マンションの重い扉を開けると、
そこにはスペースが開がっている。
スペースと言っても、それほど広い訳ではなく、
実に居心地のいい空間ということになる。
僕は必ずそこで、週末を過ごす。
玄関フロアーを抜ける廊下の壁には、写真が無造作に、
しかし、「どこか統一感があります!」と主張するように
大小細々と点在されている。
その写真の中には、僕の40年間の歴史を見て取れる。
思わずシャッターを押した写真から、
友人が撮ってくれた自分のポートレート、
旅の足跡を残すような旅先での写真、
写真は映像と違い、見返す事により記憶の旅先に自分を誘う。
そんな写真の中に、僕は、美佐子の写真を発見した。
何気なく彼女が街中で上を向いている写真だ。
僕は、この写真を待ち合わせたカフェの窓越しから撮影した。
始めての場所での待ち合わせに早く行き、
僕はカメラを構えていた。
冬の日差しは穏やかそうに見えるけれど、
写真の中の彼女は、重そうなコートに赤いマフラーをしている。
美佐子は2階にあるカフェを探して見上げていたのだけれど、
その何とも言えない物憂な表情は、
まさに僕にとっては最初で最後の「素の姿」であり、
他者を意識しない美佐子のスペース溢れる姿であった。
この頃の僕らは二十歳だ。
彼女と僕は付き合いだして間もない時間。
「待ち合わせに遅れまい」としている彼女の表情が好きだ。
「あの時は待ち合わせで待つ時間さえも楽しかった。」
彼女は、1年後、別れる場面で僕にそう言った。
「今はお互い別の方に向いているよね。」
僕もそう答えた。
実際のところ、僕にはスペースが広がっていた。
すぐにでもアメリカへ渡り、写真を撮るつもりでいた。
その為に、大学は休学したのだ。
結局、大学へは戻らず、
僕は写真を撮る生活を今までずっと続けている。
「写真は記録だ。」
とも「記憶だ。」とも言う。
一枚の写真から「広がるスペース」を
僕は思う存命楽しんだ。
そして、少しだけ、
「ほろ苦い気分」にさせてくれたのです。
2009年12月15日 筆