2024年8月18日(日)
日航123便墜落事件
JAL裁判
青山透子 著
2022年11月30日 初版発行
を、読んでメモ
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日航123便墜落事件の不透明な事故処理によって、遺族や関係者たちは苦難に満ちた歳月を過ごしてきた。
そして事件から36年後の2021年3月26日。
事故で夫を亡くした遺族と、副操縦士の遺族として乗客たちへの贖罪の念を抱える関係者は、
JALが持つフライト・データの開示情報を求め。裁判闘争を開始した。
綿密な論拠を元に膨大な証拠を提出する原告と、僅かな反論しか提出しない被告・JALとの攻防。
そして2022年10月31日、判決の日を迎えた、、、
(以下メモ)
①裁判の終盤で裁判長が交代した。
東京地方裁判所
三輪方大裁判長 ⇒ 加本牧子裁判長
②「最初から結論ありの裁判だったのだなあ」、の印象を持った。
③原告が当初2名から1名に
(当初)
・夫・吉備雅男さんを失った吉備素子さん
・副機長・佐々木祐さんの姉の市原和子さん
(最終)
吉備さん1人に
④市原和子さんの事
市原和子さんの弟である副機長・佐々木祐さんは熊本大学工学部出身でJALの教育機関でパイロットになった。
日航123便の当日のフライトは、副機長から機長になる最終試験だった。
姉の市原さんは、夫を亡くした後、重い病気の娘さんと同居していた。
市原さんは、弟やJALのせいで多くの人が亡くなったと懺悔の気持ちにかられていたが
青山さんの本を読んで、心を開くようになり、遺族会ともつながった。
長い間、カトリック信者として信仰を共にしてきた仲間にも、弟が副操縦士だったことを伝え、
仲間たちも、裁判を応援してくれていた。
ところが、市原さんが熊本市内のE老人ホームに入居したころから、様子がおかしくなった。
以下著作よりP134~P136
【第1回口頭弁論期日までに裏で起こっていたこと】
2021年3月26日 ・東京地方裁判所にて訴訟記者会見
4月9日 ・市原和子さんに対して、叔母の訴訟のせいで
「(市原さんの)甥が機長になれない」
「裁判のせいで親族のJAL社員が会社を辞めなければならない」
と親族(医師)が発言。
4月19日 ・市原和子さんが九州記念病院に入院したという連絡が三宅弘弁護士に伝えられた。
病院に見舞いに行った教会関係者が教会の冊子などを差し入れたら大変喜んでおられた。
5月上旬 ・娘さんも別の病院に入院した。教会関係者と楽しい会話をしたと聞いた。
5月20日 ・突然、娘さんから教会関係者に不自然な手紙が届く。
母親の訴訟を止めさせたい旨が書いてあった。
5月25日 ・九州記念病院からの隊員が数日後に迫ったこの日、市原和子さんより、
娘の手紙のことを知ったうえで、改めて三宅弁護士と青山さん宛てに
「裁判をよろしくお願いします」というメッセージが届いた。
6月1日 ・市原和子さんが九州記念病院を退院して熊本市内のE老人ホームに入居。
6月上旬 ・吉備素子さんに共同通信社記者から取材依頼
6月6日 ・教会関係者から青山に連絡あり。
市原さんへの教会の冊子、手紙、電話取次ぎを、このE老人ホームによって
全部拒否された。親展の手紙も届かない。
6月12日 ・吉備素子さんに共同通信社H記者が不可解なインタビューを実施。
6月14日 ・吉備素子さんへのインタビューについて、赤石弁護士からH記者へ取材内容及び
マナー違反の通知をだす。
6月中旬 ・教会関係者が市原さんのE老人ホーム経営者の院長へ直接面会を求める。
院長の妻の事務局長が「市原和子さんは教会の人に騙されたと言っている。
信仰を捨てたから面会できない」とかたくなに面談を拒否。
さらに、「市原さんはロザリオをゴミ箱に捨て、認知症の傾向がある」と事務局長が発言。
6月21日 ・JAL訴訟代理人弁護士から答弁書が提出される。
6月22日 ・共同通信社H記者が赤石弁護士に謝罪の手紙を投函。
6月28日 ・第1回口頭弁論期日
※注釈
・このE老人ホームの事務局長のC・K氏は、元日本航空客室乗務員だった。
日航123便で殉職した木原幸代さんと同時期の1974年入社で、木原さんと同じで熊本出身だった。
・「甥が機長になれない」に対して。 甥は2016年にすでに機長になっていた。
以下著作よりP141~P143
【E老人ホーム入居から2か月後、事態は強制的に動いた】
2021年 8月5日 ・突然、市原和子さんの親族から三宅弁護士に訴訟を取り下げたい旨の電話があった。
前述の医師ではない別の親族から。
三宅弁護士は市原さんから委任状をいただいているから、本人確認が必要と伝えた。
8月31日 ・突然、東京地方裁判所に民事部37部から三宅弁護士に連絡が入る。
市原和子さん名義で、裁判所に直接、取下書が提出されたとのこと。
驚いた三宅弁護士がE老人ホームに直接電話して確認を試みたが、C・K事務局長に拒否される。
直接本人確認ができないため、取下げの医師の確認をE老人ホームに送付。
この時点でまだ電話連絡が一切なし。
9月1日 ・次回の原告側準備書面提出予定が、取下げにより保留。
9月7日 ・東京地方裁判所から三宅弁護士宛てに、事務連絡のファックスが届く。
市原和子さんの取下書とJAL代理人弁護団の取下同意書が一緒に届いた。
9月8日 ・東京地方裁判所に原告側弁護団が上申書提出。
いまだに市原和子さんと連絡がとれないため、9月13日に予定されている第2回口頭弁論の
取消しと延期を上申する。
9月10日 ・9月13日予定の第2回口頭弁論期日取消。延期。
同日、速達で原後綜合法律事務所(三宅弁護士)に市原和子さんから葉書が届く。
9月14日 ・次回期日が10月18日午後3時、706号法廷と決定。
※参考 10月19日 第49回衆議院議員総選挙公示 熊本1区 元日本航空社員・木原稔立候補
10月31日 熊本1区 元日本航空社員・木原稔当選
【木原稔氏メモ】
2004年 日本航空を退社
2005年 自民党かながわ政治大学校第9期終了。 自民党選考会で公募者17人のなかから熊本1区支部長に選出。
同年9月の第44回衆議院議員総選挙に熊本1区から立候補し、民主党の松野頼久氏に敗れたが、
比例九州ブロックで復活当選した。
2009年 第45回衆議院議員総選挙では、民主党の松野頼久氏に敗れ比例九州ブロックでも復活当選ならず落選。
2012年 第46回衆議院議員総選挙では、日本維新の会に鞍替えした松野を破り熊本1区で当選。
以下省略
彼が落選した2009年、中曽根康弘首相時代の官房長官・藤波孝生の息子、藤波清孝氏がJAL熊本支店長として赴任した。
2009年は日本航空の倒産(2010年)直前でゴタゴタしている最中であり、リストラも激しさを増していたその時、
わざわざ元日本航空社員が落選した縁もゆかりもない熊本に、藤波氏は支店長として勤務した。その藤波氏のおかげで
木原氏は、2012年第46回衆議院議員総選挙で再度議員に復活できたともいわれている。
秘書のR・Sも昭和57年入社の元日本航空社員である。