2024年4月19日㈮
サリドマイド 復活した「悪魔の薬」
栢森 良二(かやもり りょうじ)著
2021年6月14日 第1版第1刷発行
を、読んでメモ
(1)1960年代、大衆薬に含まれていたサリドマイドを服用した妊婦から手足が欠損した子供が生まれる
という、「サリドマイド薬禍」は社会に大きな衝撃を与えた。
(2)サリドマイドはどのようにしてできて、どのように販売されたか。
①サリドマイドは1953年スイスのチバ製薬で、グルタミン酸の誘導体として最初に誕生したが、
チバ製薬は薬理的な効果がないとして、それ以上の研究を中止する。
②ドイツのグリュネンタール社の科学部長ハインリッヒ・ミュクターは、1954年にサリドマイドを合成し、
その開発に着手した。グリュネンタール社は、同年4月に臨床試験を試みている。
③グリュネンタール社は、最初、サリドマイドを抗てんかん薬として販売したが、あまり効果がなかった。
そのかわり、鎮静作用や睡眠効果があることから、1967年10月コンテルガンという商品名で、睡眠薬、精神安定剤として販売した。
サリドマイドを含む薬品は瞬く間に各国で販売されたが、後に書く事情で米国では販売されなかった。
④日本では、大日本製薬の研究員が、グリュネンタール社のミュクター博士が薬学雑誌に発表した文献を見て
異なった合成法でサリドマイド剤を独自に開発した。
(日本では薬剤などの物質が特許の対象にならず、薬剤製法が特許の対象になっていたという事情による。
このため、後に大日本製薬とグリュネンタール社との間に法的な争うが生じた)
大日本製薬は、1958年1月にイソミンの名前で発売した。
(3)被害の出始め
1959年にコンテルガンの売上が爆発的に増加すると、便秘・めまい・血圧低下・健忘症・感覚障害などの症状が報告されてきた。
四肢の低成型、海豹肢症の子供が目立って多く生まれるとの報告はあったが、それがコンテルガンと関係あるとは推測できなかった。
(4)レンツ博士と販売中止にいたるまで
①1961年6月にハンブルグ大学の小児科講師ビドユキンド・レンツ博士は、青年弁護士カルル・シュルテ・ヒレンから相談を受ける。
1961年3月に生まれた自分の姪も、1961年4月に生まれた自分の子も同じように奇形児でその原因が分からなかったのだ。
②翌日、知人の産婦人科医に電話をかけて、このほかにも同じような奇形児が急増していることを知った。
1961年11月、レンツ博士は、所属するハンブルグ大学に頼み、すべての医局の義務から解放してもらい、
助手のクラウス・ナップとともに本格的な調査を開始した。
次第に、共通してサリドマイド服用していることがわかり、彼らは小児医局に戻り、シェーファー教授に報告した。
③1961年11月15日、レンツ博士らはグリュネンタール社に報告した。
④1961年11月18日、デュッセルドルフでの小児科研究会で、自分の疑義を公表した(レンツ警告)
⑤1961年11月20日、(午前)グリュネンタール社と会合、(午後)ハンブルグ保険局も交えて会談を行った。
グリュネンタール社は、頑なに拒否し、記録をすべて引き渡すよう要求した。
⑥1961年11月24日午前10時、ノルトライン=ヴェストファーレン州内務省において、会談を行った。
⑦1961年11月25日、国際プレスの配信が、「ノルトライン=ヴェストファーレン州内務省が、先天奇形の疑義から
サリドマイドの販売を中止した」と伝えた。このニュースはまもなく間違えだと取消されるが、その前に全世界の新聞に配信された。
1961年11月26日、ドイツの新聞が「薬剤による奇形~世界的に流通している薬に疑義あり」というニュースを掲載した。
⑧この結果、サリドマイドに対するマスコミや世論の圧力が高まり、11月27日、グリュネンタール社はサリドマイドの回収を決定した。
サリドマイド 復活した「悪魔の薬」
栢森 良二(かやもり りょうじ)著
2021年6月14日 第1版第1刷発行
を、読んでメモ
(1)1960年代、大衆薬に含まれていたサリドマイドを服用した妊婦から手足が欠損した子供が生まれる
という、「サリドマイド薬禍」は社会に大きな衝撃を与えた。
(2)サリドマイドはどのようにしてできて、どのように販売されたか。
①サリドマイドは1953年スイスのチバ製薬で、グルタミン酸の誘導体として最初に誕生したが、
チバ製薬は薬理的な効果がないとして、それ以上の研究を中止する。
②ドイツのグリュネンタール社の科学部長ハインリッヒ・ミュクターは、1954年にサリドマイドを合成し、
その開発に着手した。グリュネンタール社は、同年4月に臨床試験を試みている。
③グリュネンタール社は、最初、サリドマイドを抗てんかん薬として販売したが、あまり効果がなかった。
そのかわり、鎮静作用や睡眠効果があることから、1967年10月コンテルガンという商品名で、睡眠薬、精神安定剤として販売した。
サリドマイドを含む薬品は瞬く間に各国で販売されたが、後に書く事情で米国では販売されなかった。
④日本では、大日本製薬の研究員が、グリュネンタール社のミュクター博士が薬学雑誌に発表した文献を見て
異なった合成法でサリドマイド剤を独自に開発した。
(日本では薬剤などの物質が特許の対象にならず、薬剤製法が特許の対象になっていたという事情による。
このため、後に大日本製薬とグリュネンタール社との間に法的な争うが生じた)
大日本製薬は、1958年1月にイソミンの名前で発売した。
(3)被害の出始め
1959年にコンテルガンの売上が爆発的に増加すると、便秘・めまい・血圧低下・健忘症・感覚障害などの症状が報告されてきた。
四肢の低成型、海豹肢症の子供が目立って多く生まれるとの報告はあったが、それがコンテルガンと関係あるとは推測できなかった。
(4)レンツ博士と販売中止にいたるまで
①1961年6月にハンブルグ大学の小児科講師ビドユキンド・レンツ博士は、青年弁護士カルル・シュルテ・ヒレンから相談を受ける。
1961年3月に生まれた自分の姪も、1961年4月に生まれた自分の子も同じように奇形児でその原因が分からなかったのだ。
②翌日、知人の産婦人科医に電話をかけて、このほかにも同じような奇形児が急増していることを知った。
1961年11月、レンツ博士は、所属するハンブルグ大学に頼み、すべての医局の義務から解放してもらい、
助手のクラウス・ナップとともに本格的な調査を開始した。
次第に、共通してサリドマイド服用していることがわかり、彼らは小児医局に戻り、シェーファー教授に報告した。
③1961年11月15日、レンツ博士らはグリュネンタール社に報告した。
④1961年11月18日、デュッセルドルフでの小児科研究会で、自分の疑義を公表した(レンツ警告)
⑤1961年11月20日、(午前)グリュネンタール社と会合、(午後)ハンブルグ保険局も交えて会談を行った。
グリュネンタール社は、頑なに拒否し、記録をすべて引き渡すよう要求した。
⑥1961年11月24日午前10時、ノルトライン=ヴェストファーレン州内務省において、会談を行った。
⑦1961年11月25日、国際プレスの配信が、「ノルトライン=ヴェストファーレン州内務省が、先天奇形の疑義から
サリドマイドの販売を中止した」と伝えた。このニュースはまもなく間違えだと取消されるが、その前に全世界の新聞に配信された。
1961年11月26日、ドイツの新聞が「薬剤による奇形~世界的に流通している薬に疑義あり」というニュースを掲載した。
⑧この結果、サリドマイドに対するマスコミや世論の圧力が高まり、11月27日、グリュネンタール社はサリドマイドの回収を決定した。