執筆中の原稿から抜粋:
渋沢栄一の『論語と算盤』から何を我々は学べるのでしょうか。
まずは2024年から発行された新紙幣の顔・渋沢栄一その人を振り返ってみましょう。
どんな人
渋沢栄一は、みずほ銀行、日本郵船、東京海上日動、その他名だたる日本の企業500社の創設に関わり、「日本資本主義の父」と言われています。
経営学者P.ドラッカーも渋沢栄一を激賞し、「経営の『社会的責任』について論じた人物の中で、渋沢栄一の右に出る者を知らない」とまで言っています(『マネジメント』、1978年)。
慈善家としても知られ、600の公益事業に関わりました。最晩年には国際平和に尽力し、2度もノーベル平和賞の候補になりました。
渋沢栄一は自己顕示欲が強かったのか、韓国併合時に一度お札の顔になりました。ですからお札になるのは今回で二度目です。
人物像
渋沢栄一の生まれは高杉晋作の1年後、伊藤博文の1年前です。幕末の志士の中のやや若手世代です。
一万円札の渋沢栄一の肖像は、解像度が低いせいか老けたお猿さんっぽく見えますが、若い頃の彼はとてもハンサムでした。
甥で養子にした渋沢平九郎が「最もイケメンの幕末の志士」と言われています。
平九郎の苦み渋った眼光は「男でも惚れる」凄みを持っていますので、検索してご覧になってください。
平九郎は戊辰戦争で渋沢の代りになるように戦死しました。渋沢栄一はフランス留学中で戊辰戦争を経験していません。
渋沢栄一の従兄・渋沢成一郎は、上野戦争で知られる彰義隊の隊長でした。目黒の八芳園を造り、その美しい日本庭園は今でも国賓級の要人との会食で利用されます。
渋沢の身長は153センチであり、当時でもやや短躯でした。山椒は小粒でもピリリと辛いのです。
生まれ育った埼玉の深谷と、晩年に住んだ東京北区の王子に渋沢栄一の記念館があります。史跡巡りをするにはまずはこれらがお勧めです。
玄孫の澁澤健さんが、サステイナブルな金融業の展開を通じて渋沢栄一の遺志を継いでいます。
士農工商すべてを経験
渋沢栄一の人生の最大の特徴は、「士農工商」を全部経験したことです。
渋沢は、大きな家に住む豪農として生まれ、生家で青色の原料になる藍を工夫して製造し、「農」と「工」を経験しました。
1863年、攘夷のための「横浜居留地焼き討ち」を実現直前まで計画するなど、テロを厭わぬ血の滾った志士でした。幕末に最後の将軍・一橋慶喜の家臣になり、正式に武「士」になりました。
その後フランスに留学し、明治初年の帰国後に大蔵省に勤めて官僚になりましたが、明治4年に辞めて実業家になり、「商」人になりました。
このように、士農工商を全部経験したからこそ、人情の機微に通じ、多様な人を巻き込む人間力を身に付けました。
欧州留学
渋沢を渋沢たらしめたのは、欧州経験でしょう。戊辰戦争の直前、27歳のときに2年弱、フランスなど6か国に留学し、最も初期に欧州留学をした日本人の1人となりました。行くときは和服に丁髷でしたが、帰国時には洋装洋髪です。
留学の数年前には攘夷を叫ぶ志士でしたが、帰国時に惚れたフランス女性を連れて帰ろうとして振られるなど、下半身にはだらしないところがあり、これは死ぬまで治りませんでした。
建白魔
渋沢栄一にはバイタリティがあり、若い頃は3日間徹夜をしても平気でした。
欧州経験のある渋沢には明治政府の頑迷固陋さが歯がゆかったのでしょう、大蔵省時代には2週間に1本の建白書を提出し、「建白魔」の異名をとりました。
最晩年には世界平和のために何度も渡米しました。飛行機ではなく船で行くため何日もかかるでしょうが、4回目の最後の訪米時は81歳でした。
大正時代の81歳は、今の100歳に相当するのではないでしょうか。92歳で大往生を遂げました。
徳川慶喜への忠誠
渋沢は、20代で数年仕えただけの最後の将軍・徳川慶喜を生涯尊敬し、忠誠を尽くしました。20年かけて徳川慶喜の伝記『徳川慶喜公伝』を作ったほどです。
渋沢がなぜ慶喜に惚れこんだのかというと、慶喜が一切言い訳をしなかったからです。
毀誉褒貶の多い慶喜ですが、特に「戊辰戦争時に大阪城から逃げた」ことは、将軍の振る舞いとして今でも強く非難されています。
しかし、慶喜は一生、一切、弁解をしませんでした。逃亡の是非はともかく、何らの弁解をせずに生涯沈黙を守ったことは評価するに値します。
その武士道的人間性に感動した渋沢栄一は、自らが編纂した慶喜の伝記の中で、かつての主君を「大いなる犠牲的観念、偉大な精神がある、偉大なる人格だ」と手放しで礼賛しています。
沈黙を貫いて静かに余生を過ごした徳川慶喜を、渋沢は侍としてのロールモデルにしていました。
実業家になってからの渋沢栄一を悪く言う人がいないのも、慶喜由来の言い訳しない人格が寄与していたに違いありません。
ライバル・岩崎弥太郎
三菱財閥の創始者・岩崎弥太郎と渋沢栄一はほぼ同世代です。
両者を比較して、「弥太郎は財閥を作ったけど、渋沢栄一は私利のために財閥を作らなかった」と渋沢を美化する向きもあります。
たしかにそういう側面もありますが、歴史的事実としては渋沢財閥は存在し、戦後にGHQから財閥指定も受けています。
渋沢が大財閥を作らなかったのは、子育てに失敗したからともいえます。
外では論語や商業道徳を説いていながら、私生活ではお妾さんと同居し、多くの婚外子がいました。
長男の篤二はそんな言行不一致の父親を見てグレた遊び人になり、渋沢から廃嫡されました。相続権の否定です。
当時の価値観に鑑みて女性関係に寛容になりたいものの、篤二廃嫡はやはり渋沢の汚点ではないでしょうか。
当時でも福沢諭吉のように一切女性問題を起こさない潔癖で理想的な家庭人もいました。
なお、「岩崎四代」として知られる三菱財閥の草創期のトップ(弥之助、弥太郎、小弥太、久弥)は、子育てと事業承継に成功しました。
子どもには貧乏させ、留学させ、そして財閥トップを50歳前後で次世代に譲ったのです。岩崎家は家庭教育で渋沢家に勝ったといえます。
渋沢が女性問題を起こさずに篤二が立派に育っていれば、渋沢財閥が三菱を凌いでいたかもしれません。
以上、渋沢栄一の人生について簡単に述べました。次は、『論語と算盤』についてです。
~~~引用終わり~~~
続きはおってまたシェア差し上げます!