夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

黒柳徹子・著作の『トットひとり』、宵の明星のような人、と思いを深めて・・。

2015-07-08 13:56:01 | 読書、小説・随筆
私は黒柳徹子さんのことを殆ど無知なひとりである。

確か私が小学3年生になった頃、ラジオから『ヤン坊ニン坊トン坊』が放送され、
父が病死した後、祖父も胃がんで入院していた時であったので、
いじけた可愛げない少年であった・・。

こうした中で、♪ヤン坊ニン坊トン坊・・とテーマ曲が流れると、
何かしら私は励まされるような感じたりしていた。

やがて後年になると、ヤン坊は里見京子さん、ニン坊は横山道代さん、トン坊は黒柳徹子さん、
と知ったりしたが、この当時の私は子供心に里見京子さんの声に、
素敵なお姉さん声、と魅せられたりしていた。

やがて1980年代は音楽番組『ザ・ベストテン』を私はときおり視聴して、
黒柳徹子さんと久米宏さんが司会されて、絶妙なコンビに好感していた。

この後は、ときおり家内が視聴している『徹子の部屋』、
或いは『世界・ふしぎ発見』を私はいずれも3回ぐらい見たことがあった。

このように殆ど黒柳徹子さんに無知な私が、黒柳徹子さん著作の『トットひとり』を知ったのは、
たまたまネットで、新潮社の公式サイト【矢来町ぐるり】を見ている中で、
『徹子だから語れる「見事に生きた人の話』/「トットひとり」』
と見出しされた記事を読み、やがて興味を増したりした。

http://www.gruri.jp/article/2015/06121830/
☆新潮社の公式サイト【矢来町ぐるり】<==『徹子だから語れる「見事に生きた人の話』/「トットひとり」』☆

私はこの本書の紹介文を読んだ後、購読しょうと誘惑されたのは、下記の一節である。

テレビの黎明期の生放送の時代、
《・・実力者『森繁久弥』も刑事役で出たドラマで、棺桶に入った死体役の『左卜全』さんが、
勘違いして先に帰ってしまい、
本番中に(『森繁久弥』が)お棺を開けたら死体がないという事態に絶句した・・》

このようにテレビの黎明期に、テレビ女優一号生と称されている黒柳徹子さんは、
新劇、浅草の芸人、歌い手、或いはテレビ男優、女優など多事多彩の芸達者な人たちを
長年に交遊されてきた、証言者だ、と思えて、生きた時代の流れを学びたく、買い求めた。
          

黒柳徹子さんが長年の芸歴の中で、数多く方にめぐり逢え、交遊を重ねて、
同じ時代を切磋琢磨しながら、同じ時代の空気の匂いを共にしながら、
やがて図(は)らずも数多く方に死去され、黒柳徹子さんは取り残こされひとりになってしまい、
数多く人への感謝と愛惜の「鎮魂曲」である、と感じ深めたりした。

そして各章は映画短編のように珠玉の作品となっている。

或いは黒柳徹子さん自身の幼年期から現在に至る多彩な時代の心情を発露され、
私は黒柳徹子さんは殆ど無知だったが、
黒柳徹子さんの特有な感性の深淵を学び、初めて魅了されたりした・・。
          

私は遅ればせながら高校に入学してまもなく、突然に読書に目覚めて、
この時から小説、随筆、ノンフェクション、月刊雑誌などを買い求めて乱読してきた。

読書に魅せられるのは、創作者より、文字から伝えられる伝達力、創造力が
それぞれ読む時の感受性、知性、想像力により多少の差異があるが、
綴られた文章はもとより、この行間から感じられる圧倒的な魔力から、
高校生の時からとりつかれ、早や55年が過ぎている。

今回、初めて黒柳徹子さんのご著書を読み終わった後、
漠然としながら空を見上げると、太陽、そして月についで明るく見える金星があるが、
夕方に見える「宵の明星」ような人かしら、と感じたりした。

余談であるが、黒柳徹子さんが小学一年生に退学になった理由、
やがてテレビ女優一号生でデビューまもない頃、私用で冬の京都の清水寺を早朝に訪れた時、
祭壇前の仏像の前に敷かれている大きな座布団に座り、多彩な動作・・
私は長らく笑ったりした後、徹子さん、私は降参しますょ、と心の中で呟(つぶ)いたりした。

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この半年、私が読んだ本の中で、圧倒的に感銘させられた三冊の本は・・。

2013-07-13 15:53:10 | 読書、小説・随筆
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の68歳の身であるが、
中小業の民間会社に35年近く勤め2004〈平成16〉年の秋に定年退職後、
日常の大半は、随筆、ノンフィクション、小説、近代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまない映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

このように定年後からの生活を過ごしてきたが、
私が読書に目覚めたのは、遅ればせながら高校生になってからである。
活字から綴られた底しれぬ内容はもとより、そして行間から感じられる深淵に、圧倒的に魅せられた。

そして年金生活の今でも本屋で、単行本、新書本、文庫本のコーナーを見たりして数冊買い求めたり、
ときには雑誌コーナーで月刊誌、季刊誌、臨時特別号を眺めた後、魅了された時は購入している。
そして、結果として手ぶらとなった時は、古本屋に行ったりして、読みたい本を探し求めて、
早や50数年過ぎている・・。

こうした中で単行本、新書本、文庫本の書籍に於いては、
定年後からは特に塩野七生、阿川弘之、佐野真一、藤原正彦、嵐山光三郎、曽野綾子、三浦朱門、
高峰秀子、松山善三、中西輝政の各氏の作品を中核に購読している・・。


先程、今年の1月~6月の半年間で、私が読んできた本の中で、圧倒的に感銘させられた本は、
と思い馳せたりした。
あえて3作品を選定すれば、と30分ばかり思考したりした結果は、下記の作品となる。


◎松山善三・著作の『依田勉三の生涯』(ハースト婦人画報社)
               
本書は1979〈昭和54〉年に潮出版社より刊行され、その後の復刻本である。

私は十勝地方を開拓に多大に貢献した晩成社を率いた依田勉三(よだ・べんぞう)氏を、
私が長年敬愛している映画脚本家、作家である松山善三(まつやま・ぜんぞう)氏が、
依田勉三氏に関して、書物に著作され上梓していたことに、私は驚きながら買い求めた一冊である。

たまたま私たち夫婦は、過ぎし1月20日より北海道の帯広市の郊外にある十勝幕別温泉の中のひとつのリゾートホテルに、
5泊6日で滞在し、積雪の中をひたすら歩き、周遊した。

そして十勝地方の帯広の地域の開拓を思い馳せれば、依田勉三氏の功績を抜きにしては語れず、
私なりに旅立つ前に、ネットに掲載されている情報を見たり、
旅の最中で観光案内所で頂いた資料を読んだりし、
そして緑ヶ丘公園にある『百年記念館』を訪れて、多々教示された。

しかし誰しも光と影があるので、果たして依田勉三氏の生涯で、
この十勝地方の未知の開拓の具体的な心の奥底は・・と私は旅の最中は思案したりしたが、
私は氏の立体感が整理できなかった。

本書は依田勉三氏の生涯を心の深淵まで、くまなく表現され、
《故郷を失い、我が子を失い、それでも大自然は人間を許さない。
 想像を絶する過酷の中で、一体、人は何ができるのか・・。(略)》
このような本の帯の解説に明記されている通り、松山善三氏の筆力で依田勉三の本人はもとより、
妻子、同行された友人、知人の人の業を余すところなく表現された力作である。

そして松山善三氏は、長年に及び脚本家の体験もあるので、
特に十勝地方の未開拓の四季折々の情景、何よりもその人なりの心の動きの描写が、
圧倒的に読む人に感動を覚える作品でもある。


◎オリバー・ストーン&ピーター・カズニックの著作『オリバー・ストーンが語る もうひとつのアメリカ史 1~3』(早川書房)の日本訳
   
三冊に及ぶ大作であり、今年の4月が毎月一冊刊行されたアメリカの近現代史である。
これまでのアメリカ史は、ともすれば光の部分、アメリカの功績が強調された書物が多かったが、
本書は影の部分に焦点を当てて、今日のアメリカの混迷の実態の原因を追究する為、
第一次世界大戦の時期から、アメリカを中核とした歴史を動かしてきた主要国の動向を、
怜悧に表現されている。
               
本書が刊行された後、4月初旬から逐次にNHKのBS1に於いて、
世界のドキュメンタリー『オリバー・ストーンが語る もうひとつのアメリカ史』として放送されたが、
本書の方が、圧倒的に当事者の心情を余すところなく深淵まで描写している。

もとより主要国は国益の基で、それぞれの時代に怜悧に言動してきたことが、具現的に明記されている。
まして世界大戦、冷戦時代、各国の戦争など20世紀であったので、
日本では敗戦後に何かとアメリカの影響下にあり、平和ボケの人には苦い薬、
と私は感じたり、多々教示もされた本でもある。


◎トム佐藤・著作『マイクロソフト戦記 ~世界標準の作られ方~』(新潮新書)
               
本書は2009年1月に刊行された新書である。
著作者はイギリス・マイクロソフトに入社した後、マイクロソフト日本法人でウィンドウズのマーケティングを担当し、
マイクロソフトがグローバルスタンダード化の奔流となった頃、1990年9月に退社された方である。

パソコンの草創期、その後の黎明期である1980年代から1990年前後、
OSのMSXの失敗とウィンドウズの成功まで明暗が明確に描写されている。

こうした中でマイクロソフトの創業者のビル・ゲイツの悪戦苦闘、やがてIBMの下で協調、破綻、
やがて世界標準化のグローバルスタンダードまでの苦難、そして労苦の心情が余すところなく表示される。

そして本書は、アメリカ、日本、ヨーロッパ主要国のパソコンの熾烈な歴史書である。


このように私は、この三作品が過ぎし半年に読み、圧倒的に感銘させられた本である。

そして私は本日発売の後藤直義、森川 理・共著『アップル帝国の正体』(文藝春秋)を買い求めて、
               
ただいま読書中でもある。

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中西輝政・著『迫りくる日中冷戦の時代』は、日中間の日本の国益を学ぶ確かな教科書【下】

2012-09-24 18:08:12 | 読書、小説・随筆
本書の中西輝政・著『迫りくる日中冷戦の時代』からは、私は多々教示された。

特に、第3章の『日本「奪取」をはかる中国の対日戦略』の中で、
『日本の世論をいかに操作したか』である。

《・・(略)・・
1960年代の「日中記者交換協定」へとつながっていく。
この協定は1964年に結ばれ、読売新聞、朝日新聞、毎日新聞、産経新聞、日本経済新聞、
西日本新聞、共同通信、NHK、TBSの9つの日本の報道機関が、
北京に記者を常駐させることとなった(産経だけは、のちに中国から追い出される)。

ところが、日本のマスコミには中国側から「政治三原則」が押し付けられて、
各社はそれを吞んでの常駐だった。

1、中国を敵視してはならない。
2、「二つの中国」(中国と台湾のこと)をつくる陰謀に加担しない。
3、中日両国関係が正常化の方向に発展するのを促す。

古森義久氏(産経新聞ワシントン駐在編集特別委員兼論説委員。国際問題評論家。)によると、
この三原則は、いまでも明らかに残っているという。

しかし、民主主義の国のジャーナリズムであれば、
この三原則を守り続けることは、明らかに外国に奉仕することで、
「売国奴」呼ばわりされてもおかしくないことである。
(略)
さらに1968年3月には、中国にとってはあらゆる種類の不利益な報道は原則禁止と通達された。
これではもう報道にならない。
しかし、朝日の特派員だけは北京に居続けた。
これは戦前に日本の軍部に迎合した以上にの、新聞社としての汚点であろう。
しかし、朝日をはじめ、どのメディアもいまだに十分な自己検証を行っていない。

1971年、中国が突如、尖閣諸島の領有を主張しだす。
時はあたかも、『朝日新聞』で本多勝一記者による、
あの「南京大虐殺」を日本に逆輸入した『中国の旅』の連載が始まり、
大人気になっていた時期である。
なぜあれほど日本人は愚かだったのだろう。

その年の12月、日本政府は尖閣付近の海底資源の調査を日本企業にいったん許可しておきながら、
再び禁止した。
翌年の1972年には田中角栄内閣が誕生、日中国交正常化が実現する。
そして1978年には福田赳夫内閣によって日中平和友好条約が結ばれ、
続いて1979年、大平正芳内閣が莫大な対中ODAの供与を始める。
(略)・・》
注)引用元・ページ118~120
  原文にあえて改行を多くした。

このようなことは、間接的に小説家・曽野綾子氏の随筆に於いて、
正視して中国のことを綴れば、何かしら寄稿文はボツになる、
このような意味合いを読んだりしてきたが、遅ればせながらこの『三原則』の実質を学んだりした。

この後の『文化人が対日工作に”貢献”』の章も具体的に明記し、
私が予想した以上に著名な作家、画家、音楽家などが、
「日中友好の使者」として利用されてきた実態が明記されている。


本書は、日中間の政治、外交、軍事はもとより、経済までの多岐に及び明示され、
発生した原因、経過、現状、そして今後予測される事柄を明記されているので、
日中間で、これまでの実態を学び、日本人としての国益を学びたい人の確かな教科書である、と読了後、深めている。

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中西輝政・著『迫りくる日中冷戦の時代』は、日中間の日本の国益を学ぶ確かな教科書【上】

2012-09-24 16:53:42 | 読書、小説・随筆
国際政治学者の中西輝政(なかにし・てるまさ)氏が『迫りくる日中冷戦の時代 』(PHP新書)が、
過日発刊されて、副題は『日本は大義の旗を掲げよ』と題して、
《 日本は中国にいかに対峙してきたか? 
  今後どのように付き合うべきか?
  歴史的考察を踏まえた国際政治学者からの提言。 》
と概要テーマが掲げられている。

そして出版社からの解説文とはて、
《 いま、アジアを舞台に新たな冷戦が始まろうとしている。
  冷戦の次の主役は中国だ。
  アメリカが世界唯一の超大国だった時代は終わりを告げたのである。

  急速な経済成長を遂げ、アジア太平洋への露骨な膨張政策をとる中国をいかに封じ込めるか? 
  2012年7月に露首相が国後島へ再上陸し、八月に韓国大統領が竹島に不法上陸、同月香港の活動家は尖閣諸島に強行上陸した――
  これら一連の出来事の背後にある大きな構図に目を向けよ。

  アメリカはすでに新国防戦略で対中封じ込め政策へと軸足を移している。
  日本が対中戦略でもつ最も有効な武器は何か? 
  「人権・民主化」という大義の旗を明確に掲げることである。
  日米同盟の再活性化に全力で取り組む以外に、もはや日本の選択肢はないだろう。
  大中華圏なるものは、たとえ二十二世紀になっても現出しないのだ――。 》

私は政治・経済も専門知識もなく素人の疎(うと)い身ながら、昨今の日中の国難に憂い、
読売新聞を読んだり、NHKのテレビのニュースを視聴したりしてきた・・。

そして拙(つたな)い私さえ、困惑を重ねてきた。

私はやむなく二年前の2010年9月25日に、このサイト上で、
【 やがて中国はアジアの宗主国と君臨し、日本は属国となり・・。】
と題して投稿して、ささやかな日中の難題に投稿してきたので、
今回、あえて再掲載する。

【・・
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
日本の文化を限りなく愛し、読書をしたり、散策をしたりし、季節のうつろいに心を寄せたりしている。
そして、ときには家内との共通趣味の国内旅行をし、
その地の風土、お住まいの人たちと談笑を重ねたり、美景な情景を享受している。

こうした私でも、日本の政治の混迷、経済の低迷、社会の劣化などを憂い、
無力ながらNHKのニュースを視聴したり、新聞、雑誌を読んだりしている。

このように拙(つたな)い身であるが、過ぎし一昨年の2008年の夏、
中国の首都で、『北京五輪』が開催された時、開会式の実況中継をNHKで視聴し、
心の片隅で戦慄を感じたりした・・。

祭典の初めに紙、墨字による文字と絵、印刷、航海などの絵巻物のような美麗なシーンを観て、
かって中国の明の時代に思いを馳せたのである・・。

この当時の明王朝は、ヨーロッパの主要国より、あらゆる面に遥かに凌駕していた。
紙はもとより、印刷に寄る大量の書物があり、数多くの図書館が存在していた。

そして明王朝の最盛期には、軍事力を背景とした経済力で、
周辺各国の異民族の宗教、文化、習慣を束ね、圧倒的な海軍によりアフリカの沖まで航路し、制覇した。
その結果、海上貿易で巨額な収益をもたらし、繁栄をした。

この頃は、世界の主要国の中で、圧倒的な軍事・外交・経済の超大国として、
明王朝は存在していたのである。

やがて清の時代になと、イギリスからアヘン戦争を仕掛けられ、
その後は世界の列国から侵略などによる剥奪され、
中国の長い歴史上からしても屈辱の長い期間となった。


今日の中国は、外交・軍事・経済の背景とした政治が行われ、
超大国への道を国家の理念とし、確実に躍進させ、
今回のスポーツの祭典のひとつ『五輪』としても、大国の威信をかけて、実現させた。

そして世界各国の首脳陣を招き、
鳥の巣と称される9万人が収容される国家体育場で、
国家主席が高らかに開催宣言を発せられると、会場に居る中国の民衆の熱気はもとより、
13億人の民の熱気を私は感じられながら、戦慄を感じたりした。

果たして、五輪後はどのように中国は躍進しながら変貌するのかしら、
そして東アジアの宗主国となるか、やがて中国はアジアの宗主国と君臨となるのか。

或いは異民族問題が多発したり、沿岸都市部と内陸農村部での格差問題などで、共産独裁国は崩壊するか。

このような思いで、政治はもとより軍事、外交などに疎(うと)い身ながら、
ときおり注視したりしてきた。


先ほど、総合ビジネス情報誌として名高いビジネス情報サイトの【ダイヤモンド・オンライン】を見ていたら、
『シリコンバレーで考える 安藤茂彌』の連載記事で、
『第36回 海底に国旗を立てて領有権を主張する中国に日本はこんなに無防備でいいのか』
と題された記事を何気なしに読んだのがあるが、私なりに多々教示された。

無断であるが転載させて頂く。

《・・
   【シリコンバレーで考える】 安藤茂彌 [トランス・パシフィック・ベンチャーズ社CEO、鹿児島大学客員教授
 
     『第36回 海底に国旗を立てて領有権を主張する中国に日本はこんなに無防備でいいのか』2010年9月22日

最近中国は、近隣諸国と領有権紛争が起きている東シナ海において、
乗員3人を乗せた深海潜水調査艇を海底まで沈め、中国の国旗を海底に植え込んだ。
日本の「しんかい」にそっくりな深海潜水艇である。
中国のテレビ局はその様子を撮影したビデオを国家的快挙として大々的に報道した。

ニューヨーク・タイムズが中国日報の報道をスクープし、
同紙の一面に掲載してアメリカでも話題になった。
この事件は多くのアメリカ国民に2007年にロシアが取った行動を想起させた。

ロシアは北極点の海底にロシア国旗を立てて領有権を主張したのである。
だが日本のメディアは、尖閣諸島で同じことが起きる可能性が強いにもかかわらず、
中国のこの事件を一切報道しなかった。

中国はなぜこんなことをするのか。
海底に眠る豊富な地下資源を支配下に置くためである。

一例をあげよう。
電気自動車の電池材料として注目されている希少金属リチウムは、中国国内に豊富に埋蔵されている。
従来はその多くを他国に輸出していたが、
戦略物資と分かるや否や他国への輸出を制限し始めた。
最近日本政府が中国政府に輸出制限の解除を交渉したが、全く応じる様子はなかった。

今回の行動はその「海底版」である。
海底に眠る希少金属をできるだけ多く支配下に置くことで、
地下資源を独占し、輸出制限を通じて他国の生産能力を奪い、自国経済を更に拡大することを目論んでいる。
アメリカ政府はこうした中国の戦略を既に察知し、
希少金属に頼らない代替材料の開発を促す政策を採っている。

今回の国旗植え込み事件は、
現在領有権で争いになっているベトナム沖の海底であると推測される。
中国はベトナム沖の西沙諸島を自国の領土であると主張し、
領海を侵犯したとしてベトナム漁船を数多く拿捕している。

中国はベトナムと個別の交渉に応じることはあっても、
多国間の交渉には応じられないとしている。
ベトナムは個別の交渉であれば、
中国の軍事力と威嚇でねじ伏せられることを恐れているのである。

中国の暴挙に堪りかねたベトナムは、米国とASEAN諸国を抱き込み、
ASEAN会議の議題にして集団で中国に立ち向かう外交を展開している。

中国の領土主張の被害国は、ベトナムに止まらない。
シンガポール、マレーシア、インドネシアとの間でも同様な紛争を起こしているからだ。

去る7月に米国のクリントン国務長官はアセアン会議で
「ASEAN諸国のこの海域での航行の自由を守ることが重要だ」
と発言し、中国代表との間で厳しい論戦を展開した。
ASEAN諸国が狙うのは、米国と連携した「中国包囲網」作りである。

中国の挑発行為は、日本に対しても行われている。
今年4月には中国海軍の艦艇10隻が沖縄本島と宮古島の間の公海を南下し、
中国のヘリが監視中の自衛隊の護衛艦に、異常接近する事態が発生している。

今月に入ってからも尖閣諸島で、海上保安庁の巡視船と中国の漁船が衝突する事件が起きている。

すでに新聞等で報道されている通り、中国は猛烈なスピードで軍事力を増強している。
軍事予算は過去20年間に18倍に膨れ上がり、今では米国に次ぐ第2位の軍事大国になっている。
2009年での軍事予算は米国の6610億ドルに対して、中国は1000億ドルとまだまだ開きがある。
だが、米国が近年軍事予算を削減しているに対し、中国は毎年予算を大幅に増やしており、
その差は縮まりつつある。
因みに、日本は510億ドルで第6位である。

日本と在日米軍の軍事力は、中国、北朝鮮、極東ロシアの兵力と比較すると明らかに見劣りする。
日米の戦力を合わせても桁が一桁少ない。

中国のこうした軍備増強は、1982年に策定された「海軍海洋計画」と呼ばれる国家計画に基づいている。
それによると、2000-2010年に沖縄、台湾、フィリピンを結ぶ「第1列島線」内の制海権を確保し、
2010-2020年には「小笠原諸島、グアム、インドネシアを結ぶ「第2列島線」内の制海権を確保して航空母艦の建造を行う。
そして2020-2040年には
「米海軍による太平洋、インド洋の支配を阻止する」最終ゴールを達成する計画となっている。

中国は今年中に原子力航空母艦の建設にも着手することを明らかにしたが、
これも「海軍海洋計画」に沿って実施されるものである。
数年後にこれが完成すれば極東の米軍兵力にかなり接近した兵力になると考えられる。
日本近海に中国の航空母艦が出没するのも時間の問題になっている。

戦力の比較は、単なる装備の数値比較では計れない状況が起きている。
サイバー戦力が重要になっている。
これは地球を旋回する人工衛星によって、敵の動きを把握しコントロールする能力を指す。
カーナビや携帯に位置情報を送るGPS(全地球測位システム)衛星もそのひとつで、
衛星の大半は米国が押さえている。
米国がその気になれば意図的にGPSを遮断することができるのである。

現在、中国上空を通過するGPS衛星の95%は米国が所有している。
中国は2020年までに世界のGPS衛星の1/3以上を中国版にして、
中国上空から米国の衛星を追い出す計画である。

こうすれば自国の通信網を守れる、米国に覗かれないで自由に軍事行動を取れる。

もうひとつのサイバー戦力は、ウイルスによる敵のコンピュータ網への攻撃である。
米国の軍事機密情報を盗み出すために、
国防総省のコンピュータシステムにサイバー攻撃が仕掛けられたというニュースはよく聞く。
米国内ではこうした攻撃を組織的に行っているのは、中国であると見ている。


では米国は、中国の軍事力増強をどう見ているのだろうか。
米国国防総省は8月16日に「中国の軍事力に関する年次報告書」を発表した。
中国軍が「国産空母の建設に着手し、南シナ海などで広範囲に行動を拡大しているうえに、
外交上の利益を得るために、軍事力を活用する度合いが増えつつある」と指摘している。

米国の軍関係者は、中国は口先では
「古い兵器の改良である」「中国は覇権主義をめざさない」と言っているが、
実際の行動を見るとまったく違う、と指摘する。
その上、軍事交流も拒否している。
中国国防省は今年1月の米国の台湾への武器売却の決定に反発して、
米軍との交流停止を発表した。
その後ゲーツ国防長官が訪中を申し込んだが断られた。
中国側と軍事面での意思疎通は途絶えたままである。


では米国は、日本をどう見ているのだろうか。
こういう微妙な時期に日本政府の行動は不可解であると見ている。
鳩山首相はアジア共同体構想なるものを持ち出して米国から離れようとした。
これがアメリカ政府の不信をかき立てた。
米国大統領は、鳩山首相を相手にしなかったし、面談も拒否し続けた。

鳩山政権から菅政権に変わった。
鳩山氏より数段マシであるし、小沢氏より良い選択であると認識しているようだ。

小沢氏のように対等な日米関係を表立って口にしないし、国連主義も主張しない。
だが、菅氏の国防戦略の具体的なものは何も聞こえてこない。
まずは普天間問題をどう解決するのか見てから菅首相の評価を決めたいというのが本音ではないだろうか。

米国側は日米防衛協議の場で、
日本側にRole and Mission(役割と使命)を求めてくるようになったという。
これは「自国の領土を自分で守る覚悟を示せ」と日本側に求めていることだという。

米国にしてみれば、中国の脅威が高まる中で、
前首相は現状認識を誤り、あらぬ方角に走り出すし、普天間の移設問題もいまだに解決できていない。

米国政府にしてみれば今こそ日米同盟を強化して、
共同して中国の脅威に立ち向かうべきと考えているのに、
日本政府の方向性の定まらない動きに苛立ちを感じている。

一方で、米国内ではG2(Great2)という考え方が台頭しつつある。
Great2とは超大国である米国と中国の二カ国を指す。
日本を同盟国と当てにしていては極東戦略が何も進展しないので、
重要事項は日本には関係なくGreat2で決めればよい、とする考え方である。
この考え方は日本をバイパスするジャパン・パッシングである。


中国の脅威は軍事面、領土面のみならず資金面でも感じられるようになっている。
バングラデシュ、スリランカ、パキスタン、ミャンマーといった国々に対して、
中国は港湾建設、道路建設、通信網建設といったインフラ・プロジェクトに多額の海外援助を行っている。
もちろん、そうしたプロジェクトでは中国の業者が特注して工事を請け負うことになるが。

こうした海外援助も見方を変えれば、軍事的な意図を含んでいる。
こうした地域に張り巡らせた港湾や道路や通信網を中国側が制御すれば、中国軍の軍事行動がとり易くなる。
またその国と経済摩擦や利害衝突が起きた場合には、中国が軍事力を背景に交渉を有利に進められる。
いままで中国のこうした投資を歓迎してきた諸国も、最近では警戒心を強めるようになってきた。


日本では、中国の資金面での脅威はどこにあるのだろうか。
最近の顕著な動きは、中国が膨大な対米黒字から得たドル資金を米国国債の購入ではなく、
日本国債を買うようになったのである。
確かに米国財務省の資料を見ると、中国はこの半年間に米国国債の保有高を1割ほど減らしている。

日本国債の93%は日本の金融機関が保有しているが、
残る7%の中で中国政府が最大の債権者になった模様である。
日本政府は中国政府の購入を歓迎しているようであるが、国債管理はより難しくなったと見るべきだろう。

中国がもし日本国債を大量に売却すれば、
金利は高騰し、日本の財政収支は一気に悪化する。
中国側がこの手段を意図的に使うと大きな攪乱要因になる。

中国政府の動かせるドル資金の規模が極めて大きいだけに、
為替市場への影響も無視できない。
最近の80円台なかばへの円高は、中国による国債の大量購入がひとつの原因と考えられる。
このことは何を意味するのか。
中国政府は日本国債の大量購入により円高を作り出し、
日本の輸出にブレーキをかけることができるようになったということである。


中国は今後、軍事面、領土面、資金面で、
日本を含むアジア諸国に更に強い影響力を及ぼすであろう。
中国が日本にとって最大の貿易国であるにもかかわらず、軍事面、領土面での中国は違う顔を覗かせる。

アメリカにとっても今や最大の貿易相手国は中国である。
だが、アメリカ政府は、中国に対して経済面の親密さと、軍事面の脅威とを峻別して考えている。

日本ではこの峻別ができていない。
中国を情緒的に捉えている。
今回の民主党の代表選挙でも、国防が全く論点にならなかったのは、
こうしたところに原因があるのではないだろうか。

日本国民が、国防の観点から大きな決断をしなければならない時は、刻々と近づいてきている。
米国と同盟強化を図るのか?
それとも、曖昧なままズルズルと中国の強硬な外交圧力に屈していくのか?
日本人はこの数10年、明確な国家戦略を持ったことがない。

だが、もしこの決断ができなければ、
日本は「自国を取り囲む現状の認識が甘い上に、自国の運命を自分で決められない国民である」
というレッテルを諸外国から貼られても仕方がない。
それでも本当に良いのだろうか。
・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。


私は今年の5月の時、読売新聞に【意見広告】として、
市民意見広告運動事務局という団体が広告を出され、
《 基地はいらない
      核の傘もいらない
           人間らしく生きたい・・》
日本国憲法の第9条、第25条も掲載されており、
私は読みながら、どうしてこうした平和ボケの多い人たちがいるのかしら、と苦笑したのである。


私は若き日には映画・文学青年の真似事をした後、あるレコード会社に35年ばかり勤めて定年退職となり、
こよなく文化を愛するひとりであるので、政治・外交・軍事・経済などは恥ずかしながら疎(うと)い身である。

しかし、国際主要国はもとより怜悧な国益に基づいて、
外交、軍事、経済力などを背景とした政治が行われている現状ぐらいは少し判っているつもりである。

かの世界第二次大戦の敗戦後、何とか日本が戦争に巻き込まれなかったのは、
『第9条』とは関係がなく、長らくアメリカとソ連との巨大国に寄る冷戦であり、
互いの核の強化で均衡のような形で続き、お互いに恐怖を抱き、牽制しあったからである。
そして日本はアメリカの軍事力に守られ、隣国の大国である中国、ソ連に脅かさせられることもなく、
幸運にも経済だけに専念できて、経済大国となってきたのが怜悧な実情と思ったりしている。


ここ10年、中国の大躍進を私なりに思考すると、かって中国の明の時代に思いを馳せたりする・・。

1400年代の明の永楽帝の時代に於いては、盛んに勢力を広げ、
隣国の元朝の余党を遠征により制圧したり、満洲では女真族を服属させ、
南方ではベトナムを陳朝の内乱に乗じて征服した。

そして海外の東南アジア、インド洋にまで威信を広げるべく鄭和に率いられた大艦隊を派遣し、
一部はメッカ、アフリカ東海岸まで達する大遠征の結果、多数の国々に明との朝貢関係を結ばせた。

この頃の明王朝は、ヨーロッパの諸国より遥かに凌駕し、
世界の諸国の中で、圧倒的な軍事・外交・経済の超大国として、
そして陸路はもとより、海上貿易で巨額な収益をもたらしていたのである。

やがて清の時代になると、イギリスからアヘン戦争を仕掛けられ、
その後は世界の列国から侵略などによる剥奪され、中国の長い歴史上からしても屈辱の長い期間となった。

今日の中国は、軍事・経済の超大国への道を国家の理念と思われ、
日本が幼児のように指をくわえていれば、太平洋さえもアメリカと分け合いながら躍進すると思われる。

私は平和は何よりも大切と思っているが、
この前提としては自国を守れる防衛能力が必要なのである。
単なる念仏のように『戦争は嫌いだ・・平和こそが・・』と唱えても、過去の歴史が証明するように、
隣国から侵されれば、お終いとなる。
そして、憲法など戦勝国に簡単に変えられる。

このように私は軍事力は必要悪と思い、『平和を維持するために、防衛能力が・・』と、
確固たる自国を守れる軍事力が必要と確信している。

この上、何よりも軍事力も険悪し、平和こそがと唱える人たちは、隣国の大国を限りなく喜ばせ、
中国を宗主国としてあがめ、属国人として生き延びるのかしら、と妄想をする。
或いは江戸時代のように一部だけ海外と交易し、あとは国内だけで清き貧しく共に生活を送るのかしら、
と思ったりしてしまうのである。

現世の国際の主要国はもとより怜悧な国益に基づき、
他国と競合したり、やむえず協調する時代であり、
アメリカの少年・少女たちにも判ることなのに、日本の一部に平和ボケの人がいるのに唖然としている。

このように私は日頃思ってきたので、
今回の安藤茂彌氏の寄稿文の『シリコンバレーで考える』の連載記事で、
『第36回 海底に国旗を立てて領有権を主張する中国に日本はこんなに無防備でいいのか』
精読したのである。

私はこのままの日本の政治の混迷を続けれならば、
中国はしたたかな国家戦略に基づいて、数年のうちに沖縄、台湾、フィリピンを結ぶ「第1列島線」内の制海権を確保し、
アメリカが少しでも弱体化すれば、あと10年ぐらいで、
「小笠原諸島、グアム、インドネシアを結ぶ「第2列島線」内の制海権を確保し、
太平洋をアメリカと分かち合い、
中国は東アジアの宗主国と君臨し、日本は属国のように低下する。

この後、中国は更に躍進し、アジアの宗主国と君臨し、もとより日本は属国なる、
と妄想を重ねたりしている。
・・】

このような思いを無力の拙(つたな)い私は、国民のひとりとして二年前の頃から思案したりしてきた・・。
                                 
                                 《つづく》
                                                             
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『シルバー川柳』、遅ればせながら初めて知り、高齢者の私は読んでみたい本のひとつとなり・・。

2012-09-23 11:34:01 | 読書、小説・随筆
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
一昨日の朝、購読している読売新聞を読んでいたら、一面の最下段にある各出版会社の広告が掲載されていて、
この中のひとつに思わず読んでしまった。
《 シルバー川柳
   社団法人全国有料老人ホーム協会、ポプラ社編集部編 》
と題されて、3句が掲載されていた。

この中の《 誕生日 ローソク吹いて 立ちくらみ 》に微苦笑させられ、
《 恋かなと 思っていたら 不整脈 》この句に瞬時に圧倒的に魅せられて、
私は読んでみたく購入しょう、と決意したりした。

昨日、家内と駅の近く寺院のお墓参りをした後、
駅ビルの中の本屋を訪れて、この『シルバー川柳』(ポプラ社・編集)を探したが、
残念ながら店内在庫はなく落胆した後、やむなく店員さんに取り寄せ依頼をしたりした。


私は無念ながら短歌や俳句を詠む素養はなく、
日本人の古来から愛された『短歌』、『俳句』、『川柳』など人さまが詠めれた句を、
ときおり読むのが好きである。

短歌は、もとより五・七・五・七・七の三十一〔みそひと〕文字の世界であり、
万葉の時代から日本の人々に愛されてきた叙情詩であり、
この内容も恋の歌・日常生活の描写・社会問題・子供の成長・物語や幻想まで、
どんなテーマでも自在である、と受け継がれている。

俳句は、五・七・五の三句十七音から成る定型詩であり、
「季語」さえ含めば、内容も自在であり、江戸時代から多くの方に愛されてきている。

そして川柳は、五・七・五の十七音の定型で、
ユーモアに富んだ言葉使い、或いは世の中を風刺した作風で、
江戸時代に発生し、明治時代の頃から、多くの方たち慕われてきた。


私は民間会社を35年近く勤め2004〈平成16〉年の秋に定年退職した身であるが、
現役のサラリーマン時代の50代の頃から、
『サラ川』と称せられている第一生命が主催されている『サラリーマン川柳』を愛読してきた。

この間、幾たびかリストラ烈風の中、最後の5年は出向となったりし、
中小業の音楽業界のあるレコード会社に勤めていたので、
それなりに時代にも翻弄され波乱万丈があり、苦楽の激しいサラリーマンの時代でもあった。

このようなつたない私の半生であり、
何かと『サラリーマン川柳』が好きで、読みながら励まされたり、人生の哀歓を感じたりし、
『サラ川 傑作選』の本を4冊を所有している。

そして私は『サラ川』は、この人生の日常生活の優れた哲学書のひとつと思い、
限りなく人生の哀歓と確信し、ときには本を開いたりしている。

或いは定年退職時の一年前頃に、『遺言川柳』(編集・UFJ信託銀行、発行・幻冬舎)を購読し、
人それぞれ晩生期の思いに、多々教示されながら微苦笑したりしていた。


このような思いを秘めている私は、今回遅ればせながら、
社団法人全国有料老人ホーム協会が、毎年『敬老の日』に向け公募していることを知り、
今年で第12回を迎えられた、と学んだりした。

こうした数多くの公募作品の中から、傑作川柳の88本の句が、今回の本として上梓されたと知り、
確かにシルバーの諸兄諸姉は、確かに身体は衰えても心は元気溌剌と思い、
私も高齢者の身であるので、ぜひ読んで見たくなったのである。

尚、余談ながらここ数年、『ツイッター』が世界の多くに愛用されているが、
何かしら『つぶやく』ことの多い伝波の最新機器と私は思ったりしている。
私は無念ながら使うことが出来ない身であるが、
日本に於いては、これこそが日本人の古来から愛された『短歌』、『俳句』、『川柳』などに最適だ、
と確信を深めているひとりである。

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つたない私、これまで愛読してきた『雑誌』を思い馳せれば・・。

2012-09-09 14:35:45 | 読書、小説・随筆
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
日常の大半は、随筆、ノンフィクション、小説、近代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

このように定年後からの生活を過ごしてきたが、
私が読書に目覚めたのは、恥ずかしながら高校生になってからである。
活字から綴られた底しれぬ内容はもとより、そして行間から感じられる深淵に、圧倒的に魅せられた。

そして年金生活の今でも本屋で、単行本、新書本、文庫本のコーナーを見たりして数冊買い求めたり、
ときには雑誌コーナーで月刊誌、季刊誌、臨時特別号を眺めた後、
魅了された時は購入している。
そして、結果として手ぶらとなった時は、古本屋に行ったりして、読みたい本を探し求めて、
早や50数年過ぎている・・。

昨今は、私もネットから多々読むこともあり、活字中毒の私は一辺倒もままならなくなり、
苦笑する時もある。

先ほど、私がこれまで熱愛した雑誌のことを、ぼんやりと思い馳せたりした。

私の高校時代は、人並みに文学の小説、随筆の文庫本、単行本を買い求めたりしていたが、
授業の時事に魅了され、週刊誌の『朝日ジャーナル』を買い求め、
海の彼方のケネディなどの政治家に心酔したりした。

大学に入学する前後から、映画専門雑誌の『キネマ旬報』に熱中し、
小学4年生の頃から独りでたびたび映画館に通ったりしてきた体験も加わり、
これが原因で大学を中退し、シナリオライターをめざして養成所に入所し、
アルバイトなどをしながら、映画青年の真似事の期間を過ごしたりしていた。

その後、講師の知人の新劇の長老からアドバイスを頂き、小説の習作に移り、
契約社員の警備員などをし生活費の確保と空き時間を活用して、文学青年のような真似事をして、
純文学の月刊誌『文學界』、『新潮』、『群像』、
中間小説の月刊誌『オール読物』、『小説新潮』、『小説現代』を精読したり、
総合月刊雑誌の『文藝春秋』を不定期に購読していた。

この間、純文学の新人賞に応募したが、最終候補の6編の直前で3回ばかり落選し、
あえなく敗退し、挫折した。

やむなく民間会社に中途入社をする為に、
技術を習得しょうとコンピュータの専門学校に一年ばかり学んだ後、
この当時は映像・音響メーカーの大企業だった会社に、何とか中途入社をしたのは、
25歳の時であり、遅ればせながら、社会人のひとりとなった。

この時から社会人としての常識が欠けていたので、
総合月刊雑誌の『世界』、『中央公論』、『文藝春秋』を毎月読んで、
まもなく転籍させられた会社が新設されたレコード会社であり、音楽に何の素養のない私であったので、
音楽専門月刊誌の『レコード芸術』を必死に読んだりしていた。

この頃は私は独身青年であったので、娯楽週刊誌の『平凡パンチ』まで読んでいたので、
『世界』から『平凡パンチ』まで雑誌を読んでいるのは、
日本広しといえども私ぐらい、と自惚(うぬぼ)れしてもいた時期であった。

50代の初めの頃に、教養娯楽雑誌の『サライ』を知り、
その後、パソコン初心者向けの『暮らしとパソコン』、ビジネス週刊誌の『日経ビジネス』、
個人生活を刺激する流行雑誌の『日経トレンディ』、音楽専門の週刊誌の『オリコン』なども買い求めたりしていた。

そして定年退職の4年前頃は、
大人の生き方誌と称された『ほんとうの時代』を精読し、私の退職後の生活を明確に思考していた。

定年退職後まもなくして、めぐり逢えたのは季刊誌の『文藝春秋SPECIAL』であり、
私の心身の波長に合うのである。

ここ数年の状況は、定期に購読しているのは月刊誌の『文藝春秋』であり、
25歳からの総合雑誌として持続しているので、毎月逢える私の心の友としている。
そして季節をめぐる毎には『文藝春秋SPECIAL』を秘かな恋人のように愛読している。

こうした中で、本屋の書棚で『中央公論』、『新潮45』、『サライ』など特集に魅せられた場合は、
買い求めたりしている。

書籍に於いては、定年後からは塩野七生、阿川弘之、佐野真一、藤原正彦、嵐山光三郎、曽野綾子、高峰秀子、
三浦朱門、中西輝政の各氏の作品を中核に、単行本、新書本、文庫本を購読しているので、
若き50歳以下の作家の小説は殆ど読まないので、どうしたのかしら、と苦笑する時もある。

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黒田恭一・著作の『音楽への礼状』、待ち焦がれた本を読みはじめて・・。

2012-09-06 17:05:26 | 読書、小説・随筆
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
今朝、いつものように購読している読売新聞を読み、ある出版社の広告を見て、
この中の一冊の本の紹介に、思わず微笑んだりした。

《 音楽家への礼状形式で綴った音楽評論の傑作。
     黒田恭一 音楽への礼状 》

このように明記されていたので、読みたかった本のひとつで、
私は午前中のひととき、急遽、本日の最優先事項として、片道20分ばかり歩き、
駅前の本屋に行き、買い求めたりした。
http://www.shogakukan.co.jp/books/detail/_isbn_9784094087529
☆【小学館ホームページ】<==『文庫』<==《 音楽への礼状著/黒田恭一》☆

私が音楽評論家の黒田恭一(くろだ・きょういち)氏の寄稿文に圧倒的に魅せられたのは、
遅ればせながら教養雑誌のひとつの『サライ』(小学館)を50代の頃から購読して、
この中の定期記事として、『サライCDレビュー 聴く』と題された音楽記事が2ベージで掲載され、
この執筆者が黒田恭一氏であった・・。

クラシック音楽を中核に、ポピュラー、ジャズなどの分野に及び曲の紹介をされていたのであるが、
何よりも、黒田恭一氏の紹介された曲の思いに、深く魅せられたのである。

たとえば、本箱の片隅から、『サライ』の一冊を取りだし、
たまたま『ミッシャー・マイスキー/ヴォカリーズ~ロシアン・ロマンス』を紹介されいる文を引用すれば、
《・・
寒い季節にきく寒い国の音楽はききての心の深いところで呼応する。
木枯らしに吹かれ、肩をすぼめて帰ってきてからきく音楽は、
間違っても、晴れやかにうたわれるナポリ民謡ではない。
暑い夏、ロシア民謡に食指が動くことはない。
音楽は季節で選ばれ、季節が音楽を選ぶ。

チェロ奏者のミッシャ・マイスキーがパーヴェル・ギリロフのピアノに伴われて、
ひたひたとうたっていくのは、いずれも、
ききてを切ない気持ちにさせずにおかないロシアの歌である。
このアルバム『ヴォカリーズ~ロシアン・ロマンス』にじっと耳をすましていると、
こういう寂しげにうつむいた表情の、湿った抒情に彩られた音楽をきくのは、
やはり、この季節だなと思う。
季節に合致した音楽をきいていると、その音楽の好ましさが一層きわだって感じられる。
(略)
・・》
引用元・『サライ』2005年24号(2005/12/15)
尚、原文よりあえて改行を多くした。

私は東京オリンピックが開催された1964〈昭和39〉年に大学を中退して、
映画・文學青年の真似事をしたりしたが、あえなく敗退した。
そして、やむなくサラリーマンに転身し、何とか大企業に中途入社する為に、
コンピュータの専門学校に一年ばかりソフトコースの学科を専攻して学び、
この後、知人のご尽力もあり、この当時としては、ある大手の音響・映像メーカーの会社に、
中途入社できたのは1970〈昭和45〉年の春であった。

そして、この頃の私の根底には、ハード製品のテレビ、ステレオ、ラジオなどの事業本部より、
ソフト商品の方が波長に合う、同じ働くなら音楽事業本部の方が何かと創作などにも刺激があると思い、
無理難題を申しあげて、配属された。

私は音楽事業本部の仮正社員となり、ともかく現場を学べと指示されて、工場にある商品部に配属となった。
この当時の音楽事業本部は、レコード市場に於いて、圧倒的な首位の座のメーカーであった。

私は入社早々、商品部の商品センター働き始めた時、
この当時にヒットを重ねている歌い手、曲名も知らず、
君は何も知らないんだねぇ、と職場の方は私の音楽に無知にあきれていた。
私は程ほどに文学、映画には詳しいと秘かに自負していたが、音楽は映画音楽分野ぐらいしか解らず、
多くの音楽の分野は殆ど無知であった。

やむなく私は退社後、自宅の近くのスナックでジュース・ボックスで、
この当時、流行っている流行歌、ポピュラーなどの曲を学んだり、
そして音楽月刊誌のクラシック専門誌の『レコード芸術』を購読した。

数ヶ月した頃、この中のひとつのレーベルがレコード会社と新設され、
私も新たな外資系のレコード会社に転籍の辞令を受けて、
もとよりレコード会社の各社は中小業であり、苦楽の大波、小波をまともに受けたした。

こうした中で、私は管理畑で奮戦する中で、給与を頂くたびに、
レコードのアルバムを少なくとも自社は1枚、他社は2枚程度を買い求めたりし、やがてCD、DVDに変貌したが、
クラシックに関しては、『レコード芸術』を購読して、数多くの曲を学んだりした。

そして選評されるクラシック音楽評論家の寄稿文は、作曲家の解説、演奏家の批評が圧倒的に多く、
私としては、恥ずかしながら音楽の基本も無知で、楽譜も読めなく、楽器も触れない身で、
つたない感性を頼りに聴いたりしていたが、何かしら寄稿文に関し、もの足りなかったのである・・。

こうして25年過ぎた頃、『サライ』(小学館)を購読していると、
『サライCDレビュー 聴く』と題された黒田恭一氏の寄稿文を読んで、
瞬時に魅了され、この後、氏の愛読者のひとりとなった。

ここ5年ぐらいは、映画、音楽の関心が薄れ、
随筆、小説、近代史などの読書を深めている私は、
過ぎし2009〈平成21〉年の5月、黒田恭一氏の病死を新聞で知った。

そして氏の遺(のこ)された本を読みたいなぁ、と私は思いながら今日に至った。

本書は、1990〈平成2〉年1月にマガジンハウスより刊行された同名の単行本を、
一部加筆・改訂して文庫化した、と明記されている。

私は待ち焦がれた黒田恭一氏の『音楽への礼状』、
氏の曲に対して特有な文學的な表現で発露される思いに圧倒的に魅せられながら、読みはじめている。


留意)私は黒田恭一氏に関して、お逢いしたこともない単なる愛読者のひとりで、
   出版社の小学館に関しても、もとより親戚、知人に一切無縁であることを付記する。

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活字中毒の私、年金生活の今でも、相変わらず本屋、古本屋で買い求めたりし・・。

2012-07-25 14:40:16 | 読書、小説・随筆
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳となった身であるが、
中小業の民間会社に35年近く勤め2004〈平成16〉年の秋に定年退職後、
何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった半生だったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたく、その直後から年金生活をしている。

日常は定年後から自主的に平素の買物担当となり、
毎日のようにスーパー、専門店に行ったりし、ときおり本屋に寄ったりしている。
その後は、自宅の周辺にある遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受している。

ときおり、庭の手入れをしたり、友人と居酒屋など逢ったり、
家内との共通趣味の国内旅行をしたりしている。

そして年金生活は、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
たまたま定年後にブログの世界を知り、日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。

このような年金生活をしているが、日常の大半は、
随筆、ノンフィクション、小説、現代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。


私は若き20代の前半に映画・文学青年の真似事をした為か、
退職した直後には、小説、随筆、歴史書、現代史など本は5000冊前後、
映画作品としてビデオ・DVDが1000本前後あったりした。

しかしその後の昨年の2011年の3月11日の東日本大震災後、
老後のことも配慮して、やむなく自宅の本棚、押し入れを整理し、大幅に処分をし、
石川達三、丹羽文雄、三島由紀夫、安部公房、大江健三郎、福永武彦などの小説、随筆に、
さよならを告げ、2000冊ぐらい処分し、3000冊前後が愛着を秘めて保存している。

そして現役時代に音楽業界のあるレコード会社に35年近く勤め、
製作畑ではなく、管理畑の片隅に勤めていたが、
少しづつ買い求めた結果として、レコード、カセット、CD、DVDの総数として
3000枚前後となった。


私は小学4年生の頃から、独りで映画館に通ったりした映画少年であったが、
高校の時に遅ればせながら読書の魅力に取りつかれたりした。

創作者より、文字から伝えられる伝達力、創造力が
それぞれ読む時、感受性、知性、想像力により多少の差異があるが、
心の深淵まで綴られた文章はもとより、この行間から感じられる圧倒的な魔力に引きづり込まれた。

定年後の年金生活を始めて、予期せぬ出来事があった。
あれほど熱愛してきた映画の作品のDVD、そして音楽の作品のCD、DVDは、
私の感性が衰えてきたのか、或いは作品自体が劣化した為か解らないが、
映画作品は3作品、音楽のアルバムは6作品ぐらい買い求めてきた程度である。

やむなく居間にある映画棚から、映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴く程度となった。

しかし本だけは相変わらず本屋に寄ったりして、単行本、新書本、文庫本などを買い求めたりし、
魅了された本に出逢えなかった時、ときおり古本屋まで行ったりしている。


私は世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅みに住んでいるが、
小田急線であったならば、自宅から数分のバス停から『成城学園前』駅の駅前まで、
長年、通学・通勤に利用してきたので、定年後の今でも都心に買物、旅行に行く時は利用し、
帰路に本屋に寄ったりしている。
或いは散策、スーパーに買物に行く時は、『喜多見』駅、『狛江』駅まで歩いたりし、
本屋、古本屋に寄ったりしてしまう。

京王線の場合は、『仙川』駅、『つつじが丘』駅などの場合も、
やはり散策を兼ねたり、スーパーに買物に行った時は、殆ど本屋に寄ったりしている。

定年後は、特に愛読しているのは塩野七生、佐野真一、藤原正彦、嵐山光三郎、曽野綾子、阿川弘之、三浦朱門、
高峰秀子などの作品に深く魅了され、この著作された人たちを主軸に購読し、
多々教示されたり、或いは、そうですよねぇ、と心の中で呟(つぶや)いたりしている。

或いはここ10数年、世界の主要国は、
『デフレスパイラル』のもとで進められた国家によるサービスの縮小、
そして大幅な規制緩和による市場経済重視する新自由主義と命名された『ネオリベ(ネオリベラリズム)改革』により、
混迷している時代になっている。

こうした中で、日本は政治は混迷、経済は低迷、そして社会は劣化するばかりで、
私は専門知識にも疎(うと)く、齢ばかり重ねた無力な身ながら、憂いたりした。

やむなく書庫の本棚に行き、高坂正堯の著作の『文明が衰亡するとき』(新潮選書, 1981年)、
中西輝政の著作の『なぜ国家は衰亡するのか』(PHP新書、1998年)を再読したりしてきた。
そして私は恥ずかしながら専門知識もなく、こうした確かな賢人より、
国家の歴史認識はもとより、命運、興亡など多々学び、つたないなりに思索させられるのである。


このような読書好きな私が、何よりも困窮するのは、
旅行先で持参した数冊の本を読み終えてしまった時である。
過ぎし2008〈平成20〉年の2月に、私たち夫婦は独り住まいの家内の母を誘い、
箱根・姥子温泉の観光ホテルに7泊8日で滞在した時である。

日中は家内たちの婦人の名所の観たい所と違い、
私は姥子温泉の付近の芦ノ湖周辺を散策したりし、夕方から深夜まで読書をしたりしていたが、
周辺には本屋がなく、コンビニは雑誌しかなく困惑したのである。

私は活字中毒のひとりなので、薬が切れた、と家内に溢(こぼ)したりしていた。
そして帰路の箱根湯本の駅の近くの本屋で寄り、
佐野眞一・著の『阿片王 満州の夜と霧』(新潮社)を買い求め、
活字文化に飢(う)えた私の心を充たしたりした。


或いは読書を何よりの友とされた経団連の会長まで栄達された平岩外四さんは、
お亡くなるまで、本を読まれていた、
と風の噂で聞いたりすると、もとより経団連などに縁遠かった私でも、
思わず平岩外四さんに好感させられてしまう不思議な作用がある。

もとより読書は貧富の差にかかわらず、この世の知力の求愛と確信しているので、
活字に親しむ方に何かと親近感を覚えてしまう。

このような私なので、心の友と信愛を深めながら、この世に別れを告げるまで、
本を読んでいたと思ったりしている。

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瀬戸内寂聴さんの御著作から、教示された人生の格言のひとつには・・。

2012-07-10 06:30:37 | 読書、小説・随筆
私は遅ればせながら読書に目覚めたのは、高校に入学してまもない時期であり、
1960〈昭和35〉年の春であった。

創作者より、文字から伝えられる伝達力、創造力が
それぞれ読む時、感受性、知性、想像力により多少の差異があるが、
綴られた文章はもとより、この行間から感じられる圧倒的な魔力であった。

これ以来、小説、随筆、ノンフィクション、近代史、歴史書など乱読をしているので、
早や50数年過ぎている読書好きのひとりである。

年金生活をしている私は、過ぎし2008〈平成20〉年の初夏の頃、
たまたま石原慎太郎、瀬戸内寂聴の両氏に寄る『人生への恋文~往復随筆~』(文春文庫)を読み、
両氏から人生の哲学のようなことを数多く学んだりした。

この中で、特に瀬戸内寂聴さんの一節が深く心に残り、
温かみのある助言を頂ただけた、と私は今でも心の片隅に残り、感謝している。


私は瀬戸内寂聴さんとは、未知の人であり、
東京オリンピックが開催された1964〈昭和39〉年の頃には、
この当時は瀬戸内晴美さんの名で綴られた初期短編集を読み終えた後、
この後の『夏の終り』の作品は、友人、知人に絶賛したひとりである。

その後、1970〈昭和45)年に大手の民間会社に中途入社する時までは、
ある程度このお方の作品を読んでいたが、
その後は私なりに企業戦士の一員となり、このお方の作品から離れていた。

2004〈平成16〉年の秋に定年退職した後、
水上 勉さんとの共著の『文章修業』(岩波書店)で、
両氏の純文学の熱く深い思いを改めて学んだりしたのである。

このように決して愛読者とはいえない立場の私であるが、
『人生への恋文~往復随筆~』を読んでいる一節に深く考えさせられ、
限りない人生の助言を頂けた、と思っている。

無断であるが、この『人生への恋文~往復随筆~』の中からの一節には、
《・・
人間はひとりひとりがこの世に自分ひとりしか持っていない、
かけ替えのない個性と資質に、誇りを持って、世俗の常識に巻きこまれず、
わが道を独りでも行くという気概を失わないことが大切だと、
わたしもかねがね思っていました。

お釈迦さまの教えの中にも
「犀(さい)の角のようにただ独り歩め」
というのがあります。
わたしはの大好きなことばです。
・・》
注)「心に光を」ページ224から引用。原文よりあえて改行を多くした。

私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
この一節の文章から、つたない身ながら、
残された人生の日々に陽光を頂いた、と思ったりしたのである。

そして、私は高校生の初め、読書に熱中し始めた頃、
古文の先生が授業の合間で、どのような本でも必ず学ぶ一行はあり、読書は心の栄養である、
と私たち生徒に明言されたことを思い馳せながら、
確かにそうですよねぇ、と齢を重ねた私は、心の中で呟(つぶや)いたりしている。

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曽野綾子・著作の『自分の財産』、齢ばかり重ねた私でも読み始めて・・。

2012-07-05 13:18:56 | 読書、小説・随筆
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

私は定年退職後、その直後から年金生活をしているが、
私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思ったりしている。

日常は定年後から自主的に平素の買物担当となり、
毎日のようにスーパー、専門店に行ったりし、ときおり本屋に寄ったりしている。
その後は、自宅の周辺にある遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受している。

ときおり、庭の手入れをしたり、友人と居酒屋など逢ったり、
家内との共通趣味の国内旅行をしたりしている。

そして年金生活は、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
たまたま定年後にブログの世界を知り、日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。


このような年金生活をしているが、日常の大半は、
随筆、ノンフィクション、小説、現代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

定年後は、特に愛読しているのは塩野七生、佐野真一、藤原正彦、嵐山光三郎、曽野綾子、阿川弘之、高峰秀子、
各氏の作品に深く魅了され、この著作された人たちを主軸に購読してきている。

たまたま過日、本屋に寄り、単行本のコーナーで何かしら読んで見たい本を探して、
ひとつの本に思わず微笑んだりした。
曽野綾子・著作の『自分の財産』(産経新聞出版)である。

私が初めて作家・曽野綾子さんの作品を読んだのは、
講談社から出版された『われらの文学』と名づけられた文学全集からであった。

この文学全集は、確か1965(昭和40)年の頃から毎月一巻発刊され、全22巻であり、
大江健三郎(おおえ・けんさぶろう、江藤 淳(えとう・じゅん)の両氏による責任編集の基で刊行され、
この当時の老成家した作家を除外した斬新で新鮮なな全集であった。

私はこの以前には、中央公論社から、
確か『日本の文学』と命名された80巻ぐらいであったと思われる文学全集を読んでいたが、
この『われらの文学』は、この当時に最も勢いのある大江健三郎、江藤 淳の両氏による責任編集に寄り、
選定された28名の作家の作品を私なりに精読していた。

そして、この全集の中で、第16巻として『曽野綾子、北 杜夫』が、
1966(昭和41)年5月に発刊されて、
私は初めて曽野綾子さんの『たまゆら』、『遠来の客たち』を含む8作品を初めて精読した。

これ以来、ときおり読んできたが、私はサラリーマンの多忙時期に重なったりし、
ここ5年は見逃してきた曽野綾子さんの作品を購読し、
一か月前に『堕落と文学 ~作家の日常、私の仕事場』(新潮社)を買い求めて精読していたので、
今回の『自分の財産』の本も私にとっては必読書のような感じたりした。

そして、私は午後のひととき、この『自分の財産』を開き始めて、読みはじめたのである。

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垣添忠生・著作の『妻を看取る日』、男性がおひとりさまになる前の確かな教科書、と深めて・・。

2012-07-04 14:20:09 | 読書、小説・随筆

私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

私は民間会社の中小業に35年近く勤めて、2004(平成16)年の秋に定年退職後、
その直後から年金生活をしている。
そして私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思ったりして過ごしてきた。

日常は定年後から自主的に平素の買物担当となり、
毎日のようにスーパー、専門店に行ったりし、ときおり本屋に寄ったりしている。
その後は、自宅の周辺にある遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受している。

ときおり、庭の手入れをしたり、友人と居酒屋など逢ったり、
家内との共通趣味の国内旅行をしたりしている。

日常の大半は、随筆、ノンフィクション、現代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

このような年金生活を過ごしているが、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。


このような生活をしているが、私は60代に五体満足で生かしてくれれば、
70歳以降は余生と思っている・・。
そして痴呆症などあわず、心が明確な時にポックリと死去できれば良い、
と秘かに念願しているが、こればかりは天上の神々の采配に寄るものである。

或いは、平素の私は、煙草を喫う愛煙者のひとりで、スポーツは無縁で、
根がケチな性格なのか、駅前までの路線バスなどは乗らず、ひたすら歩き廻ったり、
遊歩道、公園などを散策するぐらいである。、

そして、お酒大好きだった呑兵衛の私は、一昨年の晩秋に何とか卒業して、
冠婚葬祭、国内旅行以外は週に一度ぐらいは呑むぐらいとなっているが、
このような齢ばかり重ねぐうだらな生活をしている私は、
私としては家内より早くあの世に行く、と確信をしている。

そして家内より先にあの世に行くと思っている私は、
私の葬儀、お墓、そして家内の独りの老後で程ほどに生活できそうな状況のことも、
話し合ったりしている。

こうした思いのある私は、定年直後に公正証書の作成できる処に出向き、
残された家内の生活が困苦しないように、私の遺言書を作成したりした。

しかし、このことも天上の神々の采配に寄るものであり、
家内に先立たれることもあり、私が独りぽっちとなることも、一年に数回ぐらいは、
おひとりさまの生活を思いめぐらすこともある。

ご近所の方の奥様たちから、私たち夫婦の年金生活を見かけると、
仲良し恋し、と好評を頂いている私たちでも、
実際は日常生活の中で、ときおり私が失敗事をしたりすると、
『ボケチンねぇ・・』と家内から微笑みながら私に苦言される時もある。
こうした些細(ささい)なこともあるが、いずれは片割れとなり『おひとりさま』となるのである。


私は家内と日頃から、葬儀、お墓のことも何度も話し合ったりしている。
葬儀は親族関係だけの家族葬とした後、お墓は樹木園に埋葬し、
それぞれ好きな落葉樹の下で土に還る、
そして四十九日が過ぎたら、その時の心情でお墓参りをすればよい、
とお互いに確認し合っている。

私は家内が亡くなった時は、世の中はこのようなこともあるの、
と茫然(ぼうぜん)としながら四十九日を終えて、樹木園に行き、埋葬をすると思われる。

そして私は、家事の全般の料理、掃除、洗濯などは、家内にお願いしていたので、
恥ずかしながら初心者の若葉マークのような身であり、戸惑いながら行うが、
何より長年寝食を共にし、人生の大半の苦楽を分かち合い、
気楽に安心して話す相手がいなくなったことが、何よりも困ると思ったりしている。

こうした時を過ごした後、やむなく小庭のある古惚けた一軒屋を処分し、
都立の大きな公園が隣接した場所で、小さな2DKのマンションに転居すると思われる。
そしてスーパーと本屋に徒歩10分前後で行けた上で、
大学総合病院に公共の交通機関の利便性のある場所を選定するだろう。

この前提として、もとより住まいが狭くなるので、
やむなく本の大半は処分し、1000冊前後に厳選した上、
映画作品のビデオテープ、DVD、そして音楽のCD、DVDは程々に多いがすべて移動する。

こうした独り身の『おひとりさま』になった時の私の日常生活は、
付近の公園で四季折々の情景を眺めながら散策したり、
スーパーでお惣菜コーナーの売り場で買い求めたり、本屋に寄ったりして、
数冊を購入する。

そして週一度は定期便のような居酒屋に行き、
中年の仲居さんと談笑し、からかわれながら、純米酒を二合ばかり呑むだろう。
こうした中でも、私は家内の位牌の代わりに、
定期入れに愛用した革のケースに、家内のスナップを入れて、
いつも持ち歩くと思われる。

こうした日常生活を過ごすと思われるが、
私は国内旅行も好きなので、月に3泊4日前後で、各地を訪れるだろう。

劇作家のチェーホフの遺(のこ)された、
《・・男と交際しない女は次第に色褪せる、女と交際しない男は阿呆になる・・》
と人生の哲学のような名言は、
どうしたらよいの、と私は考えたりするだろう。

やむなく、私は宿泊先の仲居さんで、お酌をして下さる方たちと、
やさしくふるまいながら語りあうと想像される・・。

そして、その夜は枕元に革ケースを置いて、
人生はいつまで続くの・・、と天上の人となった家内に呟(つぶや)きながら、眠るだろう。

このような思いを時折を秘めて、私は年金生活をすごしてきた・・。


私が垣添忠生(かきぞえ・だだお)氏を初めて知ったのは、
確か購読している読売新聞で2008〈平成20〉年の11月に寄稿された『がん経験者 特別視しない社会へ』であり、
その後は総合月刊誌に寄稿された文で、氏の奥様が亡くなわれた状況を学んだ。

氏は医師として精進され、やがて2002〈平成14〉年に国立がんセンターの総長に栄進された方で、
その後に2007〈平成19〉年に退職されて、名誉総長になられたお方と知った。

この間、そして国立がんセンターの総長を2007〈平成19〉年3月に退職され、
その年の年末に名誉総長の身でありながら、末期がんの奥様をせめて年末年始ぐらいは自宅で過ごし、
氏は切実な思いで看病されたが、大晦日の日に亡くなり、
新年にうつろな心情で過ごした心情が綴られていたのに、私は感銘の余り涙を浮かべたりした・・。

その後、私は確か2009〈平成21〉年12月の頃、
本屋で氏の著作の『妻を看取る日』(新潮社)の単行本を見かけたが、
概要内容は知っているつもりであったので、買い求めることはしなかった。

一昨日の7月1日、私たち夫婦は駅前で買い物に行った時、
私は本屋に寄り、文庫本のコーナーでこの作品にめぐり逢えた。

『妻を看取る日』(新潮文庫)と題された副題には、
《国立がんセンター名誉総長の喪失と再生の記録》と明記されていた。

そして何よりも真摯に微苦笑させられたのは、本の帯に、
《 夫に読ませたい本 No.1 
   「自分が先に死ぬ」そう思いこんでいる男たちの
    目を覚ますために 》
と明記していた。

私は遅ればせながら本書を読み、
氏の生い立ち、少年期、学生時代、そして医師の助士の苦闘、
やがて奥様となられるお方の出逢い、その後の結婚生活を初めて知った。

そして2006(平成18)年の春に、奥様のがんが見つかり、
その後、幾たびかの治療を得て、やがて末期がんとなり、2007〈平成19〉年の年末に、
名誉総長の身でありながら、末期がんの奥様をせめて年末年始ぐらいは自宅で過ごし、
氏は切実な思いで看病される状況が克明に綴られている。

そして大晦日の日に亡くなり、その後の喪失の中で失墜感を綴られ、
私は涙を浮かべながら読んだりした。
やがて再生していく状況も克明に綴られ、おひとりさまとなった生活を明記されている。

本書は、男性が愛(いと)しき妻といずれ片割れとなり、
おひとりさまとなる前に、心の準備としての心構え、
その後のおひとりさまの日常生活の確かな人生の晩期の教科書のひとつ、
と私は感銘させられながら確信を深めている。

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年金生活の私、至福のひとときは、本屋で買い求める作品を選定する時・・。

2012-06-24 16:21:42 | 読書、小説・随筆
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

私は定年退職後、その直後から年金生活をしているが、
私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思ったりしている。

日常は定年後から自主的に平素の買物担当となり、
毎日のようにスーパー、専門店に行ったりし、ときおり本屋に寄ったりしている。
その後は、自宅の周辺にある遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受している。

ときおり、庭の手入れをしたり、友人と居酒屋など逢ったり、
家内との共通趣味の国内旅行をしたりしている。

そして年金生活は、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
たまたま定年後にブログの世界を知り、日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。


このような年金生活をしているが、日常の大半は、
随筆、ノンフィクション、小説、現代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

私は若き20代の前半に映画・文学青年の真似事をした為か、
退職した直後には、小説、随筆、歴史書、現代史など本は5000冊前後、
映画作品としてビデオ・DVDが1000本前後あったりした。

そして現役時代に音楽業界のあるレコード会社に35年近く勤め、
製作畑ではなく、管理畑の片隅に勤めていたが、
少しづつ買い求めた結果として、レコード、カセット、CD、DVDの総数として
3000枚前後となった。

昨年の2011年の3月11日の東日本大震災後、
老後のことも配慮して自宅の本棚、押し入れを整理し、大幅に処分をしたりした。
そして2000冊ぐらい処分し、3000冊前後が愛着を秘めて保管している。


私は小学4年生の頃から、独りで映画館に通ったりした映画少年であったが、
高校の時に遅ればせながら読書の魅力に取りつかれたりした。

創作者より、文字から伝えられる伝達力、創造力が
それぞれ読む時、感受性、知性、想像力により多少の差異があるが、
心の深淵まで綴られた文章はもとより、この行間から感じられる圧倒的な魔力に引きづり込まれた。

こうした高校生活を過ごしたりし、映画は相変わらず映画館に通い鑑賞していたが、
脚本家の橋本 忍さんの『切腹』(監督・小林正樹、1962年)を観て、圧倒的に感銘させられ、
やがて大学2年の時に、映画の脚本家になりたくて、中退した。

そして専門の養成所に学び、この養成所から斡旋して下さるアルバイトをしたりして、
映画青年の真似事をし、シナリオの習作をした。

その後、養成所の講師の知人の新劇の長老からアドバイスを頂き、小説に転じ、
文學青年の真似事をして、契約社員などをしながら、小説の習作をしたりした。

純文学の新人賞に投稿していたが、三回ばかり最終候補6作品の寸前で敗退し、
落胆していた時、親戚の叔父さんから、
今は良いが、30歳を過ぎた時、妻子を養って家庭を持てるの、
と私は諭(さと)されて、
確固たる根拠もなく独創性があると自信ばかり強い私は、あえなく挫折した。

そして、やむなくサラリーマンに転職する為に、コンピュータり専門学校で一年ばかり学び、
何とか大手の民間会社に中途入社して、まもなくレコード会社が新設され、
私も移籍の辞令を受けて、35年近く勤め、定年退職を迎えたのは2004(平成16)年の晩秋であった。


定年後の年金生活を始めて、予期せぬ出来事があった。
あれほど熱愛してきた映画の作品のDVD、音楽の作品のCD、DVDは、
私の感性が衰えてきたのか、或いは作品自体が劣化した為か解らないが、
殆ど購入する意欲まで至らくなったりことである。

やむなく居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴く程度となった。

しかし本だけは相変わらず本屋に寄ったりして、単行本、新書本、文庫本などを買い求めたりし、
魅了された本に出逢えなかった時、ときおり古本屋まで行ったりしている。

そして特に塩野七生、佐野真一、藤原正彦、嵐山光三郎、曽野綾子、阿川弘之、高峰秀子、
各氏の作品に深く魅了され、この著作された人たちを主軸に購読してきている。


たまたま昨日の午前中、家内から駅前のスーパー、ドラッグ・ストアーで販売している品の買い物を依頼されて、
最寄駅のひとつの京王線の仙川駅の商店街を目指して、15分ばかり歩いて到着したが、
今朝、新聞に出版会社の本の広告で魅了された本があったので、本屋に寄った。

雑誌の文芸関係のコーナーを見たりした後、単行本のコーナーに行き、
新聞に掲載され魅了させられた高峰秀子・著作の『私のインタヴュー』(新潮社)を探し、見つけた。
http://www.shinchosha.co.jp/book/331613/
☆【新潮社 公式サイト】<== 高峰秀子・著作の『私のインタヴュー ☆

私は若き映画青年の真似事をしていた時、
ときおり寄っていた東宝撮影所の宣伝関係部署で、たまたま高峰秀子さんがおいでなっていて、
宣伝部のひとりから紹介されて、わずかながら言葉を交わした体験があった。

その後、私は50代の頃から、高峰秀子さんがつづられた随筆を読むようになって、
少なくとも20数冊を購読してきたので、やはり《 幻の名著、遂に復刻! 》を読みたかったのである。


そして、この本の近くに貴田 庄・著作の『高峰秀子 ~人として女優として~』(朝日新聞出版)があり、
初めて見る本であったが、購読することに決めた。
http://publications.asahi.com/ecs/detail/?item_id=13924
☆【朝日新聞出版 公式サイト】<== 貴田 庄・著作の『高峰秀子 ~人として女優として~』 ☆

私は映画青年を敗退した身であるが、やはり映画界の女優としての高峰秀子さんの足跡を
改めて思考したく、買い求めた。


この後、単行本のコーナーで何かしら読んで見たい本を探して、
ひとつの本に思わず微笑んだりした。
曽野綾子・著作の『自分の財産』(産経新聞出版)である。

私が初めて作家・曽野綾子さんの作品を読んだのは、
講談社から出版された『われらの文学』と名づけられた文学全集からであった。

この文学全集は、確か1965(昭和40)年の頃から毎月一巻発刊され、全22巻であり、
大江健三郎(おおえ・けんさぶろう、江藤 淳(えとう・じゅん)の両氏による責任編集の基で刊行され、
この当時の老成家した作家を除外した斬新で新鮮なな全集であった。

私はこの以前には、中央公論社から、
確か『日本の文学』と命名された80巻ぐらいであったと思われる文学全集を読んでいたが、
この『われらの文学』は、この当時に最も勢いのある大江健三郎、江藤 淳の両氏による責任編集に寄り、
選定された28名の作家の作品を私なりに精読していた。

そして、この全集の中で、第16巻として『曽野綾子、北 杜夫』が、
1966(昭和41)年5月に発刊されて、
私は初めて曽野綾子さんの『たまゆら』、『遠来の客たち』を含む8作品を初めて精読した。

これ以来、ときおり読んできたが、私はサラリーマンの多忙時期に重なったりし、
ここ5年は見逃してきた曽野綾子さんの作品を購読し、
一か月前に『堕落と文学 ~作家の日常、私の仕事場』(新潮社)を買い求めて精読していたので、
今回の本も私にとっては必読書のような感じたりした。


この後、文庫本のコーナーを見たりしたが、魅了される本はなく、
新書本のコーナーに廻り、読みたい本はないかしら、と探したりした。
そして、『驚きの英国史』と題された本を見つけて、
帯の背文字には《イギリスは何を捨て、何を守ってきたか》に瞬時に魅了され、
本を手に取りば、コリン・ジョンズ・著作、森田浩之・訳『驚きの英国史』(NHK出版新書)と解った。

私は今後の日本を思考する時、特にイギリス、オランダ、スペイン、ポルトガルなどの盛衰史に、
関心があり、読んで見たくて、購入することに決めた。


こうして今回は、たまたま単行本が三冊、新書本が一冊を買い求めて、
心の中は早く読んでみたい、と少年のような高揚した心情であった。
その後、家内からの依頼品を購入し、スキップするように足取りも軽やかに帰宅した。

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川上弘美、小池真理子の対談記事を精読し、随筆の奥深い世界の秘訣を学び・・。

2012-04-30 14:01:55 | 読書、小説・随筆
私は昨夕、日中の小用にかまけて、購読している読売新聞の朝刊を遅ればせながら読んだりした。
そして13面の【文化】の定例週間特集記事の【本よみうり堂】を読んだりしていたが、
この中のひとつの記事に、
《 精選女性随筆集
        選者2人が対談 》
と大きな見出しの下に、作家の川上弘美(かわかみ・ひろみ)、小池真理子(こいけ・まりこ)両氏 の
写真と共に略歴も掲載されていた。

そして川上弘美さんと小池真理子さんが選者を務める『精選女性随筆集』(全12巻、文藝春秋)が刊行されているが、
この選者に、女性作家と随筆について語り合う対談記事、と読みながら解った。

私は遅ればせながら読書に目覚めたのは、高校に入学してまもない時期であり、
1960〈昭和35〉年の春であった。

創作者より、文字から伝えられる伝達力、創造力が
それぞれ読む時、感受性、知性、想像力により多少の差異があるが、
綴られた文章はもとより、この行間から感じられる圧倒的な魔力であった。

これ以来、小説、随筆、ノンフィクション、近代史、歴史書など乱読をしているので、
早や50数年過ぎている読書好きのひとりであるので、
今回、長年に及び第一線で活躍されている作家のおふたりから、随筆の世界を学ぼうと精読したのである。

無断であるが、一部を引用させて頂く(敬称略)

《・・
小池真理子
   ・・(略)・・今、白洲正子を読んでいるですが、
  よく知られている能や骨董品のことより、
  軽井沢の別荘近くでバッタリ会った正宗白鳥が厭世(えんせい)的なことを言っていた、
  とかいう内容の方がすごく面白い。

川上弘美
  やっぱり読んでいて胸を打たれたのは、
  知識的な内容より人との関係や一瞬の出逢いを書いたものでした。

小池真理子
  現代の作家よりも余裕があったんでしょうね。
  人間関係も、人生そのものも。

川上弘美
  誰でも小説は一生に一作は書けるといわれているけれど、
  むしろエッセーこそそうかもと、今回思った。
  小説はからっぽでも書けるけど、
  エッセーはよほど伝えたいことがあるか、
  その人自身が面白いかじゃないと書けない。
  そして文体を持っているか。
  ・・(略)・・
  あと、エッセーには生きていた年月も必要かな。

小池真理子
  どんなにうまく気取って書いてもばれるものね。
  正体が出てしまう。

川上弘美
  逆に正体を出せる人がいいエッセイストなんじゃないかな。

・・(略)・・
・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。


長く引用させて頂いた理由のひとつとしては、私なりに随筆の世界には、
強く関心を秘めているからでもある。

私は2004〈平成16〉年の秋に民間会社を定年退職するまでは、
何かと屈折と劣等感の多い人生を過ごしたのであるが、
この地球に生を受けたひとりとして、私が亡くなる前まで、
何らかのかけらを残したい、と定年前から思索していた。

あたかも満天の星空の中で、片隅に何とか目を凝(こ)らせば見えるぐらいの星のひとつのように、
と思ったりした・・。

私はこれといって、特技はなく、かといって定年後は安楽に過ごせれば良い、
といった楽観にもなれず、いろいろと消却した末、言葉による表現を思案したのである。

文藝の世界は、短歌、俳句、詩、小説、随筆、評論などの分野があるが、
私は無念ながら歌を詠(よ)む素養に乏しく、小説、評論は体力も要するので、
せめて散文形式で随筆を綴れたら、と決意した・・。

私は若き日のひととき、映画・文学青年の真似事をして敗退した時期もあったが、
定年後の感性も体力、何よりの文章の表現力も衰えたので、
ブログ、ブログに準じたサイトに加入し、文章修行とした。

そして多くの方に読んで頂きたく、あらゆるジャンルを綴り、
真摯に綴ったり、ときには面白く、おかしく投稿したりした。
そして苦手な政治、経済、社会の諸問題まで綴ったりしたが、
意識して、最後まで読んで頂きたく、構成なども配慮したりしている。

私の最後の目標は、人生と文章修行の果てに、
たとえば鎌倉前期の歌人のひとり鴨長明(かもの・ちょうめい)が遺され随筆の『方丈記』等があるが、
この方の数多くの遺された中のひとつに準じる随筆を綴れれば、本望と思っている。

そして私の死後の数百年を過ぎた頃、文愛人の一部の方から、
あの時代に短かな随筆をたったひとつ遺(のこ)した人もいた、
と思って頂ただければ幸いという思いがある。

このような思いが、私としては拙(つたな)いなりに秘めたりしているので、
日々に感じたこと、思考したことを心の発露とし、
原則として国内旅行で自宅を留守にしない限り、毎日少なくとも一通は投稿している。

そして、何より肝要なことは、人それぞれ誰しも光と影を持ちあわしているので、
つたない私でも、ささやかな光、そして秘められた影を余すところなく綴るのが命題と思ったりしている。

このような身過ぎ世過ぎの年金生活をしながら、
言葉による表現、読書、そして思索の時間を過ごしたりすると、
私にとっての年金生活は暇、安楽というのは死語である。


私は確固たる根拠もないが、私なりの拙(つたな)い感性と感覚を頼りに、
できうる限り随筆形式で綴ってみようと、投稿文としている。
そして若き頃に小説の習作を少し体験し、幾たびか校正したりしてきたが、
ブログの投稿文と甘え、一気呵成〈かせい〉に書き上げてしまうことも多い。

しかしながら、その日に応じて、簡単に言葉を紡(つむ)ぐ時もあれば、
言葉がなかなか舞い降りてこなくて、苦心惨憺とすることも多いのが実情でもある・・。

このような時、言霊(ことだま)に対して自己格闘が甘いのかしら、
或いは幼年期からの何かと甘さの多い人生を過ごしてきたから、
このような拙〈つたな〉い文章を綴るしか表現が出来ない、
と深刻に考えたりすることがある。

こうした私なりに、秘かな野望が挫折した時、
数多くの拙〈つたな〉い投稿文が残して、涙を浮かべて振り返った時、
のちの想いになることだけは確かだ、と思いながらも日々投稿文を認(したた)めている。


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大型連休の初日、読書好きな私は本屋に寄り、買い求めて至福なひとときを過ごし・・。

2012-04-29 15:58:44 | 読書、小説・随筆
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

昨日の朝の9時前に、家内は駅前の病院の皮膚科で治療を受けに出かけた。
片方の眼の周辺に少しかゆみを感じて、ここ2回ばかり治療を受けていたので、
定期健診のような状況であり、まもなく10時半過ぎに帰宅した。

そして帰宅した家内は、直(す)ぐに『駅前に買い物・・行きませんか?』
と家内は私を誘惑したのであった。

外出用に着替えている上、何かしら駅前で見かけた品を買い求めたい意志のようだった。

私は少しためらった後、
『ハイ! 元気よく行きましょう!』
と私は自衛隊の若き諸兄に負けないように明るい声で、家内に応えた。

定年後の私は、年金生活をしているが、もとより年金の収入は減ることもあっても増えることなく、
当然ながら現役のサラリーマン時期より遥かに激減している上、体力の衰えも感じる昨今、
何かしら私は家内に従順となっていると思えて、苦笑したりした。

そして私は家内が外出する時は、殆どボディガード兼お供、そして荷物持ちとなっているのが、
定年後の実情である。

今回、たまたま京王線の『仙川駅』の近くに徒歩で15分ばかり歩き、
ホームセンター、スーパー、ドラッグ・ストアーなど5店を廻り、
その後に食事処で遅い昼食をして、帰宅したのは午後2時半過ぎであった。

この間、家内がスーパーで買い物をしている間、
私は独りで本屋に寄ったりして、喫茶店で待ち合わすることにした。


私は遅ればせながら読書に目覚めたのは、高校に入学してまもない時期であり、
1960〈昭和35〉年の春であった。

創作者より、文字から伝えられる伝達力、創造力が
それぞれ読む時、感受性、知性、想像力により多少の差異があるが、
綴られた文章はもとより、この行間から感じられる圧倒的な魔力であった。

これ以来、小説、随筆、ノンフィクション、近代史、歴史書など乱読をしているので、
早や50数年過ぎたかしら、と何かと読書好きのひとりと思ったりしている。

そして2004(平成16)年の秋に35年近く勤務し定年退職した後、
特に塩野七生、佐野真一、藤原正彦、嵐山光三郎、曽野綾子、阿川弘之、各氏の作品に深く魅了され、
この著作された人たちを主軸に精読している。

ここ数年は、高峰秀子さんの随筆、或いは高峰秀子さんの関する本も加わり、
愚図の私でも、読書にいそがしく、ときおり微苦笑したりしてきた。


私が今回入店した本屋は、都心の大きな本屋を除き、
街の本屋の中で文藝関係に突出していると私が賞賛しているチェーン店『書原』のひとつで、
仙川店に入店した。

そして10分ばかり配列している本を眺めた後、2冊の本は決まった。

ひとつは、高峰秀子・松山善三・共著の『旅は道づれ 雪月花』(ハースト婦人画報社)であった。
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4573022031.html
☆【紀伊国屋書店 ホームページ】<==高峰秀子・松山善三・共著の『旅は道づれ 雪月花』☆
  注・ハースト婦人画報社のホームページで紹介しょうとしたら、この紀伊国屋書店 ホームページに転載された。

昨年の晩秋の頃から、《 高峰秀子没後一年 おしどり夫婦の名シリーズ 》として中公文庫より、
逐次、三部作が復刊された。
始めは高峰秀子・松山善三 共著『旅は道づれ アロハ・ハワイ』、
その後に高峰秀子・松山善三 共著『旅は道づれ ガンダーラ』、
最終として高峰秀子・松山善三 共著『旅は道づれ ツタンカーメン』を購読してきた。

今回の『旅は道づれ 雪月花』は、数か月前に店頭でパラパラと立ち読みしたが、
ご夫妻が日本の各地の旅先で、訪れた地、一流の食事処、そして宿泊される旅館、ホテルに、
私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
たじろいでしまった・・。
そして、やむなく見送ってきたが、私は高峰秀子さんの愛読者のひとりとして30数冊を読んできたが、
最後の一冊と思い決めて、購入したのであった。


もうひとつの本は、曽野綾子・著作の『堕落と文学 ~作家の日常、私の仕事場』(新潮社)である。
http://www.shinchosha.co.jp/book/311420/
☆【新潮社ホームページ】<== 曽野綾子・著作の『堕落と文学 ~作家の日常、私の仕事場』☆

私が初めて作家・曽野綾子さんの作品を読んだのは、
講談社から出版された『われらの文学』と名づけられた文学全集からであった。

この文学全集は、確か1965(昭和40)年の頃から毎月一巻発刊され、全22巻であり、
大江健三郎(おおえ・けんさぶろう、江藤 淳(えとう・じゅん)の両氏による責任編集の基で刊行され、
この当時の老成家した作家を除外した斬新で新鮮なな全集であった。

私はこの以前には、中央公論社から、
確か『日本の文学』と命名された80巻ぐらいであったと思われる文学全集を読んでいたが、
この『われらの文学』は、この当時に最も勢いのある大江健三郎、江藤 淳の両氏による責任編集に寄り、
選定された28名の作家の作品を私なりに精読していた。

そして、この全集の中で、第16巻として『曽野綾子、北 杜夫』が、
1966(昭和41)年5月に発刊されて、
私は初めて曽野綾子さんの『たまゆら』、『遠来の客たち』を含む8作品を初めて精読した。

これ以来、ときおり読んできたが、私はサラリーマンの多忙時期に重なったりし、
ここ5年は見逃してきた曽野綾子さんの作品を購読してきたので、
今回の『堕落と文学 ~作家の日常、私の仕事場』は、私にとっては必読書のような心情となる。


そして3冊目となるはずの川本三郎・著作の『郊外の文学誌』(岩波現代文庫)は、
無念ながら店内の在庫になく、やむなく取り寄せの依頼をした。

私がこの本を遅ればせながら知ったのは、読売新聞の基幹ネットの【YOMIURI ONLINE】に於いて、
読書の専門サイトとして名高い【本よみうり堂】で、書評コーナーであった。
http://www.yomiuri.co.jp/book/bunko/20120402-OYT8T00703.htm
☆【YOMIURI ONLINE】<==【本よりうり堂】<== 文庫本・書評 書評家・青木千恵《 川本三郎・著作の『郊外の文学誌』》☆

書評家・青木千恵さんの簡潔した書評文を借りれば、
《・・
関東大震災発生後、人々は郊外へ移り住み、電車で通勤する中産階級の暮らしが生まれた。

郊外は、時代の激変に耐える個の生き方がくっきり見える場所だったが、
中産階級を描いた文学は「普通」と思われ、多くは語られなかった。
国木田独歩が発見した風景、家庭の幸福を描き続けた庄野潤三作品の凄(すご)み。
郊外の発展と文芸作品との関わりを論じた評論集。
・・》

この書評文に瞬時に魅了され、いずれ読んでみたい本のひとつとなった。

私は私は東京郊外の世田谷区に隣接した北多摩郡神代町(現・調布市)で、
1944〈昭和19)年の秋に農家の子として生を受けた。

その後もこの当時の生家の地域に於いては、田畑、竹林、雑木林が圧倒的に多く、緑豊かな町村であり、
生家は祖父と父が中心となって、程々に広い田畑を小作人だった人の好意を借りて、耕していた状況など、
幼年ながら私は鮮明に覚えていることが多い・・。

こうした幼年期の記憶があるが、その後1950〈昭和30〉年の前後、
急激に住宅地と変わり戸惑いながら、時代の変貌に多感な少年時代の私は、
心の奥底の自己形成まで影響を受けたのである。

そして明治時代の頃から、武蔵野、多摩丘陵など、時代の変貌を学びたく、
国木田独歩の『武蔵野』、徳冨蘆花の『みみずのたはこと』、そして庄野潤三の『夕べの雲』などで、
多々教示されてきたので、
川本三郎さんがどのような切り口で郊外を描くか、読みたい本となっている。

直ぐに読みたい本といっても、本屋で品切れの場合、
もとよりネットでアマゾンなどに注文し、入手するのは簡単であるが、
これでは益々街から本屋が消えてしまうと思い、
齢ばかり重ねた私でも、本屋は街の文化のひとつである、と確信しているので待ちわびるのである。


私は家内と共に初夏の陽気の中、帰宅した後、
定年後から平素の買い物担当となった私は、最寄りのスーパーで野菜ものなどを買い求めたり、
その後に我が家の一面が隣接した歩道が、古き緑葉が散乱していたので、
私は竹の立ち箒(タチボウキ)で30分ばかりで掃き清めたりした。

この間、私は買い求めた『旅は道づれ 雪月花』に於いて、
日本の各地の旅先で、訪れた地、一流の食事処、そして宿泊される旅館、ホテルに、
高峰秀子さんがどのように発露されるか、
或いは松山善三さんが確固たる綴りで、どのように表現されるか、
このように思いながら、至福なひとときを過ごした。

この夜、深夜の1時過ぎまで、高峰秀子・松山善三・共著の『旅は道づれ 雪月花』を読み、
そのように感じられましたか、と昭和60年前後に旅をされたご夫妻に敬愛を重ねながら読んだりした・・。


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サライの大特集『日本の作家 百年の歩み』、読書好きな私は悦び勇(いさ)んで・・。

2012-04-13 18:31:24 | 読書、小説・随筆
私は東京郊外の調布市の片隅みに住む年金生活の67歳の身であるが、
ここ20数年、女優だった高峰秀子さんの数多くの随筆の本を読んだりしてきた。

そして一昨年の年末に高峰秀子さんの死去を知り、私も落胆したひとりであり、
もとより天上の花のひとつとなった高峰秀子さんにお逢いできるひとがないので、
せめて私は高峰秀子さんが上梓された数多くの随筆を読んだり、再読したり、
或いは出演された名画を自宅の居間でVT、DVDで鑑賞したりして、愛惜を重ねたりしている。

昨今、《 高峰秀子没後一年 おしどり夫婦の名シリーズ 》として中公文庫より、
三部作が復刊された。

私は見逃していた作品なので、
第一弾の高峰秀子・松山善三 共著『旅は道づれ アロハ・ハワイ』を読み、
そして第三弾の高峰秀子・松山善三 共著『旅は道づれ ツタンカーメン』を読んだりしたが、
第二弾の高峰秀子・松山善三 共著『旅は道づれ ガンダーラ』に遅ればせながら気づき、
本屋で、母を訪ねて三千里のように探し求めても、無念ながら品切れであった。

もとよりネットでアマゾンなどに注文し、入手するのは簡単であるが、
これでは益々街から本屋が消えてしまうと思い、
齢ばかり重ねた私でも、本屋は街の文化のひとつである、と確信しているので、
待ち焦(こが)がれ、どうして欲しい本がないの、と思ったりしていた。

そして私は、出版社か出版卸社の基で、今日あたり書店に置かれるかしら、
と思いながら、京王線の仙川駅前の本屋に徒歩15分ばかり歩いて出かけた。

そして駅ビル内にある本屋のチェーン店の『啓文堂書店』の仙川店には無く、
私は落胆をしたりした後、
もう一軒の商店街にある本屋のチェーン店の『書原』の仙川店を思い浮かべた。

この『書原』は、つつじが丘店もあり、私は愛用している一軒であるが、
文藝関係の本が独創的に配列され、私が店員さんに問い合わせをした時、
今時めずらしい有識のある方で、私は感銘さえ感じたりした店であった。

過日、幾たびか私は、『書原』の仙川店も利用し、
独創的に配列、そして昨今めずらしい有識のある店員さんもいるので、
利用してきた一軒である。

そして私は『書原』の仙川店に入店し、文庫本の数多くの配列の中、
中公文庫の列で高峰秀子・松山善三 共著『旅は道づれ ガンダーラ』を探したが、
やはり品切れのようだった。
店員さんに訊ねると、ございますよ、と私は言われた。

本屋の中央部の一角に、何かしら高峰秀子さんに関する本が並び、
その片隅に文庫本が積み上げられ、この『旅は道づれ』の三部作品があった。
私はこの中の一冊『旅は道づれ ガンダーラ』を店員さんより、手渡しされた。

この後、この文庫本の横に作家・斎藤明美さんの著作『高峰秀子の捨てられない荷物』が置かれていたので、
買い求めることにした。

確か8年前頃に、作家・斎藤明美さんの著作『高峰秀子の捨てられない荷物』(文春文庫)を読み、
感銘したりし、その後は松山善三、高峰秀子ご夫妻の養女になられたと知り、
最近の私は、高峰秀子さんに関する本を再読したり、未読の本を買い求めたりしてきた。
そして改めて、斎藤明美・著作の『高峰秀子の捨てられない荷物』の本を再読したいと思い、
自宅の本棚を探したりしたのである・・。

私の本の整理の悪さか、一時間ぐらい探しても見つからなく、
もしかして、あの大幅に本の整理をした時に、捨ててしまったのかしら、と思いめぐらしたりし、
無念ながら探して見つけることが出来なく、
やむなく過日、新潮文庫より発売された文庫本を買い求めようか、と思っていた本であった。

そして私はこの上の単行本の本棚を見ると、
作家・斎藤明美さんの著作『最後の日本人』(清流出版社)があり、
読んで見たい本のひとつであったので、買い求めることにした。


そして私は単行本一冊、文庫本2冊に大いに心を充たされながら、
レジで精算している時であった。
何気なしに店の入り口に近い雑誌コーナーで、
《 日本の作家 百年の歩み 》と大きく明記された雑誌に見惚れて、
思わず近くに寄り、手に取った。

大人の生活誌して名高い月刊誌の『サライ』の5月号で、
大特集として《 日本の作家 百年の歩み 》であり、
私は瞬時に魅了されて、読んで見たい、と悦び勇(いさ)んで帰宅後買い求めることにした。

そして何故かしら、昨今の女性専門月刊誌のように、
この『サライ』の縦横に紐が結ばれて、盛り上がるようになり、
何かしら小さな玉手箱のような縦長の箱があった。

もとより私は大特集の《 日本の作家 百年の歩み 》をどうてもよい、
と思いながら、『サライ』の5月号を追加購入とした。


私は遅ればせながら高校に入学してまもなく、突然に読書に目覚めて、
この時から小説、随筆、ノンフェクション、月刊雑誌などを乱読してきた。

読書に魅せられるのは、創作者より、文字から伝えられる伝達力、創造力が
それぞれ読む時、感受性、知性、想像力により多少の差異があるが、
綴られた文章はもとより、この行間から感じられる圧倒的な魔力から、
高校生の時からとりつかれたのであった・・。

そして小説・随筆系は文学全集のひとつ中央公論社の『日本の文学』90巻を基盤として精読した上、
純文学の月刊誌『文学界』、『新潮』、『群像』、
中間小説の月刊誌『オール読物』、『小説新潮』、『小説現代』を購読したりし、
こうした中で、魅了された作家は20名ぐらいあったが、
圧倒的に魅せられたのは、井上 靖、そして立原正秋の両氏であった。

この当時の私は、アルバイト、契約社員などをしながら、習作をしていた。
確かな根拠はなく自信ばかりで、純文学の新人コンクールに応募したりしたが、
当選作の直前の最終候補作の6作品に残れず、三回ばかり敗退し、
もう一歩と明日の見えない生活をしていた。

結果としては、30代に妻子を養う家庭のことを考えた時、
強気の私さえ、たじろぎ敗退して、やむなく安定したサラリーマンの身に転向したのは、
1970(昭和45)年の春であった。

その後の私は、数多くのサラリーマンと同様に多忙な生活となり、
こうした中で、音楽業界のあるレコード会社の管理畑に勤めながら、
特に水上 勉、庄野潤三、城山三郎、松本清張、山口 瞳、向田邦子、宮脇俊三、倉本 聡、
浅田次郎の各氏の小説・随筆、シナリオを読むことが多かった。

そして2004(平成16)年の秋に35年近く勤務し定年退職した後、
塩野七生、佐野真一、藤原正彦、嵐山光三郎、曽野綾子、阿川弘之、各氏の作品に深く魅了され、
この著作された人たちを主軸に精読している。


このように年金生活の今でも、大半は読書をしたりしているが、
帰宅後、早速この『サライ』の大特集の《 日本の作家 百年の歩み 》を読んだりし、
遥か45年前頃に、愛読した数多くの作家の記事、掲載されて写真などを見つめたりした。

余談であるが、『サライ』に関しては、私の50年代は定期購読してきた雑誌のひとつであり、
定年後は特集に魅了された時は、購読しているので、
今回の特集は、知らなくて、思いがけないプレゼントを頂いた、と私は微笑んでいる。

そして小さな玉手箱のような縦長の箱は、《「SERAI」オリジナル萬年筆》であり、
私は25歳の頃までは万年筆を愛用したので、42年ぶりかしら、と思いながら、
どのような時に使うか、少しばかり戸惑ったりしている。


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