田所は課長席の前に立ち、小さくなっていた。ジィ~~っと田所の顔を見ながら、時折り手元の書類に目を落とすのは会計課長の藤堂だ。
「突合(とつごう)はしたんだね?」
「はい…」
藤堂の問いかけに田所は小さく返した。はい、間違いなく! と大きく返せないのは、やはり自信がなかったからだ。月例の監査が三日後に迫っていた。一週間前にはどうしても数千円の出どころが判明しなかったのだが、ようやく田所はその出どころを見つけ出し、再計算し直した。これでやれやれと思っていたところ、残念なことに結果はごく僅(わず)かな誤差が生じてしまった。その誤差は予算残額の計が少ないのではなく多過ぎたのである。予算の残額が多いのは結構なことだが、合わなければ監査は通らない。それが分かったのが藤堂の確認によってだった。その後、全係員を上げての再計算がなされ、間違いが発覚した。差引簿の誤記入だった。藤堂が決裁印を押す間際(まぎわ)だったが、きわどくその過(あやま)ちは正された。
閉庁直後、田所は藤堂に呼び止められた。
「君はよくやってるが、結果がよろしくない。というのは、努力が足りないせいだと僕は思う。ははは…君は仕事に追われてるんだよ。きつく言えば、仕事を追え! ということだな。そのうち仕事の前に出られる。そうすりゃ、しめたものだぞ。仕事を待ちかまえて討ちとれる」
藤堂は柔和な口調で田所を指導した。
「討ちとれますか?」
「ああ、討ちとれる!」
「分かりました…」
「コツコツやってる姿勢は高く買ってるんだよ。ただ、それだけじゃね」
「はい、頑張ります…」
田所は次の日からそれまでより1時間早く出勤し、仕事に励むようになった。
『田所さん、参りました! 私の降参です』
田所は誰も出勤していない職場を見回した。当然、誰もいなかった。
『田所さん、私は仕事です』
声は差引簿だった。田所は唖然(あぜん)とした。
『課長さんの、仕事を追え! のひと言には参りましたよ。とうとう、私が追われてしまったようです』
やはり、声は差引簿から出ていた。
「まあ、今後ともよろしく頼みます」
不思議なことに田所は差引簿と違和感なく話していた。
『いや、こちらこそ。そろそろ、皆さんが来られますよ。では…』
声が消えるとともに田所の意識も途絶えた。
「田所君!」
「…」
課長の藤堂が田所の肩を揺すっていた。田所は机へうつ伏せになり、眠っていたのだった。
「仕事を追い過ぎたようだな。ははは…結構、結構!」
課員達がぞろぞろと出勤してきた。
完