夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

『越後獅子の唄』、私の少年期の限りなく愛惜を秘めた歌のひとつとなり・・。

2015-04-12 10:54:02 | 懐かしき心に秘めた歌
私は東京の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住む年金生活の70歳の身であるが、
私は今住んでいる近くに生家があり、1944年〈昭和19年〉の秋に農家の三男坊として生を受けた。

そして私は長兄、次兄に続いて生まれた三男であり、
農家の跡取りは長兄であるが、この当時も幼児に病死することもあるが、
万一の場合は次兄がいたので万全となり、今度は女の子と祖父、父などは期待していたらしい。

私の後に生まれた妹の2人を溺愛していた状況を私なりに感じ取り、
私は何かしら期待されていないように幼年心で感じながら、
いじけた可愛げのない屈折した幼年期を過ごした。

やがて1953年(昭和28年)の3月になると、前の年から肝臓を悪化させ、寝たり起きたりした父は、
42歳の若さで亡くなった。

そして祖父も跡継ぎの父が亡くなり、落胆の度合いも進み、翌年の1954年(昭和29年)の5月に亡くなった。

どの農家も同じと思われるが、一家の大黒柱が農作物のノウハウを把握しているので、
母と父の妹の二十歳前後の未婚のふたりの叔母、
そして長兄は中学1年で一番下の妹6歳の5人兄妹が残されたので、
家は急速に没落なり、生活は困窮となった。

そして私たち子供は母と叔母に支(ささ)えられ、そして親類に見守り中で、貧乏な生活が始まった。
          

この当時も義務教育は中学校までであったが、PTA(授業料)の会費は有償であり、
確か教科書も有償の時代であった。

祖父が亡くなって後、私は担任の先生から母あてに一通の手紙を渡された・・。
帰宅後の私は母に手渡した後、
『PTA会費・・当分・・免除するって・・』
と母は呟(つぶや)くように小声で言っていた。

そばにいた小学5年の次兄は母の小声の内容を知り、
『いくら貧乏していても・・PTAの会費・・払おうよ・・』
と次兄は怒りような声で母に言ったりした。

次兄は翌日から下校した後、手入れが余り行き届かない我が家の畑で農作物を採り、
程近くに広い敷地にある国際電電公社(現・KDDI)の数多くの社宅に売りに行ったりした。
このお陰で、何とか人並みにPTAの会費を支払うことができた。

長兄は旧家の跡取りであったので、亡き父の願い、祖父の遺言もあり、国立大学付属の中学校を通学する中、
たとえ没落しても、冠婚葬祭などは中学生の身であっても、
主(あるじ)の役割として、参列したりしていた。
               
このした中で、兄の2人は学校の成績が良く、私は通信簿は『2』と『3』ばかりの劣等生で、
通信簿を学期末に頂くたびに、
お兄さんの2人は優秀だったのに、と担任の女の先生が溜息まじりに言われたりしていた。

そして学校に行くのが苦手な児となった・・。
          

この当時、音楽の授業は、先生がオルガンを弾いて、
生徒の我々全員が『春の小川』、『夕やけこやけ』等を唄っていた。

この当時は学期末の頃に、ひとりの生徒が教室の1番前にある黒板の近くで、
先生のオルガンの伴奏に合わせて、唄うことが定例であった。

私は人前で他愛ないおしゃべりをすることが苦手であったので、
私の順番になると、ドキドキし、出来たら逃げ出したかった。
やがてかぼそい声で何とか唄い、結果として通信簿『2』であった。

私が下校で独りぼっちで歩いて帰る時、或いは独りで家の留守番をしている時は、
ラジオから盛んに流れていた『越後獅子の唄』の歌に魅了されていた。

♪笛にうかれて 逆立ちすれば・・・わたしゃ孤児(みなしご) 街道ぐらし・・、
【『越後獅子の唄』 作詞・西條八十、作曲・万城目正、唄・美空ひばり】
とかぼそい声で唄ったりしていた。

そして唄い終わると、何故かしら悲しくなり、涙を浮かべることが多かった。
                              

やがて私が小学校の高学年になると、母に百円を懇願して、独りで映画館にたびたび通った。
この当時は、電車賃は子どもで往復10円、映画館の入場料は殆ど三本立ちであったが子どもは40円で、
帰路にラーメン屋に寄り35円で、あとの15円は映画館の中にある売店で都こんぶ等を買い求めていた。

こうした中で、映画の『ビルマの竪琴』を観て、『埴生の宿』の歌を知り、
或いは映画の『二等兵物語』を観たりして、『ふるさと』の歌を学び、
これこそ私が待ち望んだ音楽だ、と少年心に感動しなから、深く感銘を受けたりした。

しかし、この名曲の2曲は人前で唄うことはなく、
クラスの仲間からは、私を『三原山』とあだ名を付けていた。

何かと平素は無口の癖、ときたま怒り出し、周囲の多くの同級生が困惑し、
伊豆七島のひとつの大島は、幾10数年ごとに爆発する活火山の由来だった。
          
         
やがて小学6年生の頃になると、突然に人前でおしゃべりをすることが大好きと変貌して、
見知らぬ小父さん、小母さんと私の方から話すようになり、
母、兄妹、そして叔母も驚いていた・・。

これ以来、私はお調子者のひとりとなって、学生時代、社会人のサラリーマンの中、
ときにはトンボのように自由にふるまったり、おだてられると高揚しながら奮闘したりしてきた。


後年、この歌の『越後獅子の唄』は、1951年(昭和26年)に松竹映画『とんぼ返り道中』の主題歌として、
越後獅子の少年を美空ひばりが演じていた、と解かった懐かしい映画のひとつとなった。

何よりも私が身勝手に孤独感を感じ、屈折した幼年期を過ごしたが、
この歌は心を癒(いや)して、慰めてくれた貴重な心の歌となっている。
          

やがて私は年金生活をしている2009年(平成21年)の3月下旬に、
筒井清忠・著の『西條八十』(中公文庫)を読んだりし、
西條八十氏がこの歌の作詞された発想が描かれていて、私は驚きながら、多々教示された・・。

《・・昭和25年の春、西條八十が『山のかなたに』の打ち合わせるのため、
新東宝の撮影所を訪れると、柳谷金語楼・主演の『続・向う三軒両隣り』のセツトがあり、
小憩中で、誰もいない中に一人の女の子がぼんやりと立っていた。

西條八十が元気づけようと、
「君も金語楼劇団に入っているの? 小さいのに感心だね」
と話しかけると、
少女は笑って、
「いやだわ先生、私コロムビアの専属歌手なのよ。先生と同じ会社ですよ」と言った。

これが西條八十と美空ひばりの出逢いだと、森一和は著している。
西條八十は美空ひばりを知らなかったが、美空ひばりは西條八十を知っていたのである。
          

それ以来、西條八十は美空ひばりを興味をもって眺めていたのだが、
天才少女への世間の眼は冷たいものがあり、新聞で「ゲテモノ!と叩かれたりしていた。


こうした中で、西條八十は会社から美空ひばりの正月用の作品を頼まれたのである。
西條八十は戦前に住んでいた柏木あたりに、
正月になると越後獅子が来ていたのであるが、
その子供達が芸をしながら、いつも怖い目つきの親方を恐れいた痛々しい様子を思い出し、
この曲を作ったという。

つまり、『越後獅子』とは当時、社会的に冷たい目で見られ、
大人の歌手の間で肩身の狭い思いをしていた美空ひばり自身のことなのであった。

この歌のテスト盤を聞いた斎藤寅次郎・監督が、
この歌を主題歌とした美空ひばりの主演映画『とんぼ返り道中』を企画、
昭和26年の正月映画として大ヒットした。

浅草六区の直営館では、満員の客をさばくためにフィルムを適宜カットし、上映回数を一回多くしたが、
美空ひばりの出る場面、歌う場面は残したので、客は満足して帰ったという。

しかし、この『越後獅子』が、美空ひばり自身を象徴していたことを
当時の観客の何人が察知していただろうか。・・(略)・・》
注)本書の原文(425・6ページ)より、あえて改行など多くした。
          

このように作詞家としての西條八十氏の『越後獅子の唄』の発想としての秘話、
その後の斎藤寅次郎・監督の英知で『とんぼ返り道中』が上映されたのは、私は無知であった。

私はラジオから聴こえたのを幼年心なりに覚え、
数年過ぎた頃、独りで三流の映画館で観ながら、涙を流したのである。

こうした創作の秘話などを読んだりし、具体的に教示されたのであるが、
こうしたことは本書のような本を読まない限り、
たとえネットの世界が広まり安易に知識が得られる今日でも、不明と思われ、
改めて読書は限りなく奥深く、思索させられる根幹かしら、と確信させられたりした。

尚、余談であるが、《・・美空ひばりの歌った『越後獅子の唄』・・
後の名歌手・島倉千代子は少女の頃、この歌を聞いて歌手になりたいと思ったという・・》
と本書の原文の中(423ページ)に明記されていたで、私は涙があふれながら独り微苦笑したりした。

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『長崎の鐘』の歌、私が生まれて初めて感動させられた歌となり・・。

2015-04-11 15:55:41 | 懐かしき心に秘めた歌
私は東京の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住む年金生活の70歳の身であるが、
ときおりラジオを聴いたり、テレビの歌番組を視聴したりすると、
それぞれの歌の中には、つたない人生航路を歩んできた私でも、懐かしく聴き入ってしまうことがある。

やがて歌を聴きながら、過ぎし年の生活状況とか自分のふるまい、思っていたことなどが、
走馬灯のように浮かび、過ぎし年の自分に逢えた、と独り微苦笑したりすることが多い。

こうした私にとっては、懐かしき歌の数々を発露致したく、ときおり今後に於き、
投稿文で認(したた)めるので、『懐かしき心に秘めた歌』と題して、カテゴリーを新設した。

どなたか発言されたか不明であるが、歌は世につれて・・、と銘言があり、
私も確かに、そうですよね・・、と瞬時に同意したりしたひとりである。
          

第一回は、『長崎の鐘』(作詞・サトウハチロー、作曲・古関祐而、唄・藤山一郎)

私は1944年(昭和19年)秋に農家の三男坊として、生を受けた。
祖父、父が中心となって、小作人だった人たちの手助けを借りて、
程ほど広い田畑、そして小さな川が田んぼの片隅に流れ、湧き水もあり、
竹林、雑木林が母屋の周辺にあった。

そして母屋の宅地のはずれに蔵(くら)、納戸小屋が二つばかりあり、
この当時の北多摩郡神代村(現・調布市の一部)の地域の旧家は、このような情景が、多かった・・。

私は長兄、次兄に続いて生まれた三男であり、
農家の跡取りは長兄であるが、この当時も幼児に病死することもあるが、
万一の場合は次兄がいたので万全となり、今度は女の子と祖父、父などは期待していたらしい。

私の後に生まれた妹の2人を溺愛していた状況を私はなりに感じ取り、
私は何かしら期待されていないように幼年心で感じながら、
いじけた可愛げのない屈折した幼年期を過ごした。

そして幾たびか悪戯(いたずら)をしたりするたびに、
私は父から叱咤され、土蔵に叩き込まれ閉じ込まれたり、
夕食のさなか、妹と同じようなスプーンである匙(さじ)をくれ、と私は言ったりすると、
母屋から放りだされ、私は泣きながら母屋の暗い周囲を廻ったりした。

やがて母が裏木戸を開けてくれて、私は母屋に入れた。
          

この当時の母は、農家の嫁の立場であったので多忙をきわめていた・・。
もとより田畑を手伝い、食事、洗濯、掃除の責務があり、
昨今の共稼ぎの若き夫婦で幼児を育てられる方たちより、遥かに過酷だった。

食事を作る時は竈(かまど)に枝葉、薪(まき)を燃やして、ご飯を炊いていたし、
洗濯も盥(たらい)に井戸水を入れて、洗濯用の石鹸を付けて洗濯板でゴシゴシと洗い清めていた。

掃除は各部屋の埃(ほこり)をはたきで落とした後、部屋専用の箒(ほうき)で畳を掃(は)き清めていた。
そして風呂も井戸水から運び入れて、やがて薪(まき)を燃やして、沸(わ)かしていた。

この当時の主婦の大半は、ガス、洗濯機、掃除機、冷蔵庫、瞬間湯沸かし器などはなく、
労苦の多い時代であった。
そして電話、テレビもない時代であった。

こうした中、1950年(昭和25年)の頃に、生家のラジオから『長崎の鐘』がよく流れてきた・・。

こうした時、私は5歳の幼児であったが、何かしら物悲しく感じたりした。

そして、♪なぐさめ はげまし 長崎の・・、
ここまで聴いていると、いじけた幼児の私でも涙があふれてきた・・。
          

確か翌年の夏だったと思われるが、近くの寺院の境内で、映画が放映された。
この当時は、学校の校庭とかで、スクリーンを張って、ときたま映画が放映されていた。
娯楽の乏しかった時代、ご近所の方達が集まって、このような催しが行われた時代でもあった。

私は母に連れられて、近くの寺院の境内で上映されたのは、
映画の『長崎の鐘』(松竹、昭和25年、監督・大庭秀雄)であった。

この時の私が何よりも嬉しかったのは、兄妹のいる中で、母と2人だけ外出したことは、
私の記憶では初めてことであった・・。

やがて帰路、母の手を握りながら、生家に向かう中、満天の星空が圧倒的に綺麗だった、
このような情景が今でも心の片隅に残っている。

無念ながら映画のストリーは忘れてしまったけれど、こうした母恋きの心情を秘めた思い出も重なり、
私は幾つになっても、亡き藤山一郎さんの歌声を聴くと、私は涙ぐむ時が多い。
          

私は後年になると、作詞はサトウハチロー氏、作曲は古関祐而(こせき・ゆうじ)氏と知るのであったが、
肝心な『長崎の鐘』という原作を書かれた永井隆(ながい・たかし)氏は、恥ずかしながら無知であった。

その後、私は永井隆(ながい・たかし)氏の名を知ったのは、遅ればながら高校二年の時で1962年(昭和37年)であった。
そして、このお方の少しばかりであったが人生経路を初めて知り、涙で曇った。

やがて6年前に長崎を訪れて、初めて長崎の『原爆資料館』、『長崎市 永井隆記念館』に訪れ、
慟哭し、涙があふれた・・。

私は、ときおり今でも永井隆(ながい・たかし)氏の遺(のこ)された『長崎の鐘』、『この子を残して』などを、
読み改めたり、そして稀な言動に圧倒的に感銘させられている・・。

せめて私は平和を祈念する時、原点として『長崎の鐘』の歌を、
ときおり心の中で唄ったり、或いはかぼそい声で唄ったりすることもある・・。
             
     
私は永井隆(ながい・たかし)・著作の『長崎の鐘』は、
随筆の分野に於いて、近代文学史上の突出した優れた作品と評価している。

もとよりこの作品は、1946年(昭和21年)8月には書き上げられていたが、
連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の検閲によりすぐには出版の許可が下りず、
GHQ側から日本軍によるマニラ大虐殺の記録集である『マニラの悲劇』との合本とすることを条件に、
1949年1月に日比谷出版社から出版されたことは、周知の通りである。

そして当時は紙不足の中でも、当時としては空前のベストセラーとなり、
同書をモチーフとした歌謡曲はヒットしたり、或いは松竹により映画化され、版を重ねることになった、
と伝えられている。
          

『長崎の鐘』の歌の作詞は、サトウ・ハチロー氏であるが、
氏は作詞を依頼された当初は辞退された、と私は何かの本で読んだりした。
私は後年になって、サトウ・ハチロー氏の弟さんが広島の原爆の犠牲者となっていた、と学び、
こうした氏の思いから、当初は辞退された、と私は推測したりした。

それにしてもサトウ・ハチロー氏の優れた詩心は、
単に長崎だけではなく、戦災を受けた全ての受難者に対する鎮魂歌である上、
打ちひしがれた人々のために再起を願った格調高い詞であり、
ここ67年近く、数多くの方に感動、そして感銘させている詞である。


年金生活の中で、私は8月9日の朝は、襟を正して、西の空に向かい黙祷してきた。
やがてぼんやりとしながらも、『長崎の鐘』の歌を心の中で唄ったりしている。

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