インテグリティって、ほとんど廉恥心。
今執筆中の、『インテグリティ』第二弾の原稿を少し抜粋。
恥には、羞恥心(恥をかくのを嫌がる心、Shame)のみならず廉恥心(恥を知ること、Sense of honor)があります。
「人から恥ずかしいと思われる」という他人目線の羞恥心とは異なり、廉恥心は「自分の良心に照らして恥じることがない」という自分目線です。羞恥心が外的で社会的であるのに対し、廉恥心は内的で道徳的です。
「見苦しい、みっともない、カッコ悪い」が羞恥心を表し、「さもしい、卑しい」が廉恥心に近いです。
「俯仰天地に愧じず」(俯しても仰いでも天地神明に誓って恥ずかしくない)という孟子の言葉は、自律的・深層的な廉恥心を表しています。新渡戸稲造も『武士道』で羞恥心ではなく廉恥心を説きました。
このような廉恥心と羞恥心との違いを考えると、インテグリティは廉恥心に極めて近いです。実際、テコンドーではテコンドー精神のインテグリティを「廉恥」と訳しています。
____________
インテグリティ・廉恥心・罪悪感・羞恥心を比較します。
インテグリティが最も内的な深奥に関わる道徳的なもので、次に廉恥心、その次に罪悪感、最後に羞恥心が来ます。羞恥心が、最も外的で社会的な心情です。
それぞれの微妙な違いはさほど意識する必要はありませんが、インテグリティの定義が「人が見ていなくても正しいことをする」であり、羞恥心は人に見られるときに感じることから、こう比較するとインテグリティの位置づけが分かりやすくなります。
インテグリティは信念や美学に近いです。