先ほどまで、ホテルのラウンジにいた。
最上階に有り、街を一望できるラウンジで
僕は軽めに、しかし、しっかりと酔えるバーボン
「エイシェントエイジ」を
一杯だけ、ひっかけていた。
そんな僕に彼は気さくに話し掛けてきた。
大学生だと言う彼とのおしゃべりは
独りで飲んでいる旅行者の僕には楽しく、
そして、新鮮であった。
「将来の進路について、考え出すとパニックになっちゃうんですよ・・・」
笑いながら言う彼に
「考えたって仕方ないよ。気楽に行こうぜ!」
と僕も笑いながら答えた。
「そして、好きなことを楽しむことさ!」
そんなことをアドバイスした。
彼との時間は楽しく過ぎ
僕らは外で飲み直すことにした。
ホテルのBarも悪くは無いが、
少し街の雰囲気を知りたかった。
だから僕らは1階のロビーで落ち合うことにした。
彼は部屋で着替えをすると言い、部屋へ戻り、
僕はそのままエレベーターでロビーへ降りた。
エアーコンディショナーが程よく効いている
夜11時のロビーに人影は無い。
僕は新聞を広げ、何分くらい経ったのだろうか?
それでも彼はいっこうに現れないままだった。
僕は彼の名前も、部屋も知らないまま、
ただただ、待つしかなかった。
そんな時フロントに立っていた女性が声を掛けてくれた。
「どなたかお待ちなのですか?」
僕は救われた気分で
「ええ、Barで会った奴を待っているんです。」
「ご友人の方ですか?」
「いえいえ、偶然会って意気投合し、外へ飲みに行こうという話になったのですが」
「まだ、現れないのですね?」
「そういうことです。」
「お名前は?」
「いえ。」
「ご存じないのですね。」
「ええ、お互い名乗らぬまま、ここで待ち合わせということに・・・」
「なんか、男性らしいお付き合いの仕方で素敵ですね。」
そんな歯切れの良い会話が続いた。
彼女は素敵な女性だった。
この時間はほとんど毎日、誰もロビーに人は居ないので
フロントは暇だと彼女は話してくれた。
そして、僕の差し向かいのソファーに、ちょこんと、腰を掛けた。
「私、明日からハワイに行くんです。」
「えっ、イイなぁ!」
本能的に僕は答えた。
「ですから、いつもは入らない深夜帯を、無理やり入れられ、こなしている最中なのです。」
そう言うとニコッと微笑んだ。
それが仕事だから出来る微笑ではないことくらい、僕にもすぐに理解できた。
「朝まで勤めて、その足でターミナルなのです。
もうクロークには自分のスーツケースがお待ちかねなのですよ。」
「バカンスですか?」
僕は十中八九正解だと思い尋ねた。
「いえ、トライアスロンをしに行って来ます!」
正直僕は驚かされた。
華奢な身体からは想像も付かない、
「トライアスロン」という肉体的な言葉に、
少なからず気分が高揚した。
「やられるんですね?」
「ええ、やります!もう5年も続けてるのですよ。」
彼女は楽しそうに笑った。
「へぇ~」
僕は純粋に参っていたし、酔いもすっかりと覚めていた。
「僕はバイクはやるのですが、スイムがダメなんです。」
「えっ、先ほどプールで泳がれていたじゃあないですか?」
「ご覧になったのですね?」
「ええ、見ましたよ。しっかりと!」
そう言って彼女は笑った。
「しっかりとした筋肉で、正確なストローク。
あっ、この人は何か運動をやられている方なんだな。とすぐに分かりました。」
「僕はフットボールとテニスが専門なんです。泳ぎは毎日の日課です。トレーニングですよ。」
「フットボール?」
「ああ、サッカーのことです。アメリカと日本以外はフットボールと言うんですよ。」
「へぇ~。勉強になるなぁ・・・」
そう言って、手帳を取り出し、美しい指先に握られた黒檀のボールペンで
「フットボール=サッカー(US、JAPのみ)」とメモされていった。
「随分と仕事熱心だね。」
少し冗談っぽく言う僕に
「メモ魔なんです。」
と微笑む彼女の髪が、僅かに揺れた。
「それ最高に良い癖ですよ!」
僕は楽しくなってきていた。
「新人の時に教わって以来、手帳が離せません。職業病です。」
そう言って彼女も笑った。
「私は全く運動がダメな人間だったのです。」
彼女は少しだけ、遠い何かを思い出す目をして言った。
「だから、伸びしろが凄いんです。ゼロからは何でも全部プラスですから!」
そう言ってビッグ・スマイルを浮かべた。
「そうは言ってもさぁ・・・」
僕はこの時間を純粋に楽しんでいた。
そんな時に彼が現れた。
「すみません。お待たせして、友人から変な電話が入ってしまって・・・。
また掛かってくるので、申し訳ありませんが、今夜はパスさせて下さい。
なんか、彼女のことで悩んでるみたいで・・・」
僕は内心ほっとして
「ああ、構わないよ。ただ、男が女のことを悩んでも解決しないぜ。
こちらの女性に相談したら?」
僕と彼女は笑った。
そんな時に彼の着信音がなった。
「すみません。失礼します。」
そう言い残し、彼は足早にエレベーターへと向かった。
「これだよ。」
呆れ顔の僕に
「でも、彼のお蔭でお話できたので・・・」
「それも、そうだ。」
「じゃぁ、もう少しだけ、お話ししましょ。」
彼女の顔が恥ずかしそうにほころんだ。
その表情は少女のように清らかで、とても美しく見えた。
僕は数日後にはトライアスロンに出ている彼女を想像してみた。
残念ながら全く想像できないまま、
僕は口を開いた
「そうは言っても、トライアスロンだろ?」
彼女は満足そうに
「はい!」
と元気よく答えた。
夜にはまだまだ、先があるようだ・・・・。
< MASH
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2012年5月9日 筆