夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

年金生活の中で、秘かに愛し続け『お気に入り』にしている三つのサイトは・・。

2013-09-30 15:58:34 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市の片隅に住む年金生活の69歳の身であるが、
日常の大半は、随筆、ノンフィクション、小説、近代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまない映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

このように定年後からの生活を過ごしてきたが、
私が読書に目覚めたのは、遅ればせながら高校生になってからである。
活字から綴られた底しれぬ内容はもとより、そして行間から感じられる深淵に、圧倒的に魅せられた。

そして年金生活の今でも本屋で、単行本、新書本、文庫本のコーナーを見たりして数冊買い求めたり、
ときには雑誌コーナーで月刊誌、季刊誌、臨時特別号を眺めた後、魅了された時は購入している。
そして、結果として手ぶらとなった時は、古本屋に行ったりして、読みたい本を探し求めて、
早や50数年過ぎている・・。

こうした中で単行本、新書本、文庫本の書籍に於いては、
定年後からは特に塩野七生、阿川弘之、佐野真一、藤原正彦、嵐山光三郎、曽野綾子、三浦朱門、
高峰秀子、松山善三、中西輝政の各氏の作品を中核に購読している・・。

雑誌の月刊総合雑誌としては、『文藝春秋』は長らく愛読し、毎月秘かに逢える心の友のひとりとなっている。
そして『中央公論』、『新潮45』は特集に魅せられた時は購読している。
或いは季刊誌としては、『文藝春秋SPECIAL』を購読しているが、
今や季節をめぐる毎の秘かな恋人のように愛読している。                
                      

このような活字の中毒のような生活をしていることが多いが、
ネットに関しては、遅ればせながら自宅にインターネットを開通させたのは、
2004〈平成16〉年の秋に定年退職の数ヶ月前であった。

そして私はコンビュータのネットに関する参考書を購入して、
Webの世界の若葉マークとなり、ネットで魅せられたのを『お気に入り』に登録したりするが、
半年か一年も過ぎると、殆どが飽きて、『お気に入り』から削除するのが圧倒的に多い。

このように退職後の年金生活はまもなく丸9年を迎えようとしているが、
私が秘かに愛し続けているサイトがあり、自身としては稀(まれ)なケースとなっているのが、
わずか三つあることに、改めて気付いたりした・・。
          

私は配達された読売新聞を読んだりしているが、何かしら更に深く社会・経済などを学びたい時は、
総合ビジネス情報誌として名高いビジネス情報サイトの【ダイヤモンド・オンライン】に頼り、
その時の課題を学んだりしていることが多い。
http://diamond.jp/
☆【ダイヤモンド・オンライン】公式サイト☆

そして各分野の専門家の寄稿文を読み、つたない私なりに多々教示されている。


或いは年金生活をしていると、恥ずかしながら行事、祭事、風俗などに関しても無知なことが多く、
齢ばかり重ねてばかりで、困ったもんだ、と自身のつたなさに苦笑させられるサイトがある。
このサイトは定年まもない時に時に知った。
http://iroha-japan.net/
☆【日本文化いろは事典 ~胸はって、ニッポン人!~】公式サイト☆

このサイトを開き、知りたいことを検索し、こうだったの、と赤面したりしながら学んだりしている。
          

私は音楽の楽譜は読めなく楽器なども弾けない身であるが、聴いたり鼻歌を唄ったりするのは好きである。
こうした中で、ある歌の歌詞を知りたくて、色々と検索して偶然に知ったサイトであるが、
ときおり学び、心の洗濯かしら、と心の中で歓声したりしている。
http://www.mahoroba.ne.jp/~gonbe007/hog/shouka/00_songs.html
☆【 なつかしい童謡・唱歌・わらべ歌・寮歌・民謡・歌謡 】公式サイト☆

このサイトで、数多くの名曲の歌詞が掲載されているので、
私は曲名が解かっても、歌詞を忘れたりすると、『50音順索引』を利用し、
歌詞の内容を思い出したり、
或いは初めてこの歌詞の最後まで知り、こうした詞だったの、と教示されたりしている。

そして、曲名が不明であるが、確かこの歌の、歌いだしは・・
このような場合は、『歌い出し索引』にお世話になっている。

私は歌に関し、現役時代のサラリーマンの時でも、 人前で唄うカラオケは苦手で、
やむなくお付き合い程度も唄ったりしてきたが、
年金生活の今は、人影のない処で、かぼそい声で唄ったり、ときおり家の中では鼻歌を唄ったりしている。


ネットについては、『たかがネットされどネット』と思いながら、
年金生活の中で、秘かに愛し続けている三つのサイトである。

☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、幸いです♪
strong>
にほんブログ村 シニア日記ブログ 60歳代へにほんブログ村
人気ブログランキングへ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

齢ばかり重ねた私でも、ときには『星にお願い』の今週の運勢を見て・・。

2013-09-29 13:55:26 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市の片隅に住む年金生活の69歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に築後35年を迎えた古ぼけた一軒屋に住み、
お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

今朝、私はいつものように配達された読売新聞の朝刊を読んだりした後、
付録のような『よみほっと』と称された日曜版を見たりしていた。

この後、6面にある『星にお願い』と題された今週の運勢(9月29~10月5日)が掲載され、
齢ばかり重ねた私でも、こっそりと読んでしまった・・。

私は定年退職後、恥ずかしながら私の場合は『てんびん座』の固定長であることを家内から学んだ。
これ以前は、もとより地球は回転し、天空の『いて座』、『おとめ座』、『かに座』などの星座も動くので、
私は9月27日生まれであるが、その時により今月は『いて座』になったり、来月は『おとめ座』に変わると、
漠然と思ったりしてきたのてある。

このような思ったりしていたので、定年後まもない時、
『XXちゃんさぁ・・今回も僕の場合は、『てんびん座』になっている・・』
と私は家内に言ったりした。

『あなたぁ・・よくも35年も会社に勤められたわねぇ・・
あなたの場合は『てんびん座』で、一生変わりませんわ・・』
と家内は、驚きながらあきれた表情で私に断言した。

『そぉなの・・』
と私は初めて知り、これ以来星座に関しては公言をためらってきた・・。
          

このように何かと無知なことの多い私は、宇月田麻裕(うつきた・まひろ)氏が心身込めた今週の運勢で、
『てんびん座』の欄を読んでしまった。

《 運気は急上昇! 夢や目標に向かって動き出せば周囲からのサポートあり 》
と明記されていた。

私は微苦笑しながら、私の半生は何かと劣等感があり、屈折の多い人生だったので、
天上の神々は哀れな人と感じて、
たまたま過ぎし69歳を迎えた私に、遅ればせながら花火のような祝砲かしら、と私は解釈した。

私は中小業で悪戦苦闘の多い35年近く勤めてきたので、何事もプラス思考で乗り切ったりしてきたので、
このように感じてしまった。

そして今週は、私にとっては最上の週だ、と単細胞の私は微笑んだりした。

strong>
にほんブログ村 シニア日記ブログ 60歳代へにほんブログ村
人気ブログランキングへ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

60代は人生の黄金期、つたない私でも60代最後の年を迎え、微笑みながら・・。

2013-09-28 13:41:14 | 定年後の思い
私は東京郊外の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅みに住む年金生活の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

中小業の民間会社に35年近く勤め、2004〈平成16〉年の秋に定年退職した後、
私の半生は何かと劣等感があり、屈折の多い人生だったので、
敗残者のようなことも幾たびか体験してきた。
そして残された人生は、せめて少しばかり自由な時を・・、と念願しながら定年直後から年金生活をしている。

昨日、このサイトに於いて、
【つたない私でも満69歳を迎え、先苦後楽の人生の歩みかしら、と微苦笑して・・。】
と題して投稿した通り、私は満69歳の誕生日を迎え、
人生の黄金期と称された60代は、最後の一年間になってしまった、と微笑んだりした。
          

私は『60代は人生の黄金期』と改めて学んだのは、旅先であった・・。

私たち夫婦は若き新婚の頃から、子供に恵まれなかった為か、幾たびか国内旅行をしてきたが、
年金生活を始めた翌年の2007〈平成17〉年5月下旬に、
知床半島のウトロから観光船で出港してオホーツク海を北上して、
やがて半島の先端の知床岬で日の出を洋上から観る早朝クルーズに瞬時に魅了されて、
3泊4日で道東をめぐる観光団体観光ツアーに参加した。

この後、3日目の昼下り、阿寒湖の湖畔で1時間ばかり休憩した時であった。

私たち夫婦は団体周遊ツアー旅行で、私たちと同様にご夫婦の方も多くいるので、
私たち夫婦は40代の頃から、好感したご夫婦と旅行中で話し合ったりするタイプである。

この時も年配のご主人と湖畔の喫煙所の近くで、私たちは談笑した・・。

『僕は70を過ぎているが・・あなたは60過ぎた頃でしょう?
僕も60代の頃は、家内と海外旅行など・・盛んに行ってたの・・
自分達が好きなことが一番できる時期なの・・
あなたたちのご夫婦を見ていたら・・思い出されたのよ・・』
と年配のご主人は私に微笑みながら私に言った。

『あの頃は、体力は少しは衰えは感じていたが・・何より気力はあった・・
あなた・・知っているでしょう・・
ゴールデン・イヤーズということ・・この人生で一番充実していた時・・』
と年配のご主人は言葉を重ねられた・・。
          
私は堺屋太一(さかいや・たいち)氏のご著書から《ゴールデン・イヤーズ》と名言は学んできたが、
このご主人から、改めて60代は人生の黄金期と学んだりした。
               
もとより大半のサラリーマンの男性は、第一線を退かれて、
それぞれの第二の人生を歩まれる中、現役時代の責務で多忙から解放され、
ストレスを感じることなく、60代の日々を自身の好み時間を過ごされていることを、
深めたりした。

私は過ぎし6月のある日、現役時代の懇親会が10数年ぶりに開催された時、
先輩、同期、後輩の人々と懇親を深めながら、多くの方と談笑を重ねたりした。
こうした中で、私が多々教示して下さった先輩の多くが75歳前後で、
御歳を召された、と実感させられた・・。

世の中の70代は、特に75歳を迎えると身体の衰えを日増しに感じ、
中には不幸にも大病、もしくは病死される方も多い、と私は学んだりしてきた。

私は満69歳を迎えたばかりであるが、過ぎし60代の9年間を振り返れば、           
私たち夫婦は経済的に贅沢な生活は出来ないが、
働らなくても何とか生活ができることに感謝したりしている。

そして日常生活で、ときには昼下がりのひととき眠くなったら、
現役サラリーマン時代は、何かと睡眠不足も感じながら奮戦してきたので、
いつでも昼寝ができることは、年金生活の特権かしら、と享受する時もある。

何よりも私たち夫婦が、お互いに程ほどに好きなことを好きな時間に学び過ごせるのが、
年金生活の最大の恩恵かしら、と私は微笑んだりして、過ごしたりしてきた。
          

こうした最後の60代の一年間を迎え、
『THE LAST Golden Years』だよねぇ、と心の中で呟(つぶや)きながら、
自宅の周辺3キロ範囲をひたすら歩き、季節の移ろいを友として、これまで同様に過ごそうかしら、
と微笑んだりしている。

strong>
にほんブログ村 シニア日記ブログ 60歳代へにほんブログ村
人気ブログランキングへ
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

つたない私でも満69歳を迎え、先苦後楽の人生の歩みかしら、と微苦笑して・・。

2013-09-27 15:56:21 | 定年後の思い
私は東京郊外の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住む年金生活の身であるが、
今朝は澄み切った雲ひとつない青空をぼんやりと眺め、
つたない私でも満69歳を迎えることが出来た、と微苦笑した・・。

私は1944〈昭和19)年9月のこの日に東京郊外で農家の三男坊として生を受け、
翌年の1945〈昭和20)年8月15日に敗戦となったので、
一歳未満の乳児であったので、戦争を知らない世代のひとりである。

長兄、次兄に準じて地元の小学校に入学したのは、1951(昭和26)年の春であり、
兄ふたりは学業が優等生で、私は通信簿が『3』と『2』が多い劣等生で、
担任の先生からは、お兄さんは優秀なのに・・、と私は通信簿を頂くたびに言われたりした。

その後、小学4年生の頃から映画好きな映画少年となり、独りで映画館に通ったりしたが、
何かしらいじけた劣等生で、地元の小・中学校の時代を過ごした。

そして高校生になると、長兄、次兄の影響のない都心のある高校に通学して、
何かしら自縛から解放されたかのように心情となったりした。
こうした中で、生まれて初めて授業も楽しくなり、結果として程ほどの上位の成績となり、
読書にも目覚めて、やがて底知れぬ魔力に取りつかれ熱愛し、やがて小説の習作を始めたりした。
          
そして東京オリンピックが開催された1964(昭和39)年の秋、
映画の脚本家になりたくて大学を中退し、アルバイトをしながら映画青年の真似事をした。

その後、養成所の講師の知人から、同じ創作をするのだったら小説を書きなさい、
とアドバイスを受けた後、契約社員などをしながら文学青年の真似事をし、
新人の純文学の小説コンクールの最終候補作の6作品の寸前で、3度ばかり落選したりしていた。

こうした落胆していた時、30代に普通の家庭が築けるの、妻子を養っていけるの、
と素朴な叱咤を叔父さんから、やんわりと言われ、
根拠のない自信にばかりの私はうろたえ、はかなくも挫折した。

結果として、やむなく安定した人生航路に軌道修正し、企業に中途入社する為に、
コンピュータの専門学校に1年ほど学んだりした。
その上、幸いご近所に住まわれている大企業の経営陣のお方の助力もあり、
この当時はある音響・映像メーカーの大企業に中途入社できたのは、
1970(昭和45)年の春であり、25歳の時であった。
          
その後、入社した大企業の音楽部門のひとつのレーベルがレコード会社として独立され、
私も異籍させられて、これ以降は定年まで音楽分野に勤めることになった。
            
この間は家内と結婚したり、やがて1戸建ての家を構える時、
家内が中学生の頃から茶事を学んだりしてきたので、
私は若さの勢いで家屋の中に茶室を設けたりし、
想定していた住宅ローンなどは多くなり、重く苦心惨憺な時期も過ごした。

もとより会社の勤務も数多くのサラリーマンと同様に多忙で、落伍者になるまいと、
音楽制作に直接関係のない管理畑の商品、情報、経理、そして営業畑で私なりに奮闘した。

こうした中で1998〈平成10〉年に音楽業界の売上の主軸となるCDがピークとなり、
この前後は、各レコード会社が社内業務の見直し、組織の大幅な改定、グループ会社内の統廃合、
そして資本による合併などが行われたりした。

これに伴ない、各レコード会社が正社員のリストラが行われ、
人事配置転換による他部門の異動、出向、早期退職優遇制度により退職が行われ、リストラ烈風となった。

こうした中で、私の勤めいていた会社も、
人事配置転換による他部門の異動、出向、早期退職優遇制度が実施され、
私は1999(平成11)年の新春、出向となった。

もとより出向身分は、会社に直接に貢献できる訳もなく、まぎれなく戦力外なので、
私は本社に30年近く勤め放り出され、屈辱と無念さが入り混じ、私でも失墜感もあり都落ちの無念さを感じたが、
半年後から何とか馴染み、精務した。
          
出向先は物流会社の中のひとつの物流センターであり、
音楽商品のレコード、カセット、CD等、映像商品としてビデオテープ、DVD等を運営管理している。
そして販売店からの日々変動の激しい日毎の受注に応じた出荷作業、
そして返品を含めた商品の出入り、保管などの業務管理を行っていた。

こうした中でセンター長をはじめとする正社員の5名の指示に基づいて、若手の男性の契約社員、アルバイトの10名、
30代と40代の多い女性のパートの120名前後の職場であった。

そしてまもなく、出向先の物流会社も大幅なリストラが実施されたり、
私が30年近く勤めてきた出向元の会社でも、幾たびかリストラ烈風となる中、
私の同僚、後輩の一部が定年前の退社の連絡、或いは葉書で挨拶状を頂いたりし、
私は出向先で2004〈平成16〉年の秋に何とか定年退職を迎えられたのである。

そして、私は出向身分であったので、何とか烈風から免れたのも事実であり、
定年前の退社された同僚、後輩に少し後ろめたく、退職後の年金生活に入った理由のひとつとなった。

私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたく、その直後から年金生活をしている・・。

このような私のつたない半生は、もとより一流大学を卒業され、大企業、中央官庁などに
38年前後を邁進し栄達されたエリートとは、遥かに遠い存在である。
          

私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

日常は定年後から自主的に平素の買物担当となった。
専業主婦の家内の生活リズムをできる限り崩したくなかったので、
毎日のようにスーパー、専門店に行ったりし、ときおり本屋に寄ったりしている。
その後は、自宅の周辺にある遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受している。

ときおり、庭の手入れをしたり、友人と居酒屋など逢ったり、
家内との共通趣味の国内旅行をしたりしている。

日常の大半は、随筆、ノンフィクション、現代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

このような年金生活を過ごしているが、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。


年金生活の私たち夫婦の基本は、厚生年金、わずかな企業年金を頂き、
通常の生活費するのが原則としている。
しかし共通の趣味のひとつである国内旅行、或いは冠婚葬祭などの思いがけない出費などに関し、
程々の貯金を取り崩して生活している。

そして、毎年年始が過ぎた頃に、本年度の月別の概算表を作る際、
家内の要望などを織り込んで作成し、予算としている。
従って、年金生活の身であるから、今年も赤字が120万円前後かしら、とお互いに確認し合っている。

こうして私たち夫婦は経済的に贅沢な生活は出来ないが、
働らなくても何とか生活ができるので助かるわ、と家内がときおり、
呟(つぶや)くように私に言ったりするので、私は苦笑しながら聞いたりしている。
                    

晩秋になると私たち夫婦は年金生活9年生になるが、
この間に減ったものは、もとより貯金額であるが、これ以外としては増えたりすることが多い。

家内は日頃の多くは、私のことを『あなた・・』と呼ぶことが多いが、
ときには、たわむれで、『XXクン・・』と苗字で呼ぶこともある。

しかしながら年金生活を始めてまもない頃、私が買物の購入品などで間違えたりすると、
『ボケチィンねぇ』と家内は笑いながら、私に言った。

この日以降、私が何かで日常生活で失敗した時、
『ボケチィンねぇ・・』とか、ある時は『ダメオ(駄目夫)クンねぇ・・』
と家内は微苦笑しながら、私に言ったりしている。

このような日常生活のささやかな思いで、そして国内旅行の旅先を思いも共有している。


そして小庭に私の定年退職の記念樹として植えた樹も大きく育っている。
つたない半生を歩んできた私が、せめて定年退職時の記念樹と思いながら、
ときおり四季折々ながめることが多い樹である。

記念樹といっても園芸店、或いは植木の即売店などで買い求めた樹ではなく、
小庭には小鳥が定期便のように飛来してくるので、
たまたま小鳥が飛び立つときに、小鳥からのささやかな贈り物のひとつであった。
               
この種が幼い樹となり、やがて私は移植して、私は体力が衰える中で、けなげに成長している。

或いは地植えしている草花が、あちらこららに咲き増えているが、
この中の一部を植木鉢に移したりすると、四季折々の花が咲いたりしている。
          
こうした中で、退職記念として買い求めたデジカメの写真は増えたり、
或いは年金生活を始めて、まもなくブログの世界を学び、原則として毎日投稿してきたので、
この投稿文が私の年金生活の日々の心情の証(あかし)かしら、と私は微笑んだりしている。

このように私は定年退職するまでの半生は、
何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだったが、
定年後の年金生活は、私の人生の折り返し点の後は、恵まれ良き日々が続いている、と実感を深めたりしている。

☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、幸いです♪
strong>
にほんブログ村 シニア日記ブログ 60歳代へにほんブログ村
人気ブログランキングへ
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『特定健診』を今年も、高齢者の私は果敢に受診して・・。

2013-09-26 14:53:28 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活のまもなく69歳となった身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

こうした中で、調布市から2か月前に、年に一度の『特定健診』の通知書を頂き、
私は3週間前に近くの病院に予約し、
本日どんよりとした曇り空の中、少し体重が減ったかしら、と思いながら、
人影のない遊歩道をスキップするように軽やかに歩いて向った・・。

年に一度の健康診断は、以前は『お誕生日検診』と平成19年度まで称されていたが、
何かしら基本健診に血圧測定、血液検査などが加味され、『特定検診』と改称された。

私は健康診断を受診する時、基本健診としては、
身長、体重、採血、心電、尿検査、血圧測定などが行われた後、最後に医師との問診となっている。
そして胃がん、大腸がんの検診もある。
          
私は何よりも苦手な検診は、『胃がん検診』である。
バリウムの白い検査薬を飲むのは苦手で、私なりに苦痛のひとときを毎年味わっている。

その上、前夜の夜9時過ぎから水を含めて飲食は避けた上、
そして当日の喫煙、歯磨きはしないて下さい、と制約されていることもある。

こうしたことで苦手のバリウムによる胃の撮影が終ると、ほっとするのである。

しかし、7年前に、ある総合病院で受診した時、
40代の男性技師のもとで、検査したのであるが、終ると何故かしら首をかしげた後、
私の方に近づき、
『本当に申し訳ないのですが・・機械の故障で・・
別棟の検査室で、もう1度撮影させて下さい・・』
と云われ、私は40代の男性技師に先導されて、別棟に歩いた後で、
再び苦手なバリウムを飲んだりした。
          

6年前の時は、30歳前後の若き女性技師で、私好みの美顔の方が、
『少し仰向けになって下さい・・
位置を変えて・・横向きにうつ伏せ気味になって下さい・・』
と甘い声の指示を聴きながら、私は検査を受けたのである。

私はバリウムさえ飲まなければ、
年金生活の自由な身の私としては、何時間かかっても良い、と余計なことを思ったりしたこともあった。


私は健康診断を受診する時の下着は、
平素と同様に、下半身はパンズ型のトランクスであり、
上半身の方はランニング型であるが、殆ど袖なしのTシャツを着ている。

この袖なしのTシャツは、ポップス系で若手に人気のあるTOKIOというグループがいるが、
この中のひとり長瀬智也さんが、以前ドラマの中で着ていたので、
私は魅了されて、家内に頼んで購入した貰ったのは、定年退職の3年前頃であった。

この後も、年金生活に入った後は、自在の服装が出来るので、
この袖なしのTシャツを真冬以外は、愛用している。

半袖か長袖のスポーツ・シャツを羽織って、
5月過ぎから秋まで買物、散策に出かけることが多いのである。
私は、胸毛は少し白髪となってきたが、心は若い方の感性と余り変わらないと思っているので、
このような容姿となっている。

5年前の総合病院でレントゲンの健診の時、
30歳前後の稀(ま)れな美麗な女性技師の方で、
私は急いで長袖スポーツ・シャツ、そして袖なしのTシャツを脱いで、上半身は裸となった。

『XXさん・・下着は着ていても・・大丈夫ですから・・』
と笑いながら、忠告されたのである。
                              
この後、身長測定のの時、
『はい・・1メートル69.5ですね・・』
とアシスタントの女医さんから云われた。

『齢を重ねると・・少し縮〈ちじ〉むのですね・・』
と私は明るく云った。
『ご年配の方は・・よくある傾向ですわ・・』
と云われた後、
私は長い間、1メートル70の時代であったが、
0.5センチばかり縮〈ちじ〉んだことに、齢を実感させられた。

体重も70キロ代となり、
家内と結婚した当時は、56キロの細身体が懐かしく、
『俺も・・71かょ・・』
と普段身勝手な日常を振り返ったりしたのである。

そして、多少太っていても、心身元気であれば良いではないか、
と62歳の自分を慰めていたりした時もあったりした。
          

このように毎年、私は健康診断を受診をしてきたが、胃がん検診に伴い、
前日の夜からの水分制限、そしてバリウムの白い液体薬は齢を重ねても苦手であるが、
これ以外は楽しい受診のひとときを過ごしたりしている。

そして私は健康診断を欠かさず受診してきたのは、
何よりも自身の身体の弱点を知り、
弱点を指摘されれば、ある程度の治療、或いは自身の努力で克服できればよい、
と至って常識的な思考の身なので、
健康診断を受診せず放棄している人は、自身の命を粗末にしている、と思ったりしている。

☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、幸いです♪
strong>
にほんブログ村 シニア日記ブログ 60歳代へにほんブログ村
人気ブログランキングへ



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

10月より公的年金1%減額、年金生活の私は微苦笑を重ねて・・。

2013-09-25 14:23:46 | 時事【社会】
私は東京郊外の調布市の片隅に住む年金生活のまもなく69歳を迎える身であるが、
今朝、いつものように配達された『読売新聞』を読んだりした。
やかて13面の【家計】面に於いて、
《 10月 公的年金1%減額 
       本来より2.5%高く
           国の「払い過ぎ」段階的解消 》
と見出しされた記事を読み、その後に私は微苦笑を重ねてしまった・・。

この記事に準じた内容は、幸いに読売新聞の基幹ネットの【YOMIURI ONLINE】に於いて掲載されていた。
http://www.yomiuri.co.jp/komachi/news/20130925-OYT8T00311.htm
☆【YOMIURI ONLINE】<==『大手小町』
   <==『ミックスニュース』<==『10月 公的年金1%減額』
          

私は中小業の民間会社に35年近く勤め、2004〈平成16〉年の秋に定年退職となり、
私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたく、その直後から年金生活をしている・・。

そして私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭に築後35年を迎えた古ぼけた一軒屋に住み、
お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

私の公的年金は厚生年金となっているが、定年前に年金生活を検討していた時から、
公的年金の基本的に、働いて下さる現役の諸兄諸姉の保険料から、
現在の高齢者に年金を支給していることは、理解していた。

ここ15年前の頃からは、日本は政治の昏迷、経済の低迷、社会の劣化となる中、
国の財務概要として悪化の一途をたどっているのが実態である。

こうした中での社会保障制度の年金、医療、介護の基盤は、現状のままあると、
少なくとも毎年一兆円の国の負担が増している、と伝えられている。

もとより高齢者が使う費用は、現在の日本に於いては、
その時の現役世代が保険料や税で負担する財政方式(賦課方式)を取っているので、
働いて下さる現役世代の諸兄諸姉が、その時の高齢者を支えている現実がある。
          

そして公的年金の原則は、物価が上がれば増額し、物価が下がれば減額するのが基本的なルールは、
理解して、私がここ9年近く年金生活をしていると、実質的に減額されてきた。
 

そして過ぎし2000〈平成12〉年~2002〈平成14〉年の3年間に於いて、
前年度の物価が下落したのに係らず、時の小泉政権が高齢者の生活に配慮し、
本来なら年金額を引き下げるところを特例的に年金額を据え置いた結果、
昨年の時の野田政権の時に、国の「払い過ぎ」段階的解消する為に、今後の減額となった。
           
このように経過を学んで私でも、2004〈平成16〉年の12月に初めて厚生年金を頂き、
推定された金額に微苦笑した私であったが、
この前の時代に、国が「払い過ぎ」だった、というのは無知であったので、
そして昨年の野田政権の時に、国が「払い過ぎ」段階的解消する決議をされたのは、戸惑った。

今回、この記事に於いて、『モデル世帯への「払い過ぎ」解消』の表を見て、
我が家もほぼ同様なので、表の月平均額を見たりした。
現在・・・23万940円と明示され、
今年の10月から・・・・・22万8591円(現在より、2349円減額)
2014年の4月から・・・22万6216円(現在より、4724円減額)
2015年の4月から・・・22万5040円(現在より、5900円減額)
このように私は、現在よりの減額を計算してしまった。

そして私は、樋口一葉さんの5000円札が毎月飛んで消えてしまった、
と苦笑しなから、自身を理解させたりした。
          

我が家の家計は、厚生年金とわずかな企業年金頂き、平素の生活費を原則として、
国内旅行、冠婚葬祭などは、程ほどの貯金で補(おぎな)っている。
そして毎年120万円前後の赤字となっているが、
年金生活をしている夫婦だけの家庭としては、平均的かしら、と思いながら日々生活している。

今後、公的年金が悪化して、更に減額を大幅にされた時、
私たち高齢者は敗戦後からの10年ぐらいは大半の人が貧乏で、
今の生活水準からすれば、遥かに貧困な生活を実感してきた時期もあったので、
たとえ一時時期に、コッペパンに水を飲んでも生活できる世代でもある。

こうした日本の衰退を避ける為に、経済の復興こそが何よりも肝要である。
そして働いて下さる諸兄諸姉の奮闘の結果、
それぞれの家族が幸せと実感できる社会を秘かに私は願っている。

そして私たち高齢者の人々も、ささやかな日常を過ごす安住の生活を
私は期待しながら、今回の記事を読みながら、私は微苦笑したりした。

☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、幸いです♪
strong>
にほんブログ村 シニア日記ブログ 60歳代へにほんブログ村
人気ブログランキングへ
コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

悪質なポップアップに私は困惑、やがて初心者用のやさしいブロック(撃退)方法は・・。

2013-09-24 09:09:15 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の68歳の身であるが、
過ぎし21日の朝の9時過ぎに、バソコンを開き、やがてポップアップが表示された。
【   Micro soft
    CRETIFIED
    Partner 
  お使いのパソコンの性能が低下しています
  Windowsのエラーを直ちに修正して下さい 】

私のパソコンはWindowsの基幹システム(OS)がセブン(7)であり、
ネットに技量の乏しい私は、マイクロソフトのパトナーだったら、とクリックした・・。

やがて表示画面が幾たびも変わり、おかしいなぁ、と気付き、
もう一台のバソコンで、この表示元の『Reg Clean Pro』を検索して、
悪質な課金を要求するための誘導するサイトと気付いた。
          
そして対処方法を困惑しながら思案した。

対処①
   画面に表示されているこの表示元のすべてアイコンを削除。
対処②
   この表示元の肝要のファイルを削除しょうとしたが、
   このポップアップが頻繁に見られ、使用中の為に削除が不可能。
対処③
   やむなくシステムが安定していた1週間前の時点に、システムの復元の処理。
   しかし相変わらずポップアップが頻繁に見られ、
   やむえず手で、10幾つかのポップアップ画面【右上のX】で削除。
          

このような状態で困惑を深め、午後のひとときに、私が日々愛読しているサイトを見たりした。

http://blog.goo.ne.jp/je4hmp/e/9fb2759bb4b3e6af57202bd70647a6e8
【 雲上の楽園通信 】9月22日『最近の嫌なポップアップについて』

発信者の『雲の上』様が、この悪質なポップアップについて明確に表現されて、対処方法を思案して、
色々と試みている、と記載されていた。

もとより『雲の上』様は私よりネットに技量のある方で、私は『雲の上』様にコメントをした。

そして昨日の23日、『雲の上』様より、解決をした、と具体的に処理過程を記載したコメントを頂き、
恥ずかしながら私は、『雲の上』様のネットの技量には、すべてを理解し、実行できなかった。
          

私はネットの初心者で知識がなく、やむなく下記の通りとした。
対処①
   『ツール』指定
対処②
   『ポップアップ ブロック』の画面
対処③
   『設定』
   この中の許可されたサイトとして、二つあり(もとより私は許可した記憶もなく、
   今回のポップアップのサイトと判明)ので、
   対象したくなく、このサイトを『削除』した結果、許可対象は空白とした。

この後、パソコンの画面には、このポップアップのブロック(撃退)は出来たが、
画面の最下段の近くに、XXXポップアップはブロックしました、通知バーが頻繁に見られ、困惑した。

対処④
   この『設定』の下段に、
   『ポップアップのブロック時に通知バーを表示』の《レ印(表示)》欄を、
    表示対象外にする為に、空白とした。

このような対処処理で、23日の午後のひととき、今回困惑したポップアップを完全にブロック(撃退)し、
念願の解決となったのである。
                                         
ポップアップに関しては、ヤフーの『知恵蔵』に於いて、
《利用者がウェブページを表示した際に、自動的に新しいウインドウが開いて表示される別のウェブページのこと。
元はウェブサイト作者が注意を喚起したい情報を表示するために利用していたが、
過剰な広告や詐欺の目的で使われることも増えてきた為、ユーザーからは嫌われている。
そのため最近のウェブブラウザーには、意図しないポップアップを防ぐ仕組みも組み込まれている。・・》
と解説されている。

私のようなネットの初心者は戸惑うことが多く、まして今回のような悪質なポップアップには困苦したのである。

私が長らく綴ったのは、再度このようなポップアップに遭遇した時、自身が忘れないように処理する為、
そしてネットの初心者のお方に参考になれば、と思いながら綴った次第である。

そして今回の件、『雲の上』様より多々対処の教示を暖かく頂いたことを付記する。

☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、幸いです♪
strong>
にほんブログ村 シニア日記ブログ 60歳代へにほんブログ村
人気ブログランキングへ
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『秋分の日』、私たち夫婦は恒例のように、お墓参りを重ねて・・。

2013-09-23 14:46:28 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の68歳の身であり、
今朝、さわやかな20度前後の快晴の朝となり、
やはり寒さ暑さは彼岸まで、と古人から伝えられている通り、
おだやかな『秋分の日』の朝を迎え、暑さに何かと苦手な私は微笑んだりした。

もとより『秋分の日』は、『祖先を敬い、亡くなった人々を偲ぶ日』と称せられ、
私たち夫婦も、毎年この日は私の実家の長兄宅に行き、
長兄夫婦と他愛ない話をした後、辞してお墓参りに行く。

その後は、お寺の境内、墓地は、過ぎし『春分の日』と同じように墓参の人々で多くの方が訪れる。

私はお墓参りは、生者の死者に対する慰めと思ったりしているが、
生を受け、まぎれなく両親、祖父母、親族、祖先のお陰で、私がこうして生きているので、
感謝の意味から墓前にお線香、花をささげて手を合わしている・・。

このように、『春分の日』、『お盆の日』、この日の『秋分の日』、そして『母の命日』、
年にわずか4回ばかりであるが、私たち夫婦はお墓参りをし、
私の母が亡くなって15年目となるが、これ以来毎年の習わしとなっている。
                    

このような心情を私は重ねてきたが、
今朝いつものように朝の9時半過ぎに、私たち夫婦は私の実家の長兄宅に行くと、
いつもは親戚の叔父、叔母さんとは談笑を重ねてきたが、めずらしく来宅されておらず、お逢いできなかった。

そして長兄も小用で不在で、長兄の奥さんの義姉と、私たち夫婦は長らく談笑したりした。

この後、私たち夫婦も長兄宅を辞した後、どんよりとした曇り空に変貌した中、
私たち夫婦は小田急線の『狛江駅』から徒歩数分にあるお寺に向う途中の花屋さんで、
買い求めて、20分ばかり歩いて着いた。
          
寺院の境内は、大きな樹木が数多くあり広い方であるが、ご家族連れが多く、にぎわう中、
私たち夫婦は隣接しているお墓に向った。

お墓は少し清めた後、墓石を水で清め、
途中で買い求めた生前の母が好きだったお花を4束のお花が奉(ささげ)、お米を備えた。
そして、お線香を奉げた。

お線香の紫煙が曇り空の中を立ち昇る中、
祖先はもとより、亡くなった祖父、父、母、次兄などから、改めて私は見守られて日々を過ごしている、
と私は感謝をしながら、手を合わしたりした。
          

こうした思いを重ねた後、母のおもかげがよぎっていった。

生前の母と家内は、ある程度の遠慮がお互いにあった上、
何かと心身の波長が合い、私は家内、母に秘かに、今でも感謝している。

私の場合は、父が私の小学校の2年の時、
その一年半も過ぎない時に祖父も死去されたので、何かと母の存在が多かった。

そして私が54歳の時に母は亡くなわれたが
ときたま今でも生前の母のちょっとしたしぐさ、言葉づかいが想いだされる・・。

そして曇り空の中、お線香の煙が芳香を残して、
空中の中をゆったりと、立ち昇りながら消えていった・・。
          

この後、私たちは駅前の近くの美味しいと風の噂で聞いた『おだんこ屋』さんに寄り、
昼食代わりに7種類ばかり買い求めて、
運動不足の為に20分ばかり歩いて帰宅したのは、午後一時過ぎであった。

☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、幸いです♪
strong>
にほんブログ村 シニア日記ブログ 60歳代へにほんブログ村
人気ブログランキングへ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

曼珠沙華(マンジュシャゲ)、この時節に散策すれば、めぐり逢えて・・。

2013-09-22 13:48:31 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市の片隅に住む年金生活のまもなく69歳を迎える身であり、
定年後に平素の買物専任者となった私は、
いつものように午前中のひとときスーパーに向った。

たまたま小田急線の『狛江』駅前で買物することとなり、
我が家から20分ばかり歩いた先にあるが、晩夏の陽射し、ときおり初秋の涼しい風を感じられ、
少し遠回りの遊歩道を歩いたりした・・。

こうした中で、朱色の花が突然に見られ、私は『曼珠沙華(マンジュシャゲ)』だ、
と心の中で呟いて、足を止めた。
          
私は今年初めて彼岸花(ヒガンバナ)と称せられるの曼珠沙華の花にめぐり逢えたが、
ぼんやりと思い馳せれば、彼岸入りは20日だったので、やはりこの時節を彩(いろど)って下さる、
と微笑んだりした。

そして再び歩き出すと、思いがけない道端の奥に曼珠沙華が見られ、私は見惚(みと)れたりした。
          

この後、歩きながら過ぎし年、心の片隅に残影している曼珠沙華の花が想い浮かべられた・・。

2003〈平成15〉年のこの時節も、私は音楽商品を扱う物流センターに出向として、勤務していた。
          
私は1970(昭和45)年の春、この当時ある大手の音響・映像メーカーに何とか中途入社し、
まもなく新設されたレコード会社に移籍を命じられ、管理畑の商品、情報、経理、そして営業畑を勤務していた。

こうした中で1998〈平成10〉年に音楽業界の売上の主軸となるCDがピークとなり、
この前後は、各レコード会社が社内業務の見直し、組織の大幅な改定、グループ会社内の統廃合、
そして資本による合併などが行われたりした。

これに伴ない、各レコード会社が正社員のリストラが行われ、
人事配置転換による他部門の異動、出向、早期退職優遇制度により退職が行われ、リストラ烈風となった。

こうした中で、私の勤めいていた会社も、
人事配置転換による他部門の異動、出向、早期退職優遇制度が実施された。
                    
私は1970(昭和45)年の中途入社した身であったが、
この頃の時代の風潮としては、多くのお方と同様に、この会社で定年の60歳まで
勤め上げ意志を殆どの方たちは共有し、私なりの人生設計を持っていた。

そして激動の1998(平成10)年の前後、先輩、同僚、後輩の一部の人が、第二の人生を選択し、
早期退職優遇制度に申請を出されていたが、
私は定年まで勤め上げる思いが強くあったので、彼等の決断を見送っていた。

その後、1999(平成11)年の新春、
私は人事担当の取締役から、出向の話を打診された時、
《何で・・俺が・・》と思いがあった。

もとより周囲の人事異動が激しく行われていた時期であったので、
ある程度の人事の異動は私は覚悟していたが、出向とは予測もしていなかったのが本音であった・・。
                     

私は出向を受け入れ、勤めはじめた。
もとより出向身分は、会社に直接に貢献できる訳もなく、まぎれなく戦力外なので、
私は本社に30年近く勤め放り出され、屈辱と無念さが入り混じ、私でも失墜感もあり都落ちの無念さを感じたが、
半年後から何とか馴染み、精務した。

出向先は神奈川県の東名高速道路に隣接した所にある物流会社の本社であった。
この物流会社は全国の主要基点に物流センターを設置し、
音楽商品のレコード、カセット、CD等、映像商品としてビデオテープ、DVD等を運営管理している。

そしてそれぞれの物流センターは、
販売店からの日々変動の激しい日毎の受注に応じた出荷作業、
そして返品を含めた商品の出入り、保管などの業務管理を行っていた。

私はこの中のひとつの物流センターに通ったが、
センター長をはじめとする正社員の5名の指示に基づいて、若手の男性の契約社員、アルバイトの10名、
30代と40代の多い女性のパートの120名前後の職場であった。

それまでの私は、殆ど30年近く都心の本社勤めで、
いろいろな部門を異動してきたが、もとより男性社員はじめ、多くの女性正社員、契約社員と職場を共にしたが、
こうした物流センターの職場環境には戸惑ったりした。

そしてまもなく、出向先の物流会社も大幅なリストラが実施されたり、
私が30年近く勤めてきた出向元の会社でも、幾たびかリストラ烈風となる中、
私の同僚、後輩の一部が定年前の退社の連絡、或いは葉書で挨拶状を頂いたりし、
私は出向先で2004〈平成16〉年の秋に定年退職を迎えたのである。
         

こうした間に、曼珠沙華に魅せられたのは、2003〈平成15〉年のこの時節であった・・。
この年の春過ぎに、CDシングルに於いて森山直太郎さんの『さくら(独唱)』、
そして夏に福山雅治さんの『虹/ひまわり/それがすべてさ』が100万枚のミリオン・セラーとなったりした。
或いはCDアルバムとしては、ロシアの若き女性ふたりの『t.A.T.u』も100万枚を突破し、
私が勤めてきた出向元の会社が、再生の動向となり、私は現場で奮闘しながら出荷状況を実感していた。

このようなこの時節に、いつものように自宅の近くの始発バスに乗り、
そして最寄の小田急線の『成城学園前』駅から乗車し、
やがて『本厚木』駅で下車し、その後は路線バスに15分ぐらい乗車した先に、
勤務している物流センターがあった。

ときおり私は、この路線バスの利用する代わりに、タクシーに乗車したりしていた。
こうしたこの時節、、『本厚木』駅の駅前よりタクシーに乗車していた時、幹線道路の大きな橋を渡り直前に、
下方の休耕田の道端で、朱色の20本前後の曼珠沙華を車窓から鮮明に観えたのである。

そして定年まで、あと一年を務めれば・・、と思いを重ねて、見惚(みと)れたりした・・。


このようなことを狛江駅に向かう遊歩道で、ぼんやりと思い重ねたりした。
          

☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、幸いです♪
strong>
にほんブログ村 シニア日記ブログ 60歳代へにほんブログ村
人気ブログランキングへ
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『ひとりで死ぬ準備をする60~70代の女性たち』を学び、高齢者の男性の私は・・。【下】

2013-09-21 14:24:21 | 時事【社会】
前回のこうした記事を読み前に、私たち夫婦の中で残された方は、
2DKの小さなマンションに住む予定であったが、
『特別養護老人ホーム(特養)』は《宝くじに当たったよう》競争率の多いので、無念ながら対象外とするが、
もとより高額な『介護付き有料老人ホーム』の入居は、余りにも高額であるので、とても無理である。

そして『サービス付き高齢者向け住宅(サ高住)』であったならば、
自宅を処分して、残された方が安心して生活できる、と思ったりしたのである。

何よりも《安否確認サービス、少なくとも日中に常駐するケア専門家による生活相談サービスを受けられるメリット》
と知り、齢を重ね老後のおひとりさまには、何かと心強いかしらと、と私は感じたりした。

しかしながら、『サービス付き高齢者向け住宅(サ高住)』でも、要注意があることを学んだりした。

たまたま関連記事として、『終の棲家を求める団塊世代 悪徳なサ高住に泣きをみる人も』(【dot.】更新 2013/9/20 )
と記事があったので、読んでしまったのである。

《・・自分らしい、前向きな最期を迎えるため“終(つい)の棲家(すみか)”を探す
60~70代の女性が増えている。
そんな団塊世代の女性たちに人気なのが、
特別養護老人ホームやケアハウスなどの「施設」とは異なり、
「住宅」という扱いの、サービス付き高齢者向け住宅(サ高住)だ。

2012年1月にはわずか8200戸だったのが、
今年8月末までに12万2千戸を超えるほどに急増しているサ高住だが、
同じサ高住でも金額も環境も違えば、受けられるサービスも異なる。

ファイナンシャルプランナーで、『老後が危ない! 年金月額16万円の生き残り術』(講談社)などの著書がある畠中雅子さんは、
サ高住に住み替えを検討する人に、こう忠告する。

「サ高住は『中間施設』と思って、ある程度、余力を残して資金プランを考えてほしいです。
サ高住を終の棲家と考えていると資金プランが甘くなりがち。
退去せざるをえないときになって、あたふたしたり、資金がショートしてしまう人もいます」

現在のところ、最期の看取りまでできるサ高住は多くない。
          
介護が必要な状態になった場合、介護保険の在宅サービスを利用することになる。
さらに介護度が重くなると、特別養護老人ホームや介護付き有料老人ホームに移る人もいるという。
そういう状況も想定に入れ、サ高住への住み替えのプランを立てるのが賢明だ。


悪徳業者ともいえるようなサ高住にも注意したい。
サ高住は最近、急増したため、玉石混交なのが現状だ。入居者側で事前に情報収集をしないと泣きをみる。

高齢者住宅の開設や入居相談を行っているタムラプランニング&オペレーティング代表取締役・田村明孝さんはこう証言する。
「要介護5の高齢者受け入れながら
『医療や介護は、外部の事業所と契約をしてください。
そこで起こる問題はうちには関係ありません』というサ高住もあります。

そのサ高住に訪問診断に訪れた医師は、
要介護5の高齢者が、おむつが汚れたままほっとかれていたため、思わずおむつ交換をし、
そのサ高住とは契約をやめたと話していました」・・》
          

私は親戚の方、知人などて高齢者の方は齢を重ねれば、認知症、痴呆症、寝たきりなど学んできたが、
私自身は衰えた体力で日常生活のふるまいの中で、確かな言葉を発言しているうちに、
いつの日にかポックリと死ねたら、と念願しているひとりである。

まして自身が意識なく植物人間のようになって、
生き続けるのは当人はもとより、家内まで不幸であると思っている。
                     
このような私なりの深い思いが根底にあったが、
過ぎし2010年8月下旬の頃に、医学博士で病院長の帯津良一(おびつ・りょういち)氏の本を購読したら、
《・・ 私の理想は、「達者でポックリ」逝くことです。
死ぬ直前まで自分の足で歩き、自分の口で食べ、自分の頭で考えることができる。
「寝たきり」とは180度対照的な死に方が、「達者でポックリ」だと言えるでしょう。
・・
人生は生老病死・・つまり死も含めて、丸ごと自分の人生なのだから、
「死に時」も「死に方」も自分らしくありたいという考えが基本です。・・》

この一節にめぐり逢えて、そうですよねぇ、と私は深く同意させられた。
                    

私が平素何よりも恐れていることは、痴呆症となり、自身が正常に自覚をできないことである。
私は親戚の方、知人の方とか、本などで痴呆症の悲惨さを少しばかり学んだりし、
たとえば私が痴呆症となり、介護をしてくれる家内の身を案じるとたまらないのである。
或いは逆に家内は痴呆症となり、私が看病する場合も同様である。

痴呆症の本人は介護して下さる方も解らず、
何よりも介護する方は、看病する張り合いがないと思われるからである。

このような私の思いから、痴呆症になる前に、ポックリとこの世と別れを告げたい、と思ったりしている。
         

或いはいつの日にか身体の変調を感じて、自宅で寝ていて数日し、悪化する中、
布団の中でオシッコを一度だけ漏らしたりして、死去後のことなどを家内に伝言する。
やがて救急車で病院に運ばれて、入院して数日後に死去する。
そしてこの間に家内からは
『あなたとの生活・・楽しかったわ・・』
と心の中で感じてくれれば充分である。

このように70代か80代のいつの日にか末期となると思われるが、
こうした私の念願は、果たして・・どのようになるか、今の所は漠然としている。

☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、幸いです♪
strong>
にほんブログ村 シニア日記ブログ 60歳代へにほんブログ村
人気ブログランキングへ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『ひとりで死ぬ準備をする60~70代の女性たち』を学び、高齢者の男性の私は・・。【上】

2013-09-20 15:06:32 | 時事【社会】
私は東京郊外の調布市の片隅に住む年金生活のまもなく69歳を迎える身であり、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に築後35年を迎えた古ぼけた一軒屋に住み、
お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

私は中小業の民間会社に35年近く勤め、2004〈平成16〉年の秋に定年退職となり、
私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたく、その直後から年金生活をしている・・。

私は年金生活を始め、平素の買物は自主的に専任者と家内に宣誓し、
これ以来、買物の品とか日常生活の中で、ときおり私が失敗事をしたりすると、
『ボケチンねぇ・・』と家内から微笑みながら私に苦言される時もある。

或いは、ご近所の方の奥様たちから、私たち夫婦の年金生活を見かけると、
仲良し恋し、と社交辞令を言われたりしている。

平素の私は、煙草を喫う愛煙者のひとりで、スポーツは無縁であるが、
痴呆症は何とか避けたく、駅前までの路線バスなどは乗らず、ひたすら歩き廻ったり、
遊歩道、公園などを散策するぐらいである。、

          
そして、お酒大好きだった呑兵衛の私は、一昨年の晩秋に何とか卒業して、
冠婚葬祭、国内旅行以外は週に一度ぐらいは呑むぐらいとなっているが、
このような齢ばかり重ねぐうだらな生活をしている私は、
私としては家内より早くあの世に行く、と確信をしている。
          
そして家内より先にあの世に行くと思っている私は、
私の葬儀、お墓、そして家内の独りの老後で程ほどに生活できそうな状況のことも、
話し合ったりしている。

こうした思いのある私は、定年直後に公正証書の作成できる処に出向き、
残された家内の生活が困苦しないように、私の遺言書を作成したりした。
そして自宅を処分して、2DKのマンションを購入して、残された人生を過ごされれは、
と私は家内に言ったりしている。

   
しかし、このことも天上の神々の采配に寄るものであり、
家内に先立たれることもあり、私が独りぽっちとなることも、一年に数回ぐらいは、
おひとりさまの生活を思いめぐらすこともある。

こうした思いもあり、いずれは片割れとなり『おひとりさま』となるのが必然であるが、
私たちは漠然としているのが昨今の心情である。
          

こうした中で、過ぎし一昨年の2011年10月下旬に於いて、
『 高齢者ホーム選びのポイント教えます! 』と題されたサイトを偶然に見て、私たちは多々教示された。
これらの記事は、朝日新聞社の関連の【dot.】サイトで、週刊朝日の原文より転載された記事であり、
無断ながら、転載させて頂く。
《・・
「宝くじに当たったよう」--特別養護老人ホーム(特養)によると、入所が決まった家族からこうした声を聞くことが多いという。
食事や排泄、入浴などの介護が提供される特養は、待機者が全国に約42万人もいるほどの人気だ。
理由は費用の安さにある。

「有料老人ホームは入居時に数百万から数千万円の入居金がいる上、月額費用も20万円はする。
そんなお金はありませんでした」
こう話すのは、2年前、認知症の母親を東京都内の特養に入所させた加藤伸子さん(仮名、49歳)だ。

特養なら4人部屋で月額費用(部屋代、食費、介護費用)は8万~9万円、最新のユニット型個室でも13万~14万円が多い。
国や地方自治体から多額の建設費補助があるからだ。

しかし、介護度の重さや認知症の症状などで入所の順番が決まるため、すぐに入所できるとは限らない。
          
そこで頼りになるのが、介護付き有料老人ホームやサービス付き高齢者向け賃貸住宅などの高齢者ホームだ。
地方に住む親を心配して、子どもが自宅近くのホームに呼び寄せる例も少なくない。
とはいえ、ホームによってかかる費用もサービス内容もさまざま。
「高ければ安心」とは言い切れないし、「安いところはだめ」とも限らない。

発売中の本誌ムック「高齢者ホーム2012」では、ホームごとの「5年入居時平均月額」を算出した。
介護付き有料老人ホームの利用期間がおおむね5年なのを受けて、
それまでにホーム側に徴収される入居金を月割りにしたものと、毎月の月額費用を合算した。

入居金が安くても月額費用が高いホームがあれば、その逆もあって簡単に比べられないことから、
本誌とタムラプランニング&オペレーティングが全国3220施設へのアンケートから算出した。
これをもとにホーム選びのポイントを解説したい。
          
◆平均的な介護付き有料老人ホーム◆
集計の結果、高齢者ホームの5年入居時平均月額は、全国平均で17・2万円だった。
都道府県別では、東京都が37・5万円で最高値なのに対し、青森県では8・7万円と地域差がかなりある。

このうち、人気の高い「介護付き有料老人ホーム」は大きく分けて、
元気なうちに入居するタイプと、要介護者向け専用のタイプに分かれる。

元気なうちに入居するタイプは一見、一般のマンションとあまり変わらない。
部屋の広さはさまざまで、予算に合わせて選ぶことができる。
ただ、一般のマンションと違って各部屋に緊急通報ボタンがあり、いつでもスタッフが駆けつける態勢が整っている。
食堂や大浴場のほか、映画鑑賞室やカラオケルームなどもある。
介護が必要になったら、居室内もしくは要介護者だけが暮らす棟に移って、介護サービスを受けることができる。
          
◆手厚い職員で上乗せ費用も◆
一方、要介護者向け専用のタイプは、部屋の広さが18平方メートル程度しかないが、
室内に介護ベッドやトイレがあり、職員による24時間態勢が整っている。
介護サービスは基本的に介護保険が使えるので、1割の利用者負担でいい。

ただ、介護サービスの質を判断するうえで参考になるのが、ホーム職員1人が何人の入居者を受け持つかの比率だ)。
職員1人が3人を受け持つのが基準だが、
受け持ち人数を減らしてサービスを向上させる代わりに「上乗せ介護費用」をとるホームがある。

名古屋市の介護付き有料老人ホーム「グラード名古屋駅前」の入居金は100万円だが、
月額費用は28・7万円と決して安くはない。
職員1人が受け持つ入居者数を基準の半分の1・5人に減らし、「上乗せ介護費用」をとっているからだ。

吉村仁志施設長は話す。
「介護サービスは人手によるところが大きい。
職員数が多ければ、入居者から声をかけられても『ちょっと待ってください』と言わなくて済むし、
職員の対応にもゆとりが生まれる。

当ホームでは夜間にも看護師がいるので、
痰の吸引や胃ろう処置(腹部に穴を開けてチューブで栄養を補給する方法)などの医療行為が必要な人も受け入れられる。
末期がんで余命いくばくもない人が、終末期を過ごしたいと入居した例もあります」

せっかく入居しても、認知症が進み、徘徊や大声を出すなどの症状が出ると、退去を迫るホームもある。
契約書や重要事項説明書に退去条件として「他の入居者の生活や生命に重大な影響を及ぼす場合」などと書かれているためだ。

「そうなると認知症にも対応してくれるホームに住み替えねばなりません。さらにお金が必要になります」

高齢者住まいの相談・情報センター「あんしん住まいサッポロ」(札幌市)の西原桂子センター長は注意を促す。
認知症に対応するホームもあるため、書面だけでなくホームの方針を確認しておくことが大切だ。

さらに「終(つい)の棲家(すみか)」を期待するなら、看とりができるかどうかも確認したい。
この場合は、ホームが協力医療機関とどのような連携をしているかがポイントになる。
医師が24時間態勢で駆け付けてくれれば大きな支えになる。

入居時に払う入居金はホームが定めた償却年数以内に退去する場合、一部が返還される。
だが、その額はホームによって差があり、「思ったより少なかった」とトラブルになる例も多い。
途中退去時にいくら戻るのかも事前に聞いておく必要がある。
          
◆格安ホーム◆
一方、ホームの中には月十数万円前後で利用できるものもある。
費用が安いとサービスも悪いのではないかと勘ぐりたくなるが、必ずしもそうではない。

札幌市にある「水芭蕉」(居室数40室、現在満室)は、
月額費用(家賃、管理費、食費)が9万4千円と格安の高齢者専用賃貸住宅(高専賃)だ。

有料老人ホームのような高額の入居金がいらず、3万8千円の敷金がいるだけ。
全室個室で、トイレやミニキッチンが付き、スタッフを呼ぶ緊急通報ボタンもある。
共同利用できる食堂や浴室もあり、設備面は平均的な介護付き有料老人ホームと比べても遜色ない。

「地主に建物を建ててもらい、それを丸ごと借り受けることでコストを抑えました。
高専賃の運営だけでは赤字ですが、併設の介護事業所の収入も含めて収支を考えています」
          
◆格安高専賃でも充実した設備◆
水芭蕉を運営する株式会社「北海道勤労者在宅医療福祉協会」の住居系統括責任者の鹿野憲さんは、
低料金の理由をこう説明する。

介護付き有料老人ホームではないので、常駐職員による要介護者への介護サービスはしていない。
しかし、施設には協会が運営するデイサービス事業所があるほか、
外部の訪問介護事業所から入居者にヘルパーを派遣してもらうことができる。

こうした外部の介護サービスを使っても介護保険が使えるので、利用者負担はやはり1割。
ただ、介護付き有料老人ホームと同じ24時間態勢のサービスが受けられるかは事業所による。

また、中にはケアプランどおりに介護サービスが提供されない場合もある。
入居してしまうと外部からは見えにくいだけに、できるだけ家族が面会に出向くなどのチェックが肝心だ。
          
◆高額ホーム◆
神奈川県の閑静な住宅街に、介護付き有料老人ホーム「ヒルデモアたまプラーザ」はある。
主に要介護者向けの「ビレッジ1」から、主に元気なシニア向けの「ビレッジ3」まで3施設が並ぶ。
5年入居時平均月額が「ビレッジ3」で75万円、「ビレッジ1」なら65・4万円だ。

「ビレッジ3」を訪ねた。窓が大きく、外観は低層の高級マンションのようだ。
ホームに入るには靴を脱いで室内履きに履き替える必要があり、うがいと手洗いをするよう促される。

「日本の家は玄関で靴を脱ぎますね。このホームもエントランスを一歩入ったら、自宅のように過ごしていただきたい。
うがいや手洗いは、感染予防のために徹底しています」
と、支配人の松下妙子さんは話す。

事業主体の東京海上日動サミュエルは、全国の11カ所で有料老人ホームを運営している。
なかでも、5年入居時平均月額が134・1万円と、
全国1位の介護付き有料老人ホーム「ヒルデモア駒沢公園」(東京都目黒区)は常に満室だ。

高額でも人気の秘密は、介護度が高くなったり、認知症が進んだ場合は、ほかのヒルデモアに転居が可能で、
原則として入居金を新たに用意する必要がないことだ。ビレッジ3から1へ転居する入居者もいる。

また、食事の面でも、工夫をしている。
独自に開発した「モアディッシュ」は、
のみ込む力が衰えた人でも舌で押しつぶせてのみ込みやすくしたソフト食で、見た目も通常食のようだ。
「『流動食などをそのまま盛ると、見た目も味も、何を食べているのかわからない。何とかならないか』
というスタッフの一言で生まれました」(松下さん)

隣接する協力医療機関のメディカルクリニック医庵が週に1回、ホームで診療を行う。
週に1回、居室の床・水回りの清掃や買い物代行サービスもある。
ホームと最寄り駅までシャトルバスを運行し、トレーニングルームや理美容室、竹林の緑を見ながら入浴できる大浴場も完備している。

一般的に、地価の高い都市部のホームほど入居金は高くなる。
また、元気なうちに入るタイプのホームは居室も広く、映画鑑賞室やプールなどの豪華設備を売りにするので、高額になりやすい。

ただ、高齢者住宅情報センターのセンター長、米沢なな子さんは言う。
「元気なシニアは、外出する時間も長い。
ホーム内にバーやプールの設備があっても、利用しない人もいる。
それよりも大切なのは、費用に合った手厚い介護態勢と医療連携が取れているか。
認知症が進んだときでも専門性の高い対応が可能か、病院から退院した後でも医療態勢がないからと退去を迫られないか、
看とりの態勢は取れているのかを、きちんと見極める必要があります」

介護が必要になると不要な設備もある。
先々に必要な設備も検討したうえで、予算に合ったホームを選んでほしい。
                    
◆介護は民間の時代へ、問われる自己責任◆
多種多様な高齢者ホームが続出している背景には、
増大する医療費や介護費を減らそうと、国が介護サービスを民間に開放している流れがある。
これまで国頼みでよかった私たちの老後は、今や乱立する施設のどれを選ぶかを自己責任で判断せざるをえなくなりつつある。

介護保険が2000年にスタートし、それまで主に自治体や社会福祉法人が担っていた介護サービスが、
民間事業者に開放された。
介護サービスの供給量は一気に拡大した。同時に、有料老人ホームなどの高齢者ホームも右肩上がりで増加してきた。
安い特別養護老人ホーム(特養)に入りたくても、待機者が多くて入れないためだ。

こうした動きは国にとって好都合だったはずだ。
特養建設には多額の公費がかかる。民間事業者に自前で建物を建ててもらえば、財政負担を減らせるからだ。

だが、高齢者ホームの種類はいろいろで、かかる費用もサービス内容も違う。
何をどう選んだらよいのかわかりにくい。自治体でさえ、その全容をつかめていないのが現状だ。

にもかかわらず、国は新たな施設の類型を作っては、一定期間だけ予算を付けることを繰り返してきた。
そのために「専門的なリハビリを受けるなら○○施設に」「認知症専門は△△へ」など、
利用者から見れば状況は混迷するばかりだ。
          
10月20日からは、「サービス付き高齢者向け住宅」という新たな類型が加わる。
一定の設備を備え、安否確認や生活相談サービスが付く住宅だ。
厚生労働省は、来年4月からスタートする24時間対応の訪問介護・看護サービスと組み合わせて普及させ、特養の待機者解消を狙う考えだ。

しかし、高齢者ホームをめぐるトラブルは増えている。
思ったようなサービスが受けられなかったり、払い込んだ入居金が退去時にほとんど戻らなかったりする例もある。

「終の棲家」を期待したはずが、認知症の症状が進行して追い出されることも少なくない。

一方で、所得制限のない特養に高所得者が入り、低所得で介護の必要な高齢者の行き場がなくなっている。
類型の乱発で施設ごとの違いがなくなり、要介護者は「入れるところに入っている」のが現状だ。

国は複雑な類型を整理するとともに、特養は誰のためのものなのか、検討し直すべき時期に来ている。
(長岡美代)  <協力:タムラプランニング&オペレーティング>・・》

 ■都道府県別に見た5年入居時平均月額(万円)
 北海道  18.3
 青森県   8.7
 岩手県  10.6
 宮城県  17.2
 秋田県  12.0
 山形県  11.2
 福島県  14.8
 茨城県  24.9
 栃木県  17.2
 群馬県  17.5
 埼玉県  24.9
 千葉県  24.7
 東京都  37.5
 神奈川県 31.6
 新潟県  17.7
 富山県  11.9
 石川県  14.6
 福井県  13.4
 山梨県  22.2
 長野県  14.6
 岐阜県  20.5
 静岡県  23.6
 愛知県  21.8
 三重県  12.7
 滋賀県  24.2
 京都府  34.4
 大阪府  21.7
 兵庫県  31.5
 奈良県  28.2
 和歌山県 14.1
 鳥取県  11.4
 島根県  10.7
 岡山県  15.0
 広島県  18.5
 山口県  12.1
 徳島県  10.5
 香川県  12.3
 愛媛県  12.9
 高知県  10.3
 福岡県  16.2
 佐賀県  11.1
 長崎県  10.7
 熊本県   9.6
 大分県  11.6
 宮崎県   9.7
 鹿児島県 16.0
 沖縄県  11.9
 (編集部調べ)
          
このような記事を私たち夫婦は読みながらも、『高額ホーム』は余り高く入居もできない身で、
溜息を重ねたりした。
さてはどこが残された方が良いかしら、と漠然としながらも、ときおり思案していたりしてきた。


たまたま昨日の昼下がりのひととき、パソコンでニュース記事を彷徨(さまよ)っている中、
【 ひとりで死ぬ準備をする団塊世代の女性たち 】
と見出しされた記事を見た。

そして朝日新聞社の関連の【dot.】サイトで、週刊朝日の原文より転載された記事であり、
私は、どういうことなのかしら、と思いながら読んでしまった。
無断であるが転載させて頂く。
《・・「老いて一人」は、他人事ではない。
配偶者がいても、いずれはどちらかが先に逝く。
子どもがいてもあてにならないし、あてにしたくない。
そう考え、“終(つい)の棲家(すみか)”を探す60~70代女性が最近、増えている。

今年3月、夫に先立たれた田中静子さん(仮名・78歳)は、
自宅を売却してサービス付き高齢者向け住宅(サ高住)に住み替えた。

夫の定年を機に、30年暮らした横浜から田中さんの故郷・浜松に家を建て暮らし始めたが、
2010年9月、夫ががんになり、76歳であっけなく逝った。
          
子どもはいなかった。
このままひとりで浜松で暮らすか、東京に行くか。田中さんは迷った。

すると、東京の姪から連絡があり「叔母さんにぴったりの住まいがある」と。
それが、現在暮らすサ高住、ゆいま~る中沢(東京都多摩市)だった。

「想像していた高齢者住宅とまったく違いました。
気に入ったのは、キッチンがあること。自炊ができる。
それと共同生活で人に合わせた時間帯で暮らすのは不安でしたが、ここなら生活のリズムを変えずに生活できるかなと」(田中さん)

田中さんが暮らすようなサ高住は、2011年の法改正によって同年10月に生まれ、
現在、新たな高齢者の住まいとして注目を浴びている。
2012年1月にはわずか8200戸だったのが、今年8月末までに12万2千戸を超え、急増しているのだ。

サ高住は、特別養護老人ホームやケアハウスなどの「施設」とは異なり、「住宅」になる。
あくまで「住宅」なので、施設のように食事やお風呂の時間が決められているわけではない。
プライベート空間を保った普通の集合住宅と変わらない暮らしができるという。
その上、入居者は安否確認サービス、少なくとも日中に常駐するケア専門家による生活相談サービスを受けられるメリットもあるのだ。

「暮らして半年ですが、満足しています」(田中さん)

高齢者住宅情報センターを解説しているコミュニティネットワーク協会の理事長・近山恵子さんはこう解説する。
「最近は、『自分らしく最期まで暮らしたい』
『親の介護が大変だったので、子どもには介護をさせたくない』という声が多くなりました。

その流れの中で高齢者の住宅相談が増えました。
きっかけは、病気やケガをするなどして、自分の老いを認めたときが多いです。
あるいは連れ合いが亡くなられたケース。
身内の介護経験がある人は、現実を知っているからか、早めに動く傾向にあります」
※週刊朝日 2013年9月27日号
・・》
          
こうした記事を読み、私たち夫婦の中で残された方は、
2DKの小さなマンションに住むよりは、
《・・安否確認サービス、少なくとも日中に常駐するケア専門家による生活相談サービスを受けられるメリット・・》
齢を重ね老後のおひとりさまには、何かと心強いかしらと、と私は感じたりした。
                                  《つづく》
           
☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、幸いです♪
strong>
にほんブログ村 シニア日記ブログ 60歳代へにほんブログ村
人気ブログランキングへ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『中秋の名月』を迎え、ささやかな私の月の思いは・・。

2013-09-19 11:41:10 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市の片隅に住む年金生活のまもなく69歳を迎える身であり、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に築後35年を迎えた古ぼけた一軒屋に住み、
お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

昨夜の6時半過ぎ、『お月さま・・綺麗だわ・・』
と家内は私に話しかけた。

私は我が家の主庭に隣接した隣家の屋根とマンションの大きな建物の間に、
満月のように輝いている月を眺め、
『確かに・・お月さま・・綺麗だよねぇ・・』
と私は誉(ほ)めながら応(おう)じた。

そして10時過ぎに、私は独りで玄関の軒下に下り立ち、
澄み切った夜空にぽっかりと月が煌々と光をおびているのを眺めながら、
お月さま・・私に向って微笑んでいるみたい、と私は感じたりした。

こうした単細胞のような思いの心の奥底には、
私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたく、その直後から年金生活をしているが、
このような心情を察した天上の神々から、人生の後半の贈り物のひとつ、と私は解釈しているからである。
          

今朝、ぼんやりとNHKのニュースを視聴すると、
本日は『中秋の名月』の日です、と若き女性のキャスターが報じていたので、
『十五夜』を迎えたことを知り、微笑んだりした。

もとより、古来より9月7日頃から10月8日頃の間に於いて、
月が満月になる日を『十五夜』、或いは『中秋の名月』と称されている。

この後、ぼんやりと私の幼年期の頃、生家でささやかな月見の祝いをしていたことが、
思いだされた・・。


私が地元の小学校に入学したのは、1951〈昭和26〉年の春である。

この当時の生家は、祖父、父が中心となって先祖代々から農業を引き継いで、
程ほど広い田畑、雑木林、竹林などを所有し、小作人だった方の手をお借りながらも田畑を耕していた。

私は長兄、次兄に続いて生を受けたが、祖父、父は、
2人男の子が続いたので、跡継ぎの男子は万全と思ったので、今度は女の子を期待していたらしく、
三男坊の私としては、幼児心に何となくいじけた可愛らしくない児であった、
と幼年期の頃に思い馳せながら、苦笑をしたりし思い重ねたりした・・。

この当時、この時節の満月を迎える中秋の名月の時は、
母屋の主庭に面した縁側で、月が観える位置に飾りを供(そな)えていた。

三方(さんぽう)と称された檜(ヒノキ)の白木で作った方形の折敷(おしき)に三方に穴が開いた台に、
半紙を敷いて、お米の粉で作った団子を15個ばかり供えられていた。

薄(すすき)が活(い)けられ、その脇には収穫された農作物の里芋(さといも)、
サツマイモ、蓮(の根)などが置かれていた。

私は祖父から不憫に感じられたせいか、ときには可愛いがわられて、
祖父の冷酒を呑む横に座って、満月を眺めたりしていた。

今、こうして想いだすのは、農家であったので、
春から育てられた農作物が何とか夏の日照り、台風などの被害を受けることなく、
無事に秋の収穫を迎えることができ、感謝をささげる意味から、
このように形式がとられたと解釈している。

こうしたささやかな『月見』も数年後、父が死去し、祖父にも死別され、
大黒柱を失った生家は衰退の一途となり、このような儀式には余裕がなく、消滅した。
                    

定年後の年金生活をし、齢を重ねるたびに圧倒的に深く魅了されるのは、
なぜかしら『十六夜(いざよい)』である。

もとより『いざよい』は、「いざよう」の語源からであり、
ためらい、ためらう、ことなど意味しているが、
『十五夜』よりしばらく遅れて昇ることから『 いざよい』と称されてきた。

私は月を眺め、自分のその時の思いを託〈たく〉したりしているが、
この時節になると、『十三夜(じゅうさんや)』を誉めたり、
その後の中秋の名月と称されている満月の『十五夜(じゅうごや)』を見惚〈みと〉れたり、
やがて、 待ちわびた『十六夜(いざよい)』に圧倒的に魅了されたりしている。

古人の時代から、満月よりやや遅れてためらうように昇って来る、と伝承されてきているが、
つたない私の人生の軌跡と同様に、心持ちをためらいながら歩んできたので、
何かしら共感を深めている。

そして何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
50代の頃から、『十六夜(いざよい)』を眺めたりすると、
ためらうように月が昇る情景を観ると、
この人生のはかなさの中で、余情を感じたりし、圧倒的に魅了されている。

☆追記☆
          
我が家の2階の和室から、本日の午後6時50分過ぎに、『十五夜(じゅうごや)』を撮った。
何故かしら恥ずかしげな満月に、つたない私は微笑んだりした。

☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、幸いです♪
strong>
にほんブログ村 シニア日記ブログ 60歳代へにほんブログ村
人気ブログランキングへ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

陽射しは晩夏、風の匂いは初秋の中、庭の手入れをすれば・・。

2013-09-18 17:44:33 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の68歳の身であるが、
朝の7時過ぎに、ぼんやりと玄関の軒下に下り立つと、
雲が三つばかり浮かんで青空を眺めたりし、ときおり微風を受けると、
少し肌寒いじゃないの、と微笑んだりした。

この後、地元の天気情報をパソコンで検索すれば、
朝の6時は16度、昼下がりは28度前後、そして夕暮れの6時は25度前後で、
さわやかな晴れ間の一日となります、と報じていたので、
過日の10日は玄関庭の手入れをしたのであったが、主庭は樹木の枝葉も伸び、草も生い茂ってきているので、
本日、初秋の装(よそ)い情景にふさわしいように、庭の手入れをしょう、と思い立った。

我が家は住宅街の外れにあり、変則の五角形のような敷地で、家屋を配置した結果、
やむなく主庭と玄関庭の二分化となっている。

私は9時過ぎより庭に下り立ち、いつものようにストレッチパンズの長ズボン、
着古したスポーツシャツ、ウォーキング・シューズ、帽子、
滑り止めの軍手をした上て、剪定鋏(ハサミ)を腰の周りにしたりした。

そして樹木の伸び放題の枝葉を高枝バサミを3メートルぐらいに伸ばして、10本ばかり切り落とし、
あとの樹木は後日とした。
やがて切り落とした枝葉を二時間ぐらいで、市指定の有料の『燃やせるゴミ袋』に、
破れないように剪定鋏(ハサミ)で小さくして入れたりした。
          
この後、難問の草むしりをしたのである。

そしてドクダミの草が地面にへばりつくように繁っているので、労苦を要する。
或いは樹木のある地面も草が生えているので、
樹の下にもぐるように、はいつくばって草を取ったりすると、泥だらけになる。

ときおり、蚊(か)が気まぐれに飛んでいるので、やむなく蚊取り線香を東西南北に配置したりした。

草むしりをしていると、定年退職した直後の数年は、
草を抜きながら、あの時はあんなことがあった、と現役時代の頃の職場の情景、先輩、同僚、後輩の顔立ちが、
甦(よみがえ)ったりするのが多かったりした。

ここ数年になると、私は定年退職し年金生活に入った頃の
おぼつかない私の心情を思いだしたりすることが多い・・。


陽射しの28度前後の中、孤軍奮闘していると、
やはり晩夏の余韻の暑さで汗まみれとなり、30分ぐらい奮闘した後、
テラスに簡易椅子を置いてに腰かけ、5分ばかり休憩する、
このサイクルを繰り返しながら奮戦したりした。

            
そして簡易椅子を腰かけていると、ときおり微風が吹き、身をゆだねると、
秋めいた風は心地よく、微笑んだりした・・。
          
私は冷茶を飲みながら煙草を喫ったりし、庭の草むしりの終えた場所を見つめたりし、
残りはまだまだある、と確認したりすると、
体力の衰えを感じている私は、今しなくてはいつするのよ、
と心の中で自身を叱咤激励をし、昼食抜きで奮戦したりした。

結果としては、3時半過ぎに体力の限界を感じて、本日は終了とした。
             
私の若き40代のサラリーマン時代は、休日の時に真夏の炎天下の中でも、
7時間ぐらいは気力で、体力にまかせて庭の手入れをしたりしていた。
或いは高尾山などのハイキングを休日の時に、家内と共に歩き廻ったりしていた。

そして現在の私は疲れ果てて、あの頃の自分の若さには適〈かな〉わない、
と高齢者4年生の体力の衰えを実感させられた。

そしてハイキングをする元気があったら、庭の手入れをしなければ、
と思ったりして、汗まみれ泥まみれの衣服を脱ぎ棄てて、浴室に向ったりした。

☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、幸いです♪
font>
にほんブログ村 シニア日記ブログ 60歳代へにほんブログ村
人気ブログランキングへ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『広島が欧米人に大人気』と遅ればせながら学び、やがて私は襟を正されて・・。

2013-09-17 15:40:45 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市の片隅に住む年金生活のまもなく69歳を迎える身であり、
昼下がりのひととき、パソコンでニュース記事を彷徨(さまよ)っている中、
【 京都をしのぐ勢い?今、広島が欧米人に大人気 】
と見出しされたニュースを見た。

そして私は、欧米人の人たちは京都より広島の方に、どうして人気があるの、と思いながら、
クリックしてしまった。
http://dot.asahi.com/aera/2013073100035.html
☆【dot.】<==『京都をしのぐ勢い?今、広島が欧米人に大人気』☆

私はこの記事を読みながら、《・・実は、広島は外国人にとって名だたる観光地らしい。
5月に発表された世界最大の旅行サイト「トリップアドバイザー」の「外国人に人気の日本の観光スポット2013」の第1位が
広島平和記念資料館だった。
4位に「厳島神社」もランクイン。外国人には京都のほうが人気があると思っていたのだが、どうやらそうではないようだ。・・》
こうした世界最大の旅行サイトは無知であったが、
何よりも驚いたのは、《第1位が広島平和記念資料館》だったことであった。

そして日本に来日されて、この『広島平和記念資料館』を入館後の思いとして、
《・・イタリア人クリエーターのディエゴ・ピッチナートさん(30歳)は、
「広島は学校で学んでからずっと興味があった。
日本があの戦争から立ち直ったことに敬意を抱いている。戦争と原子爆弾の影響を知りたかった。
資料館の中は、まるで教会のように静寂に満ちていたことに驚いた。
日本人はアメリカを声高に非難するわけでもなく、展示が客観的だったのが非常に印象的だった」・・》

ここまで私は読んだりしていると、私は私は襟を正したりした・・。
          

私は1944〈昭和19)年9月に東京郊外で農家の三男坊として生を受け、
翌年の1945〈昭和20)年8月15日に連合軍に日本は降伏して敗戦となった。

そして敗戦時は一歳未満の乳児であったので、戦争を知らない世代に属するが、
少なくとも沖縄戦が事実上終結した6月23日の『沖縄慰霊の日』、
原爆という余りにも過酷で悲惨な8月6日の『広島被爆』、9日の『長崎被爆』、
そして15日の終戦記念日と称された『敗戦記念日』は、黙祷をして46年は過ぎている・・。

もとより、かの大戦で余りにも多くの方たちが亡くなわれて、
尊い犠牲の上で、今日の日本の心の平和の礎(いしずえ)である、と思いながら、
戦争を知らない私でも深い心の傷として、今日に至っている。

このような思いから、私は国民のひとりの責務として、
6月23日、8月6日、8月9日、そして8月15日は、人々に哀悼の意を表して、黙祷をし、尊い命の冥福を祈っている。

しかしながら私は国内旅行を幾たびかしてきたが、沖縄、広島、長崎は何かしら後ろめたく、
50代で初めて沖縄を訪れ、広島、長崎は60代で初めて訪れた。
          

広島に関しては、つたない私ながら、原 民喜・著作の『夏の花』(1947年)、阿川弘之・著作の『春の城』(1953年)、
竹西寛子・著作の『管絃祭』(1963年)、井伏鱒二 ・著作の『黒い雨』(1966年)、
福永武彦・著作の『死の島』(1966年)などを、若き日に文学青年の真似事をしていた時代に読んだりしてきたので、
この作品を思い馳せたりし、『広島』に心を寄せたりしてきている・・。

もとより広島は、1945(昭和20)年8月6日の午前8時15分に、
対戦中のアメリカが人類史上初めて広島市の市街に原子爆弾を投下され、
少なくとも15万人の人が即死し、数多くの方が被ばくされた。

このことは戦勝国となったアメリカの歴史をどのように描いても、厳然たる事実である。
                     

今年の夏、私は敬愛している映画監督のひとりオリバー・ストーン氏(66歳)が来日され、
広島市内で読売新聞のインタビューに応じた内容が、私は8月5日の読売新聞の朝刊に掲載されていた。

《 オリバー・ストーン氏「被爆者に謝罪したい」
「プラトーン」「JFK」などで知られる米国の映画監督オリバー・ストーン氏(66)が4日、
広島市内で読売新聞のインタビューに応じ、
「原爆投下は戦争を終わらせるために必要だったというのは幻想だ。
(米国人として)被爆者に謝罪したい」と語った。

ストーン監督は昨年、第2次大戦前夜の1930年代からオバマ大統領登場までの米国の現代史について、
独自の視点で描くテレビドキュメンタリーシリーズ「もうひとつのアメリカ史」を制作。
その中で、原爆投下はソ連(当時)へのけん制が目的で軍事的に不要だったと主張している。

今回は原爆忌に合わせ広島、長崎を初めて訪問、被爆者との対話などを予定している。

インタビューで、ストーン監督は、原爆を投下した米国は英雄であると教わってきたと説明したうえで、
「80年代までそうした幻想に疑問を差しはさむことはなかったが、歴史をもっと深く見るようになった。
私は歴史に対して建設的でありたい。
日本の人々も、米国の神話を受け入れず、なぜ原爆が落とされたのかを学んでほしい」と話した。

被爆者との対話については、「私の気持ちは激しく乱れることだろう。
私は戦後生まれで、(戦勝国の)恩恵を受けてきた一人であり、
(被爆者に求められれば)謝罪したい」と語った。

ストーン監督はこの日、広島平和記念資料館を見学。
「ボロボロになった衣服などを見て、現代の繁栄した街との対比に大きな衝撃を受けた。
私たちはヒロシマを忘れてはならない」と感想を述べた。

読売新聞・朝刊 2013年8月5日 【社会】面の記事より転記 》
注)新聞記事の原文より、あえて改行を多くした。


私は今年の4月が毎月一冊刊行された、
オリバー・ストーン&ピーター・カズニックの著作『オリバー・ストーンが語る もうひとつのアメリカ史 1~3』(早川書房)の日本訳を
読んだ一人で、三冊に及ぶ大作であり、アメリカの近現代史である。
                   
これまでのアメリカ史は、ともすれば光の部分、アメリカの功績が強調された書物が多かったが、
本書は影の部分に焦点を当てて、今日のアメリカの混迷の実態の原因を追究する為、
第一次世界大戦の時期から、アメリカを中核とした歴史を動かしてきた主要国の動向を、怜悧に表現されている。
               
本書が刊行された後、4月初旬から逐次にNHKのBS1に於いて、
世界のドキュメンタリー『オリバー・ストーンが語る もうひとつのアメリカ史』として放送されたが、
本書の方が、圧倒的に当事者の心情を余すところなく深淵まで描写している、深めたりした。

このような思いもあり、私は私なりに『広島』の思いは増してきている。


そして今回の『京都をしのぐ勢い?今、広島が欧米人に大人気』を読み終わった後、
《・・広島を訪れる外国人の特色は、街を歩けばすぐに気づくが、圧倒的に白人が多いことだ。
日本政府観光局の「訪日外客訪問地調査2010」のデータでは、
欧州・北米・豪州からの旅行者78.3%を占め、広島は47都道府県のうちもっとも欧米系旅行者率が高い。
県や市の観光課などによると、もともと広島とのつながりが強いフランスには県を挙げて売り込んでいること、
豪州では平和教育が盛んであることなども大きいらしい。・・》

こうした文面に無力な私は勇気づけられて、過去にあった現実を世界の人に多く知って欲しい、と私も願ったりした。

☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、幸いです♪
font>
にほんブログ村 シニア日記ブログ 60歳代へにほんブログ村
人気ブログランキングへ

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

世界的に高まる「スマホ依存症」への反省ムードを学び、スマホに無縁な私でも同意

2013-09-16 10:56:46 | 時事【社会】
私は東京郊外の調布市の片隅に住む年金生活のまもなく69歳を迎える身であり、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に築後35年を迎えた古ぼけた一軒屋に住み、
お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

昨夜、パソコンを開き、たまたまニュース記事を彷徨(さまよ)っている中、
【 世界的に高まる「スマホ依存症」への反省ムード 】
と見出しされたニュースを見た。

私は、スマホに無縁であるが、どういうことなのょ、と思ったりした後、
何事も好奇心を失くしたら、この世は終わりだ、と信念の私は、クリックしてしまった。
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/36891
☆【Digital Experience!】<==『現代ビジネス』
          <==『ITトレンド・セレクト』<==小林 雅一・著『世界的に高まる「スマホ依存症」への反省ムード』

私は私と5歳年齢の家内も恥ずかしながら、スマートフォンはもとより、
携帯電話さえも使えないので、やむなくインターネットは『フレッツ』の回線を通して、パソコンを利用している。
或いはフェイスブックとかモバイルパソコンに無縁で、無線のモバイル情報機器に遠い世界のようなことと思い、
このような稀(まれ)な国民のひとりとなっている・・。

このような私でも、今回の小林 雅一さんの寄稿文の『世界的に高まる「スマホ依存症」への反省ムード』を読み、
世界の一部でこのような反省ムードがでてきたのに、多々教示された。

そして最初に掲げられたユーチューブ動画「I Forgot My Phone」に於いて、
スマホと略称されるスマートフォンに無縁な私でも、衝撃を受けた。
          

小林 雅一さんの寄稿文の中で、《スマホ依存の実態とは何か?》に於いて、
《「歩きスマホ」は、駅中や大通りの雑踏、さらには横断歩道など、非常に混雑した場所で、
メールやSMS、あるいはフェイスブックのステータス・アップデートをチェックするなど、
事実上の電子コミュニケーション依存症》
と解説されて、
《この「歩きスマホ」は本人ばかりか、周囲を歩いている人たちにも危ないし、
実際事故も多発しているので日本でも批判が高まっている。
また米国の地方自治体では、条例でこれを禁止することも検討されている。》
と危惧されている。

私も過ぎし一昨年の2011年12年13日に危惧して、このサイトに、
『昨今の若き男女は、二宮金次郎のように歩く方が多くなり、高齢者の私でも戸惑いながら苦笑し・・。』
と題して、投稿しているが、今回あえて再掲載する。
          

二週間前に買い物で駅前のスーパーに行った時、駅近くの商店街を歩いていると、
若き20代の女性が前かがみで何かを見ながら歩いていた。

その後、駅前の広場を足早に歩いていた若き30代の男性も、
やはり前かがみで何かを見ながら歩いていた。

私は驚きながら周辺を見渡すと、10人ぐらいの方が前かがみで何かを見ながら歩いていたので、
まるで江戸時代末期に農民の児として育った二宮金次郎のような方が増えた、
と私は苦笑したりした・・。

もとより二宮金次郎は、貧困の少年時代を過ごし奮闘しながら朝から晩まで働き、
この間に薪(まき)を背負っての道中に本を読んで勉学に励んだ人で、
私が学んだ小学校の校庭の片隅に銅像があった。

私は注視しながら見ていると、何かしら携帯電話のような物に覗き込むように見ている人が多く、
無念ながら携帯電話も使えず、世の中の時流から取り残されている私でも、
ここ一年ぐらい話題となっている高性能携帯電話と称されているスマートフォンだ、と解った。

そして過ぎし日に雑誌などで教示され、従来の携帯電話はもとより、バソコン、デジカメ、
カーナビ、携帯音楽プレーヤー、ゲーム機、電子辞書なども有している機能もある、
と知り私は驚いているひとりである。


この後日、私は久々に電車に乗ろうと改札口に入り、
地下にあるプラットフォームに通じるエレベータ乗った時、
隣にいる若き20代の女性が、このスマートフォンを忙しそうに画面を変えていた。

そしてエレベータの降り口から平坦となったプラットフォームを歩いていても、
スマートフォンの画面から目を離さないので、人の多い所で危ないなぁ、
と私は危惧したりした。
その後、やはりこの女性は40代ぐらいの男性にぶつかり、目礼しながら謝ったりしていた。

私は身体の衰えた高齢者、或いは構内のベンチとかに、ぶつかったり、
最悪の場合は電車が入線してきたら、と私の方がハラハラしてしまうのである。
         
               
昨日、私は近くの野川の遊歩道を散策していた。
落葉樹のたわわな葉は、紅色、朱紅色、黄色など染められている錦繍(きんしゅう)の情景が終わりかけ、
枝には少しばかりの葉が残り、朝のまばゆい陽射しが樹木の枝葉を照らしだして、
私は思わず足を止めて、見惚〈みと〉れていた・・。

まもなく後方から足音が聴こえ、突然に足音が消え、私は後ろを振り向くと、
わずか1メートルぐらいで、若き20代のツーピスを召された女性が、驚いたように立ちすぐんでいた。
私はこの女性の顔立ちを見た後、手に握りしめたスマートフォンに気付いた。

そして、この女性は人影の少ない遊歩道で、スマートフォンで情報を検索しながら歩いているうちに、
私の姿を手前で気付いた、と思われる。

この女性は私に目礼をして立ち去ったのであるが、
私の方が、もっと驚いたょ、と私は心の中で呟〈つぶや〉いたりした。
          
このように昨今は何かと慌ただしく、世の中は情報に溢れているが、
働いて下さる若き諸兄諸姉、せめて歩いている時ぐらいは、
前方を見据えて颯爽と歩くのが何よりも美しい、
とサラリーマンを35年近く体験した私は確信を深めている。

このように私は一昨年の2011年12年13日に綴っていたが、こうした心情は今でも変わらない。

私の提言としては、街中でスマホを使用する場合、ご自身の安全の為に「歩きスマホ」は自己抑制し、
やむなく使用する場合は、電車とかバスの中とで自身が停止できる状態、
或いは職場に早めに出勤して使用する。

ここ10数年、短期に職務の成果を求められる時代であるが、
この提言の範囲でスマホを時間以外に使用すれば、と思案したりしている。
          

そして小林 雅一さんの寄稿文の中で、《記録するより、今を生きることへ》を提言している。

《・・一生懸命に生きて楽しんだ自分の人生を記録し、
それをソーシャル・メディアで誰かと(できれば大勢の人たちと)共有したい。
そういう気持ちは人間として、ごく自然なことだし、基本的には人生を豊かにしてくれる。

が、それが行き過ぎると、人生を記録し、それを見せびらかすために生きるという本末転倒に陥り、
様々なトラブルや人間関係の軋轢を引き起こす。

ここにきてスマホ依存への反省が広がっているのは、
そういうことに気付き始めた人が増えているからかもしれない。・・》

ここ10数年、携帯電話が普及する中で、働いた下さる諸兄諸姉は、
通常の業務には必須の情報機器であり、そして4年前の頃からはスマホが急速に活用されてきている。

そして第一線を退かれた60代、70代の殆どの方が、携帯電話かスマホを利用され、
ご高齢の80代以上の方たちも家族間の連絡、緊急連絡でお守り代わりに利用されている状況となっている。

まして若き10、20代の世代の人の一部には、新聞も購読せず、パソコンも所有せず、
スマホだけを頼りに生活をされている現実がある。

このような情報があふれるような社会状況となっている今日、程ほどの利用は必要であるが、
たえずスマホを手にされて頼りにされるのは、いかがなものかしら、と私は憂いている。
          
まして私生活の貴重な時間に於いては、スマホの活用は程ほどの節度が必要と確信を深めている。

私が平素は自宅の近くの遊歩道を散策することが多く、
たまたま過日の日曜日に散策していた時、若き30歳前後の男女が前方から歩いてきた・・。
仲良し恋しのおふたりと私は好感しながら眺めながら歩いた。

そして20数メートルの前方の距離になると、
この男性の右手にはスマホと思われる情報機器を持ち、ときおり見ながら、
連れ合いの女性にうなずくような歩いてこられた。

私はすれ違った後、この若き男女の後ろ姿を見ながら、
たぶん休日の日と思いながらも、スマホなどは自宅に置き、
せめてこうした時ぐらいは情愛を深め、語り合うことをされたら、と思ったりしたのである。

☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、幸いです♪
font>
にほんブログ村 シニア日記ブログ 60歳代へにほんブログ村
人気ブログランキングへ

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする