悠翠徒然

画像中心

ベビィメタル

2016-05-07 09:43:53 | Weblog
最近流行りのベビィメタルの映像を集中して見てみました。

日本カルチャーの『かわいい』とメタルの融合は、奇跡的というか、必然というか、

48系の女の子たちがメタルミュージックに合わせて当て振りしていればいいのかと思いきや、それは無理だという事がわかりました。

ベビィメタルの三人娘は、ヘビィメタルを音楽として大好きなのです。

そこが一番強いところですね。

彼女たちをミュージシャンとは思えませんが、表現者として信念を持ってステージに立っているところは強く感じます。

バックメンバーはもっとブルーマンのバンドぐらい黒子に徹してもよさそうです。

黒子の衣装も似合うでしょう。

水木プロと契約して、妖怪衣装もありですね。

フロント三人の衣装は今後キッスがそうであったようにどんどん派手になっていくでしょう。

動けないと問題ですが(笑)

キュートなダンスはベビィメタルの大きな武器ですから。

ベイメタルの成功を見て、類似品も多く出てきているようです。

しかし本家にはかなわないでしょう。

彼女たちはヘビィメタルを愛してますから。

『お色気メタル』とか『お笑いメタル』とかが登場しない事を願います(笑)




禅語を良寛さんが書いたら

2016-05-07 08:31:48 | Weblog
勝手に現代に良寛さんがいらっしゃったら、どのような書体で書いてくださるのかを想像しながら、時々禅語を書いています。

今回はこちら



行雲流水 こううんりゅうすい

行く雲の流れや流れていく水のように自由に生きようと言うありがたい教えです。

床の間ではなく、トイレの壁にに貼っても似合う書体が、日々の生活の中で生きる禅語の書体に相応しいと考えます。

良寛さんもそう思ってくださるに違いないと勝手に考えています。


修行僧のことを『雲水(うんすい)』と言うそうです。

これは、雲や水のように修行のためにひとところに留まらず、いろいろな師を訪ねて修行するからだそうです。

師は人だけとは限りません。

山や川、木や岩なども師と仰げば何かを語ってくれる事があるのかもしれませんね。

まだまだ修行が足りません、、、、

修行に始まり修行に終わるのであれば、修行を楽しまねば面白くありません。

好きなことしかできない性分ですが、大人になるにつれ興味のないことにも興味を持つ事が出来るようになりました(笑)

興味を持てれば面白くする事もできます。

物にこだわることは禅の教えに反しますが、捨ててはいけない大切な『物』は心の中で育てなければなりません。

育てる事を楽しめなければ育てることはできません。

山や川、木や岩を興味をもって面白く楽しみましょう。

もちろん人とのおつきあいは、この上なく面白く楽しい事です。

取捨選択が難しいのが難点ですが(笑)






山頭火を書いてみた

2016-05-07 08:17:55 | Weblog


『りんどうのほのかな風を感ず』

原本では『りんだう』になっていますが、『りんどう』でいいかな、と。

春ではなく秋のりんどうだそうです。

秋のりんどうは、その姿がとても目立ちます。

山の生命がその勢いをおさめようとしている季節に、ポツンと綺麗な花を茎が折れんばかりに大きく咲かせている秋りんどうは、その色さえも異様です。

それを孤高ととるか、高慢ととるか、高貴ととるか、様々でしょう。

『ほのかな香りを感ず』なのですから、きっと高貴な気高さを匂うようなその姿と色に感じたのではないでしょうか。

それは心が澄んでいなければ捉えられないように思います。

りんどうの好きな女性はすべからく素敵な女性ばかりです。

もちろん、私見であります(笑)






GWもあと残すところ今日明日の二日間となりました

2016-05-07 08:09:58 | Weblog
お教室は昨日からお稽古始まっています。

本日も12時から21時までお稽古できます。

楽しかったGWの話し聞かせてくださいね。

もちろん何もしていなかった方のお話も楽しみにしてますよ~

私のGWは軽く仕事をしながら、交通量の少ない静かな街を楽しんでおりました。

東京は昨日以外お天気良かったですものね。

ありがたいことです。

月曜からの仕事に備えて、そろそろ慣らした方がよいかもしれませんね。

それには書道が一番ですよ~

お教場でお待ちしています。

是非お越しくださいませ。


本日の漱石

2016-05-07 07:45:00 | Weblog


『多数の女は我が運命を支配する』
『恋さえも装飾視して憚らぬ』

どう言う意味なのでしょうか。

『我が運命』を当事者である助成本人の事だとすれば、維新以降の日本女性の自由な生き方に言及していると捉えられます。

そして『恋さえも云々』において、少しそれが行き過ぎているのではないかという不満なのか、それとも未だ、恋においては装飾視せざるを得ない事例が多いと言っているのか、、、、。

つまり恋の成就としての結婚に、維新以降も未だに残る身分の違いで辿り着かなかったとしても、数々の恋を髪飾りや装飾品のように身につけることができる女性のしたたかさを、一方では辛かろうとおもい、もう一方ではそれはやりすぎだろうと言っているのかもしれないのです。

考え過ぎか、、、、

西洋の文化を、その精神を理解しようともせずにどんどん取り入れて行く日本に苦言を述べ続けていた漱石にとって、当時の女性の恋とは維新前まで押さえつけられていたものが解放された状態であり、それそのものを否定するものではないが、恋愛の数の多さを競ったり、その奔放さを声高に拡散しようとする女性の気持ちがわからなかったのかもしれません。

『いいじゃないの、少しぐらい下駄履かせてあげなよ』

僕が漱石の友人なら、そんな風に言うでしょう。

『何を偉そうに』

そう本人に言われようとも、言ってしまうのが僕であります。

時々僕の中の『ぼっちゃん』が未だに姿を表すのです。

夢ですよ、夢(笑)

でも、気持ちのいい夢であります。