水本爽涼 歳時記

日本の四季を織り交ぜて描くエッセイ、詩、作詞、創作台本、シナリオ、小説などの小部屋です。

生活短編集 42 欲で生きる男

2014年04月20日 00時00分00秒 | #小説

 生れもって富豪のその男は、欲で生きる男である。彼から欲を取れば、何も残らない…と誰もが思うほどの凄(すさ)まじい欲の持ち主だった。男の前には我慢する・・という言葉は存在しなかった。我慢は健康によくない…というのが彼の持論で、必ず発散した。むろん、それは法律で許される範囲内だったが、あるときなど、ギリギリでセーフという事態も起きたりした。その欲の発散のため、男は一時、外国で居住し、発散後、また帰国したこともあった。だが彼は怯(ひる)まなかった。欲だけが男のすべてだったからだ。食欲、色欲、地位欲、名誉欲、金欲、物欲、生命欲…なんでもござれで、欲で生きる彼の糧(かて)となった。彼にはそれを極める天性の集中力が備わっていた。
「ああ、素晴らしい逸品(いっぴん)だねぇ…。12億なら安いじゃないか」
「いかが、いたしましょうか?」
 男は黙ったまま、片手でOKサインをだした。
「かしこまりました…」
 執事は下がろうとした。
「あっ! 今夜はアレにアレだよ」
 執事は止まって、振り向いた。
「はい、分かっております。アレにアレですね?」
「そう。アレのアレじゃないよ。アレにアレ」
「はい、かしこまりました。そのように…」
 軽く頭を下げると、執事はふたたび動き、去った。前者のアレとはアレで、後者のアレはアレである。言っておくが、決してナニではない。
 彼は欲で生きる男だったが、酒池肉林に溺(おぼ)れないある種の弁(わきま)えがあった。それが欲で生きるこの男の原点でもあった。
 あるとき、国連の事務総長が極秘裏に彼を二ューヨークへ招致した。会談は某ホテルの一室で、これも完全なマスコミをシャットアウトした警護態勢で、通訳を介して極秘裏に行われた。
「お願いいたします。是非とも世界の舞台へ!」
「いや、事務総長。申し訳ないのですが、私にはその気がありません。見えずに世界を動かす…それが、私です」 [私の欲です]と言いかけ、男は慌(あわ)てて[私です]と言い変えた。彼は一度、表舞台で世界を動かしかけたことがあった。だが余りの多忙さが、男にはどうもシックリと馴染(なじ)めず、その欲はいつの間にか消え去ったのだった。
 現在、男の欲はふたたび膨(ふく)らもうとしている。世界で頻発(ひんぱつ)する紛争を未然に消し去ろうという欲がメラメラと彼に燃え始めたのである。久しぶりに彼の心に湧いた欲の胎動である。この欲が満たされるとき、彼が世界の救世主となることは疑う余地がない。
 欲で生きる男は今、静かに世界の動静を見据(みす)えている。

                                完


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生活短編集 41 嘘[うそ]だろ!

2014年04月19日 00時00分00秒 | #小説

 会社からの帰り道、酔いが回った祐一がフラフラと歩いていると、歩道の一角に茶色っぽい手持ち用の鞄(かばん)が落ちていた。少し暗かったが、街灯の明かりで十分、鞄だとは分かった。祐一が恐る恐る手にすると、ズッシリと重い。チャックをまた恐る恐る開けると、中には札束がぎっしりと入っていた。祐一は、嘘(うそ)だろ! と一瞬、思った。さて、この鞄をどうするかだ…と祐一は巡った。辺りを見回せば、幸か不幸か人の気配はなかった。心の悪魔が、『誰も気づきゃしないさ、そのまま持って帰りな…』と囁(ささや)いた。その一方で、心の天使が、『聞いちゃだめ! すぐ見つかるんだから!』と、可愛い声で呟(つぶや)いた。その声は祐一が見染めたOLの彩香(さやか)の声に似ていた。彩香にメロメロの祐一の足はいつの間にか動き、気づけば交番の前にいた。祐一は交番へ、その鞄を届けていた。
「こりゃ、大金ですね…」
「事件ですかね?」
「さあ~私には…。ただ、その可能性もありますね」
「だとすれば、怖い話ですね」
「はあ、確かに…」
 警官のあんたが怖がってどうすんだい! と怒れたが、そこはそれ、冷静さを取り戻し、祐一は状況説明と手続きを済ませた。交番の警官は、その後、拾得物件預り書を祐一に手渡した。
「3カ月、見つからなかったとき、もちろん事件がらみじゃない場合ですが、その場合は、あなたのものですよ」
 警官は不気味な笑い顔でニヤリと笑った。
「はあ…」
 祐一は少し怖くなった。
「ご苦労さまでした!」
 そう言われて敬礼をされれば、悪い気はしない。
「いや、どうも…」
 祐一の心は明るくなり、帰途はルンルン気分だった。
 数ヶ月が瞬(またた)く間に過ぎ去った。そしてある日、祐一が住むアパートの郵便受けにお知らせハガキが舞い込んだ。落とし主が見つからないから受け取りに来て下さい・・という内容だった。祐一は嘘だろ! と自分の目を疑った。あれだけの大金だから、恐らく落とし主は現れるさ…と祐一は内心、思っていたのである。少し気分が高揚し、祐一は億万長者の気分になった。いつもは飲まないお客用にとっておいた高級ワインを傾け、一気に飲んで咽(むせ)た。急に心が萎(しぼ)み、俺は、さもしい…と情けなくなった。ともかく、今日は早く寝て、明日(あす)の朝一で行こう! と決意し、寝床に入った。
 次の朝、祐一はルンルン気分で朝食を済ませ、ハガキを背広へ入れようとした。ところが、どうしてもハガキが見つからない。躍起(やっき)になって探したが、分からなかった。そうだ! 預り書があったぞ…と机を開けたが、それも消えていた。嘘だろ! と祐一は思った。まあ、交番へ行けばなんとかなるさ…と思え、祐一は交番へ行った。そして、交番へ入ると警官がいた。祐一が事情を話すと、しばらく警官は調べた上で首を捻(ひね)った。
「おかしいですね。そのような物件は預かってませんが…」
「三か月前、確かに…」
「いえ…。いつでしたか?」
「11月の2日です」
「ははは…ご冗談を。今日は9月ですよ」
 祐一は嘘だろ! と思った。そのとき、祐一は意識が朦朧(もうろう)とした。気づけば、路上の片隅で眠っていた。そこは鞄を拾った場所のはずだった。嘘だろ! と祐一は起き上がった。祐一は長い夢を見ていたのだ。

                                 完


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生活短編集 40 冷や汗

2014年04月18日 00時00分00秒 | #小説

 高崎は冷や汗をよく掻(か)く。その掻きようは世間の常識を覆(くつがえ)し、とても尋常とは思えなかった。滝のような汗とは正にそれで、バケツが一時間ばかりで半分ほどになるのである。そうなれば、当然ながら水分補給を身体が要求する。高崎の周(まわ)りにスポーツ飲料のペットボトルを見ない日はなかった。
「また、あいつか…。桑畑、バケツを用意しとけ!」
 ラグビー監督の小池は遅れてやってきた高崎を目で追いながら、ベンチで鬱陶(うっとう)しそうに言った。
「はいっ! 分かりましたっ!」
 今年、チームに加わった雑用係の桑畑は返事と同時に立ち上がり、疾駆(しっく)してベンチから走り去った。桑畑と入れ換わってグラウンドに入ってきた高崎は、対照的にゆったりと歩いて現れ、少しずつベンチへ近づいた。彼にとって、少しの衝撃は冷や汗を流す・・という生理的な不測の事態に至るからだ。他の選手達はグラウンドでいつもの練習に余念がなく、汗を流している。汗を流すと言っても彼等が掻く汗の量は高崎の比ではない。
「遅くなりました…」
「んっ? ああ…まあ、いいさ」
 小池も出来るだけ刺激を与えまいと言葉を慎(つつし)んだ。バケツが到着するまでは高崎に冷や汗を掻かせられない・・という心理があった。
 しばらくして、雑用係の桑畑がバケツを2ヶ持って走ってきた。小池はそれを見て、思わず笑った。
「ははは…、いくらなんでも、そんなには掻かんだろう。なあ、高崎!」
「はあ、まあ…」
 高崎は小さく返した。そのとき、小池の携帯が激しくなった。
「はい、小池です。えっ! 選抜されましたか。朗報ですね!」
 小池のチームが全国杯に選抜されたのだ。それなりの勝ち星は積んでいたし、前回の国体に優勝した実績からして、ある程度の予想はしていた小池だったが、それが現実となったのである。監督としては、やはり嬉(うれ)しいものだ。その気持が、うっかり口を滑(すべ)らせた。
「いよいよ全国杯出場が決まったぞ! お前も忙しくなるな、高崎!」
 小池は大喜びで高崎の肩をポン! と一つ叩(たた)いた。それが、いけなかった。
「えっ!? 僕、出るんですか?」
 次の瞬間、高崎の緊張の糸はプツリ! と切れたのである。切れると同時に高崎の額(ひたい)から滝のような冷や汗が流れ始めた。小池は、しまった! と思ったが、もうあとの祭りだった。
「バ、バケツだっ!」
 小池は桑畑に叫んだ。桑畑は持ってきたバケツを高崎の前に置いた。
「お、おい、桑畑! ペットボトルだっ!!」
「は、はいっ!!」
 桑畑から手渡されたペットボトルを高崎は一気にグイ飲みした。グイ飲みして、冷や汗を流す高崎・・一つのバケツは、高崎自身が持つ瞬間最大汗量の時間記録を遥(はる)かに凌(しの)ぎ、僅(わず)か20分で一杯になった。ギネスものだ…と雑用係の桑畑は思った。二つ目も4分の1ほど溜(た)まったとき、高崎の冷や汗の出量は、ようやく峠を越した。小池は、やれやれ…と、ひとまず安堵(あんど)して、額の汗を拭(ぬぐ)った。練習しているグラウンドの選手達はベンチがそんなことになっていようとはまったく知らぬげに、長閑(のどか)に練習を続けている。
「バケツ 2(ツゥ~)は正解だったな桑畑。ははは…」
 小池は2ヶのバケツを見ながら苦笑した。

                                 完


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生活短編集 39 インスタント社員 

2014年04月17日 00時00分00秒 | #小説

 岡倉製菓は古びた工場で菓子の製造を行う小さな会社である。株式会社とは名ばかりで、従業員数は全員で40人足らずだ。
「社長! 弱りましたよ。田所が俄(にわ)かな腰痛で休みたいそうです」
「なんとか、ならんのか? 三崎君…」
 社長の岡倉は額(ひたい)の汗を手拭(てぬぐ)いで拭(ふ)きながら手を止めた。炭が赤々と燃えて熱を放ち、網の上の煎餅(せんべい)をほどよく焼いている。
「はあ…、私も、そういったんですが、どうも、いかんようです」
「辛抱強い田所君のことだから、よほど悪いんだろう。まあ仕方がない、臨時社員募集の求人広告を出してくれるか。やっと取れた特注だ、キャンセルはできん。上手(うま)くすると、皆の給料がアップできる! 田所君の持ち場は、とにかく家内にやらせるよ」
「分かりました。では、さっそく広告を!」
 給料アップが効いたのか、名ばかり専務の三崎は走るように去った。
 数日後、新聞に小さな広告ビラが入った。岡倉製菓の求人募集もその中のガイド紙面に掲載されていた。むろん、その大きさは他の広告と同じで、ほんの僅(わず)かだった。
「ほう! 君か。今度、来てくれるのは」
「はい! よろしくお願いします。インスタント社員の神坂です!」
「インスタント社員?」
 岡倉は採用予定の神坂を間仕切りだけで名ばかりの事務室で面接していた。自分でインスタント社員と言う臨時雇いは初めて経験する岡倉だった。これでは、どちらが面接しているのか分からない。
「はい! 私、こう見えて、いろいろと工場を回らせていただいてるんです。お蔭(かげ)さまで、どの工場でも喜んでいただきました、はい!」
「… そうなの? じゃあ、よろしく頼むよ。詳しいことは、あそこでタレ桶(おけ)を回している三崎専務の方から聞いて下さい」
 聞こえていたのか、少し離れたところにいる三崎は笑顔で軽く頭を下げた。
「はい、分かりました…」
「あっ! ちょっと待って! インスタント社員って、どういう意味なの?」
 事務室を出ようとした神坂を岡倉は止めた。
「ああ、その意味ですか。それなりに、なりきれるんですよ、私」
「えっ!? どういうこと?」
「つまり…まあ、明日になれば分かると思いますが、それなりに休まれている田所さんになりきれる・・ということです」
「誰が?」
「ははは…私ですよ、社長」
「今日来た君が、知らない田所君に?」
 岡倉は、妙なことを言う奴だ…という怪訝(けげん)な表情で神坂を見た。
「ええ、田所さんには一度、出会ってきました。それと、いろいろな情報とかも入手しております」
「といってだよ。経験のない君が、田所君のような熟練者と同じツケ焼きは出来んだろ?」
「はあ、同じとはいきません。ただ、一日間は、じぃ~~っとお待ちください。待っていただければ、それなりには近づけられます。だから、インスタント社員なんですよ」
 次の日、社長の岡倉以下、全員が目を疑った。神坂のツケ焼きの姿は、まるで田所そのものだった。焼き上がった煎餅も、ほどほどの仕上がりだったから、誰も文句を言えなかった。岡倉と三崎はインスタント社員の神坂を、ただ茫然(ぼうぜん)と眺(なが)め続けた。

                                 完


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生活短編集 38 尾鰭[おひれ]がつく

2014年04月16日 00時00分00秒 | #小説

 話には、どうしても尾鰭(おひれ)がつく。少し大きく話したいのが人の性分(しょうぶん)なのか、自分の話を他人に注目させて聞かせたい・・という願望なのか、その辺りのところは微妙だが、とにかく人は話す内容を飾り立てる傾向が強い。
 小学校の父兄参観が終わり、二人の母親、沙代と美登里が語らいながら帰り道を歩いていた。
「多田さんの奥様、最近、なんかよそよそしいわね」
 沙代が美登里に愚痴をこぼした。
「そらそうよ。旦那さん、会社で出世なさったそうよ。だから…」
 少し得意げに、美登里が沙代に返した。
「あらぁ~~、そうなの。誰からの情報?」
「蕪野(かぶの)さんの奥様」
「あの情報屋の蕪野さんの情報なら間違いないわね。道理で、よそよそしいはずだわ」
「なんでも、部長から執行役員だって…」
 また得意げに美登里が話す。
「執行役員ってなに?」
「平たく言えば取締役なんじゃないの」
「ふ~~ん、取締役か。偉いんだ…。うちなんか、ようやく課長補佐よ」
「私んちだって課長だから、大したことないわよ」
 いつの間にか二人はお互いを慰め合っていた。
「偉いのよねぇ~!」「偉いのよねぇ~!」
 沙代と美登里は憤懣(ふんまん)やる方ない言い方で、声を大きくした。
 その二日後、沙代と奈美江がスーパーの帰りなのか、買物袋を提(さ)げて歩いていた。
「多田さんの奥様、最近、なんかよそよそしいと思わない」
 奈美江が沙代に愚痴をこぼした。
「旦那さん、会社で出世なさったそうよ。だから…」
 少し得意げに、沙代が奈美江に返した。
「あらぁ~~、そうなの。誰からの情報?」
「美登里さん」
「ふ~~ん。道理で、よそよそしいはずだわ」
「なんでも、部長から執行役員だって…」
 また得意げに沙代が話す。
「執行役員って?」
「平たく言えば社長の下なんじゃないの」
「ふ~~ん、社長の下か。副社長よね。偉いんだ…。うちなんか、ようやく課長代理よ」
「私んちだって課長補佐だから、大したことないわよ」
 いつの間にか二人はお互いを慰め合っていた。
「偉いのよねぇ~!」「偉いのよねぇ~!」
 沙代と奈美江は憤懣やる方ない言い方で、声を大きくした。尾鰭(おひれ)がつき、多田はどんどん出世していった。

                                    完


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生活短編集 37 無駄のない動き 

2014年04月15日 00時00分00秒 | #小説

 人は動物だから動く。植物だって少しずつだが動いている。要は、生物は皆、動く訳だ。ただ、人間はその動き方が緻密(ちみつ)なのである。これは、よく言った場合の例(たと)えである。悪く言えばズル賢(がしこ)い生物…となる。その人間にも幾つものランクがある。先天的レベルの馬鹿、天然に近いお馬鹿さん、世間並み、幾らか又はある程度の賢者、秀才レベルの賢者、百年以上に一人出るか出ないかと言われる天才…と、まあこうなる。これだけランクがあれば、やはりとんでもないことを起こす人も現れる。なんだ、かんだ…どうたら、こうたら…で警官隊と衝突、流血の惨事、激しく車が燃える光景、銃の打ち合い・・など、これはある国で起きている現在の惨状だが、こうした行為は人々が生きていく上で完璧(かんぺき)に無駄な動きだ。破壊の前方に平和や人々の生活の向上はなく、生れるのは悲劇ばかりなのだ。そうと分かっていても集団となれば、人はそれをやる。
『0秒12の差の金メダルです!!』
 テレビのアナウンサーが興奮の声で話している。
「ふ~~ん、0秒12か…。両手を叩く速度の差だな。それで金と銀か! どっちも金やれよっ!!」
 睦彦が珍しく興奮している。
「私はダイヤの方がいいわ。ねぇ~~」
 妻の照代は天然気味で、しばしば睦彦を困らせた。おいおい! オリンピックの話だ! と言うのも無駄に思え、いや、逆に火に油だ、危ない危ない! …と睦彦は瞬間、口を噤(つぐ)んだ。下手(へた)に返せば、恐らくこの前、強請(ねだ)られたダイヤの指輪を買わされることは目に見えていた。睦彦の頭脳は無駄のない動き・・をしたのである。
「なんだ、もう明日、閉会式らしいぞ…」
 睦彦はリモコンを弄(いじ)ってチャンネルを変えた。緻密で無駄のない動きを頭脳が命じたのである。言動、行動とも自身の気持を少しカムフラージュする行為でもあった。妻の「ねぇ~~」という言動を逸(そ)らして遠ざけたのである。剣道なら、打ち込まれた竹刀(しない)を払い、逆に小手を決める…ような動きだ。
「皆さん、頑張ったわね…」
 功を奏したようだ…と睦彦は、ひとまずホッとした。その直後、照美が手にした袋から昨日、買ったネックレスを取り出した。
「ねぇ~~、似合う?」
「…」
 睦彦は逆に一本とられていた。夫の一瞬の油断を見据(みす)え、天然の妻が放った無駄のない動きだった。

                                  完


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生活短編集 36 人材屋 

2014年04月14日 00時00分00秒 | #小説

 今日も朝から人材屋は大賑(おおにぎ)わいである。
『はあ、さようで! 真言宗ですか…。おっ! ちょうど手頃なのがおります。そうでございますね。今からですと、そちら様へは九時前には着けると存じます! はい! では、そういうことで…。今後とも、ご贔屓(ひいき)に! はい! 有難うございました~!!』
 手配室の電話で客を上手(うま)くあしらったのは人材派遣の店・人材屋の主人で本坂という。本坂は机上のリスト簿を開け始めた。電話では、いると言った本坂だが、実のところ手頃なのは、これから探すつもりなのだ。そして、しばらくして確認した本坂は、すぐ内線電話をいれた。
『おい! 川北君、真言宗だから君の出番だ。先方さんはすぐ来て欲しいと言っておられる。よろしく頼むよ』
『分かりました。すぐそちらへ行きます』
 待機室には手頃な人材が多数、詰めている。医師、教師、家庭教師、弁護士、牧師、僧侶、庭師、理髪師、マッサージ師…など、公職を除くありとあらゆる職業の者、ざっとその数、200人ばかりが室内で出番を待っていた。これだけいると、当然ながらまったくお呼びがかからない者達もいた。彼等は日長、将棋や囲碁などをやっていた。もちろん、教えているのはアマチュアながらプロに引けを取らない有段者達で、職業として控えている連中である。だが、お呼びがかからない者達でも、給料は生活に困らない程度の一定額が支給されていた。中には、数か月、いや一年以上、まったくお呼びがかからない者達もいた。川北は待機室の中で、特に人気がある僧侶の一人で三宗旨を受け持てた。川北は依頼先の詳細と住所を確かめるため、手配室へと向かった。
「ああ、川北君。行ってもらうのはここだ」
 本坂は入ってきた川北に依頼先のデータが書かれた紙を手渡した。
「ほう! 家じゃなくてホールですか?」
「ああ。なんでも知り合いの寺がないそうだ」
「都会じゃそういうの、最近、多いですよね」
「だな…。九時前には行くと言ったから急いでくれ」
「分かりました。では、さっそく」
 川北は手配室を出ると、衣装室へ向かった。衣装はひと揃い、どんな職業のものもあった。衣装室へ入った川北は、帰って来て着替え中の安西と出会った。安西は牧師で、一泊二日で結婚式へ出張していたのだ。
「やあ、ごくろうさんでした! どうでした?」
「ああ、これは川北さん。新郎新婦とも幸せそうでしたよ」
「それは、なによりでした。私はこれから告別式の読経です」
「お気の毒なことです…」
「ははは…人生ですなぁ~」
 二人は顔を見合わせ笑った。人材屋は今日も大賑わいである。

                                  完


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生活短編集 35 一発勝負 

2014年04月13日 00時00分00秒 | #小説

 どういう訳か須藤君は失敗が許されない一発勝負に弱かったんです。それは、彼がメンタル的に弱いということも多分にありましたが、どうもそれだけではないようだ…と、腕組みしながら部活顧問の富岡先生は考えていました。これは、僕が先生から直接、聞かされたお話です。
 須藤君は、その日も部室に一人残り、トランペットを吹いていました。その様子を近くで富岡先生が腕組みして見ているという構図です。須藤君は上手(うま)くいった…と思った瞬間、指先が狂って途轍(とてつ)もない場違いな音を出してしまうのでした。その現象は、いつもぶっつけ本番の演奏で起こりました。練習とかでは上手くいっていたものが、どういう訳かステージとかに上った瞬間、もっと細かく言いますと、観客席に大勢の人がいたときなんですが、そうした場合に限り、必ず起こるというものでした。
「訳が分からんなぁ~。上手く吹けてるじゃないか」
 彼の持ち場の演奏が滞(とどこお)りなく終わったとき、富岡先生は首を傾(かし)げながらそう言いました。
「僕も上手く吹いてるつもりなんです…」
「そら、そうだろう…」
 須藤君は手に持ったトランペットを椅子の上へ置くと、先生を真似るように腕組みして首を傾げました。それを見た富岡先生は、真似をするな! とばかりに、両腕をだらりと下ろし、ズボンのポケットへ入れました。すると、須藤君もすぐ、そうしました。
「妙な奴だ! …まあ、いい。今日はもう遅い。帰りなさい」
「はい…」
 須藤君は富岡先生に一礼し、トランペットをいつもの保管場所へ戻すと部室を出て行きました。発表の演奏日が迫(せま)っていました。富岡先生は、どうしたものか…と思い悩みながら部室の鍵をかけました。
 次の日の放課後、男女のブラスバンド部の連中がぞろぞろと部室へ入ってきました。僕もその中にいて、皆(みんな)とワイワイやっていたのですが、須藤君だけは隔離されたように一人、浮いていました。須藤君が話しかければ話しますし、こちらから話しかけても須藤君は話すのですが、なぜか皆とは違和感があって浮いていたのです。だから、それは誰の責任でもありません。今、考えれば、やはり須藤君がまた発表会でドジるんじゃないかという潜在意識が皆にあったからじゃないか…と思えます。
「須藤! いい方法が見つかったぞ」
 そのとき、富岡先生が息を切らせて部室へ入ってきました。
「お前は、振りをしろ!」
「振り?」
 須藤君は訝(いぶか)しげな表情で富岡先生を見ました。
「そうだ! 吹いた振りだ」
「吹いた振り? ですか?」
「ああ、本番では音を出さずに指だけ動かしてろ。なにせ、一発勝負だから失敗はできん。今度失敗すれば、俺は顧問をやめんといかん。お前の持ち場は一年の増田に舞台の袖(そで)で吹かせる」
「分かりました」
「まあ、お前には悪いが、安全策だ」
 須藤君も自分が迷惑をかけていることは分かっていますから、素直に頷(うなず)きました。
 演奏会当日、須藤君は上手く吹く振りをしました。それが、なかなか上手かったのです。
「お前な。ブラバンやめて、演劇部へ入れ! 言っといてやるから」
「はあ…」
 須藤君は富岡先生の言葉に頷きました。今では演劇部の部長をしている須藤君ですが、なかなかの名演技で好評を呼んでいます。なんでも、劇団試験にパスしたとかで、プロになるようです。演奏の一発勝負では駄目だった須藤君ですが、演劇では上手くいってよかったです。

                                    完


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生活短編集 34 ギャップ 

2014年04月12日 00時00分00秒 | #小説

「一毛作になってしまった田畑には菜の花の黄色が一面に広がる光景は、もう見ることが出来ませんでした。そればかりではありません。レンゲ達が賑(にぎ)やかに咲き誇る桃色もです。いったいこの国はどうなっていくんだろう? と少年は不安になりました」
「そこまで…。次は但馬君!」
「はい!」
 小学校の国語の時間である。教室では教科書の朗読が続いていた。教師の山岡の声がして優(すぐる)が座り、健太が立って読み始めた。
「そんなことでもありません。僕がこの前行った田舎(いなか)のじいちゃん家(ち)の前に広がる田んぼは一面、菜の花畑でした」
「どこにそんなことが書いてあるんですか! 健太君」
「先生、すみません。でも、僕は本当のことを言いました…」
 教室内は大笑いで沸き返った。クラスで人気者の健太が夏休みに両親に連れられて帰った田舎の景色だ。山岡は一瞬、おし黙った。
「…。そうなんでしょうが、教科書どおりに読んでください」
「はいっ!」
 健太は優の続きを読み始めた。健太が最初、口にしたことと真逆のギャップがある内容だった。健太は読みながら、こういう所もあるんだろうな…と、素直に思った。
 放課後になり、健太が下校の途中、見える田んぼには、確かに何も植えられていなかった。健太は教科書どおりだ…と思った。そのとき、忘れ去られたように一株、咲く菜の花が健太の目にとまった。そういや、二年前、ここには一面、菜の花が咲いていた…。健太は二年前を思い出した。耕していた俊作じいさんは都会の息子さんに引き取られ、その後、耕す者は誰もなくなり、耕作放棄された田んぼだった。健太の黄色一面の記憶と現実はギャップがあった。今は春先でそれほどでもないが、夏場から秋までは草が生い繁り、通学路まで迫った。健太は現実を忘れようと、頭を激しく振りながら道を駆け始めた。

                                  完


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生活短編集 33 ナッツ石竹の強敵

2014年04月11日 00時00分00秒 | #小説

 彼は強い。その名をナッツ石竹という。彼はWBC世界ライト級チャンピオンである。彼の繰り出すカミソリパンチの切れ味は抜群で、切れるというよりは斬れると表現した方がいいほど凄(すご)かった。秒殺とは正(まさ)にこれで、彼の繰り出す素早いパンチを受けた者は必ずダウンし、二度と起き上がれなかった。
 この日も、ゴングがド派手に鳴らされていた。試合が始まって、まだ2ラウンドの前半なのだが、挑戦者は彼のパンチを受け、ぶざまにもリング上で大の字になって気絶していた。そんな彼が、まさか破れる日が来ようとは、誰が想像しただろう。相手は強豪とはとても呼べない格下の選手だった。
「えっ? ははは…、勝てるんじゃない?」
 試合前のナッツ石竹のコメントだ。彼自身に少し気分的な奢(おご)りがあったのも事実である。試合後、彼は自らの非を認めるコメントも出している。
「完敗です! やつには完敗です! まさか足の先がムズ痒(かゆ)くなるとは思ってませんでした…」
「… ?」
 その前日、ナッツ石竹は自宅の庭のテラスで寛(くつろ)いでいた。明日は試合だ…という意識はあった。減量は上手くいき、体調は万全だった。テラスの椅子に彼がゆったり座っていると、どこから飛んで来たのか、一匹のアブが彼の足元に止まった。残暑がまだ続いていたから、彼は半ズボンの単パン姿だった。当然、足は裸足だった。アブが美味(うま)そうな足がある…と思ったかどうかは分からないが、チクッ! と彼の足を刺した。痛っ! と、彼は瞬間、カミソリパンチを繰り出したが、敵もさる者、ブ~~ンと素早く飛び去った。彼に嫌な予感が走った。彼はともかく、足を手当てしよう…と薬剤の軟膏(なんこう)を塗り、腫(は)れも引いたことで、安心してしまった。そして、負け試合当日になったのである。
「そんな強い相手とも思えませんでしたが?」
 試合後、報道陣の質問が飛んだ。誰もが彼が負ける訳がないと思っていたのだから尚更(なおさら)だった。
「いやあ~、やつは素早い! 僕のパンチを避けて飛んでいきましたからねぇ~、ははは…」
「はあ?」
 報道陣はナッツ石竹の言葉が、どうしても理解できなかった。彼が同じ相手とのリターンマッチでふたたびチャンピオンに返り咲いたことは申すまでもない。

                                 完


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