夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

早くも『七夕飾り(たなばた・かざり)』にめぐり逢い、私は微笑み、やがて過ぎし年に思いを馳せて・・。

2018-06-30 12:21:44 | ささやかな古稀からの思い

私は東京の調布市に住む年金生活の73歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。

こうした中で、家内は遠方に独り住まいをしている家内の母の介護で、
家内の妹と交代しながら、ときおり6泊7日前後で行き、
この間、我が家は私が『おひとりさま』の生活をしている。

たまたま今回は、6月21日より家内の母宅に行き、本日我が家に帰宅予定となっている。

この間、
私は相変わらず午前中のひとときは散策しているが、
昨日はたまたま我が家から3キロぐらい先にある都立の『神代植物園』に訪れた。

私は今住んでいる近くに生家もあり、結婚前後5年を除き、この地域に住んで早や68年となり、
私が通学した中学校も『神代植物園』の近くにあり、こうした関係で、
私は幾たびも訪れている『神代植物園』となっている。

私は自宅より最寄り駅まで15分ばかり歩いた後、駅前より路線バスに乗車し、
『神代植物園』正門前で下車した。

まもなく入園すると、『七夕飾り(たなばた・かざり)』にめぐり逢い、私は微笑んだりした・・。

              


やがて大きな樹の下にあるベンチに私は腰かけて、
ペットボトルの冷茶を飲みながら休息とした・・。

そして確か『七夕(たなばた)の日』は7月7日だったと思われるが、
こうした『七夕飾り(たなばた・かざり)』は、今の時節でも序曲としも素晴らしいよねぇ、
と私の中で呟(つぶや)いたりした。

まもなく私は『七夕(たなばた)』のことに、ぼんやりと過ぎし年に思いを馳せたりした・・。

              

私の現役サラリーマン時代の夏季休暇の旅行は、

1996年(平成8年)の時は、作並温泉に8月初旬に3泊4日で滞在した。

この当時、私たち夫婦は、何かとJR東日本のビューの旅行パンフレットを見たりして、
幾たびか旅路を休日とか代休を活用して、重ねていた私たちの時代であった。

こうした中、仙台市の郊外にある作並温泉は未知であったので、
夏季休暇を利用して、周辺の観光めぐりをしょうとした。

この当時も、私は現役のサラリーマンで数多くの人と同様に、多忙な時期であった・・。

春先に大幅な人事異動であり、私も異動し、ある部署に落ち着いたと感じた夏季休暇に、
家内と宮城県の作並温泉にある当時は観光ホテル『一の坊』に3泊4日で滞在した。


上野駅から新幹線に乗り、たった2時間ばかりで仙台駅に到着したのは、

私はかっての国鉄時代の『L特急』大好きだったが、新幹線の威力に改めて驚かされた。

そして在来線の仙山線に乗り継ぎ、仙台市の郊外の情景を眺めたりし、
『愛子』と名づけられた駅、街を思わず微笑んだりした後、1時間弱で、作並駅に到着した。

駅前から宿泊先の観光ホテルの迎えのマイクロバスが待機して下さり、
私たち夫婦は乗り込み、樹木の多い林の中を通り抜けると、
宿泊先の看板、そして建物が観えた。

広瀬川に沿ったゆるやかな傾斜に館内の露天風呂の数々があり、
私たち夫婦は、それぞれの風呂を享受した。

そして川べりに近いところからは、広瀬川の清流に小魚が遊泳する情景も見られ、

水は清き、という言葉がぴったりだ、と私は家内に話しかけたりした。

              

こうした中、館内に宿泊している方達は、仙台の七夕を観に行かれる方が多かったが、
私は平素は会社で多忙だった時代で、せっかくの休暇に、
わざわざ人の多過ぎるところは、なるべく避けていたので、論外であった。

まもなくホテルのロビーの一角に、
3メートル前後の竹に5色の短冊が飾り付けられていたことに気付いた。

私は昼の風呂上り、浴衣姿でロビーの一角を歩いていた時、
この短冊を何気なしに読んだりしてしまった・・。

数多くの短冊を読んだが、ひとつの短冊に瞬時に心を惹(ひ)かれた・・。

《 らいねんも このホテルに
      かぞく ぜんいんで こられますように 》

と小学生の上級生の女の子らしい綴りで書かれていた。

        
私は作並温泉に訪れる途中で、
仙台市内の華麗で豪壮な七夕(たなばた)を少し観えたが、
この女の子のひとつの短冊に籠(こ)められた願いが、心に沁みた・・。

そして私は華美な仙台の七夕もそれなりに良いが、遥かにこの短冊のひとつに魅了され、
この人生の微笑みを頂き、心を寄せたりした。

このようにささやかな想いでがあり、私はこうした情愛が限りなく愛(いと)おしく、
華美な飾りより、たったひとつの願いを託した尊ぶ心に、圧倒的に魅了されたりした。

              



私は齢を重ねるたびに、幼年期の頃の出来事を思いだすことが、多くなっている。
こうした時に、幼年時代に七夕の飾り、短冊のことも思いだされる・・。

私は1944年(昭和19年)の秋、東京の郊外で農家の三男坊として生を受けた。

祖父と父が中心となり、小作人の手を借りながら、程々に広い田畑を耕していた農家であった。

こうした中で、七夕(たなばた)に関しては、
私が小学生の頃まで、生家の庭の隅に竹に短冊を吊るす慣わしだった。

東京の都心は、もとより全国の各地は『七夕(たなばた)の日』は7月7日が多かったが、
東京の郊外の付近の一部の地域に於いては、一ヶ月遅れの8月7日であった。

              
          
               現在、私の住む周辺は無念ながら竹林がなく、私が6月中旬、近くの『実篤公園』で撮った一葉。


母屋の宅地に隣接している竹林から、
兄と共に私は、孟宗竹の今年成長した5メートル前後の若竹を一本だけ伐って、
庭の片隅みに兄たちが杭を打ち、安定させていた。

父の末妹の叔母が嫁ぐ前だったので、お正月の小倉百人一首と同様に、
叔母の指導の下で、私は妹のふたりと共に飾りだてをすることが多かった。

こうした毎年過ごしている間、
1952年(昭和28年)の3月、私が小学2年の3学期、父に病死され、
その翌年の1953年(昭和29年)年の5月に祖父が亡くなった。

農家の大黒柱の2人が亡くなり、母と叔母、そして長兄、次兄、私、そして妹の2人が残されたが、
もとより農業の技量、大人の男手を失くしたので、生家は没落しはじめた・・。


私は祖父の葬儀が終わった後、学校に行くと、担任の女の先生から、職員室に呼ばれた。
『XXくん、貴方のお父さん、お祖父(じい)さんも亡くなってしまい、
大変に可哀想と先生は思っていますが・・貴方、男の子でしょう・・
お母さんに心配させるようなことは・・分かっているわよね・・』
と私に言った。

そして
『男の子は、頑張るのよ・・』
と担任の女の先生は、私に握手してくれた。

              

やがて私は、その夏、短冊に秘かに書こうとしたが、少しためらっていた・・。

《 せんせい、あくしゅもいいけど、
              だきしめてほしい・・ 》

叔母や妹ふたりは短冊に何かしら綴っているので、私は本心を書けなく、ためらっていた。
そして私はやむなく、

《 せいせいも げんきで
            ぼくもがんばります 》
と何とか読める汚(きたな)い字で書いた。

短冊を吊るしている時、叔母が、
『どういうことなの・・』
と私に言ったりした。

『何でもない・・何となく・・』
と私は下を向きながら、叔母に答えたりした。

私は小学生の時は、兄ふたりは成績が良い優等生で、
私はいじけた『2』と『3』の多い劣等生で、可愛げもない児であったが、
齢を重ねた73歳の今、それなりに苦くも懐かしい想い出となっている。

                        

余談であるが、『七夕(たなばた)の日』に関しては、
現代風に解釈したならば、遠距離交際の恋人たちが、待ち焦(こが)がれて
たった一年に一度だけ秘かに逢える日、と齢ばかり重ねた私は、固く信じてきたひとりであった。

しかしながら、織姫と彦星の関係は恋人でなく夫婦であった、と65歳の時に私は知った時は、
私は、夢をこわさいないでね、と微苦笑したことがあった。

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関東甲信地方の『梅雨明け』は本日29日、私は戸惑いながら学び、やがて熱い夏の対策を思い馳せて・・。

2018-06-29 16:08:10 | ささやかな古稀からの思い

私は都心の郊外の調布市に住む年金生活の73歳の身であるが、
午前中のひととき、平素の買物、この後は遊歩道、公園を散策した後、
帰宅したら、テレビのニュースで、梅雨明け、と報じていた・・。

私の住む地域では、学童が夏休みに入る7月20日頃に、梅雨明けとなるのが、平年の習わしであり、
どうしてなの・・、私が少しボケたのかしら、と思いながら、
この後、私は信愛しているネットの【ウェザーニュース】を検索したりした。

まもなく、『29日(金) 関東甲信地方が梅雨明け  6月中の梅雨明けは初めて』と題された見出しを見て、
精読してしまった。
多くの御方に共有致したく、6/29(金) 11:01配信された記事を無断あるが、一部を転載させて頂く。

                

《・・関東甲信地方の梅雨明けが、気象庁から発表されました。
6月中に梅雨明けするのは統計開始以来、初めてのこととなります。

 <関東甲信地方 梅雨明けが早かった年>
  2018年 6月29日
  2001年 7月1日
  1978年 7月4日
  1973年 7月5日

関東甲信地方でこれまでに最も早い梅雨明けは、2001年の7月1日。
今年は過去最も早く、6月中に発表されるのは初めてのことです。
梅雨の期間は23日間で、こちらは1978年と並ぶ最短記録となりました。

また、奄美の次に、関東甲信が梅雨明けしたのは、2015年以来になります。・・》

注)記事の原文に、あえて改行を多くした。
              
                     

私は都心の郊外の調布市の片隅に住む年金生活の73歳の身であるが、
民間会社で35年近く奮戦し、2004年(平成16年)の秋、定年退職となり、
多々の理由で年金生活を始めたが、平素の買物ぐらいと思い立ち、私は自主的に買物の担当となったりした。

そして家内から依頼された品を求めて、私は独りで歩いて7分前後にある最寄のスーパー2店か、
或いは最寄駅まで15分前後歩いて、数多くスーパー、専門店で買い求めたりしている。

最寄駅までは、利便性ある路線バスは頻繁に走行しているが、季節のうつろう情景を眺めたり、
歩くことは何よりの健康の源(みなもと)と信愛している私は、原則として路線バスに頼らず、
ひたすら歩いて往還している買物メール老ボーイとなっている。

そして買物メール老ボーイの責務を終えた後、帰宅後も私は独りで外出して、
自宅から3キロ以内の周辺にある遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受している。

こうした根底として、いつの日にか認知症、或いは脳梗塞などの難病に遭遇したら、
困窮するので、ひたすら歩き、ときおり大股で歩いたり、或いは足早に歩くことが多くなっている。

           
本日、気象庁より梅雨開けが宣言されて、何かと熱さに苦手な私は困苦したりした。

やがて昨年の私なりの熱い夏の対策を思い浮かべて、独り微苦笑をしたりした・・。

             

熱い時節を迎えると、私の容姿として制服のようになった半袖のスポーツシャツ、
長ズボン、そして夏の帽子を深くかぶり、サングラスを掛け、ウォーキング・シューズで足元を固め、
そして紳士バックを園児のように斜め掛けにして、颯爽と歩いたりしてきた。
         
しかしながら燦々と陽射しが照らす青空の中、歩いたりすると汗ばみ、
ハンドタオルで顔をふいたりし、ときおり扇子を取りだして扇(あお)いだりしているが、
汗がひたたり落り、微苦笑したりしている。
          
やむなくハンドタオルで顔などを拭いながら、できる限り樹の下にある歩道を歩いているが、
炎天下の道もあるので、高齢者の私でも、人生は気合いだ、と自身を叱咤激励をしたり、
或いは冬の寒さを思い浮かべて、 足早に歩いているのが実情である。

こうした時、ときおり ♪しあわせは 歩いてこない  だから歩いて ゆくんだね・・
【『三百六十五歩のマーチ』 作詞・星野哲郎、作曲・米山正夫、唄・水前寺清子 】
と何かと単細胞の私は、1968年(昭和43年)の頃に流行(はや)った歌を心の中で唄い、歩く時もある。

             

やがて休憩ねぇ、と思いながら、小公園に寄り、幾重か大きな樹の下にあるベンチに座り、
コンビニで買い求めたペットボドルの煎茶を飲み、水分補給をしたりしてきた。

こうした根底には、高齢者は、脱水を起こしやすい要素をいくつも持っていて、
放置すると、寝たきりや認知症を招く結果になりかねない、と学んだりしてきた。

そして高齢者は脱水を起こしやすい理由として、
●筋肉量の低下
●喉の渇きを自覚しづらい
●腎機能の低下
●食事量の減少
●利尿作用のある薬の服用
●認知症で暑さが平気に
●認知症で自律神経の働きが低下・・・

このようなことを私は学び、震撼させられたりしてきて、
脱水にならないことは、やはり喉の渇きを感じる前に、こまめに水分補給は大切だ、
と思いながら実施してきた


そして私は、もとより健康でなければ、自身の日頃のささやかな願いも叶わないので、
32度前後を超えた場合は、やむなく利便性の良い路線バスに乗り、
バスの車内の冷気に甘えて、帰宅することもある。

もとより高齢者の私が、熱中症で倒れて救急車で搬送されて、病院に入院するのは、
私も困苦するし、世の中の多く御方にご迷惑するので、私なりに自己防衛策としている。

            
            
睡眠に関しては、
私は寝ている間は、現役サラリーマン時代だった時と違い、悩みは激少している為か、
たとえ震度3ぐらいの地震でも、 目覚めることなく熟睡している。

そして睡眠中、夢をみることは貧富に関係なく、その御方の日々の思い、念願など、
さまざまな思いが交差される現象かしら、と思う時もある。

そして富も名声も無縁な私としては、よく眠れる老ボーイかしら、と微笑んだりする時もある。

このように拙(つたな)い私は、歩くこと、そして適度な熟睡する睡眠、或いは程ほどの食事が、
セカンドライフの私なりの健康体と信愛し、過ごしたりしている。

そして何かと
小心者の私は、今年も無事に夏を乗り越えて、秋を迎えることができますように、
と神様か仏様か判らないが、空に向かって、こっそりと祈願したりしている。

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下重暁子さんと萩原博子さん語る、夫婦で不安のない老後にするための対処法、私は学び、やがて微笑み・・。

2018-06-28 14:13:25 | ささやかな古稀からの思い

先程、ネットの【YAHOO! JAPAN】の中にある『雑誌』部門の『ライフ』のニュースを見ている中、
【 下重暁子さんと萩原博子さん語る 「老後に3千万円必要はウソ」 】と見出しがあった。

私は東京の調布市に住む年金生活の73歳の身であるが、
『極上の孤独』などを上梓された作家の下重暁子さん(82歳)に関しては
私が確か中学生の頃、NHKのテレビを視聴していた時、綺麗な知的美人だ、
と見惚(みと)れたりし、私にとってはこれ以来、高嶺の華(はな)のような存在の御方である。

『老前破産』などを上梓された経済ジャーナリストの荻原博子さん(64歳)に関しては、
私が現役サラリーマン時代、定年退職時の最後の5年半前にリストラ烈風が加速され、
あえなく出向となり、遠い勤務先に勤めていた時代、書物で学んできた御方である。

経済にも疎(うと)い私が、荻原博子さんなどの数多く著名人の寄稿文を読んだりした。

こうした中で、
デフレ経済の蔓延している中、定年時に持家(マンションか戸建て)のローンは返済完了となり、
預貯金が3000万円あれば、公的年金を受け取りながら堅実に年金生活をして、
少しづつ取り崩して生活すれば、少しはゆとりのある年金生活ができる、と学んだりした。

そして私はサラリーマン生活を卒業した後の年金生活の資金の指針として、
これ以来、荻原博子さんの経済ジャーナリストとしての書物に信愛を重ねてきた御方となっている。



Copyright (C) 2018 Kobunsha Co., Ltd. All Rights Reserved.

このような私に取っては、深情がある二人の御方であり、何かしら異色の対談形式の記事であり、
精読してしまった・・。

記事を読み終わった後、夫婦で不安のない老後にするための対処法、遅ればせながら学び、
そして私は、そうしたお考えでしたか、微笑んだりした。

この記事は、恥ずかしながら女性専用誌の『女性自身』の記事であり、
関連のネットに於いて2018年6月28日に配信されていた。

記事の主題は、夫婦で不安のない老後にするための対処法であり、
男女は超越する課題であり、あえて無断であるが記事の殆どを転載させて頂く。

                

下重暁子さん
「私は小3のころから、『一生自分で自分を養っていく』という覚悟で生活してきました。
自分自身は、いまもその思いで働き続けていますが、
昨今、老後のお金についての会話となると、誰もが介護の不安を口にします」



荻原博子さん
「現在、老後を迎えようとしているみなさんは、介護保険のなかった親世代を判断材料にしているんですね。
ですから生命保険文化センターというところのアンケートでは、
介護にどのくらいかかると思うかという問いに、『夫婦2人で約6000万円』という回答になっている。
でも、現実はずいぶん違うんです」


(略)

荻原博子さん
「実際に介護をしている方にかかった費用を調査すると、老後で『1人平均550万円』です。
介護保険では、普通の年金生活者の場合は1割負担ですから。

2人では1100万円で、そこに医療費その他を入れて、だいたい1500万円あれば、
老後はなんとかやっていけるでしょう。

現実に即した対処をするためにも、ふだんから夫婦で話しておくことが肝心と思いますが、
最近わかったのは、お金の話ができていない夫婦が多いこと」



下重暁子さん
「お金は夫が会社で猛烈に働いて、家庭は妻が守るという役割分担になっているんですね。
それでは、お金の話に限らず、夫婦の会話は成り立ちません」



荻原博子さん
「たしかに老後になると夫婦2人の生活ですから、
お金のことも、どちらかの役割ではなく、2人で考えなくてはいけません」



下重暁子さん
「うちの夫婦は、マンションを購入した際も折半にして、
自由業でまとまった収入のある私が、頭金を半分出して、
残り半分の支払いは、勤め人でローンも組めるつれあいが、毎月やっていました。

だいたい、老後に借金を残しちゃダメですよ。
それこそ不安の種です。
定年まで、つまりは定収入がなくなるまでに、借金も返しておくべき」



荻原博子さん
「そのためにも、まずは夫婦で資産を見直して、貯金やローンなどを書き出してみる。
すると借金の総額が明確になり、将来プランも見えてきます」



夫婦の形はそれぞれだが、一般には、
妻が夫に先立たれ、1人での生活をスタートさせる場合がほとんどだ。

               

荻原博子さん
「夫の死後は、家のローンが終わっていれば、家賃もなく住み続けられるわけですし、
妻には遺族年金と貯金などがあれば、生活はひとまず成り立つと思います。

そこで始まるのが、夫の残した蔵書やCDなどの処分。
自分にとっては不要なものですけれど、燃やしたり捨てるのは、しのびないという人が本当に多いですね」



下重暁子さん
「私は、断捨離という風潮もありますが、なんでも捨てる必要はないという考えです。
亡くなった父や母が使っていた道具一式は、
軽井沢に執筆のために買った山荘に、そのまま持って行きました。

ボロボロのソファも修繕して運びました。
好きなものだけを選んで、長く使うのがいいですね」



荻原博子さん
「下重さん自身の蔵書も、相当な量になるのでは」



下重暁子さん
「北海道の図書館に寄贈することも考えました。
しかし、どうしても必要だったり大切な本は、手元に置いておきたくて、このプランは断念しました。

いただく本も多いのですが、私は物書きですから、それを書いた人の苦労を思うと、
簡単には、捨てられないんですねえ。

父の絵などもいまは飾っていますが、私が死んだあとは、これはもう悩んでもしょうがない。
まあ、つれあいは、私の父への思いを知っているので、簡単には処分しないでしょうけれど。

つまりは“思い”。
思いが込められているものは、簡単には捨ててはいけないんです」



荻原博子さん
「私なら、夫の趣味の遺品は、バザーに出します。
好きな人に引き継いでもらえるだろうし、少額でもお金にもなります」

               

夫が亡くなった後、もっとも家族間トラブルの原因となるのが遺産相続だ。


下重暁子さん
「両親が亡くなったときに、うちがきょうだい間でもめなかったのは、
公正証書として遺言を残しておいてくれたからです。

両親の死後、当初、実家は地方から出てきた知人のご子息に、
光熱費など最低限の必要経費だけで貸していました。

家も傷まない、空き家問題も解決、若い人の支援にもなるから“一石三鳥”。
その後、実家が売れて、執筆のための軽井沢の山荘を購入することができました」


荻原博子さん
「下重さんのように相続でもめないというのは、まさにレアケース。
もめるのは金額の多い少ないじゃないんですね。
現に家庭裁判所で、遺産で争っているケースの3割が1000万円以下です」


下重暁子さん
「私の知人も母親が亡くなったとき、実家の土地家屋を4人きょうだいで、4等分して終わるはずが、
いちばん下の妹の夫が『貯金もあったはず』と言い出した。
裁判はもめて不愉快な2年の歳月を過ごした揚げ句、いまは仲のよかったきょうだいが、絶縁状態だそうです」


荻原博子さん
「うちは去年、父親が亡くなりましたが、ずっと弟が両親のそばにいて、
いまも母親の面倒を見てくれていますから、私はすぐに相続放棄しました。

親としては財産を残さないか、もし残すなら、何を、誰に、どのくらい託すかまで、
きっちり遺言を書くかのどちらかですね」


下重暁子さん
「私は常々、『親は子どもに財産は残さず、使い切ってしまうのがいい』と言っています。
子どもにも小さなころから、『自分の生活は、自分でおやりなさい』と、はっきり伝えておくべきです」


荻原博子さん
「私もわが子には、お金より、生きる力を残すほうが、大切だと思います。
そもそも子どもは別人格で、親とは違う人生があるのですから。

生きる力をつけさせる方法は、とてもシンプルで、いろいろ言わないこと。
割り切れば、さっぱりしますよ。
うちなんて子どもが朝帰りしても、何も言わない(笑)」

               

財産を残さないことが、結局は子どものためにもなるのだと、2人は口をそろえた。
下重さんは1人になった老後も安心できる「生前整理5カ条」として、次を挙げる。


【1】借金は定年後まで残さない
【2】財産は自分たちで使い切ると、子どもたちに伝える
【3】なんでも捨てないで、大事なものは修繕して長く使う
【4】自分の資産を託せる信頼できる人を見つけておく
【5】空き家はタダで貸しても人に住んでもらう

続いて、子どものいない下重さんならではの、遺言状の作り方が語られた。

下重暁子さん
「子どもがいなくて、遺言もなく、夫婦どちらも亡くなった場合、
つまり相続人のいない遺産は、国庫に収められると知りました。

それは嫌ですし、残った親族間のトラブルの種を作るのも申し訳ない。
ですからうちは、どちらかが先に逝った場合、互いに全権譲渡するという内容の公正証書を作りました。

私たち夫婦は一緒の旅行も多く、飛行機事故で同時に亡くなることもありえるわけです。
そんなわけで、お互い自分たちの財産を預ける人を想定していました。

つれあいと話してみたら、同じ方だったんです。
血縁もなく、弁護士など専門家でもない信頼できる社会人の女性です。
彼女には了解を取ったうえで、どのような寄付をしてほしいかまで、すべてを託しています」・・》

注)記事の原文をあえて改行を多くした。
                          


私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭の中で、古ぼけた一軒屋に住んでいる。

我が家の生計は原則として、私たち夫婦はお互いに厚生年金とわずかな企業年金を頂いた範囲で、
日常生活を過ごすことを原則としている。

そして耐久品の購入、冠婚葬祭、そして私たち夫婦の共通趣味の国内旅行に関しては、
程々の貯金を取り崩して、ここ13年半ばかり過ごしてきた・・。

こうした中で私たち夫婦は、原則として月初めには家計簿をお互いに確認しながら実施している理由は、
40数年前、私たち夫婦が婚約する前、
お互いに隠し立ては・・やめましょうねぇ、と私は妻となる人から言われたりしてきた。

そして私たち夫婦は、結婚以来、毎月家計簿を原則として翌月の初めにしているが、
もとより生活費をお互いに確認した上で、私、家内が趣味に使える費用を捻出する為に、
毎月確認し、家計簿の月次決算をしている。

                  
       
こうした中、私は亡き母の遺伝を素直に受け継いだ為か、男の癖に小学5年生の頃から、おしゃべりが好きで、
年金生活の今でも、何かと家内と談笑したり、
ご近所の奥様、ご主人さまと話し合ったりすることが多い。


私は2004年(平成16年)の秋に定年退職し、多々
の理由で年金生活を始め、
私は、いつの日にか私は、家内より先にあの世に旅立つことを思い、
残された家内が生活に困苦しないように、私は公正証書の遺言書を作成したのは、
定年後の年金生活を始めて、まもない時であった。

こうした理由には、亡き母が生前に遺産などで困苦した時代もあり、
或いは親戚に当たる兄弟間で、相続で長らくもめて、やがて裁判までなった、
と私は聞いたりしていたからである。

このような私が亡くなった後、このようなことを避けたく、
水戸黄門様の紋章のような公正証書の遺言書を作成した次第である。



私たち夫婦は無念ながら子供に恵まれなかったので、一代限りの身であり、

私は家内には、俺が死んだ時は家族葬で、和花と音楽に包まれて、出来うる限り質素にして貰いたい、
とここ15年ぐらい言ったりしてきている。

そしてお墓は要らず、死者は土に還る、という強い思いがあるので、
樹木葬のある墓地の里山に埋めて頂きたい、と私は独断と偏見である。

その後、四十九日の納骨が終われば、何らかの雑木の下で永久に安らかに眠る、という考えの持ち主である。

そして残された家内は、旅行か何かの機会に時、気が向いたとき、お墓参りをしてくれれば良い。
数年に一回でも良いし、或いはそのままお墓参りなどしなくて、
ご自分の余生を楽しんだ方が良い、と私たちは話し合ったりしてきた。

 

こうした中で、家内には老朽化した我が家を処分して、マンションの小さな部屋を買い求めて、
生きがいとして趣味を強くして、老後を過ごして欲しい、と私は幾たびも言ったりしてきた。

                  

私たち夫婦は年金生活を過ごして、早や14年目になり、経済的に贅沢な生活は出来ないが、
『働らなくても、何とか生活ができるので助かるわ・・』、
と家内がときおり、 呟(つぶや)くように私に言ったりする。

『そうだよねぇ・・』
私は苦笑しながら応じたりしている。

年金生活は十人十色のように、それぞれの第二の人生の願いに基(もとづ)き、過ごされている。

そして、不安もあるが、ご夫婦で話し合えば、殆ど大半は解決される、
と拙(つたな)い人生航路を歩んできた私でも、微苦笑する時もある。
 

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ワールドカップ(W杯)、昨今は国民総出での応援のような状況、高齢者の私は戸惑い、やがて微笑み・・。

2018-06-27 17:00:12 | ささやかな古稀からの思い

先程、長らく愛読しているネットの『ダイヤモンド・オンライン』を見ていたら、
『 「W杯アンチ派」のモヤモヤする胸の内  』と見出しを見たりした。

私は東京の調布市に住む年金生活の73歳の身であるが、
何かしらサッカーのワールドカップ(W杯)のロシア大会が開催され、
テレビの各局が番組の特集が、連日のように放映されて、戸惑ったりしている。

私は日本のチームの選手が、幾たびか良きファイン・プレーを期待し、
できたら勝利になれば良い、と思ったりしている程度である。

過ぎし、私が現役サラリーマン時代に、後輩のひとりがワールドカップ(W杯)のフランス大会が実施された時、
有給休暇を活用して、パリまで夜間飛行で行き、日本の試合を観戦にし、当日はホテルに宿泊して、
帰路は夜間飛行で日本に戻る旅路を知り、このような熱意に驚いたりしてきた。

このような熱意が欠ける私は、「W杯アンチ派」のモヤモヤする胸の内、
こうした心情の御方もいるんだぁ・・と好奇心に負けて、精読してしまった。

この記事は、フリーライターの宮崎智之さんの寄稿文であり、
『ダイヤモンド・オンライン』に2018年6月27日に配信され、無断であるが転載させて頂く。

《・・「W杯アンチ派」のモヤモヤする胸の内

              

● 国民総出での応援は、今や“常識”に


ワールドカップ(W杯)ロシア大会が、盛り上がりを見せている。
予選リーグ敗退が濃厚かと思われていた前評判を跳ね返し、西野ジャパンが大躍進。

まだ決勝トーナメント進出が決定したわけではないが、
思わぬ好成績に日本中が、お祝いムードに包まれている。


当然、筆者も日本代表に声援を送った1人だ。

とはいえ、普段からJリーグや海外リーグを、熱心に観 ているわけではない。
いわゆる“にわか”である。

しかし、国際大会のヒリヒリした感覚は、観ていてエキサイティングだし、
せっかくなら日本代表に勝ってほしい。

そんな思いで自宅で声を張り上げ、一喜一憂しながら試合を楽しんでいる。


自宅にいても、街の熱気が伝わってくる。
繁華街に住んでいるせいもあって、日本がチャンスやピンチを迎えるたびに、
外から大きな声援とため息が聞こえてくる。

日本代表がゴールした際は、マンションの上の部屋から、
叫び声とドンドンという音が聞こえてきた。

深夜1時をまわった時間にそんな音が聞こえれば、普通なら抗議もしたくなるが、
その日ばかりは無礼講である。
顔が見えぬご近所様と、喜びをわかちあった。


日本代表戦の試合があるたびに、渋谷のスクランブル交差点には
多くのサポーターたちが集まり、警察官も動員される大騒ぎが繰り広げられる。

日本代表がW杯に初出場した1998年のフランス大会以来、国民総出で盛り上がるのが、“常識”になっている。

              


しかし、である。
そんな国民総出のイベントに、乗り切れない人たちもいる。

著者のように普段は、熱心なサポーターではない人まで、
4年に1度のこの時期になると青いユニフォームを着て日本代表に声援を送るなか
(著者は、さすがにユニフォームは着ていないが)、
冷めた目で現在のお祭り騒ぎを見ている人たちがいるのである。


誰もが日本代表を応援しなければいけない。
日本代表戦があった次の日には、その話題で盛り上がらなければいけない・・。

そんな同調圧力に違和感を覚え、モヤモヤしている人たちにとって、この時期は息苦しい。
日本代表の活躍に、冷水を浴びせるつもりはないが、
そういった人たちは、今の状況をどのようにとらえているのか。
胸の内を探った。


              

● “にわか”は、大騒ぎしたいだけのバカ?


さっそく筆者が聞き取り取材した“W杯アンチ派”の意見をチェックしていこう。

「サッカーが好きではない人が、1人もいないかのような雰囲気に息苦しさを感じる。
テレビをつけてもW杯の話題ばかり。
もっと大切なニュースがあるだろうに」(30代男性)


「普段からサッカーを観ている人ならいいけど、
そうではない人たちまで、お祭り騒ぎするのが気持ち悪い。

特に、渋谷のスクランブ交差点で、ハイタッチしている人の気がしれない。
大騒ぎできれば、別にサッカーじゃなくてもいいんだと思います」(40代女性)


「日本代表戦で盛り上がるのは勝手だけど、
試合を観なかったことを職場の同僚に『ありえない』と言われてモヤモヤ。
試合を観なかっただけで、まるで非国民のような扱いです。
サッカーに興味ない人もいるんだから、せめてほっといてほしい」(20代男性)


「急にサッカーにハマった友人が、
『日本は絶対ベスト8に進出する!』ってドヤ顔で予想してたんだけど、
そんな甘いものなの? 浮かれすぎだと思います」(30代女性)


「とりあえず、『半端ない』と言っておけば盛り上がる、みたいな風潮・・・」(30代男性)

「動物に、試合の勝敗を予想させるやつ、あれは何なんですかね?本気?」(20代女性)

コメントを見る限り、現在の狂騒めいた状況に、
相当フラストレーションが、溜まっているようである。

なかでも、“にわか”に対する反感は強く、
W杯アンチ派の目には「大騒ぎしたいだけのバカ」に映っているようだ。
筆者も耳が痛い限りである。

              

● 西野監督と本田選手に、謝罪はないのか


勘違いしてはならないのがW杯アンチ派も、
これまで私たち一般人には、想像もつかないような努力をし、
本番に向けて準備をしてきた選手やスタッフたちを否定しているわけではない、ということである。

あくまで、「自分はサッカーに興味がない」、「日本代表戦を観ていない」と公言することが
はばかられる現在の状況に、へきえきしているのである。


また、こんな意見も寄せられた。
「W杯が始まる前は、散々たたいていたのに、いざ日本代表が好成績を収めると、
手のひら返ししたかのように、褒めたたえる風潮はどうなのか。

SNSの“サッカー通”やマスコミも同じ。
まずは、西野監督や本田選手に、謝ったほうがいいのでは?笑」(40代男性)


「監督が直前に解任された問題は、どうなったのでしょうか。
日本代表が思ったより活躍しているのは、結構なことだけれど、
そこらへんをウヤムヤにしないでほしい」(30代男性)


直前で監督解任のドタバタ騒動があったことに加え、
「日本代表は勝ち点を取れない」とまで一部では言われていた今大会。

そうした暗いムードがあたかも、初めからなかったかのような浮かれっぷりに、
違和感を覚える人も多いということだろう。
              

個人的な“にわか”な意見としては、
それらの問題も含めて、大会後に検証しなければならないことが多いものの、
今は日本代表の応援に集中すればいいのでは、と思う。

また、W杯の醍醐味は、自国を応援することだけではない。
実際に、筆者は今回の大会を通じて、アイスランドやパナマといった国に興味を持つようになった。


しかし、W杯に乗り切れないでモヤモヤしている人たちがいることも、
忘れないようにしていたい。

同調圧力に苦しんでいる人たちも、たくさんいるのだ。
いずれにしても、「なかにはW杯アンチ派もいる」という当たり前の事実も含めて、
今大会の盛り上がりが、日本のサッカー文化を成長させるような結果になることを心から祈っている。・・》

注)記事の原文に、あえて改行を多くした。
              
                     
私は読み終わった後、初めて知るフリーライターの宮崎智之さんは、
気配りがある公平な視線で優(すぐ)れた論調で綴られる中、
今回のワールドカップ(W杯)の前の日本の状況を的確に表現して、私は好感した。

私はテレビのニュース、新聞、雑誌などで、今回の国民総出での応援のような状況を知り、
幾たびか微苦笑しながらも、できれば日本が決勝トーナメントに進出を念願したりしている。

こうした根源は、何かしら節約する風潮のある今日、
自宅で熱烈に観戦する御方も多く、ビールの売れ行き、テレビの販売などは、
平素より2倍に達している、と学んだりしてきた。

何かしら深夜帯の試合放映のため、缶ビールやコンビニの総菜、宅配ピザなど自宅観戦用の消費が伸び、
テレビの買い替えも進んでいると知り、私は期待している国内商戦が活性化となったからである。

そして日本が決勝トーナメントに進出すれば、215億円の経済効果が出る、
と学んだからである。

このようなことで、無力な私でも、ガンバレ・ニッポン、と心の中で呟(つぶや)いたりしている。

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90代の3名の人生の達人、「おカネの心配? するだけ無駄だったね」、何かと気弱な私は学び、多々教示させられて・・。

2018-06-26 14:12:39 | ささやかな古稀からの思い
先程、愛読しているネットの【現代ビジネス 】を見ている中で、
【 90歳、人生の先輩が断言「おカネの心配? するだけ無駄だったね」
                              ~ 老後マネー逆転の発想 ~  】と見出しを見たりした・・。

私は東京の調布市に住む年金生活の73歳の身であり、
無念ながら裕福層には遥か遠い身であり、どのようなことですか、と思いながら、
こっそりと読んでしまった・・。

やがて90代の3名の男性の御方が、金銭などにとらわれず、おおらかに晩年期を過ごされ、
何かと小心者の私は、老後資金の難題に憂いたりする時もあるが、この3名の90代の男性に、
人生の達人ですねぇ・・と思いながら、叱咤激励されるように教示させられたりした。
                 

この記事の原文は、『週刊現代』の2018年4月7日号に掲載された記事のひとつで、
関連のネットの【現代ビジネス 】に6月10日に配信され、無断であるが転載させて頂く。

              

《・・90歳、人生の先輩が断言「おカネの心配?するだけ無駄だったね」

☆すべてプラスに考える

今年90歳を迎える田中俊郎さん(仮名)は、60代後半の頃、将来が不安で仕方なかった。

「若い頃から進駐軍相手のバンドを組み、30代前半までフラフラしていたから
サラリーマンになったのが遅かった。

そのため、学校卒業と同時に勤めた同世代に比べて、年金が少なくて、どうしたものかなと。

夜中に『もうカネが尽きた』とうなりながら、飛び起きたこともあった。
でも、女房が楽天家で、『なんとかなるわよ』というタイプの人間だったから、
私にもそれが伝染した。

なんでもプラスに捉えれば、気がラクになるもんだ。

たとえば、うちは女房に実家があったから、修繕してそこに住んだので、家賃が要らない。
年金は同世代に比べれば、マイナスかもしれないが、家賃がないのはプラス。

70歳すぎまで、タバコを吸っていたが止めた。
タバコを吸うカネさえなくなったと否定的に考えるのではなく、
カネが、かからなくなったと思えば、これもプラス。

酒量も半分以下になって、これもカネがかからないからプラス。
なんでもプラスに考えていくと、
『なんだ、生きるのに大してカネは、かからないじゃないか』という境地に達したんだよ」

田中さんは、マイナスをプラスに変える「発想の転換」で、老後の危機を乗り切った。

最近はJRが提供している『ジパング倶楽部』を愛用して、京都などに出かけているという。
65歳(女性は60歳)以上は、最大3割引きで新幹線を利用することができる。

「これだと、東海道新幹線の『のぞみ』には乗れない。
昔は3割分ケチっていると思われるのがイヤだったから『のぞみ』にしていたけど、
今はそんな気はまったく起こらない。『ひかり』で十分だよ。

乗っているとわからないけれど、『のぞみ』の通過待ちを見ていると、
新幹線って、本当に速いって実感する。

狭い日本、そんなに急いでどこへ行く、じゃないけど、
この年になって、ゆったりする旅が好きになったね」

そう言って、田中さんは遠い目をして若かりし頃を振り返るのだった。

「高校の頃まで、そこそこの進学校に通っていたんだ。
仲のいい同級生2人と試験の1点2点を争って、目の色を変えて勉強をしていた時期もある。

私は、音楽にハマって受験勉強から脱落したけど、
一人は、東大に行って官僚になり、
もう一人は、千葉大の医学部に行って医者になった。

でも医者と言っても、勤務医で働き詰め。
60歳を過ぎてすぐ、ゴルフをした後のサウナで突然亡くなった。

官僚になったヤツは、早くに外郭団体に飛ばされて、
愚痴ばっかり言っていたが、そいつも、がんで死んだ。

受験、受験で競い合ったのは、結局、何の意味があったんだろうね。
出世争いだって、仕事に没頭することだって、死んでしまえば、元も子もない。

この年まで生きた私だから思うことかもしれないけど、
途中で挫折した私のほうが、幸せだったんじゃないか。
そんな気にもなるんだよ」


               

中国の古典に、「入るを量りて、出ずるを為す」とある。
収入を計算してから、それに見合った支出を考えるという意味だ。

老後の生活資金は、年金収入で計算ができるから、贅沢さえしなければ十分に生きていける。

91歳の川上裕二さん(仮名)は、県営住宅に暮らす。 

「現役時代は、商売をやってきたので、収入は国民年金だけだけど、
神奈川県にある県営住宅の家賃は3万円。
自炊していれば、十分暮らしていける。

 妻は1年前に亡くなったので、
趣味として月1回は、カメラ愛好家たちと観光バスで行く撮影ツアーにも参加している。
私が一番高齢だから、一緒に行った人があれこれ気遣ってくれるのが、ありがたい。

葬式代に50万円は残してあるし、娘も1週間に1回は様子を見に来てくれるし、何の心配もないね」

                  

☆カネはなんとでもなる

長生きすると、カネがなくなって、不幸になる。
そう考える高齢者は多いが、実際のところ、食も細るし、広い家も必要なくなる。
日々平穏に暮らしていく限りは、金銭的な心配をしなくとも生きていけるのだ。

千葉県の特別養護老人ホームで暮らす黒木良三さん(92歳・仮名)は
「今が一番幸せかもしれない」と話す。

「妻は5年前に亡くなり、2年前から施設にお世話になっている。
小さな雑貨店を営んでいたんだが、60代から70代の頃は、カネが心配で仕方なかった。

同世代のサラリーマンが引退して、年金生活を楽しんでいるのに、
オレは一生働き詰めかと悩んだものだよ。

でも、カネのことは、なんとでもなるもんだ。
施設は毎月15万円かかるが、家賃も食事代も光熱費も全部込みでこの金額。
これ以外には、一切かからない。
100歳まで十分に暮らして行けるよ。

もちろん、子供に入居を勧められたときは、怒った。
『ふざけるな、なんでオレが、老人ホームに入らないといけないんだ。
誰の世話にもならない』とね。

でもいざ入居してみると、『ここは別荘か』ってなもんでね。
みんな親切にしてくれるし、食事はうまいし、2時半のおやつも楽しみだ。

風呂も入れてくれて、身の回りの世話もやってくれる。
窓からの景色が素晴らしいし、車の音も聞こえないし、田んぼと畑が広がって見飽きない」


カネの心配なんかしなくても、老後は暮らしていける。
人生の先輩たちの言葉を胸に刻もう。・・》

注)記事の原文に、あえて改行を多くした。
                  

私は東京の調布市に住む年金生活の73歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
そして雑木の多い小庭の中で、古ぼけた一軒屋に住み、ささやかに過ごして、年金生活は早や14年生になっている。

私は民間会社の中小業のある会社に35年近く勤めて、2004年(平成16年)の秋に定年退職した身であるが、
この間、幾たびのリストラの中、何とか障害レースを乗り越えたりしたが、
最後の5年半はリストラ烈風が加速され、あえなく出向となり、遠い勤務先に勤めて、出向先で定年退職時となった。

この間、私が出向する時、私たち夫婦は遅ればせながら第二の人生について、話し合ったした。
具体的には、どのような生活をしたいか、幾たびか思案したりした。

やがて年金を受け取り、お互いの趣味を尊重してささやかに生活して、
ときたま国内旅行ができれば・・と漠然としながら私たち夫婦の結論であった。

こうした中で、経済にも疎(うと)い私が、
信愛している経済ジャーナリストの荻原博子さんなどの数多く著名人の寄稿文を読んだりした。

そして
デフレ経済の蔓延している中、定年時に持家(マンションか戸建て)のローンは返済完了となり、
預貯金が3000万円あれば、公的年金を受け取りながら堅実に年金生活をし、
少しづつ取り崩して生活すれば、少しはゆとりのある年金生活ができるかしら、と学んだりした。

やがて遠い勤務先の出向先で、私なりに奮闘して体力も気力も使い果たしてしまったので、
やむなくサラリーマン生活を卒業し、年金生活を始めた・・。

                 

我が家の生計は原則として、私たち夫婦はお互いに厚生年金とわずかな企業年金を頂いた範囲で、
日常生活を過ごすことを原則としている。

そして耐久品の購入、冠婚葬祭、或いは私たち夫婦の共通趣味の国内旅行に関しては、
程々の貯金を取り崩して、ここ丸13年半ばかり過ごしてきた・・。

私たち夫婦にとって難題は、やはり晩秋期の不安は、いつの日にか、介護・要となり、
介護施設にお世話になる時と思われる。

こうした中、私たち夫婦はどちらかが残こされた方が、やむなく断腸の思いで自宅の敷地を売却して、
介護施設に入居すると思われる。

男性の多くは、70代となれば体力の衰えを実感して、75歳まではこれまでどおりの自立した生活ができるが、
80歳が見えてくる頃には、介護を必要とするようになり、
やがて80代後半では何らかの介護付き施設に入居する可能性が高くなる、と専門家の人から数多く発言されている。

こうした中、要介護認定されている場合は、
特別養護老人ホーム(特養)や介護老人保健施設(老健)などの介護施設のほか、
有料老人ホーム、 介護型のサービス付き高齢者向け住宅(サ高住)やケアハウス、グループホームなどを学んだりしてきた。

              

そして私はいつの日にか要支援までであったら、何とか自宅で過ごせると思われるが、
やはり要介護になってしまったら、やはり介護施設に入居すると思案してきたりした。

やがてどちらかが、国の支援を受けている費用が程ほどに適度な特別養護老人ホームに、
入居が叶(かな)わなくなってしまった時、
やむなく高価と称されている有料老人ホームに、自宅を売却して、入居しなくてはならない場合もある。

私は世田谷区と狛江市に隣接した調布市の外れに住んでいるが、
程近くにある三つばかり参考例として記載する。

A:入居費(0万円~840万円)そして月額(21.1万円~35.5万円)
B:入居費(0万円~1580万円)そして月額(0万円~63.7万円)
C:入居費(0万円~3600万円)そして月額(27.4万円~115.6万円)

入居費が廉(やす)ければ、月額の負担が多い上、
やはり介護の難度、施設の優良度合により、大幅な差異がある、と思われる。

もとより介護
の難題は、いつまで介護を受ける必要な期間が判らず、
やがて永がられば本人の自己負担額が増し、
貯金は切り崩しても資金不足となり、
当然ながら、退所が余儀なくされて、行き場がなく迷子のような介護難民になることである。

私たち夫婦は、裕福層には遥か遠い年金生活の身であるので、
改めて有料老人ホームの入居費、そして毎月の負担額が余りにも高価に、溜息をしたりした。


やむなく、何かとブラス思考の私は、人それぞれ永(なが)らえるのは、自助努力も肝要であるが、
こればかりは神様か仏(ほとけ)さまの采配によるよなぁ・・と微苦笑したりしてきた。

                     

このように何かと気弱な私は、老後資金を模索してきたが、
今回の記事に於いて、この3名の90代の男性に、人生の達人ですねぇ・・と思いながら、
叱咤激励されるように教示させられたりした。

金銭などに、くよくよせずに、おおらかに晩年期を過ごしなさい、と私は深く感じて、
そうですよねぇ・・と微笑みを重ねたりした・・。

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一人暮らしで、脳梗塞を発症した場合の対処法、ときおり『おひとりさま』になる私は、真摯に学び、多々教示されて・・。

2018-06-25 13:58:04 | ささやかな古稀からの思い

先程、ときおり愛読している文藝春秋の公式サイトのひとつ【文春オンライン】を見ている中で、
『 あの西城秀樹さんも 一人暮らしで脳梗塞を発症した場合の対処法
                                     ~最近では、40~50代の「働き盛り世代」の診断が目立つ~』
と見出しを見てしまった。

私は東京の調布市に住む年金生活の73歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。

こうした中で、家内は遠方に独り住まいをしている家内の母の介護で、
ときおり6泊7日前後で行き、この間、我が家は私が『おひとりさま』の生活をしている。

ここ数年は会社時代の少し先輩、或いは後輩の68歳が、いずれも大病で入退院を繰り返した後、この世を去ったり、
ご近所の私と同世代の知人が、突然に脳梗塞で死去されて、数か月の先は誰しも解らない、冷厳なこの世の実態に、
私は震撼させられたりしてきた・・。

私は平素
、殆ど毎日のように独りで自宅から3キロ以内の遊歩道、小公園などを歩いたりしている。

こうした根底として、もとより健康でなければ、自身の日頃のささやかな願いも叶わないので、
いつの日にか認知症、或いは脳梗塞などの難病に遭遇したら、困窮するので、
ひたすら歩き、ときおり大股で歩いたり、或いは足早に歩くことが多くなっている。

このように過ごしたりしているが、今回の《・・一人暮らしで、脳梗塞を発症した場合の対処法・・》の見出しには、
やはり時折『おひとりさま』になる私は、切実な難題であり、記事を精読してしまった。

            

この記事は、
長田 昭二さんの寄稿文であり、【文春オンライン】に於いて、2018年6月23日に配信され、
私は文藝春秋が発刊されている単行本、新書本、文庫本、月刊総合雑誌など、
長年に於いて購読しているよしみに甘えて、無断であるが転載させて頂く。

《・・一人暮らしで、脳梗塞を発症した場合の対処法

先ごろ63歳で亡くなった歌手の西城秀樹さん。
発表された死因は、急性心不全だが、最初に脳梗塞を発症したのは48歳の時だった。

つい先日も、人気音楽グループ「スターダスト★レビュー」のボーカル・根本要さん(61歳)に
脳血栓が見つかったと発表された。
放置すれば、脳梗塞に進展していた可能性がある。

脳梗塞は、命に関わる病気だが、初期対応がうまく進めば、命を取り留めることも可能だ。
しかし、一人でいる時に発作に見舞われたら、どうすればいいのだろう。

「一人暮らしの脳梗塞」について考えてみる。

            

☆ 脳梗塞は“時間との勝負”

脳の血管が詰まって、血流が途絶え、組織が壊死していく・・・。
脳梗塞が命に直結する重大疾患であることは間違いないし、
たとえ命は助かったとしても、麻痺などの重大な後遺症が残ることもある。


一方で、迅速な初期対応と効果的なリハビリによって、元の生活を取り戻す人もいる。

「発作から数分で脳細胞の壊死が始まり、時間が経つほど、ダメージは広がります。

でも、発症から4時間半以内にt-PAという血栓溶解剤を静脈に注射できれば、
約4割のケースで、後遺症をほぼ残さないレベルへの回復が可能。

t-PA療法が難しいケースでも、8時間以内にカテーテルを使った血管内治療ができれば、
命を救える可能性がある。
まさに脳梗塞は、“時間との勝負”です」


と語るのは、東京都町田市にある「なかはら脳神経クリニック」院長の中原邦晶医師。

            

同医師によると、脳梗塞が疑われるときに利用できるセルフチェックがあるという。
米国脳卒中協会が提唱する「ACT-FAST」と呼ばれるものだ。


F = Face(顔)
笑顔を作った時に、左右の口角が、同じ程度上がるかどうかを確認する。
脳に異常があると片側の口角が上がらず、よだれが流れ落ちることもある


A = Arm(腕)
両腕を伸ばして、床と水平になるように挙げる。
脳梗塞による麻痺があると、麻痺した側の腕が挙がらない


S = Speech(話し方)
ろれつが回らない、言葉が出ないなどの言語障害があれば、脳梗塞による麻痺が疑われる


T = Time(時間)
以上の三つの中の一つでも、当てはまるときは、脳梗塞を含む脳卒中の可能性があるので、
一刻も早く救急要請する。
この時、症状が出た時刻を確認し、救急隊や医師に伝える

            

☆いかに“緊急事態”を伝えるか

ここで重要な問題がある。
発症時、近くに誰かがいるか否か・・・という点だ。

家族や同居人の前で症状が出たのならば、迅速な対応も可能だろう。
しかし、一人暮らしの人はどうなるのか。


すでに触れた通り、麻痺の中には「言語障害」がある。
言葉が出なかったり、ろれつが回らない状況で、救急要請は可能なのか。

東京消防庁に訊ねた。

「119番通報を受信した指令室では、通報者が、何らかの理由で喋れない、と判断した時には、
“こちらの質問に対して、受話器をたたく”などの対応を誘導し、
住所や状況を特定する方法を取ります」


言語障害があっても、声は出せる可能性はある。
まずは119番に電話をして、「あー」でも「うー」でも構わないから、緊急事態であることを訴える。
それが伝われば、助かる可能性はあるのだ。

            
 
☆119番通報は、FAXでも要請できる

昨年の119番通報は、固定電話からと携帯電話からの発信が、ほぼ同数だった。

「固定電話からの通報の場合、発信者情報が表示されるので、住所を特定できます。

一方、携帯電話からだと、GPS機能から位置情報が表示されるものの、
電波状態によっては、正確に表示されないケースもあるので、
固定電話と比べると、詳細な場所の特定がしにくい。

固定と携帯の二つの電話がある場合は、固定電話のほうが有利です」



ちなみに、意外に知られていないが、119番通報はFAXでもできる。
言語障害はあっても手が動かせるなら、FAXで救急車を呼ぶことが可能なのだ。

FAXを持っている人は、あらかじめ自分の住所と氏名、
それに「急病につき救急搬送を要請する」と書いた紙を用意しておくと安心感は高まる。


「脳の中の梗塞が起きた場所によっては、物事の理解ができなくなることもあり、
そうなると電話での通報は難しくなる。

でも、少なくとも自分で、脳梗塞の可能性を理解できたのなら、
決して簡単なことではないが、119番通報を試みてほしい。
受話器を外して、“119”と押しさえすれば、道は開けます」(中原医師)

            

☆「高齢者の病気」ではない

脳梗塞というと、「高齢者の病気」というイメージを持つ人は多いだろう。
確かに60歳を超えて高齢になるほどリスクは高まるが、若い世代でも起きないことはない。


「最近の傾向として40~50代の働き盛り世代で、脳梗塞と診断されるケースが目立つし、
10代や20代で発症することだってある。

特に高血圧や糖尿病、高脂血症などを基礎疾患に持つ人は、
若さだけを理由に、安心することはできません」(中原医師)


万一の時には、「まずは電話」、「とにかく電話」、
そして「あきらめない」ということを、覚えておいてください。・・》

注)記事の原文に、あえて改行を多くした。
            

私は記事を読む前は、脳梗塞の病状に遭遇した時、動顛して正常な対処が出来ない、
まして『おひとりさま』の時は、困窮するばかりで、対処もおぼつかなくなり、
やがて最悪の場合は、意識を失ってしまい、あの世に行ってしまう・・恐れてきた・・。

やがて記事を読み終わった時、多々教示された。

そして特に学んだことは《・・麻痺の中で「言語障害」となり、
言葉が出なかったり、ろれつが回らない状況の場合でも、まずは119番に電話をする。

通報者が、何らかの理由で喋れない、と判断した時には、
“こちらの質問に対して、受話器をたたく”などの対応を誘導し、住所や状況を特定する。

或いは、言語障害があっても、何とか声は出せる可能性がある場合、
まずは119番に電話をして、
「あー」でも「うー」でも構わないから、緊急事態であることを訴える。・・》

もとより私は、“時間との勝負”の脳梗塞には遭遇したくないが、こればかりは判らず、
せめて平素は、歩くこと、そして適度な熟睡する睡眠、或いは程ほどの食事をして対処しょう、
と思い深めたりしている。

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ときには書物で、良き人生の師にめぐり逢えた、と高齢者の私は、微笑みを重ねて・・。

2018-06-24 16:06:49 | ささやかな古稀からの思い

私は東京の調布市に住む年金生活の73歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。

そして雑木の多い小庭の中で、古ぼけた一軒屋に住み、
私たち夫婦はお互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごして、早や14年目となっている。

こうした中、過ぎし一週間前、私は自治会の回覧板を回すため、ご近所のお宅を訪ねた。
そして私は恥ずかしながら男の癖におしゃべりな男で、こうした時で談笑する時が多い。

この時は、ご主人が西洋文化史を長年大学で講師されていた御方である。
そして私より12歳ご年配の人であり、長年奥様共々談笑をしている中で、
私が読書好きのことも、見抜かれてしまったりしてきた。

そしてこの時は、ご主人が応対される中、
イギリスの作家でギッシングの書かれた『ヘンリ・ライクロフトの私記』が未読であったなら、
あなたにお薦(すす)めの本ですよ、と私は進言された。

帰宅後、私はネットで検索すると、「ヘンリ・ライクロフトの私記」 ギッシング著、
平井正穂・訳、 1903年刊行  岩波文庫、本体720円+税、
このように表示された。

            

まもなく駅前に買い物に出かけた時、本屋に立ち寄ったが在庫がなく、
やむなく取り寄せの注文依頼をした。

私は本は、原則として本屋で買い求めたりしている。

しかしながら昨今は、ときおりコンビニで雑誌の月刊誌、週刊誌を購入する時もあるが、
街の本屋の衰退に嘆いているので、せめてと思いながらも、
アマゾン、楽天などネット購入は天敵と思いながら、利用したことない稀(まれ)な人となっている。

昨夕、ご注文下さいました本が届きました、と私は本屋さんより、
電話連絡を受けて、本日私は本屋に向かった・・。

私は本屋で、新刊本、新書本、文庫本、雑誌コーナーを見て廻るのが、高校生より好きで、
今回も新刊本コーナーを見たりした。

こうした中で、ひとつの本に瞬時に魅了されて、手に取ったりした。
『人生は、いくつになっても、素晴らしい』と表示されたタイトルであった。

        

そして私はパラパラと目次を読んだりした中、
私は初めて知るダフネ・セルフさんが著作されていて、何かしら90歳の現役ファッションモデルであり、
人生、まだまだ素敵なことばかり・・この一句に私は強く心を揺さぶられた・・。

そして何よりも
《 人生、うまくいくこと ばかりありません。
大切なのは、与えられた環境の中で、
良いときも悪いときも、いかに幸せを自分で探しているか、だと思います。》

私はこの言葉で、人生の師にめぐり逢えた、と瞬時に強く感じ、購読することにした。

            

私は中小業の民間会社に35年近く奮闘して2004年(平成16年)の秋に定年退職となり、
多々の理由で年金生活を始めた中で、
単行本、新書本、文庫本の書籍に於いては、
定年後からは特に塩野七生、阿川弘之、佐野真一、藤原正彦、嵐山光三郎、曽野綾子、三浦朱門、
高峰秀子、松山善三、櫻井よしこ、徳岡孝夫、中西輝政の各氏の作品を中核に購読している・・。

こうした中で、私は小学2年の時に父が病死された為か、
特に今は亡き阿川弘之さん、三浦朱門さんには、慈父のような感じながら、
人生のありかたを書物の上から、多々学んだりしてきた。

そして人生の師として、阿川弘之さん、三浦朱門さん、曽野綾子さんの著作された
数多くの本より学び、そうでしたか・・と幾たびに教示されている。
詳細は、私は幾たびも投稿文で記してきたので、今回は省略する。

今回、未知のダフネ・セルフさんを初めてめぐり逢えて、良き人生の師が増えた、
と私は微笑みながら、読み始めている。

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夫との力関係が大逆転!? 妻たちの8割が決めたこととは、高齢者の男性の私は学び、やがて微苦笑させられて・・。

2018-06-23 12:35:13 | ささやかな古稀からの思い

先程、ネットの【YAHOO! JAPAN】の中にある『ライフ』のニュースを見ている中、
【 夫との力関係が大逆転!?  妻たちの8割が決めたこととは 】と見出しがあった。 

私は今年の誕生日を迎えると74歳、家内は69歳となる高齢者夫婦であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかった為か、昨今の若い世代の御夫婦の実態に乏しく、
どういうことになっているのか、と好奇心ばかり強い私は、こっそりと記事を精読してしまった・・。

 この記事は、初めて知るネットの【大手小町(OTEKOMACHI)】の記事のひとつであり
2018年6月23日に配信され、無断であるが転載させて頂く。

 《・・亭主関白の夫が家庭内の主導権を握り、妻は夫の決定に従う・・・。
そんな昭和の時代の夫婦関係は、平成の30年間で大きく変化しています。

博報堂生活総合研究所のアンケート調査によると、
妻が決定権を持つ家庭が大幅に増えたことが、明らかになりました。

            

☆「妻に決定権」30年で3倍に

同研究所は1988年から10年おきに、家族に関するアンケート調査を実施しています。
4回目となる今年の調査は、2月上旬から3月中旬にかけ、
首都圏のサラリーマン世帯の夫婦630組(1260人、妻の年齢が20~59歳の夫婦が同居)を対象に実施されました。


それによると、総合的に見て、家庭での決定権が誰にあるのかを尋ねたところ、
「主に夫」と答えた人が38.7%で、30年前(1988年)の72.4%から大幅に減少した一方、
「主に妻」と回答した人は30.3%で、30年前(10.1%)の3倍になりました。

それでも、まだ夫が決定権を持つ家庭の方が多いのですが、
年代別に見ると、若い夫婦ほど妻に決定権があるようです。

「妻が30代以下の夫婦」では、「主に妻」と答えた人が36.0%で、
「主に夫」の33.3%を上回り、4回目の調査で、初めて男女が逆転しました。


☆共働き世帯の増加が要因?

調査では、家庭内で決めるべき具体的な事柄について、その決定権が誰にあるかも尋ねています。
このうち、「妻が働きに出ること」の決定権が「妻にある」と答えた人は、76.5%で過去最高となり、
「夫にある」と答えた人は、19.8%になりました。

30年前は「夫にある」(49.4%)が「妻にある」(44.3%)を上回っていました。
妻が仕事をするかどうかは、妻自身が決断できるようになってきたことがわかります。


また、「子どもを何人生むか」の決定権についても、
「夫にある」の20.5%に対して、「妻にある」が51.1%に上り、
30年前(「夫にある」38.5%、「妻にある」33.7%)から大きく様変わりしています。


こうした結果について、同研究所は
「1988年の時点では、専業主婦のいる世帯の数が、共働き世帯数を大きく上回っていたが、
現在は共働き世帯数が完全に逆転している。

妻が働くようになって、経済力を付けたことや、
働いている妻の事情も勘案しないと、決められない事柄が増えていることが、
妻が決定権を持つ家庭の増加につながっているのではないか」と分析しています。

            

☆理想も現実も「友達夫婦」が最多

このほか調査では、「理想の夫婦像」と「現実の夫婦像」についても質問しています。

「理想の夫婦像」は、夫・妻ともに「友達夫婦」(夫=64.9%、妻=79.5%)が最多で、
「亭主関白」(夫=17.8%、妻=6.8%)と
「カカア天下」(夫=17.3%、妻=13.5%)を大きく引き離しました。

「現実の夫婦像」でも、「友達夫婦」(夫=53.8%、妻=57.3%)が
「亭主関白」(夫=12.2%、妻=19.2%)と「カカア天下」(夫=34.0%、妻=23.3%)を上回りました。



30年前の調査では、「友達夫婦」を理想とした夫の割合は39.3%、
現実とした夫の割合は35.1%に過ぎず、30年間で著しい伸びを示しています。

これについて同研究所は、
「日本の社会が、女性の活躍を後押しする流れになってきて、
男性は『亭主関白は、時代遅れ』という意識を持ち始めている。

また、共稼ぎが増えて、妻のことを『共に家計を支える対等なパートナー』と見る夫が
増えていることも、『友達夫婦』増加の理由ではないか」としています。・・》
 

注)記事の原文に、あえて改行を多くした。
              
                     
私たち夫婦が結婚したのは1976年(昭和51年)の春であるが、
この当時は、日本の多くの人たちは一生懸命に働けば、年収も毎年増え、

そして家族全員で、明日に希望が持て、実感できた総中流社会であった。

こうした中で、私たち年代を含め多くの先輩、後輩の男性は、
一家の主(あるじ)、或いは夫として、もとより家計の責務で奮闘して働いていた。

そして妻の多くは後方支援となり、育児、料理、掃除、洗濯、交際など専業主婦として奮戦し、
昭和妻の責務を果たしてきた。
            
やがてバブルが終息し、そして平成元年(1989年)11月10日からベルリン市民に寄る『ベルリンの壁崩壊』した後、
まもなくソ連が崩壊し、世界の諸国の政治はもとより、外交・軍事・経済、やがて社会が一変した。

そして世界の経済が自由主義経済の一色となり、やがて日本は失われた15年で、
主要各国や躍進してきた中国などの労働力の安価の国際競争力に敗退し、
かっての高度成長の総中流社会の再現は、
見果てぬ夢となった。
          
そして殆どの日本の民間会社は、社員が一家を養(やしな)うだけの給与を支払う余裕もなく、低下してきた。

             

やがて私は確か8年前の頃、働いて下さる現役世代の男性の民間会社に勤めている正社員の人たちが、
平成9年( 1997年)の時点の頃から、年収が横ばいと知り、無力な私は悲嘆した・・。

私は何かと働いて下さる現役の諸兄諸姉に注視するのは、
もとより日本の社会保障制度の年金、医療、介護の基盤は、
高齢者が使う費用は、その時の現役世代が保険料や税で負担する財政方式(賦課方式)を取っているので、
働いて下さる現役世代の諸兄諸姉が、その時の高齢者を支えている現実からでもある。

周知の通り、失われた15年での中、政治は混迷、経済は低迷、そして社会も劣化した後、
ここ10数年は特に、たえず短期に成果を問われる勤務となっている。

そして大企業の正社員であっても、常時リストラ時代と称せられ、
多くの会社は正社員は6割、契約社員、アルバイトなどは4割、と知り、深く憂いたりしてきた。

このように私は漠然としながら、敗戦後から昨今まで感じ受け止めてきた・・。

             

この間、バブルが終息し、そして平成元年(1989年)を過ぎた頃から、          
殆どの日本の民間会社は、社員が一家を養(やしな)うだけの給与を支払う余裕もなく、低下し、
やむなくそれぞれの家庭の妻は、フルタイムのような共稼ぎが本格的に増えてきた・・。

こうした共稼ぎの時代を迎えると、妻は勤務に疲れても、育児も相変わらず妻の責務となり、
たとえ良き夫でも、妻がしている掃除、洗濯、料理、育児の助力の程度であり、
妻の発言が増すのは、当然の結果と私は微苦笑している。

             

私たち高齢夫婦でも、年金生活の中、妻は長らく専業主婦の体験者が多く、
少なくとも妻は掃除、洗濯、料理などの家事に関しても、家庭内の達人である。

私は年金生活を14年生であるが、やはり掃除、洗濯、料理などの家事の全般は家内に依頼して、
ときおり助力する程度である。

このような生活をしていると、何かしら決めることは、私は家内に従順となり、
私が現役サラリーマン時代と大きな変貌となり、独り美苦笑する時もある。

たとえば私たち夫婦の共通趣味は国内旅行であり、行きたい処の選定権は家内に優先権として、
日頃の感謝を浮かべて、そうだよねぇ・・と安易に私は妥協している。

そして何かと気弱な私は、家内の手の平に乗れば、何事も年金生活は安楽に過ごせる、
と微苦笑したりしている。

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定年後の男性『家にいる時間』が多くなる中での心得、遅ればせながら年金生活の14年生の私は学び、微苦笑を重ねて・・。

2018-06-22 16:28:09 | ささやかな古稀からの思い

先程、長らく愛読しているネットの『ダイヤモンド・オンライン』を見ていたら、
『定年後「濡れ落ち葉」にならない人は 家にいる時間をこう過ごす』と見出しを見たりした。

何かしら定年後の男性が、『家にいる時間』が多くなる中で、どう充実させるかが、
良き夫婦になれる心得(こころえ)となり、覚束ない家事の掃除、洗濯、炊事、料理、そして会話など明記された内容で、
私は年金生活の14年生の身であるが、遅ればせながら学び、微苦笑を重ねてしまった・・。

この記事は、明治大学専門職大学院グローバル・ビジネス研究科教授の野田 稔さんの寄稿文であり、
『ダイヤモンド・オンライン』に2018年6月18日に配信され、無断であるが転載させて頂く。

《・・定年後「濡れ落ち葉」にならない人は 家にいる時間をこう過ごす

            

● 「濡れ落ち葉」って呼称、 知っていますか?

The 3rd Place(サードプレイス)。
スターバックス・コーヒーが自分たちのことを称してこう言います。

第三の場所です。
ちなみに第二の場所は職場。そして第一の場所は家庭だそうです。


定年ということは、何もしなければ、第二の場所を失うということです。
残るのは第一の場所と第三の場所。

まさか日がな一日、スタバに入り浸ることもできないでしょうから、
それまでに比べて、家にいる時間が格段と長くなるはずです。


定年後再雇用されたり、第二の職場を見つけたりすれば、それなりに出勤する場所は確保できますが、
それでも多くの場合、それまでに比べれば就業時間は短くなるでしょう。
家にいる時間は、どうしても長くなるわけです。

            

この「家にいる時間」をどう充実させるかが、実は定年後の一大課題なのです。

以前に、70歳過ぎの人たちの生活時間をヒアリング調査したことがあります。
正直、愕然としました。(略)


多くの男性にとって、一番やりやすい家事は、掃除です。
もちろん掃除にも、それぞれコツと奥さんが作り上げてきたその家の“デファクトスタンダード(標準的方法論)”が
ありますから、そこは学ばなければいけません。


何事につけてもそうですが、勝手にだまってやり始めるのは、よくありません。
ちゃんと奥さんに断って、必要な教えを請うて、やれるところから手伝う、分担するというのが筋です。

決してやっている自分に酔ってはいけませんし、ましてや自慢などしてはいけません。



掃除に加えて、片付けをし始めると、無用な言い合いを招くことがあります。
男性は一度始めると、例えば何をどこに置くのかということを、きっちりと決めたがる傾向があります。

手順もそうです。
ところが、そこはそれまで奥さんが仕切っていた領域ですし、
一般に女性の方が、その辺りは臨機応変(はっきり言うといい加減)なので、
自分が今さら勝手に決めたルールや置き場所などに固執するのは考え物です。

あくまでも「奥さんが主役で、自分は脇役だ」ということをわきまえてください。

            


残るカテゴリーが、洗濯と炊事・料理です。
どちらが簡単にできそうか質問すると、多くの男性は、洗濯のほうが簡単だと答えます。

そうでしょうか?
新しい洗濯機を使っていても、ただ洗濯ものを洗濯槽に入れて、洗剤を適量注げばいいというものではありません。


洗うものごとに、これには柔軟剤が必要だ、手洗いでなければいけない、
ソフト水流でなくてはいけない、ネットに入れるか入れないか、
などなど正直に言ってどうでもいいのではないか、
と思えるほどに細かな決まりごとがあるらしいのです。


特に女性の下着のことは、全く未知の世界です。
奥さんとはいえ、女性の気持ちは繊細です。

若くして家事をそれなりに分担している男性は、すでにその洗礼を受けていると思いますが、
55歳を過ぎて、これから家事を分担しようという男性は、その洗礼を受けていないでしょう。

洗い方だけではありません。
干し方や畳み方など、いちいち、指摘されます。


これはかなり難物です。
でも、法則がわかってくると男性特有の“構造化魂”が頭をもたげ、
結構面白くなってくる。不思議なものです。


とはいえ、掃除の次にチャレンジする家事としては、炊事・料理のほうがいいと思います。

            

● 朝ご飯の得点は、意外と高い!!  そしてパスタと中華で決める


料理の話をする前に、炊事全般について一言。

まずは生ごみに対する恐怖をなくすこと。
慣れていないと、これをどうにも触りたくないという男性がいますが、そこは慣れしかありません。

加えて洗い物。
男性の料理は段取りも悪く、途中で洗い物もしないから、調理後のキッチンが大変だとよく言われます。


            

● 家事をゲームと考えると 面白くなる


だからこそ趣味を持ち、また定年後も「働く」場が必要なのですが、今回はその話ではなく、
家にいる、その居方の話です。


まず大切なのが、家事を分担することです。

家事というのは無限にあって、大変な面もありますが、
やってみると意外に面白いし、想像力を働かせて、工夫をこらすべき場面も少なくありません。
やってみて、損はないことです。


「家事はゲーム」というイメージが大切です。
決して家事を“労働”と捉えてはいけません。

「労働」と言えるようになる、すなわち自分の活動がちゃんと家の中で
価値を生むようになるまでには、むしろ結構時間がかかるものだと考えてください。


最初のうちは「動けば動くほど、邪魔になる」ぐらいの感覚でいることが賢明です。
実際、たかが家事労働などとなめてかかると、かなり痛い目に遭うものです。


そうして、これをこれまで奥さんが1人で、やっていたのだということを知ることが大事なのです。

まずは洗い物や片付けを手伝うところから始めるのがいいと思います。
そうするうちに、少しは段取りがわかります。

これまで何もせずに座っていた人は特に、そこから始めましょう。
お膳を拭く。そして何を並べるか。どう手伝うと喜ばれるか。
そして食後の片付け、洗い物。そう、まずは下働きで、水仕事に慣れ、偏見を振り払います。


そして調理に挑みます。
ここでもやはり「洗い物を増やさない」を念頭に置いてください。

男性の調理には、食器や調理器具の無駄が多い。
例えば小皿をどんどん使って調味料を作って、それをボウルに入れて、
さらに混ぜるので、汚れた小皿が増える。

洗いながら使えば1枚で済む。
いや、最初からボウルに入れていけば、いいかもしれない。


この段取りというひと手間が、全体の効率をとてもよくします。

例えば中華料理は、調味料や食材を全部準備して、
並べておいてから、中華鍋一本で様々に調理をする。

だからまず、全体の工程表を頭に描いてから、望まなければいけないのです。
いちいち準備しながらやると、時間もかかるし、タイミングもズレるので、おいしくならない。

キッチンは汚れ、洗い物で溢れ、素材の無駄も出てしまう。
これを繰り返すと「もうやらなくていい!」となってしまいます。


しかし、男性も仕事では、これまで段取りを考えてやってきたはずです。
その気になれば、むしろ奥さんよりも段取りよく、こなすことができるようになるはずです。


第一段階を乗り越えれば、男性のほうが、実は調理には長けているとすら考えられます。
男性のほうが火加減が大胆で、ニンニクやトウガラシも大胆に投入し、腕力もある。
だから中華料理など、重たい鍋を振り続けなくてはいけないものは、特に得意なはずです。


若い男性で料理自慢になった人は、何か1品と決めて、まずその料理を得意になる人が多いようです。
中でも、パスタ自慢が多い。

やはりフライパンの振り加減が決め手になるので、男性に合った料理と言えます。
「パスタならお任せ」から始めて、麺類を制覇していく方法はお勧めです。

            

そして奥さんからありがたがられるのが、ズバリ朝ご飯です。
どうせ早く起きてしまうならば、基本の献立が決まっていて、
それでいて工夫のしがいもある朝ご飯を任せてもらう。

そして昼は、パスタを作る。
そうやってできる料理を増やしていくのがいいでしょう。

これは結構楽しい。
料理入門のための本は多いものですが、お勧めはNHKの『きょうの料理ビギナーズ』です。
とてもわかりやすいです。


            

● そもそも、まともに 会話していますか?


家事編をいろいろと語りましたが、一番重要なのは、会話です。
年老いた夫婦には、本当に会話がない。

ともに歩んできた長い人生の末で、同じ方向を向いているのであれば、
特に会話がなくても、素敵な関係なのだと思います。

しかし、向いている方向もバラバラだとすれば、それは単なる同居人以下です。


「同じ趣味を持て」とまでは言いません。
時には話題を提供してみては、いかがでしょうか。


まず大切なのは、話を聞くことだったはず。
あなたが忙しく働いていた間、奥さんは帰ってきたあなたと、
いろいろと話がしたかったはずだからです。

専業主婦であったら、なおさらです。
もし、それを生返事だけで適当にあしらってきたとするなら、そのしっぺ返しが老後の無言です。
だとすれば、今度はこちらから歩み寄りましょう。


こちらから話題を振るのは、少し照れくさいかもしれませんが、
やってみると、意外にできるものです。

ただし、振る話題については、工夫がいるかもしれません。
例えば流行っている本を読んでみて、面白ければ、それを勧めてみるなどはいかがでしょうか。
私もつい数年前にやってみました。


本屋大賞を受賞した『羊と鋼の森』という本を読んで感動したので、
「こんな本があってさあ、・・・ピアノの音がこぼれてくるようなんだ」と話題を振ってみたのです。

実は軽く受け流されるかと思ったのですが、意外にも興味を示してくれました。
「どんな話なの?」と尋ね返された時は、とても嬉しかったのを覚えています。
実にいい会話が生まれました。


自分から歩み寄ることで、人生はもっと豊かになるものです。
それは年老いてからだけの処方箋ではありませんし、夫婦だけのノウハウでもありませんが。・・》


注)記事の原文に、あえて改行を多くした。
            

私は東京の調布市に住む年金生活の73歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。

そして雑木の多い小庭の中で、古ぼけた一軒屋に住み、
私たち夫婦はお互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごして、早や14年目となっている。

私は中小業の民間会社に35年近く奮闘して2004年(平成16年)の秋に定年退職となり、
多々の理由で年金生活を始めた。

そして私は年金生活を始めて当初、平素の我が家の買物を担当する、と自主宣言をした。
こうした関係で、私は家内から依頼された品を求めて、自動車も所有できない我が家として、
私は独りで歩いて最寄のスーパーか、ときには駅前のスーパー、専門店に行ったりしている
買物メール老ボーイの身となったりした。

そして帰宅後、買物の責務を終えた後は、
やはり独りで自宅から3キロ範囲にある遊歩道、小公園などを歩いたりし、
このようなことが午前中、ほぼ毎日のように過ごしている。

こうした根底には、定年前のサラリーマン時代の私は、数多くの人たちと同様に多忙で、
家内は我が家の専守防衛長官のような専業主婦であり、日常の洗濯、買物、料理、掃除などの家事で、
家内なりの日常ペースがあり、この合間に趣味などのささやかな時間で過ごしてきた。
         
そして定年後の年金生活を始めた私としては、このペースを崩すのは天敵と確信し、
せめて午前中だけは、私は外出している。

この後の昼食も、お互いに制約することなく、自由食としてきた。

            

午後から夜の大半は、随筆、ノンフィクション、現代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

このような年金生活を過ごしているが、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。
            
こうした中、家内は相変わらず専業主婦の延長戦のように料理、掃除、洗濯などをしてくれるので、
私はせめてと思いながら、家内が煎茶、コーヒーを飲みたい時を、
私は素早く察知して、日に6回ぐらい茶坊主の真似事もしている。

ときおり、私は家内のボディガード、お供そして荷物持ちで、3週間に一度ぐらい駅前で買物、
或いは年に3回ぐらい都心の新宿にある伊勢丹、小田急、京王などのデパートに買物、
そして庭の手入れ、家内との共通趣味の国内旅行を幾たびか重ねてきた。

こうした中、平素は私は家の掃除、洗濯、料理は家内を頼り、
せめてながら朝食、夕食の時は、料理のできた台所から食卓のある居間まで料理を運ぶ老ボーイ、
食事後は食卓から洗い場のある台所まで、素早く運ぶ老ボーイとなっている。

このような日常生活を過ごしているが、私は亡き母の遺伝を素直に受け継いで、
恥ずかしながら男の癖に、おしゃべりであり、家にいる時は家内に談笑を重ねている。


                         


私たち夫婦の両親は、今や家内の母だけとなり、遠方の地に一戸建てに住み、
私より14歳年配で87歳の身となっている。

過ぎし年、私が民間会社のサラリーマンの定年退職した2004年〈平成16年〉の秋の直前に主人に病死され、
我が家より2時間半を要する千葉県のある市で独り住まいの生活をされて、早や13年半となっている・・。            
     
これ以来、家内は季節が変わるたびに、独り住まいとなっている家内の母宅に、
季節の変わり目の支度で、6泊7日前後で行ったりしてきた。

やがて家内の母は、80歳過ぎた頃から膝(ひざ)を悪化して、まもなく杖(つえ)を突く身となって、        
こうした後、整形外科、内科、眼科に通院している中、膝(ひざ)と腰に激痛が感じ、
一昨年の5月より少し遠い大学病院で検査、そして入院、退院後の検査が加わりした後、
リハビリで近くの病院に行ったりして『要介護2』となってきた。

そして家内は付き添う為に、家内の母宅で駐在することが多くなってきた。

まもなく家内の妹が強力な援軍となり、家内と家内の妹が交互に、
家内の母宅に殆ど宿泊して、家内の母の食事、洗濯、掃除、或いは通院の付き添いなどしている。

そして昨年の5月より、家内の母はデイ・サービスに通った成果で、市の福祉課が再審査を得て、
『要介護2』から『要支援2』と回復して認定されたりした。
           
このように、家内は家内の妹と逐次連絡しあって、家内は独り住まいの家内の母宅に行っている時は、
私は我が家で『おひとりさま』の生活となっている。

              

こうした関係で、ときおり私は我が家で、独りぼっちの『おひとりさま』の生活を過ごし、
早や13年半を迎えている・・。

いつの日にか私たち夫婦も、どちらかが片割れとなる『おひとりさま』になる時が来るので、

私としては『おひとりさま』の特別演習かしら、と思いながら過ごす時もある。
    
こうした中、ときおり『おひとりさま』になる私は、勝手きままに過ごしたりしている。

恥ずかしながら、私のこの時節の『おひとりさま』の定例となった生活の実態を発露する。

              

朝、目覚めた後は、やがて台所にある調布市から配布されたカレンダーを見て、
『燃えるゴミ』、『ベットボトル』、『古紙・新聞』、『燃えないゴミ』などの指定日を確認して、
これに対応して、調布市から指定された道路に面した門扉に置いたりしている。

やがて朝食は、家内は炊き上げた十六穀米の入った白米のご飯を、
半合単位にラップに包んで、冷蔵庫の片隅に保存してくれているので、
私は電子レンジで温めて、頂いたりしている。

こうした中で、私の朝食の前菜は、
新タマネギと生ワカメとあえたりした常食をミッカンぽん酢とお醤油をかけて、
大きな皿に盛大に食べたりしている。

この後は、電子レンジで温めた十六穀米の入った白米のご飯、インスタントのワカメの味噌汁、
納豆、しらす干し、コブの佃煮、ラッキョの塩漬け、福神漬け、サバの味噌煮の缶詰としてきた。

この後は、我が家の最寄りのスーパーに行き、夕食用のお惣菜(総菜と同意語)売場で数品を選定したり、
野菜、果物売場で少し買い求めて帰宅することが多かった。

昼食はヨーグルトを箱の二分の一を食べた後は、アンパンをひとつを頂いたりした。
その後は、台所でかぼそい声で鼻歌を唄いながら、大皿、小皿、小鉢、茶碗、グラスなどが散乱していたので、
恥ずかしながら一日一回だけ、皿洗いの水遊びをした。

                           

午後の時間は、いつものようにブログの投稿文を送信した後、
私が愛読している御方のブログの投稿文を読ませて頂いたりし、
或いは本を読んだり、音楽が聴きたくなった時は、音楽棚からDVDを取り出して、
ライブ盤などはテレビを通して、視聴したりしてきた。

やがて夜の8時前後に入浴した後、家内が温めて食べられる料理を数多く準備してくれているのを、
夕食として食べたりしている。

そして健康の源(みなもと)は、程々の食物から形成されると学んだりしてきたので、
前菜として、ニンジンを千切りにして、電子レンジで少し温めて、
ゴマドレッシングに少しお醤油をかけて、食べている。

そして家内が4泊以上になる時は、家内が準備してくれた料理は品切れとなり、
私がスーパーのお惣菜(総菜と同意語)売場で買い求めた品を並べて、
食べているのが実態となっている。

こうした中で、話し相手がいない私は、ウィスキーを濃い水割りを数杯を呑みながら、
殆ど映画棚から、その日に観たい作品をテレビを通して、視聴したりしてきた。

              

洗濯に関しては、洗濯から乾燥できるまでの洗濯機に頼り、

せめて下着、タオル、パジャマぐらいはしょう、と当初は私は思ったした・・。

しかしながら家内より、着替えはたくさんあるでしょう、私が帰ってからします、
と強い口調で私は言われてしまい、助かるよぅ・・と私は即答したりしてしまった・・。

このような洗濯機の機能も知らずに、今日まで至っている軟弱な私となっている。

掃除に関しては、多少の埃(ほこり)がたまっても・・とグウダラな心情で、
二日に一回・・電気掃除機を曳いて、掃除したくらいである。


こうした中、私は平素は何かと家内と談笑したり、
ご近所の奥様、ご主人など明るく微笑みながら談笑したりしている。

そして私は、遊歩道、公園などを散策していると、見知らぬ男性、
女性グループの御方たちと、話しかけられたり、或いは話しかけたりして、談笑し、殆ど毎日過ごしている。

そして私は、ときおり『おひとりさま』になる時は、家内が留守の為か、
ご近所の奥様、ご主人などと長話になることが多くなったりしている。
       
このように私は手抜きの『おひとりさま』の生活
をしているが、
家内は料理、掃除、洗濯などの家事は優等生であり、私などはいつまでたっても初心者以下あり、
もとより落第生だよなぁ・・と微苦笑を重ねたりしている。
            
                                   
              

今回の記事に於いて、多々教示されて、私は独り微苦笑を重ねたりしている。

しかしながら、今回の記事に於いて、《・・70歳過ぎの人たちの生活時間をヒアリング調査・・
まず寝る時間が早い。
21時~22時には、寝てしまいます。
なぜなら、やることがないからです。

ところが平均睡眠時間が、意外と短い。5時間ほどです。
22時に寝ても、夜中の3時には、起きてしまう計算です。

さすがに、ここで起きてしまっても、家族が困ります。
だからそのまま寝床の中にいる。


やることがないので、NHKラジオ第一の「ラジオ深夜便」をイヤホンで聴く。
これが終わるのが朝5時なので、そこでやおら起き出すのです。

ラジオ体操などで少し身体を伸ばし、天気が良ければ、庭の草木花に水をやり、朝の散歩をする。
7時に朝食をとり、病院など、出かける用があれば出かけますが、
それでも午前中で、ほとんどやることがなくなってしまう。

昼食をとって午後になると、テレビにすがるようになります。


2015年の国民生活時間調査(NHK放送文化研究所)を見ても、
テレビの視聴時間は、全体としては減少傾向にあるものの、
70歳以上に限ると、平日で男性は5時間16分、日曜日は6時間17分と視聴時間が長い
(ちなみに女性は、平日5時間29分、日曜日は5時間48分)。


テレビだけが人生という構図が、まだ続いているわけです。

こうした年代の男性は、どのように呼ばれているかご存じでしょうか?
「粗大ごみ」、しかも燃えない「粗大不燃ごみ」。
それだけではありません。「ワシも族」、「濡れ落ち葉」とも。


テレビを観ながら、ゴロっと横になっている。

奥さんが買い物に行くと言い出すと、「わしも」と言って立ち上がる。
だから「ワシも族」。

そして奥さんの後をついて歩く姿が、足にまとわりつく落ち葉のようなので、「濡れ落ち葉」。・・》

こうした男性は、私の先代には存在していたかも知れないが、現代ではこうした男性は、
奥様より掃き捨てられる、と私は微苦笑したりしている。

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お酒は夜より昼、間食、塩分、腹満腹、タバコなど、かっては呑兵衛だった私は学び、やがて微苦笑を重ねて・・。

2018-06-21 14:59:05 | ささやかな古稀からの思い

 先程、愛読しているネットの【現代ビジネス 】を見ている中で、
【 高血圧の人へ。  どうせ飲むなら「昼酒」がオススメです  】と見出しを見たりした・・。

私は東京の調布市に住む年金生活のまもなく73歳の身であるが、
血圧は正常値であるが、かっては日本酒が大好きな呑兵衛であり、
ここ5年は5日間に一回だけ、ウィスキーの濃い水割りを愛飲している私は、
どうしてなのょ・・と動顛しながら、こっそりと精読してしまった。

やがて記事を読み終わった後、お酒を呑む時間は夜よりも昼が良い、
間食について、塩分について、そして先に野菜を食べていれば、お腹いっぱい食べても、栄養過多になりづらい、
或いはタバコのことなど明記されて、私は微苦笑を重ねてしまった。


この記事の原文は、『週刊現代』の2018年6月2日号に掲載された記事のひとつで、
関連のネットの【現代ビジネス 】に6月21日に配信され、無断であるが転載させて頂く。

              

《・・
☆低カロリーなお酒を選ぶ

「かつては、週に2日ほど『休肝日』を設けたほうがいいと言われていましたが、
現在は、それほど推奨されなくなってきました。

ビールは中瓶1本、日本酒は1合、焼酎は0.8合、ワインはグラス3杯程度であれば、
毎日お酒を楽しんでも問題ありません」

そんな嬉しい話をしてくれるのは、東京医科大学名誉教授の高沢謙二氏である。

高血圧の呑兵衛にとって何より気になるのが、お酒をどう飲むかということだろう。
アルコールは基本的に血圧を上げる性質があるからだ。

だが、気にしすぎるのは禁物。氏が続ける。

「休肝日を設けると、どうしても『今日は飲めない』と我慢をすることになって、
ストレスが溜まってしまう。
『これくらいの量なら毎日飲める』と前向きに考えることが大切です。


適量の飲酒は、むしろ心血管疾患を減らすというデータもあります。
楽しくホロ酔いになるのは、まったく悪いことではありません」


              

東京逓信病院院長の平田氏はこう話す。

「多くの人にとって、高血圧の大きな原因は、肥満です。
その意味では、お酒のなかでは、カロリーの低いウィスキーがいい。
発泡酒やビールだと、最近はカロリーオフの商品も多いですから、大いに活用してください。


少しお酒を減らす必要がある場合には、
『最後のもう一杯』をノンアルコールビールにするなどの工夫も有効です」


飲む時間帯も、基本的には自由だが、
アルコールの性質を考えると、夜飲むよりも「昼酒」がオススメだ。

夜に酒を飲むと、胃がアルコールを分解するため、
血圧を下げる重要な要素である「睡眠」の質が、落ちてしまうからだ。


昼に酒を飲んだ後、夕方、酔い覚ましに散歩をするとなおいい。
15~17時の運動は、質のいい睡眠をとるための導入役になってくれる。


眠りたい時に寝て、血管を休め、昼間からお酒を飲んで、ストレスを溜めないようにする。

気づいた時に、チョコチョコと動き気分よくリフレッシュする・・・。
実は、そんな生活こそが、普段の生活でストレスの多い現代人にとって、
血圧を下げるための「最高の生活術」なのである。


              

☆腹いっぱい食べてもいい

ほかにも、無理せず、楽しく実践できる生活術は、いくつかある。

普通、太らないために、間食は控えろと言われるが、
昼間に小腹が空いた際には、おやつを食べてもかまわない。

大切なのは、その種類だ。

「間食には、ナッツが最適です。

最近の研究では、ナッツが心臓の病気のリスクを減らすことが、わかってきています。
国際的な研究でも、ナッツを食べる量が多くなるほど、
心筋梗塞を発症するリスクが下がることが明らかになっているのです」(前出・平田氏)


カカオ分が多いチョコレートもいいだろう。
ポリフェノールが血管拡張の作用を持ち、血圧低下に寄与する。

              

食事については、「腹八分目」を目指せというのが、よく言われるところ。
だが、お腹いっぱい食べてもOKだ。

その際、気をつけるべきは、「先に野菜を食べる」こと。

先に野菜を食べていれば、お腹いっぱい食べても、栄養過多になりづらい。
さらに、高血圧と付き合っていくうえでも、大きな効果がある。


「野菜を先にたっぷり食べるやり方で、最高血圧が140を超えていた患者さんが、
120台まで下がったことがあります。


まず、食物繊維が先に腸に入ることで、その後に入ってくる脂肪などが吸収されにくくなり、
体重増加を抑制します。

さらに、食後血糖の急上昇を抑え、血管が傷つきにくくなるので、
長期的に心筋梗塞や脳卒中を予防するのです」(前出・高沢氏)


また、食事では、塩分を減らせと、耳にタコができるほど言われ、頭を悩ませてきた人も多いだろう。
だが、細かい塩分含有量を意識しなくてもいい。
これもちょっとした工夫だけで大丈夫。


加工食品(ハム、ベーコン、練り物)を残すようにすれば、塩分摂取量は大きく減るのだ。
ハム1枚(20g)は約0.5g、ちくわ1本(60g)は約1.6g、魚肉ソーセージ1本(90g)は約1.9gの塩分を含む。
これを避けるだけで、1日3g程度の減塩は簡単だ。


              

タバコは血圧にとって、害悪以外の何物でもない。
だが、タバコを一気にやめる必要はない。


「タバコは、たしかに高血圧には悪いものです。
しかし、タバコをやめた途端、ストレスで激太りして、心筋梗塞になった人もいます。


どうしてもやめられない人は、無理して一気にやめず、ストレスを溜めないよう、
一本一本、達成感を味わいながら、減らしていくことを勧めます」(前出・高沢氏)


無理せず、楽しく、気持ちよく。
決定的なダメージを受けず、高血圧と付き合っていくためには、それが何よりも大切だ。・・》


注)記事の原文に、あえて改行を多くした

              

私は民間の中小業のある会社に35年近く奮戦し、2004年(平成16年)の秋に定年退職後、
多々の理由で直ちに年金生活に入ったした。

私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、たった2人だけの家庭であるが、
私は
現役サラリーマン時代は、何かと悪戦苦闘が多かった為か、解放感で高揚したりした・・。


そして年金生活を当初は、私は独りで近所の遊歩道を散策したりすると、
こんなに自由に散歩できるなんて、許されても良いのかしら、
と定年直前までの多忙期を思い重ねたりし、戸惑いながら甘受したりした。

何よりも朝の陽射し、昼下りのひととき、そして夕暮れ時に、
ゆっくりと時を過ごし、苦楽の激しかった現役時代を思いながら、微苦笑を重ねたりした。

             

そして朝食は、白米のご飯をお腹いっぱい食べたり、
昼食だけは我が家は、お互いに制約することなく自由としている中、
私は冷凍商品のチャーハン、或いはアンパンを二つ食べたりしていた。

夕食する前には、
純米酒の辛口が好きの私は、
晩酌の時は現役時代と同様に2合、ときには3合を呑んだり、

或い日はビールの時は500mlの缶ビールを数本を呑んだりした。

こうした中で、ときには日中に小庭のテラスに下り立ち、簡易椅子に座り、缶ビールを呑みながら、
リストラ烈風の中、最後の出向時代の5年間は、何かと大変だったなぁ、と思い重ねたりした・・。

この結果、身長は170センチ、体重は70キロだった私は、毎年少しずつ体重が増えてしまった・・。

                            
  

過ぎし2010年(平成22年)の秋、私は健康診断の結果、
『糖尿病で、内科に受診して下さい』と明記されてしまった。


私は青ざめ、翌日に自宅から徒歩10分ばかりの内科専門病院に行き、検査、そして問診の時、
『国内旅行に何とか70歳ぐらいまで行きたいので・・何なりと御指導をお願い致します』
と私は内科の医師に懇願した。

そして高橋真梨子さんが唄われた『桃色吐息』は妖艶であるが、
体力の衰えた66歳の私は、青色吐息のような表情で、内科の医師のアドバイスを聴いたりした・・。

私は家内との共通趣味は国内旅行であり、糖尿病の場合は、もとより食事制約がある。

このような時、家内と共に旅行の宿泊先で美味しい夕食を頂けそうな時、
私は食べてはいけない料理だったら、余りにも惨(みじ)めである、と思ったりした。

やがて医師から、料理のカロリー試算表を渡された上、軽い運動を毎日して下さい、と私は言われた・・。
この後、6週間の私は、家内が料理のカロリー試算表を確認しながら野菜を多くした料理を作って貰い、
これ以来、朝夕頂いたりした。

そして私は、ウォーキングをしたり、或いは早足で遊歩道を歩いたりし、
お酒はしばらく・・さよならねぇ、と夕食の時も煎茶を飲んだりしていた。

こうした中、私は最寄の内科に8週間毎に定期検査日、そしてこの間に検査結果日と健診を受けて、
糖尿病の範囲の対象から克服でき、悪玉コレステロールは基準値の90%、
これ以外はすべて優等生となったのは、2011年(平成23年)の3月の初旬であった。

             
             

これ以来、食事に関しては、私は幼年期に農家の児として育ったので、齢ばかり重ねた今でも、
朝食は、ご飯と汁、おかずと香の物で成り立っていた庶民の一汁三菜(いちじゅうさんさい)の真似事をしている。

私の朝食の原則として、前菜を必ず頂いている。
タマネギをスライスし、生ワカメとあえて、そしてミッカンぽん酢とお醤油をかけて、
大きな皿に盛大に食べたりしている。

やがて十六穀米の入った白米のご飯を半合ばかり盛ったお茶碗、インスタントのワカメの味噌汁、
納豆、コブの佃煮、シラス干し、福神漬けを必須として、
これ以外はカブの醤油漬け、カブの葉の塩漬け、焼きノリなどを
加える時もある。
そしてシャケの瓶づめ、或いはサバ缶のミソ煮で頂くことが多い。

家内は時折つきあうが、大半は食パンにジャム、オレンジ・ママレード、或いはブルーベリーを塗り、
二枚ばかり食べながら、ホット・コーヒーを飲みながら頂くことが多い。
そしてバナナなど果物も食べたりしている。

           
昼食は私はホット・コーヒーを飲みながら、小さな塩フランスバンを三ばかり食べたりしていたが、
家内はケーキのような菓子パンを食べることが多い。

しかしながら昼食は、お互いに自由な時間を過ごしているので、
それぞれ自在に食べることが多いのが、実態となっている。


そして私は4月から9月までは、トマトを二つを食べた後、キュウリを2本食べ、
10月から3月までは、やはりヨーグルトを箱の半分を食べた後、リンゴを一個ばかり食べたりしている。
                                                             


やがて夕食の時は、私は前菜として、冷凍のブロッコリーを電子レンジで少し温めて、

やはりミッカンぽん酢とお醤油をかけて、食べてきたが、
ここ半年は、ニンジンを千切りにして、電子レンジで少し温めて、
ゴマドレッシングに少しお醤油をかけて、食べている。


そして牛肉、豚肉、鶏肉、ラム肉など200グラム程度に、
キュベツなどの野菜を多めに頂いたりし、

ときにはシイタケ、シメジ、マイタケなどの茸(きのこ)も好きで、食べたりしている。

こうした中で、5日毎にウィスキーの濃い水割りを飲んだりしている。

家内は肉と野菜を食べたりした後、プリンかショートケーキを食べたりしている。

このような食事内容が、真実一路のように変化がなく、ここ三年ばかり続いたりしている。


            
          

こうした朝食、夕食を頂いている中でも、 私は平素は亡き母の遺伝を素直に受け継いだ為か、
男の癖におしゃべりで、家内と談笑をしたりしている。

こうした日常生活の食事となり、ときおり駅前に買物とか旅行の旅先の時は、
家内の要望を聞いて、食事処で少し背延びした料理も頂いたりしている。
                          
ときおり家内が独り住まいの家内の母宅に、家内の妹と交代で、看病で宿泊することも多くなっていて、
私は我が家で『おひとりさま』の生活になるが、
こうした時でも、殆ど食事内容が変わらなく過ごしたりしてきた。

            
私は午前中の殆どは、平素の我が家の買物は、家内から依頼された品をスーパー、専門店で求め、
買物メール老ボーイとなっている。

この後、独りで自宅から3キロ以内の遊歩道、小公園などを歩いたりしている。

こうした根底として、もとより健康でなければ、自身の日頃のささやかな願いも叶わないので、
いつの日にか認知症、或いは脳梗塞などの難病に遭遇したら、困窮するので、
ひたすら歩き、ときおり大股で歩いたり、或いは足早に歩くことが多くなっている。
       
そして70代の三年生して、心身共に自立し健康的に生活できる健康寿命を意識して、
確かな『生きがい』と『健康』、そして『気力』を持続できるように、
ときおり願いながら歩いたりしている。


            

今回の記事に於いて、お酒は夜より昼・・、と教えられた私は苦笑してしまった。
私は国内旅行、冠婚葬祭の時は、ときおり昼でも呑む時があるが、
原則として5日毎に、夕食の時にウィスキーの濃い水割りを呑んだりしている。

しかしながら自己節制に弱い私は、タバコをやめられず、今日に至っている。

これ以外の間食、塩分控え目、食事の前に野菜をいっぱい食べ、腹八分としている。

やはり私は、小・中学時代は通信簿『2』と『3』の多い劣等生だった為か、
今回も優等生の満点には、ほど遠いよなぁ・・独り微苦笑をしたりしている。

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ある御夫婦が人生を歩む中、妻を救った夫の一言、高齢者の男性の私でも、圧倒的に感動をさせられ・・。

2018-06-20 14:20:07 | ささやかな古稀からの思い

先程、ネットの【YAHOO! JAPAN】の中にある『ライフ』のニュースを見ている中、
【 妻を救った夫の一言。
         「また頑張れる…」と思った言葉は? 
】と見出しがあった。

私は、どういうことなのかしら、と思いながら記事を精読してしまった・・。

 この記事は、初めて知るpeekaboo(ピーカブーさんの寄稿文であり、
ネットの投信1 [トウシンワン] 、2018年6月19日に配信されていた。

昨今は余りにも悲惨な出来事が多い中、それぞれの御夫婦が人生を歩み中、
今回の2話に私は圧倒的に感動させられ、良き話は多くの御方に知ってほしく、
あえて無断であるが転載させて頂く。

《・・物語のハッピーエンドは、結婚ではありません。
結婚してからまた、長い長い物語が始まります。

そして、その物語には、いくつもの困難が待ち受けています。
子育ての悩み、夫とのすれ違い、親せき付き合い・・・。
そんな悩める妻が助けを求めるのは、他でもないパートナーである夫です。


そこで今回は、「私はこの夫の一言で、救われました」という体験談をご紹介します。

もし奥さんが悩んでいるようなら、他でもないあなたが手をさしのべあげてください。

            

☆「これが俺たちのやり方だから」

Bさん(32歳)は、昨年ようやく第一子が誕生しました。
義理の両親にとって、待望の初孫、特に姑はとても喜んでくれたそうです。


Bさん宅から義理実家までは、電車で30分ほどの距離。
子供が生まれてからというもの、姑は毎週末にBさん宅に、子供の顔を見に来るようになったといいます。

「見に来るだけなら、まだよかったんですが・・・」
Bさんは、少し顔を曇らせながら言葉を続けます。
「あぁしなさい、これはだめ、と育児方法に口を出すようになってきたんです」。


ほっぺたを触ったら、肌荒れするから触っちゃダメ、足を冷やしたらダメ、靴下は常に履かせなさい・・・。
毎回何かしら口を出されることに嫌気がさし、
Bさんは、週末が来ることを恐れるようになりました。


ある日、思い切って夫にそのことを相談、
すると夫はすぐに「そろそろ週末家族で出かけることもあるから、毎週来なくていい。
これからは、僕たちがそっちに行くから」と姑に連絡してくれました。


「しんどい思いさせてごめんな、今週末は俺が子供見とくから、お茶でもしてきな」
という夫の言葉に、Bさんは心の中にあった鉛が溶けたような気持ちになったのだとか。


その週の土曜、Bさんは夫に子供を預けて、久々にひとりの時間を楽しみました。
ウィンドウショッピングにカフェ・・・。
自由な時間を満喫した彼女が帰宅すると、なんとそこには姑の姿。


唖然とするBさんに、
姑は「あなた、何ひとりで遊んでるの?  こんな小さな子供を置いて!  非常識よ!」
と怒鳴りました。

すると夫が「いいかげんにしろ!」と姑を一喝。


「これが俺たちの子育てスタイルなんだ。
これが俺たちのやり方だ、お袋はもう黙っててくれ。
俺たちふたりで頑張りたいから、どうか見守っててくれよ」
そう訴える夫に、姑は何も言わずに帰ったそうです。


「あのとき、夫がああ言ってくれたのが、すごくうれしかった。
夫が私の味方だと分かったことが、とても心強かったんです」。

            

☆「ありがとう、幸せだよ」

Mさん(43歳)は、結婚20年目。
子供も大学生になり親の手を離れ、夫婦ふたりでの時間が多くなりました。
「そのときに気がついたんです。夫婦で話すことが何もないんです」。


子育て真っ最中の頃は、夫も激務、
ワンオペ育児だったMさんは、疲れ果て、夜は子供と一緒に眠ってしまう日々。

Mさんの夫は、Mさんが眠ってから帰ってくることがほとんどだったため、
夫婦ふたりの時間は、ほとんどなかったのです。


「最初は帰りが遅い主人に腹が立っていましたが、
そこを責めても『仕事だから仕方ない』の一点張り。

いつの頃からか、私も主人に何も期待を持たなくなりました。
『毎月家族を養えるだけの給料を稼いでくれたらそれでいい』と思うようになったんです」。


「夫はただ、お金を稼いでくるだけ、そう割り切ると気持ちが楽になった」
そう語るMさん、
夫も家庭のことなんて感心ないのだろうな、と決めつけていたそうです。

そうして少しずつ夫婦の間に溝ができ、子育てと仕事に余裕ができたころには、
その溝がとても大きくなっていたのです。


「子供が大学卒業したら、離婚しよう」
そう思っていたある日、Mさんは夫にディナーに誘われました。

「ディナーといっても、近所の中華料理店。
夫のために、わざわざおしゃれするのも面倒くさくて、私が近所なら・・・と指定しました」。


会話もなく、ただ黙々と運ばれた食事を口にするMさんに、
夫が口を開いてこう言いました。
「俺は、いい夫でも、いい父親でもなかったな」。


突然の言葉にびっくりしていると、さらに夫は話を続けました。
「もう、俺に何も期待していないのもわかってる、俺に愛情がないことも知ってる。
でも、俺はずっと君に感謝している。

君と結婚できて幸せだと思っている。
ありがとう。俺は、本当に幸せだよ」。


「自分でも、びっくりしたんですが」とMさん。
「気づいたら私は、大粒の涙を流していました。

私はずっと、この言葉を待っていたのかもしれません。
もし、あの言葉がなければ、私は自分の長い結婚生活を否定していたでしょう。
でも、夫の『幸せだよ』の一言で、私はこの人と結婚してよかった、と思えたんです」。

            


結婚してからが、本当のスタート。
ただ、「好き」という感情だけでは、解決できないさまざまな問題が2人の前に立ちはだかります。
それをひとつずつ乗り越えるたびに、名実ともに「夫婦」になっていくのかもしれません。


「言葉にしなくても、わかるだろう」・・・これは男性がよく言うセリフ。
でも、時には言葉にすることが、大切な場合もあります。
夫婦が円満に暮らしていくのに大切なのは、お互いの心に寄り添い、共感することなのではないでしょうか。・・》

注)記事の原文に、あえて改行を多くした。
            

私は東京の調布市に住む年金生活の73歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。

そして雑木の多い小庭の中で、古ぼけた一軒屋に住み、
私たち夫婦はお互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごして、早や14年目となっている。

今回の記事に関して、子供に恵まれなかった私として、話題にすることは憚(はばか)れるが、
良き夫婦の《・・妻を救った夫の一言・・》は、それぞれの御夫婦のありかに共通される事柄であるので、
あえて私は、取り上げる。

第一話の若きご夫婦が子供に恵まれて、妻は戸惑いながら育児される中、
夫のお母さんが週末に来宅されて、育児のありかたに幾たびも発言され、困惑される。

やがて夫は、実母に「これが俺たちのやり方だから」と苦言されて、
妻は、夫が私の味方だと分かった、ことに安堵しながら、ご夫婦の絆を強く感じる。

昨今の若き御夫妻は、ともすれば夫は実母に弱い、と風の噂で私は学んでいるが、
肝要の御自身の夫婦のありかたを配慮すれば、今回の夫の発言に私は感動をさせられたりした。


            

第二話の子育てが終わった中年夫婦で、妻の立場に私は共感するが、
やがて夫が贖罪するかのように、妻に語り掛ける状態に、私は胸が熱くなった・・。

私も40代の頃は、多くのサラリーマンと同様に多忙な時期であった。
この当時の私は、ある会社でコンピュータを活用させた情報畑に在籍していた。

こうした中で、コンピュータの委託処理から自社導入して、
システム開発をしたりすると、殆ど深夜まで常時勤務となり、ときには徹夜で奮戦したりした。

やがて開発が終われば、もとより運営業務、部分改定などで奮闘していた。

こうした時は、殆ど深夜に帰宅することが多かった。

私は帰宅後、お風呂に入った後は、台所にある小さなテーブルで、
家内が素早く作ってくれた食べ物の数品を食べて、お酒を呑みながら、
この当時、多くのサラリーマンが、『夕刊フジ』を読んでいたと思われるように、
本日の出来事をお互いに談笑しながら話しあったりした・・。

そして私たち夫婦は子供いない為か、或いは夫婦の日常として、
私は睡眠時間を削りながら、お互いの本日の体験した小話を話したりした。

やがて深夜の一時過ぎに、勤務を配慮し、ドクターストップして、
まもなく布団にもぐったりしてきた。

            

たまたま私たちはこのようにしてきたが、今回の中年夫婦のありかたは、私は痛いほど理解でき、
殆どの夫は「言葉にしなくても、わかるだろう」・・大きなすれ違いのような誤算がある。

今回の
夫の妻へのねぎらう感謝の言葉、
そして何よりも「君と結婚できて幸せだと思っている・・」の言葉・・
私は胸が熱くなり、感動させられたりした。

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“定年難民”にならないための4つのコツ、年金生活14年生の私は学び、やがて微苦笑を重ねて・・。

2018-06-19 15:20:18 | ささやかな古稀からの思い

先程、ときおり愛読している朝日新聞社系の基幹サイト【AERA dot.】を見ている中、
【 「定年後は田舎暮らし」と決めつけるな! 
         “定年難民”にならないための4つのコツ  】と見出しを見てしまった。

 私は東京の調布市の片隅に住む年金生活の73歳の身であるが、
殆どの御方は定年退職時を迎える前に、或る程度の覚悟をされると私は思ったりしてきたので、
改めて“定年難民”に関しては関心する難題であるので、記事を精読してしまった。

この記事の原文は、朝日新聞出版 が発刊している書籍を紹介する記事で、
今回は、聖路加国際病院・診療教育アドバイザーの保坂隆さんが『定年後、うまくいく人 いかない人』上梓され、
【AERA dot.】が保坂隆さんに、定年難民にならないための4つのコツ、インタビューされた記事である。

そして2018年6月19日に配信され、無断であるが記事の大半を転載させて頂く。

《・・人生100年ともいわれる長寿の時代になり、定年後の人生をどう生きるかが大きな問題になっています。
居場所も目的もなく、ただただ時間を潰すしかない「定年難民」にならないためには、どうすればいいのか?
 
                 

【コツ1】自分がやりたいことはすべて「生きがい」になる

定年後の喪失感、孤独感に耐えきれず、必死に生きがいを探しはじめる人を見かけます。

でも、簡単に見つかるものではなく、「生きる気力がなくなった」などと、
自分を追いつめるケースさえあります。
典型的な「定年難民」のケースです。


「立派な生きがいを持たなければ」という気持ちが強迫観念にまでなって、
さほど興味もない資格を取ろうとしたり、嫌々ながら社会奉仕活動に参加し始めたりするシニアもいます。

しかし、結局、それは自分が望んで始めたことではないので、続けるのが苦痛になります。


生きがいというのは「生きていくのに値すると自分で感じられるもの」や、
「生きている喜びや幸福感を得られること」を指すわけで、立派なことを見つけなくてもいいのです。


現役時代には、接待ゴルフや急な出張など、
気が向かなくても、やらなければいけないことがいろいろあったはずです。

でも、定年後は、そんな無理強いをされることはなく、
自分がやりたいことを「生きがい」として楽しめばいいと思います。


自分がやっていて楽しいと思うことを、気楽に楽しむ。
その姿勢が大事です。

                 

【コツ2】「定年後は田舎暮らし」と決めつけるな


雑誌でもよく特集されていますが、「定年後は田舎暮らしをしたい」と考える人がいます。
たしかに、大自然の中でのんびりと生活したら、長生きできそうですし、
無農薬の野菜を栽培できれば、豊かな食卓になるかもしれません。


しかし、これは田舎暮らしの、いい面だけ。
田舎では、都会以上に高齢化が進んでいて、「60歳前半など若手」ということも珍しくありません。

そのため、「消防団へ入ってください」と促されたり、
祭りの手伝いや近所の掃除を強いられたりするケースもあります。


憧れの田舎暮らしを成功させるには、その土地のことをしっかり勉強し、
地域になじめるかどうか、検討することが大切です。

そうしないと、田舎にも居場所がなくなり、
しかし都会の家は売ってしまって、戻れないという「定年難民」の道が待ち受けています。

                 
 

【コツ3】定年からの経済プランは、大ざっぱに

定年までに3千万貯めろ、いや、3千万じゃ足りない、1千万あれば大丈夫・・・。
あふれかえる情報に、「なんとかしなければ」とあせったり、
「下流老人になってしまう」と落胆したりしていないでしょうか。


実は、定年前からあまり先の細かい経済プランを立てても、意味はありません。
「40年生きたとして・・・」とか、「病気になったら入院費が・・・」などと計算しても無駄。

まず大まかな経済プランを立て、定年を迎えたら、1年ごとに見直す程度でいいでしょう。


世界的に見れば、今の日本の経済状況も福祉も、相当、恵まれた水準にあることも、
頭に置いたほうがいいでしょう。
いたずらな「不安グセ」を解消するだけで、老後の日々は明るくなります。

                 

【コツ4】「見栄や義理と縁を切る」という姿勢も必要に


ただし、定年後の、お金の使い方の見直しは、必須です。
とくに交際費は、チェックすべきで、見栄や義理の出費は、
お金に余裕がある現役時代だけでいいと思います。


働いていた時の関係者から、慶事の招待があるかもしれませんが、
無理をして出席したり出費したりするよりも、自分の生活を優先すべきでしょう。

知人が亡くなった場合も、これからの自分の生活と、
どちらを大切にしなければならないか考えてみてください。


「不義理になる」と思うかもしれませんが、
生活が圧迫されるような付き合いは、見栄であり、
結婚式や葬式に参加しなくても、お祝いや感謝の気持ちを伝える方法は、
ほかにもあるのではないでしょうか。・・》


注)記事の原文をあえて改行を多くした。

                          

私は東京オリンピックが開催された1964年(昭和39年)の秋、
大学2年の時に、映画の脚本家になりたくて、中退した。
                                                    
そして専門の養成所に学び、この養成所から斡旋して下さるアルバイトをしたりして、
映画青年の真似事をし、シナリオの習作をしたりした。

やがて警備員などの契約社員をしながら文学青年の真似事をして、
純文学の新人コンクールに応募したりしたが、当選作の直前の最終候補作の6作品の直前に敗退し、
やむなく安定したサラリーマンの身に転向を決意した。

                 
                                             
そして何とか大手の企業に中途入社する為に、
あえて苦手な理数系のコンピュータの専門学校に一年通い、困苦することも多かったが、卒業した。
          
やがて1970年〈昭和45年〉の春、この当時は大手の音響・映像のメーカーに何とか中途入社でき、
そして音楽事業本部のある部署に配属された。

まもなく音楽事業本部の大手レーベルのひとつが、外資の要請でレコード専門会社として独立し、
私はこのレコード専門会社に転籍させられ、中小業の多い音楽業界のあるレコード会社に35年近く勤め、
この間に幾たびのリストラの中、何とか障害レースを乗り越えたりした。

そして最後の5年半は、リストラ烈風が加速される中、あえなく出向となったり、
やがて私は出向先で2004年(平成16年)の秋に、何とか定年退職を迎えることができた。

                 
     

そして、私は出向身分であったので、リストラ烈風の中、
社員を自主退職させる希望退職優遇制度などの免れたのも事実であり、
定年前の退社された同僚、後輩に少し後ろめたく、退職後の年金生活に入った理由のひとつとなった。

しかしながら根底の実情は、この当時は大企業も盛んにリストラが実施されている中、
たとえ私が定年後に新たな職場を探しても、これといった突出した技術もない私は、
自身の力量のなさを悟(さと)ったりした・・。

そして何よりも遠い勤務先の出向先で、私なりに奮闘して体力も気力も使い果たしてしまったので、
やむなくサラリーマン生活を卒業し、年金生活を始めた・・。

                 

この間、私が出向する時、私たち夫婦は遅ればせながら第二の人生について、話し合ったした。
具体的には、どのような生活をしたいか、幾たびか思案したりした。

やがて年金を受け取り、お互いの趣味を尊重してささやかに生活して、
ときたま国内旅行ができれば・・と漠然としながら私たち夫婦の結論であった。

こうした中で、経済にも疎(うと)い私が、
信愛している経済ジャーナリストの荻原博子さんなどの数多く著名人の寄稿文を読んだりした。

そして
デフレ経済の蔓延している中、定年時に持家(マンションか戸建て)のローンは返済完了となり、
預貯金が3000万円あれば、公的年金を受け取りながら堅実に年金生活をし、
少しづつ取り崩して生活すれば、少しはゆとりのある年金生活ができるかしら、と学んだりした。


このように私のつたないサラリーマン時代であり、もとより一流大学を卒業され、大企業、中央官庁などに
38年前後を邁進し栄達されたエリートの御方には、遥かに遠い存在である。

                  

私は年金生活を始めて当初から、平素の買物に関して、家内から依頼された品を求めて、
自動車も所有できない我が家は、私は独りで歩いて
最寄のスーパーか、ときには駅前のスーパー、専門店に行ったりしている買物メール老ボーイの身である。

そして帰宅後、買物の責務を終えた後は、
やはり独りで自宅から3キロ範囲にある遊歩道、小公園などを歩いたりし、
このようなことが午前中、ほぼ毎日のように過ごしている。

こうした根底には、定年前のサラリーマン時代の私は、数多くの人たちと同様に多忙で、
家内は我が家の専守防衛長官のような専業主婦であり、日常の洗濯、買物、料理、掃除などの家事で、
家内なりの日常ペースがあり、この合間に趣味などのささやかな時間で過ごしてきた。
         
そして定年後の年金生活を始めた私としては、このペースを崩すのは天敵と確信し、
せめて午前中だけは、私は外出している。

この後の昼食も、お互いに制約することなく、自由食としてきた。

午後の大半は、随筆、ノンフィクション、現代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

このような年金生活を過ごしているが、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。
            
こうした中、家内は相変わらず専業主婦の延長戦のように料理、掃除、洗濯などをしてくれるので、
私はせめてと思いながら、家内が煎茶、コーヒーを飲みたい時を、
私は素早く察知して、日に6回ぐらい茶坊主の真似事もしている。

                         

我が家の生計は原則として、私たち夫婦はお互いに厚生年金とわずかな企業年金を頂いた範囲で、
日常生活を過ごすことを原則としている。

そして耐久品の購入、冠婚葬祭、或いは私たち夫婦の共通趣味の国内旅行に関しては、
程々の貯金を取り崩して、ここ丸13年半ばかり過ごしてきた・・。

こうした中で私たち夫婦は、月初めには家計簿をお互いに確認しながら実施している。

もとより社会の少子高齢化の中で、公的年金は目減りは減少してきたので、
私たち夫婦はお互い趣味の費用を捻出する為に、収支の実態をお互いに確認し、
ささやかに生活を過ごしたく、家計簿の月次決算をしている。
                                

保険関係に関しては、年金生活を始めてまもなくすべて見直して、
現役サラリーマン時代より、生命保険、死亡保険、医療保険、傷害保険は、ほぼ半減に修正し、
火災保険、家財保険だけは従来通りとした。

やがて2011年(平成23年)10月初旬、遅ればせながら『高額医療費制度』を学んだりした。
そして程ほどの貯金があれば、『国民健康保険』、『介護保険』もあり、
高額治療になった場合は、程ほどの自己負担で済むから、生命保険、死亡保険、医療保険、傷害保険を解約したりした・・。


我が家は、30年前、そして20年前にリフォームをした後、
私が定年退職する数年前、雨戸、外壁、垣根、門扉など最小限にリフォームをしたりした。

そして昨今、古惚けてしまった家に住んでいるが、少しペンキが剥がれかかった窓枠などを見たりして、
たとえ家を建て直すと、少なくとも数千万円を要し、老後資金が乏しくなり、
訪れたい国内の各地にも旅行費の捻出に、困苦すると思われるので、やむなく私は微苦笑したりしている。


                  
       
こうした中、ときおり家内が独り住まいの家内の母宅に、家内の妹と交代で、看病で宿泊することも多くなっていて、
私は我が家で『おひとりさま』の生活になるが、こうした時でも、殆ど変わらなく過ごしたりしている。

このように、私たち夫婦は経済的に贅沢な生活は出来ないが、
『働らなくても、何とか生活ができるので助かるわ・・』、
と家内がときおり、 呟(つぶや)くように私に言ったりする。

『そうだよねぇ・・』
私は苦笑しながら応じたりしている。

今回、“定年難民”にならないための4つのコツの記事を読み終わった私は、
それぞれの定年退職時を迎える諸氏は、定年退職後の十人十色のように、
それぞれの第二の人生の願いに基(もとづ)き、生活設計をされると思う、

そして、不安もあるが、ご夫婦で話し合えば、すべてが解決される、
と拙(つたな)い人生航路を歩んできた私でも、学びながら微苦笑を重ねたりしている。

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認知症予防に有効なリズミカル歩行、信愛している御方から学び、やがて私は微笑み返しをして・・。

2018-06-18 15:14:16 | ささやかな古稀からの思い

昼過ぎ、ときおり愛読している朝日新聞社系の基幹サイト【AERA dot.】を見ている中、
【 イメージは星の王子さま? 認知症予防に有効なリズミカル歩行  】と見出しを見てしまった。

私は東京の調布市の片隅に住む年金生活の73歳の身であるが、
認知症予防には、最も関心のある課題があるが、イメージは星の王子さま?・・とフレーズに戸惑いながら、
どういうことですか、と思いながら精読してしまった。

やがて私が信愛している帯津良一(おびつ・りょういち)さんの論調と学び、
多々教示されながら、そうですよねぇ・・、と私は微笑み返しをしてしまった・・。

この記事の原文は、『週刊朝日』の2018年6月22日号に掲載された記事で、
西洋医学だけでなく、さまざまな療法でがんに立ち向かい、
人間をまるごととらえるホリスティック医学を提唱する帯津良一さんの連載の寄稿文である。

死ぬまでボケない「健脳」養生法を説き、今回のテーマは「凜として老いる」であり、
【AERA dot.】に於いて2018年6月18日に配信され、
無断であるが転載させて頂く。

               

《・・「凜として老いる」~認知症予防に有効なリズミカル歩行~

【ポイント】
(1)死ぬまでボケないために、凜として老いる
(2)凜として老いるためには、歩き方が大事
(3)背筋を伸ばして、リズミカルに歩こう

死ぬまでボケないということを考えたときに、
私が思い浮かべるのは「凜として老いる」という言葉です。

この言葉が思い浮かんだのは、94歳で亡くなった佐藤初女(さとう・はつめ)さんと同席したときでした。


青森で「森のイスキア」を主宰されていた初女さんをご存知でしょうか。
「森のイスキア」は悩みを抱えた人などを受け入れる癒やしの場でした。
そこで出される初女さんのおむすびやぬか漬けで、励まされた人は数えきれません。


初女さんとのお付き合いはずいぶん長くて、そのなかで私が「森のイスキア」をお訪ねしたり、
初女さんが私の病院にみえたりしていました。

また初女さんは毎年、埼玉県川越市で講演会をされたので、
懇親会でお会いできるのを楽しみにしていました。

いつも並んで座って酒席を共にするのですが、初女さんは東北の女性らしく熱燗。
私はウイスキーか焼酎のロック。
飲むものは違っても、互いに酒好きであることは、手に取るようにわかりました。


もうだいぶ前になりますが、初女さんが90歳を超えたと聞いて、
急に不安になったことがありました。

初女さん、認知症は大丈夫だろうかと、気になりだしたのです。
その年の懇親会は私が会場に先に行って、初女さんをお待ちしました。

しばらくして初女さんが、部屋に入って来ました。
その姿を一目見て、あっ、大丈夫だと思いました。

それと同時に、私の右上の中空に「凜として老いる」という文字が
墨痕淋漓(ぼっこんりんり)とばかりに浮かんで来たのです。

初女さんが凜としていたのは、まず歩き振りです。
音もなくリズミカルに足を運ばれます。
顔の艶がいいこともありますが、凜として老いることのポイントは、歩き方にあります。

              


私が関わるシンポジウムに演者として来ていただいた宗教学者の山折哲雄さん(87歳)も、
凜として老いていると感じさせる方です。

会場に入って演台に立つ時の歩き方がいいのです。
京都にお住まいの山折さんは、その頃は早朝の洛中を作務衣姿で、
1万歩近く歩くのが日課だったというのですから、さすがです。



もう一人、歩く姿に感銘を受けたのが、92歳で亡くなった伊那谷の老子こと、加島祥造さんでした。
一度いっしょに天竜川の土手を歩いたことがあるのですが、
私より一回りも年上だというのに、足には自信があった私がどんどん置いていかれました。

背筋をしっかり伸ばして、やはりリズミカルな歩き方です。
その後ろ姿を見て、ふと思ったのがサン=テグジュぺリの星の王子さまでした。
老子と星の王子さま、どこかにつながりがあるのかもしれません。


              

リズミカルなウォーキングの効果が最近、明らかになってきています。
リズム運動が、脳内物質のセロトニンを分泌させて、心身のバランス(自律神経)を整え、
さらには脳への血流の促進と刺激が、認知症の予防につながるというのです。


まずは背筋を伸ばして、リズミカルに歩きましょう。
それが凜として老いることの第一歩になります。・・》


注)原文にあえて改行を多くした。
                          

私は東京の調布市に住む年金生活のまもなく73歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
そして雑木の多い小庭の中で、古ぼけた一軒屋に住み、ささやかに過ごして、年金生活は早や14年生になっている。

私は民間会社の中小業のある会社に35年近く勤めて、2004年(平成16年)の秋に定年退職した身であるが、
この間、幾たびのリストラの中、何とか障害レースを乗り越えたりしたが、
最後の5年半はリストラ烈風が加速され、あえなく出向となった。

そして、私は出向身分であったので、リストラ烈風の中、
会社の首脳部が社員を自主退職させる希望退職優遇制度などの免れたのも事実であり、
定年前にやむなく退社された同僚、後輩に少し後ろめたく、退職後の年金生活に入った理由のひとつとなった。

しかしながら根底の実情は、この当時は大企業も盛んにリストラが実施されている中、
たとえ私が定年後に新たな職場を探しても、これといった突出した技術もなく、
何よりも遠い勤務先の出向先で、私なりに奮闘して体力も気力も使い果たしてしまった。

このような拙(つたな)いサラリーマン航路である上、           
そして定年退職するまで半生期は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれながら、つたない言動も多く、
ときおり敗残者のように感じることも多く、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思ったりした・・。

私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、2人だけで第二人生の歳月を過ごすので、
結果としては定年後の長い人生は、お互いの趣味を尊重して、堅実な生活を過ごせば、
年金生活でも何とかなると、定年後に年金生活を始めたりした・・。

               

年金生活の当初は、現役サラリーマン時代は悪戦苦闘が多かった為か、解放感で高揚したりした・・。

そして独りで近所の遊歩道を散策したりすると、
こんなに自由に散歩できるなんて、許されても良いのかしら、
と定年直前までの多忙期を思い重ねたりし、戸惑いながら甘受したりした。

何よりも朝の陽射し、昼下りのひととき、そして夕暮れ時に、
ゆっくりと時を過ごし、苦楽の激しかった現役時代を思いながら、微苦笑を重ねたりした。

こうした中で、午前中の殆どは、平素の我が家の買物は、家内から依頼された品をスーパー、専門店で求め、
買物メール老ボーイとなっている。

この後、独りで自宅から3キロ以内の遊歩道、小公園などを歩いたりしている。
私は今住んでいる近くに生家もあり、結婚前後の5年を除き、68年ばかり住み、
戦後から今日まで急速に変貌してことに、心を寄せたりして愛惜感もある。

そしてイギリスの湖畔詩人と称されたワーズワースは、湖水地方の緩やかな谷と丘が連なる道、
或いは小さな町の田舎道を、何十キロでも平気で歩いたと伝えられているが、
私も少しばかり真似事をして、歩き廻ったりし、季節のうつろいを享受している。

こうした時の大半は、帽子を被り、スポーツシャツとアウトドアの丈夫な長ズボン、
ウオーキング・シューズの容姿となっている。

そして紳士バックを園児に真似て、斜め掛けして、颯爽と歩いたりしていることが多いが、
大半はデジカメをネクタイのように首から掛けて、歩いている中で瞬時に魅了された情景を、
一期一会ねぇ、と思いながら撮ったりしている。

            

こうした根底として、もとより健康でなければ、自身の日頃のささやかな願いも叶わないので、
いつの日にか認知症、或いは脳梗塞などの難病に遭遇したら、困窮するので、
ひたすら歩き、ときおり大股で歩いたり、或いは足早に歩くことが多くなっている。
       
そして70代の三年生して、心身共に自立し健康的に生活できる健康寿命を意識して、
確かな『生きがい』と『健康』、そして『気力』を持続できるように、
ときおり願いながら歩いたりしている。

                 

過ぎし2010年8月下旬の頃に、私は医学博士で病院長の帯津良一さんに、紙上でめぐり逢えた。
新聞の出版広告で偶然に読み、この雑誌が女性月刊誌の『婦人公論』と知り、
私は恥ずかしながら買い求めて、精読したりした。

《・・(略)・・
人生は生老病死ーーつまり死も含めて、丸ごと自分の人生なのだから、
「死に時」も「死に方」も自分らしくありたいという考えが基本です。                                                         

「いたずらに死を恐れるあまり不要に長生きしても意味がない」と考えるようになったのは、
このホリスティック医学の考え方に共鳴し、
その理念に基づいて自らの病院を設立した40半ば以降です。
・・(略)・・
年齢に関していえば、80歳くらいまで生きれば十分ではないですか。
もちろん、肉体面でも精神面でも人それぞれ個人差がありますから一概には言えません。

しかし、自力で自由に動けるのは、せいぜい80代まででしょう。
90代になると、何かしら衰え、欠けてくる。
いくら頭がしっかりとしている人でも、足腰が立たなくなったり、その逆のケースも起こります。

ましてや100歳なんて、どんな人でもポンコツになっているはずですよ(笑)。
おめでたいと言うけれど、100歳以上は、やはり「生き過ぎ」だと私は思います。

これとこれができなくなったら、自分はそろそろ「死に時」かもしれない。
その線引きは人それぞれですし、それがわかれば、
「生きているうちにこれだけはやり遂げておこう」という人生のテーマも見えてくる。

つまり、自分にとってベストな「死に時」を考えことは、
今、生きているこの時間を最大限に充実させて生きていくことにもつながるのである。(略)・・》

                                                  
このようなことを私は深く学び、今後の確かな晩年期の導きの御人にめぐり逢えた、と深く感じて、
これ以降、帯津良一さんの言動、ご著書も購読したりして、信愛を重ねている。

今回の寄稿文に於いて、帯津良一さんは佐藤初女さん、山折哲雄さん、加島祥造さん、
いずれもその世界で突出された御方の上、人生の達人の御方でもある。

つたない人生航路を歩んできた私は、もとより比較することはおこがましいが、
体力の衰えを実感しながらも、せめて心も身も溌溂と過ごしたと目標をしている私としては、
帯津良一さんが今回掲げられた三か条を深く読み返したりした・・。

「凜として老いる」

(1)死ぬまでボケないために、凜として老いる
(2)凜として老いるためには、歩き方が大事
(3)背筋を伸ばして、リズミカルに歩こう

そして私は、少しばかり真似事ができるょなぁ・・と私は微笑み返しをしたりした。

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70歳ひとり身が痛感する「友の価値」、友達にもランクがある、高齢者の私は真摯に思案させられて・・。

2018-06-17 17:16:31 | ささやかな古稀からの思い

昨夜、ネットの【YAHOO! JAPAN】の中にある『雑誌』部門の『ライフ』のニュースを見ている中、
【 70歳ひとり身が痛感する「友の価値」
           あなたは自分の家の鍵を渡せる友達がいますか? 
】と見出しがあった。

私は、どういうことなのかしら、と思いながら記事を精読してしまった・・。

やがて『おひとりさま』の70歳になる女性が、これからの人生を思案すると、
お友達でも必要度に応じてランクを付けて、晩年期を彩(いろど)る深情を明示されていた。

私は東京の調布市に住む年金生活の73歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であるが、
ときおり私は、『おひとりさま』の生活を余儀なくされている。

私たち夫婦の両親は、家内の母だけとなって、早や14年となっている。

ここ3年は、家内と家内の妹がお互いに連絡しあって、
家内は家内の母宅に介護に5泊6日前後で行ったりしている。
この間、我が家は私が『おひとりさま』の生活となって、過ごしている。

こうした時、ときおり私は、まさかの出来事で家内に先き立たれて、
本当に独りぼっちの『おひとりさま』になってしまうことも、思案する時もある。

このような心情を秘めてきた私は、どのような『おひとりさま』の生活をするか、
漠然としながらも、思い馳せる時もある。

こうした思いのある私は、今回の寄稿文で多々教示されたりした。

この記事の原文は、1986年『女が家を買うとき』(文藝春秋)での作家デビューから、70歳に至る現在まで、
一貫して「ひとりの生き方」を書き続けてきた松原惇子さんが、
これから来る“老後ひとりぼっち時代”の生き方を問う不定期連載の寄稿文である。

そして今回は、第6回「友達がいない? 友達が多い?」の寄稿文であり、
ネットの【週刊女性PRIME】に2018年6月16日に配信され、無断であるが主要な部分を転載させて頂く。

                

《・・
(略)・・シングルで少しでも明るく生きるには、だれでもとは言わないが、
身近な友達という存在が不可欠だ。


既婚の方は、家族という存在があるので、特に友達の必要性を感じないだろうが、
シングルの人にとり、友達は、迷いのトンネルから、抜けるための必要条件だと思う。


シングルの人の中には、孤独好きな人もいるだろうが、
「孤独大好き! 誰もいなくても平気」と、神に誓って言えるようになるのは、
65歳過ぎからではないかと、経験から言いたい。


よく、世間では、「男性は親友ができるが、女性には親友ができにくい」と言われている。
確かに男性同士の友人関係は、長く続いているようだが、
自分の経験からも、女性同士の友人関係は、短いような気がする。


あなたにも経験があるだろう。
親しかった女友達の急変ぶりを。
結婚した女友達と久しぶりに会ったときの会話が「ひとりで寂しくない?」。

シングル同士のときは「ひとりって気楽でいいよね」と盛り上がっていたのに、
それを否定するような発言を聞くことがあったに違いない。
へこみますよね。


わたしも30代のころは、「友達って何なの?」と裏切られた気がしていたが、
そうではなく、シングルのときと結婚してからでは、
「友達」の優先順位が違ってくるので、友達への関心が薄れただけなのだ、と捉えられるようになった。


シングル女性の「大切な人のランキング」第1位が「友達」だったとしたら、
既婚者の第1位は「家族」になったというだけのことだ。

               

現在、代表理事を務めるNPO法人SSS(スリーエス)ネットワークで何百人というシングル女性と関わっていて思うことは、
人間は似た者同士が引き合うということだ。

似た環境だからこそ、話が合う。
シングルは、シングル同士引き合う。
心が狭いように感じるが、それが現実だ。

(略)
シングルでも既婚でも本当は、どっちでもいいことだが、
老いてくると「友達」こそが、宝になるので、友達は大事にしたほうがいい。

多少、気に食わなくてもね。
相手だって、あなたのことを100%好きなわけではないのだから。

               

わたしは、最近、友達にも、ランクがあることに気づいた。
我流なのでお役に立つかわからないが、教えますね。


友達を、わかりやすいように、大好きなうな重のように、ランク分けしてみた。
実は、うな重を食べているときに思いついた。


友達のランクも、目の前のうな重のように「特上」・「上」・「並」と3ランクあるのではないかと。
(略)
「並」とは・・・
趣味のクラスで一緒とかの友達。
会ってランチしてさよなら。ジムで会ってしゃべって、じゃまたね。
そんな軽い関係の友達。

わたしもバレエの習い事をしているので、スタジオで会うと楽しい友達が数人いる。
日々のにぎわいとして、つきあっている人たちのこと。


「上」とは・・・
話が合う人。いつまで話していても話題のつきない人。つまり価値観が同じ人。


「特上」とは・・・
自分の部屋の鍵を渡せる人。
実際に鍵を渡すかどうかではなく、そのような信頼関係を持てる人。


親しいお友達の顔を浮かべてみてほしい。
旅行に行く仲だが、やっぱり鍵は渡せないと思うなら、その友達は、今の段階では「上」の友達だ。


還暦を過ぎて気づいたことなのだが、わたしのように生涯ひとり身の人は、
実際に鍵を渡せる人が、本当に必要になる。


同居人のいない高齢者には、緊急時に駆けつけてもらえる人が必要。
そのためにも実際に、鍵を預かってもらう必要がある。

事実、SSSネットワークの会員で、親しい友達がいなかったため、
隣人からの「隣から異臭がする」という連絡によって、亡くなっているのが、発見された例がある。


何が言いたいかというと、20代、30代で「上」の友達がいなくても、
悲観しなくてもいいが、問題は老いてからよと。

               

もし、あなたが今、仲良しを装って、友達づきあいしていたとしても、それはふつうのこと。

毎日を生きていくには、にぎわいも必要なので、落ち込むことはないが、
老いてからのことを少し想像してもらえたらうれしい。


実は、「上」・「特上」の友達と出会うのは、結婚相手に出会うより難しい。
だから、自分が結婚できたからっといって、ポイっと友達を捨てないでください。

ちょっと嫌だと、切ってしまう性格のわたしの後悔からのお願いです。
人生は長い、そして人生の後半ほど、友達が大事になると、わたしは言いたい。


昨日、一緒にショッピングに行った女友達が、
もしかして「特上」の友達かもしれない。

帰り際に「あの人って・・・」と舌打ちしたとしても。
逃がした魚は大きいかもしれない。
長い目で相手を見る癖をつけよう。
そして、「特上」の友達に育てよう。


たとえ結婚して家族を持ったとしても、子供はいつしか離れ、
夫婦関係も結婚当初と同じではない。

老いとともに、にぎやかだった人間関係も、寂しいものになっていく。
わたしも、還暦を迎えたときに、誰もいない寂しさを実感させられた。

自分がノリノリのときには気づかない、大海原にひとりで立っている寂寥(せきりょう)感だ。


『1周回って知らない話』というテレビ番組があるが、友達もまた同じだ。

幸いにも、わたしには、お互いの鍵を渡しあえる友達がいるが、
30代で知り合ったとき、彼女は結婚していた。

1周回って、現在はひとり身。
長い間には、疎遠になっていた時期もあったが、気が付くと「特上」の友達になっていたのだ。(略)・・》

注)記事の原文にあえて改行を多くした。

                  

私たち夫婦は、いつの日にか、どちらかが亡くなり、遺(の)された方が、
『おひとりさま』になることは、漠然としながら私たちは話し合うこともある。

こうしたことは私は幾たびか投稿文に記載してきたので、省略する。

しかしながら、この世は予測できないことも多々あり、
まさかの出来事で、家内に先立たれることも考えられるので、
私が『おひとりさま』になってしまうこともあるので、思案する時もある・・。

私は家内が亡くなった時は、世の中はこのようなこともあるの、
と茫然(ぼうぜん)としながら失墜感を深めて、やがて四十九日を終えて、樹木園に行き、埋葬をすると思われる。

そして家内に先立たれた時、こうした古ぼけた家でも小庭の手入れも含めて維持管理するのは、
私たち夫婦の長き航路を歩み、愛惜感もあり、苦痛が増したりするので住めないだろう、と私は改めて感じている。

やむなく小庭のある古惚けた一軒屋を処分し、大きな公園が隣接した場所で、
小さな2DKのマンションに転居すると思われる。

                            
                                                             

こうした独り身の『おひとりさま』になった時の私の日常生活は、
付近の公園で四季折々の情景を眺めながら散策したり、
スーパーでお惣菜コーナーの売り場で買い求めたり、本屋に寄ったりして、数冊を購入する。

そして小さな2DKの12畳は居間として、少し大きめのテープルを置き、壁一面に本と映画・音楽の棚で、
テープルにはバソコンを置き、窓辺のバルコニー越しにマンション敷地内の大きな樹木が数多く観え、
食事もこのテーブルを使い、四季折々の常緑樹、落葉樹の情景を眺める。

そして付近の区立の小公園を散策代わりに、毎日のように歩く。
                                                                                                             
こうした中で、週たった一度だけ定期便のような居酒屋に行き、
中年の仲居さんと談笑し、からかわれながら、純米酒を二合ばかり呑むだろう。

そして私は家内の位牌の代わりに、定期入れに愛用した革のケースに、
家内のスナップを入れて、いつも持ち歩くと思われる。

こうした日常生活を過ごすと思われる・・・。

                        

或いは私が身も心も溌剌で、体力が現在と同じような時は、古惚けた我が家で住むことも思案したりする。

過日、私たち夫婦は最寄の銀行に行った帰路、ある地域福祉センターを通り過ぎ、
センターから何かしら集会があったらしく、談笑と歓声が私は聴こえてきた・・。

やがて私たち夫婦は、遊歩道を歩くながら、
『僕がおひとりさまになったら・・家に閉じ込まらなくて・・ああした地域福祉センターで、
定期便のように通うと思うょ・・』
と私は家内に言ったりした。

私は亡き母の遺伝を素直に受け継いだ為か、男の癖に小学5年生の頃から、おしゃべりが好きで、
年金生活の今でも、何かと家内と談笑したり、
ご近所の奥様、ご主人さまと話し合ったりすることが多い。
           
もとより地域包括支援センターは、《・・介護の必要がなくても、誰でも利用できる。・・》、
《・・介護予防のための体操教室や談話会など・・》を知り、微笑んだりした。

                            

私はおひとりさまになってしまった時、相変わらず古惚けた自宅を出て、
トボトボと歩いて、地元にある地域包括支援センターに殆ど毎日通い、数時間を過ごす・・。

そして私はコーヒーを飲みながら、或いは昼食を共に頂きながら、70代が多いと思われるが、
XXさん、と私は呼ばれたり、やがて同世代の女性からでも、
XXちゃん、或いはXXクンと苗字で、呼ばれることを夢想したりしている。

この後、コーヒー代、昼食代を支払い、わずか700円以下が多いと思われ、
何よりも数多く同世代と共に数時間を気楽に共有して、談笑できるので安らぎのひとときと思える。

やがて帰宅後は、この日の夕食、翌日の朝食の為にスーパーに買物した後、
自宅付近の遊歩道、公園を散策する。

その後は、随筆、ノンフィクション、小説、近現代史、総合月刊雑誌などの読書とし、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くと思われ、独りを愉しむ時を過ごす。

このように過ごせば、たとえ私は『おひとりさま』になっても、
心身のバランスをとり、何とか生活ができる、と思ったりしている。

                                        

しかしながら、実際に家内に先き立たれてしまった時、
私は悲嘆と失墜感の中、どような言葉、しぐさ、心情になるかは、
中も理想と現実が違うように、こればかりはその時になってみない判らない、と思い深めたりしている。

そして私の晩秋期最大難関は、介護・要になった時、
いつまで介護を受ける必要な期間が判らず、やがて永がられば本人の自己負担額が増し、
こうした中で、資金不足となり、やがて介護難民になることである。

私は裕福層には遥か遠い年金生活の身であるので、
介護施設の入居費、そして毎月の負担額が余りにも高価に、昨今も学びながら溜息を重ねたりしている。

このように『おひとりさま』になった時、私は思い馳せたりしてきたが、
今回の寄稿文に於いて、友達にもランクがある、と私は真摯に学んだりした。

そして果たして、「特上」と称せられた自分の部屋の鍵を渡せるような信頼関係を持てる人は、
その時に私はいるだろうか、と私は思い馳せて、深く重い課題かしら、と微苦笑したりした。

コメント (2)
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なぜお寺にアジサイが欠かせないのか? 実は「死」のイメージ、初めて私は学び、真摯に多々教示されて・・。

2018-06-16 12:35:23 | ささやかな古稀からの思い

先程、ときおり愛読している朝日新聞社系の基幹サイト【AERA dot.】を見ている中、
【 なぜお寺にアジサイが欠かせないのか? 実は「死」のイメージが・・・ 】と見出しを見てしまった。
 

この時節、こよなく紫陽花(アジサイ)を鑑賞している私は、
《・・なぜお寺にアジサイが欠かせないのか?・・》、そして《・・実は「死」のイメージ・・》、
恥ずかしながら無知であったので、こっそりと学ぼうとして、記事を精読してしまった。

この記事の原文は、初めて知る鈴子さんの『東京のパワースポットを歩く』のひとつの文で、
【AERA dot.】に於いて2018年6月16日に配信され、
無断であるが殆ど大半を転載させて頂く。

               

《・・梅雨の季節は、うっとうしいものだが、
雨に映える花・アジサイが群生する場所ならば、雨模様であっても見に行きたいと思う方も多いことだろう。

近頃では紫だけではなく、さまざまな色や形のアジサイも登場して、華やかさはひとしおだ。



●アジサイの花はどこ?

ところで、われわれがアジサイの花弁だと思っている場所は、
実はガク(装飾花)で、花はその奥にある小さな濃い色の部分である。
つまりまん丸く見えるほとんどの部分は、花ではなく、ガクなのだ。


今では季節の花として、お店にも並ぶほど人気となったアジサイは、
実は長く観賞用の花として持ち上げられることのなかった花である。

もともとは日本に自生するガクアジサイが原種で、
これがヨーロッパにわたり品種改良され大正時代に日本へ渡ってきたものが、
西洋アジサイとひとくくりに呼ばれている。

現在、われわれが一番目にするボールのようにまんまるい種が、主にそれである。


              

●逆輸入されたアジサイが人気に


「アジサイ寺」という言葉が浸透するほど、6月にはアジサイ観賞で賑わうお寺が、全国各地に広がっている。
これは昔からお寺にアジサイは欠かせない花だったことが、大きな理由だったと思われる。


手がかからず、放っておいても勝手に育ってくれるため、誰にでも育てられるアジサイは、
品種改良や観賞用の草木の栽培など、園芸文化が花開いた江戸の職人たちには、
腕の見せどころがなく、あまり人気がなかったようだ。


こんなアジサイがお寺で重宝されたのは、
季節の変わり目で亡くなる人の多い6月に、仏花として簡単に調達できたためだ。

群生するため、いくつ切り取っても無くなることもないし、
手入れをあまりしなくても、境内が荒れることもない。

加えて「四葩(よひら/花弁が4枚あること)」の別名をもつアジサイが、
「死(4)」をイメージすることも理由のひとつにあった。


こんな背景を持つためか、日本でアジサイが観賞用として人気となるのは、
昭和時代になってからである。

もちろん奈良時代からアジサイは、万葉集などでも詠まれてはいたが、
取り上げられ方は、他の花たちと比較にならないほど少ないのだ。

              

●アジサイ寺の始まりは鎌倉から


西洋アジサイが日本に上陸以来、全国各地で植樹されてはいたが、
「アジサイ寺」の名が世に初めて登場するのは昭和中期で、鎌倉の明月院ではないかと言われている。
アジサイが観賞用として、人気を得てからの歴史は、かなり短いのである。


今では、明月院に代表される鎌倉一帯は、アジサイの名所となった。
明月院の他にも、長谷寺、成就院、東慶寺、円覚寺などアジサイ寺の名は挙げればキリがない。

              

●東京の観賞スポット

全国的に見ても、石川県の本興寺、奈良の長谷寺や矢田寺、宇治の三室戸寺、大阪・四天王寺、
千葉の本土寺、埼玉にも能護寺や金泉寺といった有名どころが点在している。


さて、東京はと言えば、何を置いても白山神社のアジサイ山だろう。
明日17日までは「あじさいまつり」が行われ、神社裏のアジサイが咲き乱れる富士塚が公開されている。

また、日野市の高幡不動尊(金剛寺)は7500株ものアジサイが参拝者を出迎えてくれる名所で、
7月7日まで「あじさいまつり」が行われている。


ところで、われわれは「紫陽花」をアジサイだと思っているが、
紫陽花という漢字を最初に用いた唐の詩人・白居易は、
別の花を表すために当てたものだったらしい。

「紫陽花=アジサイ」は、日本だけで通じる当て字である。

そういえば、江戸時代に日本で活躍したドイツ人医師・シーボルトは、
アジサイに自分の妻・おたきの名をもじった「otaksa」と命名したとか。
長崎には「おたくさ」を冠した、アジサイまつりやお菓子などもあるほど知られた名である。


この花の名がなぜアジサイと呼ばれているか、
青く小さいものが集まった状態(「あぢ=集まる」+「藍」)ではないかと考えられているが、
はっきりした由来は分かっていない。

「移り気」や「無常」といった花言葉を持つ、アジサイらしい歴史である。・・》

注)記事の原文に、あえて改行を多くした。

               


私は読み終わった後、初めて学んだことは、《・・
アジサイがお寺で重宝されたのは、
季節の変わり目で亡くなる人の多い6月に、仏花として簡単に調達できたためだ。

群生するため、いくつ切り取っても無くなることもないし、
手入れをあまりしなくても、境内が荒れることもない。

加えて「四葩(よひら/花弁が4枚あること)」の別名をもつアジサイが、
「死(4)」をイメージすることも理由のひとつにあった。・・》、
齢ばかり重ねた私は、知らなかったょ、とうなだれたりした。

私は東京の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅の地域に住む73歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。

そして住宅街が広がる中で、少しばかり広い雑木の多い小庭の中、築後39年の古惚けた戸建に住み、
私たち夫婦はお互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごして、早や14年目となっている。

そして私の生家も近くにあるので、私自身としては結婚前後の5年を除き、
この地域に住んで、早や68年が過ぎている。

               

こうした中で、
私は午前中のひととき、殆ど毎日のように付近の住宅街、遊歩道、公園などを散策している。
過ぎし五月の中旬頃から、付近の住宅街を歩くと、あるお宅の垣根に、紫陽花(アジサイ)を見かけると、
梅雨の時節の到来を告げる季節に、まもなくやってくる、と教えられたりしている。

こうした中で、まもなく遊歩道、公園などで早咲きの紫陽花(アジサイ)を見かけ、
長らく見惚(みと)れたりしている・・。

そして小雨が降る中、傘を差してると紫陽花(アジサイ)にを見かけ、見惚(みと)れたりしていると、
確かな美だ、と思いを深めた若き青年時代の年もあったりした。

ここ10年前の頃、テレビのニュースで鎌倉にある明月院に於いて、
あまたの紫陽花(アジサイ)が彩(いろど)る中、数多くの鑑賞に訪れる御方達が映し出されていた。

そして私は紫陽花(アジサイ)が咲く所が、全国で随一ならば了解できるが、
鎌倉の明月院に多くの人がにぎあう中、ゆっくりと鑑賞できないなぁ・・と微苦笑したりした。

               

全国の各地で、それぞれ長年お住まいの地域に、紫陽花(アジサイ)が咲き始める時節、
そして彩(いろど)る情景に、それぞれの御方が、その人なりに心を寄せたりし、
やがて花の終わりを告げる情景・・、月日を共にしてきた地域こそ、
こうしたことが私は心の要(かなめ)としてきた。

こうした心情を私は深めたりし、齢ばかり重ねて、恥ずかしながら9月になれば74歳を迎える。

追記・・この投稿文を発信した後、昼寝をして目覚めた時、
        あじさいは いろつや変えて 移りゆく 
    こうした思いつきの駄句を詠み、ひとり微苦笑している。
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