須山は去年春、定年を迎えた。やれやれ、これで第二の人生が…と軽く考えていた矢先だった。部長の川北は、『ははは…今、君にやめられちゃ、誰も君のセクションが出来ないから困っちゃうんだよね~』と、軽く言われ、仕方なく延長して働くことにした。副部長待遇の嘱託としてである。
「よく降るね。20cmは積もったろう…。どうだい、帰りに一杯! もちろん、私の奢(おご)りだよ」
川北は須山が退職しなかったから一応、幹部にもメンツが立ち、なにかと須山のご機嫌をとった。
「いいですね! それじゃ、遠慮なく」
相変わらず雪が断続的に降る寒い日である。須山も少し温まりたい気分だったから、話は案外、スムースに纏(まと)まった。
仕事が終わり、二人は会社を出た。いきつけの[烏帽子(えぼし)屋]は二十年前の開店以来、全店員が烏帽子を被(かぶ)って接客するユニークな店として好評だった。もちろん、美味(うま)くて安くてポリュームがあり…と至れり尽くせりだったからでもあるのだが…。
「定年後はもう一度、大学の医学部に入って医者になりたかったんですよ。そのために少しは貯めたんですけどね…」
つくねをフゥ~フゥ~させながら、柚子(ゆず)味噌をつけて美味そうに食べ、須山は軽く笑った。
「そうだったの? なんか、引き止めて悪かったね」
川北は熱燗の酒を口へ流し込んだ。
「ははは…いいんですよ。どうせ受かるかどうかも分からないんですから」
須山はビールジョッキを一気にふた口、飲んだ。
「いや! 君だったら絶対、受かるよ。同期の私が保証する」
川北が湯気の上がる豚肉を酢味噌で頬張る。
「ははは…部長に保証されましてもねぇ~」
そう言いながら、須山も負けじと湯気の上がる豚肉を酢味噌で頬張った。鍋が頃合いの湯気を立てて煮えている。二人の頬(ほお)に赤みがさし、少し出来あがってきた。
「部長はどうなんです?」
「俺かい? 俺の定年後はまあ、趣味のゴルフと盆栽いじりかな。ははは…まあ、定番だ」
「そういうのも、肩が凝らず、いいですよね!」
べんちゃらではなく、須山はそう思っていた。医者は来世に予約するか…と。
完