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水本爽涼 歳時記

日本の四季を織り交ぜて描くエッセイ、詩、作詞、創作台本、シナリオ、小説などの小部屋です。

隠れたユーモア短編集-94- 苦と楽

2017年10月21日 00時00分00秒 | #小説

 そのときは苦と思っても、長いスパンで見ると、ああ、あの頃は楽しかったなぁ…と懐かしく思い出されることがある。それが苦と楽の妙な関係である。逆に、あの時は楽しかったが…と、今になると、そのことが苦になっていることも当然ある。
「入馬(いれば)さん、いつもすいませんねぇ~。こんなこと、掃除のおばちゃんがやってくれるでしょうに…」
 朝、出勤してきた顎川(あごかわ)は、課内のフロアを丁寧(ていねい)にモップで拭(ふ)き回っている入馬に声をかけた。
「いやぁ~、どうってことないですよ、大して苦にもなりませんし。それより、フロアが美しいと気分が楽になり、和(なご)むんで助かってます」
「そうなんですか? それならいいんですが…。でも毎日、36[サブロク]寸前の残業をなさっておられるんですから…」
 顎川は過労を心配して、暗に言った。
「有難うございます。しかし、これで気分がよくなるんですから、そう心配なさらずに…」
「分かりました…」
 それ以上は入馬に突っ込まず、顎川は少し離れたデスクへ座った。
 毎朝、しかも早朝出勤でフロア掃除をする入馬・・顎川にはどうしても苦を苦とは思わない入馬の心境が理解できなかった。入馬にしてみれば、別に苦とは思えない毎朝の日課のようなものなのだ。他人目にはそう映るのか…くらいに軽くは思ったが、そう深くは考えていなかった。
 入馬の早朝出勤の概要(がいよう)は、職場の上層部の耳へも自然と届いていた。
 数年後、入馬は馬小屋ではなく役員室の席へ座っていた。入馬の苦は楽を齎(もたら)したのである。だが、入馬にとってピカピカに磨(みが)かれて輝く役員室のフロアは苦そのものだった。
 苦と楽は、隠れたその人の思いよう・・ということになる。

                              


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