夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

私がおひとりさまになった、その時は・・。

2009-04-30 09:20:36 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の64歳の身であるが、
子供に恵まれことがなく家内と2人だりの家庭であり、
そして築後30数年の古惚けた家に住んでいる・・。

過日、鹿児島・市内と霧島温泉の帰路の際、
羽田空港の売店で何気なし見ていた時、
ひとつの雑誌の表紙の見出しに気になり、購入してしまったのである。

『プレジデント フィフティ・プラス』(プレジデント社)という雑誌であったが、
【 総力特集
     金持ち定年、貧乏定年 】
と大きく明示されていたので、いやらしいタイトルであったが、
小心者の私は読みたいと思ったのである。


私は帰宅後の2日後に、この雑誌を読んだりしたが、
何より深く読んだのは、特集のひとつである『男おひとりさまの晩年』であり、
お金、住まい、相続、遺言、友達、そしてドッキリしたがセックスのことも、
やさしく教示されていたのである。

私は煙草も喫うし、お酒も好きだし、散歩する以外はスポーツはしないぐうだらな身で、
家内より早くあの世に行くと確信はしているが、
世の中は先のことは何が起きるか解からないので、
家内に先立だれた場合のことを一年に数度ぐらいは考えたりしている。


家内とは日頃から、葬儀、お墓のことも何度も話し合い、
葬儀は親族関係だけの家族葬とした後、お墓は樹木園に埋葬し、
それぞれ好きな落葉樹の下で土に還る、
そして四十九日が過ぎたら、その時のきまぐれでお墓参りをすれば、
とお互いに確認し合っている。

私は家内が亡くなった時は、世の中はこのようにこともあるのか、
と呆然としながら四十九日を終えて、樹木園に行き、埋葬をすると思われる。

そして私は、料理、掃除、洗濯などは初心者の若葉マークのような身であり、
戸惑いながら行うが、
何より長年寝食を共にし、人生の大半の苦楽を分かち合い、
気楽に安心して話す相手がいなくなったことが困るのである。


この後は、やむえず古惚けた一軒屋を処分し、都立大きな公園の近くで、
スーパーと本屋に10分前後で行けた上で、
大学病院に公共の交通機関の利便性のある場所で、
小さな2DKのマンションを選定すると思われる。

これ以前には、住まいが狭くなるので本の大半は処分し、1000冊前後に厳選した上、
映画などのビデオテープ、DVDはもとより音楽のカセット、CD、DVDは
程々に多いがすべて移動する。


こうした独り身の日常生活の時は、
付近の公園で四季折々の情景を眺めながら散策したり、
スーパーでお惣菜コーナーの売り場で買い求めたり、本屋に寄り、
数冊を購入する。

そして週一度は定期便のような居酒屋に行き、
中年の仲居さんにからかわれながら、純米酒を二合ばかり呑むだろう。
こうした中でも、私は家内の位牌の代わりに、
定期入れに愛用した革のケースに、家内のスナップを入れて、
いつも持ち歩くと確信している。


こうした日常生活を過ごすと思われるが、
私は国内旅行も好きなので、月に3泊4日前後で、各地を訪れるだろう。

劇作家のチェーホフの遺された、
男と交際しない女は次第に色褪せる、女と交際しない男は阿呆になる、
と人生の哲学のような名言は、どうしたらよいの、と考えたりするだろう。
そして、宿泊先の仲居さんで、お酌をして下さる方たちと、
やさしくふるまいながら語りあうと想像される・・。

そして、その夜は枕元に革ケースを置いて、
人生はいつまで続くの、と少し思いながら眠るだろう。


尚、苦手な金持ち定年、貧乏定年の件であるが、
小学生からサラリーマン時代も通信簿『3』が多く、
東京郊外にたった一軒しか残せなかった拙(つたな)い身であり、
金融資産も億もないので、わが人生は通信簿と同様かしら、
と微苦笑している。



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私なりの筍(たけのこ)の深い思いは・・♪  

2009-04-29 20:08:40 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の64歳の身であり、
ときおり遠方に散策したりする時、偶然に孟宗竹の竹林に出会った時は、
思わず足を止めて、しばらく眺めたりしている。

ときおり国内旅行で、孟宗竹の竹林を観た時も、
私は時間が許す限り、眺めたりしている。

私の幼年期は、実家が農家で竹林を保有していた時代もあり、
私なりに孟宗竹の筍、そして竹林には深い思いでがあるので、
こだわりがある。

このような心情なので、このサイトに於いて、
たびたび綴ったりしてきた。

先ほど、私は過ぎ去った幼年期に思いを馳せていた時、
孟宗竹の筍なども読み返していた・・。



2007年7月2日に於いて、
【 ひととき夢の中で・・♪ 】と題して、投稿していた。

【・・
昨日と同様に、昼過ぎに塩野七生・著の『ローマ人の物語』(新潮文庫)第23巻を読んでいるが、
居間で簡易ベットに横たわりながら、
1時間程過ぎた頃、眠りに付いた・・。


私は東北新幹線のある駅からタクシーで15分走り続けた場所で降ろされた。
周囲は里山を背景に放置された田畑が幾重にもあり、広大な荒地となっていた。

ひとりの年配の老人が私に、
『あんたかいなぁ・・竹の物狂いのお人というのは・・』
と言った。

私は煙草を老人に勧めた後、私は煙草に火を点(つ)けた。

私はこの老人の方に熱弁を奮(ふる)っている・・。

日本の古来から孟宗竹をこの地一面に植え、竹の文化村を作りたい。

平地の土地は、土壌を四尺ほど、改良し、
建物以外は公園のように遊歩道を設ける以外は、孟宗竹・・一色とする。

建物は筍(タケノコ)主体の専門料理店、筍の加工食料品所、
そして竹に関しての日常品から工芸品に至るまで加工所、販売店まで手がけたい・・。

お客さんは、駅からマイクロバスでお迎えして、
筍づくしの料理と里山で栽培した山菜を食べて頂いた後、
孟宗竹の中の遊歩道を散策して頂き、
お土産売り場で保存のきく筍、筍と山菜、そして竹細工の多種をお買い上げて頂く・・

『あんたぁ・・採算あうのかいなぁ・・』
と老人は私の言葉を遮(さえぎ)った。

『採算はギリギリですが・・
孟宗竹の四季の移ろいの美しさを観て・・その方なりに感銘をして頂ければ・・』
と私は老人に言った。

『そりやぁ・・そうだが・・
あんたに以前言った値段で・・売るよ・・
だけどもね・・あんたは・・夢を見るのがお好きな人だね・・』
と老人は苦笑しながら、私に言った。


私は目覚めた・・。
サラリーマンを定年退職し、年金生活の3年生の私には、
このように気力も資金もない。

私は庭に下り立ち、雨の舞い下りる庭の樹木を眺め、
煙草を喫いながら、どうしてあのような夢を・・
と思い返している。


私は東京の郊外で農家の子として生を受け、
父、祖父が亡くなる小学幼年期まで田畑、雑木林、竹林の中で育った。

竹林は、孟宗竹の専用とした2反程あり、5月頃には筍を青果市場に出荷し、
竹は秋の頃に竹細工の方達が買い求めに来宅していた、
記憶が鮮明に残っていたる。

ここ50年ばかり筍を作られている場所を見たり、
テレビで視聴したりすると、
あれは本物の筍じゃない、と思っているのである。

私の幼年期に観た竹林は、前年の秋に根が浅くなった所を最低三尺掘り下げて植え直し、
春先には地割れと土壌が固くなるので、私達の子供は近寄れなかったのである。

4月の下旬から5月の初め、
地割れの箇所をたよりに祖父と父が専用のスコップで掘ったりしていた。
すべて地中で育ち、根元は最低15センチ以上あり、
少しでも地上に芽が出たものは身が固くなるので、
商品価値が激減するのである。

私は地上から5センチほど芽がだした筍は皮が黒ずむので、
子供心でも、カラス、と呼んでいた・・。


このような想いがあったのか、ときには考えられない夢を見ることがある。

齢を重ねた私は、今でも夢は甘く、ときには苦いものである。

・・】



そして、2006年5月6日にも、
【 タケノコ、されど筍(たけのこ)・・♪ 】と題して、投稿していた。


【・・
   第一章

以前、筍については、私はたびたび綴ってきた。

私の幼少の頃、竹林があり、青果市場に出荷していたので、
鮮明な思い出とこだわりがある。

地上から5cm以上、芽を出し伸びたものは筍じゃない、ということである。

私が大学入学後、ある体育系の部に所属した時、
同期の方が福井県、福岡県の友がいた。

このような話をしたら、半信半疑の目付きをされたので、困っていた。


私の新婚旅行の時、京都の筍の売り場を観た時、
15センチの高さ、根回りが5センチが3月末に売られていた。

私の実家では、少なくとも30センチ、根回りが10センチ以上が基準値であったので、
これが筍かょ、と感じた。

このような思いがあり、地方のお方は理解してくれるかしら、
と思い続けていた。

幸いにして、昨日の読売新聞で私の証言に近い記事があったので、
嬉しく感じ、記事を精読した。

      
     
   第二章

昨日の読売新聞の中、【彩事記】が随時掲載をされているが、
榊原智子・女史が綴られた記事を無断引用させて頂きます。


・・今春は寒い日が多かったため、タケノコが生えてくるのが、
例年より遅くなった。
一番手の孟宗竹は、関東では4月下旬から頭を出し始め、
首都圏のタケノコ園ではこの連休に、
タケノコ狩りのピークを迎えているという。

タケノコの産地といえば鹿児島、京都、静岡などの暖かい地方が知られている。
中でも京都産は軟らかく味のよさで有名だが、
実は東京も、戦前まで京都と並ぶタケノコの産地だった。

とりわけ『目黒のタケノコ』は、知る人ぞ知る名産だった。
目黒区守屋教育会館・郷土資料室によると、
京都では土や肥料をふわりとかけて、軟らかいタケノコを育てるのに対し、
目黒では根っこのあたりまで深く掘り、肥料を加えては固く戻したという。
この作業を数回繰り返す独自の栽培法で、
身が締まり、味のいいタケノコを作っていた。

これが《初物好き》の江戸っ子の間で人気となり、
値段が高騰したため、質素倹約を求めた天保の改革(1841~43年)では、
『早い時期の掘り出しはダメ』と禁制まで敷かれたという。

それほど盛んに栽培されたタケノコだが、
関東大震災の後に郊外に広がった宅地開発や、
高度経済成長期の都市の拡大で、タケノコ畑はじりじりと減少。

・・(略)・・



以上、引用させて頂きました。


東京の郊外の私の実家でも、程々にひろい田畑を耕していた農家は、
竹林を保持し、筍を青果市場に出荷していた。
竹になったのは、竹細工の業者が買いに求めに来た、記憶が残っている。

目黒方式と違うのは、秋になり、根が浅くなったのを、
最低50センチ前後、深く掘り、枯れた竹の葉、肥料を施して、地中に埋めた。

地上は生育した竹以外は黒土1色で、冬を越え、春の4月頃に地割れを見つけ、
専用のスコップで掘り出した。

この間は、子供は竹林に入ることは、足跡、靴跡が残るので、厳禁となっていた。

芽が地面より5センチ以上になったものは、柔らか味が薄れるので、
買取り価格が安くなり、家庭で食べたりしていた。

特にこれ以上伸びた筍は、竹の皮が黒ずみ、
子供の私さえ、カラスと呼び馬鹿にしていた。

東京の郊外は、地中でいかに大きく育てあげるかが鉄則であった。



   第三章

東京の郊外は、東京オリンピック以前にどの家も筍の青果市場への出荷は終えた・・。

わずかに竹林はあるが、かつてのような手入れがされず、
ただ伸ばし放題の竹林が残っている。


このような形の竹林は、まだ私が小学生の頃、
付近の崖に面した傾斜地に著名な小説家の邸宅があった。

傾斜に竹林が密集し、下方に池があった。

私は小学3年ぐらいの時、下校の時に遠廻りし、この脇道を通った時に、
この小説家が難しい顔して池を見詰めていた。

『あれが芸術家かょ・・難しい顔しているが・・
竹は生え放題・・孟宗竹のこと解っていないなぁ』
と子供心に内心呟(つぶや)いた・・。

後年、高校生になった私は駅前の本屋に行った時、
店内の壁面に色紙と写真が掲げられていた。
そして、さりげなき武者小路実篤と明示されて折、
私はあのお爺さんが、と気づかされたのである。


私は筍を出荷した竹林は、ある程度に間引いた上、黒土の1色で春になると、
筍が出やすい状況のこだわりがあった。

孟宗竹が密集し、その間から筍が出てきて、
地上から10センチ以上に成育した時に、収穫するのは邪道と思っている。

こんな思いもあるが、
実家でもわずかに残した手入れが行き届かない竹林から、
毎年10本前後生えてくる。

子供の頃、カラスと馬鹿にしたのを実家から、毎年頂いている。

かってのような整備された孟宗竹の群生を旅行先で見かけると、
私は少し涙ぐんで、立ちすくんだりしている・・。
      
・・】



これ以前にも、2005年4月24日に於いて、
【 筍(たけのこ)が食卓に・・。 】と題して、投稿していた。

【・・
昨日、長兄の宅より大きな筍を頂いた。
家内は、早速台所で筍をむき始めた。

遠い昔、私が幼児であった頃、祖父、父が農家をしていたので、竹林が二反あった。

秋になると、地表に根が出そうになったのを三尺近く堀起こし、地中深く根を埋めていた。
次兄と私は、穴が掘られたのを子供心にいたずらをし、父によく怒られた。

春先になると、この竹林に子供が入るのを禁じられた。

柔らかな地表が微(わず)かな地割れを見つけて、筍を掘り出すためであった。
この微かな地割れを二、三尺を堀り、やがて大きな筍を掘り出した。

芽が地表にだしたのは、柔らか味が出てしまい身が固くなるので、カラス、と呼んでいた。
このカラスは、値が下がるので、家の人々の食卓にのせられた。
地中にあった良質の筍は、市場に出荷していた。

それから残した筍は、日増しに大きくなり、若い竹となり、子供心でも著しい成長を眺め、感嘆した心を躍らせていた・・。


夏になると、ひんやりした竹林に入るのが、私は好きだった。
田畑の暑い中、この竹林は涼しく、ときたま風が吹くと、
さわさわとした葉ずれの音を聴き、心地よいひと時を感じたりした。

秋のある日、竹細工の方が買い付けにきたりした。

この頃、孟宗竹で籠(かご)、笊(ざる)、作物入れ用とかで何処の家も使われていた。

その後、昭和28年に父が亡くなり、まもなく祖父も他界した。


私の家は、この後に急速に変わり、竹林も無くなった。

今、長兄の宅は、五、六坪の竹林に留めている。
手入れも昔ほど出来なくなったので、地表に出た、カラスを掘り起こしている。


あの香(かぐわ)しい情景は、東京のこの付近の郊外では消え去ってしまった。

今、庭に出ると、紅梅の根元の周囲には、蕗(ふき)の葉が微風を受けて、揺れている・・。

・・】


このように数多い筍、竹林の多い中、たった三つだけを再掲載したが、
私はテレビなどで筍を掘り起こす情景を偶然に視聴したりする時、
遠い昔の幼年期に見た筍とは違う、と苦笑したりしている。



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改めて、ふるさとの旧街道を歩いたりする時は・・♪ 

2009-04-29 09:00:01 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の64歳の身であり、
神奈川県の川崎市の登戸と千葉県の市川市の国府台の結婚前後の5年を除き、
調布市の片隅に60年近く住んでいる・・。

昨日も昼下がりに周辺を散策したのであるが、
幼年期、少年期に通学路の道だった旧街道を歩いたりした。
住宅街が密集された路から少し外れると、欅(ケヤキ)、クヌギ、コナラなどの新緑を眺めたりし、
ときには立ちすくんで、見惚(みと)れたりしたのである・・。


この思いは、私は【ふるさとの旧街道を歩く時・・♪】と題して、
このサイトに2006年4月24日より数日間に投稿していたが、
あえて再掲載をする。

【・・
   第一章

1昨日、駅前の本屋に行った時、
帰路は小学校に通った旧街道を歩いて帰宅した。

私が実家の近くに、家を構えたのは、28年前であり、
この直後には家の周辺を家内とたびたび散策したが、
旧街道は何故かしら避けていたようだった。
それから、3年過ぎた頃、家内と旧街道を歩いた。

小学校までの道程は、15分程度であり、
旧家の道路沿いは多少変わっていたが、原則として昔からの面影はあった。

私の家は幼年期は農家であり、何か室町時代の初めの頃から農業を営んでいた。
戦前は農業学校の実習生を受け入れ、田畑を耕していて、
それ以外の田畑は10人前後の小作人に依頼し、助力を得て、
ほどほど広い田畑を保有していた。

戦後の農地改革に伴い、雑木林を除く田畑は2町歩以内と制限されたので、
小作人の方に安価で払い下げられた。

駅までの道程には、10数軒の地主がいたが、
こうして田畑は分散化となった。



   第二章

戦前、敗戦後にしても旧家の地主は、村の名誉職になると、
1日過ぎると、田畑は日毎に1作、すなわち1列分が無くなる、
と後日私は聞いたりしていた。

村の名誉職の村長、助役、会計の立場になると、
自身の収益より村の為に、持ち出しが多く、村民から慕われた・・。

中には、これとは別の話も聞いたりしていた。
実家より程遠い大河が流れている村に於いては、
護岸工事の完成する戦前の昭和でも、
洪水、台風等の被害に遭われ、わずかな土地持ちの家でも、
泣く泣くその地の大地主にわずかばかりで買い上げられ、
小作人となった人達の話も聞いたりしている。

地主の人達にも村を思う見識に差異がある、
ということである。


私は昭和19年の秋に農家の三男坊として生を受け、
昭和26年の春になった時、私は小学校入学した。
祖父、父、父の兄弟の叔母の2人、
そして母、兄の2人、妹の2人という家族構成であった。

祖父、父、母、叔母達は、田畑を耕し、
農繁期の時などは、農業大学の実習生の3名を受け入れ、
別棟に寝泊し、田畑の耕しをして頂いたりしていた。

祖父は、村の名誉職に就いていたので、
ときたまスーツに着替え、自転車で村役場に行ったりしていた。

私は祖父のこの姿を観ると、
うちのおじいちゃん、かっこいいし、偉いんだぁ、
と子供心に思っていた。

祖父と父は、大学まで通ったことのない学歴であったので、
せめて跡取りの長兄には、ともかく学がなければと、
長兄は小学5年生前後から家庭教師を付けたりしていた。

長兄はこの期待に応(こた)え、私の通った小学校の卒業生で、
国立の中学校に入学出来たのは、長い歴史のある小学校で初めてであったので、
特に祖父と父達は喜んだ・・。

秋の収穫を終える頃には、農地解放前の小作人の人達が、
何がしを持参して、祖父に手渡していた。

多分、農地解放のお陰で、安い価格で土地を取得でき、
自分達も地主になれた礼を込めて、謝礼として持参して下さった、と今は思う。

歳末の頃になると、旧家同士、餅つきを交互に手伝い、
正月用のお供え、年末年始ののし餅、と
その家族に見合った量を造っていた・・。

この頃の時代でも、旧家と旧小作人との交際は、
歴然として残っていた・・。

その後、我が家がまもなく没落の一途をたどるとは、
近所の方達を含め、どなたも想像が出来なかった。



   第三章

父が肝臓を悪く、黄疸症状がひどくなり、寝込んでいまい、
町医者が、ときおり我が家に来診に来たのは、
私が小学校2年になったばかりであった。

そして、3学期になると、父は死去した。

その後、2ヶ月後に、肝要な跡取り息子を亡くし、落胆したせいか、
祖父も亡くなった。

大黒柱の男手を失った農家は、没落の一途をたどった。
母、未婚の叔母2人、そして長兄は中学校2年、次兄は小学5年、
私は3年、妹は1年、そして末の妹は4歳だった。

農家の場合は、田畑の技術のノウハウは、
大黒柱の指示により、運営されていたので、
残された成人の女手では、なすすべもなくなって行く・・。

親族関係の人々の支援があったが、
農業の主体は、やはりその家の人々が行わざるを得ないので、
田畑を少しずつ手放していった。

こうして、私が中学1年になった時、
母はアパート経営を始め、何とか普通の生活水準となった

この間、周囲の人々から、風のうわさが聴こえて来た。
『あの家は駄目になったょ・・
今度、田畑を売って、アバート経営だと・・』

歳を重ねた今、私は旧街道を歩くと、複雑な心境になる。

東京の郊外は、昭和30年過ぎた頃から、急速に住宅地に変貌し始めた・・。
どの旧家も田畑を切り売りを始めたりしていたが、
落ち目になると、こうした噂(うわさ)は早く伝わってくるのである。

今、こうして旧街道を歩くと、旧家の宅地本体だけは、
幾分小さくはなっているが、
依然と私の実家同様に、昔の面影を残し、保持している。
・・】


私はこのように綴ったりしていたが、
ふるさとは限りなく愛(いと)おしくあり、ときには険悪な心情もあり、
この地を離れたい時もあった。

私は高校時代からは都心の学校に通ったので、
その時代の都心の光と影の空気も多少は学んできたが、
都心へのあこがれのような羨望と嫉妬が、
30代のなかばまであったがのが本心であった。

私は長年サラリーマンの苦楽の時代を終えて、年金生活を過ごしている。
実家の近くに建てた一軒屋は古惚け、30数年住んでいるが、
主庭、玄関庭の樹木を眺めたり、付近を散策したりしている。
そして、この地に愛惜が齢を重ねるたびに深まっている。

              


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私が皿洗いをする時、思わず鼻歌を唄い・・♪

2009-04-28 09:18:12 | 音 楽
私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の64歳の身であり、
我家は家内と2人だけの家庭であるが、
家内は独り住まいの家内の母宅に泊りがけで行っている。

高齢者の家内の母は、身の廻り程度はある程度は出来ているが、
庭掃除、季節に応じたのカーテン、布団、衣服、暖冷房器具などの出し入れがままならす、
家内が大掃除を兼ねて季節が変わるたびに行っているのである。

今回は22日(水)~30日(木)となり、8泊9日で家内は孤軍奮闘しているのである。


私はこの間は、のんびりとした独り住まいとなるが、
家内が作ってくれた料理、スーパーのお惣菜コーナーの売り場で、
適度に選定し、食べたりしている。

こうした時、台所で2日に1回ぐらいのペースで、
午後のひととき、皿洗いをしたりしている・・。

前掛けをして、腕まくりをした後、
スポンジにファミリー・フレッシュなどの洗剤をつけて、こすったりし、
この後は水洗いを丁寧にしている。

昨日もしていたのであるが、この時どうした心境が解からないが、

♪嵐も吹けば 雨も降る
 女の道よ なぜ険(けわ)し
 君をたよりに わたしは生きる
 ここに幸あり 青い空

【『ここに幸あり』 作詩:高橋鞠太郎、作曲:飯田三郎 唄:大津美子 】

と小声で唄いだしたのである。

私は苦笑しながら、私の小学五年生の時にラジオから盛んに流れていた歌だったので、
俺も古い人間でやはり齢は隠せない、と思ったりしていたが、
思い出すように、

♪いのちの限り 呼びかける
 こだまのはてに 待つは誰
 君に寄り添い 明るく仰ぐ
 ここに幸あり 白い雲

【『ここに幸あり』 作詩:高橋鞠太郎、作曲:飯田三郎 唄:大津美子 】

と小声で唄ったりしたのである。

私はカラオケは苦手であるが、現役時代におつきあい程度に唄ったしてきたが、
この『ここに幸あり』の歌に関しては、唄ったこともないのである。

私の少年期に聴いた曲が心の隅にあったのかしら、
と少し照れたりし、戸惑ったのである・・。


【『ここに幸あり』 作詩:高橋鞠太郎、作曲:飯田三郎 唄:大津美子 】
http://www.youtube.com/watch?v=nio-JzYf3UY&feature=related


こうして、皿洗いをして、台所を清めると45分前後の作業だったが、
成果のある小綺麗になった台所を見ながら微笑んだりした。

この後、私は居間にあるパソコンに向かい、
このサイトで昨年の今頃はどのようなことを綴っていたのかしら、
と読み出したのであるが、思わず微苦笑したのである。


昨年の4月27日に於いて、
【 皿洗いの時、ロックが最適・・!? 】
と題して、投稿していたのであり、少しためらいもあるが、
再掲載をする。

【・・
家内が留守なので、昼食後のひととき、
私は台所に立った。

台所のひとつの戸を開け、そして前掛けをして、腕まくりをした後、
皿洗いなどをしたのであった・・。

CDラジカセを持ち込んで、一枚のCDをセットした・・。

少し山積みとなった皿、丼ぶり、小鉢などを水を盛大に出しながら
スポンジでこすり洗ったのである。

心の中は、さぁ~いくぞ・・という心境である。


♪紅に染まったこの俺を慰める奴はもういない

【『紅』 作詞・作曲 YOSHIKI】


この後、台所専用の洗剤で皿などをこすった後は、
水洗いを盛大にしたのであるが、


♪もう二度と届かないこの思い
 閉ざされた愛に向かい
 叫びつづける

【『紅』 作詞・作曲 YOSHIKI】


この歌は私は小声であるが、
ボーカルのTOSHIに負けじと唄い続けた・・。

この名曲は、ロックバンドのX JAPANであり、
この歌はある時代には、高校野球の応援歌で、演奏されたりしていた・・。

私は水洗いをしながら、この歌を『一曲繰り返し』セットし、
唄い続けたのであるが、
不思議ながら合致するのである。

余りバラードであると、聴き込んでしまうので、
程々のハード・ロックが心身の波長に合うと、
小綺麗になった台所で、独り微苦笑したのである。

この後、台所の戸を開けていたので、
煙草を喫いはじめていたら、
玄関のチャイムが、
『コッキラ・・コ~ン!・・』鳴り出し、
私は玄関が見える窓から、そぉ~と見たら、
30前後の綺麗なご婦人が幼児を伴い、立っていた。

私は自治会の役員のお方が、
共同募金の収集でお見えになったのだ、
と解かったが、前掛けと腕まくりの60代の小父さんとしては、
少しあわてたのである。

そして、私は『はぁ~い』と大声で云いながら、
前掛けを取り、応対したのであった・・。

私は15分ほど早かったら、
X JAPANと共に、小声で唄っていたのであるから、
見せられる格好でなく
今であってよかったよ、と呟(つぶや)いたのである。
・・】

【『紅』 作詞・作曲 YOSHIKI】
http://www.youtube.com/watch?v=JN6Io-tDVFI&feature=related
注)ロックに伴い、程々に音量は大きいと思われますので、
  ご注意の程を♪


このように投稿したのであるが、
私はレコード会社の管理畑に長年勤めた身であり、
楽譜も読めなく音楽の素養もないが、
年金生活の五年生になった今でも、ときおり聴いたり、
何となく鼻歌も唄ったりしている。



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ビール事情に疎(うと)い私は、思わず微苦笑し・・♪

2009-04-27 09:25:46 | 食べ物、お酒
私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の64歳の身であるが、
この2月より市の推薦のメタボの研修を受けて折、
保健師の麗(うらら)かで清純なしぐさの女医さんとの指きりの約束をしたせいか、
アルコールが大幅に変化して我ながら驚いている。


研修を受講するまでは、殆ど純米酒の辛口を2合前後を呑んだり、
ときおり缶ビールを500mLをコブレットに注(そそ)いで、2、3本を呑む晩もあった。

研修後の私は旅行以外の日常生活は、
缶ビール350mLを2本としているが、
ときには1本で満足してしまう晩もあるので、我ながら不思議と感じたりしている。


特にこの時節、日中のひととき、主庭のテラスに下り立ち、
簡易椅子に座りながら、薫風に身をゆだねて、若葉の枝葉を眺めながら、
ビールを呑んだりしたことがあったが、
いまや煎茶を主体に、コーヒーなども飲んだりしているのである・・。
やはり麗(うらら)かで清純なしぐさの女医さんが思いだされたりするので、
私は微苦笑したりしている。


私は東京オリンピックが開催された若き頃は、
実家に住んでいたが、この頃はキリンのラガービールの大瓶を
近くの酒屋から取り寄せていた。

こうしたせいか、私はビールを呑む時は、このビールの味わいになじんでいた。
私は20代の後半になると、バーボン・ウィスキーとかワインが主体で、
ときおりビールを呑む程度であった。
家内と交際していた時、都心の名の知れたホテルのロビーの横にある喫茶コーナーでは、
コーヒーの値段と何故かしらギネス・ビールが同一なので、
私はこの黒ビールを呑むことが多かったりした。


結婚後は、サントリーのウィスキー『白』をオンザロックで呑むことが多かったが、
キリンのラガービールの大瓶を酒屋より取り寄せたりしていた。

この後、実家の近くに家を立てた後、
ビールが主体となり、キリンのラガービールの大瓶を呑んだりしたが、
休日などの時は、6本前後も呑め、わが人生としては一番呑めた時だった、
と苦笑している。


そして40代の頃からは、日本酒が晩酌の友と変貌し、やがて純米酒の辛口となり、
ときおりビールを呑む程度であった。

この頃、日本経済新聞の元旦号を読んでいた時、
愛読書のアンケートの特集記事で、
あるお方が、立原正秋氏の『男性的な人生論』と書かれていた。
経済人の多くは、司馬遼太郎氏の『坂の上の雲』とか、経済専門書、
歴史専門書等を選定することが多い中で、
中々気骨の或る人と感じ、解る人解る、と私は思わず共感してしまったのである。

このお方は住友銀行からアサヒビールに建て直しに、
最高責任者として一人の男が投入された人であった。
まもなく、このお方の元で、スーパードライのビールの発売にされた。

私は衰退したアサヒビールに少し頑張って欲しいという理由もあったが、
やはり立原正秋氏の作品を愛読していると明記されたこの方に親愛の情を感じてしまい、
私はビールを呑むなら、アサヒビールのスーパードライと切り替えたのである。

この後、旅行に行った時、
たまたまアサヒビールの福島工場が新設された情景を観た後、
アサヒビールは再建され、躍進したのだからと思い、
私はアサヒビールのスーパードライから遠ざかったのである。


この頃、私は作家・山口 瞳の随筆を愛読していたので、
なんとなくサントリーのモルツとした・・。

そして、50代の頃になると、
ビールを呑む時はサッポロのエビスビールが多くなったりしていた。


定年退職後は、相変わらず純米酒の辛口を呑んでいたが、
ときおりビールを呑みたい時は、スーパーなどで缶ビールを買い求めるように変貌した。
そして、キリンのラガービール、或いはアサヒビールのスーパードライで、
価格が廉(やす)い方に選定し、年金生活のせいかしら、と苦笑したのである。

そして、年に何度かの少し高級の食事処に於いては、
サッポロのエビスビールを呑み、少し背伸びしたりしている。

旅行に行ったりした時は、ビールを呑む時は、
北海道の場合はサッポロのクラシックビール、
沖縄の時はオリオンビールと私は選定してしまうのである。


私はスーパーなどに買物に行く時は、牽(ひ)き車のキャリーカートを愛用しているが、
昨今はビールを購入する時は、350mLの24本入りの箱で購入することが多く、
お買い得などの場合、キャリーカートに乗せてくる。

昨日もスーパーのチラシを見た上で、アサヒビールのスーパードライを購入してきたが、
箱を収納する前、
【 あなたの1本が
       明日の日本をつくる 】
と明示されていたので、創意工夫のない宣伝文と苦笑したのである。

私だったら、少なくとも、
【 あなたの1本は
       大いに社会に貢献します 】
と酒税をかけて文案にするのに、と思ったりしたのである。


この後、この箱の先ほどの明示された下段に、
小さな文字で、
【 この商品1本につき1円が
  あなたの住む都道府県の自然や環境等の
  保護、保全活動に活用されます 】
と明記されていたので、私は驚いたのである・・。

そして私は、ネットでアサヒビールのスーパードライを検索したのである。

http://www.asahibeer.co.jp/superdry/umaasu/

このサイトをしばらく眺めていたが、
私はテレビを視聴する時は殆どNHKしか見ないひとりなので、
こうしたキャンペーンは無知だった、とため息をしたのである。

そして年金生活の私は無力ながら、ささやかに貢献できるので、
今宵からはスーパードライに20数年ぶりに専念しょうかしら、
と微笑したのである。


尚、私の現役時代はビール会社とは関係はなく、レコード会社に勤めた身であり、
現在も親族はもとより、親戚もビール会社とは一切無縁です。


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年金青年のふしだらな大型連休の日常は・・♪

2009-04-26 11:57:10 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の64歳の身であるが、
我家は家内と2人だりの家庭であるが、
家内は独り住まいの家内の母宅に泊りがけで行っている。

高齢者の家内の母は、身の廻り程度はある程度は出来ているが、
庭掃除、季節に応じたのカーテン、布団、衣服、暖冷房器具などの出し入れがままならす、
家内が大掃除を兼ねて季節が変わるたびに行っているのである。

今回は22日(水)~30日(木)となり、8泊9日で家内は孤軍奮闘しているのである。


私はこの間は、のんびりとした独り住まいとなるが、
家内が作ってくれた料理、スーパーのお惣菜コーナーの売り場で、
適度に選定し、食べたりしている。

こうした日常を過ごしている中、ここ数日は読書をしたり、
或いは夜のひとときは、保有しているビデオテープで音楽を視聴したりしている。

セリーヌ・ディオンの『セリーヌ・ディオン・コンサート』(メンフィス公演)、
ニューヨークにあるラジオシティ・ミュージック・ホールに於ける『HOLY NIGHTU LIVE』を視聴したりしている。
或いは小柳ゆきの『KOYANAGI THE CHRISTMAS IN ORCHARD 2002』を視聴したり、
次の深夜などには、X JAPANの解散コンサート『X JAPANの軌跡 感動のドームライブ』を熱い思いで視聴したりしている。

そして、日中のひとときは、無料音楽の【You Tube】サイトを開き、
井上陽水、エデット・ピアフの数々の名曲を聴いたり、
沖縄に関しての多くの曲を改めて聴いたりいると、
やはり『芭蕉布』が一番私は心酔できる、と深く思ったりしている。


このような音楽を聴いたりしているが、
やはり私は読書を何よりも好きであるので、居間のソファーに座ったりして本を読んだりしているが、
少し疲れると、主庭のテラスに下り立ち、
簡易椅子に座り、樹木の新緑を褒めながら、煙草を喫ったりしている。
そして、微風に身をゆだねたりしていると、
私が昨今に於いて、最も心酔しているノンフィクション作家の佐野眞一氏の言葉を思い馳せているのである・・。


昨年の11月下旬に於いて、
氏の『沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史 』(集英社インターナショナル)を読了したが、
《はじめに》と題された序文が深く心に残ったのである。

【・・
(略)
沖縄についてはこれまで夥しい数の本が書かれてきた。
だが私から言わせれば、ほとんどが“被害者意識”に隈取(くまど)られた“大文字”言葉で書かれており、
目の前の現実との激しい落差に強い違和感をおぽえる。

沖縄本を覆う違和感とは何か。
大江健三郎の『沖縄ノート』に象徴される「本土から沖縄に怒られに行く」
「戦争の被害をすべて引き受けた沖縄に謝りに行く」という姿勢である。

渡嘉敷島(とかいしきじま)の集団自決問題の論争で、
大江をエキセントリックに攻撃する漫画家の小林よしのりを擁護する気は毛頭ない。

だが、大江は沖縄県民を一点の汚れもない純粋無垢な聖者のように描き、
そうした中で自分だけは疚(やま)しさをもつ善良な日本人だと宣言し、ひとり悦に入っている、
という小林よしのりの大江批判にはそれなりの説得力がある。

沖縄県民を聖者化することは、彼らを愚弄することとほぼ同義だと私は考えている。
そこには、沖縄の歴史を一九四五(昭和二十)年六月二十三日の沖縄戦終結の時点に固定化させ、
この島にその後六十年以上の歳月が流れたことをあえて無視しようとする欺瞞と、
それにともなう精神の弛緩が垣間見えるからである。

大江や、これに同調する筑紫哲也の話題が出るたび、
心ある沖縄人たちから「われわれを“褒め殺し”するのも、もういいかげんにしてくれ」という台詞が出る場面に、
私は幾度となく遭遇した。


こうした跪拝(きはい)意識に“大文字言葉”が加わって、
沖縄は米軍に占領された被支配者の島である、
といった左翼宣伝ビラでもいまどき書かないようなプロパガンダ本が、
うんざりするほど生産されることになった。

“大文字言葉”とは何か。
いい機会なので、ここで私がよく便う[大文字」と「小文字」の違いについて、
少し噛み砕いて述べておこう。

「So what?」という英語の慣用句がある。
私流に訳せば「それでどうしたの?」という意味である。
私が言う[大文字」言葉とは、
聞いたときにはわかったような気にさせるが、
あとから考えると「So what?」という疑問がわく言葉のことである。

テレビに登場するコメンテーターが口にする一見もっともらしい発言は、
だいたい[大文字」言葉だと思って間違いない。
私は彼らのおごそかな口調の割には無内容なコメントを聞くたび
「雨が降るから天気が悪い。悪いはずだよ、雨が降る」
という俗謡を思い出してにが笑いする。

彼らは同義反復しているだけで、実は何も言っていないのに等しい。
何かを言っているように聞こえるのは、彼らの顔や仕草を見て、
こちらが情報を補ってやっているからである。

これに対して「小文字」とは、
活字だけで世界がくっきり浮かび上がる言葉のことである。
それは小さい声ながら、有無をいわせぬ力で読者をねじふせる。

物事を「説く」には「大文字」言葉が便利だが、
物事を「語る」には「小文字」言葉を身につけなければならない。
「語って説かず」。
それがノンフィクションの最大の要諦だと、私は常々言ってきた。

私は里見甫を書くときも、甘粕正彦を書くときも、
[大文字」の“満州論”にはせず、彼らの魅力と魔力を、
どんな読者の胸にもまっすぐ届く「小文字」で書いてきた。

(略)
・・】
注)原文にあえて改行を多くした。


私は著作者の佐野眞一氏に関しては、ここ数年、数多くの作品を拝読しながら、
作品の人物の深淵を極める為に当人はもとより、幾世代まで遡ったり、
徹底とした執念のような取材力と数多くの参考文献を読了した上で、
その人物をあぶりだすような構成力と圧倒的な筆力で、
誰しも難題と思われる日本の光と影を帯びた問題に挑む力量ある作品を明示してきた・・。


最近の私は、遅ればせながら未読だった『遠い「山びこ」 ~無着成恭と教え子たちの四十年~』(新潮文庫)を読み終えて、
『旅する巨人 ~宮本常一と渋谷敬三~』(文春文庫)をかみしめながら読書中なのである。

こうした本に深く読み込むと、その時代に導かれて、
いろいろと思索されるので、ページが進まなく、微苦笑したりしている。

そして、私は読書に続いて、書くことも好きなひとつであり、
このサイトに毎日数通は投稿してきたひとりであるが、
買物をしたり、新緑を褒めながらも《活字だけで世界がくっきり浮かび上がる言葉・・》
と思索しながら散策したりすると、
つい投稿文を綴るのが躊躇したりしているのが本音である。



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大型連休のはじまりは雨、その後は皐月晴れの日々が予測され・・♪

2009-04-25 08:15:08 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の64歳の身であるが、
今朝ぼんやりとNHKのニュースを視聴していたら、
本日より大型連休のはじまります、と報じていた。

私は主庭の樹木を眺めたら、小雨が降っていたので、
地元の天気情報を検索した・・。

雨の降る一日となりますが、午後の3時過ぎからは強い雨が深夜まで降り続けますので、
ご注意のほどをお願いいたします。
その後の一週間は大型連休にふさわしく皐月晴れが続きますので、
ご家族でゆっくりと休息をいたしましょう、
と私は見えたのである。

私は現役の諸兄姉は何かと多忙な勤務をされているのだから、
大型連休の初日はゆったりと休息し、その後はご家族で皐月晴れの中、
ご自由に行楽地などに行かれ、ゆったりと過ごされるように、
天上の気候の神々は采配されたのかしら、と思ったりしたのである。


私が現役時代の時は、民間会社の中小企業であったので、
通常は5月1日から5月5日の5連休が固定で、
後は日曜と祭日が加味されていた。

私は1週間以上連休が採用されるのは、
大手の企業の開発と製造部門だろうと思ったりしていた。

最も現役時代の固定の5月1日から5日までの固定の5日間に於いても、
5日間連続して休めたのは数えるばかりであった。
ある年の場合、システム開発のテストに最適となったり、
物流倉庫の再編成の最適な日々となったりしていた。


昨今の社会状況は大きく変貌し、
昨年の秋より経済の悪化より、特に製造関係のお勤めの方は、
在庫調整に伴い、臨時休業日の日々もある、とニュースを見たりすると、
無力ながら憂(うれ)いているひとりである。


いずれにしても大型連休に恵まれた方達は、
日常は業務に追わる多忙の身の方が多いと思われるので、
せめてこの大型連休のひとときは、ご家族との心身のふれあいを大切にして頂きたい、
と私はぼんやりと思ったりしている。




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ときには風光る時節、独り住まいを過ごせば・・♪

2009-04-24 10:51:49 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の64歳の身であり、
我家は家内と2人だりの家庭であるが、
家内は独り住まいの家内の母宅に泊りがけで行っている。

高齢者の家内の母は、身の廻り程度はある程度は出来ているが、
庭掃除、季節に応じたのカーテン、布団、衣服、暖冷房器具などの出し入れがままならす、
家内が大掃除を兼ねて季節が変わるたびに行っているのである。

今回は22日(水)~30日(木)となり、8泊9日で家内は孤軍奮闘しているのである。


私はこの間は、のんびりとした独り住まいとなるが、
家内が作ってくれた料理、スーパーのお惣菜コーナーの売り場で、
適度に選定し、食べたりしている。

年金生活の私は、日常はある程度は自在の生活を過ごしているが、
独り住まいとなれば、更に身勝手に過ごすことになる。

平素より音楽を大きめの音量で聴いたり、
映画のビデオ、DVDの劇映画も大音量で視聴したりしている。

そして、昼寝、入浴時間、そして睡眠時間も好きな時間となり、
我ながら呆れたりしているが、
こうして過ごせるのも、現役時代の多忙だった時からすれば、
夢のひとときであるので、私は微苦笑しているのである。

台所の皿洗いは、前掛けをして、腕まくりをしながら私は殆ど毎日しているのであるが、
庭の手入れと同様に、終れば小奇麗になり清々しいのであり、
独りで微笑んだりしている・・。

日中の大半は小説、随筆、現代史などの読書をしているが、
少し疲れると、庭に下り立ち、
樹木の若葉を眺めながら、煙草を喫ったりしていた。

陽射しのつつまれる中で
ときおり微風が吹き、わずかに若葉の枝葉が揺れている・・。
私はそよ風に身をゆだねると、心身は爽快となる・・。

このようなふしだらな時を過ごしていると、
政治の混迷、社会の悲惨な出来事が遠い世界のように感じてしまうのである。


私の年金生活で昨今変わったことといえば、
この2月より市の推薦のメタボの研修を受けているが、
やさしい保健師の若き女医さんとの指きりの約束をしたせいか、
アルコールが激変したのである。

私は旅行以外の日常生活は、ビール350mLを2本としているが、
ときには1本で満足してしまう晩もあるので、我ながら不思議と感じたりしている。
昨年までは、殆ど純米酒の辛口を2合ばかり呑み、
ときおりビールを500mLを2、3本を呑む晩もあった。

特にこの時節、日中のひととき、主庭の外れで、
薫風に身をゆだねて、若葉の枝葉を眺めながら、
ビールを呑んだりしたことがあったが、
いまや煎茶を主体に、コーヒーなども飲んだりしているのである・・。
麗(うらら)かで清純なしぐさの女医さんのせいかしら、
と体力も衰えた私は微苦笑したりしている。


そして、私はこのサイトに投稿するのも熱意を込めて綴ったりしてきたが、
昨今は過去に投稿した文を読み返したりすると、
何よりも大いに落胆をしたりしている・・。

私は屈折の多かった半生を歩んできたが、
私なりに拙(つたな)い才能で独創性ある季節感を秘めた文体をめざし、
最終的には清貧の数寄者のひとりになるのが目的であるので、
この程度であれば、素人の綴る文章の域を脱していない、
と失望をまじえながら反省をしている・・。

私は若き日に映画、文学青年の真似事をした時期もあったので、
われ青春の蘇(よみがえ)りを待ち望む、
と自身に気合を入れたりし、今こうして音楽を聴いたりしている。

たまたま聴いている音楽は、
アルフレッド・ブレンデルの弾いているベートーヴェンのピアノ・ソナタの『悲愴』、『月光』、『熱情』である。

そして、果たして、と微風を受けて、若葉が揺れるのを眺めたりしてる。




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年金小父さんでも、ときには、セリーヌ・ディオン・・♪  

2009-04-23 10:14:00 | 音 楽
私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の64歳の身であり、
小説、随筆、現代史などの読書を優先趣味としているが、
ときには音楽も聴いたりしている・・。

私は洋楽は苦手な分野であるが、
ときおり1950年代~2000年の頃までを聴いたりしているが、
街中の洋楽ファンより無知な方である。

昨日の深夜11時過ぎに、たまたまビデオ棚より、
セリーヌ・ディオンのライブ版を視聴したりした・・。


1997年に公開された映画の『タイタニック』のテーマ・ソングの『マイ・ハート・ウィル・ゴー・オン』に於き、
音楽ファン以外にも世界的に魅了させ、認知させた歌姫である。


http://www.youtube.com/watch?v=saalGKY7ifU&feature=related

私が視聴したのは、このテーマ・ソングの以前の『セリーヌ・ディオン・コンサート』(メンフィス公演)と、
以降の休業直前、大スターさえもあこがれのニューヨークにあるラジオシティ・ミュージック・ホールに於ける
『HOLY NIGHTU LIVE』である。

短絡的に云えば、世界の頂点のまじか、そして頂点の直後のビデオである。

洋楽に関しては、知らないことが多過ぎるが、
特にアメリカ音楽はプロデューサーの力量いかんで、と周知されている。

今や伝説のひとつとして、セリーヌ・ディオンが12歳の時、
音楽マネジャーをしていたレオ・アンジェリルが彼女の才能と歌声に魅了されて、
自宅を担保としてデビュー・アルバムの資金を調達したことで知られている。

そしてフランス語のアルバムが成功し、ケベック地方のスターとなり、
数多くツアーの勧誘があったが、
この才能をつぶされてしまうのはほしい、
とレオ・アンジェリルは断り、破産の宣告を受けたのである。

これ以降は、セリーヌ・ディオンに英語を習得させ、
著名な音楽演奏、関係者との機会を与えて、ショウ・ビジネスの頂点の一角に導いた、
と私は思ったりしている。

そして何よりセリーヌ・ディオン自身が不断の努力で、
ハイトーン・クリアー・ヴォイスの歌声、
そして肝要な歌詞の表現力に磨きをかけたことは云うまでもないことである。

私は未熟でつたない洋楽歴に於いて、
このお2人の二人三脚の成功ぐらい他の例は知らないのである。

全米の音楽市場に於いて、多くの有数な大スターさえも、
一時的に全米の頂点を立てて、
やがて、ある期間が過ぎると、個性がまさり色あせてしまうからである。

私はセリーヌ・ディオンの唄声に酔いしれながら、
『パワー・オブ・ラブ』、『ツゥー・ラブ・ユー・モア』等を聴くたびに、
どなたにも魅了させる普遍性である、と感じたりしている。

http://www.youtube.com/watch?v=YaItPjWo7Ks

http://www.youtube.com/watch?v=Zq17mbj8RHI

個性を強く全面に押し出すと、頂点も早いが、飽きられる欠点があるので、
たぐいに稀(まれ)なお2人は、この点は充分ご承知で、
ゆっくりと世界の頂点を目指されたのだろう、
と私は2本のビデオを視聴して深夜のひとときを過ごしたのである。


今朝は少し寝不足でぼんやりとし、
このビデオのライブ版の実感を伝えたくて、無料音楽の【You Tube】サイトで検索していたが、
2時間半ばかりセリーヌ・ディオンの唄声に聴き惚れて、心酔したりしていた。
結果としては、やむえず上記に添付したシーンしかないかしら、
と少し無念さもあるので、微苦笑しているのが本音である・・。





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改めて、『ハナミズキ』に心を深めて・・♪

2009-04-22 17:02:09 | 定年後の思い
東京郊外の調布市の片隅に住む年金生活の私は、
子供に恵まれなかったので、家内と2人だけの家庭となり、
古惚けた一軒家に住んでいる。

昨日の午前10時すぎから小雨の後は、ときおり南風が吹く中、
本降りの雨となった。
今朝の未明まで降り続いていたが、日の出前には雨は上がり、
樹木の枝葉は雨粒をたたえて、清々しい、潤(うるお)いのある情景となっていた。

若葉の色合いは、萌黄色からこの二週間ばかりで黄緑色から新緑色に染められ、
私はさりげない日ごとにうつろう枝葉を眺めたりしていた。

9時過ぎには陽射しが差し込み、空は青く、
ときおり微風が吹き、まさしく風光る情景となっている。
そして、私は皐月晴れかと感じていたが、6月初旬のような陽気となり、
私は戸惑いながらも主庭の樹木、草花を眺めたりしていた。


このような移ろいの中、私は昼下がりのひととき買物、散策をしたが、
躑躅(ツツジ)、皐月(サツキ)、花水木(ハナミズキ)を誉(ほ)めたり、
アヤメの白色、薄紫色の花に心を寄せたりしていた。

落葉樹の多い公園は新緑となり、ときおり微風が吹き、
小枝の若葉も揺れ、私は微笑んだのである。

小公園にある花水木(ハナミズキ)の樹木は、
可憐な白い花は三本あり、それに並ぶように淡い桃色の花は二本あり、
私はしばらく見惚(みと)れていたら、
ひとつの歌が脳裏に浮かび、心の中で静かに唄いだしたのである。

そして遊歩道に人影が少ないのを確かめて、小声で唄いだしたのである。


♪薄紅色の可愛い君のね
 果てしない夢がちゃんと 終りますように
 君と好きな人が 百年続きますように

【 『ハナミズキ』 作詞・一 青窈、作曲・マシコタツロウ、唄・一 青窈 】


私なりに、残された歳月で私自身の夢を実現をさせる命題もあり、
そして私たち夫婦は、この先いつまでも恵まれた生活が続くわけでなく、
いずれ片割れになる・・。

このような思いを重ねたりしたのである。


一年前頃、無料音楽の【You Tube】サイトに於いて、
何かしらのテレビの音楽番組収録された一 青窈さんと徳永英明さんが
デュエットでこの歌を唄っていた。
私はここ数年この一 青窈ちゃんの『ハナミズキ』に魅了されて折、
改めてこの歌をお二人が唄うのを視聴したのであるが、
胸が熱くなり、やがて涙を浮かべそうなくらい感銘を受けたのである。

私としては【You Tube】を添付するのは初めてであり、
異例であるが、感銘を受けたひとりとして、あえて添付させて頂く。


http://www.youtube.com/watch?v=Fk7ldepb3Zw


私は彼のように透明感あるシルキー・ヴォイスのようには唄えないけれど、
私なりに齢を重ねた64歳の身であるが、心を込めて精一杯唄ったのである。


♪僕の我慢がいつか実を結び
 果てない波がちゃんと止まりますように
 君と好きな人が百年続きますように

 君と好きな人が百年続きますように


【 『ハナミズキ』 作詞・一 青窈、作曲・マシコタツロウ、唄・一 青窈 】


私は小声で唄っているうちに、胸が熱くなり、
そして瞼(まぶた)も熱くなり、齢を重ねると涙もろくなる、
と実感しながら家路に向ったのである。


帰宅すれば、主庭にある紫木蓮(シモクレン)は満開となり、
そよ風を受けると、大きな花びらが揺れ、
モミジの小枝の若葉も揺れている。

このような情景を眺めながら、庭先で煙草を喫ったりしていると、
6月初旬のような陽気につつまれ、ときおり薫風のそよ風を心身で受けたりしていると、
政局の混迷や社会の騒動も遥か彼方の出来事のように思える。

そして私なりに、残された歳月で私自身の夢を実現をさせるのに、
つたない才能ときまぐれな努力で果たして、と思考したり、
私たち夫婦は、いずれは片割れになるので、この先いつまで恵まれた生活が続くのかしら、
と思いを重ねたりしている。



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東京郊外は雨上がり朝、日中は皐月晴れを迎えて・・♪

2009-04-22 06:27:58 | 定年後の思い
東京郊外の調布市に住む年金生活五年生の私は、
いつものように日の出前に起床している。
読売新聞を読んだり、NHKのニュースを視聴したりしている。

この時節は我が家の垣根の紅(あか)めモチ、金木犀などの常緑樹が、
新芽から新たな朱色、新緑の葉を伸ばしているが、
古き緑葉は少しくたびれたのか、選手交代よ、と言いたげに地表に落下している。

隣接した歩道に古き緑葉が歩道に散乱しているので、
私は竹の立ち箒(タチボウキ)で掃き清めたりしている。
そして門扉から玄関までの石段も掃き清めたりし、
玄関庭のツツジ、紫モクレンの花を誉めたりしている。

昨日は午前の10時過ぎから小雨が降ったりやんだりし、
昼下がりから本降りとなったが、ときおり南風が吹いたりしたので、
暖風となり、私は苦笑しながら、雨の舞い降りのを見つめたりしていた。

そして通勤の方たちは、せっかくのスーツ、スカートが風が伴い濡れるのを防ぐ為に、
傘を斜めにするので、傘かしげかしら、と長年サラリーマン生活をしてきた私は、同情を重ねたりしていた。


今朝は雨上がりの曇り空を迎えているが、
朝の6時には16度となり、少し驚いたりしていた。
そして、日中は快晴となり、25度前後が予測されているので、
皐月(さつき)晴れかしら、と微笑んだりしている。

私は日中のひととき、買物、散策に行く予定であるが、
こうした陽射しにつつまれて、新緑の樹木を誉(ほ)めながら、
いつものように心の中はスキップしながら、歩くと思ったりしている・・。

そして、夜のひとときは月を眺めれば、
私なりに無上の喜びとなる。



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過ぎ去りし、定年後の私の4月21日の思いは・・♪

2009-04-21 13:40:09 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の5年生の身であるが、
いつものように日の出と共に起床し、
煎茶を淹れた後、新聞を読んだり、NHKのニュースを視聴し、
この間にも、主庭のテラスに下り立ち、樹木、草花を眺めながら、
煙草を喫ったりするのが、ほぼ定例のようになっている。

朝の6時過ぎ15度となり、どんよりとした曇り空の朝を迎えたが、
10時過ぎから小雨が降ったり止んだりいたが19度前後で、
夕方からは南風に乗って明日の未明まで本降りが予測されている。

このよう時は、やむえず日中の買物、散策を中止しょう、
とぼんやりと考えたりしていた。

そして、午前のひととき、私はこのサイトを開き、
定年退職後の今頃は、私はどのような思いで過ごしていたのかしら、
と思い、4月21日に綴った投稿文を読み返したのである・・。


私は民間会社を定年退職後、まもなくしてプログの世界を知り、
四つばかりのサイトに加入して、ほぼ毎日数通は綴ってきた。
定年退職後の年金生活の身過ぎ世過ぎの日常生活の中、
その日に感じたこと、思考したことを心の発露とし、綴っている。

投稿が出来なかった日は、ときおり国内旅行に行っているか、
左目が赤っぽくなり、眼科の医師から一日だけドクター・ストップとなったり、
そしてパソコンが壊れ、買い替えまでの5日間だけである。


私なりの4月21日のそれぞれの年の思いは、
読んだりし、あの時はこのような思いでいたのか、
と微苦笑させられたのである・・。


2005年4月21日のこの日には、
【 薫風の季節の中で・・。】
と題して、投稿していた。

【・・
東京の郊外では、昨日の雨の落ち着いた一日であったが、今朝は曇り空だった。

少し柔らかな陽射しが射してきた。

住宅街を歩くと、それぞれの家で春の樹木、草花が散見出来た。

長閑な春のひとときである。

団地街の入り口の公園に大きな欅(けやき)がある。

今は芽吹き終わり、若葉を自在に伸ばし、のびのびとした自由さを思わせた。

この欅には、季節感を識る目安となる樹木のひとつである。
そして、昨年の紅葉の頃は自分は・・と想いを蘇(よみが)えさせてくれる樹木でもある。

銀行に立ち寄り、スーパー・マーケットで買物を済ませ、クーリニング店でワイシャツを取り終え後、
自宅に戻り途中、パラパラと雨が少し降り、やがて止み、快晴の空に変わった。

昼食後、庭を眺めていたら、微風のなかで樹木、草花が爽やかそうに枝葉、花を見せていた・・。

春の長閑な一日が過ぎようとしている。
・・】


2006年4月21日のこの日には、
【 鳥も歌い、花も笑い・・♪ 】
と題して、投稿していた。

【・・
東京の郊外は、澄み切った快晴の朝を迎えている。

5月の連休のような陽気につつまれている。

常緑樹は枝葉を伸ばし、落葉樹は萌黄色の枝葉を観せている。

草花は陽射しを受けて、チューリップ、鈴蘭水仙は、
微風を受けると花が揺れている。

小鳥が庭先に飛来し、金木犀の枝葉から白梅の枝葉に移ったりしている。
『暑くも無く、寒くもないし、
食べ物も豊富になったし、1番良い時期よ・・』
と小鳥達のさえずっているようだ。

私も遊歩道を散策し、若葉の情景を誉め、
芳(かぐ)しい薫風の中を歩き、そして本屋に寄ったりし、
心身に心地よい日中を過ごそうと思っている。
・・】



そして、この日にの昼下がりには、
【 我が家の午前中のひととき・・♪ 】
と題して、投稿していた。

【・・
家内は、洗濯、料理、朝食、掃除をし、
そして冬物の整理をここ一週間行っている。

私は庭の掃除は、後日にして、
散歩と本屋に寄ろうと思っていた。

十時過ぎに、家内から、
『あなた・・エマールが無くなったわ・・』
と私に言った。

『エマールって、何だい?』
と私は尋ねた。

『洗剤の一種なの・・買いそびれて・・明日の分から、足りないの・・』

『直ぐに買ってくる・・それより、切れた本体を見せてよ・・』
と私は明るく言った。

私は、花王のエマールを見せて貰った。
こうしないと私は、以前に失敗している。
たとえば、エマール自体、何種類かの目的別の商品があるからである。

『あなた・・ついでに・・食パン・・お願い・・』
と家内が言った。

『まかしといて・・』
と私は明るく言った。

私は何事も同じするなら、明るく楽しくする、のが生活のモットーである。

スーパーに行き、指定のパンを焼きあがるまで、
店内のご婦人を役得として、観ていた・・。

そしてブラウスにカーデガンのご婦人が極少なくなったので、少しがっかりした。

帰宅後、軽食をすませた後、
『駅前の本屋に行って来るが、何か買うものない?』
と家内に訊ねた。

『そうね・・ズボンのハンガー・・知ってますわね・・
冬物整理していたら・・予備が無くなって・・』
と家内は言った。

『取りあえず、五本ぐらい・・いい?』
と家内に訊ねた。

このような状況で私は本屋により、スラックス専用のハンガーなどを買い求めたりする為、
家を昼前に出かけた。

退職後の今、こうした事が多いが、
家事の負担は家内の方が圧倒的に多いので、
私なりに楽しんで、買い物などしている。
・・】



2007年4月21日のこの日には、
【 風光(かぜひか)る朝を迎えて・・♪ 】
と題して、投稿していた。

【・・
東京の郊外は、快晴の朝のなり、五月の中旬のような陽気となっている。

常緑樹の新芽は伸び、落葉樹の若葉は陽射しを受けてきらめいている。

ときおり微風が吹くと、樹木の枝葉が揺れ、
薫風のような風が吹き抜けていく・・。

こうした情景を煎茶を飲みながら、ぼんやりと見詰めている。

私は9時過ぎに歯科医院に歯の治療を受けに駅前まで外出する。
川沿いの遊歩道を歩く予定であり、ここ一週間ばかり歩いていないので、
樹木の移ろいが何よりの楽しみのひとつである。
・・】


そして、この日にの夕方には、
【 『野に咲く花のように』・・♪ 】
と題して、投稿していた。

【・・
昭和57年頃の夏、私は会社の業務が多忙で夏季休暇も半分程しか取れなかったので、
近場の熱海の外れにある赤根崎のリゾート・ホテルに2泊3日で宿泊した。

家内は茶事を中学生の頃から習っていたので、
私は結婚してから色々と和事に関しては、家内から影響を受けたりしていた。
茶花、花入、茶碗、掛け軸などを知り、四季の移ろいも改めて深く知りはじめた・・。

結婚して、三年後に家を建てた時、心の勢いとして、茶室まで設けた。

私は茶事に関しては無知であったが、
免許状の昇進と礼金の仕切りのような暗黙の約束事を知った時は、
不思議な世界と思ったりしていた。


リゾート滞在の折、休暇前は睡眠不足であったので、よく寝ていた。
昼下りのひととき、庭園にある茶室で茶事があるので、
支配人から家内が誘われ、私も末席としてお供した。

掛け軸、花入、茶花も簡素で、
素朴な茶碗で抹茶を頂いたりした。

茶室から庭園に出で、家内と散策した時、
『野に咲く花のような茶事であったね・・』
と私は家内に言った。

家内は微笑んでいた・・。

庭園は夏の光を受けていたが、
外れにある松林は海上からの風が吹き、肌には心地よかった。

古人の利休が、花は野にあるように、という明言は私なりに知っていたが、
私はこの時以来、人生信条として『野に咲く花のように』と掲げて、
年賀状などで明記したり、友人にはたびたび公言したりしている。
・・】



そして、昨年の2008年4月21日のこの日には、
【 清々(すがすが)しい朝を迎えて・・♪ 】
と題して、投稿していた。

【・・
東京の郊外は、薄日を射す朝を迎え、
ときおり微風が吹き、わずかに若葉の枝葉が揺れている・・。

朝の6時は12度前後で、
ゆったりと天気が回復して、日中は20度前後の晴れ間と予測され、
過ごしやすい1日となる。

私はぼんやりと主庭の樹木を眺めながら、
日中は別ブログ【gooブログ】の『年金青年のたわむれ記~かりそめ草紙~』を再開したので、
10数通ばかり投稿しょう、と思っている。

私は自己存在感の表現のひとつとして、
文章で綴るのもひとつの表現方法であるので、
私なりの個性と独創性を根底に、生きている証(あかし)を、
遅ればせながら余すことがなく、
別ブログにも表示しはじめている。

ここ10数日は、多少ためらいがあるが、
このようなことを考え、最近3日で30通前後投稿している。
・・】


そして、この日にの夕方には、
【 たそがれのひととき・・♪ 】
と題して、投稿していた。

【・・
昼寝から目覚めたのは、5時過ぎであり、
夕陽が射しこむ中、主庭をぼんやりと眺めていた・・。

小鳥を見かけ、眺めてたりしているが、
定期便のように飛来する小鳥である。

地上の何かしらを啄(つい)ばんでいるのであるが、
三羽ばかりが、ちょこちょこと移動しながら、啄ばみ、
そして樹木に移ったりしている・・。

空は真っ青な色合いを見せて折、
夕暮れ前の長閑(のどか)なひとときである。

私は朝から別ブログ【gooブログ】の『年金青年のたわむれ記』の投稿を精力を傾け、
14通ばかりと北海道に行った時の長い紀行文らしき綴り文を投稿した。

総計15通であったが、かっての熱き思いを浮かべて綴ると、
疲れるのであるが、私なりに生きた証(あかし)を考えれば、
楽しい限りである・・。

さすがの私は齢を重ねた身であるので、
3時過ぎに中断し、昼寝としたのである。
・・】



このように投稿した文を読み返したりしたが、
果たして私なりに進歩はしているのか、
或いは惰性で散漫に年金生活を過ごしているのか定かではない・・。

しかし、少なくとも毎日綴れば、このようにその年の心の思いが、
確かに蘇(よみがえ)るので、生きている証(あかし)としてボケない日まで、
何らかの形で綴ろう、と思っている・・。


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ときには、歩道を掃き清めて・・♪

2009-04-20 08:41:51 | 定年後の思い
東京郊外の調布市に住む年金生活五年生の私は、
いつものように日の出前に起床している。
読売新聞を読んだり、NHKのニュースを視聴したりしている。

この時節は我が家の垣根の紅(あか)めモチ、金木犀などの常緑樹が、
新芽から新たな朱色、新緑の葉を伸ばしているが、
古き緑葉が選手交代よ、と言いたげに地表に落下している。

隣接した歩道に古き緑葉が歩道に散乱しているので、
ときおり私は竹の立ち箒(タチボウキ)で掃き清めたりしている。
そして門扉から玄関までの石段も掃き清めたりし、
玄関庭のツツジ、紫モクレンの花を誉めたりしている。

そして煙草を喫いながら、
昨夜も読んでいる佐野眞一・著の『遠い「山びこ」 ~無着成恭と教え子たちの四十年~』(新潮文庫)の一節が
蘇(よみがえ)ったりした。

朝食後、主庭の樹木を眺めたりしていると、
昨夜のNHKで視聴した番組を思い出したりしている。

http://www.nhk.or.jp/special/onair/090419.html

こうしたことに思い馳せると、
さて私は何を綴ればよいかと、二時間ばかり考えたりしているが、
投稿のむなしさも知っている私は、ぼんやりと過ごしている。


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心身の気分一新、庭の手入れをすれば・・♪

2009-04-19 17:03:12 | 定年後の思い
東京郊外の調布市に住む年金生活五年生のの私は、
過日、鹿児島市内・霧島温泉に4泊5日に行き、
帰宅後、このサイトに『またごあんそ、歴史のかたみに』と題し、
5回に及び投稿してきた・・。

私は旅行に行っている以外は、殆ど毎日投稿してきたので、
4日ぶりに文章を綴っていたが、何かしら苦心惨澹が本音であった。

私は特に旅行に関しては、単なる記録のような文体でなく、
ある程度の紀行文にしたく、タイトルを決めるのも、
それなりに工夫している。

こうした理由から、つたないなりに綴る時は、苦楽を伴うことが多い。


今朝は朝から5月中旬のような快晴に恵まれ、
心身の気分転換をしようと、11時過ぎから庭の手入れをした。

玄関庭、そして主庭と草むしりと少しばかり樹木の剪定し、
着古したワイシャツを着ていたのであるが、
22度前後の陽射しの中では汗ばみ、ときおり微風を受けると、
心身心地よかったのである。


結果としては、4時間半ばかり孤軍奮闘して、
風呂に入ったのであるが、風呂場の窓はさんさんと陽射しが照るので、
独りで微苦笑したりした。

こうして綴ったりしているが、確かに気分転換できて、
いつものような日常生活に戻れたのである。
そして、腰と身体が少しけだるく、やはり体力の衰えを感じ、
苦笑したりしている。


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またごあんそ、歴史のかたみに 最終

2009-04-19 07:29:35 | 
    最終章 旅の終りは、霧島温泉

私達3人は連泊した『鹿児島 東急イン』を10時にチェックアウトした後、
鹿児島中央駅に向かった。
私としては初めてのJR九州の鹿児島中央駅であり、
日豊本線の『霧島神宮』行きの時刻表を家内と見たりしたが、
構内の大きい割りに列車の本数が少ないのには少し驚いたりした。

結果としては、宮崎行きの『特急きりしま』の10時42分発を利用したが、
鹿児島市内と別れるのが名残り惜しく、
《 あいがとも さげした 》
と不慣れな感謝の言葉を心の中で呟いたりした。

列車はゆっくり錦江湾を右手に見せながら北上し、
里山を少し走り抜けると『霧島神宮』駅にわずか50分たらずで到着した。

雨上がりの情景の中、私達3人は路線バスに乗り、
霧島温泉郷の中核の丸尾で下車した。
そして、この丸尾のバス停から、七分前後の所に予約していた観光ホテルが観えたのであった。

そして、ロビーのソファーに座ると、小雨が降りだし、
雨に濡れずに良かった、と私たち3人は微笑んだのは、昼の12時半過ぎであった。

http://www.kirishimaspa.com/

この観光ホテルで連泊するのであるが、家内がネットで検索した時に、
【・・
霧島連山の中腹に位置し、7000坪の庭園と錦江湾に浮かぶ桜島、
遥か開聞岳を全室より一望でき、
露天風呂からは満天の星空を満喫できます。
・・】
と明記されていたので、
家内は母に、部屋から桜島が観えるみたい、と云ったりしていた。

こうしている時、フロントの方が、
『お部屋のご用意が出来きましたので・・』
と私に歩み寄り云った。

『三時からチェックイン開始時なのに・・ありがとうございます・・』
と私は一時であったので、お礼の言葉を重ねた。

部屋に入ると、いつものように私は浴衣に着替えて大浴場に向かった。
大浴場は我独りで、こうした平日にのんびりと温泉に入れるなんて、
と多忙だった現役時代を思いながら、
贅沢な限りである、と年金生活の我が身を満喫したのである。
そして、通り雨だったのか、雨は上がり、
薄日の射す中、岩の露天プロに手足を伸ばしたりした。

私は部屋に戻り、ベッドに横たわり、
本を読んだりしているうちに眠ってしまったのである。


こうして旅先の宿で夕食を頂き、ビールを呑みながら、
いつものように私達3人は談笑したが、
家内の母は今年の誕生日は80歳、私も65歳を迎え、家内も60歳を迎えることとなるので、
このような三人の旅もそれぞれが心身元気な時であり、
いずれは誰が欠けても、三人組は解散となる・・。
こうしたことは私は時折、思ったりしている。


私は夜の8時過ぎに寝付いたので、
翌日の早朝4時過ぎに目覚めて、ロビーの隅で本を読んだりした。
そして、5時過ぎに新聞の朝刊をロビーの一角にファイルされると、
いつもの旅先の習性で、その地の地方新聞から読み出すのである。

この後、ロビーの片隅にひとつのパンフレットを見つけて、
読み出して、思わず微笑んだのである。

【 ~神々のプロムナード~
   「いやしの森」国立公園 霧島
      森林セラピー ロードコースのご案内 】

と題された霧島観光マップのひとつであるが、散策路、自然探勝路などが紹介されていた。


私は午前中のひととき、この中のひとつの『手洗散策路』を歩こうかなぁ、
と思ったりしたのである。

私は独りで散策する予定であったが、家内も一緒に、と云いながら、
軽装に着替えたのである。

澄み切った快晴の中、未知の『手洗散策路』に向かって歩き出したのであるが、
車道から外れると、ハイキングのような登り路となり、
山桜が葉桜となったり、クフギ、モミジなどの樹木の眺めながら歩いた。
そして、ほんの一キロ前後の少し荒れた里路の後、
車道となったが、自動車も見かけない道を下ったのである。
結果としては、一万歩を少し超えた散策となった。

この後、観光センターを見かけ、
足湯があったり、温泉饅頭を蒸かしていたので寄ったのである。
広場にはバラソルのあるテーブルがあり、
私は微風に吹かれて、缶ビールを呑み、煙草を喫ったりし、
家内はペットボドルの煎茶を飲みながら、温泉饅頭、御土産屋で地元の和菓子を食べたりていた。


ホテルに戻り、私は庭園に下り立ち、
デジカメで整備され広い庭にある新緑の数多くの樹木、
そして池を配し築山風にツツジの群生の花の彩(いろど)りの美麗を撮ったりした。

この後、私は大浴場の湯に身をゆだねた後、
燦燦と照り続ける陽射しの中、露天風呂に行ったが、湯は熱く、
湯から上がり、歩道の渡り石を踏みしめた時、熱くて少しあわてたのである・・。
岩の露天風呂の形態であり、陽射しに熱せられていたのである。
こうした体験は、遅ればせながら初めてであった。

部屋に戻ると、家内と家内の母に、
『牛肉の・・石焼き・・みたいだった・・』
と私は戯(たわむ)れた言葉を言いながら、家内達にさりげなく忠告したのである。



翌日、早くも旅の最終日となったが、
朝の7時過ぎに部屋の窓辺から、家内が遠方に櫻島が観えた、
と家内の母に知らせ、
私達3人はしばらくのあいだ見惚れていたのである。

そして、10時過ぎにチェックアウトをした後、
丸尾のバス停の周辺を観光し、昼食をした後、
霧島の地を路線バスで離れたのである。


鹿児島空港で手荷物検査を受けた後、
家内達はお土産売り場に行っている間、
私はレストランでビールを呑みながら椅子にゆったりと座っていた。

そして前方に観える飛行機の離陸の状景を眺めたりすると、
歴史と文化にめぐり逢えた鹿児島県ともお別れだなぁと思い、
《 またお逢いしたいですね・・さようなら 》の言葉の変わりに、
薩摩の地方にふさわしく《 また・・ごあんそ 》
と名残り惜しく心の中で呟(つぶや)いたりした。



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