして、都市で時間に追われ、たえず多忙な勤務を続け、生活する数多くの人たちを思い、
いつの日にか小笠原諸島の父島、母島に訪れて、
過ぎ去る時も忘れるかのようなドリーム・アイランドで心身を癒(いや)しませんか、
と年金生活の私さえ深く感じたりしたのである。

このような私なりの深い思いがあり、今回は異例であるが、
【 光と風の中、夢の島のひとつは小笠原諸島の『父島』・・。】と題した投稿文を編集して、
再掲載をする。


【・・
    光と風の中、夢の島のひとつは小笠原諸島の『父島』・・。【2010.2.24.~3.7.】


        序 章

私は東京郊外の調布市に住む年金生活の65歳の身であるが、
私達夫婦は国内旅行が共通趣味であるが、未知の小笠原諸島の『父島』に訪ねることは、
昨年の9月が終る頃、家内が海上で遊泳している鯨(クジラ)を観てみたいわ、と私に云ったことが起因であった。

色々と調べた結果、海外には苦手な私達は、
小笠原諸島の『父島』で2、3月にザトウクジラが観られることが多いと知り、
旅行会社の『ナショナルランド』に船の予約と宿泊先の確保を依頼した。

http://www.n-l.co.jp/
☆ ナショナルランド ホームページ  ☆

宿泊先の選定は静寂で景観の良いところは確保できたのであるが、
船室はトイレのある部屋を家内が要望したので、
結果として『特一等客室』が確約ができたのは、旅立つ前の二週間前であった。

このようなかたちで、2月24日から3月7日まで船中泊往復路2泊、『父島』のホテル滞在9泊となった。



        第1章  都心から1000キロ南下する『おがさわら丸』

私達夫婦は『おがさわら丸』に乗船する為に東京港の竹芝桟橋に到着したのは、
出航時10時の2時間半前であった。
私達は竹芝客船ターミナル内の食事処でコーヒーを飲みながら、
一番長い旅行となったので、大きな旅行バックをふたつに微苦笑をしたりした。

この時節の東京の郊外より10度ばかり高い遥かなる南下の『父島』であり、
衣服に戸惑いながら、準備してきたのである。
東京の郊外の5月中旬の頃を想定してきたが、
『ホエール・ウォッチング』の観光船の時は風を受けて寒いと聞いたりしていたので、
私達の旅行で初めて旅行バックがふたつとなったのである。

『おがさわら丸』出航時の30分前に指定された船室に旅行バックを置いた後、
ツインベットを中核とした洋風の中で畳一畳ばかりが和室風となり、小机が配置されいた。

http://www.ogasawarakaiun.co.jp/
☆『おがさわら丸』 ホームページ ☆

定刻の午前10時に出航した『おがさわら丸』は明日の午前11時半『父島』の二見港に着岸するまで、
都心から南下する1000キロばかりの25時間半の船旅が始まった。

私達は船室の大きな窓から、彼方の伊豆七島の『大島』を右舷で観ようとしたが、遥か彼方で展望できず、
私は畳一畳ばかり和室風の小机に純米酒とおつまみを置き、
座布団の上で胡坐(あぐら)をかいて、呑み始めた。

その後、ときおりベットでまどろんだり、或いは喫煙室に行き、煙草を喫いながら窓辺から海上を眺めたりた。

深夜、家内から星が綺麗、と云われ、
家内のベットのまじかな窓辺から、私は散りばめられ数多くの星の輝きを見惚(みと)れたのである。

朝の7時過ぎにレストランでサバを焼いたのを主食として私は大盛りのご飯を頂いた後、
サンデッキで風に吹かれながら海上を眺めたりした。
その後、イルカと海鳥の多いと称せられている聟島(ケータ・ジマ)が、まもなく左舷に観えます、と船内放送が聴こえ、
私はぼんやりと小笠原の最北部の聟島列島に『おがさわら丸』が近づいてきたことを知り、
ほっとしながらも海上の聟島列島の景観をゆったりと眺めたりした。


定刻どおり11時半に『父島』の玄関口である二見港に接岸し、私達は下船後、
燦燦と照りつける陽射しの中、船客待合所の前で宿泊先のホテルの明記された手持ち看板に行き、
ホテルの方に旅行バックをお願いした後、
近くの食事処の『ホライズン・ドリーム』の前で12時45分にホテルの方が送迎して下さる、ということになった。

私達は『ホライズン・ドリーム』の2階にあるイタリアンの創作料理店に入り、昼食とした。
私は島魚のカルパッチョ風の料理を頂きながら、ビールを二杯ばかり呑みながら、
南国の二見港の情景を眺めたり、停泊している『おがさわら丸』を眺めたりし、
やっと念願の父島についたねぇ、と私は家内に微笑みながら話したりした。



        第2章  海辺のリゾートホテル『ホライズン』

私達は昼食を終えた後、一階のケーキ、パン、お弁当、お土産の売り場の店先の木のベンチにいると、
ホテルの方の送迎車が数分後に来て下さり、私達は乗り込んだ。

『父島』の玄関口である二見港の船客待合所の前にある大通りを過ぎ、そして街並みを過ぎると、
ゆるやか丘陵、トンネルをふたつばかり通り過ぎた後、忽然と広く広がる静寂な浜辺のある海岸が観え、
ホテルに着きました、と送迎車のホテルの方から告げられ、
私達は小さなホテルの美景に見惚れた。

チエックイン後、私達は三階の部屋に通され、私は椅子に座りながら、ホテルの案内書を開いたりしていた。
そしてホテルの概要を読んだ時、私は思わず微笑んだのである・・。


小笠原諸島は、東京から南へ950~1300Kmの太平洋上に点在する30余りの島から成り立っています。
人が住んでいるのは、父島と母島だけで、中心となっている父島の緯度は沖縄やフロリダとほぼ同じで、
年平均23度という暖かさです。

世界でも有数の美しい海が広がり、熱帯植物が茂る常夏の島で、”最後の楽園”といわれています。

当ホテルは、父島二見湾のほぼ中央の扇浦に位置し、海岸を目の前にして、シーサイド・ホテル。

小笠原に初めての本格的なホテルとして、1993年2月11日にオープン。
部屋数は14部屋、すべてがツイン仕立てで、
広々としたロビーに、海が見えるレストラン。

小さな島の小さなホテル


このように明記されて折、特に私は最後にある《小さな島の小さなホテル》に魅せられたのである。

部屋の前にあるベランダからは、扇浦の白色の砂浜、打ち寄せる波、
海の色合いは青い色、薄い蒼い色、蒼い色、そして濃い蒼い色と四色の色合いを織り成して海原が続き、
右側の前方には二見港の桟橋、街並みが観え、
前方の彼方に切立った小山の上に三日月山の展望台のあるウェザー・ステーションが聳(そび)えていた。

私が若い女性であったならば、『凄い・・綺麗だわ・・』と歓声を上げると思われるが、
私は家内に、『まぎれない美しい景観だね・・』と云ったりしていた。

http://www.mmjp.or.jp/hotel-horizon/
☆『ホテル ホライズン』ホームページ ☆

この後、私達は扇浦の浜辺を歩いたり、付近の周辺を散策したりした。

尚、このホテルの部屋に備えられている浴室は、一新されて折、
洗い場のある優美なバスになっている。



        第3章  扇浦海岸の周辺を散策すれば

ホテルの目前にある扇浦海岸を散策しょう、と私達は出かけたのであるが、
ホテルの前の道路を渡ると、左手にコテージ風の休憩所があり、
四角い木目の大きなテーブルが四つあり、それぞれ長イスがあって、外れにはシャワー・ルームとトイレが備えられて折、
村営の休憩所として優美なたたずまいである。

前方に幅広い砂浜が広がり、そして青い色をなして白く打ち寄せる波、彼方は蒼い色の海原、
ときより風はそよ風となり、長イスに座っていても、見飽きない情景であった。

私達は扇浦海岸の砂浜を歩き、ときおり家内は打ち寄せる波の処を歩き廻ったりした。

この後、海岸の外れのゆるい丘の南国に相応しい雑木林を歩いた後、
下り道の一角に納戸小屋が見え、ひとりのお齢を召した女性から、私達は話しかけられたのである・・。

まもなく90歳になる女性は、太平洋戦争前は硫黄島でご夫婦で農業をされて、
強制退避させられて、八丈島で移住して農業をされた後、
この父島が日本に返還された1968(昭和43)年に移住されて農業をする為に、
この地を買い求めて住まわれている。
この間、ご主人を失くされ、今は独り住まいとして、硫黄島の強制撤去による土地補償代もあり、
こうして暮らしを立てて生活をされている、と微笑しながら、
私達に話されたのである。

歴史に翻弄されながら、健気に生活されている女性に、
大変な時代を過ごされまして、と私は云いながら思わず頭(こうべ)をたれたりしたのであった。


この後、私達はホテルの近くにある『小笠原神社』を参拝したり、
『開拓小笠原之碑』、『無人島発見之碑』を見たりした後、
休憩所の道路際にある『小花作助之碑』の功績文を読んだりしたのであった。

ホテルの部屋でぼんやりとしていると、
午後5時に村役場からの時報代わりに、『椰子の実』のメロディが静かに鳴った。


私はこの夜、遅ればせながら父島の歴史を改めて学んだりした。
江戸時代の1670年に於いて、紀州の蜜柑(ミカン)船が『母島』に漂着して、
『八丈島』経由で伊豆『下田』に生還し、
島の存在が下田奉行所経由で幕府に報告された・・、
このような事柄に私は興味をいだいたりしたのである。

もとより母島はスペイン人が発見したという説、
19世紀に欧米の捕鯨船が父島に寄港したり、その後はハワイ人が入植したこともあるが、
学べば学ぶほど興味はつきないのである。

そして私はベランダで煙草を喫いながら、散りばめられた幾10かの星を眺めたりした。


                                   《つづく》

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