https://ryuho-okawa.org/quotes/20190609/
若いときには、いろいろと悩んだり、スランプがあったり、
劣等感で苦しんだりして、選手としては一流ではなかったけれども、
その分、人生の辛酸を嘗め、多くの人たちの気持ちが分かるようになった人には、
“名監督”になっていくような面があったりします。
「管理職年齢」以降の成功においては、
一般に、若いころの成功とは違ってくるところが大きいのです。
『人生に勝つための方程式』 P.37より
https://ryuho-okawa.org/quotes/20190609/
若いときには、いろいろと悩んだり、スランプがあったり、
劣等感で苦しんだりして、選手としては一流ではなかったけれども、
その分、人生の辛酸を嘗め、多くの人たちの気持ちが分かるようになった人には、
“名監督”になっていくような面があったりします。
「管理職年齢」以降の成功においては、
一般に、若いころの成功とは違ってくるところが大きいのです。
『人生に勝つための方程式』 P.37より
https://ryuho-okawa.org/quotes/20190613/
私が説いている仏法真理のなかに、「縁起の理法」(原因・結果の法則)がありますが、
学生時代ほど、この縁起の理法がよく当てはまる時代はありません。
実社会では、努力をしても、結果は、なかなかストレートには出てこないものです。
しかし、学生時代は、例えば、数学であろうと、英語であろうと、
的確な方法できちんと勉強すれば、「できなかったところが、できるようになる」
という効果が、はっきりと出てくるのです。
したがって、学校教育においては、子供たちに、
勤勉を中心とした努力の大切さを自分自身で確認させるとともに、
「努力をしたら、努力しただけの成果があがってくる」ということを、
きちんと自覚させることが非常に大事だと思います。
『教育の法』 P.181より
http://voicee.jp/201310196993
2人の子供を見送って
私たち家族は、幸福の科学の霊園である、栃木県那須郡にある「来世幸福園(らいせこうふくえん)」を訪れました。
ここに来ると、「あの世」は、この世と離れた場所にあるのではなく、すぐそこにある気がします。手が届くところで、あの世の人たちが手を振っている気がします。
私たち家族はここに来て、5人の納骨と法要をしました。
5年前に亡くなった2女の香菜、19年前に亡くなった長男の大樹。
そして私の母と、主人の父、私の叔母の5人です。
法要が始まると、天上界から燦々と光が降り注ぎ、5人の方々の「ありがとう」という声が聞こえてくるようでした。
死は永遠の別れではない。
この世で肉体が死んでも、あの世で魂は生きている。
そして、また愛する人と、あの世で再会することができる―――。
この幸福の科学の教えが、私たちにどれほど希望を与えてくれたことでしょうか。
振り返ると、2人の子供と過ごした日々が、走馬灯のようによみがえってきます。
お子さんをどうされますか?
大樹(たいじゅ)が私たちの子供として生まれたのは、19年前のことでした。
そのころ、私とお父さんは、とても夫婦仲が悪い状態でした。
しょっちゅうケンカばかりしていました。
自衛隊に勤務して、若いころはずっと船に乗って家を空けていたお父さん。
陸上勤務になっても、帰ってきたと思ったら、すぐに家を飛び出してしまい、家にいるということがありません
。
3人の娘を抱えていた私は、いつも不満ばかりでした。
「もっと家族と一緒にいて、家のこともしてくれたらいいのに……」
お父さんが熱中していたのは、幸福の科学の活動です。
私も幸福の科学の本は読んで、いいことが書いてあると思っていましたが、なぜそこまでお父さんがのめり込むのかが理解できず、いつもお父さんを責めていました。
そんなころ、私は妊娠しました。
3女を産んでから7年。
待望の男の子です。
私もお父さんも、娘たちも、どれほどあなたの誕生を喜んだことでしょう。
予定日から2カ月以上も早く、私は出産の日を迎えました。
微弱陣痛のため、薬を使ってやっと生まれてきた、あなたの泣き声は、まるで猫の鳴き声のようだったと覚えています。
上3人の娘とは違って、あなたとは、なぜかすぐに会わせてはもらえませんでした。
そして、あなたは別の病院に入院してしまったのです。
その事実を私が聞かされたのは、何日もたってからのことです。
お父さんが医師に呼ばれ、こう言われたそうです。
「お子さんには奇形があります。おそらく長くは生きられないでしょう。この子をどうされますか?」
「どうされるとは……? もちろん、育てます!」
お父さんは力強く、そう答えたそうです。
私があなたと初めて会えたのは、生後半月もたったころでした。
集中治療室に入っていたあなたを、ガラス窓の外から、覗いてみました。
下半身をタオルにくるまれていたので、奇形だということは、分かりません。
あなたは、すやすやと眠っていました。
「かわいいやん」
私の言ったひとことに、お父さんはすごくホッとしたそうです。
障害の子を育てる覚悟
私たちは、大きな樹のようにすこやかに育ってほしいという願いを込めて、あなたに大樹と名前を付けました。
あなたの片方の足は曲がっていました。
手の指も、硬くて曲がらない状態でした。
でも、私たちを見つめてキラキラ光る黒目がちの瞳も、私の手を握り返してくる小さな手も、すべてが愛しく、余計に涙がこぼれてきました。
「どうして、大樹は、こんなことに? 子供は五体満足で生まれるものだって、なんの疑問もなく、信じていたのに……」
そんなある日、同じ病室の方とお話ししました。
「私の子供は、今年4歳になります。生まれてから一度も病院から出られなくて……」
その子も重い病気を持っていました。
見回してみると、ほかにも病院内には、大きな病気を抱えた子供たちが何人もいました。
病院に入るまでは、そんな子供たちのことを考えたこともなかった私です。
「私だけじゃない。もっと大変な人はたくさんいるんだ。泣いてばかりいたってしょうがない。もっと前向きに生きなきゃ!」
弱気な心を励ましながら、もう、決して泣くまいと、誓いました。
そのとき、ようやく私は、あなたを育てる覚悟ができたのだと思います。
離れた心を一つに
生後1カ月で、あなたはようやく集中治療室を出て、自宅に帰ってきました。
お姉ちゃんたちのなかでも一番の仲良しは、2女の香菜でした。
翌月には東京ドームで大川隆法総裁の御生誕祭がありました。
私たちは、家族そろって広島から参加しました。
そのとき、8歳の香菜が、ずっとあなたを抱いていてくれました。
「私がだっこする!」
あなたを中心に、娘たちが笑い合っています。
その様子を見て、お父さんも私も顔を合わせて笑顔になりました。
離れていた家族の心が、あなたのおかげで、一つになれた気がしました。
しかし、それから間もなくのことです。
大樹のおなかの横に、ぽっこりとした出っ張りが見つかり、私は急いで病院につれて行きました。
レントゲンを撮った医師が言いました。
「脱腸ですね。それより、肺のなかが真っ白です。すぐに入院してください」
それ以来、大樹はずっと病院で過ごすことになりました。
小さな体で闘う大樹
入院してからも、あなたは小さな体で病気と闘い続けました。
私は3人の子育てがあるので、大阪に住む私の母が、ずっと病院に泊まり込んで、あなたの付き添いをしてくれました。
母は介護の仕事をしていたので、率先して引き受けてくれたのです。
本当にありがたかったです。
そして土日は、私とお父さんが交代で、あなたに付き添いました。
お父さんは、仕事が終わると毎日病院にやってきて、あなたの足や手をさすっていました。
「足が、よくなりますように。手が、よくなりますように」そう言いながら、あなたに話しかけていました。
私はそんなお父さんの様子を見て、見直しました。
不仲だった私たち夫婦の心が、あなたのお陰で、だんだんと元に戻っていったのです。
あなたの呼吸が止まり、命の危険にさらされたことも、9回ありました。
そのたびに、私たちの祈りが通じ、あなたは生き返ってくれました。
しかし、入院して7カ月になろうとしたころ、もう、あなたは自力で呼吸をすることができなくなっていました。
「人工呼吸器をつけますが、お子さんがまだ小さいので、肺がつぶれる可能性があります」
医師の言葉に、あなたの痛みを思うと、苦しくて私の胸もつぶれそうになりましたが、口からは「お願いします」と、言葉が出ていました。
もう、長くはないのか……私もお父さんも、そう思いました。
でも、一縷(いちる)の望みにかけたのです。
頑張り通した10カ月の命
その後、あなたは人工呼吸器を付けたあとも45日間、生き続けました。
この45日は、私たちが心の準備をするために与えられたのだと思います。
「大樹は一生懸命生きようと頑張っている。でも、生き延びても、大樹の苦しみが長くなるだけなのかもしれない。ひょっとしたら、大樹は、私たちのために、頑張っているのかも……」
そう思うと、この世にあまり引き留めるよりは、あの世にお返しして、また健全な体で生まれ変わることを望んだほうがいいのかもしれない。
私もお父さんも、だんだんと、そういう覚悟を固めていきました。
それはつらく、悲しい時間でしたが、生の意味、死の意味を、心底考える時間でもありました。
最期の日、医師が告げました。
「この心電図の波形を見ていてください。止まったら、教えてください」
主人と医師の言葉を聞きながらも、私は心電図を正視することができなくなっていました。
「大樹、もう、いい……よ。ありがとう。よく頑張ったね」
私の口からその言葉を聞いた大樹は、安心したように、静かに息を引き取りました。
お父さんも私も、人目もはばからず号泣しました。
「大樹は、私たちの心の準備ができるのを、ずっと待っていてくれたんだね。ありがとう。よく頑張ったね……」
そのとき、不思議な光景を目にしました。
亡くなった大樹の足が、まっすぐになり、固まっていた手の指も、曲がるようになっていたのです。
「ああ……、あなたはもう、不自由な肉体を抜け出して、自由自在になったのね。もう、苦しむことはないんだね……」
涙に暮れながらも、新たな希望の灯がともったようでした。
大樹、ありがとう
告別式には、大勢の人が集まってくれました。
棺には、あの世で天使たちに導いていただけますようにと、幸福の科学の根本経典である『正心法語(しょうしんほうご)』を入れてあげました。
幸福の科学の仲間が、あなたのために、みんなで『正心法語』を唱えてくれました。
「大樹、よかったね……。私たちの子供として生まれてきてくれて、ありがとう……」
みんなに送られて、あなたの小さな命はあの世に還っていきました。
私たちは、あなたにいろいろなことを教えてもらいました。
あなたの闘病と死を通じて、私は幸福の科学の教えを真剣に学ぼうと思うようになりました。
それは、あなたの10カ月という短い命の「意味」を考えたかったからです。
もし、幸福の科学の教えがなかったら、私はずっと悲しみに暮れていたでしょう。
でも、私は信じることができました。
「人は、死んでも、あの世で生きている。そしてこの世に生まれ変わってくる」こと。
「障害を持って生まれてくるのも、その人の人生の計画であり、人生は一冊の問題集である」こと。
「この世に生まれてくることは、とても危険を伴うけれど、あえて勇気を持って生まれてくる。だから、その命を大切にしなければならない」こと。
「愛する人とこの世で別れることは、避けられない宿命だけれども、あの世できっとまた会える」こと。
こういった「霊的人生観」を知り、信じることで、どれほど私たちは救われたことでしょうか。
あなたの短い人生にも、きっと大きな意味があったのだと思います。
その証拠に、私たち家族は、あなたのおかげで、幸福の科学の信仰家庭として、一つになることができたのですから。
3人のお姉ちゃんたちも、身近なきょうだいの死を経験して、命の大切さや、あの世があることを、素直に信じるようになりました。
大樹、ほんとうに、ありがとう。
あの世で、きっとすくすくと成長しているよね。
あなたと会える日が、ほんとうに楽しみです。
2女との別れ
香菜、あなたは、とてもいい子でした。
高校までは、まじめで、勉強熱心で、やさしい子でした。
そんなあなたが大学に入って、髪を金髪に染めたあたりから、私とお父さんは心配しました。
案の定、大学3年で、「できちゃった結婚」をして、娘のRを産みました。
あなたは、お父さんに似て完全主義で、とても頑固なところがあります。
彼とは結局うまくいかず、別れてしまったのに、「自分で働いて、絶対に育てる」と言い張って、一生懸命にアルバイトをして、自活しようとしていました。
でも、そんな無理がたたって、あなたは心臓に持病を抱えるようになりました。
それを知ったのは、後のことでしたが……。
5年前の10月のことです。
まもなく定年を迎えるお父さんとともに、結婚以来、初めての、夫婦水入らずでの旅行に出かけました。
お父さんは、9年前に、過労からくる心臓病と脳卒中で、重い障害が残りました。右半身がマヒし、記憶障害と、言語障害になってしまったのです。
いつも自分ですべて完璧にこなさなければ気が済まなかったお父さんが、「何もできない」というのは、ほんとうに苦しそうでした。
しかし、幸福の科学で信仰していた私たちは、これも我が家にとっての大きな「人生の問題集」と受け止め、リハビリに専念しました。
寝たきりの状態から、立ち上がり、歩き出し、杖を使わずに歩けるようになりました。
ほんとうに奇跡のような回復ぶりでした。
記憶はまだ、あいまいなところはありますが、仕事にも復帰できたのです。
この旅行に出て、今までの楽しかったこと、つらかったことを、夫婦であれこれ話しながら、ゆっくりした時間を過ごし、私たちは帰路につきました。
あなたの異変を知ったのは、その旅行からの帰途、新幹線のなかでした。
長女からの電話でした。
「香菜が……香菜が倒れて、救急車で運ばれたけど、だめだったって……」
あまりにも突然の訃報。
私も主人も声が出ませんでした。
それからのことは、頭のなかが真っ白になって、あまり覚えていません。
つい数日前、我が家で香菜の誕生日のお祝いをしたばかりなのに。
ケーキにろうそくをさして、子供みたいに、娘のRと一緒に吹き消していた香菜。
いつもありがとうって、手紙をくれた香菜。
誰よりも頑張り屋さんだった香菜。
「香菜、どうして……?」
それから、葬儀の手続きが始まり、あわただしく目の回るような日々でした。
死は別れではない
あなたには、離婚したあと、お付き合いしていた男性がいました。
その彼に香菜のことを知らせると、出張先から大急ぎで駆けつけてくれました。
「今日、僕が帰ったら、香菜さんに言おうと思ってたんです。……。結婚、してくださいって……。それが、まさか、こんなことになるなんて……。お父さん、お母さん、いまさらですが、香菜さんを、僕に、ください」
そう言って泣き崩れる彼の姿に、私たちも、ただうなずくばかりでした。
香菜もきっとそれを望んでいただろうと、棺に、彼との婚姻届を入れました。
幸福の科学式の帰天式(きてんしき)で、多くのお友達に見送られて、香菜は旅立って行きました。25歳という若さでした。
お父さんはとても立派でした。
喪主として、涙をこらえながら、あいさつをしていました。
「親として子供に先立たれるということは、本当につらいことです……。でも、誰でも必ずやがては、この世を去る日が来ます。遅いか早いかの違いだけです。
あの世は、確実にあります。そう私たちは信じています。そして、子供たちも、あの世で元気で生きている。そして、いつか必ずまた会える。そのときを信じて、この世で私たちも、命あるかぎり、懸命に生きたいと思います」
そのお父さんの姿に、きっと香菜も、あの世から声援を送ってくれていたことでしょう。
その場に集まってくれた、あなたの友達も、10名以上の方が、幸福の科学に入信してくれました。「僕も、あの世は、あると思います」「私も、そう信じたい」そう言ってくれました。
あなたは、ほんとうに友達思いだったのでしょうね。
その後も、大学時代のお友達が何人も何人も、我が家を訪れては、あなたのことを語ってくれました。
「ほんとうに、やさしくて、頑張り屋で、しっかりした人でした」
「香菜さんに励まされて、私も頑張れました」
それから、あなたが亡くなって数日後に、幸福の科学の友達が、「実は、昨日、香菜ちゃんの夢を見たの」と話してくれました。
「香菜ちゃんは、『体を悪くして、とても早いんだけど、今世の修行を終えて、先に還ります。お母さんの娘でよかった。とても感謝しています。お母さんのこと大好きでした。これからは、いつも天上界から見守っているからって、みんなに伝えて』と言っていましたよ」
それがあなたからのメッセージに間違いないと確信した途端、私は涙が涸れるまで泣きました。
いつかまた、めぐり会える日まで
あなたは、私たちにもうひとつ、大きなプレゼントを遺してくれました。
あなたの一人娘のRです。
Rは、あなたの子供のころにそっくり。
前から同居していたこともあって、あなたが今も「ママ」だけど、あなたが私を「お母さん」と呼んでいたので、Rはそれをまねして私のことをずっと「お母さん、お母さん」と呼ぶんですよ。
新しい我が子ができたようで、私たちはほんとうに喜びでいっぱいです。
Rも一緒に、来世幸福園に、あなたの三回忌の法要に行きました。
いつでも、あなたのことを思うと、すぐに通じる気がします。
この世とあの世は、離れているように見えて、そうではないのですね。そちらからは、こちらの世界が手に取るように見えるのでしょう。
香菜、短いこの世の人生でしたが、あなたなりに一生懸命に生きたよね。
あの世から、Rや私たちを見守っていてね。
そしてまた、あの世で語り合いましょうね。
大樹と香菜、2人の子を見送った私たちですが、今はもう悲しみはありません。
なぜなら、あの世は確実にあり、子供たちの魂は生き続けているからです。
幸福の科学の教えを信じることで、「死」は怖いものではなく、むしろ希望へと変わりました。
死は、この世からあの世へ還ることです。
あの世こそ、本来の私たちの住んでいる世界であり、この世の人生はわずか数十年の「旅」のようなものです。
そして、この世は「修行の場」ですから、苦しみや悲しみを避けて通ることはできません。
でも、その苦しみ悲しみを教訓とすることで、同じような立場で苦しむ方々に、幸福になる方法をお教えすることができます。
仏は、人々の悲しみもすべて受け止めてくださっています。
一切のものに仏の慈悲が宿っています。
この慈悲の世界を、多くの方に感じ取っていただきたい──。
そう願って、これからも伝道を続けていきたいと思います。
私たちのふるさとである、あの世に還る、その日まで。