天風(あまかぜ)渡は生れもっての正直者である。ただ、正直の上に馬鹿がつくほどだったから、何かにつけて損をしていた。この日も朝から、さっそく損をしていた。とはいっても、この日の朝の段階では、まだ天風の馬鹿正直によって引き起こされた営業の含み損は表面化していなかった。
課長の川戸は、かねてから天風に、○×物産との大口の契約を期日までに纏(まと)めるよう指示を出していた。その期日が昨日(きのう)で、天風は今朝、その報告を迫(せま)られていた。
「ああ、おはよう…。で、どうだった?」
川戸は出勤直後、天風を課長席に呼んだ。天風を前にし、開口一番、川戸は、そう切り出した。天風が受け持った大口の契約は見事に纏まっていた。だが、そこには一つの…。
「はい! 課長、纏まりました。三日後に契約させてもらう、とのことでした!」
天風は元気よく言った。
「おお! よく、やったな! 馬鹿正直な君を見込んだだけのことはある。ははは…」
川戸は課長席に座りながら、満足そうに笑った。だが、川戸の笑顔が真っ赤な憤怒(ふんぬ)の形相(ぎょうそう)に一変したのは、その三日後である。その日、契約を無事終えた天風は、会社へ取って返した。
「な、なんだ! この契約はっ!!」
契約書をひと目見た川戸は激怒した。
「見てのとおり、○×物産との契約ですが…」
怪訝(けげん)な面持ちで天風は川戸を窺(うかが)った。
「それは分かっとる!! なんだ、この額はっ!」
川戸は完全に切れていた。
「はあ…、書かれたとおりですが、それがなにか?」
天風は川戸がなぜ怒っているのかが分からなかった。天風とすれば、課長に言われたとおり契約を纏めた・・だけのことだった。だが、その天風の契約は馬鹿正直に纏めただけで、契約額の単価@が半額まで引き下げられていたのである。これでは仕入れ値を差っ引(ぴ)いて、大幅な含み損を計上する大赤字だった。下手(へた)をすれば、川戸は責任を追及され、解雇はないだろうが降格やリストラは覚悟せねばならなかった。だから、川戸が激怒するのも無理はなかった。
「もう、いい…」
川戸は天風を課長席前から自席へ下がらせた。部下を指示した自分にも責任の一端(いったん)はある…と思えたからだった。
一週間後、川戸は専務室へ呼び出された。川戸の心配をよそに、専務の鍋底(なべそこ)は至って機嫌がよかった。
「ははは…川戸君、やってくれたね! おめでとう!!」
笑顔の鍋底に握手を求められた川戸は、意味が分からず茫然(ぼうぜん)と手を差し出した。
「いやいや、君には分からないだろうが…。○×物産の社長から電話があってね。君の会社にはいい社員がいる、と言うんだよ。私も何のことか分からず訊(たず)ねると、君の課の天風君の名が出た。契約に偶然、居合わせたそうなんだが、あんな馬鹿正直な男はいない、私はあの男に惚れこんだよ、と言うんだ。で、今回の契約は最初の契約額で倍の発注をさせてもらいたいそうだよ、よかったな!」
笑顔の底鍋の説明で、ようやく川戸は話を理解した。
「ええ、私も彼の馬鹿正直さを買っていたんですよっ!」
5分前には思ってもいなかった言葉が川戸から飛び出した。
「だろ! ははは…」
二人は賑(にぎ)やかに笑った。
半年後、人事異動があり、馬鹿正直な天風は係長に、川戸は副部長に昇格した。
THE END
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